第6話

トラブル発生と獣王の威光

 ライブの熱狂が去った後の『鉄の金床亭』。

 客たちが帰ったあとの静かな酒場で、チャリチャリという小気味よい音だけが響いていた。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……。あきまへん、笑いが止まりまへんわ! これ、ワイの店の一ヶ月分の売り上げをたった二時間で叩き出してますぇ!」

 ニャングルがテーブルに山積みになった銀貨と銅貨を、愛おしそうに頬ずりしている。

 リーザは初めての握手会で手が真っ赤になっていたが、その表情は晴れやかだった。

「みんな、『ありがとう』って言ってくれました……。私の歌で、明日も頑張れるって……」

「ええ。貴女の歌が届いたのよ、リーザ」

 私は彼女に温かい紅茶を渡しながら、心地よい疲労感に浸っていた。

 順調だ。この調子なら、次のステップへ進める――。

 バンッ!!

 乱暴な音と共に、酒場の扉が蹴破られた。

 入ってきたのは、見るからに柄の悪い男たち数人と、その中心に立つ派手なスーツを着た小太りの男だった。

「おいおいおい、景気がいいじゃねぇか。こんな薄暗い場所で、随分と稼いでるみたいだなァ?」

 男は下卑た笑みを浮かべながら、積み上がった小銭の山をねっとりと見つめた。

 ニャングルが咄嗟に金を体で隠す。

「な、なんやアンタら。うちはもう閉店やで」

「とぼけんじゃねぇよ。俺様はこの地区の興行を取り仕切っている、ボルゾイ男爵だ。俺のシマで勝手に商売して、挨拶もなしか?」

 ボルゾイ男爵。聞いたことがある。

 裏社会と繋がりを持ち、この辺りの貧民街から「ショバ代」と称して金を巻き上げている悪徳貴族だ。

「さあ、売り上げを全部置いていきな。あと、その人魚の娘もだ。俺様の屋敷で個人的に歌わせてやるよ、グヘヘ」

 男爵が太い指をリーザに向ける。

 リーザが悲鳴を上げて震え上がった。

「断るわ」

 私はリーザを背にかばい、男爵の前に立ちはだかった。

 足は震えているが、ここで引くわけにはいかない。

「私たちは正規の手続きで場所を借りているわ。貴方に支払う義務はない」

「あぁ? 生意気な女だな……。痛い目見ねぇとわからねぇか?」

 男爵が顎をしゃくると、護衛の荒くれ者たちが剣を抜き、ジリジリと間合いを詰めてきた。

 ニャングルは「ひぃっ!」とテーブルの下に潜り込んでいる。戦力外だ。

(くっ……レオはもう帰っちゃったわよね……)

 私は扇を構えたが、所詮はただの扇子。剣を持った大男に勝てるわけがない。

 男の一人が、私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。

「女ァ、顔に傷がつきたくなきゃ大人しく……」

 その時だった。

 ドサッ。

 私の腕に触れようとした男が、突然、糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちた。

 いや、一人だけじゃない。

 取り巻きの男たちが次々と、白目を剥いて倒れていく。

「あ? おい、テメェら何ふざけて……」

 男爵が狼狽える。

 その背後に、いつの間にか「影」が立っていた。

「……おい」

 地獄の底から響くような、低く、重い声。

 深くフードを被った大柄な男が、男爵の肩に手を置いていた。

 軽く置いただけに見えるその手が、ミシミシと男爵の肩骨を軋ませる。

「い、痛ぇ!? なんだ貴様は!」

「俺の『連れ(パートナー)』に、その汚い手を伸ばすなと言っている」

 男がフードを僅かに持ち上げる。

 隙間から覗いたのは、黄金色に輝く猛獣の瞳。

 ――ズンッ。

 空気が、鉛のように重くなった。

 私やリーザには優しい風のように感じるのに、男爵だけが、まるで巨大な肉食獣の口の中に放り込まれたかのように、ガタガタと歯を鳴らして硬直している。

 ユニークスキル【百獣の王】。

 その能力の一端――『生物的序列による絶対威圧(プライマル・フィアー)』。

 食物連鎖の頂点に立つ者が放つ、抵抗不可能な「死」の予感だ。

「ヒッ、ヒィッ……!?」

「失せろ。二度とそのツラ見せるな」

 レオが短く告げると、男爵の股間からじわりと染みが広がった。

 腰を抜かした彼は、悲鳴を上げることもできず、這いつくばって逃げ出していった。気絶した手下たちを置き去りにして。

 静寂が戻る。

 レオはふぅ、と息を吐いて威圧を解くと、私の方へ向き直った。

「……悪かったな、遅くなって。怪我はないか?」

 彼はフードを脱ぎ捨て、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

 その表情は、さっきまでの魔王のような恐ろしさが嘘のように、優しさに満ちていた。

「え、ええ……大丈夫よ。ありがとう、レオ」

「ったく、無茶しやがって。相手が刃物を持ってたらどうするつもりだったんだ」

 レオは呆れたように言いながら、私の頭にポンと大きな手を置いた。

 そして、クシャクシャと乱暴に、でもどこか愛おしそうに撫でた。

「お前は俺の相棒だろ? ……もっと俺を頼れ。この筋肉は、お前を守るためにあるって言ったはずだ」

 ――ドクン。

 至近距離で見上げる獣王の瞳。

 大きな手のひらの温もり。

 そして、私のためだけに本気で怒ってくれたという事実。

 前世でも今世でも、こんな風に守られたことなんてなかった。

 私の胸の奥で、ビジネスライクとは言えない、甘い感情が渦を巻き始める。

「……ん? どうしたスカーレット、顔が赤いぞ。風邪か?」

「ち、違うわよ! ちょっと興奮しただけ!」

 私は慌てて彼の手を振り払ったが、心臓の音はうるさいくらいに鳴り止まなかった。

 テーブルの下から這い出してきたニャングルが、震える声で言った。

 

「……へ、陛下。あんだけの殺気出しといて、自分だけラブコメ空間作るのやめてもらえまっか? 心臓止まるかと思いましたわ……」

 レオは「うるせぇ」と笑い飛ばしたが、その耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

 こうして、最初のトラブルは最強の用心棒(スポンサー)によって瞬殺された。

 だが、この一件で私たちの絆は、単なる「金と利害」以上のものへと変わり始めていた。

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