契約彼氏は定時で帰りたい ~時給二千円で買われた俺の青春~

とっきー

第1話 そのバイト、危険につき(ただし高給)

通帳の残高が、三桁だった。

 三桁万円ではない。三桁円だ。正確には『¥324』と印字されている。


 俺、相馬 湊(そうま みなと)は、銀行のATMの前で絶望的なため息をついた。


「……詰んだ」


 高校二年生の冬。世間はクリスマスだの進路だのと浮かれている時期に、俺は明日のパン代すら危うい状況に陥っていた。


 原因は単純だ。バイト先が潰れたのだ。

 駅前の個人経営のカフェだったのだが、店長が「自分探しの旅に出る」という寝言のような書き置きを残して失踪したのが三日前。未払いだった先月分の給料は、店長の自分探し費用へと消えたらしい。


「ふざけんなよ……。妹の誕生日、来週だぞ……」


 我が家は母子家庭で、母さんは朝から晩までパートに出ている。生活費を入れる約束はしていないが、自分の小遣いと妹へのプレゼント代くらいは自分で稼ぐのが、兄としての矜持というやつだ。


 新しいバイトを探そうにも、この時期はどこも短期募集ばかりで倍率が高い。

 肩を落として学校の渡り廊下を歩いていると、掲示板の隅に奇妙な貼り紙があるのが目に入った。


『急募:人材派遣。

 業務内容:対人コミュニケーションの補助業務

 資格:男子高校生であること。口が堅いこと。

 時給:2000円(昇給あり)

 場所:特別棟3階 第2茶道室』


 怪しい。あまりにも怪しすぎる。


 まず「対人コミュニケーションの補助」という意味がわからない。それに高校生のバイトで時給二千円なんて、裏社会の運び屋か治験バイトくらいだ。


 だが、今の俺には背に腹は代えられない。324円の残高が脳裏をよぎる。

 気がつけば俺の足は、滅多に生徒が近づかない特別棟へと向かっていた。


 ***


 第2茶道室の前で足を止める。

 中からは人の気配がしない。静まり返っている。


 俺は一度深呼吸をして、意を決して障子を開けた。


「失礼しまーす……あの、求人の貼り紙を見たんですけど」


 中に入って、言葉を失った。


 そこは茶道室というより、どこかのホテルのラウンジのようだった。畳の上に敷かれた不釣り合いなペルシャ絨毯。部屋の隅にはアンティーク調のランプ。そして部屋の中央には、豪奢な革張りのソファが鎮座している。


 そのソファに、一人の女子生徒が優雅に脚を組んで座っていた。

 腰まで届く艶やかな黒髪。陶器のように白い肌。切れ長の瞳は、見る者を射抜くような鋭さと、宝石のような輝きを併せ持っている。

 制服の着こなしは完璧だが、そこから滲み出るオーラがただの高校生ではないことを物語っていた。


 天王寺 麗華(てんのうじ れいか)。

 この学園の理事長の孫娘にして、全校生徒の視線を独占する「氷の令嬢」。


 俺とは住む世界が違う、雲の上の存在だ。

 彼女は手元の紅茶カップをソーサーに置くと、ゆっくりと俺に視線を向けた。

 まるで値踏みをするような、冷徹な視線だった。


「……貴方、名前は?」


「え、あ、相馬です。相馬湊」


「相馬……。2年C組の。成績は中の上。遅刻欠席なし。部活は帰宅部。特技は節約料理」


「なんで知ってんの怖っ!?」


 初対面の、しかも雲の上の存在に個人情報を把握されている恐怖。

 麗華はふん、と鼻を鳴らして、テーブルの上のファイルを閉じた。


「事前に全校生徒のデータには目を通しているわ。貴方、お金に困っているのよね?」


「……まあ、はい。バイト先が潰れまして」


「そう。それは好都合だわ」


 麗華は立ち上がると、俺の目の前まで歩いてきた。いい匂いがする。高いシャンプーの匂いだ。

 彼女は俺の顔を至近距離で覗き込み、顎に手を当てて「うん」と頷いた。


「顔立ちは悪くない。清潔感もある。何より、その『死んだ魚のような目』が良いわ」


「褒められてる気がしないんですけど」


「褒めているのよ。欲にまみれていない、諦観した目。私の求めていた人材だわ」


 彼女は懐から封筒を取り出し、俺の胸に押し付けた。

 厚みがある。嫌な予感がする厚みだ。


「これは手付金、5万円よ」


「ご、5万!?」


「採用決定よ、相馬湊。貴方には今から私の『業務』をこなしてもらうわ」


 5万円。今の俺にとっては大金だ。これがあれば妹に欲しがっていたゲームソフトを買ってやれるし、今夜は肉が食える。

 だが、タダより高いものはない。俺は封筒を握りしめながら、恐る恐る尋ねた。


「あの、業務内容ってのは……まさか、変な壺を売ったり、危険な薬を運んだりするんじゃ……」


「馬鹿ね。そんなはした金になるようなこと、私がするわけないでしょう」


 麗華は呆れたように髪を払い、そして事も無げに言った。


「貴方の仕事は『私の彼氏になること』よ」


「……はい?」


 思考が停止した。


 彼氏? 俺が? こいつの?


 いやいや、意味がわからない。学園のアイドルにして絶対権力者の孫娘が、なぜ俺のような庶民を彼氏にする必要がある?


「と、言っても『フリ』だけどね」


 俺の混乱を察したのか、麗華が補足した。


「単刀直入に言うわ。私、しつこい求婚者に悩まされているの」


「求婚者……高校生で?」


「相手は父が決めた許嫁候補よ。30歳のIT社長。顔を合わせるたびに『君のために島を買った』だの『君の瞳に乾杯』だの、寒気がするような台詞を吐いてくるの。本当に鬱陶しい」


 住む世界が違いすぎて共感できない悩みだった。


「父には『好きな人がいる』と伝えたのだけど、証拠を見せろと言われてね。だから、貴方にその証拠……つまり『彼氏役』を演じてもらう必要があるの」


「なるほど……ダミー彼氏ってわけか」


 事情は飲み込めた。

 少女漫画やドラマでよくある設定だ。まさか現実に、しかも自分の身に降りかかるとは思わなかったが。


「時給は2000円。デート……いえ、業務時間は放課後と休日。必要経費は全額こちら持ち。どう? 悪い話ではないと思うけれど」


 確かに条件は破格だ。ただ隣を歩いて彼氏面をするだけで時給2000円。

 しかし、相手はこの天王寺麗華だ。性格に難ありで有名な、氷の令嬢だ。


 俺は少し考え、条件を提示することにした。


「……いくつか確認させてくれ」


「何?」


「業務内容はあくまで『彼氏のフリ』だけだな?本当に付き合ったり、それ以上の関係を求められたりはしない?」


「当たり前でしょう!自惚れないでちょうだい!」


 麗華が顔を真っ赤にして怒鳴った。


 よかった、そこは安全らしい。


「それと、契約期間は?」

「とりあえず、あのIT社長が諦めるまで。向こうが手を引いたら即解雇……契約終了よ」


「了解。あと一つ」


 俺は真剣な眼差しで、彼女を見つめた。


「残業代は出るのか?」


「……は?」


「俺は定時で帰りたい主義なんだ。1分でも超過したら、ちゃんと支払われるのか」


 麗華はぽかんと口を開け、数秒固まった後、くすりと笑った。

 その笑顔は、さっきまでの冷徹な表情とは違い、年相応の少女のように見えた。


「……ふふっ、貴方、本当に面白いのね。ええ、約束するわ。超過分は1分単位で支払ってあげる」


「よし、交渉成立だ」


 俺は彼女の手を取り、握手を交わした。

 その手は驚くほど華奢で、柔らかかった。

 これが、俺の平穏な高校生活が終わった瞬間だった。


 ***


「それじゃあ早速、業務開始よ。相馬くん」


「え、今から?」


「ええ。とりあえず今週末、父との食事会があるから、そこに同席してもらうわ」


「いきなりラスボス戦かよ!?」


 心の準備というものがあるだろう。

 だが、雇い主(クライアント)の命令は絶対だ。

 麗華は鞄から分厚いファイルを取り出した。


「これが『二人の馴れ初め設定資料集』よ。週末までに全部暗記して」


「辞書かよこれ!」


「出会いは図書館、雨の日に傘を貸したのがきっかけ。好きな私の仕草は『髪を耳にかけるところ』。呼び方は『湊』と『麗華』……いい?間違えたら減給よ」


 鬼だ。この女、間違いなく鬼だ。

 パラパラと資料をめくる。細かい。あまりにも設定が細かい。「初めて手を繋いだ時の湊の心拍数」なんて設定、覚える必要があるのか?


「それと、もう一つ大事なルールがあるわ」


 麗華は改まった表情で、俺に向き直った。

 夕日が差し込む茶道室で、彼女の黒髪が黄金色に縁取られる。

 その姿は、悔しいけれど見惚れてしまうほど綺麗だった。


「契約中、私に本気で恋をしないこと。……これはビジネスなんだから。感情が絡むと面倒なことになるわ」


 彼女の瞳には、どこか他者を拒絶するような色が混じっていた。

 おそらく、金や家柄目当てで寄ってくる人間にうんざりしているのだろう。

 俺は肩をすくめて答えた。


「安心しろ。俺の恋人は福沢諭吉だけだ」


「……ふふ、そう。なら安心ね」


 彼女は満足そうに微笑んだ。


「じゃあ、予行演習をしましょうか」


「予行演習?」


「そう。恋人なら、このくらいの距離感は当然でしょう?」


 言うが早いか、麗華は俺の腕に自分の腕を絡めてきた。

 柔らかい感触と、甘い香りが一気に押し寄せてくる。


 心臓がドクリと跳ねた。


「……っ、ちょ、近いって」


「あら、顔が赤いわよ?福沢諭吉が恋人じゃなかったの?」


 下から覗き込んでくる上目遣い。小悪魔的な笑み。

 こいつ、自分が可愛いことを完全に理解してやってやがる。


 俺は必死に理性を総動員し、頭の中で素数を数え……いや、時給を計算した。

 2000円。1分あたり約33円。このドキドキは33円の価値。


「……悪かったな。免疫がないもんで」


「ふーん。まあ、初日にしては悪くない反応ね」


 麗華はすっと身を離すと、鞄を持って出口へと向かった。


「今日はここまで。お疲れ様、湊」


「……お疲れ様です、天王寺さん」


「だーめ。『麗華』でしょう?」


 振り返りざまにウィンクを一つ残して、彼女は部屋を出て行った。

 後に残されたのは、甘い残り香と、手の中の5万円。そして異常に早くなった俺の心拍音だけ。


「……割に合わねえバイトだな、ちくしょう」


 俺は誰もいない茶道室で、一人呟いた。


 時給2000円。

 それは、俺の平穏と引き換えに手に入れた、あまりにも危険なチケットだった。


 まだ始まったばかりだというのに、前途多難な予感しかしない。


 俺は重いため息をつきながら、とりあえず購買で一番高い焼きそばパンを買う決意をして、教室へと戻っていった。

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