第3話 DOLL THEATERの夜
初めてその名前を見たのは、音楽雑誌の広告欄の隅だった。
有名な名前はひとつもなくて、知らないバンドばかりが並んでいるページ。
その一番下の端っこに、手書きのような柔らかい字体と小さな風船の絵があった。
『DOLL THEATER ワンマンライブ』
ドールシアター。知らないバンドだった。
だけど――気になった。理由もなく、心がひっかかった。
数日後、遥はひとりでそのライブハウスへ向かった。
池袋東口から線路沿いを少し歩いた先に、薄い青の看板を掲げた古いビルが建っていた。
『MOON BOX』
ムーンボックス、通称ムンボ。
黒い鉄の扉の先は、狭い地下への階段がのびている。階段の両脇の壁には、所狭しとバンドのフライヤーが貼られていた。新しいもの、色褪せたもの、聞いたことのないバンドばかり。
階段を降りて強面のスタッフにチケット代とドリンク代を払う。
(500円…ドリンク代、高いなぁ)
そう思いながら、チケットの半券と大量のフライヤーを受け取り、フロアに足を踏み入れた。
そこは、今まで行ったことのある有名バンドの大きなホールとは全く違う、煙草と酒とスモークの混じり合った空気。
観客は40~50人ほど。
フロアは思った以上に狭くて、一面黒の壁と低い天井からはくすんだミラーボールがぶら下がっている。
遥は空いている後方の壁に身を寄せた。
ステージにはまだ幕が降りていた。
最前列にロリータ服の女の子たちが人形を抱きしめながら、笑顔で何か話していた。
後ろの丸いテーブルでは、大人っぽいお姉さんたちが煙草を吸いながらビールを飲んでいる。
彼女たちもやはり笑顔だった。
皆が笑っていた。
”このバンドは、きっと楽しいのだ”と、それだけでわかった。
開演時間ぴったりに、うっすら流れていたSEが消え照明が落ちた。
代わりに可愛らしい音楽が流れ出し、ゆっくりと幕が上がった。
ステージ中央に、男の子が立っていた。
銀色の髪にとんがった帽子を被り、青い大きな瞳に赤い唇。
ボーカルのピッピ。
ピッピの左右と後ろには、彼のお人形たち。
上手に面長で長い髪を一つに結わいた、少し大人びたギターのトビー。
まっすぐに前を見つめるトビー。一瞬、目があった気がした。遥の胸がドキリと震えた。
下手にくるくる巻き毛の金髪でふんわりとしたドレスを着たベースのエリー。
後ろに、四角い帽子を被った勇ましい雰囲気のドラムのサミー。
トビーとエリーは片手に赤い風船を持っている。
見たことのない世界があった。
全員が、まるで絵本から抜け出したみたいだった。
遥は衝撃を受けた。ドクンドクンと体の奥底からなにかが沸き上がってくる。
思わず一歩、前に出た。
ピッピが大きな瞳をくるりとさせながらマイクを持った
「みんなー!ドールシアター開演の時間だよー!」
会場から歓声が上がる。
ピッピの声に合わせて3体の人形たちが動きだす。
サミーはリズムを刻み、ドビーとエリーは風船を持ったままステージ前まで来た。
一斉にファンが手を伸ばす。二人は、それぞれファンの一人に風船を渡した。
もらった子ももらえなかった子もきゃあきゃあと叫び声をあげた。
そして、音が鳴った瞬間、遥はドールシアターの世界にいた。
ギターがひとつ、透明に伸びる。
トビーの指が、糸の上をすべるみたいに弾いた。
その音は、今まで聴いてきたどんな有名バンドよりも”近かった”。
胸の奥に、直接触れてくるみたいだった。
エリーのベースは、小さい体からは想像もできないほど大きくて優しい。
サミーのドラムは、遠くから走ってきて抱きしめてくるみたいに明るい。
ピッピが歌う。
――夢の中で 君に会えた
ここはぼくらの 秘密の国だよ――
その声を聴いた瞬間、遥の肺はぎゅっと縮んだ。
誰もが笑っている。
手を叩いて、声を上げて、音に身を委ねている
ここでは、息が苦しくなかった。
何も考えなくても、ただ音の中に立っていられた。
遥は、こらえていた涙をそっと飲み込んだ。
胸の奥で、何かが小さく灯る。
それが願いなのかどうかも、まだわからない。
ただ――消したくないものが、確かに生まれた。
――あ。この音の中にいたい。
終演後、遥は震える手でフライヤーと一緒にもらっていたアンケートを書いた。
とにかく最高だったことと、今の溢れる気持ちを書いてアンケートを出した。
その日は、一人暮らしの小さなアパートに帰ってもなかなか眠れなかった。
さっきまでの光景と音が頭の中を駆け巡った。
もらったフライヤーを何度も見返した。
白黒の紙面には四人のイラストと次の講演の日程、そして連絡先の住所が載っていた。
遥は、思い立ってファンレターを書いた。
宛先は、ギタリストのトビー。
ピッピよりも真っ直ぐな彼の姿が一番印象に残っている。
拙い文字で、「今日のあなたの音が、ずっと胸に残っています。救いでした。」そう書いた。
翌日、アルバイトへ向かう途中、遥はそっと昨日書いた手紙をポストに入れた。
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