月にでも行こうや

植原翠/新刊・招き猫⑤巻

月の見えない昼

 その夜、少年は森を歩いていた。木々の隙間から覗く月は、まるで彼を導く灯火のように輝いている。

「月が綺麗ですね」――かつて夏目漱石が愛の言葉を遠回しに訳したとされる一節を、少年は思い出す。けれど彼の口からこぼれたその言葉は、ただの古典的な引用ではなかった。


 月は応えるように光を強め、森の奥に隠された湖面を照らし出す。湖の水は鏡のように揺らぎ、そこに映る月は現実よりも近く、手を伸ばせば届きそうだった。

 少年は湖に向かって歩み寄り、囁くようにもう一度言った。


「月が綺麗ですね」


 その瞬間、水面から白い影が立ち上がった。少女の姿をした月の精霊だった。彼女は微笑み、漱石の言葉を受け取るように頷いた。


 「あなたの心が逃げ場を求めるなら、月はいつでも扉になるでしょう」


 少年は驚きながらも、その言葉に救われるような気がした。月はただ美しいだけでなく、孤独な者に寄り添う存在なのだ。



 問一・本文中で引用されている夏目漱石の「月が綺麗ですね」という表現は、一般にどのような意味を持つとされているか、説明しなさい。




 ふっと、現実に引き戻される感覚があった。

 夜の森ではなくて、昼の光が差し込む自分の部屋。机に向かう私は、ペンの先を少し浮かせて、ぼうっとしていた。

 手元の国語の問題集には、夜の森を描いたファンタジー小説の一部が抜粋されて載っている。この短い文章が私を見知らぬ世界に引き込み、現実から引き離していた。

 このまま、知らない夜の森を歩いていたかった。


 部屋の扉を、お母さんが開けた。


「澪、これおばあちゃんちに届けてきて」


 扉の向こうから差し出してくるのは、親戚から貰ったお土産ものである。おばあちゃんが留守だったからと、お母さんに託されたそうだ。


「あんたどうせ暇でしょ、学校も行かずにゴロゴロして」


 机の上に広げた教科書や問題集は、見えないらしい。いや、見えていたとしても、子供のお勉強なんて大人から見れば大してことではない。

 そうだよね。お母さんは家事で忙しい。私は、自分のために問題集を解いているだけ。自分で自分を納得させて、立ち上がる。


「うん、分かった。行ってきます」


 持たされた紙袋を手に、外へ出る。


 子供の私が見ている世界は、大人にとってはちっぽけなものらしい。

 私にとっては学校に行けなくなるほどの悩みでも、お母さんとお父さんと先生たちにとっては、「そんな程度で」だし、「よくあること」で、「悩みが若いなあ、青春だね(笑)」なのだ。

 そんなことより「中学生の娘が不登校になった自分」とか「受け取ったクラスに不登校の生徒がいる自分」のほうが、深く悩んでいると思っている。

 きっとそれが現実なのだ。大人主体の社会では、子供の私なんて、なにも知らないで親に甘えて生きているだけで、社会の一員として扱ってもらえない。


 おばあちゃんの家は、お向かいである。父方のおばあちゃんと、お父さんの弟である、私から見たら叔父さんが暮らしている。

 お向かいなのだから、お母さんがなにかのついでにお届け物をしてくれたっていいと思うのだけれど、そうもいかない事情があった。

 インターホンを鳴らすと、おばあちゃんが出てきた。


「ああ、澪ちゃん。なに?」


「これ、預かってたお土産です」


「そう、ありがとう。澪ちゃん、今日も学校行かないの? 時間あるならおばあちゃんとお話ししましょうよ」


 にこにこしつつも、おばあちゃんは目が笑っていない。私はちょっと、この人が苦手だ。

 引き止められたときに断ると、なにを言われるか分からない。軋轢を生まないようにと、張り付けた笑顔で頷く。


「お邪魔します」


 おばあちゃんの家の、おばあちゃんの家特有の匂いの居間に通される。できるだけ早く切り上げて、帰りたい。まだ問題集を途中までしか解いていないのに。

 おばあちゃんは今のテーブルにつくと、早速喋りだした。


「澪ちゃんね、学校に行かないとだめよ。全く、誰に似ちゃったのかしら。隆……お父さんは優秀だったから、お父さんではないと思うけど」


 始まった。おばあちゃんの嫌み。おばあちゃん曰く優秀な長男、つまりお父さんは、出来の悪い嫁を貰ったせいで娘の私もバカだと言いたいらしい。


 おばあちゃんはいつもこうして、チクチクとお母さんの悪口を言う。こんなだからお母さんはおばあちゃんのところへ行きたがらない。でもお土産を渡さないと余計にグチグチ言われるから、結果、私を突き出す。

 私だって、こんな立場は嫌だ。上手く逃げられない自分も嫌いだ。


「勉強が難しくて、ついていけないんでしょう? そんな理由で学校をサボってたら、もっとバカになるわよ」


 おばあちゃんが親切ぶった口調で攻撃してくる。私は言い返したくても、喧嘩になるのが嫌で、黙って耐えていた。

 学校へ行けない理由は、勉強ができないからではない。これはおばあちゃんが、勝手に決めつけているだけだ。だって本当の理由は、まだ誰にも話していないのだから。


「お父さんは成績優秀だったのに、なんでかしら。本当にお父さんの子? 実は別の男との子供だったりして」


 知らない。そんなことを子供に言わないでほしい。でも時々、本当に私はお父さんの子ではないのかもしれないと思うときがある。

 お父さんは、仕事で帰ってきても殆ど私と会話しない。私が小さい頃からそうだったから、不登校の私を見放しているとかでなくて、元から興味がないのだろう。お母さんが私の不登校について相談しようとしていても、「疲れてるから」のひと言であしらっている。

 血の繋がった娘だろうと、どうでもいいのだろう。昔からずっと、私の世話はお母さんに丸投げだ。おばあちゃん曰く「優秀な息子」だそうだけれど、父親としてはあんまり優秀ではない気がする。なんて、迷惑をかけている私が言える立場ではないか。

 おばあちゃんが、わざとらしくため息をつく。


「ああ、あんな嫁に騙されてさえいなければ。私の老後も安心だったのにねえ」


 おばあちゃんの気が済むまで、居間で座って耐えるしかない。静かに俯きながら頷いていると、ギシ、ギシ、と、テンポの遅い足音が聞こえてきた。目だけ動かして様子を見ると、そこにはもうひとつの、苦手な顔があった。

 だらしなく太った肢体と、脂ぎって荒れている肌、伸びたシャツとハーフパンツ。お父さんと変わらないくらいの年の、ぬぼーっとした佇まいのおじさん。


「母さん、飲み物貰ってくぞ」


 冷蔵庫を開けるその男は、お父さんの弟――亨おじさんである。おばあちゃんは彼を一瞥だけして、ため息をついた。


 亨おじさんは、引きこもりである。大人になってもずっと実家であるここから出ず、三十代くらいからは仕事も辞めて引きこもっていると聞いている。

 引きこもり部屋は、この家の玄関前のガレージだ。昔は車があったらしいが、売却して、空いた場所に叔父さんが住み着いた。

 いつも鍵をかけられて閉ざされているから、おばあちゃんでも、ガレージの中がどうなっているのか知らないそうだ。


 優秀な長男を自慢に思っているおばあちゃんにとっては、次男のこの人は汚点である。普段からいないものとして扱っていて、おばあちゃんの話にこの人は殆ど登場しない。

 まあそれでも、血の繋がった息子ではあるから、私のお母さんよりは慈悲をかけてもらっているが。


 冷蔵庫からペットボトルの飲み物を取ったあと、おじさんがこちらを向いた。目が合うと、彼は肩身の狭そうな顔で会釈をして、居間を出ていった。

 彼がいなくなるのを見届けてから、おばあちゃんが言う。


「学校に行かないとね、就職も難しくなるの。だからちゃんと行かないと」


 正論なのは分かる。おばあちゃんがこんなふうに私にきつく当たるのは、仕事をしない次男がいるからなのだろう。ああいうふうになってほしくないという気持ちが、私に向けられている。多分そう。きっと、そう。嫌な気持ちにさせられているけれど、これはきっと、おばあちゃんなりの私への愛。

 そう、自分に言い聞かせた。


 亨おじさんのだらしない姿を私に見られたせいか、おばあちゃんの機嫌はますます悪くなった。私の頭が悪いのはお母さん譲りだとか、あんな嫁を掴まされたお父さんは被害者だとか、そんな言葉が次々とぶつけられてくる。

 私は大人しく聞いているしかない。と、そこへまた、ギシギシという足音とともに、亨おじさんが戻ってきたら。


「母さん、言い忘れてたけど、さっき町内会の人から電話あった。公民館に来てほしいって」


「なにそれ、いつ? なんですぐに言わないの?」


 おばあちゃんが目を丸くする。亨おじさんはボリボリと背中を掻いた。


「忘れてた。早く行ったほうがいいんじゃねえの」


「他人事みたいに!」


 おばあちゃんは鋭い声を上げてバタバタと支度し、私を放置して外へ飛び出していった。

 亨おじさんが猫背をこちらに向け、玄関の方向を見ている。私はしばし呆然としていたが、そろりと立ち上がった。帰ろうとした私を背に、亨おじさんが急に声を出した。


「いつも、ああなのか」


「え……」


 こちらを見ていないが、私に話しかけているのだろうか。他にいないから、そうか。そんなふうに思ってしまうくらい、ひとり言みたいな言い方だった。

 亨おじさんの存在は知っていた。知ってはいたが、いつも引きこもっていて姿を見る機会すら滅多にないから、話したのも初めてだった。


「いつも、ああやって捕まって、嫌味言われてるのか」


「……えっと……」


 困惑して返事に詰まる私に、亨おじさんの細い目が向く。


「学校、行けないのか」


 質問が変わった。私はおろおろと目を泳がせた。叔父とはいえ、変な人だし、存在は知っていたがほぼ初対面の人だし、どう接していいか分からない。

 でもなにも言わないわけにはいかず、私はしどろもどろに語った。


「はい……行けない、です」


「あの婆さんが言うように、勉強が分からなくて?」


「違う……勉強は別に、ちゃんとついていける。でも、クラスの人とか、怖くて」


「人間関係か。まあ、そういう理由で行けなくなる子が多いわな」


 亨おじさんが壁に凭れる。お母さんも、おばあちゃんも、私の本音は聞いてくれなかった。今、初めて、教室に行けない理由を口にした。

 亨おじさんは黙っている。私は沈黙に耐えられず、訥々と続けた。


「本が好きで……図書室にかよってたら、図書委員の先輩と、ちょっと話すようになって……。そしたら、クラスの人たちから、『先輩と付き合ってる』って噂されて」


 こんなこと、亨おじさんに話しても仕方ないのに、話したって困るだろうに、私はこの微妙な空気に耐えられずに話してしまった。


「付き合ってないって言ったら、今度は『狙ってる』とか『本好きのふりして先輩に近づいてる男好き』とか言われるようになって……クラスの男子も、私のこと『男好きだから体を触れば喜ぶ』って噂しだして……」


 私はただ、本を読みたかった。教室から逃げるように図書室に行っては、本の世界へと逃げた。でもそれがまた、先輩に会いに行っているなんて言われて、向けられる視線がますます気持ち悪くなった。

 もう、学校になんて行けない。

 だけれど、こんな理由をお母さんとおばあちゃんに話すのは恥ずかしかったし、クラスの子たちと同じ目を私に向けるかもしれない。

 怖くて、話せなかった。勉強に追いつけなくて逃げたと思われているほうが、マシだと思えてしまうほどに。

 それなのに私はなぜか、こんな事情を亨おじさんに吐露してしまった。


「ご、ごめんなさい。変な話をして……」


 私をこの世界から逃がしてくれるのは、本だけだった。国語の問題集の文章題にすら、心を預けてしまう。

 夜の森へ抜け出して、月の映る湖面を見れば、月の精霊が迎えてくれる。そんな幻想に縋りついて、今日も息をしている。


「すみません、帰ります」


 私は玄関へと逃げ出そうと早足になった。しかし亨おじさんの脇を抜けようとしたそのとき、彼はぽつんと言った。


「まあ、なんだ、ほれ。うん、月にでも行こうや」


「……へ!?」


 あまりに唐突すぎて、変な声が出た。

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