第3話 鬼の女王小野雅子
俵田まちこと小野まちこが四首を出し終え、会場がざわめく。
そのざわめきの中で――雅子は静かに、深い闇へ沈んでいった。
〈雅子・心の声〉
「……ああ、この空気、似ている……あの日と……、歌が、わたしの人生すべてを生まれ変わらせた、あの闇と共に」
【回想】
第一回小野さくらコンテスト
「わが影を 踏まぬよう来よ 夕まぐれ こゑをひそめて 君をまつなり」
――静謐で、どこか祈るような相聞歌。
(まだ同性愛は公にできない時代。密かに後輩へ向けて詠んだとされる歌)
この歌が「第一回 小野さくらコンテスト」の頂点に立ち、尺八郎は初代チャンピオンとなる。
彼を慕う後輩の青年は、会場の片隅で涙をこらえていた。それは喜びというよりも、「自分との秘密だけを歌った」と幸福の涙だった。
(私は、当時は18歳の大学一年生で、同じ大学の四年生・尺八郎を応援していた)
まだ私は青かった。
天才小野さくらの娘として育ったが、自分の才能に確信が持てなかった。
そんなとき、大学の短歌研究会で出会ったのが――尺八郎。
穏やかで、容姿もよく、歌には陰影があった。
私はすぐに恋に落ちた。(先輩の言葉には、影と光が同時にある……私もこの人の隣で歌いたい……)
第一回・小野さくらコンテスト。優勝者は、迷いなく尺八郎だった。
その姿は堂々として、会場の視線を独り占めしていた。プリンス尺八郎時代の幕開けである。
――その夏の夜。
私は偶然、尺八郎の部屋に忘れ物を取りに行き、その扉を開けた。
「……先輩、忘れ物を……」
灯りの下で抱き合っていたのは、尺八郎と、水城みのり(同級生であり、ライバルの男の子)だ。
二人は驚き、振り返る。
「……雅子、ごめん……俺は君を愛せない……」
私の胸の奥が、音を立てて崩れた。
「……どうして……どうして言ってくれなかったの……? 私……恋人だと思って……」
「……言えなかったんだ。俺は、お前の母・小野さくらに憧れすぎていた……お前は“さくらの娘”で、どう接していいのか分からなかったんだ。お前の勘違いに気が付いたときにはもう遅かった」
私の世界は闇に堕ちた。
「……わたしは、あなたの何だったの……?」
答えは返ってこなかった。返せなかったのだ。
その夜、私は泣きながら母の元へ帰った。さくらは静かに扇をたたみ、私を見た。
「……雅子。恋は負けてもいい。でも、歌は終わらないよ!ここで逃げたら、二度と歌の世界に戻ってこられなくなる!」
「……でも、先輩には勝てない。私は、さくらの娘という重荷のままで……」
「そんな重荷なら、捨てっちまいな。鬼になるんだよ、雅子。」
母の声は静かだが、毅然と厳しく美しかった。
「鬼にならねば、歌の頂点には立てない。人を愛せば、足を掴まれる。歌だけを愛しなさい」
【第二回コンテスト:女王誕生】
四年後。
水城みのりは尺八郎と付き合ったまま、歌の力を徐々に落としていた。
その才能が恋の苦しみに飲まれていた。
そんな中、第二回・小野さくらコンテストがやってきた。
「決勝戦は、水城みのり vs 小野雅子!」
尺八郎は水城みのりのセコンドとして、二人を見ていた。
私は一度も彼を見なかった。
みのりは震える声で詠む。
「冬ざれて このよのひかり なくしけり すがるひとさえ 遠くなりけり 水城みのり」
会場がしんと静まる。
切ない。壊れそうな彼がいた。
その後、私は一歩前に出た。
「影くらう 鬼の心を 磨きつつ 母の名凌ぎ 今ぞ立ちたり 小野雅子」
――技巧の冴え、言葉の強靭さ、そして何より“勝つためだけ”に研ぎ澄まされた刃のような美。この歌が私を第二回の女王へ押し上げる。
会場の空気が凍りつき、震えた。
私は頂点に立ったと確信した。
そしてその夜。彼は、もう戻らなかった。
直接対決した尺八郎の後輩は、その夜、ひっそりと自ら命を絶った。
葬儀の日、私に向けて尺八郎は言った。
「おまえの歌は、たしかに美しい。だが――心がない。あいつを殺したのは、おまえだ」
私は涙を流さない。ただ唇を噛み、震える声で言い返す。
「鬼にならねば、勝てなかったのよ!」
私はこの瞬間を境に、“母・さくらの娘”ではなく、“鬼の女王 小野雅子”として覚醒した。
そして「心がない」という断罪が刻まれている。どっちが、と私は思う。
雅子はゆっくりと現実へ戻る。
俵田まちこの背後には――尺八郎。
〈雅子・心の声〉
「あなたはまだ、あの時の続きをやろうとしているの? 新しい“恋人”を王者にするつもり……?」
その嫉妬は、もう恋ではない。
“縄張り(テリトリー)争い”の本能に近い。
そして、雅子は笑った。
小野まちこはそんな母の背中を見て育った。
俵田まちこ――無垢で今をただ等身大の、“いまの少女が生きるやわらかな世界”を口語で歌う。軽い。かわいい。しかし「人を見る目」が深い。読む側の心を、そっと開かせる力がある。
俵田まちこ最後の一首。
「バス停で きみを待つ文 渡せない バスも君も通り過ぎてから 俵田まちこ」
「よっしゃ!」思わず柳棚は叫んで立ち上がる。
「彼女は今風のネット短歌を意識して、軽い調子で締めましたね。小野まちこの文語よりは若者の共感を集めると思います」
そう頭塚は解説する。
しかし、小野まちこの次の一首は誰も予想できない歌だった。
「さくら道 踏んで越えたの 車椅子 ただありがとう たんぽぽのわた 小野まちこ」
小野さくら自身が涙を拭いていた。
しかし、小野さくらはにこやかに笑っていた。鬼の女王雅子は立ち上がり席を立った。
「私は……勝つために鬼になった。この子は……人を読むために歌っているのね」
アナウンサーが余計な一言を言う。
「鬼の目にも涙ですか?」
「うっさい! 親子関係の歌なんて……」
葛原けい子はまちこの母に、一度だけ会った時にその「背負ったもの」を察してしまった。
そして、彼女は小野まちこの勝ちを確信した。
「まちこが勝った!」
「「どっちの?」」
技でも文語でもなく、血みどろの勝負の歴史でもなく、“素直さ”が、会場に届いた。
「歌は人を救う」という思想は、雅子にも尺八郎にも引き継がれなかった。
しかし二人のまちこは何気なく、そこを超えた。
まちこの歌が読み上げられたあと、小野さくらは微笑みながら思った。
尺八郎は悔しさで顔をゆがめる。雅子はすれ違いざま小声で言う。
「あなたも昔、誰かを救う歌を書いていたのにね。私たちの時代は、終わったのよ。」
その言葉は、彼への罵倒でも、敗北宣言でもない。もっと重くて、苦くて、優しい――“共犯者に贈る鎮魂歌”のようだった。
雅子は続ける。
「あなたも私も、技巧で戦った時代の最後の歌人。けど、もう違う。私たちはもう勝てない。」
尺八郎の喉が震える。反論しようとするが、言葉が出ない。雅子はそれ以上何も言わず、ただ背を向けて歩き出す。扉へ向かう足取りは、敗者でも勝者でもなく――ひとりの人間がそこにいた。
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