第2話「豹変の理由」
瓦礫と粉塵が舞う中、リオンは自分を庇うミカエルの腕の中で、ただ呆然としていた。背中に負った傷の痛みで顔をしかめながらも、ミカエルは執拗なまでにリオンの無事を確認する。その瞳に宿る熱は、リオンが今まで知る、冷徹な「鋼鉄の部長」のものとは、まるで違っていた。
「怪我は、ないか。どこか痛むところは」
「ぼ、僕は……大丈夫です。それより、部長こそ、背中から血が……!」
「俺のことはいい。君が無事なら、それで」
ミカエルはそう言うと、安堵のため息を漏らし、その場に崩れ落ちそうになった。すぐに駆けつけた救護班によって、二人は担架で医務室へと運ばれた。幸い、ミカエルの傷は見た目ほど深くはなく、リオンに至っては奇跡的に無傷だった。治療を受けながらも、ミカエルの視線は一時もリオンから離れることはなかった。それはまるで、少しでも目を離したら消えてしまうとでもいうような、切実さを帯びた眼差しだった。
この事件を境に、ミカエルは一変した。
いや、一変したという言葉では生ぬるいほどの、劇的な変化だった。
翌日、情報部に出勤したリオンは、自分の椅子に見慣れないものが置かれているのに気づいた。最高級の低反発素材でできた、腰への負担を極限まで軽減するという触れ込みの、特注品のクッションだ。
「……これ、何だろう」
首を傾げていると、背後から静かな声がかかった。
「君は長時間座っていることが多いだろう。オメガの身体は繊細だ。少しでも負担を減らした方がいい」
振り返ると、そこにはミカエルが腕を組んで立っていた。その心配そうな表情に、リオンだけでなく、周囲で聞き耳を立てていた職員たちも、あんぐりと口を開けて固まった。
それは、序章に過ぎなかった。
昼休みになれば、ミカエルはどこからか調達してきた、栄養バランスが完璧に計算された特製のランチボックスをリオンのデスクに置いた。「偏った食事は体に毒だ。特にオメガは栄養管理を徹底するべきだ」。そう言って、リオンが食べ終わるまで、真剣な顔で見守っている。
午後のティータイムには、「集中力を持続させる効果がある」という高価な茶葉で淹れた紅茶が、彼の執務室から直々に運ばれてくる。
そして、終業時刻を少しでも過ぎてリオンが残業しようものなら、どこからともなく現れて、鬼の形相で彼の腕を掴んだ。
「まだ仕事を続ける気か! オメガの体にとって、無意味な残業は毒以外の何物でもない。今すぐ帰りなさい」
その有無を言わせぬ迫力に、リオンは強制的に庁舎から追い出されてしまう。その際、ミカエルが「夜道は危険だ」と言って、自宅までハイヤーを手配したのは、もはや言うまでもない。
これまでの態度が嘘だったかのような、過保護で、どこまでも甘いミカエルの言動。そのあまりの豹変ぶりに、リオンだけでなく、情報部全体が混乱の極みに達していた。
「おい、見たか? 部長がリオン調査官に、ひざ掛けを……」
「ああ……しかも、カシミア100%のやつだ……」
「俺なんか、昨日部長に『報告書が寒い』って言われたぞ……」
職員たちは、遠巻きに二人を観察しながら、ヒソヒソとささやき合う。パワハラを心配していたはずが、今では別の意味で心配になってきた。あれは、部下への配慮というレベルを遥かに超えている。
当のリオンは、混乱を通り越して、恐怖すら感じ始めていた。
あの冷たく、厳しいミカエルはどこへ行ってしまったのか。今の彼は、まるで腫れ物に触るかのように、リオンを丁重に、そして過剰に扱う。その瞳は常に心配と庇護の色を浮かべ、リオンの一挙手一投足を見守っている。その視線に、背筋がぞくりと粟立つのを感じた。
「あの、部長……。どうして、急に……」
ある日、リオンは耐えきれずに尋ねてみた。するとミカエルは、心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「急に、とは? 私は、上司として当然の配慮をしているだけだが」
「ですが、以前とはあまりにも……」
「以前の私が間違っていたんだ。君という、かけがえのない存在を、正しく扱えていなかった。これからは、私が全身全霊で君を守る。だから、何も心配しなくていい」
真顔でそう言い切るミカエルに、リオンはもう何も言えなかった。会話が、全く噛み合わない。
そんな混乱の日々が続いていたある日、リオンは爆破事件の際の経過観察のため、医務室を訪れていた。担当の医師は、アルファとオメガの生態に詳しい初老のベータだった。
「体調に変化はないかね、リオン調査官」
「はい、おかげさまで……」
「それは良かった。それにしても、君を庇ったというミカエル部長……彼は見事なアルファだ。傷の治りも驚異的に早い」
医師はカルテを見ながら、感心したように言う。リオンは、この機会に、ずっと胸に渦巻いていた疑問を口にしてみることにした。
「あの……先生。アルファの人が、急に別人のようになってしまうことって、あるんでしょうか……?」
その問いに、医師は一瞬、何かを察したような顔をした。そして、カルテを置くと、穏やかな口調で語り始めた。
「……アルファの中には、ごく稀にだが、そういう者がいる。特に、血統の良い、純粋なアルファほど、その傾向は強いと言われている」
「傾向、ですか?」
「うむ。彼らは、生涯でただ一人だけ存在する、『運命の番(つがい)』と出会うと、今まで押さえつけていた本能が一気に溢れ出すことがあるんだ」
「運命の、番……」
おとぎ話でしか聞いたことのない言葉だった。遺伝子レベルで惹かれ合い、魂で結ばれた、唯一無二の存在。
医師は続けた。
「通常、理性的なアルファほど、本能をうまくコントロールしているものだ。だが、運命の番が生命の危機に瀕するなど、極限の状況に置かれた時、その理性のダムが決壊することがある。そうなると、彼らは文字通り『理性を失う』。番を守りたいという強烈な庇護欲と、誰にも渡したくないという激しい独占欲の塊になってしまうんだ。人によっては、それを『狂愛』と呼ぶ者もいる」
狂愛。
その言葉が、今のミカエルの姿と、奇妙に重なった。
あの事故の瞬間。自分を庇ったミカエルの瞳に宿っていた、燃えるような熱。あれは、ただ部下を心配する上司の目ではなかった。
「ま、さか……」
リオンは自分の考えを打ち消すように、ぶんぶんと頭を振った。
ありえない。自分があのミカエル部長の、運命の番? 一年もの間、あれほど冷たく、無能だと罵ってきた相手が? 何かの間違いだ。
しかし、医師の言葉が、頭から離れなかった。
『理性を失うほどの強い独占欲と庇護欲』
それは、今のミカエルの異常なまでの過保護さを、あまりにも的確に説明しているように思えた。
医務室を出たリオンは、重い足取りで廊下を歩いていた。もし、万が一、医師の言う通りだとしたら? ミカエルは、自分を運命の番だと認識したせいで、あんな風になってしまったというのか?
それは、愛情というよりは、呪いのように思えた。
彼の真意がわからない。彼の瞳の奥にある熱が、怖い。
考え込んでいると、曲がり角で誰かにドンとぶつかってしまった。
「わっ! すみません……」
「いや、こちらこそ……」
見上げると、そこに立っていたのはミカエルだった。彼はリオンの顔を見るなり、その表情をさっと曇らせた。
「顔色が悪いぞ。どこか具合でも悪いのか? 医務室に行っていたのだろう? 何と言われた」
矢継ぎ早に質問を浴びせられ、リオンは思わず一歩後ずさる。
「だ、大丈夫です。何でもありませんから」
「何でもない顔ではないだろう!」
ミカエルは苛立ったように声を荒らげると、リオンの腕を掴んだ。その力強さに、びくりと身体が震える。
「……離して、ください」
「嫌だ。君が本当のことを言うまで、離さない」
ミカエルの青い瞳が、まっすぐにリオンを射抜く。その瞳の奥には、不安と、焦燥と、そしてすがるような、切ない光が揺れていた。リオンは、その瞳から、もう逃れることができないのだと、予感していた。
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