一三〇三号室の観測問題

不思議乃九

一三〇三号室の観測問題

■起


震度七。

青森市・第三団地 一三〇三号室。

時刻 16:30:47(気象庁確定値)。


観測者:私。

観測対象:密室殺人。

問い──観測は、真実を発見するのか、生成するのか。


時間は砕けた。破片となり、空間に再配列された。

砂埃。石膏の匂い。鼻腔が焼ける。

光は粒子という迷路を通り、世界を歪めて見せる。


すべてがノイズ。

私は、そのノイズの音色から法則を聴き取る観測者だ。


廊下に斜めの亀裂。

地震の暴力によるものか。それとも、彼の意思の痕跡か。


私は隣棟の屋上から、救助隊が架けたロープを伝い進入した。

この“垂直方向の侵入”こそが、犯人のトリックを観測する唯一の資格だった。


密室。

ドアはねじれ、フレームは金属の悲鳴を上げている。

「内側から施錠されていた」──この一語が、観測のすべてを不確実な霧へと変えた。


被害者。

床に散らばるガラスの星座の中心。

彼の瞳は、私を捉えない。

ただ固定された過去の光景を映し続けている。


死因は鈍器。

しかし、その鈍器は部屋のどこにも存在しない。


証言。生存者十名。

彼らの口から零れ落ちるデータは、どれも信用できない。


証言①:「窓を叩く湿った音がした」──16:30、揺れの直前。

証言②:「鍵を捻る乾いた音を聞いた」──16:31、揺れの直後。


二人の“特異点”がいる。


蒲生祐一(がもう・ゆういち)43歳。生命保険営業。

震災の混乱の中、異様なほど冷静にネスカフェ・ゴールドブレンドを探していた。

被害者の保険金受取人変更の書類を扱った人物でもある。


佐久間剛(さくま・つよし)58歳。元建設技術者。

瓦礫の角度と亀裂の呼吸を読み取るように、建物を観察していた。


両者とも13階の住人。

二つの真実の座標を固定する存在だった。


被害者──田沼健一、37歳。会計士。

離婚調停中。保険金の受取人を元妻から妹へ変更していた。

その処理を担当したのが、他ならぬ蒲生祐一である。


■承


観測者の計算開始。


左手の震えはデータではない。

単なる信号の乱れだ。私は信号を処理する。


避難者リストから、動線を幾何学的に再構築する。


住民 行動記録 空間座標

-----------------------------------------------------------

蒲生 室内 → 廊下待機(コーヒー) (x, y±δ, z)

佐久間 室内 → 壁崩落対応(EV前) (x', y', z)

田沼 [観測不能] (x, y, z)


擦り傷。

ドア前に刻まれた小さく規則的な傷。

「内側から施錠された密室」という集合において、それは異物である。


鍵──三つ。

1. ポケットの鍵

2. 室内に残された合鍵

3. 行方不明の鍵(紛失していた予備)


被害者はストーカー被害を恐れ、二重施錠を徹底していた。


そして私は結論に至る。


密室の扉は、“外側から開いた”。鍵穴を使わずに。


だがこれは証言②と衝突する。


擦り傷──外部操作の痕跡か、鍵複製のための計測か。

選択しない。

両方の可能性を保持したまま、観測を続ける。


■転


余震。震度四。

揺れが、観測を根底からリセットする。


扉前の擦り傷は、瓦礫の影に消えた。

足場が崩れる。


そして──私の記憶が裏切りを始める。


蒲生のアリバイ。

「隣室でコーヒーを飲んでいた」という穏やかな事実。


佐久間のアリバイ。

「崩落した壁を支えていた」という献身的な事実。


しかし、物理的不可能との整合性が取れない。


私の記憶がささやく。


施錠か。

解除か。

二つの鍵か。


だが、これは証言にはない。

私の観測が生んだノイズか。

証言者が“忘れた”二度目の音か。


真相が指し示されかけた瞬間、

犯人は私の記憶の変質によって保護された。


不確実性こそが、密室の唯一の解である。


■結


私は、不確実な知識を抱えている。


「鍵を捻る音は、二度聞こえた」。



● 可能性 A:物理トリック(犯人=佐久間剛)


鈍器は配管用の金属パイプ。

脱出後、垂直シャフトへ投棄し回収不能。



● 可能性 B:音響トリック(犯人=蒲生祐一)


田沼が紛失した予備鍵を不正入手。

小型スピーカーで外部犯行を偽装。

施錠音も録音再生。


鈍器はスピーカーそのもの。

瓦礫下に隠し、「未開封の防犯用品」として処理された。



● 結び:読者への委託


あなたが抱える「二度の鍵の音」は、

物理的ノイズか。

電気的ノイズか。


瓦礫の幾何学を選ぶか。

音響の幾何学を選ぶか。


──あるいは。


あなたの観測が、新たな第三の真実を生成するのか。



【左手の震えの回収】


そして私は気づく。


左手の震えは「信号の乱れ」ではなかった。

鈍器を握った記憶の残響だったのではないか。


私が報告書を書く資格があるのか。

それとも──

私こそが報告されるべき対象なのか。


この問いに答えた瞬間、密室は──



【コーダ】


報告書を閉じる。


二つの可能性を併記した。

だが、報告書そのものが第三の密室ではないかという疑念が消えない。


真実は発見か。

生成か。


答えれば、その観測者は観測対象となる。

新たな観測者が必要となる。


密室は、無限に入れ子になる。


【密室の階層】

-------------------------------------------

第一階層 物理的密室(一三〇三号室) 空間

第二階層 証言の集合(言語的密室) 時間

第三階層 報告書(記述的密室) 記憶

第四階層 読者の解釈(認識的密室) 選択

第五階層 [ ] 観測


第五階層は、あなたが埋める。


【了】







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一三〇三号室の観測問題 不思議乃九 @chill_mana

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