第十一話「仕組まれた罠と引き裂かれる絆」

 薄暗い石の牢獄。

 冷たい床に座り込みながら、俺は膝を抱えていた。

 攫われてから、もうどれくらい時間が経っただろう。窓のないこの部屋では、時間の感覚さえ曖昧になってくる。


 時々、オルバンス公爵がやってきては、俺に不気味な笑みを浮かべて話しかけてきた。

 ゼイド様の悪口を言ったり、『サイレント・オメガ』の力について執拗に尋ねてきたり。

 俺は、ただ黙って彼の言葉を聞き流すことしかできなかった。

 抵抗すれば、何をされるか分からない。今はただ、ゼイド様が助けに来てくれるのを信じて待つしかなかった。


『ゼイド様……』


 彼の名前を心の中で呟くだけで、涙が滲んでくる。

 会いたい。あの温かい腕に、もう一度抱きしめてほしい。

 俺がここにいるせいで、ゼイド様はきっと、オルバンス公爵から無理な要求を突きつけられているに違いない。

 俺が、彼の弱点になってしまっている。

 その事実が、何よりも辛かった。


 そんなある日、オルバンス公爵が、一枚の手紙を持って俺の前に現れた。


「やあ、リアム君。君の愛しい騎士様から、手紙が届いたよ」


 彼はそう言って、ひらひらと手紙を見せびらかす。

 俺は、はっと顔を上げた。


「……本当、ですか?」

「ああ、もちろん。読んでみるといい」


 牢の鉄格子越しに、手紙が差し出される。

 俺は震える手でそれを受け取った。間違いなく、ゼイド様の筆跡だ。

 逸る気持ちを抑え、封を開けて中身を読む。

 しかし、そこに書かれていた言葉は、俺の期待を無残に打ち砕くものだった。


『リアムへ。

 お前との関係は、全て偽りだった。俺が欲しかったのは、お前の『サイレント・オメガ』という体質だけだ。

 オルバンス公爵の言う通り、お前は俺の弱点にしかならない。もはや、お前は俺にとって不要な存在だ。

 達者で暮らせ。

 ゼイド・フォン・ヴァルハイト』


「……っ、そん、な……」


 手から、手紙が滑り落ちる。

 書かれている言葉が、信じられない。信じたくない。

 偽りだった?不要な存在?

 あの日々も、あの言葉も、あの優しい眼差しも、全部、嘘だったというのか。


「ひどい男だねえ、ゼイドは。君をさんざん利用しておいて、あっさり切り捨てるなんて」


 オルバンス公爵が、心底楽しそうに言う。


「まあ、彼らしいと言えば、彼らしいか。あの男は、昔からそうだ。自分の目的のためなら、平気で他人を切り捨てる、冷たい人間なんだよ」


 違う。ゼイド様は、そんな人じゃない。

 そう叫びたかった。でも、この手紙が、何よりの証拠だった。

 胸が、張り裂けそうに痛い。

 涙が、後から後から溢れてきて、止まらない。


「さあ、リアム君。君からも、彼に手紙を書いてあげたらどうだい?君の気持ちを、正直に綴って」


 オルバンス公爵は、そう言って、俺の前に羽ペンと羊皮紙を置いた。

 彼の目的が、俺を絶望させて、ゼイド様をさらに追い詰めることだとは分かっていた。

 でも、俺は、もうどうしていいか分からなかった。

 裏切られたという絶望と、それでもまだ、ゼイド様を信じたいという気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、頭がおかしくなりそうだった。


 俺は、震える手でペンを握りしめた。

 そして、涙で滲む視界の中、必死に言葉を綴った。


『ゼイド様へ。

 お手紙、読みました。

 今まで、ありがとうございました。

 あなたの重荷になるくらいなら、俺は……』


 そこまで書いた時、ぷつりと、俺の心の糸が切れた。

 もう、いい。

 もう、疲れた。

 俺さえいなければ、ゼイド様は悩むことも、苦しむこともなかったんだ。


『さようなら』


 最後にそう書き記し、俺はペンを置いた。

 俺の心は、完全に壊れてしまった。


 オルバンス公爵は、俺が書いた手紙を満足そうに受け取ると、牢を後にした。

 一人残された俺は、ただ虚ろな目で、暗い天井を見つめていた。


 その手紙は、すぐさまゼイドの元へ届けられた。

 オルバンスからの『最後通告』と共に。


『明日の夜明けまでに、宣誓書を持って一人で来い。さもなくば、このΩの命はない。ああ、そうだ。君の番から、別れの手紙を預かっているよ』


 ゼイドは、リアムからの手紙を読み、その場で凍りついた。

 弱々しい、だが、決意に満ちた筆跡。

 別れの言葉。


『俺のせいで……リアムは、自ら命を……?』


 最悪の想像が、頭をよぎる。

 オルバンスは、リアムの心を折り、絶望させたのだ。

 全ては、ゼイドを精神的に追い詰めるための、巧妙な罠。

 まんまと、その罠にはまってしまった。


「リアム……すまない……」


 ゼイドの口から、か細い声が漏れる。

 愛する者を、またしても守れなかった。それどころか、絶望の淵にまで追いやってしまった。

 後悔が、鋭い刃となってゼイドの胸を突き刺す。


 ルカが、主君のただならぬ様子に気づき、声をかけた。


「ゼイド様……!まさか、手紙の内容を信じておられるのですか!リアム様が、そんなことを書くはずがありません!これも公爵の罠です!」

「……分かっている」


 ゼイドは、絞り出すように言った。


「分かっている。だが、もし……もし、万が一、リアムが本当に……」


 その先を、口にすることができなかった。

 愛する者を失う恐怖が、帝国最強と謳われた男の心を、容赦なく蝕んでいく。

 引き裂かれた絆。仕組まれた罠。

 絶望の淵に立たされたゼイドは、それでも、最後の希望を捨ててはいなかった。

 たとえ、この身がどうなろうとも。

 リアムだけは、必ず、この手で救い出す。


 夜明けが、刻一刻と迫っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る