『透明になりたい私と「ごみ箱」に本音を捨てる君』

ななくさ

1話「きしきし鳴る朝」

 パンを焼きすぎたのは、私のせいじゃない。

 いつもと同じ朝、いつもと同じ時間。


 それでも今朝の食パンは、端っこがうっすらと茶色を通り越して、灰色に近い焦げ色になっていた。

 トースターの前に立って、私はしばらく固まった。


 焦げた匂いが、狭いキッチンにじわじわ広がっていく。


 ――ああ、今日は、世界の機嫌が悪い日だ。


 そう思った瞬間、胸の奥で、見えない何かがぎし、と鳴った。


 カチ、とトースターのレバーを戻しながら、私は焦げ目を指先でつつく。

 指の腹に、カリ、と小さな手応え。


 わずかに行き過ぎた焼き加減ひとつで、世界の歯車全体がきしみ出すような気がする。


 両親はもう出勤していて、リビングは空っぽだ。

 ニュースだけが、誰にも見られないまま喋り続けている。


 曇り空の映像。

 事故のテロップ。

 アナウンサーの声が、妙に乾いて聞こえる。


 私は焦げた部分だけをそっとかじってみる。


 ――うん。今日はやっぱり機嫌が悪い。


 舌の上で広がる苦味と、喉に引っかかる粉っぽさ。

 それだけのことで、一日ぜんぶが少し濁って見える。


 そういうふうに出来ている。私の世界は。


 駅までの道は、いつもより人が多い気がした。

 実際には、きっとそんなことはないのだろう。


 でも、傘をたたんだばかりの人たちの湿った匂いと、まだ乾ききっていないアスファルトの匂いが混ざると、一段とうるさくなる。


 電車に乗る。


 ドアの近くに立って、窓ガラスに映る自分の顔を眺める。


 寝癖は、まあ許容範囲。

 前髪は、ギリギリ目にかかっていない。


 そこに映っているのは、「有明 夕雨」。


 制服。

 黒いカバン。

 肩にかからない程度の髪。


 ――ありあけ、ゆう。ではなくて、ただの「女子高生」という首輪のついた何かだ。


 この電車の中には、きっと同じような人形が何十枚も乗っている。

 「会社員」「学生」「主婦」「観光客」。


 私も、そのどれかの一枚になってしまえたら、どれだけ楽だろう。


 特別じゃなくていい。誰の視界にも引っかからない、教科書の図の、端っこに小さく描かれた風景の一部。


 ――透明になりたいな。


 そう呟いたつもりだったのに、声には出ていなかったらしい。


 隣の人はスマホから目を上げもしないし、ガラスの中の私は、口ひとつ動かしていなかった。


 きしきしと耳鳴りのする日は、特に強く思う。


 消えてしまいたい、ほどじゃない。

 そこまで劇的な勇気も、ドラマチックな事情も持ち合わせていない。


 ただ、視界の中から、そっとフェードアウトしていたい。

 誰にも気付かれないまま、輪郭が薄くなっていくように。



 ホームルームが始まる前の教室は、いつも――うるさい。


 椅子を引きずる音。

 机を叩く音。

 笑い声。

 誰かの名前を呼ぶ声。


 スマホのシャッター音みたいな短い笑いと、説教臭い溜息と、意味のない歓声。


 全部まとめて、「雑音」という札を貼ってしまうには、ひとつひとつが妙に具体的で刺さる。


 私は、窓側の一番後ろから二番目の席に座って、その雑音が通り過ぎていくのを待つ。


 窓の外には、校庭と、少し低い位置に見える灰色の雲。

 ガラスの向こうの空は、何も喋らない。

 そこだけが、ほっとする。


「なあなあ聞いてよ、昨日さ――」


 前の方から、わっと笑いが起こる。


 クラスの真ん中あたり。

 机をくるりと回して、何人かで小さな円を作っているグループ。


 その中心にいるのは、いつも決まった一人の男子だ。


 名前は、知っている。


 私の、すぐ後ろの席。

 点呼のときに、毎朝聞く声。


 ――かなぎ、れん。


 その響きには、教室の空気を明るくする魔法が含まれている。


 彼は、よく笑ってよく喋る。ふざける。


 椅子に片足を乗せて、大げさな身振りで何かを演じてみせる。


 聞こえてくるのは、たぶん、自分の失敗談か何かだ。

 内容はよく分からない。


 けれど、それが誰かを名指しで貶めるようなネタじゃないことだけは、空気でわかる。なぜか教室全体が、毒のない色でちょっと明るくなる。


 笑い声に合わせて、世界の音量が一段階上がる。

 それが、私にはうるさすぎる。


 黒板の端の時計が、秒針を一つ進める。

 カチ、と静かな音を立てる。


 私の耳は、そっちのほうに救いを求める。


 笑い声なんて、聞かなくていい。

 聞いたところで、私には何一つ関係ない。


 私は教科書を開くふりをして、そのページの文字が目に入らないように、視線を少しだけぼやかした。


 昼休みのチャイムが鳴ると、教室の音はさらに肥大化する。


 机を寄せる音。

 弁当箱の蓋が開く音。

 中身のない同意と、反射的な感嘆詞の連打。


 ああやって声を揃えておけば、安心なんだろうな、と少しだけ意地悪く思ってしまう。


 世界が、本気で私を消しにかかっているみたいに思える瞬間だ。

 別に誰も、私に向かって何かをしているわけじゃない。

 それでも、音そのものが攻撃に感じる日がある。


 今日は、そういう日だ。


 弁当を持ってきたはずの手が、勝手にカバンの中を探る。

 水筒。

 ハンカチ。

 筆箱。


 ――ああ、もう無理だ。


 心の中でそう呟いて、私は立ち上がった。


 誰も私を見ない。

 誰も私が席を離れることに気付かない。


 それでいい。


 教室の後ろのドアを静かに開けて、廊下に出る。


 階段を上がるたびに、きし、と足元が鳴る。

 校舎全体が、膝に手をつきながら無理やり立っている老人みたいに軋む音。


 三階。

 四階。

 さらにその上。


 最上階の踊り場には、「立ち入り禁止」のプレートがぶら下がっている。

 でも、昼休みには誰も見ていないし、鍵もかかっていない。

 私はプレートをそっと横に押しやると、鉄の扉の取っ手に手をかけた。

 冷えた金属の感触が、指先から肘までを一瞬で冷やす。


 ぎい、と扉が開く。


 屋上は、思ったより明るかった。


 コンクリートの床。

 少し低めのフェンス。

 遠くに見える住宅街の屋根。


 雲はまだ厚いけれど、さっきより少しだけ白っぽくなっている。


 風が、制服の裾をそっとめくっていく。


 ここにいると、世界のきしむ音が、ほんの少しだけ遠のく。


 完全に消えるわけじゃない。教室の雑音よりはずっとマシだ。

 私はフェンス近くのベンチに腰を下ろして、弁当箱を開けた。


 中身は、いつもとほとんど変わらない。

 卵焼き。

 冷凍食品のからあげ。

 隙間を埋めるブロッコリー。


 フォークで卵焼きをつつきながら、さっきの焦げたパンを思い出す。


 ――死にたいって言うほど、私は追い詰められてはいない。


 卵焼きをひとつ口に入れて、噛む。

 少し甘い味が、舌の上でゆっくり溶ける。


 今朝のニュースみたいに、誰かが亡くなったわけでもない。

 家が燃えたわけでも、戦争が始まったわけでもない。


 私の不幸なんて、多分、世界の統計に入れる価値もないくらい小さい。


 だから「死にたい」なんて言ったら、きっと笑われる。

 大げさだねって。

 もっと大変な人はたくさんいるよって。

 慰めとも説教ともつかない言葉で、塗りつぶされる。


 それが怖くて、「死にたい」と口にする勇気なんて、最初からどこにもない。


 じゃあ、「生きていたいです」と胸を張って言えるかといえば、それも違う。

 積極的にこの世界にしがみつきたい理由が、今の私には見当たらない。


 ――だから私は、多分、どこにも行けないのだと思う。


 死にたいと言うには足りない。

 生きたいと言うには、ちょっと足りない。


 その中途半端な場所に立っている人間は、いったいどこへ行けばいいんだろう。


 フェンスの向こうを見下ろす。

 校庭の白線が、少し歪んだ四角形を描いている。

 体育館の屋根の上に、カラスが一羽とまっている。


 風が吹く。


 遠くのほうで、何かが、きし、と鳴った。


 私は、誰にも聞こえないくらい小さな声で問いかける。


「……死にたいって、言えない子は」


 言葉は喉の途中で引っかかって、それ以上、外には出てこなかった。


 私は代わりに、息を吐く。

 白くもならないただの吐息が、空気に混ざって消えていく。


 透明になりたい。


 本当はそう言いたかったのかもしれない。


 ここで、誰にも見られずに、ただの影になってしまえたら。


 屋上の床に落ちた影のひとつとして、本当にそこにいるのかどうか、誰にも確かめられない存在として。


 私は弁当箱の蓋を閉じる。


 遠くで、予鈴のチャイムが鳴り始めた。


 ――そろそろ、教室に戻るための顔を、どこかから拾ってこないと。


 そう思って、ベンチから立ち上がった、そのときだ。


 ぎい、と、さっき聞いたのとは違う軋む音が、背中のほうからした。


 屋上の扉が、ゆっくりと開く。


 私は振り返ることもできずに、その足音をただ待った。


 誰かが、この世界のきしみとは別の音を連れて、ここに上がってくる気配がした。

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