運命の出会い — 推し活の始まり

王宮文官局の廊下は、朝からひんやりとしている。

陽光が差し込むたび、淡い金の筋が床に伸び、壁に飾られた細密画の額縁を静かに照らした。


その中を、リリーはそわそわと歩いていた。


(……落ち着け……落ち着け私……!)


胸に手を当てて深呼吸をしてみても、心臓はちっとも静まってくれない。


今日から本格的に新しい職場へ異動し、業務を始める。

それだけなら、ただの緊張で済むはずだった。


——しかし。


(伯爵家から来る文書担当が……レイ様って本当……?ましてや、自分が伯爵家専属の文書補佐に配属されたなんて!?)


上司からそう聞いた瞬間、リリーは二度見し、三度目には机に突っ伏し、四度目に死んだ。


もちろん物理的には死んでいない。

しかし精神的には数回往復した。


“レイ様”——

アーデルハイト伯爵家執事で、副官としても文武に優れた青年。

端正な顔立ち、落ち着いた物腰、的確な判断力。

そして声が良すぎて王宮内にファンがいるほど。


リリーはそんな彼を、前世より「推し」として心の片隅に祀り上げている。


推しとの再会。

それは喜ぶべきイベント……のはずなのに。


(いやいやいやいや……無理……! 直接会って、言葉なんて交わせるわけ……!)


この三年、リリーは文官見習いとして王宮で働く中、レイを見たことがなかった。

しかし、昨日ついに出会ってしまった結果、尊さによる精神損傷で帰宅後に数時間寝込んだ。


そんな存在と、今後は同じ部屋で、書類のやり取りをする。


「……死では?」


ぼそっと呟いたのを、誰かが背後で聞いた。


「え、今日の初業務で死ぬつもり?」


「ひゃい!?」


ビクッと振り向くと、同僚のアンネが腕を組んで立っていた。長い黒色の髪をサッと後ろに払い、目を眇める様子はまさにクールビューティー。


でも、その見た目に反して、面倒見が良く、私はいつも助けてもらっている。

唯一、親しくしてる同僚と言っても過言ではない。


「リリーの事務処理能力なら十分大丈夫でしょう。それに、私の方がここに半年早く配属されてるから、ある程度のことなら教えられるし」


「あ、ありがとう…でもね、違うの。いや、仕事内容も確かに私にこなせるかなって心配なんだけど…」


「じゃあ何が不安なの?」


「レイ様が実は推しなの」


「推し?あぁ、好きなの?あの方人気だもんね」


「恋愛的に好きとかそういうのではないんだけど、昨日一言話しただけで、夜も眠れなくて…結局1時間しか今日寝れてないの。あまりにも尊すぎて私の存在が消えてしまう…」


「え、そこまで!?推し耐性、あまりにも脆弱すぎない?推しを見るとHPが一瞬でゼロになる体質って何?普通回復するんじゃないの?」


「し、仕方ないじゃん……推しなんだから……!」


「開き直られても」


アンネは深いため息をついたあと、友人としての慈悲深い視線で続ける。


「じゃあ、私があなたが暴走しないように見張ってあげる」


「ほ、ほんと……!?」


「レイ様関連のときだけ、おかしくなるかもしれないってことでしょ?前の部署では助けてもらったし、これくらいならいいわよ」


「ありがとう…!」


アンネの手をとり、両手で握りしめる。


アンネはリリーの肩を軽く叩いた。


「大丈夫。仕事はできるんだから。それにレイ様も伯爵家での仕事があるから、いつもいるわけじゃないし。あとは突然推しに会っても倒れない根性だけよ」


「難易度が高い……!」


午前十時。

王宮文官局の執務室。


カーテン越しの柔らかな光の中、同僚たちは黙々と書類に向き合っている。

リリーもその一人——のはずだったが。


(……きた……!?)


扉の向こうから、規則正しい足音が響いた。


ざわっ……と室内の空気が揺れる。


「アーデルハイト伯爵家より、文書担当のレイ・アーデルハイト様が——」


「失礼します」


アナウンスより一瞬早く、落ち着いた青年の声が響いた。


扉が静かに開き、黒い上着に身を包んだレイが姿を現した。


その瞬間。


(っ……!)


リリーの肺が完全に呼吸を忘れた。


視界の中で、彼だけが過剰に輝いて見える。

朝日の光が、彼の淡い琥珀色の瞳を照らし、髪の端に柔らかな金の縁を作っていた。


こんな演出、聞いてない。


「本日の文書をお届けにあがりました。追加の照合がありますので、担当の方にご説明を」


レイは淡々と告げ、整った所作で机に書類を置いた。


優雅。

無駄がない。

それだけで観賞用。


(無理……動悸が……)


アンネが後ろで、

「深呼吸して……ほら……!」

と目で訴えてくる。


しかしリリーの鼓動は速くなるばかり。


そんな彼女に、追撃が飛んだ。


「新たに今日異動された方がいらっしゃるとお伺いしているのですが……リリー・エストレア嬢はお見えですか?」


「ひっ!?」


レイの視線が、まっすぐリリーを捉えた。


(え、ちょ、名前呼んだ!? 推しに……名前……!?)


外見は無表情を保っていたが、内心の動揺はもはや地震だった。


「君が担当者と聞いたので」


落ち着いた声。

静かに微笑むか微笑まないかの絶妙な表情。


リリーは、なんとか立ち上がる。


「は、はいっ……! あ、あの……書類を……!」


「ではこちらへ」


レイが軽く首を傾け、手で示した。

その仕草がまた自然で、優しくて、絵になりすぎて、殺傷力が高い。


席を立ったリリーがふらつくのを、アンネが背中から支えた。


「リリーしっかり……! ここで倒れたら一生ネタにされる!」


「し、死んだら……どうでもいい……!」


「死ぬ気満々なのやめて!!」


同僚たちはそのやりとりを遠巻きに眺めながら、ざわざわと囁き合う。


──「リリーさん、顔赤くない?」

──「いや、あれは赤い通り越して白い」

──「ていうかレイ様、なんか距離近くない?」

──「え、これ……まさか……?」


その視線すべてが刺さってくるようで、リリーは余計に震えた。


部屋の隅にある小さな打ち合わせ机に、二人で向き合って座る。


距離、近い。

近すぎる。


(こんな……2メートル以内……いや1メートル未満……尊すぎて……)


レイは書類に目を通しながら、淡々と説明を始めた。


「ここの数字が少し相違しているので、照合をお願いします。こちらは伯爵家の控え」


「ひゃ、はい……!」


近い距離で声を聞くと、破壊力が数倍になる。


低すぎず、高すぎず、淡々としているのに柔らかい音色。


推しの声に脳がバグる。


(いや、こんなの本当に無理……! 情報過多……!)


震える手で紙を受け取ろうとした瞬間、指先が少し触れた。


その0.2秒の接触に、リリーは寿命が5年縮んだ。


「大丈夫ですか?」


レイが静かに首を傾けた。

その動作がとてつもなく優雅で、また寿命が縮む。


「あ、あのっ……緊張していて……」


「緊張?」


レイは少し目を瞬かせ、ほんの僅かに表情を和らげた。


「僕は何も怖いことはしませんよ?」


(いやいやいやいやいや!

 その優しい声色が! 怖いどころか尊すぎて危険なの!!)


そんな叫びは飲み込み、リリーは小さく首を振る。


「い、いえ……!」


「では、ゆっくりで構いません。あなたの ペース に合わせます」


優しい。神!神がここにいる。私の存在が消滅してしまう。


アンネが遠くから、

「リリー……落ち着いて……」

と唇の動きだけで伝えてきたが、落ち着けるわけがない。


レイは本当に気付いていないらしく、誤解を生むほど自然体だ。


「困ったことがあれば、遠慮なく言ってください。あなたの負担にならないようにします」


そう言って、穏やかに微笑む。


それだけで。


マジで、死ぬ。


(なんで……なんで推しは……こんな自然に優しいの……)


リリーは紙を見つめるふりをしながら、必死に呼吸を整えた。


部屋の隅では同僚たちが、耳をそばだてている。


——「レイ様、あんなに優しかったっけ?」

——「いや、元々優しいけど……なんか“個人的な優しさ”っぽくない?」

——「リリーさん、なんかすごい人生始まってない?」


その視線に気付かず、レイは淡々と続けた。


「エストレア嬢。あなた、緊張で指先が冷たいですよ」


手を取られた。


――終わった。

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異世界転生したら前世の推しが完璧執事として存在していました。 しかも私にだけ態度が甘すぎて、尊みで寿命が足りません! もちのき @60x09

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