現代ドラマショートショート集
天使猫茶/もぐてぃあす
空白のコイン ― Flip the coin. ―
豪華な病室のベッドに一人の老いた男性が横たわっていた。病室の窓からはきらびやかな夜の街が見えるが、その輝きも美しさも老人の命を伸ばすのには足りていないようだ。
かつていくつもの会社の運営に携わっていた凄腕の経営者であった彼に対して、主治医が延命治療を施すかを尋ねる。
老人はゆっくりと手を伸ばすと枕元に置いてある一枚のコインを取り、慣れた動作で指で弾く。どれだけの期間にわたって何度同じことが繰り返されたのだろう。角が丸くすり減ったそのコインはほんの少しだけ跳ねたあとにきれいに老人の手の甲へと吸い込まれていった。
その男は昔からなにか大きなことを決めるときには必ずコイン投げを行っていた。
好きになった女性に告白をしようとするときに。
彼はコインを指で弾くと手の甲でそれを受け止め、緊張した面持ちで乾いた唇を舐めると、生涯のパートナーになる相手にこう言った。
「僕と付き合ってください」
その他にも。
大学を受験するかを決めるときに。
どの会社を受けるかを決めるときに。
結婚を申し込むときに。
会社から独立するときに。
息子の名前を決めるときに。
新しい事業に手を出すときに。
大きな決断をするときに必ずコインを弾き、それを手の甲で受け止めてきていた。
その様子を見ていた彼の友人たちはみな「人生を運任せにするのはやめろ」と口を揃えた。
だがその心からの忠告を聞くたびに彼は謎めいた複雑な笑みを浮かべるだけだった。
「延命治療は受けない」
手の甲を確認した彼ははっきりとした声でそう言った。主治医はその言葉に頷くと、その決定を家族や関係者へと伝えるために病室を出た。
数ヶ月後、彼は安らかに息を引き取った。多くの関係者が集った葬儀は滞ることもなく静かに終わった。
墓石にはこう刻まれているのを見て、彼を知る多くの者は苦笑を浮かべた。
「どんな時もコインはじいた男 ここに眠る」
墓標を見て老人に一番可愛がられていた孫娘もまた笑みを浮かべる。彼から譲り受けたコインを一人でこっそりと弾いていた。
一人の女性がいた。
祖父が父へと遺し、そして父から受け継いだその会社を、祖父の墓の前でコインを弾いた翌日にあっさりと弟の手へと渡すと、自分は全く別の芸術の分野へと飛び込みそこで才覚を発揮した才女だった。
そんな女性に、ある日付き合っている男性が尋ねた。
「君はなにか大きな決断をするときに必ずコイン投げをするよね。聞いたところによると君のお祖父様もそうだったらしいし。人生を運任せにするのは怖くないのかい?」
女性は青々とした芝生の広がる庭に面した窓から目を離すと少し驚いたような表情をする。そして茶目っ気のある笑みを浮かべて答えた。
「私はいつも自分で人生を決めてきたのよ。お祖父ちゃんと同じようにね」
そう言って女性は男性の方へ向かっていつも自分が指で弾いているコインを投げて渡した。
投げ渡されたそのコインは、角が取れてやや丸みを帯びてはいるもののどちらの面にも模様もなにも描かれていない、まっさらなものだった。
女性は財布から新しい硬貨を一枚取り出すと、指で弾いて手の甲で受け止めた。
「こんなのはただ縁起を担いでるだけ」
そう言うと小さく唇を舐め、そして緊張の滲んだやや上擦った声でこう続けた。
「ところで私たち、そろそろ結婚しない?」
現代ドラマショートショート集 天使猫茶/もぐてぃあす @ACT1055
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