第3話「運命という名の呪縛」

 ミカエルはリオンの腕を掴んだまま、有無を言わさぬ力で彼を部長室へと引き入れた。重厚な扉が閉ざされ、外界の喧騒が嘘のように遮断される。静寂に包まれた室内で、ミカエルの荒い息遣いだけが、やけに大きく聞こえた。


「部長、一体何なんですか……!」


 恐怖と混乱で、リオンは思わずミカエルを睨みつけた。しかし、目の前のアルファは、そんなリオンの抵抗など意にも介さず、ただ苦しそうな表情で彼を見つめていた。


「すまない、乱暴なことをして……。だが、君のことが心配で、どうにかなりそうだったんだ」


 そう言うミカエルの額には、脂汗がにじんでいる。彼のまとうサンダルウッドの香りは、普段の冷静なそれとは違い、甘く、そしてどこか熱っぽい。まるで熱に浮かされているかのようだった。


「説明してほしい。君は、私を避けているだろう。なぜだ?」

「……避けてなど、いません」

「嘘をつくな!」

 ミカエルの語気が強まる。彼は掴んだリオンの腕を、さらに強く握りしめた。

「以前の私の態度が原因か? それなら謝る。いくらでも謝罪しよう。だが、君に無視されるのは……耐えられない」


 その声は、懇願にも似ていた。鋼鉄の部長と呼ばれた男の、弱々しい姿。しかしリオンは、素直にそれを受け入れることができなかった。この一年間、彼の冷たい言葉にどれだけ傷ついてきたと思っているのか。今更、急に態度を変えられても、戸惑うだけだ。


「……あなたの考えていることが、分かりません。今まで僕をあれだけ無能だと罵っておきながら、今度は過保護なまでに世話を焼く。まるで、お芝居を見ているようです」

 リオンの言葉に、ミカエルは深く傷ついたように目を見開いた。

「芝居などでは……ない」

 彼はゆっくりとリオンの腕を離すと、両手で自らの顔を覆った。その指の間から、絞り出すような声が漏れる。


「……あの事故の瞬間、全てを理解したんだ。瓦礫の下にいる君を見た時、心臓が凍りつき、世界から音が消えた。そして、君をこの腕に抱いた時、分かってしまった。君こそが、私の……『運命の番』なのだと」


 その言葉に、リオンの心臓が大きく跳ねた。医務室での医師の言葉が、脳内で反響する。

 やはり、そうだったのか。この常軌を逸した豹変は、そのせいだったのか。


 ミカエルは顔を上げ、熱に潤んだ青い瞳でリオンを見つめた。

「信じられないかもしれないが、事実だ。君に出会った最初の日から、ずっと気づいていた。だが、自分の立場がそれを許さなかった。だから、わざと君を遠ざけようと……。だが、もう限界だ。あの日以来、強烈な結合熱(ボンド・フィーバー)に襲われている。身体中の血が、君を求めて逆流しているようだ。頼む、リオン。君なしでは、私はもう生きていけない」


 結合熱(ボンド・フィーバー)。それは、運命の番と出会ったアルファが、番と結ばれたいという本能的な欲求によって引き起こされる、高熱を伴う症状だ。理性で抑えようとすればするほど、その熱はアルファの心身を蝕んでいくという。

 普段の冷静沈着な姿からは想像もできない、必死な形相で迫るミカエル。その瞳に宿る狂おしいほどの熱情に、リオンは恐怖を感じ、思わず後ずさった。


「やめてください……!」

「リオン……」

「運命なんて、信じません! それはただの、あなたの本能的な思い込みです! 僕はあなたの所有物じゃない!」


 リオンは叫ぶように拒絶した。ミカエルという人間のことが、何も分からない。冷たい彼も、甘い彼も、どちらが本当の姿なのか。運命という一方的な理由で、これ以上、彼に振り回されるのはごめんだった。

 リオンの激しい拒絶に、ミカエルは絶望の色を瞳に浮かべ、その場に立ち尽くす。その寂しそうな表情に、リオンの胸がちくりと痛んだ。しかし、彼はその痛みを無視するように、ミカエルに背を向け、部長室から逃げ出した。


 その日を境に、ミカエルの猛烈な求愛は、さらにエスカレートしていった。

 彼はリオンの拒絶にひるむどころか、まるで失った信頼を取り戻そうとするかのように、一層献身的に愛情を注ぎ始めた。

 仕事中は、数分おきにリオンのデスクにやって来ては「疲れていないか」「何か飲むか」と声をかける。リオンが少しでも眉をひそめれば、地球の終わりでも来たかのような顔でうろたえた。

 プライベートにも、その影響は及んだ。ミカエルはどこで調べたのか、リオンのアパートの隣の部屋に引っ越してきて、「これで君に何かあっても、すぐに駆けつけられる」と得意げに宣言した。もはやストーカーの域に達している。


 リオンは戸惑い、反発し、時には無視を決め込んだ。しかし、ミカエルは全くめげなかった。

 雨の日に傘を持たずに庁舎を出れば、いつの間にかミカエルが隣に立って、大きな傘を差し出してくる。食堂で一人寂しく昼食をとっていれば、トレイを持ったミカエルが当たり前のように向かいの席に座る。

 そして、どんなに冷たく突き放しても、ミカエルが決して怒ったり、以前のように罵倒したりすることはないのだった。ただ、悲しそうに眉を下げ、子犬のようにしょんぼりとするだけだ。


 そんな日々が続くうち、リオンの心は少しずつ、しかし確実に揺らぎ始めていた。

 最初は恐怖と反発しか感じなかったミカエルの行動も、毎日続くと、その一途さや必死さが伝わってくる。彼の自分だけに向ける、情熱的な眼差し。拒絶された時に見せる、迷子の子供のような寂しげな表情。

 鋼鉄の仮面の下に隠されていた、不器用で、人間らしい素顔。それを知るたびに、胸の奥がキュンと締め付けられるような、甘い痛みを感じるようになっていた。


(……いや、何を考えてるんだ、僕は)


 リオンはぶんぶんと頭を振って、雑念を追い払う。流されてはいけない。彼に同情してはいけない。


 そんなある日のことだった。

 リオンは、先の襲撃事件に関する最終報告書をまとめるため、関連データを再度見直していた。事件は、庁舎に爆弾を仕掛けたテロリストグループの犯行として、すでに解決済みとされている。

 しかし、データを詳細に検証していくうちに、リオンは奇妙な点に気づいた。

 庁舎の監視カメラのログデータの一部が、不自然に欠落しているのだ。爆発が起こる、ほんの数分前の記録。それは、システムの不具合として処理されていたが、リオンの目には、人為的に削除された痕跡のように見えた。


(何かが、おかしい……)


 もし、これが意図的なデータ改竄だとしたら? 事件はまだ、終わっていないのかもしれない。

 背筋に、冷たいものが走るのを感じた。これは、ミカエルに報告すべきだろうか? いや、今の彼に、冷静な判断ができるとは思えない。

 リオンは逡巡の末、信頼できる唯一の人物に相談することを決めた。情報分析官である、親友のフィンに。

 この時、リオンはまだ知らなかった。この小さな違和感が、やがて帝国の闇を暴く、大きな糸口になるということを。そして、その闇が、自分とミカエルの運命を、否応なく絡め取っていくということを。

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