龍木

白原 糸

龍と人

龍木りゅうぼく〉とは天翔あまかける龍が命の終わりの近い時、地上に下りて木となる現象のことだ。

 木となった龍はまず、うろこから変わる。空の色を映し出す鏡のような鱗が乾いた木片のようになる。触れたら今にも崩れそうな脆い見目に変わるのだ。

 次に爪が地面に深く食い込み、その地に根を張るように、奥へ奥へと入り込む。鋭利な爪の面影は消えて、まるで木の根っこのような見目になる。見えない地面の下ではゆっくりと、木が根を張るように爪が枝分かれして広がるのだ。

 口元のひげは木の枝のように硬く変化していく。形は龍によって様々だ。時に体にまとうように、流れるように形を変えていく。

 頭部から背にかけて流れるたてがみは植物に似た見目に変わる。色が緑ではなく、白である為に分かりづらいが、専門家の調べで植物と同じ成分を持つことが五百年以上の年月を経て、ようやく分かったのだ。

 さざなみの音が聞こえる。

 木へと変化しつつある龍は生きている。さざなみのような呼吸を繰り返しながら、気の遠くなるような長い長い時を経て、〈龍木〉から〈琉木りゅうぼく〉となる。

〈琉木〉となって龍は初めて、龍としての死を迎えるのだ。

 さざなみの音が消え、森閑しんかんとする時まで地上に下りた龍は〈龍木〉のまま眠る。

 眼は常に閉ざされたまま、時折、思い出したように開いては虚空こくうを見つめる。

 他の部位は木に近く変わるのに、目だけは硝子がらすのようにせることがない。

 まれにしか見ることが出来ない為、〈龍木〉の目を見ることが出来た人には幸福が訪れると言われている程だ。

 そして――〈龍木〉の目は〈琉木〉になると硝子になると伝えられている。


 **

 波音が、聞こえる。

 海の呼吸なのか、龍の呼吸なのか、時折、分からなくなる。

 鳴島なるしまなぎは夢とうつつのあわいにいた。

 か細い呼吸を繰り返し、時折、痛みに呻きながら、虚空を見つめていた。

 ――空虚くうきょ

 く、う、きょ、と一字ずつ頭の中で区切りながら心の内で呟く。

 体は動きそうになかった。ただ、爆音でやられた筈の耳に聴力が戻りつつある。

 聴力の戻って来た耳に聞こえてきたのはさざなみの音だった。寄せては返すその波音を聞きながら、鳴島はどうにか体を動かせないか、試した。

 だが、動こうとすると激痛が走る。背中をやられてしまったのか、嫌なしびれを感じた。

 無理に動かすのはあきらめて、首をそうっと動かしてみる。首にも嫌な痛みが走るが、少しだけ動かすことは出来る。

 鳴島は首を左に動かしてみた。

 その時、鳴島は、見てはならないものを見た気がして、呼吸を止めていた。

(ま、さか)

 さざなみの音が聞こえる。

 このさざなみの、音は。

 途端とたん、鳴島は全身が硬直し、じわり、と背中から後頭部全体にかけてにじむような恐怖が広がるのを感じた。

(まさか……私は、〈龍木〉の上に落ちたのか……!)

 今すぐにでも起き上がり、その場から逃げだしたい衝動に駆られたが、そうすることが今の鳴島には出来ない。

 体が動かなかったことが幸いしたのか、〈龍木〉が牙をく様子はなかった。

 恐怖を逃がす為に意図して深い呼吸を繰り返す。呼吸をする度にあちこちが痛むが、我慢した。

 何度かの呼吸を繰り返し、自分の呼吸と龍の呼吸が溶け合った頃、鳴島はようやく、落ち着きを取り戻した。

 不思議なものだ。落ち着きを取り戻すと、見えなかったものが見えるようになる。

 ここはどうやら、どこかの森の中のようだった。手入れされている森なのかは起きあがって周囲を確認しないと分からないが、気持ちの良い光の入る森のように思えた。

 時折、吹き抜ける風に嫌な臭いを感じない。むしろ、甘やかな匂いをはらんだ風が頬の産毛を撫でるように通りすぎる。

(これは……金木犀だろうか)

 だが、存在を主張するように咲く花とはまた、違う匂いだった。

 鳴島は深く、息を吐きながら、目を閉じた。

 どうせ、動くことが出来ないのだ。ならばこのまま、身を任せるしかない。腹を決めた鳴島が眠りに落ちるのは早かった。


 **

 龍が下り立つことから〈天流之国あまのながれのくに〉と呼ばれる国は、四方よもを海に囲まれた島国である。

 数多の国と町、村によって成り立つこの国の総称でもあった。

〈天流之国〉は大きく分けて三つの国があり、後は周辺に町と村がある。

是納之国ぜなのくに〉、〈鬼母之国きぼのくに〉、〈伊武之国いぶのくに〉。この三つの国は、国の中心である帝国を決める争いが絶えなかった。

〈天流之国〉は代々、帝国が代わるが、千年前から長らく、帝国を名乗り続けているのが〈是納之国〉であった。

 帝国を名乗る国は〈くに〉との交渉権を得る。〈天流之国〉の王であることを名乗ることを許されるようになるのだ。

 だが、〈天流之国〉はけっして一つの国ではない。長らく内乱の絶えぬ国である為に〈天流之国〉が帝国を名乗る前は、王は常に変わり、法律も様変わりする不安定な国であった。

 そこに目をつけられながら〈外つ国〉に攻め滅ぼされなかったのは、四方を海に囲まれていたことが大きい。

 そして――龍の存在であった。

 龍はこの世において、最強の生き物である。

 〈是納之国〉、〈鬼母之国〉、〈伊武之国〉。この三つが強大な軍事力を持ちながら、未だに成せていないことがある。

 それは、空を飛ぶことであった。

 空を飛べば、龍が牙を剥く。

 空を飛べば、龍に食われる。

 空を飛べば――地に帰れと言わんばかりに龍に叩き落される。

 空はそら。天は龍の支配地であり、決して侵すことの出来ぬ領空でもあった。

 故に天を龍が支配する〈天流之国〉は空を飛ぶ夢を長らく、奪われ続けてきた。皮肉なことにそれは〈外つ国〉の侵略を防ぐ最大の要因にもなっていた。

 空から爆弾を落とそうとすれば、龍がはばむ。それどころが地上に落とされ、生きて帰ることは出来ない。

 ならば海から侵入するしかないのだが、簡単な話ではない。

 それは地上にある〈龍木〉の存在だ。

〈龍木〉は〈琉木〉となるまでに気の遠くなるような時間を要する。その間、全く動かないのかと言われるとそうではないのだ。

〈龍木〉となった龍は眠りに近い状態だと言われている。表現としては眠りに落ちる寸前の、眠りかけの状態に近いかもしれない。

 ともかく、眠りに近いのであって、眠っている訳ではないのだ。

〈外つ国〉では海が遠いのにさざなみの音がする時は気を付けろ、という言葉がある。

 龍は最強の生き物である。

 それは、〈龍木〉にも同様のことが言える。

〈龍木〉に触れた途端、さざなみの音は荒れ狂う波音へと変わり、大地が揺れる。眠りをさまたげられたことを怒り狂うように暴れ、触れた者の命は一瞬にして消え去ってしまう。

 後には〈龍木〉の暴れ回った痕跡が残るだけだ。

 だから、〈天流之国〉の人間は〈龍木〉に決して触れることはない。



 **

 さざなみの音が、聞こえる。

 故郷の波音によく似ていた。静かで、柔らかくて、心地の良い音だった。

 どこにいても、さざなみの音が満ちる町だった。人の声の傍らにはさざなみの音がある。時に岩をも砕く荒れた音に変わろうと、あの町の波音と言えば、静かなさざなみだった。

 部屋の天井に水面の光が反射する。さざなみの音がする度に揺れる光の水面を眺めながら、いつの間にか眠りに落ちるのが好きだった。

 今はもう、遠い日の記憶だ。


 目を覚ますと、雲が広がる空が見えた。薄青と薄紅が入り交じる空を眺めながら、さざなみの音を聞く。

〈龍木〉の呼吸に遠い故郷を見る。どうしてこんなにもあの波音に似ているのだろうか。〈龍木〉の上に居ながら、どうして生きられるのか、疑問は尽きなかった。

 それよりも鳴島の今の疑問は、自分の国のことだった。

(我が国は……勝てたのだろうか)

 千年にも渡り、帝国を名乗ることを許されたあの国は今、どうしているのだろう。

 そして、同期は。

 ――あなたは生きて!

 祈りを命ずるような、力強い声だった。

 優勢だった筈の〈是納之国ぜなのくに〉が〈鬼母之国きぼのくに〉の大砲に崩れ落ちていく。地面が爆ぜて、割れる。崖に追い詰められた鳴島は死を覚悟した。

 だが、その瞬間、鳴島は同期に投げ飛ばされたのだ。

 どこにあんな力があったのだろうか。同性同士とは言え、女性の力だ。それも、女性達の中では突出して身長と体重のある鳴島を、あの細い体をした同期が投げ飛ばせるとは思えなかった。

「……でも、投げた先が悪かったな」

 苦笑しながら言うと、背中に痛みが走る。

「……痛、く、ない」

 言い聞かせるように繰り返し、呟く。同期は、友は、由以子ゆいこは――目の前で死んだ。

 ぜる。爆ぜて、黒煙に消える。


「凪。私、死ぬなら、あなたに死んだ姿だけは見て欲しくないなあ」

 だって――と由以子は笑んだ。

「死んだ姿って悲惨ひさんでしょ。私ね、その姿を覚えて欲しくない。私を思い出す時は、綺麗なままであって欲しいの」


 そう言って微笑んだ由以子の、美しい笑顔を思い出せる。由以子の望みは叶ったのだろう。

 いつの間にか白くなった空から、白い花が落ちる。

「雪か……。私の命運もこれまでだね」

 雪は体の上に静かに落ちる。冷たさを感じるのに、寒さを感じないのは、どこか神経をやられてしまったからなのだろうか。

 いや、その前に――と思考を巡らせようとしたが、強烈な眠気が鳴島を襲った。

 必死に抗ったか、抵抗も虚しく、鳴島は深い眠りの底へと落ちていった。


 **

 鳴島が〈是納之国ぜなのくに〉に移り住んだのは、軍人である母に呼び寄せられたからだった。

 母は〈是納之国〉の帝国軍省兵務局の少将で軍人としては名をせた人だった。

 蒼い軍服のよく似合う生粋の軍人だった。

 父はいつも、母のことを勇猛無比な人と褒めていた。そして、命の恩人なのだと、笑んでいた。その理由は母を見れば分かる。

 母の顔は右半分が傷跡に覆われ、右足は膝から下がなく、義足を着けていた。

 父が〈龍木〉に巻き込まれそうになったところを助けた名誉の負傷だという。

 名誉の負傷とは言え、見た目に分かる大怪我の痕だ。しかし、母がそのことを気に病む様子を見たことはない。もしかしたらそういう姿を見せないようにしていたのだろうか、と思ったが、全く、そうではなかった。

 母はただ、軍人だった。あの人は、根っからの軍人だったのだ。父はそんな母を愛して、そして、帰りを待ちながら死んだ。

 一度は母を恨んだが、残念ながら鳴島も根っからの軍人だった。

 いや、軍人という言葉を盾に良いように言っているが、所詮、戦うことが好きなのだ。

 鳴島は母を恨んでいるのではない。自分を恨んでいる。父が待ち侘びながら生きているうちに故郷に帰らなかった自分を、恨んでいる。

 父は、美しい人だった。

 笑顔の美しい、人だった。

「あなたは父によく似ている」

 母はそう言って、一年前、父の後を追うように亡くなった。

〈鬼母之国〉との戦争の最中のことだった。戦争は終わらず、今は娘の鳴島が後を引き継ぐように帝国軍省兵務局の大佐として前線に立った。

 親の敵などという綺麗事ではない。

 ――綺麗事ではないのだ。


 目を開けると、周囲は淡い光に満ちていた。通り抜ける風はどこか温かく、そして優しかった。

 通り抜ける風は淡紅色の花びらを纏いながら空に吸いこまれるように消えていった。

 その奥にきらきらとしたものが見える。目を細めなくてもその正体はすぐに分かった。

「龍だ……」

 鏡のような鱗が日に反射して、天を泳ぐ度にきらきらと光る。気持ちよさそうに泳ぐ龍を前にして、鳴島は動けぬ自分の体を疎ましく思った。

 だが、不思議なことにあれだけ体をさいなんでいた痛みはすっかり消えていた。それなのに、体だけが動かないのだ。

 指一本動かせない。なのに、そのことに対する恐怖はなかった。

 故郷のさざなみに似た〈龍木〉の呼吸の音が心を落ち着かせているのだろうか。

 或いは。

(私はもう、死んでいるのだろうか)

 淡紅色の花びらが雪のように舞う。はらはらと落ちて、頬を撫でる。

 もがこうと足掻く体をなだめるように、眠気が訪れる。

「ま、だ、」

 なのに、抗えない。再びの眠りに引っ張られながらも、鳴島は最後まで抗った。


 **

 鼓膜が破れるような音と共に地が震え、鋭い何かが体の横に飛んでいった。

 あれが石の破片と気付くのに、時間はかからなかった。

 後方で爆ぜる音がして、人々の悲鳴が耳の奥を抉る。

 さざなみは牙を剥く波音と変わり、てんを貫くような咆哮が町を壊していった。

 煉瓦造建築の家並みは無惨にもなぎ倒され、地面が崖のように裂けていた。

 あれが〈龍木〉が動くのを初めて見た日だった。

 そして、故郷の町も同じように壊れたのだと突き付けられた日だった。

 龍はこの世において、最強の生き物である。

 だけど、龍はそらを侵さぬかぎり、人を傷つけることはない。

〈龍木〉は違う。触れたその瞬間に怒り狂い、暴れ出す。例え、わざとではなくとも、人が触れたその瞬間に牙を剥く。

 眠りを妨げられた〈龍木〉の怒りは凄まじいものだ。だから、〈龍木〉に触れようなどと思う人間はいない。

 それにもかかわらず、故郷の町は〈龍木〉によってなくなった。地形が変わったことでさざなみの音も変わり、二度と聞けぬ音となった。

 なのに〈龍木〉の呼吸の音は、故郷のさざなみの音によく似ている。


 突き刺すような光が目裏まなうらに落ちる。

 真っ赤な闇の隙間から射し込む光のあまりの眩しさに、鳴島は腕で光を遮るように顔を覆った。

 太陽が真上にあるのだろう。遮るものがないせいで太陽の光が鳴島の体の上に直に降り注いでいるのだ。

 辛抱堪らずに上半身を起こした時、鳴島は自分の体が動くことに驚愕した。

 痛みは全くなく、背中に走っていた痺れも見当たらなかった。あの気が遠くなるような激痛はどこへ行ったのだろう。

 信じられずに手のひらを見つめながら、結んで開いてを繰り返す。後遺症になりそうな痛みはやはり、見当たらなかった。

 だが、起きてから鳴島は青ざめた。ここは〈龍木〉の体の上だ。触れただけでも怒り狂い暴れ出す〈龍木〉の体の上にあるだけでも奇跡的なことなのに、振動を与えてしまってどうするのだろう。

 鳴島はおそるおそる、顔を左に向けた。

 そこには、あの日見た〈龍木〉の、目があった。

 体が木に近く変わろうとも、目だけは褪せることなく硝子玉のような光を見せる。

 海の深さを思わせる蒼い目が鳴島を静かに見つめていた。

 とても穏やかな目だった。

 ずっと見つめていると、どこか心許ない。鳴島は龍から目を逸らして、体を動かさないように周囲を見た。

 ここはやはり、人の手が入った森だった。

 光に満ちた森は地面の上に木洩れ日が落ちる。時折、吹き抜ける風によって煽られた木の枝が葉を揺らし、地面の上の木洩れ日の形を変える。

(どうして……)

 この〈龍木〉は暴れなかったのだろう。

 わざとではなくとも触れた時点で怒り狂い、暴れる〈龍木〉だ。上から落ちてきた鳴島は尚更に許されるものではなかった筈だ。

 鳴島は特別という言葉を信じていない。

 あなただけが特別だから助かった、あなただけが特別だから助けたなんて、嘘くさいにも程があると思っていた。

 それなのに自分は生きている。

 ゆらゆらと、喇叭のような花が揺れている。鳴島は自分の足元を見た。〈龍木〉の体を覆うように咲いているのは、凌霄花のうぜんかずらだった。

 目が覚めるような橙色の花が足元でゆらゆらと揺れている。

 その時、鳴島はああ、と気が抜けたように息を吐いた。

「……花の為か」

 そう言って鳴島は龍を見た。

 そうだ、と言わんばかりに〈龍木〉は一度、目を閉じた。


 **

 体中に仄淡い白色をした花を纏う〈龍木〉を、鳴島は地面の上から見上げていた。

 あの日、嗅いだ甘やかな匂いは金木犀ではなく銀木犀だったのだ。

 体を動かせない為に分からなかったが、〈龍木〉の体の上を覆うように咲いていたのだ。

〈龍木〉は時に体に花を纏うと聞く。しかし、この目で見たのは初めてだった。

 何故なら、大抵の〈龍木〉は花を纏うことはないからだ。少し触れただけでも怒り暴れ狂う〈龍木〉には鳥が止まり木にすることもない。故に種は龍の体に根付くことはなく荒々しい命の証を剥き出しにしたまま〈琉木〉となるまで花を纏うことはない、

 だけど、この〈龍木〉には花が咲き、鳥が止まる。今日は無数の雀が緩やかな弧をかいた龍の尾の先に並んでいた。

 雀のさえずる声を聞きながら、鳴島は〈龍木〉を長いこと、見上げていた。

 寄せては返す波音が聞こえる。これは故郷のさざなみの音だ。

〈龍木〉がまだ生きている証だ。鳴島は〈龍木〉の目を見た。瞼は下ろされていて海の深さを思わせるような目の色は見えない。

 鳴島は空に視線を移した。ここから見える空は意外にも狭いのにどこまでも行けそうな澄んだ空の色をしている。

「龍。聞いているか。空が綺麗だ」

 しかし龍はさざなみのような呼吸を繰り返すだけで呼びかけに答えることはない。

「目を開けて空を見ろ。あなたがこの先、見る空だ。綺麗な空だ。この空を支配していたあなたが羨ましいよ」

 支配、と言ってから鳴島は言葉に詰まった。

「いや……支配ではないね。空に雲と星があることが当たり前であるように、あなた達、龍は空にあるのが当たり前だ」

 鳴島は空に向かって深く、息を吐いた。

「私達は普段、空を空という。だけど、あなた達が泳いでいる時の空はそらになる。不思議に思うだろう? だけど、それは無意識の敬意なんだ。私は、あなた達の仲間に故郷を滅ぼされた。でも、恨んではいない。恨むべくは、〈龍木〉に触れた人間だ」

 だから――と鳴島は続けた。

「これからもその姿を見せておくれ。故郷の波音によく似た呼吸の音を……私に聞かせて欲しい」

 なんて人の身勝手な願いだろう。

 それでも、故郷の波音を、あのさざなみを聞ける場所が欲しかったのだ。

「……私は、答えない龍に何を言っているのだろうね」

 視線を下ろすと、不意に海の色と目が合った。

 深い深い、海の色だ。どこまでも深い海の蒼。穏やかで優しい色を湛えた瞳が鳴島を見つめていた。

 そうしてゆっくりと目を閉じた〈龍木〉は二度と、目を開けなかった。



 **

 か細いさざなみの音が聞こえる。

〈龍木〉の前には年老いた女性が杖を手に目を閉じて立っていた。顔には大きな傷があり、杖を持たない右手は義手であった。かつて軍人だっただろう女性は白くなった長い髪をひとつに纏め、鮮やかな空色の背広服を纏い、その上から丈の長い、黒い外套を羽織っていた。

 女性は〈龍木〉が発するか細いさざなみの音を聴いていた。さざなみはあまりにもか細く、時折、途切れてしまうが、女性はそれでも長いこと、〈龍木〉の前に立っていた。

 さざなみは女性の、今はなき故郷の波音を思わせる。二度と聞くことの叶わぬ故郷の波音は〈龍木〉が〈琉木〉となった時、初めて喪失するのだろう。

 さざなみの音が、聞こえる。

 耳を澄ませなければ聞こえないさざなみの音が聴力の落ちた耳に確かに聞こえる。

 女性はやがて目を開けると、皺の深く刻まれた目をゆっくりと細めた。

「……龍よ。聞いているか。私は年を取った」

 答えることのない〈龍木〉に向かって女性は口を開いた。

「体のあちこちに傷を作り、右手を失い、私は生きている。だけどね、私は私の傷を疎んではいない。今なら……母の気持ちがよく分かる」

 そうして女性は長い長いため息の後で続けた。

「私は退役した。今は軍人ではない。ただの年老いた人間だ。……国は相変わらずだが、私の頃よりは幾分かマシになっただろうよ」

 さざなみが途切れる。〈龍木〉に纏う花が揺れる。喇叭のような花が揺れていた。

「龍。聞いているか。空が綺麗だ。今も昔も空だけは変わりない色を見せてくれる」

 女性は顔を上げた。その目は空を、天を見つめていた。

 さざなみが聞こえる。故郷の波音に女性は微笑みを浮かべた。女性はその日を最後に姿を消した。


 **

 さざなみは、聞こえない。

〈龍木〉だった龍は〈琉木〉となり、 森に静けさが戻った。

 今ではあのさざなみの音を覚えている者はいない。

 今は森閑しんかんたる〈琉木〉が森の奥深くで四季折々の花を体に纏うように咲かせている。


 龍木 (了)

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龍木 白原 糸 @io8sirohara

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