常歩の僕ら

立藤夕貴

第1話

 いつもと違う高さの目線は不安に違いない。しかし、慣れない環境に怯えることなく、少年は前を向いて胸を張っている。

 小学生ぐらいの男の子はどちらかというと内気で言葉数も少ない。説明のときも黙々とこちらの話を聞いていた。反応は芳しいとは言えず不安な気持ちがあったけれど、下に向きそうな視線を懸命に前へ向けている。

「もう一回、お腹を足で蹴ってみようか」

 少年は言われた通りにお馬の足を両足でポンと叩く。優しく蹴られたので馬も合図に気づいていないらしい。きっと、馬が繊細な動物だと説明したから遠慮しているのかもしれない。もう一度やってもらうと、馬は緩やかに歩き出した。

「そう、上手だよ! いい感じ」

 初めて馬に乗ると多くの人はどうしても視線が馬に向きがちで、姿勢も崩れてしまう。しかし、少年はすでにコツを掴んだらしい。自然体で馬に乗っていて、楽しんでいるように見えた。小さく区切られた柵の中を二周ほど回り、手綱を引っ張ってもらうと馬が歩みを止めた。

「上手くできたね。たくさん褒めてあげて」

 馬も人と同じように、よくできたことに対してはきちんと褒めてあげることが大切だ。褒めるときは音が鳴るくらいしっかりと首筋を叩いてあげる。そう初めに伝えたように、少年はしっかりと少年は馬の首筋を叩く。

「ありがと」

 小さいながらも声もかけてくれていた。何度か常歩なみあしで乗馬を体験してもらい、乗馬に慣れてもらう。飲み込みが早いので、次に速歩はやあしにチャレンジしてもらうことにした。

「初めてだけど上手だし、速歩にちょっとチャレンジしてみようか。どう?」

「は、はい」

 ぎこちないけれど、肯定的な答えが返ってきて嬉しくなる。僕は少し眠そうな眼をしている鉄の首筋を撫でてやってから、説明を始めた。

「歩きは横に揺れるんだけど、駆け足になると縦揺れになるんだ。今までとちょっと違うから、ちょっとびっくりするかもしれないね。その違いも楽しんでみて」

 少年はこくりと頷く。少し緊張した面持ちだ。僕は「じゃあいくね」と声をかけ、馬の手綱を引いて誘導をする。

 馬が歩き出し、やがて駆け足になる。

「わッ」

 少年が驚きに声をあげる。それでも姿勢を崩さないところが素晴らしい。一週ほど回って、馬を止まらせる。緩やかにあゆみんを止めた馬を少年と一緒に僕も褒めてあげた。

「どう? 結構違うでしょ?」

「は、はい。びっくりしました」

「でも、姿勢崩れてなかったからすごいよ。初めてなのに、力も入ってないみたいだし」

「あ、ありがとうございます」

 少年は気恥ずかしそうに笑う。ごく当たり前のように楽しんでもらえるのが嬉しくて、速歩の際に楽な乗り方まで教えてしまった。さすがに、速歩に合わせて立ったり座ったりするのは難しかったみたいだけれど、楽しんでいる様子は伝わってきた。

 二十分の体験乗馬はあっという間に過ぎていった。馬から降り、少年はぽつりと呟いた。

「馬を降りるのが一番怖かったです……」

「あはは。気づいちゃった? 乗り降りが一番怖いんだよねぇ」

 自分も降りるのが苦手だったなあと思う。体験乗馬を終えた後は厩舎内を案内した。こじんまりとして見えるかもしれないが、ここには百頭もの馬がいる。少年は興味深そうに辺りをキョロキョロと見渡していた。

 少年のお父さんと合流し、装具を外して体験乗馬は終わり。契約周りの話をしている間、少年はガラス越しに他の人の乗馬を食い入るように見ていた。親子を見送るのために施設の入り口まで同行する。

「どう? 少しは楽しめたかな?」

「はい。楽しかったです。ありがとうございました。また来ます」

 少年の顔は来た当初よりずっと明るくなっていた。ここに通ってくれることになったこと、興味を持ってくれたことがとても嬉しく思う。何より、「僕にもできそう」と思ってもらえたことが嬉しく思う。穏やかな性格の少年だったら、繊細で怖がりな馬と上手くやっていけるような気がしていたから。

 親子二人を見送り、僕は一度厩舎へと戻る。目的の場所では小柄な馬が食事をしていた。先ほど少年を乗せていた馬――小雪だ。顔を向けてきた馬の鼻の中央を撫でてやる。鼻の中でも特に柔らかくて、僕が好きな場所の一つだ。

「小雪、お疲れ様。今日はずっと眠そうだったね」

 なすがままに鼻をいじられ、小雪はふいと顔をそらせた。弄り過ぎたかなと苦笑しておると、また顔を寄せてくる。高齢だけどなかなかに愛嬌がある雌馬だ。

 僕は至って平凡な人間だった。突出するものもないし、家も至って普通の家庭。クラスの中心になる子たちを眩しく思ってしまうような、そんな卑屈なところがある人間だった。

 そんな卑屈な時期に乗馬と出会った。普段では見ることのない視線の高さ、視野の広さに驚かされた。連れてこられて交流もせず、黙々と乗っているだけだったけれど、何も考えなくていい時間ができたことが嬉しかった。

 同じような経験をしてくれて、視野を広げてくれる人が増えてくれたら嬉しいと思う。それに。

「まだまだ頑張ろうな」

 現役を引退した馬たちが、こうして自分にできる仕事をこなしている。すべてが上手くいくことなんてないけれど、今の場所でできることしてきたいなと思う。

 小雪の鼻をもう一度撫でてやる。小雪はむず痒そうに鼻を鳴らした。

 

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常歩の僕ら 立藤夕貴 @tokinote_216

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