2話「道化師の休息」
足音は、階段を一段一段、踏みしめるみたいに近づいてきた。
ぎい、ともう一度、鉄の扉が鳴る。
私は、片手でベンチの縁をつかんだまま、動けずにいた。
昼休みの終盤。
お弁当はもう食べ終わっていて、空になった弁当箱は足元の鞄の中にしまってある。
透明になりたい、と思ってここに来たのに。
こういうときだけ、ちゃんと「いる」ことを思い出させられる。
扉の隙間から、制服の袖と、ぐしゃぐしゃに結ばれたネクタイが先に現れた。
続いて、無造作に伸びた前髪と、少し眠たげな目。
「あ、あれ。先客いたか」
予想よりも、ずっと軽い声だった。
私より少し背の高い男子が、扉のところで立ち止まる。
片手で後頭部をかきながら、きょとんとした顔でこちらを見ている。
私は反射的に、膝の上で両手を組んだ。
「あ、ごめんなさい。私、もうすぐ戻るので――」
思わずそう口にしてから、何に謝っているのか自分でもわからなくなる。
屋上は、別に私のものじゃないのに。
「いやいや、全然。俺が勝手に上がってきただけだし」
男子は慌てて両手を振る。
その動きだけ妙に大げさで、ちょっとしたコントの一場面みたいだった。
笑っている。
ちゃんと、誰が見ても「感じのいい笑顔です」と評価しそうな、完成された笑い方。
でも、その笑い声の芯のほうで、何かがきし、と鳴った気がした。
気のせいかもしれない。
世界のきしむ音と、誰かの笑い声の軋みとを、私はたまに聞き間違える。
「ここ、座っててもいい?」
そう言って、彼は私から少し離れたベンチの端に腰を下ろした。
私と彼の間に、かろうじて一人分くらいの空白。
何も食べ物は出てこない。
彼も、もう昼食を終えた後らしく、ただポケットに突っ込んだ手を揺らしているだけだ。
「えっと……」
声をかけるタイミングを失った私の代わりに、彼のほうが先に口を開いた。
「有明さん、だよね?」
心臓が、一瞬だけ変な方向に跳ねた。
「……はい」
なんとか返事を絞り出すと、彼は「やっぱり」と言って笑う。
「俺さ、席、後ろなんだよ。有明さんの」
「……あ」
「黒板見ようとすると、だいたい視界の端っこにいるからさ。『あ、今日もいるなー』って」
それは、もう少し具体的な「そこにいる」の証拠みたいに聞こえた。
ちょっとだけ、むず痒い。
「俺は金木。金木蓮」
知っている。
クラスの真ん中で、よく笑っている人。
よく喋って、よくいじられて、よく場を持たせている人。
でも私は、そのことをそのまま口には出さなかった。
「……知ってます」
代わりにそれだけ言うと、金木くんは「だよねー」と肩をすくめる。
「まあ、うるさいからな、俺」
自覚はあるらしい。
しばらく、風がフェンスを鳴らす音だけが続いた。
私はベンチの端を指先でなぞる。
そこに、さっきまで弁当箱の角があった感触だけが残っている。
「さっきさ」
不意に、金木くんが話を切り出した。
「購買行ったらさ、トーストっぽいパン、売り切れてたんだよ」
「……トーストっぽい、パン」
「あるじゃん、あの、表面カリカリの。あれ目当てだったのにさ。目の前でラスト一個かっさらわれてさ。世界、機嫌悪くない?」
耳が、ぴくりと動いた気がした。
世界。
機嫌。
さっき、自分が朝のトーストに貼ったラベルと、同じ言葉。
「……今朝、パン、ちょっと焦げたんです」
自分でも驚くくらい唐突に、言葉が口からこぼれた。
金木くんが、こちらを向く。
「へえ」
それだけ言って、彼は私を見る。
興味があるのかないのか、よくわからない目。
でも、少なくとも笑い飛ばす気配はない。
「それで、ああ今日は世界の機嫌が悪いんだなって、思って」
ここまで言ってしまってから、「しまった」と思う。
普通は笑うところだ。
世界とか、機嫌とか、そんな大げさな言葉をトーストにくっつけて語り出すやつは、ちょっと変だ。
だから、先回りして自分で笑ってしまおうと口角に力を入れかけたとき――
「わかるかも」
彼のほうが先に、ぽつりと言った。
「えっ」
「なんかさ、一個ズレるとさ。全部ズレる感じの日ってあるじゃん」
彼は身振りを大きくしながら、空中で何かを並べていくみたいに手を動かす。
「靴下、片方だけ裏返しに履いちゃってることに途中で気付いた日とか」
「……」
「チャック開いてたのに一時間くらい気付かなかった日とかさ。『今日のお前、そういう日な』って世界に宣言されてる感じ」
例えが微妙に生々しい。
「そういうとき、別に世界のほうは何もしてきてないんだろうけど、なんかさ、『お前、今日そういう日ね』って決められてる気しない?」
私は、少しだけ息を吐いた。
「……します」
「だよなー」
彼はそこでようやく、ちゃんと笑った。
今度の笑いには、さっきまで教室で聞いていたような「観客のための音」が少し薄い。
気がする。
◇
「でさ、そういう日ってさ」
ベンチの背もたれに片腕を引っかけながら、金木くんが続ける。
態度だけは、どこか舞台の上の役者みたいだ。
「大体、教室もうるさくない?」
図星だった。
私は、小さく頷く。
「……うるさかった、です」
「でしょ。なんなんだろうな、あれ。別にいつものメンバーで、いつもの会話のはずなのにさ」
たとえば、昨日まで普通の音量で聞き流せていたBGMが、
突然、耳元にスピーカーを押し付けられたみたいになる日がある。
「それでさ。気付いたら俺、教室の真ん中でいつも通りバカやってて」
右手の形が、わずかに変わった。
何かを握りしめるみたいに、指先にだけ力が入る。
一瞬だけ、苦しそうに眉を寄せたように――私には、そう見えた。
そこで彼は、少しだけ言葉を切った。
視線を空に投げる。
雲の切れ間からのぞく、どうでもいいくらいの青空。
「……戻りたくねえなあって、思って」
その一言だけは、さっきまでの軽い調子よりも、少しだけ重かった。
凍った空気の上に、慎重に置いたみたいな声。
私は何も言えずに、ベンチの端を握り直す。
指先に伝わる冷たさと、自分の体温の境目が、やけにくっきりしている。
「ま、でも戻るんだけどね。結局」
すぐに彼は自分の言葉を冗談で包み直した。
ベンチから勢いよく腰を浮かせて、わざとらしく肩を回してみせる。
「サボりぐせつくと、あとあと面倒だし。内申点とか、そういう大人の事情?」
そう言って笑う口の端で、何かがひび割れる音がした気がした。
たぶん、それは私の気のせいだ。
私の世界は、基本的に何にでもすぐひびを見つける性質をしているから。
「有明さんはさ」
不意に名前を呼ばれて、心臓がまた変な跳ね方をする。
「なんで屋上?」
なんで、と聞かれても。
教室が無理だったから。
世界のきしみ方が、今日の教室は特にひどかったから。
ここなら、少しだけマシだから。
言葉にしようとすると、どれも大げさか、あるいは言い訳みたいに聞こえる。
「……静かだから、です」
それだけを、選んで口にした。
金木くんは「そっか」とうなずく。
「俺も静かなとこ、わりと好きだよ」
「……そうなんですか」
「うん。うるさいの、嫌いだから」
教室の真ん中で一番うるさい人が、それを言うのは少し反則だと思う。
思ったけれど、口には出さなかった。
沈黙が一つ、二つ、積み重なる。
それでも、教室の沈黙よりは、ここに流れる無音のほうがずっと息がしやすい。
そのとき――
キーンコーン、カーンコーン。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
世界にとっては、ただの機械的な合図。
でも私には、「時間切れだよ」と肩を叩いてくる音に聞こえる。
「うわ、マジか。早」
金木くんが、軽く伸びをして立ち上がった。
「じゃ、戻りますか――って言いたいとこだけど」
そこで一度、言葉を切る。
空を見上げて、少しだけ考えるふりをする。
「……戻りたくねえなあ」
さっきよりも、ほんの少しだけ素の声で。
その横顔は、まだちゃんと笑っていた。
でも、さっき教室で見たときよりは、ちょっとだけ「力の抜けた顔」に見えた。
「ま、戻るけどね」
もう一度、自分で自分の言葉をなかったことにするみたいに言う。
「一緒に入ると、いろいろ面倒だからさ。俺、先戻るわ」
「……はい」
「またな、有明さん」
ひらりと手を振って、彼は屋上の扉へ向かった。
鉄の扉が閉まるときのぎい、という音が、やけに長く耳に残る。
私はベンチに座ったまま、その音が完全に消えるのを待ってから、ゆっくりと立ち上がった。
世界のきしみは、さっきよりちょっとだけマシになっているような気もするし、
さっきより余計にひびだらけになっている気もする。
どちらにせよ、予鈴はもう鳴り終わった。
「……教室に、戻らないと」
小さくつぶやいて、足元の鞄を持ち上げる。
屋上で一度脱いだ顔を、もう一度かぶり直すみたいに、
私は「透明な生徒」の表情を探しながら、扉のほうへ歩き出した。
◇
画面には、緑色の吹き出しがいくつも並んでいた。
トークルームの名前は「ごみ箱」。
メンバーの欄には「金木 蓮」と一行だけ表示されている。もちろん、僕だ。
指先で少しスクロールすると、昨夜の遅い時間から、今日の昼休みにかけて送られた言葉の羅列(ログ)が目に入る。
[昨日 23:45]
《恥の多い高校生活を、いまだ更新し続けている。》
[昨日 23:46]
《自分でも呆れるほど、僕は「人間」という生き物が怖くてたまらない。》
[昨日 23:50]
《あいつらは、さっきまで笑顔で話していた相手の背中に、平気で唾を吐くことができる。昨日の正義は今日の悪で、その逆もまた然り。》
《ルールブックのないゲームを、みんな当たり前のような顔をしてプレイしている。》
[本日 08:20]
《だから僕は、道化を演じることにした。》
《殺されないための、精一杯の擬態だ。》
……そして、つい数分前。
あの教室から逃げ出した直後の時刻が、刻まれている。
[本日 12:35]
《教室の中心。僕は笑った。みんなも笑った。》
《彼らが笑っている。僕を無害なバカとして受け入れている。》
《その事実だけが、今の僕をつなぎとめる命綱だ。》
[本日 12:37]
《僕が彼らを軽蔑し、同時に死ぬほど怯えている異物だということがバレたら、最後だ。》
《僕はここにはいられない。》
[本日 12:38]
《……限界だ。》
《笑ってるあいつらの顔が歪んで見える。》
《酸欠になった金魚みたいに、口がパクパクしそうだ。》
《気持ち悪い。》《吐きそう。》
僕は道化の仮面が剥がれ落ちる寸前で、逃げるように席を立った。
こうやって画面の中に吐き出しておけば、この緑色の吹き出しが、僕の代わりに少しだけ苦しみを引き受けてくれる気がする。
誰にも届かない、既読のつかない言葉たち。
『透明になりたい私と「ごみ箱」に本音を捨てる君』 ななくさ @mimimiminanami
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