第4話:因果修復(クロック・バック)(1/3)

 目の前に立ち塞がる老執事、セバスチャンの視線は、スラムの掃き溜めに湧く蛆虫を見るそれだった。

 無理もない。俺の格好ときたら、油と煤にまみれた作業着に、酒臭い息。対してこの屋敷は、塵一つ落ちていないほど磨き上げられている。

 だが、あいにくと俺は、他人の評価なんぞに興味を持つような繊細な神経パーツを持ち合わせていない。


「帰れと言ったはずだ。聞こえなかったか、下郎」


 セバスチャンの背後では、警備兵たちが槍を構え、今にも突きかかってこようとしている。殺気立ってやがるな。

 俺は「やれやれ」と肩をすくめ、懐からスキットルを取り出して一口煽った。


「耳なら正常に機能してるさ。むしろ、あんたの方こそ『音』が聞こえてねぇんじゃないか?」

「……何だと?」

「あんたの右膝だ。立ってるだけで『ギチギチ』と悲鳴を上げてるぜ。半月板が磨耗して、関節の噛み合わせが二ミリほどズレてる。……雨の日は古傷が痛むだろ?」


 セバスチャンの眉がピクリと跳ねた。

 図星か。伊達に何年もジャンク品の山を漁っちゃいねぇ。人間だろうが機械だろうが、ガタが来てる箇所は動きを見れば一発で分かる。


「……それがどうした。私の膝と、貴様をここ通すか否かは別の問題だ」

「セバスチャン! いい加減になさい!」


 鋭い声が響いた。

 俺の背後から、シルヴィアが飛び出してくる。スラムでの逃走劇ですっかり薄汚れてしまったが、その金色の双眸に宿る光は、まさしく公爵家のそれだった。


「この方は私の命の恩人であり、そしてお母様を救う最後の希望なの! これ以上彼を侮辱するなら、私が相手になります!」

「しかし、お嬢様……! このような素性の知れぬ男を奥様の寝室に入れるなど……」

「お母様は、もう時間がないのよ!」


 シルヴィアの悲痛な叫びに、セバスチャンが口を噤んだ。

 老執事の表情に、苦渋の色が滲む。忠誠心と常識の板挟みってわけか。回路がショート寸前だぜ。


「……通せ」


 セバスチャンが低く唸るように言った。警備兵たちが戸惑いながらも道を開ける。


「ただし、忘れるな。もし奥様の御身に少しでも害をなすような真似をすれば、その首を物理的にねじ切ってやる」

「へいへい。安心しな、爺さん。俺は美しいものを傷つける趣味はねぇ。……直すだけだ」




 ***


 屋敷の内部は、外観以上に壮麗だった。

 天井には巨大なシャンデリア、壁には名画の数々。床には足音が吸い込まれるような深紅の絨毯。

 だが、俺の鼻腔を突いたのは、高価な香水の香りではない。


「……臭うな」

「え? クロノさん、自分お酒の匂いじゃないですか?」

「違う。……『澱み』の臭いだ」


 俺は鼻を鳴らした。

 廊下の隅々、飾られた花瓶の裏、空気の流れが止まる場所。そこに、ドロリとした重たい気配が溜まっている。

 時が止まっている臭いだ。

 この屋敷は、主人の病と共に呼吸を止めちまっている。


 案内されたのは、三階の最奥にある主寝室だった。

 扉の前には、白衣を着た男たちが数人、深刻な顔で話し込んでいる。王室医師団か、あるいは高名な魔導医か。どいつもこいつも「自分たちはエリートです」という顔をしているが、その手にはお手上げ状態を示すカルテが握られていた。


「……シルヴィア様、お戻りでしたか」


 医師の一人、銀縁眼鏡をかけた神経質そうな男が気づいて声をかけてきた。


「ドクター・ガレン。母の容態は?」

「……残念ながら。鉱物化の進行が止まりません。心臓まで達するのも、時間の問題かと」

「そんな……ッ」


 シルヴィアが絶句し、膝から崩れ落ちそうになる。俺は無言でその小さな肩を支えた。

 ドクター・ガレンと呼ばれた男が、俺を見て眉をひそめる。


「……何ですかな、その薄汚い男は。ここには病人がいるというのに」

「修理屋だ」

「は? 修理屋? ……ふざけているのですか。出て行きなさい」


 ガレンがシッシッと手を振る。

 やれやれ。どいつもこいつも、肩書きでしか物を見られないらしい。部品パーツが足りてねぇな。


「おい、ヤブ医者。そこをどきな。あんたらの教科書に載ってねぇなら、専門家の出番だ」

「なっ、貴様……!」

「どけと言っている」


 俺はガレンを無視し、セバスチャンに目配せをして重い両開きの扉を開けさせた。

 瞬間。

 冷気のような魔力が肌を刺した。


 広い部屋の中央。天蓋付きの巨大なベッドに、彼女は横たわっていた。

 エレオノーラ・ローゼンバーグ。

 写真で見た以上の衝撃が、俺の脳天を直撃した。


「…………ああ」


 俺の口から、吐息とも祈りともつかない声が漏れた。

 美しい。

 ただ、その一言に尽きる。

 透き通るような白い肌は、病的なまでの儚さを纏い、閉じられた瞼の曲線は芸術的な弧を描いている。豊かな胸の起伏は、わずかな呼吸に合わせて微かに揺れている。


 少女のような無垢さと、成熟した女性だけが持つ妖艶さが見事に同居している奇跡のバランス。

 まさに、ヴィンテージ・ワインのような芳醇な存在感。


 だが、その左半身は――無惨なことになっていた。


 左肩から首筋、そして胸元にかけて、黒紫色の結晶体が皮膚を食い破るように生えている。

 まるで、美しい彫刻にコールタールをぶちまけたような冒涜的な光景。

 結晶は脈動し、周囲の空間からマナを貪り食っていた。


「ひどい……」

 シルヴィアが口元を押さえて嗚咽する。

 ガレンが背後から冷ややかに告げた。

「見ての通りです。これは『キメラ化の呪い』。未知の術式により、人体が鉱物へと置換されている。もはや解呪は不可能。我々にできるのは、苦痛を和らげることだけです」


「……黙ってろ、ポンコツ」


 俺は静かに言い放ち、ベッドの傍らへと歩み寄った。

 酒の酔いは完全に醒めていた。代わりに、腹の底からドス黒い怒りが湧き上がってくる。


 誰だ。

 一体どこのどいつだ。

 こんな至高の芸術品エレオノーラに、こんな悪趣味な落書きをしやがった馬鹿野郎は。


「クロノ……さん?」

 シルヴィアが不安そうに俺の名を呼ぶ。


 俺はベッドの縁に膝をつき、震える指先でエレオノーラの頬に触れた。

 冷たい。まるで氷のようだ。

 だが、その奥底に、まだ温かい命の灯火が残っているのを感じる。


「待たせたな、マダム。……随分と手荒な『改造』をされたもんだ」


 俺は上着のポケットから、商売道具の片眼鏡モノクルを取り出した。

 真鍮のフレームに、幾重にも重ねられた魔導レンズ。

 こいつはただの拡大鏡じゃねぇ。事象の構造、魔力の流れ、因果の繋がりすらも視覚化する、俺だけの「魔眼」代用品だ。


 カチャリ、と音を立ててモノクルを右目に装着する。

 ダイヤルを回し、焦点を合わせる。


「――解析スキャン開始」


 世界の色が変わる。

 エレオノーラの肉体が透け、その内側にある「設計図」が浮かび上がる。

 血管はパイプライン。神経は伝達ケーブル。臓器は動力機関。

 そして、魔力回路は複雑に噛み合う無数の「歯車」として、俺の視界に展開された。


 通常、人体の歯車は黄金色に輝き、滑らかに回転しているはずだ。

 だが、エレオノーラの体内は違った。


「……なんだ、こりゃあ」


 俺は思わず舌打ちした。

 彼女の心臓付近。本来あるべきメインスプリングの場所に、どす黒い「異物」が無理やりねじ込まれていた。

 そこから伸びる無数の触手のような配線が、彼女の正常な回路に絡みつき、強制的に回転を逆行させている。

 あの黒紫色の結晶は、病気なんかじゃない。

 回路が逆流したことによる、魔力暴走の排熱現象エラーだ。


「回路が間違っている。……プラスとマイナスも分からねぇガキが、精密機械にハンマーを叩き込んだような惨状だ」


「な、何をブツブツ言っているのだ!」

 ガレンが焦れたように声を荒げる。

「そこをどきなさい! 貴様のような素人が触れていい方ではない!」


 俺はゆっくりと振り返り、モノクル越しの冷徹な瞳でガレンを射抜いた。


「おい、ヤブ医者。あんた、これを『呪い』だと言ったな?」

「そ、そうだ! 高度な黒魔術による……」

「違うな。これは『配線ミス』だ」

「は……?」

「人為的に組み込まれた、悪意ある時限爆弾だ。……いいか、よく見ておけ」


 俺は再びエレオノーラに向き直り、石のように硬くなってしまった左手に、自分の手を重ねた。


 部品パーツは揃っているか? 否。

 工具ツールはあるか? 否。

 だが、俺にはこの指と、このスキルがある。


「シルヴィア。……そして、そこにいる石頭の爺さん」

「クロノ、さん……?」

「瞬きするなよ。……俺の『義妻ぎさい』になる人が、一番美しくなる瞬間を見せてやる」


 俺は深呼吸をし、魔力を練り上げた。



「【因果修復クロック・バック】――強制接続」


 バヂヂヂッ!! 俺の手とエレオノーラの手の間で、青白いスパークが弾けた。

 さあ、修理デートの時間だ。

 狂った時を、あるべき姿に巻き戻してやる。

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