第5話:因果修復(クロック・バック)(2/3)
視界が弾け飛ぶ。
色彩が失われ、世界が「線」と「数値」だけの
そこは、俺だけが認識できる情報の海だ。
エレオノーラの肉体という小宇宙。
通常、人間の体内というのは有機的なグロテスクさを伴うものだが、俺の目には違う。
整然と並ぶ黄金の歯車、白銀のピストン、そして瑠璃色に輝く
神が設計した、あまりにも精緻で美しい
(……くくっ、たまらねぇな。なんて美しい
俺は意識の指先で、彼女の深奥を撫で回す。
表面的な美貌もさることながら、三十四年分の鼓動を刻んできたメインスプリング(心臓)の健気な回転音が、俺の職人魂を激しく揺さぶる。
若い娘の新品特有の軽薄な回転とは違う。重厚で、深みのあるリズム。
だが――その美しい旋律を阻害する「ノイズ」が、確かにそこにあった。
「……見つけたぞ、不法投棄ゴミが」
心臓の動脈弁付近。
そこに、周囲の美しい黄金色のパーツとは明らかに異質な、どす黒い棘のような「異物」が突き刺さっていた。
精密時計のムーブメントに、ガムをねじ込んだような醜悪さ。
その異物から伸びる無数の黒い根が、血管や神経系に侵入し、誤った信号を送り続けている。
『皮膚を硬化させろ』『魔力を結晶化しろ』『生命活動を停止しろ』
そんな狂った
こいつが、エレオノーラの美しい肌を石に変えている元凶か。
(む! このセンス……回路設計のセンスが絶望的だな。美学の欠片もねぇ)
俺は現実世界で、エレオノーラの胸元にかざした手に魔力を集中させる。
「おい、どこを触っている! 離れろ!」
背後でドクター・ガレンの罵声が聞こえるが、雑音として
今、俺は彼女と「対話」している最中だ。
俺は脳内で工具箱を開く。
使うのは物理的なレンチじゃない。概念干渉用の「魔力ドライバ」だ。
「まずは
俺の指先から流し込まれた魔力が、彼女の体内にある異物へと到達する。
侵食している黒い根を、一本一本丁寧かつ迅速に剥がしていく。
無理に引っこ抜けば、彼女の神経ごと千切れてしまう。
癒着した錆を落とすように、繊細に、優しく。
そう、熟女をエスコートするように。
「……ん、ぁ……」
現実のエレオノーラが、苦しげに、艶めかしい吐息を漏らす。
その声だけで、俺の魔力出力が三割増しになる。単純な男だと笑いたければ笑え。これが俺の
「よし、癒着部分は剥離した。……次は回路の組み換え《バイパス》だ」
異物が送り込んでいた「石化命令」の信号を遮断。
さらに、異物自体を彼女の魔力循環システムから
複雑怪奇に絡み合った配線を、俺は瞬時に解きほぐし、正しい位置へと繋ぎ直していく。
赤は赤へ。青は青へ。
断線していた生命維持ラインを、俺の魔力で一時的に架橋する。
「ここだッ!」
俺は一気に魔力を流し込んだ。
スキル【
バチチチチチチッ!!
部屋の中に、激しい放電現象が発生した。
俺とエレオノーラを中心に、青白い光の奔流が渦を巻く。
「うわぁっ!?」
「きゃああっ!」
衝撃波で、ガレンたち医師団が尻餅をつく。
シルヴィアが風圧に耐えながら、必死に目を開けてこちらを見ているの。
セバスチャンが、シルヴィアを庇って立っている。
光の中で、奇跡は起きた。
バキンッ、パキンッ、と硬質な音が連続して響く。
エレオノーラの左半身を覆っていた、あの禍々しい黒紫色の結晶。
それが、ひび割れ、砕け散っていく。
時間を逆再生しているかのように、鉱物は砂となり、砂は光となって空中に霧散する。
その下から現れたのは、傷一つない、生まれたてのような真珠色の肌。
「……排熱完了。冷却システム、正常稼働。……メインスプリング、再始動」
俺はモノクルの奥で、彼女の心臓が力強く、正常なリズムを刻み始めたのを確認した。
血液が循環し、冷たかった肌にバラ色の血色が戻っていく。
成功だ。
俺は大きく息を吐き、魔力の供給を断った。
視界の設計図モードを解除する。
光が収まり、部屋に元の静寂が戻った。
ただし、その空気は一変していた。
「…………な」
最初に声を出したのは、ドクター・ガレンだった。
彼は床にへたり込んだまま、眼鏡をずり落とし、口をパクパクとさせている。
「な、何が……起きた……? 結晶化が……消滅した……?」
王室医師団の面々も、幽霊でも見たかのような顔で硬直している。
無理もない。彼らにとっての「不治の病」が、ほんの数十秒の
「……クロノ、さん」
シルヴィアが震える声で呼びかける。
俺は額に浮かんだ汗を拭い、ニヤリと笑ってみせた。
「言ったろ。配線が間違ってただけだ。……ちょっと油を差して、ネジを締め直しておいた」
俺はあくまで「いつもの仕事」をこなしただけだと言わんばかりに、肩を鳴らした。
本当は、異物を取り除くのに神経をすり減らしてヘトヘトだが、格好をつけるのもプロの仕事だ。
その時。
「……ぅ……ん……」
ベッドの上から、微かな声が聞こえた。
全員の視線が集中する。
エレオノーラの長い睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がった。
そこから覗いたのは、深い湖のような、澄んだアクアマリンの瞳。
「……お母様!?」
シルヴィアが駆け寄ろうとする。
だが、俺はそれを手で制した。
悪いな、お嬢ちゃん。修理完了後の「動作確認」は、修理屋の特権だ。
俺はエレオノーラの顔を覗き込み、その瞳が焦点を結ぶのを待った。
やがて、彼女の瞳が俺を映す。
見知らぬ天井ではなく、見知らぬ無精髭の男を。
「……あなたは……?」
夢見心地のような、とろける声。
俺はこれ以上ないほど紳士的な(と自分では信じている)表情を作り、彼女の柔らかな手を取った。
そして、その甲に口づけを落とす手前、ギリギリの距離で囁く。
「おはようございます、眠れる森の美熟女。……貴女という世界遺産が瓦礫に埋もれかけていたので、勝手ながら修復させていただきました」
「修復……?」
「ええ。貴女の時を動かすのが、俺の役目ですから」
キザだ。死ぬほどキザだ。
スラムの仲間が聞いたら、腹を抱えて笑い転げるだろう。
だが、今の俺は本気だ。
この最高級の熟女の前では、どんな言葉も陳腐になるなら、いっそ道化になるほどの愛を叫ぶのが正解だ。
エレオノーラは瞬きを数回繰り返し、やがて状況を理解したのか――いや、していなさそうだが――ふわりと微笑んだ。
その笑顔の破壊力たるや。
部屋中の照明が一斉に輝きを増したかと錯覚するほどの輝き。
「まぁ……。素敵な魔法使い様ね。身体が……とても軽いわ。あの重くて冷たい石が、全部なくなったみたい」
「魔法じゃありません。愛という名の技術力です」
俺が即答すると、背後でシルヴィアが「うげっ」という顔をしたのが気配で分かった。だが無視だ。
「……奇跡だ」
セバスチャンが震える足で歩み寄り、ベッドの脇に跪いた。その目には涙が溢れている。
「奥様……! おお、奥様……! よくぞご無事で……!」
「セバスチャン? そんなに泣かないで。私は大丈夫よ」
エレオノーラが慈愛に満ちた手つきで、老執事の頭を撫でる。
聖母だ。間違いなく聖母マリアの再来だ。
俺は確信した。この人のためなら、国の一つや二つ、解体して作り直してもいい。
「馬鹿な……あり得ない……」
現実を受け入れられないドクター・ガレンが、ふらふらと近づいてきた。
「認めんぞ……! そんな、手をかざしただけで治るなど……! 医学への冒涜だ! きっと一時的な幻覚か、何かまやかしを使ったに違いない!」
ガレンが俺の肩を掴もうとする。
俺は冷めた目で彼を見やり、その手首を軽く掴んで捻り上げた。
「……いっ!?」
「幻覚だと思うなら、テメェの眼鏡を叩き割って出直してきな。……それとも、自分の無能さを認めるのがそんなに怖いか? プライドってのは、結果を出した奴だけが持てるモンだぜ」
俺はガレンを突き放した。
彼はよろめき、尻餅をつく。その惨めな姿に、他の医師たちも沈黙した。
「クロノさん……」
シルヴィアが涙を拭い、俺を見つめている。
その瞳には、最初の警戒心は消え失せ、代わりに強烈な信頼と、ほんの少しの呆れ(変態発言に対する)が混じっていた。
「……ありがとうございます。貴方は、本当にすごい修理屋さんなんですね」
「言ったろ。俺は『愛せるもの』しか直さねぇってな」
俺はシルヴィアの頭をポンと撫でた。
育成枠にしては、素直でよろしい。
部屋は歓喜と安堵に包まれていた。
大団円。ハッピーエンド。
……そうであれば、どれほど良かったか。
俺は笑顔を崩さず、内心では冷や汗をかいていた。
ポケットの中に入れた右手が、微かに震えている。
(……チッ。思ったより根が深いぞ)
完治した? いいや。
俺がやったのは、あくまで「緊急処置」だ。
石化の原因となっていた「回路の逆流」は直した。だが、心臓に埋め込まれたあの「黒い核」そのものは、完全には除去できていない。
あれはただの魔道具じゃない。
生体部品だ。
エレオノーラの魂と、複雑に、強固に癒着している。無理に引き剥がせば、彼女の自我ごと崩壊しかねない。
それに、治療の最中、あの一瞬だけ見えた「何か」。
――深淵の奥からこちらを睨みつける、別の誰かの瞳。
(……エレオノーラの中には、まだ「誰か」がいる)
俺は楽しそうに娘と話すエレオノーラを見て、奥歯を噛み締めた。
この美しい器の中に、とんでもない怪物が同居してやがる。
修理完了の
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