第四話「サイレント・オメガの秘密」

 ゼイド様と共に夕食をとる、という命令に、俺の心臓は破裂しそうなくらい高鳴っていた。

 広すぎるダイニングテーブルで、帝国最強の騎士団総長と二人きり。豪華な料理が並べられているのに、緊張で喉を通る気がしなかった。


「……食わんのか」


 正面に座るゼイド様が、静かに問いかけてくる。

 俺はびくりと肩を揺らし、慌ててカトラリーを手に取った。


「い、いただきます!」


 ぎこちない手つきでスープを口に運ぶ。美味しいはずなのに、味がよくわからない。

 ちらりとゼイド様を盗み見ると、彼は優雅な所作で食事を進めていた。その一挙手一投足が洗練されていて、俺とは住む世界が違うのだと改めて思い知らされる。


『なんで、俺なんだろう……』


 あの疑問が、また頭をもたげてくる。

 偽りの番を演じさせるなら、もっと相応しい人がいるはずだ。どうして、辺境の村で虐げられていただけの、出来損ないの俺なんかを。


 食事の間、会話はほとんどなかった。重苦しい沈黙が、ただただ気まずい。

 食事が終わると、ゼイド様は俺に「書斎に来い」とだけ告げて席を立った。

 俺は不安な気持ちを抱えながら、彼の後についていく。


 通された書斎は、壁一面が本棚で埋め尽くされていた。革張りのソファと、重厚な執務机。部屋には、古い紙とインクの匂いが満ちている。


「そこに座れ」


 ゼイド様はソファを指し示す。俺が恐る恐る腰を下ろすと、彼は執務机の椅子に深く腰掛け、まっすぐに俺を見つめた。

 その紫水晶の瞳に見据えられると、何もかも見透かされてしまうような気がして居心地が悪い。


「リアム。お前をここに連れてきた理由を話しておこう」

「……はい」


 ごくり、と喉が鳴る。

 ついに、その時が来た。俺がずっと知りたかった、その理由。


「単刀直入に言う。俺は今、政敵に命を狙われている。番(つがい)となる相手もだ」

「え……」


 予想もしていなかった言葉に、俺は息を呑んだ。

 命を狙われている?この、帝国最強の人が?


「俺の政敵……オルバンス公爵という男がいる。奴は、俺を失脚させるためならどんな汚い手も使う。特に、俺の番を人質に取り、弱みとして利用しようと画策している」


 ゼイド様は淡々と、しかしその声には確かな険が含まれていた。


「だからこそ、俺は番を作らなかった。誰かを危険に晒すわけにはいかないからな。だが、あまりに番がいないことで、逆に足元を見られるようになった。『あの男には情がない』『αとして欠陥があるのでは』とな。それが騎士団の士気にも影響し始めている」


 なるほど。だから、番がいるように見せかける必要があったんだ。

 でも、だとしたら、なおさら疑問が深まる。


「あの……それなら、どうして俺なんですか?もっと、その……ちゃんとしたΩの方とか……」


 俺がそう尋ねると、ゼイド様は少しだけ目を細めた。


「お前が、『サイレント・オメガ』だからだ」

「さいれんと……おめが?」


 初めて聞く言葉に、俺は首をかしげる。

 すると、書斎のドアがノックされ、ルカさんが紅茶を運んで入ってきた。


「ゼイド様、リアム様。夜のお飲み物です」

「ああ。……ルカ、お前から説明してやれ」

「かしこまりました」


 ルカさんは俺の前に紅茶のカップを置くと、穏やかな笑みを浮かべて話し始めた。


「リアム様。Ωのフェロモンは、通常、ほとんどのαとβが感知できます。ですが、ごく稀に、特定のαにしか感じられない、非常に特殊なフェロモンを持つΩが生まれることがあります。それが『サイレント・オメガ』です」

「特定の、αにしか……」

「はい。その香りは、運命の番、あるいは魂が強く引き合う相手にしか届かないと言われています。そして、その香りを感知できたαは、他のどんなΩのフェロモンよりも強く、そのサイレント・オメガに惹きつけられるのです」


 ルカさんの説明に、俺は呆然とした。

 俺が、そんな特別な?出来損ないなんかじゃなくて?


「ゼイド様は、リアム様のその特別な香りを感知できた、唯一のαなのです。……少なくとも、今のところは」


 ルカさんの言葉に、ゼイド様が静かに付け加える。


「俺がお前の番となれば、オルバンス公爵も手が出しにくくなる。なぜなら、他のαにはお前のフェロモンが感じられないからだ。奴らがお前の存在を特定し、狙うことは極めて困難になる。お前にとっても、俺の庇護下にあることが最も安全だということだ」


 そういうことだったのか。

 俺が持つ特殊な体質が、ゼイド様の『任務』に都合が良かった。

 そして、俺の安全も考えてくれていた。


『道具として、だけじゃなかったんだ……』


 少しだけ、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「だが、勘違いするな」


 そんな俺の心を読んだかのように、ゼイド様が冷や水を浴びせる。


「これはあくまで偽装だ。お前と俺の間に、それ以上の関係はない。任務が終われば、お前には十分な報酬を与えて解放する。それまでは、俺の命令にだけ従っていればいい」


 その言葉は、やはり少しだけ胸に刺さった。

 分かっている。分かっているけど、少しだけ期待してしまった自分が恥ずかしい。

 俺は、彼の本当の番じゃない。ただの、偽物。


「……分かりました」


 俯いてそう答えるのが、俺には精一杯だった。


 その日から、俺の生活は少しだけ変わった。

 ゼイド様は相変わらず冷たくて無愛想だったけれど、俺が彼の『サイレント・オメガ』なのだと知ってから、彼の態度に微かな変化があることに気づいた。

 時々、俺をじっと見つめていることがある。その紫水晶の瞳には、以前のような完全な無関心ではない、何か別の色が混じっているような気がした。


 俺も、自分の体質について知ってから、少しだけ自分に自信が持てるようになった。

 出来損ないじゃない。俺は、特別なΩなんだ。

 ゼイド様だけが、俺の価値を見つけてくれた。

 その事実が、暗く沈んでいた俺の心に、小さな灯火をともしてくれた。


 偽りの関係。期間限定の温もり。

 それでも、今は、この場所にいたい。

 この人の隣に、少しでも長く。


 紅茶のカップを両手で包み込む。指先に伝わる温かさが、まるでゼイド様から与えられた、初めての温もりのように感じられた。

 俺たちの奇妙な関係は、まだ始まったばかりだ。

 この先に何が待っているのか、俺にはまだ知る由もなかった。

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