第7話 契約の代償
その声は、あまりにも穏やかだった。
「これで――やっと動かせる」
アルがそう言ったとき、ユーロはようやく違和感の正体に気付いた。
(先生の声だ……確かに先生の声なのに……
どうしてこんなに冷たいんだ――)
振り向いた瞬間、世界がゆがんだ。
銀色に光る刃。
それを握るアルの手。
その刃先が、まっすぐ自分の胸へ向かってくる。
「――え?」
熱いものが胸を貫いた。
次の瞬間、その熱は冷たい感覚へと変わり、全身に広がっていく。
「ユーロッ!!」
エルーの悲鳴が、遠くで響いた。
ユーロは視界が揺れる中、自分の身体を見下ろした。
アルの手が、自分の背中側から伸び、その先のナイフの切っ先が胸元から覗いている。
真っ赤な血が、ゆっくりと服を染めていった。
「……せん、せい……?」
ユーロの声は掠れていた。
アルは彼の背中を押し出すようにゆっくりと刃を抜くと、そのままユーロの体を前へ突き飛ばした。
ユーロはよろけ、膝から崩れ落ちる。
白く滑らかな床を、赤い血が音もなく広がっていった。
エルーは台座から手を離し、駆け寄ろうとしたが――アルがそれよりも速く動いた。
「動くな、王女」
冷たい声とともに、再びナイフが振り上げられる。
今度は、その刃先がユーロの喉元に突きつけられていた。
アルの表情は、今まで見たこともないものだった。
優しさも穏やかさも消え去り、その瞳には渇ききった執念だけが浮かんでいる。
「一歩でも近づけば、この少年の首を掻き切る」
「アル……先生……どうして……ユーロに……!」
エルーは震える声で叫んだ。
ユーロは痛みに耐えながら、必死にアルを見上げる。
「せんせい……どういう……ことなんだ……?」
「すまないね、ユーロ」
アルは微かに笑った。
だが、その笑みはひどく歪んでいた。
「私はね……もう、穏やかに生きていくつもりはないんだ」
■ 罪を犯した天族の告白
「アル先生……あなたは、地族のために働いて……ずっと……!」
「そうだ。私はこの島で医者をして、地族を助けてきた。
それは嘘でも演技でもない。本心からだ」
アルは静かに言った。
「だが――それは償いでもあった」
「償い……?」
エルーが問い返すと、アルは目を細めた。
「私は昔、地上の天族の中枢にいた。
優れた天術師として、それなりの地位も名声もあった」
その声には、かすかな誇りと、それ以上の苦々しさが混じっている。
「だが私は禁忌に触れた。天力そのものを分解し、別の形で利用する術を研究しようとした。
天族の力を“道具”に変えようとしたのさ」
エルーの顔色が変わった。
「天力の改変……それは……」
「王族にとって最も嫌う行為だ。
天族の“誇り”を汚す行為としてね」
アルは乾いた笑いを漏らした。
「結局、私の研究は途中で露見し、私は“罪人”として処刑されるはずだった。
しかし、先代の王、君のおじい様は、私の技術が完全に失われることを惜しんだらしい。
そこで提案された処分が――」
アルは周囲の白い壁を一瞥した。
「“天力をすべて奪い、この島に終身収容する”というものだった」
エルーは息を呑んだ。
「天力を……すべて……?」
「そうさ。天族としての根幹を抜かれた私は、もう空を飛ぶことも、天術を使うこともできなくなった。
翼を毟られた鳥も同然だ」
その声には、深い憎悪が滲んでいた。
「私はこの島で医者として生きることで、自分の罪から目を逸らしていたのかもしれない。
だが同時に、ずっと考えていた……」
アルは勾玉のほうを見た。
「“どうすれば、もう一度空を飛べるのか”とな」
■ 勾玉と、果たせなかった願い
「私は、この場所をずっと前に見つけた。
洞窟の奥のこの異様な空間も、そして――その勾玉も」
アルは台座の上で淡く光る勾玉を見つめた。
その目は、渇ききった者が水源を見つけた時のような熱を宿している。
「私は何年もかけて調べた。
この勾玉が、天力を動力とする“何か”であることまでは突き止めた。
だが肝心の天力は、私の体からすべて抜き取られている」
「だから……」
エルーは震える声で続けた。
「あなたは、天力を持つ誰かを待っていた……?
この島に、同じ天族が来るのを……」
「その通りだ、王女」
アルはエルーにナイフを向けた。
「この島には地族しかいない。いくら願っても、勾玉は目を覚まさない。
だがある日、君の気配が空から近づいてきた。
それはこの長い停滞を破る、“光”に見えたよ」
「……最初から……私を利用するつもりで……?」
「ああ。君の天力は、王族ゆえに強い。
この勾玉を起動するには、申し分ないはずだ」
アルの声は冷たく、しかしどこか愉悦に満ちていた。
「じゃあ、ユーロは……?」
ユーロが血に濡れた喉で絞り出す。
「俺は……なんだったんだ……?
先生にとって……俺は……」
「……必要な“鍵”だったよ、ユーロ」
アルは迷いなく言った。
「君はこの島の中でも、特に勘が鋭かった。
洞窟の存在にも気づきかけていたし、私が知りたい“空の外への渇望”も持っていた。
君が王女をここまで連れてきてくれるのではないかと――期待していた」
ユーロは、胸の奥から込み上げるものを押さえきれなかった。
(俺が……先生を……エルーをここへ連れてきた……
俺がこんな状況を作ったのかよ……)
「俺が……連れてこなければ……!」
罪悪感が心を焼いた。
視界がにじみ、エルーの姿がぼやける。
エルーも、唇を噛みしめていた。
(ユーロは悪くない。悪いのは……私を利用しようとした、この人なのに……)
■ 天力を注げ――取引としての脅迫
「さて、王女」
アルはナイフをユーロの喉に押し付けた。
冷たい刃の感触に、ユーロは思わず息を詰める。
「選択肢を与えよう。
君の天力をこの勾玉に注ぐか、それとも――この少年に死んでもらうか」
「……っ!」
エルーの目から、涙がこぼれた。
「やめて……やめてください……!
ユーロを巻き込むつもりなんてなかった……!」
「ならば、君が動くしかない。
君の天力があれば、勾玉は目覚めるはずだ。
そうすれば、私は再び空を飛ぶ術を手に入れられるかもしれない」
アルの声には、長年渇望してきた者ならではの執着が宿っている。
「エルー……」
ユーロが呼びかけた。
血が喉に絡み、言葉がうまく出ない。
「俺のことなんか……気にするな……
こんな……のに……従う必要……」
「黙れ」
アルがユーロの頭を押さえつける。
「君がここで死ななければ、物語は始まらないのかもしれない。
だが、私はもう他人の未来より、自分の翼が欲しい」
エルーは震える足で一歩、台座へと近づいた。
「もし……私が天力を注いだら……ユーロを解放しますか?」
「約束すると言ったところで、君は信じないだろう。
だが――動かなければ、彼は今ここで死ぬ」
アルはあくまで冷静だった。
「エルー……やめろ……」
ユーロはかすれた声で叫んだ。
「そんなことしたって……この人は……
神器を手に入れたら……きっと……」
言葉が途切れる。
意識が遠のき始めていた。
エルーは歯を食いしばり、台座に両手を置いた。
「……分かりました。
私の天力を、勾玉に注ぎます」
「よろしい」
アルの目が狂気に光った。
エルーは目を閉じ、自身の内に渦巻く天力へ意識を向けた。
王族として育ち、世界を飛び回ってきた彼女の天力は、誰よりも純粋で強大だ。
(父上……私は、あなたの教えに背くことになるのかもしれません。
でも――この子を死なせるわけにはいかない……!)
エルーの胸から、天力の光が溢れ出した。
それは腕を通り、掌から台座へ、そして勾玉へと流れ込んでいく。
勾玉は強く脈動し、周囲の空間が揺れ始めた。
「……成功だ」
アルは恍惚とした声で呟いた。
だが、その瞬間――エルーの意識は暗転した。
■ 闇の中の「声」
真っ暗な空間。
上下も、時間の流れすらも分からない場所。
エルーはそこで、たったひとつの“声”に出会った。
『――契約ヲ求ム』
それはどこからともなく響いてきた。
男とも女ともつかない、無機質でありながら、どこか人間らしい温度を持つ声。
「契約……?」
エルーは自分の声が、空間に吸い込まれていくのを感じた。
「あなたは……この勾玉?」
『我ハ器……名称ハ無イ。
求ムルハ契約ナリ』
「契約って……私と、あなたが……?」
声は否定を示すように、わずかに揺れた。
『違ウ。
我ガ求ムハ――“少年トノ契約”』
「少年……ユーロのこと?」
『然リ。
少年、既ニ死ニ至ラントス。
契約ヲ以テ命ヲ繋ギトメルコトハ可能』
エルーの胸が跳ねた。
「ユーロを……助けられるの?」
『条件ガアル。
契約ノ対価ハ――
“お前ノ天力”』
「私の……天力……?」
『然リ。
契約ガ成立スレバ、お前ノ天力ハ二度ト戻ラヌ。
天族トシテノ本質ヲ失ウコトヲ意味ス』
エルーは息を呑んだ。
天族にとって天力とは、存在そのものだ。
失えば、ただ空を見上げるだけの存在になる。
自由を謳歌してきた翼も、もう二度と広げることはできない。
(天族でなくなる……?
私が……?)
しかし、すぐに別の顔が脳裏に浮かんだ。
血の海に倒れたユーロ。
自分を庇い、傷つけられた少年。
空を知らない牢獄の島で、外の世界を夢見ていた瞳。
『契約ノ是非ヲ問ウ。
選択セヨ』
エルーは、迷いながら、しかしゆっくりと目を閉じた。
(私がこの島へ来なければ……
ユーロはこんな目に遭わなかった。
私が先生を頼らなければ……)
罪悪感が胸を締め付ける。
(ならば……この命は、私が背負うべき)
エルーは、静かに口を開いた。
「……その契約、受けるわ」
『確認ス――契約、成立』
瞬間、眩い光が闇を焼いた。
エルーの胸の奥から、膨大な天力が引き剥がされていく。
苦痛とも、解放ともつかない感覚。
自分の一部が、別の存在へと移り変わっていく。
(ああ……これで私は、本当に天族じゃなくなるのね……)
不思議と、涙は出なかった。
代わりに――胸のどこかが、少しだけ軽くなった気がした。
(ユーロが生きてさえいてくれれば……私はそれでいい)
そう思ったとき、エルーの意識は現実へと引き戻された。
■ 少年の復活と、新たな翼
「――エルー! エルー!!」
誰かが叫ぶ声がする。
遠くで、何かが爆ぜる音。
光が瞼の裏から差し込んでくる。
エルーはゆっくりと目を開いた。
そこは相変わらず、白い壁に囲まれた謎の空間だった。
だが、空気は異様に震え、勾玉の周囲から眩い光が溢れていた。
「な、なんだこれは……!?
そんなはずはない……! 私は、勾玉を……!」
アルが混乱した声を上げている。
視線を動かすと――床に倒れていたはずのユーロの身体が、光に包まれてゆっくりと浮かび上がっていた。
「……っ……はぁ……!」
大きく息を吸い込む音がした。
ユーロの胸に空いていたはずの致命傷は、完全に塞がっている。
代わりに、胸の中央には勾玉の紋様が刻まれていた。
緑色の光が脈動し、まるで心臓と一体化しているようだ。
「ユーロ……!」
エルーは叫ぼうとしたが、声が掠れた。
自分の中から、天力の気配が綺麗さっぱり消えている。
(――本当に、なくなったんだわ)
立ち上がろうとして、身体がふらつく。
今まで当たり前のようにあった力が、一切支えてくれない。
「お、お前……な、なんだ……?」
アルが恐怖に満ちた声を漏らした。
ユーロはゆっくりと目を開いた。
その瞳は、以前の彼と同じようでありながら、どこか奥底に別の光を宿している。
「……先生……?」
ユーロは自分の手を見下ろし、そして胸に触れた。
そこには確かに、温かい鼓動とともに、勾玉の紋様が脈動している。
(生きてる……?
俺、たしか……刺されて……)
思考が追いつかない。
その瞬間――
背中に、激しい痛みが走った。
「うあっ――!?」
骨が軋む音が聞こえた気がした。
肩甲骨のあたりから何かがせり上がり、皮膚を押し広げていく。
エルーは息を飲んだ。
「ユーロ……!」
服が裂け、背中から純白と金色の混じった翼が広がった。
それはまさしく天族の翼だった。
だが、どこかエルーのそれと似ている色をしている。
「俺……の、背中……?」
ユーロは信じられないものを見るように、自分の翼を振り返ろうとした。
羽をほんの少し動かしただけで、風が吹き起こる。
アルはその風に煽られ、数歩よろめいた。
「そんな……馬鹿な……
天力を失った私ではなく……
地族の少年が……翼を……?」
アルの顔から血の気が引いていく。
「……先生」
ユーロは、ゆっくりとアルを見た。
「俺は……生きてる。
エルーが……助けてくれたんだ」
エルーは膝をつきながら、微笑んだ。
「あなたと勾玉の契約よ……ユーロ。
私はもう、天力を失った。
でも――あなたは、空を手に入れたの」
ユーロの胸が締めつけられた。
(俺が生きている代わりに……
エルーは、天族であることを失った……)
アルはふらふらと後ずさった。
「そんな、そんなはずはない……!
私は……私はただ……空を飛びたかっただけなのに……!」
その手には、まだ血に濡れたナイフが握られている。
「お前さえいなければ……!
その翼は……私のものだったはずなんだ!!」
狂気を取り戻したアルが、再びナイフを構え、ユーロへと飛びかかった。
だが、その動きは――
もはや、ユーロの目には“遅すぎる”としか見えなかった。
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