最終話 正体 (3)

一条グループの子どもとして産まれた私は、小さい頃から常に監視の下、日々を過ごしてきた。

物心ついたときから、毎日習い事や勉強を強いられた。

コンクールで賞を取れなかったり、テストの点が悪れば父から体罰を受けた。太ももや背中など、外から見たら分からない場所に何度も何度も。

母に助けを求めても、彼女は父に逆らう事もかばってくれる事もない。まるで人形のような人だった。

だから常に長袖やロングスカートで過ごした。

仲の良かった友達も家柄が良くないとされ、遊ぶ事も禁じられた。

唯一、心が救われた時間さえも奪われてしまった。

一条グループを大きくするために、パーティーに参加しては、他財閥の息子と良い関係を築け、と命じられてきた。

政略的な道具としてしか見られていない私は、自分に生きる価値を見出だせずにいた。

中学生の頃、本屋に文房具を買いに行った。監視から逃れたい、という気まぐれから立ち寄った。

別に欲しい物も無い。ダラダラと商品棚を見ながら、店内を歩いた。

ふと目に留まった消しゴムを手に取った。

その時、眠そうな主人が視界に入る。店には他に客もいない。

『今なら盗ってもバレない』

脳内に悪魔の囁きが響いた。

監視から見えないように背を向けながら、消しゴムを鞄にしまった。

心臓がバクバクと音を立てる。

やってはいけない事をしてしまった。

体温が上がる。店主はこちらを見ていない。

そして、何食わぬ顔で店を出た。


「何かありましたか?」


護衛の男が声を掛けてきた。


「いいえ、特に何も」


車に乗り込むと何事もなく帰宅した。

自室に入り扉を閉めると、息を大きく吐き出した。緊張感から解き放たれた勢いで、呼吸が荒くなる。

だが、それ以上に感じる高揚感。生まれて初めて自らの生命を実感できた。

このスリルがたまらなく心地良かった。そして、何より楽しく、面白かった。

それから時々、物を盗むようになった。

回数を重ねる毎に盗む物の難易度も上げていった。 

成功する度に日々の苦痛が和らいだ気がしたのだ。

店から物を盗む事に慣れると、人からスリを働くようになった。

最初は居眠りしている男から盗った。だが、起きている人からスるのは簡単じゃない。そのために日々研究した。

道を聞いている間に口の開いた鞄から財布を盗んだ。

それから捕まるまで何度も何度も盗んだ。

捕まった時も後悔はなかった。

お金に困っていた訳でもない、欲しかった物もない。でも、あの戦利品たちは自分の力で成し遂げた物なのだ。

あの日々がなければ、苦痛の日々に耐えかねて精神を壊していただろう。

そう、あれは自衛のためでもあったのだ。

言い訳にしか聞こえないだろうが、それが真実だ。


「美幸はお父さんが子どもの頃に亡くなって、お母さんも高校生の時に亡くなった。ずっと貧しい暮らしだった美幸にとっては、私の暮らしは天国だって言ったの。私は自由を、美幸は裕福な暮らし。お互いの利害が一致した私たちは、入れ替わりを思いついた」


成瀬は黙ったまま何も言わなかった。


「あなたが父に何を言われているのかは知らないけど、私は家に戻るつもりはない」


私は後ろを振り返ると全力で走り出した。


「待て!」


道は真っ直ぐだ。病院を追い越し、右に曲がる。そのまま横断歩道を渡る。

後ろをチラリと振り返ると、成瀬も横断歩道を渡っている。まだけていない。

成瀬も足は速くないが、身長差の分、少し距離が縮まっていた。

息が荒い。このままだと追いつかれる。

だが、運良く目の前には雑居ビルや店が連なる通りに差しかかった。

すぐ手前の路地を曲がると、さらにまた曲がる。

酒屋の物だろうか。瓶ビールが入ったケースが三つ重ねられていた。

滑り込むようにケースの裏に身を潜めた。呼吸音が漏れないように、口を手で塞ぐ。

成瀬が路地を駆け抜けていったのが見えた。

大きく息を吐くと、ケースに身体を大きく預けた。はずみでケースの中にある瓶が僅かに音を鳴らした。

息を殺し、成瀬が通り過ぎた方向を振り返る。

足音はしない。

だが、音を聞いて成瀬が戻ってくる可能性もある。息を整えたら、ここを離れよう。

この街がどこか分からないが、人混みに紛れればどうにかやり過ごせるだろう。


「みーつけた」


目を見開くと、後ろをゆっくりと振り返る。

そこには成瀬が息を切らしながら、目の前に立ち塞がっていた。


「いきなり鬼ごっことはね」


成瀬が少しずつ近づいてくる。

立ち上がってから急いで逃げ切れるだろうか。後ろのケースが邪魔だ。どうすればいいか必死に思考を巡らせる。

静寂を打ち破るように着信音が鳴り響く。

成瀬は胸ポケットからスマホを取り出すと、こちらを見据えたまま電話に出た。


「はい、成瀬です。ええ、依頼の件ですよね」


その会話の内容で相手が誰だか分かった。もう二度と話したくない相手だ。

この隙に逃げようとしたが、肩を成瀬に押さえつけられ、立ち上がる事ができなかった。

せっかく自由を手に入れられたのに。

またあの日々を過ごさなければいけないのかと、唇を強く噛んだ。


「はい、確認しました。一条希美さんは亡くなっていました」


耳を疑った。

父の依頼で動いているはずの彼が、何故嘘をつくのか。


「間もなくそちらに遺体が運ばれると思います。ええ、ありがとうございます。失礼します」

「なんで…」


電話を切った成瀬に呟くように尋ねた。

彼が手を差し伸べる。


「違うのか?一条希美さんは亡くなったんだよ。彼女の望む場所で生きる事は叶わなかったが、せめて最期くらいは盛大に弔ってもらうべきだ。それにきっと彼女も無縁仏になるよりいいだろう」

「…おじさん、ありがとう」


成瀬の手を取り、立ち上がる。

彼は大通りに向かって路地を歩き始める。

その背中を追うように、彼の腕に抱きついた。


「おい、ひっつくなよ」

「ねえ、おじさん早く行こう」

「行くってどこに」

「私、疲れたからベッドで寝たい。あ、その前にシャワーか。おじさんの家どこなの?」

「親父さんにもう一度電話しようか」

「ごめんなさい、家が決まるまで居候させてください」

「ったく、しょうがねえなあ」

「ほら、早く早く!」


路地から出ると、眩しすぎるくらい明るく感じた。

顔を上げると、空は果てしなく青く、白い雲が立ち昇っていた。

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獄中都市の惨劇 @Yuki-Touka

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