第4話「見えない敵の影」
「データの改竄、だって?」
終業後、庁舎近くのカフェで、フィンは驚きの声を上げた。リオンから例の監視カメラのログデータを見せられ、彼の顔がみるみる険しくなっていく。
「ああ。公式にはシステムエラーとして処理されているけど、僕にはどうしてもそうは思えないんだ。あまりにもタイミングが良すぎるし、消去された痕跡が巧妙すぎる」
リオンはカップの紅茶を一口飲み、不安げに続けた。
「フィン、君の意見を聞かせてほしい。僕は、何か見落としているだろうか」
フィンは腕を組み、鋭い目でタブレットの画面を睨みつけた。彼は情報分析官として非常に優秀で、リオンが最も信頼を寄せる同僚だった。ミカエルの豹変を誰よりも心配していた彼は、最近のリオンとミカエルの関係を気にかけつつも、リオンの分析能力を高く評価していた。
「……いや、君の言う通りだ。これはただのシステムエラーじゃない。明らかに、誰かが意図的に情報を隠蔽しようとしている。しかも、これだけ高度な改竄ができるのは、情報部の内部システムに精通している人間に限られる」
「内部の人間……?」
フィンの言葉に、リオンは息をのんだ。つまり、あの襲撃事件は、内部に協力者がいたということになる。
「部長には、もう報告したのか?」
「……いや、まだだ。今の部長に、冷静な判断ができるか分からなくて……」
リオンが口ごもると、フィンは「それもそうか」と苦笑した。ここ最近のミカエルの奇行は、フィンの耳にも嫌というほど届いていた。親友が氷の部長に執着されている状況は、最初はパワハラだと憤っていたが、今では別の意味で心配の種だった。
「分かった。この件は、俺の方でも独自に調査してみる。君は何も気づかなかったフリをして、普段通りに過ごしてくれ。下手に動いて、犯人を刺激するのは危険だ」
「ありがとう、フィン。助かるよ」
頼れる友人の言葉に、リオンは心から安堵した。一人で抱え込むには、あまりにも重すぎる疑惑だった。
翌日から、リオンはフィンの言葉に従い、普段通りに振る舞うことを心掛けた。もちろん、ミカエルからの過剰なまでの庇護と求愛は続いている。もはや日常と化したそれに、リオンは少しずつ慣れ始めていた。というよりも、諦めに近い感情かもしれない。
しかし、不思議なことに、ミカエルの側にいると、奇妙な安心感を覚えるようになっていた。
以前は息が詰まるようだった彼の執着も、今は自分を守ろうとする必死さの表れなのだと理解できる。彼のパーソナルスペースは異常に近いし、視線は常に自分に注がれているが、そのおかげで他の職員からの余計な干渉はなくなった。何より、彼の側にいれば、あの事件のような危険な目に遭うことはないだろう、という根拠のない確信があった。
その日の夕方、リオンが帰宅の準備をしていると、ミカエルが深刻な顔でやって来た。
「リオン、少し話がある」
また何か始まったのか、とリオンが身構えていると、ミカエルは予想外の提案をしてきた。
「例のテロリストグループだが、まだ全員が捕まったわけではないらしい。残党が、君を狙っている可能性がある」
「僕を……? なぜです?」
「君の能力だ。彼らが君という存在を知った今、その類稀なる情報処理能力を、悪用しようと考える可能性は十分にある」
ミカエルの青い瞳が、真剣な光を帯びる。
「単刀直入に言おう。危険が完全になくなるまで、一時的に、私の私邸で保護させてほしい」
「は……?」
リオンは耳を疑った。保護? 彼の家で? それはつまり、同居しろということだろうか。あまりにも突飛な提案に、言葉を失う。
「ふ、二人で暮らすなんて、そんな……」
「もちろん、君に不自由はさせない。部屋は余っているし、プライバシーも尊重する。だが、君を四六時中守るためには、それが最善の策だ。君を危険から守るためなら、私はどんな手段もいとわない」
有無を言わさぬ、しかし心配に満ちた声。リオンは反論しようとしたが、言葉に詰まった。
確かに、テロリストの残党に狙われているというのは、恐ろしい話だ。この古いアパートのセキュリティでは、心許ないのも事実である。
そして何より、ミカエルの申し出を断った時の、彼の悲しそうな顔が目に浮かんでしまった。
(……僕も、大概絆されてるな)
自嘲気味にそう思いながらも、リオンの口から出たのは、拒絶の言葉ではなかった。
「……分かり、ました。お言葉に甘えさせていただきます」
その瞬間、ミカエルの顔が、ぱあっと輝いた。まるで、長年待ち望んだプレゼントをもらった子供のように、純粋な喜びに満ちた表情。そんな顔もするのか、とリオンは少し驚いた。
こうして、奇妙な共同生活が始まった。
ミカエルの私邸は、帝都の高級住宅街にたたずむ、壮麗な屋敷だった。情報部の部長という地位だけでは、到底維持できないであろう規模だ。彼の素性について、また一つ謎が増えた気がした。
生活が始まってみると、リオンは仕事以外のミカエルの姿を目の当たりにすることになった。
朝は、完璧な朝食を用意して、眠そうなリオンを優しく起こしてくれる。
夜は、リオンが風呂から上がるタイミングを見計らって、温かいハーブティーを淹れてくれる。
リオンの苦手な食材はいつの間にか食卓から消え、好きなものばかりが並ぶようになった。
そして何よりリオンを驚かせたのは、ミカエルが驚くほど不器用な人間だということだった。
ある夜、リオンが読んでいた本に興味を示したミカエルが、その内容について熱心に語り合おうとするのだが、どうにも話が噛み合わない。彼は知識は豊富だが、物語の登場人物の感情の機微といったものに、ひどく疎いようだった。
またある時は、キッチンで二人並んで夕食の片付けをしていた時、ミカエルが手にした皿を滑らせて落としそうになり、リオンが慌てて支えるという一幕もあった。完璧超人だと思っていた男の、人間らしい一面。
「す、すまない……」
耳まで真っ赤にして謝るミカエルを見て、リオンは思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……部長、意外とドジなんですね」
「……うるさい」
ぶっきらぼうにそっぽを向くミカエル。しかしその横顔は、少しも怖くはなかった。
一緒に過ごす時間が増えるにつれて、リオンはミカエルに対する恐怖心や反発心が、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
冷たい仮面の下にある、不器用で、一途で、そして驚くほど優しい素顔。それに触れるたびに、胸の奥で温かい感情が芽生えていく。
(この気持ちは、なんだろう……)
それは、同情でも、諦めでもない。もっと、甘くて、切ない感情。
リオンは、自分がミカエルという人間の、本当の姿に惹かれ始めていることを、認めざるを得なかった。
そんな穏やかな日々の中、フィンからの連絡で、事態が大きく動き出すことを、リオンはまだ知らない。
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