第二話「偽りの番という名の命令」

 帝都までの道のりは、三日を要した。

 その間、ゼイド様と俺が言葉を交わすことはほとんどなかった。

 彼はただ黙って本を読むか、目を閉じて瞑想しているかで、俺のことなど存在しないかのように振る舞った。

 俺も、何を話していいかわからず、ただ馬車の隅で息を殺して小さくなっていた。


 時折、食事や休憩のために馬車が停まる。そのたびに、ゼイド様の部下らしい騎士が、俺に食事や飲み物を差し入れてくれた。

 皆、屈強なβたちで、俺を珍しそうに眺めはしたが、村の人たちのような侮蔑の視線を向ける者はいなかった。それだけが、唯一の救いだったかもしれない。


『番のふり、か……』


 移動中、俺はずっとその言葉について考えていた。

 どうして、この人は俺なんかを番のふりにする必要があるのだろう。

 ゼイド様ほどの、誰もが羨むエリートαなら、よりどりみどりの美しいΩや、家柄の良いβを番にできるはずだ。

 それなのに、どうして俺?フェロモンもろくに出ない、出来損ないのΩ。


 考えても、答えは出なかった。

 ただ、ゼイド様が俺に言った「陽だまりのような甘い香り」という言葉だけが、頭の中で何度もこだましていた。

 あの言葉は、本当だったのだろうか。それとも、俺を連れ出すための、ただの方便だったのだろうか。


 やがて、馬車は帝都に到着した。

 窓の外に広がる光景に、俺は息を呑んだ。

 天を突くようにそびえる白い城壁。整然と並んだ壮麗な石造りの建物。活気に満ち、行き交う人々の服装も、村とは比べ物にならないほど華やかだ。

 何もかもが、俺の知っていた灰色の世界とは違っていた。


 馬車は、そんな帝都の中心にある、一際大きな屋敷の前で停まった。

 ここが、ゼイド様の住まいらしい。

 門の前で控えていた使用人たちが、一斉に深々と頭を下げる。俺はあまりの光景に気圧されて、ただおろおろするばかりだった。


「降りろ」


 ゼイド様に促され、おずおずと馬車を降りる。

 屋敷の中に通されると、そこはまるでお城のようだった。磨き上げられた大理石の床、天井から吊るされた巨大なシャンデリア、壁にかけられた見事な絵画。

 俺が今まで暮らしてきた、みすぼらしい家とは天と地ほどの差があった。


「ルカ」


 ゼイド様が呼ぶと、奥から人の良さそうな、少し年配の男性が現れた。βのようだ。


「お帰りなさいませ、ゼイド様。こちらの方が?」

「ああ。リアムだ。今日からここに住まわせる。部屋と、身の回りの世話を頼む」

「かしこまりました」


 ルカと名乗ったその人は、にこやかに俺に向かってお辞儀をした。


「リアム様ですね。私はルカと申します。ゼイド様の側仕えをしております。以後、お見知りおきを」

「あ、あの、俺、様なんて……」


 そんなふうに丁寧に扱われたことなど一度もなかったから、どう反応していいかわからない。

 俺が戸惑っていると、ゼイド様が冷たく言い放った。


「お前は今日から、俺の番だ。対外的には、だがな。そのように振る舞え」

「……っ!」


 心臓が、どきりと大きく音を立てた。

 番。その言葉の重みに、くらりとする。たとえ、それが偽りだとしても。


「いいか、リアム。これは命令だ。俺がお前の主で、お前は俺の所有物だ。分かったな」


 有無を言わせぬ、絶対的な支配者の声。

 俺は、こくりと小さく頷くことしかできなかった。

 ゼイド様はそれに満足したのか、ふいと俺から興味を失ったように背を向け、書斎らしき部屋へと消えていった。


 残されたのは、俺とルカさん。

 気まずい沈黙が流れる。


「あ、あの……」

「さ、リアム様。お部屋にご案内しますね。長旅でお疲れでしょう」


 俺の気まずさを察したのか、ルカさんはにこやかにそう言ってくれた。

 彼の後について、長い廊下を歩く。どこもかしこも磨き上げられていて、俺は自分の薄汚れた服が申し訳なくなるくらいだった。


 通された部屋は、信じられないくらい広くて、綺麗だった。

 大きな天蓋付きのベッドに、柔らかな絨毯。窓の外には、手入れの行き届いた美しい庭が見える。

 俺が今まで寝ていた、固くて冷たい藁のベッドとは大違いだ。


「ここで、俺が……?」

「はい。ここがリアム様のお部屋です。何かご不自由がございましたら、何なりとお申し付けください」


 ルカさんはそう言うと、部屋の隅にある扉を開けた。中には、たくさんの服が並んでいた。どれも、俺が今まで着ていたぼろ布とは違う、上質で清潔な服ばかり。


「お風呂の準備もできております。まずは、旅の汚れを落としてください。お食事はその後、お部屋にお持ちします」

「……ありがとうございます」


 俺は、か細い声で礼を言うのが精一杯だった。

 ルカさんが部屋から出ていくと、俺は一人、その場に立ち尽くした。


『夢、みたいだ……』


 ふわふわのベッドに、そっと腰掛けてみる。体が沈み込むような、柔らかな感触。

 こんな贅沢、許されるのだろうか。俺みたいな、出来損ないに。

 ゼイド様は、俺を所有物だと言った。番のふりをしろ、と。

 きっと、何か理由があるのだろう。俺にはわからない、この人の世界の、複雑な事情が。

 俺は、ただの道具。任務のために、一時的にここに置かれているだけ。


 そう頭では分かっているのに。

 胸の奥が、ちりちりと痛んだ。

 偽りの番。その言葉が、やけに重くのしかかってくる。


 しばらくして、使用人に呼ばれ、俺はお風呂へと案内された。

 村の家では、行水くらいしかしたことがなかった。こんなに広くて、温かい湯に満たされた湯船に浸かるのは、生まれて初めてだった。

 体の汚れと一緒に、心の澱まで洗い流されていくような気がした。


 風呂から上がると、部屋には新しい寝間着が用意されていた。さらりとした肌触りの良い生地だ。

 それを身に着けてベッドに横になると、どっと疲れが押し寄せてきた。


『これから、どうなるんだろう……』


 ゼイド様は、冷たくて、怖い人だ。

 でも、俺をあの灰色の世界から連れ出してくれた人でもある。

 彼の紫水晶の瞳を思い出す。氷のように冷たいのに、なぜか目を逸らせなくなる、不思議な色。

 そして、耳元で囁かれた言葉。


『陽だまりのような……甘い香りだ』


 もし、本当に俺からそんな香りがするのなら。

 この人だけが、それに気づいてくれたのなら。


 それは、ほんの少しだけ、嬉しいことなのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、俺の意識は深い眠りの中へと沈んでいった。

 帝国最強のαと、出来損ないのΩ。

 交わるはずのなかった二人の運命が、この帝都で、静かに動き始めていた。

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