辺境の村で虐げられていた「出来損ないΩ」の僕。帝国最強の冷徹騎士に「偽りの番」として買われたら、なぜか極上の愛と食事を与えられ溺愛される

藤宮かすみ

第一話「灰色の青年と黒銀の騎士」

 物心ついた時から、俺の世界は色褪せた灰色だった。

 降りしきる雨の音も、土埃の匂いも、肌を刺す風の冷たさも、すべてが同じ色をしていた。喜びも悲しみも、とうの昔にすり減ってしまったかのような、そんな単調な毎日。


「リアム!いつまで突っ立ってる!さっさと水汲みを済ませろ、この出来損ないが!」


 母の甲高い声が、痩せた背中に突き刺さる。俺はびくりと肩を震わせ、空っぽの桶を震える両手で抱え直した。

 出来損ない。それが、この村で俺に与えられた、名前以外の唯一の呼び名だった。

 リアム、と優しく呼ばれた記憶など、どこにもない。


 この世界には、三つの性別が存在する。生まれながらにして他者を率いるα(アルファ)。大多数を占める平凡なβ(ベータ)。そして、子を産むための性であるΩ(オメガ)。

 俺はそのΩとして生を受けた。本来、希少なΩは庇護され、大切にされるはずだった。だが、俺は違った。

 Ω特有の、αを惹きつけてやまない甘いフェロモン。それが、俺にはほとんどなかったからだ。ヒートと呼ばれる発情期でさえ、数年に一度、微熱が出る程度。Ωとしての役割を果たせない俺は、家族からも村人からも、ただ飯を食い潰すだけの厄介者として扱われていた。


『まただ。また、みんな俺をそんな目で見る』


 村の井戸へ続くぬかるんだ道を、俯いて歩く。すれ違う人々の視線が痛い。憐れみ、侮蔑、そして何より心を抉る無関心。そんな感情がごちゃ混ぜになった視線には、もう慣れたはずなのに。

 ぎゅっと唇を噛み、歩みを速める。早く、早くこの場から消えてしまいたい。


 その日、村は朝から妙にざわついていた。帝都から高名な騎士様が視察に来るらしい、と村長が触れ回っていたからだ。誰もがそわそわと落ち着かない様子だった。

 もちろん、俺には関係のない話だ。騎士様が、俺のような『出来損ない』に目を留めるはずもない。


 そう、思っていたのに。


「おい、お前」


 井戸で水を汲み終え、重い桶を抱えて家路を辿っていた時、不意に地を這うような低い声に呼び止められた。

 顔を上げると、そこにいたのは、今まで見たどんな人間とも違う、異質な空気を纏った男だった。

 陽の光を吸い込んで鈍く輝く、黒銀の鎧。腰に差した長剣の鞘には、精緻な紋様が刻まれている。陽光を弾く白銀の髪は、まるで月光そのものを束ねたかのようだ。そして、全てを見透かすような、凍てつくほどに冷たい紫水晶の瞳。

 その男が、ただそこに立っているだけで、周りの空気が張り詰め、音が消えるのが分かった。全身から放たれる、絶対的な支配者のオーラ。

 αだ。それも、そこらのαとは格が違う。本物の、選ばれたα。


「……な、なんでしょうか」


 恐怖で声が震える。この男に睨まれたら、きっと心臓ごと凍りついてしまう。本気でそう思った。

 男は紫の瞳をすっと細め、俺を頭のてっぺんからつま先まで、まるで値を付けるかのように品定めした。


「……奇妙な香りだ」


 ぽつりと、彼が呟く。

 香り?俺から?そんなはずはない。俺からは、フェロモンなど香らない。出来損ないなのだから。


『何を言っているんだ、この人は』


 俺が戸惑っていると、男の後ろから、慌てふためいた村長が駆け寄ってきた。


「ゼイド総長閣下!このような汚れた者にお声がけなさらずとも!」


 ゼイド。総長閣下。

 その言葉に、俺は息を呑んだ。ゼイド・フォン・ヴァルハイト。その名を知らない者は、帝国にはいない。

 平民の出でありながら、史上最年少で帝国騎士団の頂点に立った、生ける伝説。冷徹無比で、戦場では鬼神と恐れられる、帝国最強のα。


 そんな雲の上の人が、どうして俺なんかに。


「下がっていろ」


 ゼイド様は、村長を見向きもせずに冷たく言い放った。その声色だけで、大の大人である村長が怯えて飛びのく。

 彼の視線は、再び俺だけに注がれた。


「名は」

「り、リアム、です」

「そうか、リアム。……お前、Ωか」

「は、はい……出来損ない、ですけど」


 自嘲気味にそう答えると、ゼイド様の眉がわずかに動いた気がした。

 彼は無言で俺に近づき、すっと手を伸ばしてくる。その大きな手が俺の頬に触れる寸前、俺は恐怖でぎゅっと目を瞑った。殴られる。そう、思ったからだ。

 だが、予想していた衝撃はいつまでもやってこなかった。代わりに、ひんやりとした硬い指先が、俺の汚れた髪を優しく梳いた。


「……本当に、微かだな。だが、確かに香る。陽だまりのような……甘い香りだ」


 すぐ耳元で囁かれた声に、心臓が大きく跳ねた。

 陽だまりの香り?俺から?

 そんなこと、今まで誰にも言われたことがなかった。俺から香るのは、埃とみすぼらしさの匂いだけのはずなのに。


 ゼイド様は俺の髪から手を離すと、踵を返して俺の家の方へ歩き出した。

 俺はわけがわからないまま、呆然とその後ろ姿を見送る。


 一体、何が起こっているんだろう。


 その夜。俺の運命は、音を立てて劇的に変わることになる。

 ゼイド様が、俺の家を訪れたのだ。

 突然の騎士団総長の訪問に、父と母は床に頭を擦り付けて平伏していた。


「この家の息子、リアムを俺が引き取る」


 ゼイド様の静かな、しかし有無を言わせぬ声が、薄暗い家に響き渡った。

 父と母は、一瞬きょとんとした顔で顔を見合わせた後、すぐに卑しい笑みを浮かべた。


「ははっ!もちろんでございますとも!こんな出来損ないでよろしければ、いくらでも!」

「ええ、ええ!どうぞお連れくださいまし!むしろ、厄介払いができて助かりますわ!」


 その言葉は、鋭い氷の刃のように俺の胸を抉った。

 ああ、やっぱり。俺は、家族にとってその程度の存在なんだ。いらないもの。厄介者。


 俺が唇を噛み締めて俯いていると、ゼイド様が懐から革袋を取り出し、テーブルの上に放った。ずしり、と重い音がして、中から金貨が数枚こぼれ落ちる。

 父と母の目が、下品な欲望にぎらついた。


「手切れ金だ。二度とこいつに関わるな」


 そう言い残し、ゼイド様は俺の腕を掴んで家から連れ出した。

 抵抗なんてできなかった。いや、する気も起きなかった。もう、何もかもどうでもよかった。

 外には、立派な紋章の入った馬車が停まっていた。


「乗れ」


 短く命じられ、俺は夢遊病者のように馬車のステップを上る。

 豪奢な内装に腰を下ろしても、何も感じなかった。心の中が、空っぽだった。

 やがて、ゼイド様も乗り込んできて、御者に短い指示を出す。がたん、と音を立てて、馬車が動き出した。


 生まれ育った村が、家が、遠ざかっていく。

 俺を虐げ、蔑んできた人たちがいる場所。未練なんて、あるはずがないのに。

 どうしてだろう。涙が、ぽろぽろと零れ落ちてきた。


「……うるさい」


 静寂を破ったのは、ゼイド様の冷たい声だった。

 俺は慌てて涙を拭う。


「す、すみませ……」

「これから帝都に行く。着いたら、お前は俺の番のふりをしてもらう」

「……え?」

「これは任務だ。余計なことは考えるな。ただ、俺の命令に従え」


 番の、ふり?任務?

 意味が分からなくて混乱する俺を、ゼイド様は氷のような紫水晶の瞳で見つめていた。

 その瞳には、何の感情も浮かんでいない。


 俺は、これからどうなってしまうんだろう。

 灰色の世界から連れ出された先にあるのは、果たしてどんな色の世界なのだろうか。

 不安と、ほんの少しの、陽だまりのような期待。そんな相反する感情を胸に抱きながら、俺は馬車の窓から、急速に遠ざかっていく見慣れた景色を、ただ黙って見つめていた。

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