もぬけ

Cyan

 

 僕の声はからだった。というより、僕自身が空だったのかもしれない。


 家では寝るとき以外常にテレビがつけられていた。両親か、僕、誰かが見たい番組が放送されているからではなく、そうでもしないと居間から音がなくなってしまうからだった。別に家族仲が悪いわけじゃない。夕食中、母が「今日、寒かったね」と呟けば、父が「確かにな」と返す。僕もその日の学校での事を聞かれれば答えるし、最低限会話はある。気まずくも、険悪でもない。ただ、そこで会話は止まる。沈黙が大皿に乗って、テーブルの真ん中に置かれるだけ。そして、それをテレビの大音量が平らげるのだ。

 大音量はいつしか僕をも飲み込んで、僕は言葉を使うのが下手に、苦手になった。何を言っても、ふわっと軽くて浮いていく気がする。格好つけて言えば語彙力の低下。ボキャブラリーの欠如。だがそんなに大それたものでもないのだろう。だって、喋ろうと思えば普通に喋れる。美味しいものを食べれば「美味しい」、遊べば「楽しい」、泣ける映画を見れば「悲しい」と、感想を話すこともできる。――あぁ、思い知らされる。結局、そんな中身の無い形容詞たちはふわふわどこかに行ってしまうから、僕は空なんだ。


 学校でのいつも通りの一日。窓側、一番後ろから一つ前の席に座る。くじ引きで決まった思い入れのない席。かれこれ一ヶ月この席だったが、西陽が眩しいし、休み時間に後ろに集まって騒がれるとうるさい。静かに授業を受けていれば目立たないから、先生の気まぐれに当てられにくいことだけが取り柄だった。

 が、しかし、一列ずつ当たるとなるとそうもいかない。一限、英語の授業。先生がチョークを黒板に打ち付けて、粉をまき散らしながら書いた英文。その日本語訳を一文ずつ読まされる時間が苦手だ。大抵、発表は前から順番である。僕の番は列の最後――席は後ろから二つ目だが、一番後ろは人数の関係で通年空席――のため、前の人が発表している間、じわりじわりと追い詰められる。訳文がひとつ、ひとつと読み終えられるたび、黒く並んだ後頭部に吸い込まれていく。変な言い方だけど、本当にそう見える。そしてたっぷり発表を吸い込んだ黒が膨張して僕に迫る――というのは僕の考えすぎでしかないけれど。きっと、いつも通り、僕の声だけは吸い込まれすらしない。宙で解けて、行方不明になるに決まっている。

 次、僕の番だ。口の中で、もごもご、舌の具合を気にする。前までの人たちと違って面白みはないものの、翻訳はできている。あとはもう、音を出すだけ――――

 がらららっ。ただでさえ立て付けの悪い引き戸が無遠慮に開かれると、こんなにうるさいものかとつい眉をひそめた。

「遅れてすみません」

 今日からクラスメイトになる転入生。少し前から知らされてはいたが、初日から遅刻してくるなんて。皆感じた事は同じなようで、さっきまで発表の声しか無かった空気がぐらぐら揺れた。その中を、彼は一声発して、つかつかこちらに歩いてくる。挨拶は?するべきだろうか。でも今は授業中だ。でも、こっちに向かってくる。脇のあたりに力が入る。きゅっと喉が絞まる。しかし次の瞬間、彼は僕の緊張を裏切って、何事もなかったみたいに僕の後ろにすっと腰を下ろした。その動作は静かで、慌てる様子も、焦る様子もない。ただ、教科書を机の上に置き、ノートを開くだけだった。拍子抜けして肩の力が抜ける。喉が緩んで、ふ、と息が漏れた。

 教室のざわめきが収まったのもつかの間、先生が僕を飛ばして彼を当てた。今座ったばかりの彼が、当てられるなんて。

「はい、君。黒板の五行目、日本語訳をしてみて」

 僕という空気をすり抜けて、先生の、クラスメイトの関心は彼に向いている。誰も僕の顔を見ていないのだから、焦ることはない。自分に言い聞かせて、僕も上半身だけ後ろに向けた。

 彼は黒板をちらと見てから、外の光に視線をやった。窓から差し込む午前の光。彼はその光を見たまま、ごく普通の声で読み始めた。少し高くて、声の輪郭がはっきりしている。言葉を置く位置が、呼吸に沿って厳密に決まっているように聞こえた。


 一日の授業が終わり、教室からぽつぽつと人がいなくなる。窓から射し込む強い西陽が教室を橙色に染めている。僕は日直として、黒板に残る白線をこすっていた。

「はい、君。転入生に声をかけてやりなさい」

 横から、先生の声が飛んできた。英語教師でもある担任が話す日本語は、いつも少しアクセントがきつい。何を言われても怒られているような気分になる。僕は助けを求めるように周りを見渡したけれど、先生の前に立っているのは僕だけだった。

 逃げられなかった僕は、黒板消しを置いて教室の後ろに歩いていく。その間に深呼吸をして、緊張を抑え込みながら、転入生の席に歩み寄った。

「……あの、今日一日、どうだった?」

〝今日〟の部分が上擦った。彼は、僕の問いかけを軽く受け流すように、肩越しに窓を見てから、ぽつりと呟いた。

「ここの光、刺さるね。朝より痛い」

 数秒間、僕は固まってしまった。当然だ。今日の様子を聞いたのに、全く関係のない返事が返ってきたのだから。もしかしたら返事でもなかったのかもしれない。ただの独り言。僕の声は、軽いから。仕方がないかもしれない。だとしたらその独り言は、勝手に、じわじわと僕に効いてきた。驚くべきことは、その言葉の端正さでも、不思議さでもない。言葉と対象が持つ距離の取り方が、僕にとって新鮮だったのだ。彼は景色を観察し、それを自分の感覚にまっすぐ結びつけていた。誰かの評価や同調を求めるでもなく、月並みな言い換えでもなく、ただそこにあることを言葉にしていた。

「ああ、うん」

 僕は馬鹿みたいに頷くしかなかった。空っぽの中にいきなり重さが投げ込まれたようで、どうすればいいのか分からない。考えて、光を確かめようと西陽を見つめたら、目が痛くなった。


 何日か過ごして、彼は独り言がくせらしいということが分かった。休み時間や、授業中に、発表の時とは違った声で呟く。彼自身の周りにだけ、言葉を並べるための声。僕の席はそれをこっそり拾うのに都合が良くて、いつからか僕は、彼の言葉をノートの端とか、プリントの裏にメモするようになった。



〈今日のアスファルトはよく磨かれてたね。ひっくり返った街が映ってた〉 ――地面が濡れていたということ?言われるまで気付かなかった。きっと、中身の無い身体が数ミリ浮いていたから、踏んでも濡れた気がしなかったんだ。


〈廊下の蛍光灯、傘が黄ばんでる。だからあの下では肌色がちょっと青く見える〉――そんなことまで見ているのか。気にしたこともなかった。でも確かに、あの下にいた時、顔色が悪いと言われたことがある。


〈チョークの粉って光の粒みたい。先生が書くたび、後ろまで飛んで空気が見えるようになる〉――これは僕もちょっと思った。埃と粉が混ざった空気。僕らはそれを吸って、授業を聞いた気になるのだ。



 いくつかは僕に直接教えてくれた言葉もある。盗み聞きするうちにもっと聞きたくなって、時々話しかけるようにした。そうしているうちに、独り言が僕をすり抜けなくなった。

 ある昼休み。僕は椅子をくるりと後ろ向きにして、彼の机に購買のサンドイッチと牛乳をそっと置いた。机の上、僕から見て三分の二までは置いていい――それが、彼に教えてもらった境界だ。向かい合って、昼ごはんを食べる。窓の向こうには遊びの声、教室には笑い声が散らばっているのに、いつも僕らの周りには心地よい沈黙があった。そうして彼から独り言がこぼれるのを、待つ。

 でも今日は違った。待っても待っても、何もこぼれてこなかった。代わりに彼は僕を見てきた。どこか物欲しそうな感じで。まっすぐと言うほど強くはないけど、彼の目線の先には僕がいる。サンドイッチを一切れあげようと思って、やめた。結局その一切れは自分で食べてしまって、パックの角に残った牛乳をストローで探すとずずず、と不格好な音が鳴った。渇いた舌に牛乳が溜まる。味だけが喉の奥に張り付くのを感じながら、飲んだかもよく分からない数滴を飲み込んだ。

「……あのさ、パック牛乳の最後の方って飲みにくいけど、なんか、甘くない?」

 意を決して伝えてみる。傾向から読み取った、彼みたいな物の見方とその感想。少しでも、彼と同じ重みを得られるように。

「うん、甘い。ほんのちょっとなのに居座ってくるから。君はそれ、好き?」

 返事の最後にハテナがついた瞬間、僕は頭を抱えた。彼の言葉は普段通り淡々としているのに、感情が伴っていた。散々集めておいて、僕は気づかなかった――数々の独り言は、ただの観察報告じゃなかったのだ。牛乳の一口にすら、彼は自分なりの感覚を持ち込み、味わい、評価した。僕はいつも、事実だけ、外側だけを見ていた。さっきの言葉は彼を見習ったつもりだったけど、ちゃちな真似事だったと気づかされた。

「えっと……」

 言葉に詰まる。いや、空っぽの言葉で答えたくなくて、わざとせき止めている。すぐに浮かんだ結論をいったん押しのけて、僕自身のを探す。考えすぎてくらくらした。指先が痺れて、まるで乾いたボンドを剥がすときのような、むず痒さと少しの快感が走った。今までの僕が使わなかった頭の部分が、初めて動いている。何分経ったか、ようやく喉が開いた。舌がもつれるのも気にせず、飛び出るままに声を発した。

「美味しい……けど、そこまで好きじゃ、ないかも。べたべたするし。最後はこめかみがきゅっとするから」

 あとから思い返したらきっと、ちょっと格好つけただけの食レポなのだろう。それでも、必死に絞り出した言葉は間違いなく僕の中から出てきたものだった。

「重いね」

 彼が言った。牛乳の最後の一口は、ということだろう。今のは机の上残り三分の一に置く用の声だった、と思う。置いてからは、息を吐きながら背もたれに身を預けて、それきり何も言わなかった。だから僕はそれをいいことに、勝手に拾って、解釈し、口の端が持ち上がるのを隠しもしないまま返した。

「ありがと」

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もぬけ Cyan @pulupulu_108

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