私のエイバル

日ノ竹京

第1話

 人の思惑というものは、意外に目につくものだ。目線、口角、言葉の間、小さな指の動き。みなお互いの細やかな意思表示を拾いあって言外にコミュニケーションをしている。『ルルフィ』にこっそりアプローチをするためじゃなくて、ライバルを牽制するため、ときには手を取り合い、ときには裏切りあって、私を囲んで輪を作る。

 彼ら——まれに、彼女ら——の目的は私を手に入れることでありながら、もっとも熱心に取り組むのは私の目の前で同じ目的の同士と戯れることだ。


 それって面白いなって、思う。


 つまり私の前で友情を深めていく彼らは、私を友人との待ち合わせ場所にしているのと相違ないのかもしれない。私は実のところ観劇者なのかもしれない。

 彼らの精神と肉体を最大限に活用したコミュニケーションの中にいながら、私の肉体というのは彼らのコミュニケーションに参加していても、精神はけして介入を許されない。いないのと同じ、ということだ。

 それは私が始めに彼らに精神への介入を許さなかった結果でもある。


 ……ふむ……読んだ本に影響されているかも。


 『ドクター・ローレンスの念力キツネに学ぶ体と心のコミュニケーション』


 私はそういうタイトルの本を閉じて、顔を上げた。冬の風の寒さったらないのに、私たちは快晴の日なのをいいことに中庭の花壇のあたりに五、六人でたむろしていた。男女比は偏っている。


 花壇の霜の張ったレンガはお尻を冷やしたけれど、いつも私にくっついて回る同輩の女の子の体温のおかげで、右隣はぬくい。中庭を囲む外回廊をたくさんの学生が行き交っていく。


 私たちはみんな次の授業はどうとか、誰と一緒だとか、ルルフィに教えてほしいと言ったりだとか、うんと言ったりだとかしている。だけど私は生物学が苦手だった。私たちを動かす目に見えないくらい小さなものに、なぜ私たちに考えさせるのかと聞いても、それは応えてくれない。


「ねぇ、私、昼休みが終わる前に図書館に行かなきゃ。今日までに返さなきゃいけないの」


 私は本を掲げるように持ち上げて言った。また精神のコミュニケーションが肉体のコミュニケーションに隠れて行われる。


 いつも変な本読んでるね、と言った男の子は同時に組んでいた足を降ろして立ち上がろうとする。それを見て、もう一人立ち上がる。

 もう一人が立ち上がると、私の隣にいる女の子は必ずくすくすと笑いながら私の腕をしっかりと抱きしめる。「みんなで行くの?」と私は笑いながらみんなを見上げて言った。


 少し離れたところから、黒い髪の男の子が立ち止まってこちらを見ているのにそのとき気づいた。軽く後ろを振り返るような姿勢で、横目でつまらなさそうに私の友人たちを見ていた。

 私の視線に気づいたのか、彼と目が合ったので、私は微笑んで首を傾げて見せた。


「……ふん」


 エルフ。男の子は吐き捨てるようにそう言った。


「エルフ?」


 私は聞いたことのない言葉を繰り返す。そうしている間にも、彼は背を向けて歩き出してしまっていた。周囲の友達が変な顔をしてその男の子を振り返り、彼と私を交互に見比べる。

 どの詩にも、どの小説にも出てきたことのないその舌ざわりのいい言葉のことも、彼がそれで私をバカにしたらしいということも、私をニヤニヤさせた。


「ねぇ?」


 声をかけても、彼は聞こえなかったように校舎へ戻ろうとした。私は隣の女の子の腕をそうっと押しのけつつ、友人たちに挨拶をして輪の中から抜け出した。


「ねぇ、エイバル?」


 あまり知りもしない同級生を親しげに呼んでみる。たいていの人なら立ち止まってくれるところを、彼は振り返りもせずに歩き続けた。私は駆け寄って無理やり相手の隣に追いつく。


「ね……ぇ?」


話ながら早歩きしていると少し息が切れた。


「無視しないで?」

「返事する必要がない」

「それはお返事じゃなくて、屁理屈っていうのよ」


 彼は楽しいお喋りをする気もないのだと気づいて、私は強引に本題に入った。


「『エルフ』ってどういう意味? 私、勉強ならいろいろしたけど、エルフなんて初めて聞いたの。もの? 生き物? それとも——」

「うるせぇな、エルフなんか知るか、なんだっていいだろ」


 言葉を遮って突っぱねられる。彼はやっと足を止めて、勢いよく私のほうを振り返った。その耳にいくつも刺さっているピアスがぶつかり合って甲高い音を立てる。彼は怖い顔で私を見下ろして脅しかけるように言った。


「いつまでつきまとう気だ?」

「生物学は、一緒じゃない」


 私は軽く背伸びして、わざとらしく胸を張って言い返した。相手は虚をつかれたような顔をして廊下の先を振り向く。この先の曲がり角を行けば次の教室があった。


「ねぇ? あなたって生物学でよくいい成績を取ってるでしょう」


 私は奨学金を受け取るために、私より成績のいい子を授業別にみんな覚えている。図書館は放課後にでも行けばいい。


「私、生物学は苦手なの。次の授業、『エルフ』について教わってもいい?」


     * * *


「約束したじゃないか?」


 教室に来た友人が不満げに言う。私に生物学を教えてくれと頼んだ男の子だ。


「うん、でも、授業中にだってわからなかったの」


 私は嘘偽りなく、心の底からそう思って返事した。


「だから、今日の授業は彼から教わって、あなたにもっと詳しく教えてあげられるようにって。エイバルは、生物学が得意でしょう?」

「知らないよ」


 やや荒れた口調は突き刺すようだった。まぁまぁ、と別の友人が苦笑を浮かべながら私たちの間に入る。彼はちらりと私の隣で机に突っ伏すエイバルを見て、次に私を少し呆れたような目で見た。


「……ルルフィは勤勉だからね」


 友人は友人の肩を引き寄せるようにして、別の席へ向かった。ごめんねと言い損ねて、最後列の端から二番目の席から、私はしばらく黙って騒がしい教室の様子を見つめていた。

 時たま知り合いと目が合ったり、手をあげるくらいの軽い挨拶をする。始業のベルが鳴ったあと、それまで頑なに動かないで自分の肘を抱え込んでいたエイバルがもぞもぞと動き出した。


「……なんでまだここにいるんだ」


 片手で髪をかき混ぜながらため息交じりに言う。私は先生の声に隠れるように小さな声で、おはようと声をかけた。


「取り巻きの野郎どものほうに行けよ。僕の百倍は歓迎してくれるらしいぜ」

「あら、聞いてたの?」


 私がうふふと笑うと、彼はノートや筆記用具を広げつつ、「真横で楽しそうにお喋りされちゃ、そりゃ、嫌でも」と嫌味っぽく言った。


「……聞いてたのに、授業が始まってからそう言うのね」


 私が思わず恨めしくこぼしてしまうと、エイバルはばっと私を睨みつけてきて、次の瞬間にはぷいっと体ごと反対を向く。机に頬杖をつき半身私に背を向けて突然教科書を開き始め、もう〝会話、お断り〟という姿勢だ。


「……ごめんなさい」


 私は少し身を乗り出して、彼の表情を伺おうとした。


「私、あなたに迷惑をかけるつもりはなかったのよ。ただ、私が知らないことをあなたが知ってたから、それを教えてほしかっただけで……」

「……」

「……、……」


 私は諦めて、教科書とノートを開いた。なんだか、あらゆることがうまくいかなかった。机と学生の向こうでは、教師が本格的に今日の内容を始めようとしていた。


 その瞬間、突然教室の後ろの扉が開いて、男子生徒が駆け込んでくる。


「うわー! すみません、遅刻しましたー‼」

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2025年12月9日 20:00
2025年12月10日 20:00
2025年12月11日 20:00

私のエイバル 日ノ竹京 @kirei-kirei

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