第十話「凍てついた過去の誓い」

 リアムが攫われたという報せは、瞬く間にゼイドの部下たちにも伝わった。

 騎士団本部の一室は、かつてないほどの緊張感に包まれている。誰もが、氷のように冷たい殺気を放つ主君の顔色をうかがっていた。


「総長、直ちにオルバンス公爵の屋敷へ乗り込みますか」


 血気にはやる若い騎士がそう進言するが、ゼイドは静かに首を横に振った。


「奴がそう易々と尻尾を掴ませるはずがない。屋敷はもぬけの殻だろう。おそらく、帝都近郊にある奴の私有地の砦だ」

「では、部隊を編成し、砦を包囲します!」

「いや、それも奴の思う壺だ」


 ゼイドは地図を睨みつけながら、冷静に、しかし声の奥に燃えるような怒りを滲ませて言った。


「大軍で押しかければ、奴はリアムを盾にするだろう。そうなれば、手も足も出せなくなる」


 ぐっと唇を噛む騎士たち。

 愛する番を人質に取られ、身動きが取れない。これほど屈辱的な状況はない。

 沈黙が場を支配する中、ずっと黙っていたルカが、意を決したように口を開いた。


「ゼイド様……。どうか、ご冷静に。セリオの時の二の舞にだけは……」


 その名が出た瞬間、ゼイドの纏う空気が、さらに鋭く凍てついた。

 周りにいた騎士たちが、息を呑むのが分かる。

 セリオ。それは、この場にいる古参の者たちにとって、決して忘れることのできない名前だった。


 ゼイドは、何も答えなかった。

 ただ、その紫水晶の瞳の奥に、深い絶望と後悔の色がよぎったのを、ルカは見逃さなかった。


 その夜。

 ゼイドは一人、自室でグラスを傾けていた。中に入っているのは、琥珀色の強い酒。しかし、いくら飲んでも酔うことはできなかった。

 脳裏に焼き付いて離れないのは、リアムの笑顔と、そして、血に塗れた親友の姿。


『セリオ……』


 セリオは、ゼイドの唯一無二の親友だった。

 同じ騎士団に所属し、いつも背中を預け合って戦ってきた、太陽のような男。屈託なく笑う、人懐っこいαだった。

 そんなセリオに、運命の番ができたのは、数年前のこと。

 相手は、下級貴族の家の、とても可憐なΩだった。

 二人は、誰もが羨むほどに愛し合っていた。ゼイドも、親友の幸せを心から祝福した。


 だが、悲劇は突然訪れた。

 そのΩの青年に、ある権力者の伯爵が横恋慕したのだ。

 伯爵は、地位と財力を使い、あらゆる汚い手で二人を引き裂こうとした。脅迫、嫌がらせ、そして……。

 ある夜、セリオは伯爵の差し向けた暗殺者に襲われ、Ωの青年を守って、その命を落とした。

 ゼイドが駆けつけた時、セリオはすでに虫の息だった。


『ゼイド……頼む……あいつを……守って、くれ……』


 それが、親友の最期の言葉だった。

 ゼイドは、親友との約束を果たした。伯爵の悪事をすべて暴き、その一族を完膚なきまでに叩き潰した。

 だが、どれだけ権力者を断罪しても、親友の命は戻らない。

 セリオが愛したΩの青年も、心労がたたって、後を追うように病で亡くなってしまった。


 この事件で、ゼイドの心は深く傷つき、凍てついた。

 番という存在の、脆さ。愛する者がいるという、弱さ。

 守ると誓ったはずの親友を、守れなかった無力感。

 そして、この悲劇の裏で糸を引いていたのが、当時、伯爵と手を組んでいたオルバンス公爵だったことを、ゼイドは突き止めていた。

 オルバンスは、巧妙に証拠を隠滅し、法的な罪に問われることはなかったが、ゼイドは決して忘れていなかった。


『二度と、番など作らない』


 あの日、ゼイドは固く心に誓ったのだ。

 誰かを愛し、その存在に己の心を揺さぶられることは、弱みを作るだけだと。

 愛する者を、自分のせいで危険に晒すわけにはいかないと。

 だから、リアムと出会った時も、最初は『任務』という壁で自分の心を守ろうとした。


 だが、無駄だった。

 リアムの純粋さが、健気さが、凍てついたゼイドの心を少しずつ溶かしていった。

 彼と過ごす穏やかな日々に、忘れていたはずの温かい感情が蘇ってきた。

 そして、気づいた時には、もう手遅れなくらい、リアムを愛していた。

 再び、守りたいと、心から願う存在ができてしまったのだ。


『俺は……また、同じ過ちを繰り返すのか……?』


 グラスの中で、琥珀色の液体が揺れる。

 そこに映るのは、苦悩に顔を歪める自分の姿。

 セリオを守れなかった。そして今、リアムまで。

 自分は、大切なものを守る資格すらないのではないか。

 そんな無力感と自己嫌悪が、ゼイドの心を苛む。


 コンコン、とドアがノックされた。


「……ルカか。入れ」


 入ってきたルカは、ゼイドの前に一枚の羊皮紙を差し出した。


「オルバンス公爵からです」


 そこに書かれていたのは、短い、しかし残酷なメッセージだった。


『愛しい番を返してほしくば、一人で黒鷲の砦へ来い。騎士団総長の座を辞し、すべての罪を認めるという宣誓書を持ってな』


 それは、完全な降伏勧告だった。

 オルバンスは、ゼイドの騎士としての誇りも、地位も、愛する者も、全てを奪い去ろうとしている。

 セリオの時と同じ、いや、それ以上に卑劣な罠。


 ゼイドは、羊皮紙を握りつぶした。

 その瞳には、もはや迷いはなかった。

 宿っていたのは、絶望でも、後悔でもない。

 全てを焼き尽くすほどの、静かで、しかし底なしの怒りの炎だった。


「ルカ。俺の剣を持ってこい」

「ゼイド様……!まさか、一人で行かれるおつもりですか!それは罠です!」

「分かっている」


 ゼイドは立ち上がり、窓の外に広がる闇を見つめた。


「だが、行かねばならん。……今度こそ、俺は、俺の全てを懸けて、守り抜かなければならないんだ」


 親友との、凍てついた過去の誓い。

 そして、愛する番と交わした、温かい未来の約束。

 その全てを背負い、ゼイドはたった一人、決戦の地へと向かう覚悟を決めた。

 夜の闇が、彼の怒りと決意を、静かに包み込んでいた。

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