第三章 手術・約束・来なかった日

 手術の日が正式に決まったあと、時間の流れ方が少し変わった。

 一週間が、急に「残り時間」っぽく見え始めた。

 カレンダーアプリの数字が、全部カウントダウンの数字に見える。

 

 退院してから最初の週末、茜は本当に、私の部屋に来た。

「お邪魔しまーす」

 玄関のドアを開けたときの第一声が、それだった。

 その声を聞いた瞬間、「あ、本当にこの人はここにいる」と、変な確認の仕方をしている自分に気づいた。

「散らかってたらごめん」

「今から散らかすから大丈夫」

「やめてください」


 靴を脱いで、スリッパを突っかける。その動きひとつひとつが、やけにスローモーションに見えた。

「へえ」

 ワンルームの真ん中あたりで、茜はぐるっと見回した。

「もっと機材で埋まってるかと思った」

「それは仕事部屋です。ここは、普通の生活用」

「普通……?」


 彼女は、壁際の本棚と、テレビ台の横に置いてあるゲーム機を見てから、ベッドの上に置かれたクッションをつついた。

「ギリ普通」

「減点方式やめてください」


 窓際の机の上には、ノートパソコンとオーディオインターフェース、それから小さなモニタースピーカーが二本。

「こっちが“仕事場じゃないレンくん”?」

「こっちも仕事場寄りですけど」

「だよね」

 茜は、イスではなく床に座り込んだ。

 テーブルの上にコンビニのペットボトルのお茶を置きながら、部屋をもう一度見回す。

「いいね。こういう、ちょっと生活感ある部屋」

「“ちょっと”ですか」


「完全に散らかってるのは無理だけど、何もなさすぎるのも落ち着かないから」

 彼女は、壁にかけてある古いライブTシャツをじっと見てから、こちらを振り返った。

「で。ピザアプリは?」

「そこから行きます?」

「当たり前じゃん。今日はロケハンだからね」

「ロケハン」

「本番ピザの日のための、事前調査」

 そう言われて、私は苦笑しながらスマホを取り出した。

 宅配アプリは、とっくにインストール済みだ。

 「配達エリア外です」と表示されないことも、テスト済みだ。


「じゃ、開いて」

 茜は、私の正面に座り込んでスマホを覗き込む。

 アプリを立ち上げると、地図と大量の店のアイコンが表示された。

「おー」

 小さく感嘆の声を漏らす。

「なんか、これだけでちょっと感動するんだけど」

「感動ポイントが独特ですね」

「だってさ」


 茜は、画面に指を近づけた。

「このへん、全部『頼める場所』なんでしょ」

「そうですね」

「この丸の中にいる人たちはさ。

 ピザ食べたいって思ったら、ボタン押せば持ってきてもらえるんでしょ」

「だいたい合ってます」

「すごいね」


 彼女は、マップ上の自宅あたりをタップしてから、私のアパートのピンを見た。

「前の家、ここからはちょっと外なんだよね」

「配達エリアの線、微妙にずれてるんですか」

「うん。

 だから同じアプリ開いても、『お取り扱いできません』って言われる側だった」

 彼女の言い方は淡々としていたけれど、その画面を何度も見たときの気持ちを想像して、胸の奥が少しきゅっとなった。

「じゃ」


 茜は、両手を軽く叩いた。

「とりあえず、メニュー見よ」

「注文はしないんですよね」

「今は見学だけ」

 店の一覧から、適当に有名チェーンを選ぶ。

 画面に、派手な写真とセットメニューの一覧が並ぶ。

「うわ。チーズ過積載」

「語彙が独特です」

「見て、このチーズ。心臓に悪いよ」

「あなたが言うとシャレにならないのでやめてください」


 Lサイズの写真を見て、彼女は目を輝かせた。

「箱で来るんだよね、これ」

「来ますね」

「シェアしませんか?って顔してる」

「一人で食べる人もいますけどね」

「レンくんやったことある?」

「一人Lはさすがにないです」 


 そんなくだらない会話をしながら、二人でメニューをスクロールした。

 ハーフ&ハーフ。

 期間限定トッピング。

 サイドメニューのポテトとチキン。

「このポテト、絶対おいしいじゃん」

「心臓に悪そうですね」

「だからこそ食べるんじゃん」


 茜は、指でピザの写真の端をつまむジェスチャーをした。

「こういう写真見てるとさ。

 『生き延びたあとに食べる食べ物』って感じする」

「術後を前提にしないでください」

「前提にさせてよ」

 彼女は、少しだけ真面目な声になった。


「手術受けるって決めた時点でさ。

 失敗する未来ばっかり考えてたら、マジで持たない」

「……そうですね」

「だから、“生き延びたあとのバカみたいなご褒美”は、ちゃんと先に決めときたい」

 画面を見ながら言う。

「レンくんと、どの具が一番体に悪そうか話しながらピザ食べるの、普通に楽しみなんだよ」


「普通に、の使い方おかしくないですか」

「普通に楽しみ」

 彼女は、メニューから一枚の写真をタップした。

「これ」

 画面いっぱいに、ミックスピザの写真が広がる。

 ソーセージとベーコンと、脂っこそうなチーズ。

「“これ”って、今決めるんですか」

「第一候補」


 茜は、スマホ画面を覗き込みながら言った。

「手術の日程決めたんだからさ。

 ピザの候補も決めとかなきゃ」

「優先順位の付け方がおかしい」

「優先度は大事」

 そう言ってから、彼女は少しだけ真顔になった。

「ねえレンくん」

「はい」


「手術の前の日さ。

 またボイスメモ録っていい?」

「もちろん」

「『前日のあたし』の声、ちゃんと残しときたいんだよね」

 その言葉に、喉の奥が少し乾いた。

「……わかりました」

「で、そのメモの最後にさ」

 茜は、画面から顔を上げた。


「『ピザの約束、忘れないでね』って、言わせて」

「言わせて、って」

「それくらい、自分で決めときたいの。

 どの言葉を残すかも、美学のうちだから」

 私は、何も言えずに頷いた。

 ピザアプリの画面を閉じてから、しばらくどうでもいい話をした。


 COZYLIGHTの他の常連の話。

 マスターの昔の武勇伝。

 病院の売店のラインナップ。

 茜は、特別に弱音を吐くわけでもなく、かといって強がりすぎるわけでもなく、いつも通りのテンションの少しだけ手前、みたいなところにいた。

 帰り際、玄関で靴を履きながら、小さく手を振った。

「じゃ、次は“本番”ね」

「本番」

「手術終わって、退院して、ここでピザ食べる日」

 彼女は、ドアノブに手をかけたまま、こちらを振り返る。

「絶対忘れないでね」

「……忘れません」

 本当に、忘れなかった。


 忘れなかったからこそ、あの日のカレンダーの印は、今でも頭から消えないまま残っている。

 

 手術前日、私はいつものように病室を訪れた。

 病院の匂いにもだいぶ慣れてきてしまっている自分が、少し嫌だった。

「やあ」

 カーテンの隙間から顔を出すと、ベッドの上の茜が片手を軽く挙げた。

「明日、いよいよ胸のチャック開く日です」

「その言い方やめろって何回言えば」

「わかっててわざとやってるからね」


 彼女は、枕を少し高くして座り直した。

「どう? 手術前の病人らしく、もうちょっとしおらしくしたほうがいい?」

「しおらしくしてる茜さんは、正直想像できないです」

「だよね」

 自分で頷く。

「怖さは、どうですか」

「消えてないよ」


 茜は、胸の前で両手を組んだ。

「でも、『怖い』って言ってるだけの時間も、そんなに残ってないからさ。

 とりあえず、やることやっとこうって感じ」

「やること」

「ボイスメモ」

 彼女は、ベッド脇の台の上に置いてあった自分のスマホを手に取った。

「今日は、レンくんじゃなくて、あたしのほうで録ってもいい?」

「もちろん」

「レンくんもバックアップ録っといて」

「二重化ですね」

「そう。サーバーは増やしておくに限る」


 茜は、自分のスマホのボイスメモアプリを開いた。

 赤い録音ボタンをタップする。

 画面の上の波形が、すこしずつ動き始める。

「ボイスメモ、日向茜です。手術前日」

 彼女は、カメラの前で自己紹介するみたいなトーンで言った。

「今、心臓をいじる手術を明日に控えてます。

 正直、めちゃくちゃ怖いです」


 その横で、私は自分のスマホでも録音ボタンを押した。

 二台分のデバイスが、同じ声を別々のサンプリングレートで捕まえている。

「でも、怖いって言葉だけ残すのも、なんかダサいので」

 茜は、天井を軽く見上げた。

「ちゃんと、『終わったあとの話』もここに残しておきます」


 視線をこちらに戻す。

「手術が終わって、生きて退院できたら」

 そこで、一度だけ息を吸う。

「レンくんの部屋で、宅配ピザを食べます」

 ゆっくり、はっきりと言う。

 その言葉の一つひとつが、画面の中の波形に食い込んでいくのが見える気がした。

「箱で来るやつ。チーズびよーんって伸びる、体に絶対良くないやつ」


 彼女は、自分で笑って首を振る。

「それを、レンくんと二人で、

 『どの具が一番心臓に悪そうか』って話をしながら食べたいです」

「医者に聞かれたら怒られますよ」

「聞かれないから大丈夫」

 軽口を挟む声も、ちゃんと録音されていく。

「……もし」


 茜は、そこでほんの少し言葉を切った。

 病室の空気が、すこしだけ重くなる。

「もし、うまくいかなかったとしても」

 声のトーンは、あまり変わらない。

「この話を、『泣ける話』にしないでください」


 その一文は、私ではなく、スマホに向けて投げられているように聞こえた。

「『若くして手術に挑戦したけどダメでした』って、

 勝手に感動ポルノにまとめないでほしいです」

 美学の話をしていたときと同じ目をしている。

「ちゃんと、『ピザ食べ損ねたやつ』として覚えておいてほしい」

「肩書きひどくないですか」

「一番あたしっぽいでしょ」


 彼女は、少しだけ笑った。

「ここまで聞いてる誰かがいるとして。

 その人にお願いがあります」

 誰か、という言い方をするあたり、本当に未来の再生ボタンを想定しているのだとわかる。

「かわいそうな病人としてじゃなくて。

 心臓悪いくせに変なダンスして、オレンジジュース飲んで、ピザを食べ損ねたやつとして、覚えててください」

 それでいいです、と締めくくってから、録音を止めた。


 私は、自分のスマホの録音も同時に止める。

 画面には、「voice_memo_0007_akane」と仮のファイル名が表示された。

「……こんな感じかな」

 茜は、少しだけ照れたように笑った。

「後で聞き返したら、死ぬほど恥ずかしくなりそう」

「死ぬとか言わないでください」

「比喩としてね」


 彼女は、スマホを握りしめたまま、枕に頭を預けた。

「レンくんもさ」

「はい」

「今の、ちゃんと保存しといて」

「もちろんです」


「消したくなっても、簡単には消さないでね」

「……がんばります」

「“がんばります”なの笑う」

 笑いながらも、茜の目はどこか真剣だ。

「ログがあるのに再生しないのも、その人の選択って言ったの、覚えてる?」

「覚えてます」

「それと同じでさ。

 ログがあるのに削除しないのも、選択だから」


 彼女は、自分のスマホを胸の上に置いた。

「その選択の責任、レンくんにも半分持ってもらうからね」

「重いことさらっと言いますね」

「手術前だからって、なんでも言っていい権利が発動してるんで」

 そう言ってから、彼女は少しだけ目を細めた。

「……明日さ」

「はい」

「起きたら、最初に何言おうかな」

「手術後ですか」

「うん」

 彼女は、天井を見つめたまま、ぽつりと言う。

「『おはよう』より先に、『ピザ』って言おうかな」


「看護師さん困惑しますよ」

「いいじゃん別に」

 唇の端だけで笑う。

「起きて最初の一言が『ピザ』って、結構あたしらしくない?」

「らしい気はします」

 そう答えながら、胸のどこかで、「本当にそんな言葉が聞けたらいい」と思っていた。

「じゃあ決まり」

 彼女は、小さく指を立てた。


「明日ちゃんと起きられたら、最初の一言は『ピザ』」

「それ、医者に聞かれたら怒られますよ」

「そのときは、『術後せん妄です』って言ってもらおう」

「便利な言葉に使わないでください」

 そんなくだらないやりとりをしているうちに、面会時間終了のチャイムが鳴った。


「そろそろ、お開きだね」

 茜が言う。

「今日は、来てくれてありがとう」

「こちらこそ」

 ベッドの横に立って、軽く会釈する。

 本当は、何かもっとそれらしい言葉をかけたほうがいいのかもしれない。

 「絶対大丈夫です」とか、

 「待ってます」とか。

 でも、それを口にした瞬間、どこかが壊れそうな気がして、喉がうまく動かなかった。

「じゃ」

 茜が、軽く手を振る。


「明日、『ピザ』って言うから」

「聞き逃さないようにします」

「ちゃんとログ残しといてね」

「わかりました」

 病室を出る直前、振り返る。

 白いパジャマ。

 少しだけ上体を起こした姿勢。

 胸の前で組まれた両手。

 心電図の波形が、いつも通りのリズムで動いている。

 その光景を、目の裏側に焼き付ける。

 あの夜を最後に、病室でまともに会話ができたことは、もうない。

 

 手術当日の朝は、やけに晴れていた。

 雲ひとつない、というやつだった。

 病院の前に着いたとき、空だけ見れば何かの記念日のようで、ひどく場違いな気がした。

 受付を済ませて、指定された待合スペースに向かう。

 家族用の小さなラウンジ。

 ソファと、ペットボトルの入った自販機と、古い雑誌。

 日向家の両親は、すでにそこにいた。

「久我くん」


 茜の母親が立ち上がる。目の周りが少し赤い。

「おはようございます」

「来てくれてありがとうね」

 そう言いながら、彼女は何度も頭を下げた。

「いえ。こちらこそ」

 茜の父親は、椅子に座ったまま軽く会釈した。

「いつも娘が世話になってます」

 テンプレートみたいなセリフなのに、妙に重たかった。

 私も、一礼してから向かいの席に座る。


 窓の外で、救急車のサイレンの音が遠く小さく聞こえた。

「もう、手術室には入ったみたいです」

 茜の母親が、湿った声で言った。

「さっき看護師さんが」

「そうですか」

 言葉が、それ以上続かなかった。

「先生がね」

 父親が口を開く。


「『時間は少しかかりますが、落ち着いてお待ちください』って」

「はい」

「『成功率の数字だけで言えば、悲観するような手術ではありません』とも」

「……そうですか」

 やけに冷静な口調だった。

 元営業マンだと茜が言っていたことを思い出す。

「ただ」


 父親は、自分の手を組んだまま続けた。

「妻は、数字の話を聞いても全然落ち着かないみたいでね」

「当たり前でしょう」

 母親が、すぐに噛みつく。

「数字がどうとかじゃないのよ。

 そこにいるのが、うちの子かどうかって話なんだから」

「わかってるよ」

 父親は、少しだけ肩をすくめた。

「だからこそ、こうして待つしかないんだ」

 淡々とした言葉の奥に、どうしようもない無力さがにじんでいた。

 私は、その会話を聞きながら、「エラーログの出ないシステム」のことを考えていた。


 サービスが落ちたとき。

 ログが何も残っていないのに、ユーザーからだけ「繋がらない」と報告が来るとき。

 原因の見えない不具合が、いちばん怖い。

 手術というプロセスが、どれだけ綿密なシミュレーションと統計の上に組まれていても。

 どこか一箇所、想定外の変数が紛れ込むだけで、すべてが崩れることもある。

 そんなことを考えながら、私は黙って両手を組んだ。

 時間の感覚が、少しずつ、ゆがんでいく。


 時計を見るたびに、長針の位置があまり変わっていない気がして、かえって落ち着かなくなる。

 廊下を通る足音。

 遠くから聞こえるストレッチャーの音。

 看護師同士の短い会話。

 それらが全部、どこか遠い世界の音みたいに聞こえる。

 どれくらい経った頃だろうか。

 ノックの音がして、ラウンジのドアが開いた。


 白衣の医師が入ってくる。

「日向さんのご家族の方」

 立ち上がる音が、ほぼ同時に三つ。

 父親と母親と、私。

 医師は、一瞬だけ私のほうに目をやってから、「ご家族……と、友人の方ですね」と言い直した。


「手術は、無事に終わりました」

 その一言で、ラウンジの空気の密度が変わった。

 母親の足から力が抜けたように見えて、父親が慌てて支える。

「本当に……?」

「はい。

 予定していた処置はすべて問題なく完了しています」

 医師の声は、聞き慣れたビジネスライクな「成功報告」のトーンに近かった。

「まだ麻酔が残っていますので、完全には目を覚ましていませんが。

 状態としては安定しています」


「そうですか……」

 父親が、目を閉じて息を吐いた。

 母親は、両手で口を押さえたまま、涙をこぼしている。

「ただ」

 医師は、ほんの一拍だけ間を置いた。

 その「ただ」の重さに、心臓が少し跳ねた。

「大きな手術ですので、このあと数日は慎重な経過観察が必要です。

 予測できない合併症が起こる可能性もゼロではありません」


 予測できない合併症。

 エラーログに書きようのない未来の、不具合。

「ですが」

 医師は、続ける。

「現時点では、うまくいったと言っていいでしょう。

 よく頑張られました」

 「頑張られました」という言い方に、少しだけ違和感を覚えた。


 頑張ったのは、茜だ。

 私は何もしていない。

「お顔を見ていただくことはできますが、まだ意識ははっきりしていません」

「……会わせてもらっても」

 母親の声が震える。

「もちろんです。順番にご案内します」


 医師がそう言って、軽く会釈した。

 そのあと、家族が先にICUに案内され、少し時間を置いてから、看護師に促されて私も中に入った。

 消毒液の匂いが、普段の病室より強くなった気がした。

 機械の音が増えている。

 心電図。

 血圧。

 呼吸の管理。


 モニターの数が増えるほど、逆に「人」の気配が薄くなる感じがした。

 茜は、白いシーツの上で静かに横たわっていた。

 口にはチューブ。

 腕には点滴の管。

 胸元には包帯。

 さっきまで「チャック」だの何だのと言っていた本人とは、とても思えない。

「……来たよ」

 かける言葉が見つからず、とりあえずそれだけ言う。

 もちろん、返事はない。


 ただ、モニターの波形が、一定のリズムで動き続けている。

 画面の数字を見て、「安定している」と自分に言い聞かせる。

 肩の高さくらいの位置で、看護師が声をかけた。

「お時間、そろそろでお願いしますね」

「あ、はい」

 数分間、私はただそこに立っていた。

 名前を呼ぶこともできず。

 手を握ることもできず。


 何か動かしたら、全部壊れてしまいそうで。

 モニターの「正常さ」にすがるように視線を固定した。

 そのときは、本気で「うまくいったんだ」と思っていた。

 数日後に届く一本の電話が、その認識をあっさり上書きするまでは。


 電話がかかってきたのは、それから三日後の夜だった。

 

 その日は家で、簡単なバグ修正のタスクを片付けていた。

 ブラウザで管理画面を開いて、フォームのバリデーションの挙動を確認しているところだった。

 スマホが、机の端で震えた。

 通知欄に、「日向」という苗字が出る。

 茜本人のスマホではなく、その下に「母」と小さく表示されていた。


「はい、久我です」

 画面をスワイプして受話ボタンを押す。

「あの……久我くん?」

 聞き慣れた声が、普段より少し掠れていた。

「日向さんのお母さんですか」

「うん……いま、大丈夫?」

「大丈夫です。何かありましたか」

 わかりきった質問だった。

 こんな時間に、わざわざ電話をかけてくる用件が「特に何もありません」なわけがない。

「さっきね」


 受話口の向こうで、息を整える音がした。


「病院から電話があって……」

 そのあとの文脈を、脳が勝手に先回りする。

「茜の容態が、急に悪くなったって」

 その言葉を聞いた瞬間、画面の向こうで、世界が少しピントを失った。

「具体的には」

 自分の声が、妙に遠く聞こえた。

「詳しくは、病院で説明しますって……。

 今、私たちも向かってるところなんだけど」


「病院、ですね」

「うん……。来られそう?」

「すぐ向かいます」

 電話を切ってから、机の上のノートパソコンを閉じた。

 保存していないコードがどうなってもいい、と思ったのは、そのときが初めてだったかもしれない。

 

 電車の中で、手すりを握りながら、さっきまで開いていたブラウザタブのことを考えていた。

 フォームのバリデーション。

 エラーがあれば、赤文字でメッセージを表示する機能。

 「必須項目です」

 「有効な値を入力してください」

 そういうメッセージが、人生にも事前に表示されればいいのに、と他人事みたいに思った。

 

 病院に着いたのは、電話から四十分後くらいだった。

 エントランスの自動ドアをくぐると、いつもと同じ消毒の匂いがした。

 エレベーターでICUの階へ上がる。

 廊下の突き当たりで、日向家の両親が並んで座っていた。

 母親は、ハンカチをぎゅっと握りしめている。

 父親は、その隣で背筋を伸ばしたまま、どこか一点を見ていた。

「久我くん」


 私に気づいた母親の声は、少し震えていた。

「すみません、遅くなりました」

「こちらこそ……。わざわざ……」

 いつもと同じように頭を下げようとするのを、父親が軽く止める。

「先生がね、もう少しで来るそうだ」

「容態は……」

「詳しくは、先生から聞いてくれ」

 その言い方で、だいたいのことは察した。

 しばらくして、白衣の医師がこちらに歩いてきた。


「日向さんのご家族の方と……久我さんですね」

「はい」

 立ち上がると、医師は短く会釈した。

「結論から申し上げます」

 その言葉が、ゆっくりとこちらに向かってくる。

「先ほど、心停止の状態に陥りました。

 すぐに蘇生処置を行い、一時的には心拍が戻りましたが……」

 そこで、ほんの一瞬だけ間が空く。


「残念ながら、先ほど……亡くなられました」

 廊下の空気が、一瞬だけ、完全に無音になった気がした。

 母親の手から、ハンカチがするりと滑り落ちる。

「そんな……」

 かろうじて出た声は、自分のものだったのかどうか、よくわからなかった。

「原因は」


 父親が、擦れた声で尋ねる。

「詳しくは検査をしてみないと何とも言えませんが、術後の合併症による急性の不整脈が引き金になった可能性が高いです」

 医師は、落ち着いた声で続ける。

「術前の検査や術中の経過からは、予測が難しいタイプのものでした。

 できる限りの処置は行いましたが……力及ばず、大変申し訳ありません」

 「予測が難しいタイプ」という言い方が、やけに耳に残った。


 ログに残らないバグ、という言葉が頭をよぎる。

「会わせて……もらえますか」

 母親が、絞り出すように言う。

「はい。ご案内します」

 医師のあとについて歩きながら、自分の足音だけがやけに大きく聞こえた。

 

 ICUの一角。

 さっきまで、波形が動いていたはずのモニターは、すでに電源が落とされていた。

 機械類の数が少し減っている。

 茜は、ベッドの上で静かに横たわっていた。

 口のチューブは抜かれ、胸元の包帯はそのまま。

 眠っている、と言われればそう見えなくもないけれど、さっきまで病室で見ていた「眠っている人」とは、何かが違っていた。

「茜……」


 母親の声が、かすれている。

 ベッドのそばに立って、震える手で髪を撫でる。

 父親は、少し距離を置いた位置で黙って立っていた。

 私は、そのさらに後ろで、何をしていいのかわからないまま立ち尽くしていた。

 本当は、何か言うべきなのだろう。

 「お疲れさま」とか、

 「よく頑張ったね」とか。

 でも、それを口に出した瞬間、本当に「終わり」が確定してしまう気がして、喉が動かなかった。


 代わりに、頭の中で別の言葉が反芻されていた。

 明日ちゃんと起きられたら、最初の一言は「ピザ」。

 彼女がそう言って笑った顔が、病室の白い天井と重なって何度も再生される。

 その「最初の一言」が、もうどこにも行き場を失ってしまったことが、やけに現実感を持たなかった。

 

 通夜と葬儀は、驚くほど早く決まった。

 病院での手続きやら何やらは、ほとんど日向家と葬儀社の人たちが進めてくれて、私は端のほうで、それをぼんやり見ているだけだった。

 式の最中、「娘さんは、本当に頑張ってらしたんですね」とか、「立派な方でしたね」とか、いろんな人がいろんな言葉をかけていた。


 どの言葉も、たぶん嘘ではない。

 でも、どの言葉も、あのボイスメモで茜が拒絶していた「きれいな話」に、少しずつ形を寄せていっているように見えた。

 焼香の列に並んでいるとき、前に並んでいた親戚らしき女性が、誰かと話しているのが聞こえた。

「かわいそうにねえ。

 まだ若かったのに」


 茜が一番嫌いそうな言葉だな、と薄く思った。

 祭壇の前に立ったとき、遺影の中の彼女は、COZYLIGHTで見るより少しおとなしく映っていた。

 フォルダの中の「dance_akane_01」とは違う顔。

 手を合わせながら、「ピザ食べ損ねたやつとして覚えてて」と言っていた声が、耳の奥でくっきり鳴った。

 この場にいる誰か一人でも、そういうふうに彼女を覚えている人はいるだろうか、と考える。


 少なくとも、私はそう覚えておこうと決めた。

 覚えておくことと、その記憶をどう使うかは、また別問題だということに、このときはまだ気づいていなかった。

 

 葬儀がすべて終わってから数日後。

 私の手元には、いくつかの「遺品」が届いた。

 病院から預かっていた小物類。

 オレンジ色のストラップがついたスマホ。

 ボイスメモがぎっしり詰まった、その記録装置。


 日向家からは、「茜がよく聞いていたなら、久我くんが持っていてくれたほうが」と言われた。

 本当は、受け取らないという選択肢もあったはずだ。

 でも、手を伸ばしてしまった。

 小さな紙袋に入ったスマホの重さが、妙に現実的だった。


 家に帰って、その紙袋を机の上に置く。

 しばらく、袋の口を開けることができなかった。

 袋の中には、あの「手術前日のボイスメモ」も入っている。

 再生ボタンに触れるかどうかは、私の選択だ。

 ログがあるのに再生しないのも、その人の選択。


 茜が言っていた言葉が、また頭の中で鳴った。

 その夜は、結局、袋に触れずに寝た。

 

 「来なかった日」は、それから少し経ってからやってきた。

 カレンダーアプリではなく、紙のほうのカレンダーに、それは残っていた。

 部屋の壁にかけてある、安物の年間カレンダー。

 茜と一緒に、手術の日程が決まったときに書き込んだ。

 手術日。

 術後の検査の予定。

 退院の目安。


 そして、その少し先の土曜日の欄には、小さく丸印がついている。

 丸印の横には、ボールペンで「ピザ」とだけ書いてあった。

 カレンダーのその日付に気づいたのは、朝食を食べ終わったあとだった。

 トーストの皿をシンクに運んで、ふと顔を上げたときに、壁の数字が目に入った。

「あ」

 自分の口から漏れた声が、想像していたよりも軽かった。

 今日は、その日だった。


 本来なら、退院して少し落ち着いた茜が、初めてうちに来て。

 ピザアプリを開いて、どの具が一番体に悪そうか話しながら、箱を開けているはずだった日。

 カレンダーの「ピザ」の文字だけが、その予定の痕跡として残っている。

 茜本人も、ピザの箱も、どこにもない。

 あるのは、数字とインクだけだ。

 しばらく、その日付をじっと見つめていた。

 スマホを取り出して、いつもの癖で、宅配アプリを開く。


 何度も見たトップ画面。

 現在地の地図。

 配達可能範囲の丸いゾーン。

 指が、勝手にピザのアイコンに伸びそうになる。

 ボタンを押せば、ピザは来る。

 約四十分から五十分で、熱い箱がドアの前に届く。

 そういうふうに、世界は設計されている。

 「頼めば来るもの」がある一方で、「何をしても来ないもの」があることを、最近身にしみて思い知ったばかりだ。


 画面の中のピザの写真を見ていると、喉の奥が詰まるような感覚がした。

 注文ボタンの手前で、指が止まる。

 注文したら、たぶん食べられない。

 箱を開けた瞬間、「これじゃない」という感覚に押し潰される未来が見えた。

 アプリを閉じようとして、画面をスワイプする。


 でも完全には閉じずに、ホーム画面の端のほうに残した。

 ボイスメモと同じだ。

 ログがあるのに再生しない。

 アプリがあるのに注文しない。

 どちらも、「まだ決めていない」という状態を、ぎりぎり維持しようとする態度に見えた。


 壁のカレンダーに目を戻す。

 「ピザ」と書かれた丸印は、当然ながら何も知らずに、そこにある。

 ペンで書き込むとき、茜は「これで釘刺しとくから」と言って笑っていた。

 釘は、たしかに刺さったままだ。

 約束は、まだどこにも行き場を得ていない。


 私は、しばらく迷ったあと、カレンダーのその日付に、もうひとつ小さな印を足した。

 ピザの文字の下に、小さく「×」を付ける。

 それで何が変わるわけでもない。

 「来なかった」事実が、「来なかった」という記号で上書きされるだけだ。

 それでも、何もしないよりはマシな気がした。

 その日、ピザは来なかった。

 約束も、叶わなかった。


 ただ、ボイスメモとカレンダーの丸印だけが、静かに残った。

 そのどちらも、後になって「別の形」で再生されることになる。

 まだ、夕凪ゆうぐれが生まれる前の話だ。

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