第4話

 薄暗く寂れた廃工場、通路の奥からは肉の塊の化け物の蠢く音が響いている。その音が聞こえて来る度にあの生々しい肉の色、みみずの大群の如く表面を蠢く姿、元が何だったのかを訴える僅かに残った人の部位、それらを思い出してまともに思考することも出来ない。

「静かに、ね?」

 背後から追って来るかの化け物から逃げていた折、なぜだかリリーが目の前にいる。彼女の事を見て不思議とそれまでの恐怖はどこかへ行ってしまった。この瞬間、私は幼子に言い聞かせるように微笑むリリに見惚れていたのだ。

「とりあえずこっちの部屋に隠れて」

「……うん」

 ただただ脇目も振らずに逃げていた私は気が付かなかったのだが、どうやらこの通路には幾つも部屋があったらしい。リリーはそこに隠れていたという事なのだろう。彼女の言に従い中へ、対してリリーは。

 カン、カラン。

 通路、私が来たのと逆の方向から音が響く。それは私がさっき落とした工具を彼女が投げたのだ。それからすぐに彼女も部屋の中へ。

 そして再びリリーは人差し指を口元で立てて静かに、と私に声を出さずに告げた。

 しばらくの間、私は生きた心地がしなかった。それはリリーを未だに殺人鬼と疑っていたからではない。この時はそんな疑惑をかけていたことなどすっかり忘れていた程だ。この時に恐れていたのはもっと直接的な恐怖。

 ぐちょ、ぬちゃぁ、べちゃっ。

 部屋の外から響く水分多く肉の掻き混ざる音だ。

 私とリリーのいる部屋は狭く他の場所へ通ずる道も無い。もしもあれがこの中に入って来たならば私たちは逃げることも出来ずあれに飲み込まれきっと死んでしまうだろう。

 心臓は早鐘を打つ、恐怖が私の心を飲み込もうとする。

 そんな状況で隣のリリーは……。

 怪しく、美しく、それを見る者に恐れを抱かせ、しかし目を離すことも出来ないような、喜びと狂気に満ちた笑みで部屋の前を通る化け物を見つめていたのだ。




 どうやら私たちの運は決して悪くなかったらしい。幸いにも部屋に潜んでいる事には気が付かなかったようで化け物はそのまま通り過ぎどこかへ行ってしまった。

 安堵の溜息をつきながらも震えの止まらない私を余所にリリーはどこか寂し気な笑みを浮かべている。

 そんなリリーに私は。

「あれは何?」

 問い質さずにはいられなかった。

「リリーはあれが出るって知っててここに来たの? あなたはあの後輩の子を殺したの? そもそもこは何なの? 何か知ってるの?」

 色々な意味で冷静さを欠いていた質問の仕方ではあったけれど、もはや私は限界だった。精神的に追い詰められていたのだ。そんな中で楽しそうに化け物の様子を見ている彼女に八つ当たりの一つしたところで誰が責められるというのだ。

「ここは事前に説明した通り、いわゆる心霊スポットの一種ね。それに間違いは無いわ」

「じゃああの化け物は?」

「私は幽霊みたいなものじゃないかと思ってるわ」

「リリーがあれを操ってる?」

「そんなわけないでしょ? 実際の所あれが何かはわからないけれど、超常現象なのは間違いないわよ」

 ……まあ超常現象。そうなんだろう。出入り口が開かなかったり、窓を叩き割ることも出来なかったり、少なくともこの場所はまともとは思えない。常識で考えるのはたぶん、やめた方がいい。

「……後輩の子は? リリーが殺したの?」

「あれは不幸な事故ね。あの時急に機械が動き出したでしょ? あの子、それに驚いて変に足を絡ませてそのまま、ね」

 ……まあ私も想像したことだ、その可能性が無いとは言い切れない。リリーは無実だ、少なくとも私の事を助けてくれたのは事実だしそういう事にしておこう。

「……あの化け物、は、後輩の子であってるの?」

「そうよ。あなたが逃げ出した後の事だけど。私はしばらくあの場に残っていたの。するとあの機械から出て来たミンチが、ねぇ。流石に私も巻き込まれたくはないからあの場を離れたわ」

「ずっとここに?」

「まさか、時々この前を通ってたから何度かちょっかいは出したわ。動きは遅いから逃げるのは難しく無いしね」

 それはそうだがあれにちょっかいをかけようと普通は思わない。リリーには恐怖心というものが無いのだろうか?

「何度か試してみたけれど、動き同様に思考も鈍いみたいね。さっきも私たちが隠れていても全然気付かなかったでしょう? 逃げたのと違う方向から音を出せばそっちに釣り出せるわ」

「そう、なんだ」

 要するにさっきこっちの部屋に見向きもしなかったのは投げられた工具の音に釣られたせいという事だ。そう考えると頭の方は幼児並に退行してるのかも。

「……そういえば時々この部屋の前を通ってたって?」

「ええ、そうね」

「この一時間ぐらいも?」

「大体十五分に一度は通っていたわ」

「……じゃあやっぱり化け物は二体いるんだ」

 私はこの一時間ほどひき肉製造機の傍にいる化け物をずっと見ていた事を話す。そしてそこからこっちに来て突然現れたもう一体の化け物の事を。

「金色の髪が見えたからてっきりリリーがそうなったんだと思ってたんだけど……」

「私はこの通りぴんぴんしてるわ」

「何か心当たりは?」

「そうねぇ」

 少し考える素振りを見せたリリーは意外にも素早くその考えを終える。

「ここの噂の元だけど」

「……最初に巻き込まれて人肉ウインナーになったあの人?」

「ええ。それがどんな人だったのかは詳しい記述が見つけられなかったわ。でも、この辺りは昔から出稼ぎの外国人が多いし、私含めその二世なんて人も少なく無いわ」

 それは、そうだ。土地柄なのだろう、この辺りは明らかな外人やハーフがかなり多い。スーパーに行けば三割ぐらいはそうなんじゃないかと思うし、学校でも各クラスに数人はいる。

「つまり大本のその人も金髪だった可能性が?」

「あるわね」

 成程、筋は通ってるかも。

「或いは、私たちと同じように噂を聞いてやってきた誰か、なのかもね」

 ……そっちでない事を祈っておこう。

 もしも後者の考えが正しいのならば化け物は二体で済まない、そういう事だからね。




 リリーと互いの情報を擦り合わせ状況の整理を終えた私が何をすべきか、というのは決まっている。脱出の方策を練る、それに限る。

 問題はそれにリリーが協力してくれるかどうか。

「……あー、っと」

「どうかしたの?」

 どう切り出すべきか、これが難題だ。この場所に連れて来たのがリリーならこの状況はある種彼女の望み通りとも言える。ここから逃げ出すべく協力しようと言ったところで寧ろ反対され邪魔される可能性すらもあるのではないか?

 そんな疑問が私の口を重くする。

「……リリーは、ここから脱出する気はある?」

 だが結局私は直接的にそう尋ねることを選んだ。

 変に飾るよりも本音が聞き出せそうだからと言うのが理由だ。冷静に考えてみればリリーがこれで協力してくれるならそれでよし、邪魔をするつもりだと判明したならば相応に処すればいいだけだ。寧ろ敵がどこにいるかわからない状態を継続するより余程ましだ。

 そして彼女は私の問いに。

「もちろん、こんなところにいつまでも居ても仕方ないでしょ?」

 意外な答えを出した。思わず眉根を寄せて見つめる。

「ちょっと勘違いされてるのかもしれないけれど、私は別にあんな化け物の仲間になりたいわけでも無いし、あんな化け物を見たかったわけでも無いのよ?」

「じゃあ何でこんなところに」

「幽霊がいるのかどうか知りたかったからよ」

 ほんの数日前、図書室でも聞いたその言葉。

 幽霊がいるのかどうか知りたいというのは、それに出会いたいという意味ではないのだろうか? 彼女は何を求めているのだろう?

「そういう意味では今回は本当に素晴らしい収穫だわ。少なくとも、得体の知れない化け物がここにはいるんだもの。あれが何なのか確かめる術は私たちには無いけれど、元々立っていた噂の通りだとすれば……、霊魂の類がここにはあるって事よね?」

「……そう、かも、ね」

 気圧されている、恐れをなしている、私が目の前のリリーに対して、だ。ある意味ではあの化け物以上にリリーの方が恐ろしいと感じている。

「さっき聞いた話だと出入口は全て封鎖されているのよね」

「完全に確かめたわけじゃないけれど……、外に繋がりそうなドアは開かなかったしすぐそこの窓ガラスは金槌で叩いても砕けなかったよ」

「どうしてだと思う?」

「どうしてって……」

 それはもう、認めたくはないけれど。

「幽霊か何か知らないけど、あの化け物の意志というか何というか……、そういう力って事でしょ?」

「そうね。力なんて言い方は風情が無いと思うけど……。怨念とか怨嗟の方が良くないかしら? そう言ったかの亡者が持つこの世の生きとし生ける者への想い、怨念が、私たちを逃すまいとしているのよ」

「……つまり私たちは逃げられない、と?」

「ふふふ」

 リリーは笑みを浮かべる。

 この時まで私は彼女の事を異常者であるとは考えていたが、その内の半分ほどは自身の妄想により余計に付与されている属性があると感じていた。少なくとも彼女の言を信じるならば、彼女は決して殺人鬼などではなく幽霊になりたいわけでもなければ化け物の仲間を増やしに来たという事も無い。こんな場所に後輩や私を連れて来てその内の一人が死んだにも関わらずその事を何とも思っていないという点においてのみ異常者であるというはっきりとした事実が認められていたが、それ以外は謂れなき悪評でもあった。

 この時までは。

「どうして逃げる必要があるの? 寧ろ逆よ」

「……逆?」

「早く出て行って欲しいと思わせればいいだけなんだから。二人なら、簡単でしょ?」

 この瞬間、私は気が付く。

 自分の妄想は単なる勘違いより生まれたものでは無いと。

 ただ、彼女ならば理由さえあればそんな程度の事はやってのけると確信していただけの事だったのだ。たとえその理由がどんなに些細な事であったとしても、彼女自身が必要だと信ずる限り。

 人間も幽霊も化け物も、その恐ろしさの本質は変わらないのかもしれない。


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