第2話 その弁当、重圧につき(カロリー過多)

噂というものは、光の速さよりも速く伝播するらしい。


 翌朝、俺が教室のドアを開けた瞬間、クラス中の視線が一斉に突き刺さった。


「おい相馬……お前、マジなのか?」


「あの天王寺さんと付き合ってるって本当かよ!?」


「何かの間違いだろ?ドッキリだろ?カメラどこだよ!」


 男子生徒たちの悲鳴にも似た質問攻め。女子生徒たちの値踏みするような視線。


 普段、空気のように目立たない「モブ男子」として生きてきた俺にとって、この状況は居心地が悪すぎて胃に穴が開きそうだ。


 だが、契約書第3条『関係を公言し、周囲にカップルであることを周知させること』を守らなければならない。


 俺は引きつった愛想笑いを浮かべながら、あらかじめ用意しておいた台詞を棒読みした。


「あー……うん。まあ、そういうことになったから」


 教室が阿鼻叫喚の坩堝と化した。


 なんで相馬なんだ、前世でどんな徳を積んだんだ、いや黒魔術に違いない、といった罵詈雑言が飛び交う中、俺は自分の席に座り、教科書を盾にして嵐が過ぎ去るのを待った。


 これが時給二千円の対価。精神的苦痛手当も請求したいところだ。

 しかし、本当の地獄は昼休みに待っていた。


「みなとくーん♡」


 教室の入り口から、糖度120%のような甘ったるい声が響いた。

 ざわめきがピタリと止まる。

 そこに立っていたのは、いつものクールな表情をかなぐり捨て、満面の笑みを浮かべた天王寺麗華だった。手には風呂敷に包まれた重箱を持っている。


「お弁当作ってきたの!一緒に食べましょ?」


 クラス中の視線が、再び俺に集中する。殺気だ。明確な殺気が混じっている。


 俺は冷や汗を流しながら席を立ち、彼女の元へ歩み寄った。


「……麗華。わざわざ来てくれたのか」


「当たり前じゃない。彼女だもの」


 麗華は俺の腕にギュッと抱きついた。柔らかい感触が二の腕に押し当てられる。

 周囲から「うわあああ!」という悲鳴が上がった。

 彼女は俺を見上げ、小声で囁く。


「(ちょっと、もっと嬉しそうな顔しなさいよ。減給するわよ)」


「(……顔の筋肉がひきつってるだけだ。勘弁してくれ)」


 俺たちは中庭のベンチへと移動した。

 ここなら多少は人目も少ない……と思いきや、校舎の窓から無数の視線を感じる。公開処刑だ。


 麗華が広げた重箱の中身は、高校生の弁当の常識を軽く超えていた。

 ローストビーフ、大海老のチリソース、トリュフ入りの卵焼き。彩りも完璧だが、どう見ても一流シェフの仕事だ。


「……これ、お前が作ったのか?」


「ええ。……家のシェフに指示を出したのは私だから、実質私が作ったようなものよ」


「その論理は無理があるだろ」


「いいから食べなさい。ほら、あーん」


 箸でつままれたローストビーフが、俺の口元に差し出される。

 いわゆる「あーん」イベントだ。ラブコメの定番であり、現実でやるとただのバカップル認定される恥辱の儀式。


 だが、窓からの視線がある以上、拒否権はない。

 俺は覚悟を決めて、口を開けた。


「……あーん」


「うふふ、美味しい?」


「……ああ、美味いよ。ありがとう、麗華」


 味は絶品だった。さすが金持ち。

 しかし、咀嚼するたびに「これが時給二千円の味か」と現実的な計算をしてしまう自分が悲しい。

 麗華は満足そうに微笑みながら、自分も小さくサンドイッチを齧った。


「とりあえず、第一段階クリアね。これで校内の噂は確実なものになったわ」


「おかげで俺の平穏な学校生活は崩壊したけどな」


「あら、有名税だと思って諦めなさい。……それより、放課後は空けておいてね」


「またデートの練習か?」


「いいえ。週末の食事会に向けて、貴方の装備を整えるわ」


 麗華は俺の制服の襟元を、値踏みするように摘んだ。


「その貧相な格好で父の前に出たら、門前払いされるわよ」


 ***


 放課後。俺たちは駅前の高級ブティックにいた。

 店内に足を踏み入れた瞬間、場の空気が変わった気がした。店員たちの視線が一斉にこちらへ向く。洗練されたインテリア、クラシック音楽、そして値札の桁がおかしい商品たち。


 ユニクロとしまむらを愛用する俺にとっては、敵地(アウェイ)以外の何物でもない。


「いらっしゃいませ、お嬢様。本日はどのようなご用件で?」


 店長らしき初老の男性が、恭しく頭を下げる。顔なじみらしい。


「彼に合うスーツを見繕ってちょうだい。今週末のパーティー用よ。父の隣に並んでも恥ずかしくないレベルのもので」


「かしこまりました。……ほう、こちらが噂の」


 店長が興味深そうに俺を見る。俺は反射的に背筋を伸ばした。


「よ、よろしくお願いします」


「ふむ……素材は悪くありませんな。磨けば光る原石といったところでしょう」


「お世辞はいいから、急いで。彼、時間給でお金が発生してるから長引くと私の出費がかさむの」


「……左様でございますか」


 夢のない会話はやめてほしい。

 俺は試着室に押し込まれ、次々と高級スーツを着せ替え人形のように試着させられた。


 イタリア製の生地、オーダーメイドのようなフィット感。袖を通すだけで背筋が伸びるような感覚だ。

 最後に、濃紺のスリーピースを着て、カーテンを開けた。


「……どうだ?」


 ソファで紅茶を飲んでいた麗華が、カップを止める。

 彼女は俺の姿を頭からつま先までじっくりと眺め、数秒間、言葉を失ったように瞬きをした。


「……意外ね」


「やっぱり似合わないか?」


「違うわよ。……悔しいけど、少しは見れるようになったってこと」


 麗華はそっぽを向きながら、わずかに頬を染めた。


 ……ん? なんだその反応。


 普段の罵倒が飛んでこないと、逆に調子が狂う。


「ネクタイが曲がってるわ」


 麗華が立ち上がり、俺の前に立つ。

 彼女の細い指先が、俺の襟元に触れる。至近距離。伏せられた長い睫毛と、整った鼻筋が見える。

 香水の甘い香りが、また鼻をくすぐった。

 心なしか、彼女の手が少し震えているような気がした。


「……ねえ、湊」


「ん?」


「父は、厳しい人よ。私の結婚相手を会社の利益のための道具としか見ていない。……貴方が怖気づいて逃げ出しても、私は責めないわ」


 ネクタイを直す手が止まる。


 彼女の言葉は、契約主としての警告ではなく、一人の少女としての不安の吐露に聞こえた。

 これまでの強気な態度は、彼女なりの鎧だったのかもしれない。


 俺は短く息を吐き、彼女の手の上に自分の手を重ねた。


「逃げないよ」


「……え?」


「時給二千円もくれるバイトなんて、他にないからな。俺はがめついんだよ」


「……ふふっ、本当に守銭奴ね」


 麗華が顔を上げ、悪戯っぽく笑った。

 その笑顔は、教室で見せた演技の笑顔よりも、ずっと自然で綺麗だった。


「よし、完璧よ。これならあの狸親父……じゃなくて、お父様も文句は言えないはずだわ」


「狸親父って……」


「さあ、行きましょう。明日は決戦よ」


 麗華は店員にカードを渡し(ブラックカードだった、初めて見た)、俺の腕を引いた。


 店を出て、並んで駅へと歩く。

 ふと、繋がれたままの手に気づいた俺は、そっと離そうとした。


「……あの、業務時間外だろ?」


「いいのよ。今はサービス残業させてあげる」


「いや、俺の主義に反する」


「うるさいわね。……手が冷たいから、カイロ代わりよ」


 彼女は再び俺の腕を強く引き寄せた。

 冬の冷たい風の中で、彼女の体温だけがやけに熱く感じる。


 明日の「父親との対面」という大仕事のプレッシャーよりも、今この瞬間の心拍数の方が、俺にとっては大問題だった。


 こうして俺たちは、互いに「これはビジネスだ」と言い聞かせながら、少しだけ歩調を合わせて帰路についた。

 だが俺はまだ知らない。


 週末の食事会に待ち受けているのが、単なる「父親への挨拶」レベルの話では済まないことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月3日 06:00
2026年1月4日 06:00
2026年1月5日 06:00

契約彼氏は定時で帰りたい ~時給二千円で買われた俺の青春~ とっきー @Banana42345

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ