燃える薔薇

ニワトリ

或る雨の日

 ローストされた珈琲豆の、香ばしい匂いが辺りに漂っている。

 6月某日の夜、外は連日の雨が止まずにいる。私がいえに来た時、白髪に顎ヒゲを蓄えた彼は淡い光を放つテーブルランプに身を照らされながら、薄暗い部屋でコーヒーを啜っていた。

 こうやって飲むのが彼の癖らしい。資料が汚れるからよした方がいいと言っても、頑固な気質の彼は未だにそれを続けている。


 彼の部屋は仕事関連の資料や本に埋め尽くされ、ベッドはもはや本の置き場所と化していた。数日前に私が訪れた時に片付けを手伝ったはずだが、もう元通りにしている。

 彼曰く「この方が落ち着く」のだとか。


「相変わらずだな。こぼしたらまずいといつも言っているというのに」

 私が笑いながら言うと彼もまた笑って語る。

「そうは言ってもやめられないのさ。今や人より本と過ごす方が多いんだ。片付けるとどうも落ち着かなくてな」

 外の雨でずぶ濡れになったレインコートを脱いだ私を招くように彼は椅子を引っ張り出してきた。

 しかし長居する予定は無いので遠慮しておいた。

 彼に会いに来たのはあくまで伝言を頼まれたからだ。

「今日はどんな用で――──」


 私の顔を見て、彼は何かを感じ取ったかのような曇った顔に変わった。

 彼と私はもう10数年の付き合いだ。言葉にせずともそういうことは感覚的に分かってしまうのかもしれない。

「…これを、君に」

 震える手で預かっていた電報を彼に差し出した。

 彼はすぐにひったくり、夢中で電報を読み進める。


 読み終わり、再度見直す。

 手を震わせながらまた読み返す、それをずっと繰り返し続ける。

 次第に彼の体は震え始め、やがて電報から目を離した。

 宛先は、私達が籍を置いていた軍隊からだった。


 それは、彼の心を地獄に突き堕とすには十分過ぎた。

 呆然と手紙を手に持ち、フラフラと部屋を出て、家の外に出ていく。


 私も彼の背中を追った。

 彼の心を映すように、黒い空からは大粒の雨が、無慈悲にアスファルトを打ち付けていた。

 レインコートも傘も持たず、彼は道の真ん中へと歩み立ち止まる。


 手紙を胸に抱えヘタリ込み、まるで獣のようにあたりかまわず泣き叫んだ。

 彼の体は寒さと悔しさに震え、絶えず張り裂けんばかりに叫び続けた。

 私はその様子を黙って見ていることしか出来なかった。


 手紙の内容────自身の教え子の訃報は、心身ともに疲弊した彼を殺した。


 彼は数年前まで、とある軍隊の教官をしていた。

 同じ隊の人間からは、鬼と形容されて恐れられながらも、皆から慕われていた。

 当時副官を務めていた私も、彼の厳しさには恐れを抱いていた。


 そんな彼が40を過ぎた時に、まだ若い新人の女兵士が入隊した。

 女は兵士としての自分に自信が持てず、教官である彼に何かと世話になっていた。


 彼は、それまでどんな兵士でも贔屓も差別もしない人間だった。しかし、女はそんな彼を少しづつ変えていった。

 次第に彼に心を開き、彼と女兵士は教官と部下という関係を逸脱した関係へとなっていった。


 やがて私たちは軍を退役し、女兵士は軍に残された。

 風の噂では、女兵士は前線にて多くの功績を挙げていると聞いていた。今度会う時には立派になった女兵士と会うことができる、再会が待ち遠しい。と彼とずっと話していたのを覚えている。

 

 ――その女兵士が、数日前に戦場にて命を落としたのだ。


 彼の無念は、自分にもはっきりと感じられる。

 私にとってもまた無念だった。

 暗い空の下、頬を流れたのは雨だけでは無かった。



「落ち着いたか」

 ようやく泣き止んだ彼に声をかける。

「…………」

「彼女の遺品を預かってる。落ち着いたら、取りに来てくれるか?」

 彼は沈黙を貫きながらも、小さく頷いた。

 自分は「ご馳走様」と彼に礼を行ってそのまま家を出た。


 3日経って彼は私の家を訪れた。

 その変わり様は顕著に現れていて、目は泣き腫らして赤く充血し、その下には寝不足の証が深々と刻まれていた。

 顔もどこか痩せたようで、彼からは以前のような荒々しい覇気を感じない。

 親しい者の死がこんなに人を変えるものなのだと改めて実感した。

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