第5話

 私は今、追い詰められている。この場所はひき肉製造機のある作業場、その二階部分だ。リリーと合流する前にいたあの場所に帰って来た私は目の前からゆっくりと迫り来る化け物の姿に息を呑んだ。




 さあ行こう。命懸けの脱出劇だ。

 今私がいるのは廃工場、その通路。げに恐ろしきひき肉の塊の化け物共はどうやら動きが決まっているらしい。

 一方はひき肉製造機の見張り。あれを壊されるのを恐れているのか、或いは近付いてきた者をとりあえず放り込む為なのかはわからない。そしてもう一方は通路の巡回だ。

 動きがあまりにとろいので幸いながら巡回は大きな穴がある。一周におおよそ十五分もかかるのだ、はっきり言って間を縫うのは容易い。その隙に部屋を出て脱出の為の準備をしに行かねばならない。

 ……というのがリリーの主張だった。その主張を飲み部屋を出た私は心臓が爆発するんじゃないかと思う程に大きく鳴っていたし、小さな物音一つに必要以上に恐れ慄きながらも通路を進む。

 移動、移動、移動。

 自分の立てる足音一つに心臓が止まる思いをしながらの移動。

 そして私は帰って来た、ひき肉製造機の轟音が鳴る作業場に。

 扉をぎりぎり通れる隙間を開けてさっと中に入り込みすぐさま閉める。静かにね。

 目の前には巨大な機械が聳え立っており、おそらく視界の通らぬ向こう側では後輩ちゃんの肉で出来た化け物が佇んでいる、のだろう。もしもあれがそこらを動き回っていたらこの時点で終わりだったかもしれない辺り、随分と危ない橋を渡っている。

 幸い、運はそこまで悪くなかったみたいだけど。

 姿勢を低く、地面を這って階段へ向かう。目指すはここの二階部分。ひき肉製造機を一望できるあの場所だ。

 せっかくあそこから逃げ出したのに再び戻ることになるとは……。




 金属の床にへたり込む。

 なんとか辿り着いた目的地。ひんやりとした金属の触感は今の恐怖で茹った頭を冷やすには丁度いい。とはいえいつまでもじっとはしていられない。

 ……リリーの計画が上手く行くことを信じるなら、ね。

 他に良い案が無い以上は彼女の案を採用する以外の道は無いけれど。

 これから約十五分後、リリーがあの部屋を出てここにやって来るはずだ。それまでに準備を整えなければ。

 必要な物がここにあることは既にわかっていた。端に置かれた資材にかけられたブルーシートを外す。この瞬間が一番恐ろしかった。どうやったって音が鳴るのだから下に聞こえるんじゃないかと戦々恐々としていたわけだ。幸い、機械の音の方がうるさかったらしい。

 中々に広いそれを床に敷いて、と。

 ……これで本当に上手く行くのだろうか?

 不安が尽きないがもう考えている時間も無いだろう。あと出来る事と言えば……、これがそこそこ以上に頑丈であることを祈るだけか。




 派手に扉の開く音がした。

 リリーだ。

 私は思わず息を呑む。

「来ないで! 来ないでよ!」

 彼女の泣き叫ぶ声が機械の音を引き裂いて響き渡る。こんなに大きな声を出せたのか。

 カンカンカンカン。

 わざとらしく鳴り響く階段を上る音。それは間違いなく化け物共にも聞こえたことだろう。

 そして私の前に今、リリーがいる。だから黙って横の資材にかかったままのブルーシートを指差した。

 それから少しして階段の方から音がした。巨大なナメクジが這いずるような、水分の混じった肉をこねた時のような、不快な音が徐々に近付いて来る。

 来ている、近付いている。

「……何度見ても気持ち悪いね」

 顔からぎょろりと飛び出た目玉がこちらを見ていた。あれは後輩ちゃんで出来た化け物だ。ここまでの移動のせいか、或いは私が金槌でぶん殴ったせいなのか、その身体は半分崩れて、しかし動きが止まることは無い。

 形が崩れ、時に千切れ落ち、何度も結合と分離を繰り返すひき肉の塊を見ていると吐き気がする。あれに襲われた時、私もあの仲間となってしまうのだろう。このままこの工場から逃げ出すことが出来ず留まっていればいずれ力尽きその未来が待っている。

 ふと自分の身体がミンチになり千切れ落ちるところを幻視した。その想像と同じように目の前の化け物の腕が落ちる。あれは未来の自分なのだろうか?

「はぁ、はぁ、すぅー……」

 呼吸は荒く、思わず後ろへ下がる。地面に敷いたブルーシートが足元で音を立てる。。

「……やるしかないのは分かってるって」

 私はその音に少しだけ落ち着きを取り戻す。

 ぐちゃ、ぐちゅ、ぼたり。

 肉が掻き混ざり血が滴る。近付いて来る化け物は既に私に狙いを定めている事だろう。ブルーシートのかけられた資材には見向きもせずこちらへ向かって来るのだから。こうなれば背後へ続く道へ走って逃げるぐらいしか私に出来ることは無い、だけど今は。私の視線は常に化け物の足元を見ていた。

 そして床に敷かれたブルーシートの上に化け物が完全に乗った。

「リリー!」

 声に呼応するように横にあった資材に身を隠していたリリーが現れる。そして二人で地面に敷かれた、化け物が完全に乗り上げたブルーシートの四隅を持った。

「せー、のっ!」

 懸念は幾つもあった。上手く化け物を釣ることが出来るのか、リリーが本当に気付かれずにいられるか、私たちに化け物を持ち上げられるだけの力があるのか、ブルーシートの耐久性は持つのか。

 そんな穴だらけの作戦に私たちはこの先の未来を懸ける。

 ブルーシートごと化け物の姿が浮き上がる。それは少し傾けられて横の柵を乗り越えた。こちらへと手を伸ばす化け物は重力に逆らうことが出来ずそのまま下へ、下へ。

「もっと細かいミンチになっちゃうわね」

 轟音を上げる機械へと落ちて行く。


 グチュッ。


 そして後輩ちゃんの肉は再びあの機械に巻き込まれて行った。

 ……見ていられない。あれは化け物だ、そんなことは分かっていても、元が人の、それも僅かとはいえ行動を共にした人のものだと思うとそれだけで気持ち悪い。

 それなのにすぐ傍にいるリリーは、私よりも彼女と深い付き合いがあったであろう彼女は。

「またあの化け物になるのかしら?」

 興味深そうにその行く末を見守っていた。

 しかし私たちはそこまでのんびりもしていられない。そもそもこれは脱出の為の作戦の一部だ。階段を何かが上がっている。いや、何かではない、音を聞けばわかる。

 もう一体の化け物が、推定噂の元になった不幸な作業員の化け物がすぐそこまで来ている。

 私は立ち上がりいつでも逃げられるように準備をしていた。しかしリリーは動く気配が無い。近付いて来る不快な肉の掻き混ざる音を聞いてもなお、下の様子を見つめている。

 化け物が階段を登り切る。




 私と、リリーと、化け物、三者が同じ場所に立っている。それぞれに大して距離など無いにも関わらずまるで互いに牽制し合っているよう誰も動かない。この時の私が感じていたのは恐怖だ。但し、勘違いはしないで欲しい。

 私が恐れていたのはリリーだ。

「こんにちは、お加減いかがかしら?」

 まるで友人にでも会ったかのようにリリーは尋ねた。相手は人知を超えている肉の塊の化け物にも関わらず何の衒いも緊張も無い。

 この工場は本来あの化け物の狩り場だったはず。それがいつの間にか場を支配しているのはリリーになっていた。

「どうしたのかしら、こっちに来ないの? まるで何かに怯えているみたいじゃない」

 化け物はそんな挑発を受けても動こうとしない。あのナリで知性があり今も冷静に事を運んでいるから、ではない。

 遠目でもわかる、化け物の表面、その肉が細かく震えている。あれはリリーの言葉通り怯えているのだ。

 何に? いや、決まっている。

 この場の支配者に、だ。

「あなたは不幸にもあの機械に巻き込まれてその身をひき肉に加工されて死んでしまった。辛かったでしょう、苦しかったでしょう。その時の事は覚えているかしら? その身を機械に引き裂かれる痛み、誰も助けてはくれない絶望、消えて行く肉体と命の灯の中であなたの恨みや憎しみ、そして絶望はこの世にこうして留まるほどのものだった。そうでしょう?」

 化け物の震えは止まらない、いや、徐々に強くなっていく。あれは理解している。理解させられている。

 リリーはこの化け物の気持ちをはっきりと理解しているのだと。

「あなたがこの苦しみをもっと多くの人に味合わせたいと思っているのはよーくわかったわ。でも、そんなあなたがもう一度あの機械に入りたいとは、思ってないのでしょう?」

 彼女の言葉に化け物がゆっくりと後ずさるのが見えた。

 リリーは、彼女は、本物の化け物だ。




 リリーがこの工場から出る為に立てた策は私みたいな常人には到底辿り付かない物だったと思う。

「早く出て行って欲しいと思わせればいいだけなんだから。二人なら、簡単でしょ?」

「何言ってるの?」

 彼女がの言葉に対して私は思わずそう言った。理由は簡単で全く意味が分からなかったからだ。

「何であの化け物が私たちを逃がすの? 意味が分からない」

「だって彼は自分の苦しみを人にも味合わせようとしているのでしょう?」

「……まあ、噂じゃあね」

「だったら彼はもう一度その苦しみを味わいたくないのよね?」

「……は?」

「あの子をもう一度あの機械に押し込んであげればいいのよ。いえ、もう一度というか、ここから出て行って欲しいと思うまで何度も何度も、ね?」

 いかれてる、はっきりそう思った。

 嫌な事をしてくる相手にはさっさと家から出て行って欲しい、そう思うのは自然な事だと思う。しかしそれをあんな化け物相手に普通に適用しようと?

 頭おかしいんじゃないの!?

 そう思っても声が出て来ない。笑みを浮かべ、高笑いでも上げそうなリリーに腰を抜かし、ただただ唾を飲み込んだ。

 それは間違いなく彼女への恐怖のせいだ。

 それから私たちはそれをどう実行するのか考えた。

 二階部分から突き落とせば機械に直接叩きこめそうであることや、近くにあった資材やそれを覆うブルーシートなどの話から細かい部分を詰めて行ったのだ。

 そして、その策は見事にはまり後輩ちゃんを再びあの機械に放り込むことに成功したのだった。




 化け物が階段を下りて行く。それと同時に機械の轟音が止んで行った。私たちは顔を見合わせ外へ繋がる道を歩き出す。

 びくともしなかった扉は当然のように普段の機能を取り戻し私たちを外へ連れ出した。そして門を抜けた私たちは工場の敷地の外で振り返る。

「……ここに来れて良かったわ」

 リリーがぽつりと呟いた。

 後輩が一人死んで、自分もあんな化け物に襲われて、出て来る感想がそれだ。いかれてる、狂ってる、普通では無い、彼女のような人間は存在してはならない。

 ポケットに手を突っ込むと固い感触があった。

「リリー、帰る前にちょっと寄り道しない?」

 だから私はそう言った。



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