第五話「社交界の洗礼と不意の庇護」

「夜会……ですか?」


 俺は、ルカさんの言葉に思わず素っ頓狂な声を上げた。

 ゼイド様の屋敷に来て、一週間が経った頃のことだ。


「はい。今宵、王城で開かれる夜会に、ゼイド様とご一緒していただきます。リアム様を、ゼイド様の番として正式にお披露目する場でございます」

「お、お披露目って……そんな、俺なんかが……」


 想像しただけで、足がすくむ。

 王城の夜会。そこは、きらびやかな衣装を纏った貴族たちが集う、俺とは無縁の世界だ。

 そんな場所に、村育ちで何の作法も知らない俺が行ったら、ゼイド様に恥をかかせてしまうに違いない。


「だ、だめです!俺、そういうの全然分かりませんし、きっと失敗します!」

「ご心配には及びませんよ」


 俺が慌てて首を横に振ると、ルカさんはにこやかに微笑んだ。


「リアム様は、ただゼイド様の隣で微笑んでいればよろしいのです。あとのことは、全てゼイド様がエスコートしてくださいますから」


 そう言われても、不安は消えない。

 俺がうじうじしていると、部屋に使用人たちがぞろぞろと入ってきた。手には、衣装や装飾品の数々。あれよあれよという間に、俺は着せ替え人形のようにされるがままになってしまった。


 用意されたのは、夜の闇を溶かし込んだような、深い藍色の礼服だった。上質な生地には銀糸で繊細な刺繍が施されていて、光が当たると星屑のようにきらきらと輝く。

 生まれて初めて身に着ける、豪華な衣装。鏡に映った自分の姿は、あまりにも見慣れなくて、なんだかそわそわしてしまう。


「まあ、リアム様!とてもよくお似合いです!」


 ルカさんが、心から感心したように声を上げる。

 でも、俺は不安で仕方なかった。こんな綺麗な服、汚してしまったらどうしよう。


 準備が整い、広間で待っていると、階段の上からゼイド様が降りてきた。

 彼もまた、黒を基調とした豪奢な軍礼服を身に纏っていた。肩に輝く黄金の飾り紐が、彼の地位の高さを物語っている。

 いつも以上に威厳に満ちたその姿に、俺は思わず見惚れてしまった。


 ゼイド様は、俺の姿を認めると、無表情のままゆっくりと近づいてきた。

 そして、すっと俺の目の前に立つと、品定めするように俺を上から下まで眺める。


「……」


 何も言わない。その沈黙が、怖い。

 やっぱり、似合ってないんだ。俺みたいな奴が、こんな立派な服を着るなんて、滑稽なんだ。

 俯いて、唇をぎゅっと噛み締めた、その時。


「……悪くない」


 ぽつりと、呟くような声が降ってきた。

 顔を上げると、ゼイド様がほんのわずかに、本当に微かに、口元を緩めているような気がした。


「行くぞ」


 彼はそう言うと、俺に腕を差し出した。

 エスコート、というものだ。ルカさんから事前に教わっていた。

 俺は緊張で震える指先で、そっとゼイド様の腕に自分の手を重ねる。硬い軍服の生地越しに、彼の体温が伝わってくるようで、心臓が大きく跳ねた。


 王城へ向かう馬車の中、俺は隣に座るゼイド様をこっそりと盗み見た。

 彼の横顔は、彫刻のように整っていて、月明かりに照らされてぞっとするほど美しい。

 でも、その表情は相変わらず硬く、何を考えているのか全く読めない。


『本当に、俺でいいのかな……』


 不安が胸をよぎる。

 でも、今更逃げ出すことなんてできない。

 これは、任務なんだ。俺が、ゼイド様の役に立てる、唯一のこと。

 俺は、きゅっと拳を握りしめた。


 王城に到着すると、そこはまさに夢の世界だった。

 数えきれないほどのシャンデリアが煌めき、広間には着飾った紳士淑女たちが溢れている。軽やかな音楽が流れ、あちこちで楽しそうな笑い声が聞こえる。

 俺は、その圧倒的な光景に完全に気圧されてしまった。


「リアム。顔がこわばっている。もっと堂々としていろ」


 隣から、ゼイド様の低い声が聞こえる。


「む、無理です……」

「俺の番だろう。みっともない姿を晒すな」


 その言葉に、俺ははっとした。

 そうだ。俺は今、ゼイド・フォン・ヴァルハイトの番としてここにいるんだ。

 たとえ偽りでも、彼の名に泥を塗るわけにはいかない。

 俺は深呼吸を一つして、ぐっと背筋を伸ばした。


 ゼイド様にエスコートされながら広間を進むと、周りからたくさんの視線が注がれるのが分かった。

 好奇の目、嫉妬の目、そして、探るような目。

 特に、Ωの貴族たちからの視線は、針のように鋭く突き刺さってくる。


『氷の騎士団長が、番を連れている』

『どこの家の者だ?見たことがない』

『ずいぶん地味なΩだな』


 ひそひそと交わされる囁き声が、耳に届いてくる。

 俺は俯きたくなるのを必死でこらえ、ゼイド様の腕を掴む手に力を込めた。


 しばらくすると、何人かの貴族が挨拶にやってきた。

 ゼイド様は、俺を「俺の番のリアムだ」と淡々と紹介する。そのたびに、俺はぎこちなくお辞儀を繰り返した。


 そんな中、一人の派手な身なりをした若いαが、ねっとりとした視線を俺に向けながら近づいてきた。


「これはヴァルハイト総長。隣に美しい花を連れていらっしゃるとは。初めまして、私はフォルスター子爵と申します。よろしければ、あなた様のお名前を?」


 子爵は、俺に向かって手を差し出してきた。

 どうすればいいか分からず、俺がゼイド様の方を見ると、彼は氷のような瞳で子爵を睨みつけていた。


「俺の番に、気安く触れるな」


 地を這うような低い声。その場にいた誰もが息を呑むほどの、凄まじい威圧感。

 フォルスター子爵は、顔を真っ青にして、慌てて手を引っ込めた。


「こ、これは失礼いたしました!」


 子爵が逃げるように去っていくのを、俺は呆然と見送った。

 ゼイド様は、俺が掴んでいた腕をぐいと引き寄せ、自分の体のすぐそばに俺を囲い込むようにして立つ。


「俺から離れるな」


 耳元で囁かれた声に、俺の体はびくりと震えた。

 背中に、彼の硬い胸板が触れている。彼の体から発せられる、冷たい冬の夜のような、それでいてどこか心を落ち着かせるαのフェロモンが、俺をふわりと包み込んだ。


『守って、くれた……?』


 偽りの関係のはずなのに。

 任務のためのはずなのに。

 今のは、まるで、本当に俺が彼の大切な番であるかのような……。


 どく、どく、と心臓がうるさい。

 顔に熱が集まっていくのが分かる。


「ゼイド様……」


 俺が彼の名前を呼ぼうとした、その時。

 広間の向こうから、一人の男が穏やかな笑みを浮かべてこちらに歩いてくるのが見えた。

 年の頃はゼイド様と同じくらいだろうか。柔らかな物腰の、優しそうなα。

 だが、その男を見た瞬間、ゼイド様の纏う空気が、ぴりりとさらに張り詰めたのを俺は感じた。


「やあ、ヴァルハイト総長。素晴らしい夜だね。……隣の方は、噂の君の番かな?」


 男は、にこやかにゼイド様に話しかける。

 ゼイド様は、温度のない声で短く答えた。


「……オルバンス公爵」


 その名前に、俺は息を呑んだ。

 この人が、ゼイド様の命を狙っているという、政敵。


 オルバンス公爵は、値踏みするように俺に視線を向けると、その笑みを一層深めた。


「初めまして、リアム君、だったかな。私はオルバンスだ。よろしく。それにしても、君からは何の香りもしない。実に不思議なΩだね」


 その言葉には、明らかに棘があった。

 俺が『サイレント・オメガ』であることを、彼はまだ知らないはずだ。

 だが、その探るような視線は、俺の全てを暴こうとしているようで、背筋がぞっとした。


「失礼する」


 ゼイド様はそれ以上会話を続ける気はないらしく、俺の腰に手を回すと、オルバンス公爵に背を向けてその場を離れた。

 去り際に振り返ると、オルバンス公爵はまだ、意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見ていた。


『怖い人だ……』


 あの笑顔の裏には、きっと底知れない闇が隠されている。

 俺はぶるりと体を震わせた。

 すると、腰に回されたゼイド様の腕に、ぐっと力が込められる。


「心配するな。俺がそばにいる」


 不意にかけられた、ぶっきらぼうな、だけど力強い言葉。

 俺は、驚いて彼の顔を見上げた。

 相変わらず無表情だったけれど、その紫水晶の瞳の奥に、確かな意志の光が宿っているのが見えた。


 偽りの関係。偽りの番。

 でも、今この瞬間だけは。

 この力強い腕の中で、俺は確かに、守られていると感じていた。

 社交界という華やかで残酷な世界で、俺が唯一寄りかかれるのは、この冷たい騎士様だけなのだと、痛いほどに実感した夜だった。

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