第八話「芽生えた不器用な恋心」

 熱に浮かされた一夜が明けた。

 俺が目を覚ますと、隣には静かな寝息を立てるゼイド様の姿があった。

 眠っている時の彼は、普段の冷徹さが嘘のように、どこか無防備で、年相応の青年の顔をしている。

 朝日を浴びてきらきらと輝く白銀の髪に、そっと指で触れてみた。


『夢じゃ、なかったんだ……』


 昨夜の出来事が、洪水のように頭の中を駆け巡る。

 うなじに残る、甘く疼くような痕。体中に刻まれた、彼の独占欲の証。

 顔が、かあっと熱くなる。

 俺たちは、本当の番のように結ばれたのだ。


 その事実に、胸が締め付けられるほど嬉しくなる一方で、不安も押し寄せてくる。

 あれは、ヒートのせいだ。Ωの本能に、お互いが突き動かされただけ。

 目が覚めたゼイド様は、きっと昨夜のことを後悔しているに違いない。「偽りの関係だと言ったはずだ」と、冷たく突き放されてしまうかもしれない。


 そう思うと、怖くてたまらなくなった。

 俺はそっとベッドを抜け出し、彼が目を覚ます前に部屋を出ようとした。

 しかし、俺が身じろぎした瞬間、背後から伸びてきた力強い腕に、ぐっと腰を引き寄せられた。


「ひゃっ……!?」


 背中に、彼のたくましい裸の胸板がぴったりと密着する。


「……どこへ行く」


 耳元で囁かれたのは、眠気を含んだ低い声。

 振り返ると、いつの間にか目を覚ましていたゼイド様が、紫水晶の瞳でじっと俺を見つめていた。

 その瞳には、後悔の色も、怒りの色も見当たらない。ただ、静かな光が宿っているだけだった。


「あ、あの……お、起こしてしまって、すみません……」

「……いや」


 気まずい沈黙が流れる。

 俺は、何か言わなければと焦るけれど、言葉が見つからない。

 先に口を開いたのは、ゼイド様の方だった。


「体は……大丈夫か」


 ぶっきらぼうな、だけど気遣わしげな響き。

 俺は、こくりと小さく頷いた。


「だ、大丈夫です……あの、昨日のことは……その、ヒートのせい、なので……ゼイド様は、気にしないで……」

「気にするな、と?」


 俺の言葉を、ゼイド様が遮る。

 彼はゆっくりと体を起こすと、俺の顎に手を添え、無理やり顔を上向かせた。

 まっすぐに見つめてくる、真剣な眼差し。


「あれが、本能だけの行為だったと?お前は、そう言いたいのか」

「え……」

「俺は違う」


 きっぱりとした、強い声。


「俺は、俺自身の意志で、お前を抱いた。……番に、したかったからだ」


 その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 番にしたかった?俺を?

 偽りじゃなく、本当に?


「で、でも……任務の、ためだって……」

「最初は、そうだった」


 ゼイド様は、ふっと自嘲するように息を吐いた。


「だが、お前と過ごすうちに、分からなくなった。いつからか、お前のことを目で追っている自分がいた。お前が笑うと、胸が温かくなる。お前が悲しんでいると、胸が痛む。……あの男がお前を殴ろうとした時、俺は、生まれて初めて、嫉妬という感情を知った」


 独白のような、彼の告白。

 俺は、信じられない気持ちで、ただ彼の言葉を聞いていた。


「昨夜、お前のフェロモンを感じた時、思った。誰にも渡したくない、と。……俺だけのものにしたい、と」


 ゼイド様は、そっと俺の頬を撫でた。その指先は、少しだけ震えているように見えた。

 いつも冷静で、ポーカーフェイスなこの人が、感情を露わにしている。

 その事実が、彼の言葉が嘘ではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。


「リアム。……俺は、お前が欲しい」


 それは、命令でも、任務でもない。

 ゼイド・フォン・ヴァルハイトという一人のαの、魂からの叫びだった。

 気づけば、俺の目からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。


「俺も……です……」


 しゃくり上げながら、なんとか声を絞り出す。


「俺も、ゼイド様が、好き……です……ずっと、ずっと前から……」


 その言葉を聞いた瞬間、ゼイド様の表情が、ふわりと柔らかく綻んだ。

 初めて見る、彼の心からの笑顔。

 それは、どんな宝石よりも綺麗で、俺の心を完全に奪っていった。


 彼は、壊れ物を扱うように、優しく俺の体を抱きしめる。


「偽りの関係は、もう終わりだ」


 耳元で、確かな誓いの言葉が囁かれる。


「お前は、俺の、本当の番だ」


 ヒートをきっかけに、俺たちの心は、ようやく本当の意味で結ばれた。

 その日からのゼイド様は、今までが嘘のように、俺に甘くなった。

 不器用なところは相変わらずだったけれど、俺を溺愛しているのが手に取るように分かった。


 剣の稽古をつけてくれる、と言って、手取り足取り教えてくれるけれど、ほとんど後ろから抱きしめているだけだったり。

 市場に買い物に連れて行ってくれて、俺が少しでも興味を示したものを、全部買い占めようとしたり。

 俺が作った、お世辞にも上手いとは言えない料理を、「美味い」と言って、残さず全部食べてくれたり。


 その不器用な愛情表現の一つ一つが、たまらなく愛おしくて、俺は毎日、幸せを噛み締めていた。

 もう、灰色の世界じゃない。

 俺の世界は、ゼイド様という光のおかげで、鮮やかな色に満ち溢れていた。


 この幸せが、永遠に続けばいい。

 心の底から、そう願った。

 だが、俺たちはまだ知らなかった。

 俺たちの幸せを脅かす黒い影が、すぐそこまで忍び寄ってきていることを。

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