第六話「過去からの亡霊」

 夜会から数日後。俺の生活は、また元の穏やかなものに戻っていた。

 ゼイド様は毎日公務で忙しく、顔を合わせるのは朝と夜の食事の時くらい。会話も相変わらず少ない。

 でも、夜会のあの日以来、俺たちの間には何か微かな変化が生まれていた。


 以前よりも、ゼイド様の視線を感じることが増えた。

 俺が庭で花を眺めている時、書庫で本を読んでいる時、ふと気づくと、遠くから彼が俺をじっと見ていることがある。

 目が合うと、彼は気まずそうにふいと視線を逸らしてしまうのだけれど。


 その視線が、嫌ではなかった。

 むしろ、気にかけてもらえているような気がして、胸の奥がくすぐったいような、温かいような気持ちになる。


『俺のこと、見ててくれてるんだ』


 ただそれだけで、灰色だった俺の世界に、少しずつ色が灯っていくような気がした。


 そんな穏やかな午後を打ち破るように、それは突然やってきた。

 俺がルカさんと一緒に中庭でお茶を飲んでいると、玄関の方から何やら騒がしい声が聞こえてきたのだ。


「なんでしょう?リアム様はここにいてください。私が見てきます」


 ルカさんが席を立ち、母屋の方へ向かっていく。

 俺は不安に思いながら、一人で彼の帰りを待っていた。


 しばらくして戻ってきたルカさんの表情は、明らかに曇っていた。


「リアム様……お客様です」

「お客様?俺に?」


 誰だろう。俺に会いに来る人なんて、いるはずがないのに。

 怪訝に思いながらルカさんに案内されて玄関ホールへ向かうと、そこに立っていた人物を見て、俺は全身の血の気が引くのを感じた。


「よぉ、リアム。ずいぶん立派な暮らししてるじゃねえか」


 下品な笑みを浮かべてそこに立っていたのは、村にいた頃、俺を一番いじめていた男だった。父の弟、つまり俺の叔父にあたる男だ。

 なんで、この人がここに。


「どうして……」

「どうして、じゃねえよ。お前が騎士様んとこに行ったって聞いてな。心配で、わざわざ帝都まで様子を見に来てやったんだろうが」


 心配、なんて真っ赤な嘘だ。この男の濁った目が、金のことしか考えていないのを物語っている。

 きっと、ゼイド様が父さんたちに渡した金貨の話を聞きつけて、自分も分け前にあずかろうとやってきたに違いない。


「お、お帰りください!俺は、もうあなたたちとは関係ありません!」


 恐怖を押し殺し、俺は震える声で叫んだ。

 すると、叔父はカッと目を見開き、ずかずかと俺に詰め寄ってきた。


「なんだと、この出来損ないが!誰のおかげで今まで生きてこられたと思ってやがる!」


 振り上げられた手に、俺は思わずぎゅっと目を瞑る。

 殴られる。

 村にいた頃、何度も何度も繰り返された暴力。あの痛みが、恐怖が、鮮明に蘇る。


 しかし、予想していた衝撃は来なかった。

 恐る恐る目を開けると、俺の目の前には、大きな背中があった。

 黒銀の鎧を纏った、ゼイド様の背中。

 彼が、俺と叔父の間に立ちはだかり、その振り上げられた腕を、鷲掴みにしていた。


「……貴様、誰の所有物に手を出そうとしている?」


 地獄の底から響くような、凍てつく声。

 その声に含まれた殺気に、叔父だけでなく、俺まで体が震えた。


「ゼッ、ゼイド様……!い、いつの間に……」

「な、なんだてめぇは!離せ!」


 叔父はゼイド様の腕を振り払おうともがくが、まるで鋼鉄の万力で掴まれたように、びくともしない。


「もう一度問う。誰の許可を得て、俺の番に触れようとした?」


 ぎり、とゼイド様が手に力を込める。叔父の顔が、苦痛に歪んだ。


「ひぃっ!す、すみません!許してください!」

「ルカ。こいつを衛兵に突き出せ。不法侵入と、俺の番への暴行未遂だ。二度と帝都の土を踏めんようにしろ」

「かしこまりました」


 ゼイド様が腕を離すと、叔父はへなへなと床にへたり込んだ。すぐに駆けつけた衛兵たちによって、彼はあっという間に屋敷から連れ出されていく。

 嵐のような出来事が去り、ホールには静寂が戻った。


 俺は、まだ体の震えが止まらなかった。

 過去の恐怖が、亡霊のように俺にまとわりついて離れない。


「……リアム」


 不意に、名前を呼ばれた。

 顔を上げると、ゼイド様が心配そうな、それでいて少し怒っているような、複雑な表情で俺を見つめていた。


「怪我はないか」

「は、はい……大丈夫、です。あの、ありがとうございました……」


 か細い声で礼を言うと、ゼイド様は何も言わずに俺に近づき、そっと俺の体を抱きしめた。


「え……っ!?」


 突然のことに、俺は思考が停止する。

 硬い鎧の感触。彼の胸に顔を埋める形になり、すぐそばで、とくん、とくん、と彼の心臓の音が聞こえる。

 そして、俺を安心させるように、ふわりと彼のフェロモンが香った。冷たい冬の夜の香り。でも、不思議と今は、それがとても温かく感じられた。


「……あんな奴らのことなど、忘れろ」


 頭の上から降ってきた声は、いつものような冷たさはなく、不器用な優しさに満ちていた。


「お前はもう、虐げられるだけの存在じゃない。俺が、ここにいる。俺がお前を守る」


 その言葉が、凍りついていた俺の心を、じんわりと溶かしていく。

 ああ、俺は。

 本当に、守られているんだ。

 この、強くて、不器用で、優しい人に。


 気づけば、俺は彼の胸に顔をうずめて、声を上げて泣いていた。

 村で受けた仕打ちの悲しみ。一人で耐えてきた寂しさ。そして、今、こうして誰かに守ってもらえているという、どうしようもないほどの安堵感。

 全ての感情がごちゃ混ぜになって、涙になって溢れ出した。


 ゼイド様は、俺が泣き止むまで、何も言わずに、ただ強く、強く抱きしめてくれていた。

 その腕の中で、俺は初めて、心の底から安心することができた。


 過去の亡霊は、まだ俺を苛むかもしれない。

 でも、もう一人じゃない。

 俺の隣には、この人がいる。

 偽りの番だとしても、彼がくれる温もりは、紛れもなく本物だった。


 この温かい腕の中が、俺の新しい居場所。

 陽だまりの在り処なのだと、この時、俺は確信したのだった。

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