第5話「偽りの仮面」
穏やかながらも、どこか緊張感をはらんだ共同生活が始まって、一週間が経ったある週末の午後。ミカエルは急な呼び出しで王宮へ向かっており、広大な屋敷にリオンは一人きりだった。手持ち無沙汰になったリオンは、屋敷の中を散策してみることにした。豪華な調度品が並ぶ廊下を歩いていると、ふと、一つの扉の前で足が止まった。
二階の最も奥まった場所にある、重厚なマホガニーの扉。ミカエルから「この部屋だけは、入らないでほしい」と、固く口止めされていた書斎だった。好奇心は猫を殺す、と頭では分かっていたが、彼の秘密に触れたいという欲求が、リオンの足を縫い止める。ほんの少しだけ、と自分に言い聞かせ、リオンはそっと扉に手をかけた。幸い、鍵はかかっていない。
きしむ音と共に扉を開けると、そこは膨大な数の書物に埋め尽くされた、知の空間だった。壁一面の本棚、大きな執務机、そして、部屋の主と同じ、サンダルウッドの落ち着いた香りが鼻をくすぐる。
リオンは、まるで神聖な場所に足を踏み入れたかのような罪悪感を覚えながらも、ゆっくりと部屋の中へと進んだ。机の上には、帝国史に関する難解な書物が広げられている。彼の知的好奇心の源泉が、ここにあるのだろう。
その時、リオンの目に、机の上に置かれた一枚の写真立てが留まった。
そこに写っていたのは、穏やかな笑みを浮かべる壮年の男性と、その隣で少し緊張した面持ちでたたずむ、まだ十代の頃のミカエルだった。壮年の男性の顔には見覚えがあった。数年前に、不慮の事故で崩御された、先代の皇帝陛下だ。
なぜ、ミカエルが先代皇帝と、これほど親しげな写真を?
心臓がどきりと音を立てた。嫌な予感が、背筋を駆け上る。
その時だった。背後で、静かにドアが開く音がした。
「……何をしている」
振り返ると、そこには氷のような表情を浮かべたミカエルが立っていた。その手には、リオンが今見ていた写真立てが、音もなく握りつぶされていた。
「あ……あの、これは……」
「入るなと、言ったはずだ」
地をはうような低い声。それは、豹変する前の、あの冷たい「鋼鉄の部長」の声だった。久しぶりに向けられたその冷酷な視線に、リオンの身体は凍りつく。
まずい、彼の一番触れられたくない部分に、触れてしまった。
「ご、ごめんなさい……! すぐに出ます……!」
リオンが慌てて部屋から出ようとすると、ミカエルは素早くその腕を掴んだ。
「待て」
その声には、怒りよりも、深い諦めのような響きがあった。ミカエルはリオンの腕を掴んだまま、ゆっくりと部屋の中央まで導くと、その手を離した。そして、天を仰いで、長い溜息を一つ吐いた。
「……見てしまったのなら、話すしかないか」
観念したようにそう言うと、ミカエルは重い口を開いた。
「写真に写っていた方は、先代皇帝……私の、父だ」
「……え?」
「私は、先代皇帝が、侍女に産ませた隠し子だ。そして、今の皇帝陛下とは、腹違いの兄弟ということになる」
それは、帝国を揺るがしかねない、あまりにも衝撃的な事実だった。ミカエルが、皇族の血を引く人間? 息をのむリオンを前に、ミカエルは淡々と、しかし苦渋に満ちた表情で続けた。
「父は、私を認知し、皇族として迎え入れようとしていた。だが、私がアルファとして覚醒した直後、父は不慮の事故で亡くなった。公式には事故とされているが、私は現皇帝派による暗殺だと睨んでいる。後ろ盾を失った私は、命を守るため、皇族の身分を捨て、一介の軍人として生きることを選んだ。私の素性を知る者は、帝国でもごくわずかだ」
だから、あんなにも壮麗な屋敷に住んでいたのか。彼のずば抜けた能力や、気品に満ちた立ち居振る舞い。全ての点と点が、今、一本の線で繋がった。
しかし、だとしたら、なぜ?
「……なぜ、そのことを僕に……。そして、なぜ今まで、僕にあんなに冷たく当たってきたんですか?」
リオンが最も知りたかった疑問。それを口にすると、ミカエルは痛みに耐えるように、ぎゅっと目を閉じた。
「……全ては、君を守るためだった」
絞り出すような声だった。
「私が君に初めて会った日、君が私の運命の番だとすぐに分かった。だが同時に、絶望した。私の傍にいれば、君は必ず権力争いに巻き込まれる。私の政敵たちは、私の最大の弱点である君を、決して見逃しはしないだろう」
ミカエルは目を開け、その青い瞳で、まっすぐにリオンを見つめた。
「オメガでありながら、突出した能力を持つ君は、あまりにも目立ちすぎた。だから私は、君を愛するがゆえに、君を遠ざけるという決断をした。わざと冷たく当たり、君の能力を公に認めず、無能なフリをさせることで、誰の目にも留まらないようにしようとした。いつか君が、私から離れて、安全な場所で幸せになってくれることを願って……」
それは、ミカエルの、あまりにも不器用で、孤独な愛の形だった。
自分を憎ませることで、守ろうとしてくれていた。あの冷たい言葉も、理不尽な叱責も、全ては自分を危険から遠ざけるための、偽りの仮面だったのだ。
「そんな……。どうして、そんな……」
涙が、後から後から溢れてきた。彼が一人で抱えてきたものの重さに、胸が張り裂けそうだった。自分が彼を誤解し、どれだけ彼を傷つけてきただろう。
真実を知った今、ミカエルへの全ての疑念は消え、代わりに、愛しいという感情が、奔流のように心を突き動かした。
「……バカですよ、あなたは」
リオンは泣きながら、ミカエルの胸に飛び込んだ。
「一人で、全部背負い込んで……! 僕が、どれだけあなたに認められたかったか、知ってたんですか……!」
「リオン……」
「言ってくださればよかったのに! そうすれば、僕も、一緒に戦えたのに……!」
抱きしめたミカエルの身体は、微かに震えていた。
「……すまない。君を信じることが、できなかった。私のせいで君を失うことが、何よりも怖かったんだ」
「もう、一人で戦わないでください」
リオンは顔を上げ、涙に濡れた瞳でミカエルを見つめた。
「僕は、あなたの番なんでしょう? だったら、あなたの隣にいる権利があるはずです。あなたの剣にはなれないかもしれないけど、あなたの盾にはなれます。あなたの頭脳にはなれないかもしれないけど、あなたの目や耳にはなれます。だから、僕を、あなたの戦いに加えてください」
その言葉は、リオンの偽らざる決意だった。
ミカエルは驚いたように目を見開いた後、その瞳に熱いものをにじませ、壊れ物を抱くように、そっとリオンを抱きしめ返した。
「……ああ。君は、私が生涯をかけても見つけ出した、最高のパートナーだ」
偽りの仮面は、剥がれ落ちた。
真実を知り、互いの想いを確かめ合った二人の間には、もう何の隔たりもない。
帝国の深い闇に立ち向かう決意を固めた二人の瞳には、同じ色の、力強い光が宿っていた。
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