第2話 言葉になる前の音

ユキの手から渡された薄いファイルには、譜面と呼ぶにはあまりにあらけずりな、五線譜とコードの断片が鉛筆で書かれているだけだった。

だけど、その走り書きの一音一音は、なぜか息をしているみたいに見えた。


「……あのさ。とりあえず、一回弾いていい?」


ユキは、いつもの静かな声で言う。

誰も返事をしない。否定する理由なんて、最初からなかったから。


スタジオの蛍光灯が、少しだけ低く唸る。

アンプのスイッチが入る「パチ」という音のあと、空気が静かに張った。


――音が、なる。


一音目は、驚くほど小さかった。

なのに、耳ではなく胸の奥に届いた。


力強さではない。派手さでもない。

初めて聴くのに、どこか懐かしく感じる、不思議な旋律。

それは”始まりを予感させる音”だった。


遥は、いつの間にか息を止めていた。


しゅんは壁にもたれ、自分のギターを抱えたまま、何も言わずに聴いている。

目を閉じれば、コードのない旋律の構造を探るように、指先がゆっくりと動く。


哲夫はスティックを膝に乗せたまま、一定のテンポを刻んでいた。

まだ曲の形もないはずなのに、ユキの”音の呼吸”だけで、テンポが生まれている。


あきらだけは、何も持たず、ただその音を聴いていた。

腕も組まない。茶化しもしない。

ただ、聴く人の耳として、そこにいた。


(……歌える)


その感覚は、晃の内側から突然、湧き上がった。


歌詞はない。メロディーもはっきりしない。

それでも――

”声で鳴らせる”と感じた。


根拠なんてないのに、喉の奥が、勝手に震えている。


「……歌える」


晃自身が、一番その言葉に驚いていた。


ユキは手を止めずに、静かに言う。


「ああ、歌ってほしいから、曲を作ってるんだよ。」


瞬が小さく息を吸った。

誰よりも先に、ユキが”本物を持っている”ことを理解していたから。


哲夫が、スティックを膝にトンと当て、問いかける。


「……歌詞も何もないのに、音だけで渡すつもりだったのか?」


ユキは、その問いかけに顔を上げた。

ほんの少し考えてから、静かに答える。


「言葉にしてしまうと、狭くなりそうで」


言葉にしてしまうと――

意味が決まってしまうから。

最初は、音だけで渡したかった。


晃の声で。

瞬のギターで。

遥のベースで。

哲夫のドラムで。


まだ、誰にも縛られない音のままで。


そのとき、遥は自分の膝の上にあるベースを見下ろした。

まだ何も弾いていないのに、指先が少しだけ熱い。



まだ、何も始まってないのに、

もう戻れない気がした。


ユキの音が鳴った、その瞬間。

ただの練習スタジオは、自分たち五人だけの、”始まりの場所”になっていた。


それはまだ、曲でも、形でもない。


けれど――

もう”音”としてここに存在していた。


誰も言葉を足さなかった。

足せるものなど、そもそもなかった。



……あの時の音に、似ている。

初めて”音に救われた夜”のことを、遥は、ふと、思い出していた。


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