第九話「忍び寄る黒い影」

 ゼイド様と本当の番になってから、俺の毎日は夢のように幸せだった。

 朝、彼の腕の中で目を覚まし、夜、彼の腕の中で眠りにつく。

 日中は、彼が仕事から帰ってくるのを待ちながら、ルカさんに帝都の文字や礼儀作法を教わったり、屋敷の厨房で料理を習ったりした。

 それは、俺が今まで夢見ることさえできなかった、穏やかで温かい日々だった。


 ゼイド様は、言葉で愛情を伝えるのは苦手なようだったけれど、その代わり、行動で示してくれた。

 俺が少しでも顔を曇らせれば「どうした」と心配そうに眉を寄せ、俺が笑うと、彼も嬉しそうに目を細める。

 独占欲が強いのは相変わらずで、屋敷の使用人(ほとんどがβだが)と俺が少し親しく話しているだけで、あからさまに不機嫌なオーラを出すこともあった。


『やきもち、妬いてるのかな』


 そう思うと、なんだか可愛くて、くすりと笑みがこぼれてしまう。

 そんな俺を見て、彼はさらに眉間のしわを深くするのだ。


 そんなある日、俺は一人で帝都の市場へ買い物に出かけていた。

 最初はゼイド様も「危険だ」と言って許してくれなかったのだけれど、「ルカさんから護衛の騎士もつけてもらうから大丈夫」と説得して、ようやく許可をもらったのだ。

 いつまでも守られてばかりではなく、俺も少しは、この帝都での生活に慣れたかった。


「リアム様、あまり離れないでくださいね」


 護衛の騎士、エリックさんの声に、俺は「はい!」と元気に返事をした。

 市場は活気に満ちていて、歩いているだけで楽しい。色とりどりの野菜や果物、珍しい香辛料の匂い。村の小さな市場とは大違いだ。


『ゼイド様、今日の夕食は何がいいかな』


 彼の好きなものを考えているだけで、自然と顔が綻ぶ。

 と、その時だった。

 人混みの中から、ふと、誰かの視線を感じた。

 振り返ってみたけれど、雑踏の中にその姿を見つけることはできない。


『気のせい、かな……』


 少し胸騒ぎがしたけれど、俺は気を取り直して買い物を続けた。


 その頃、騎士団本部では、ゼイドが一人の部下から報告を受けていた。


「――以上が、オルバンス公爵の最近の動向です」

「そうか。……ご苦労だった」


 部下を下がらせた後、ゼイドは執務机の上で指を組んだ。

 報告によれば、オルバンス公爵は最近、表立った動きを見せていないという。だが、ゼイドには分かっていた。あの男が、このまま大人しくしているはずがない。嵐の前の静けさ、というやつだ。


『奴は、一体何を企んでいる……?』


 オルバンスは、ただ権力を欲しているだけの男ではない。彼の目的は、もっと根深いところにある。

 それは、ゼイド・フォン・ヴァルハイトという存在そのものを、公の場から抹殺すること。

 その執念にも似た憎悪の理由は、二人の過去に深く関わっていた。


 コンコン、と控えめなノックの音。


「失礼します、ゼイド様」


 入ってきたのは、側近のルカだった。彼の表情は、常になく硬い。


「どうした」

「……リアム様が、まだお戻りになりません」


 その言葉に、ゼイドの眉がぴくりと動いた。


「何?エリックを付けていたはずだろう」

「はい。そのエリックから先ほど緊急の連絡が。市場で何者かに襲撃され、リアム様が……攫われた、と」


 ガタンッ!と大きな音を立てて、ゼイドは椅子から立ち上がった。

 全身から、殺気にも似た凄まじいプレッシャーが放たれる。


「……オルバンスか」

「おそらくは。現場には、公爵家の紋章が入った短剣が落ちていたそうです。挑発のつもりでしょう」


 ゼイドは、ぎり、と奥歯を噛み締めた。

 油断していた。リアムを一人で外に出すべきではなかった。

 後悔と、リアムを奪われたことに対する燃え盛るような怒りが、彼の冷静さを奪っていく。


『リアム……!』


 自分の腕の中で、幸せそうに微笑んでいた愛しい番の顔が脳裏に浮かぶ。

 もし、彼の身に何かあったら。

 そう考えただけで、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。


 一方、その頃。

 俺は、麻袋のようなものを頭から被せられ、手足を縛られた状態で、どこかへ運ばれていた。

 市場で買い物をしている最中、突然背後から口を塞がれ、あっという間に意識を失ってしまったのだ。護衛のエリックさんが叫んでいた声が、遠くに聞こえたのを最後に。


 がたん、と馬車が停まる感触。

 俺は乱暴に引きずり出され、どこかの石造りの部屋に投げ込まれた。


「……っ!」


 頭の袋を取られると、薄暗い牢屋のような部屋にいることが分かった。

 目の前には、にこやかな笑みを浮かべた、見覚えのある男が立っていた。


「やあ、リアム君。また会ったね」


 夜会で会った、オルバンス公爵。

 その穏やかな表情とは裏腹に、彼の瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。


「どうして、こんなことを……」

「どうして?決まっているじゃないか。君が、ゼイド・フォン・ヴァルハイトの唯一の弱点だからだよ」


 オルバンス公爵は、楽しそうにそう言った。


「あの氷の男が、君を手に入れてから、ずいぶんと人間らしくなった。実に面白い。だから、試してみたくなったんだ。君という弱点を失った時、あの男がどんな顔をするのかをね」


 その狂気に満ちた言葉に、俺は背筋が凍るのを感じた。

 この人は、ただの権力争いなんかじゃない。ゼイド様個人に、強い憎しみを抱いている。


「それに、君自身にも興味があるんだよ、『サイレント・オメガ』。その特異な体質、実に研究のしがいがある。うまくいけば、αを意のままに操る兵器として利用できるかもしれない」


 彼は、うっとりとした表情で、俺の髪に触れようと手を伸ばしてきた。

 俺は、恐怖で身を固くする。


『ゼイド様……助けて……!』


 心の中で、必死に彼の名前を呼んだ。

 でも、ここには誰もいない。俺は、この恐ろしい男の手に落ちてしまったのだ。

 絶望が、冷たい霧のように俺の心を覆っていく。

 俺たちの幸せな日々は、こんなにもあっけなく、黒い影によって打ち砕かれてしまったのだった。

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