第6話 クリスマス
今日の空模様は相変わらずの曇り空で、天気予報では夕方から雪が降るらしい。ツキの地方は十一月も半ばに入ると雪が降り始めるのだが、今年は風花が舞う程度で、気温も昨年より温かいようで本格的に降る気配は感じられない。例年になく初雪が遅いらしい。太郎に会った十二月初めには、雪らしい雪が降っていてもおかしくはなかった。そのタイミングで雪が降るかと思われたのが、あの公園での突然の強風がすべてを吹き払ってしまったかのようだった。まるで季節が少し後ろ倒しにされたかのように。
学校は二学期の終業式と目の前のクリスマスで、自然と浮足立った空気が流れている。今週もツキと太郎の探し物は進展していない。月曜の昼間に石宝堂の主人がクリスマスの飾り付け用の木の枝を持ってきたこと以外、特に変わった出来事はなかった。
届けられた枝はガレージへと保管された。太郎は初めてガレージへ入ったのだが、まだ残る油絵の具の匂いが、まるで抜け殻みたいに油臭さだけが強調されて漂っていた。室内を見回すと、入口から奥の角に置かれた金属製の棚に、隅に追いやるように並べられた道具たちが何かが終わっていることを感じさせた。
アカネの家庭事情も、アユミとタカヒロの進展についても、まるで何もなかったかのように話題に上がらなかった。
ツキが教室に到着すると、アカネが胸の前で小さく手を振って近づいてきた。
「ツキ、おはよう。」
「おはよう、アカネ。」
「クリスマス、楽しみだね。ちょっといい?」
アカネは少し背伸びをして耳打ちしてきた。
「アユミ、もうすぐ例の日だけど、山口君とどうなったのかな?」
ツキは声を潜めて答えた。
「まだ何も言ってこないの?」
「そうなんだよ。学校でも二人とも変わった感じしないみたい。」
教室内を見回すと、話題の二人はまだ来ていない。
「じゃあ、そこは当日にだね。結果はどうなっても日曜はみんなで楽しもうよ。もう飾りによさそうなものも準備してあるよ。」
「何?気になる。準備はツキ姉弟に任せてもいいの?」
「うん、何となくだけどイメージできているよ。それと、当日アユミがケーキを引き取ってくれるって。駅から来る途中だから丁度いいって。ありがたいね。」
「そうなんだね。私は食材ピックアップしてくるから必要なものあったら連絡してね。」
「ありがとう。助かる。」
アカネはツキを見ながらに物言いたげに微笑んでいた。
「顔に何か着いているの?」
「ううん、今日で学校も終わりだね。最近忙しかったなって。色々あったよね。」
「そうだね。気づいたらもう年末だね。」
「私ね、実はこんな日がくるなんて思ってもいなかったんだよ。ツキと平行線のままかなって思っていた。寧ろ、どんどん遠くなっちゃうのかなって。あんなことあったけど、それでもよかったよ。」
アカネはどことなく寂し気で、懐かしいものでも見るかのように曇り空を見つめている。
「私もそう思う。」
そのとき、後ろからアユミが二人の肩を叩いて話しかけてきた。
「何しんみりしてんの?やっと学校終わってこれから遊ばなきゃってときに?」
思わずアカネは飛びのいた。
「びっくりしたな!いつからいたの?」
「さっきからいるわよ?」
アカネはアユミの恋愛事情について話していたことが聞かれていないか心配になった。おそらくアユミはその時点で会話に割り込んでくるに違いないと思い、聞かれていないことに安堵した。
「脅かさないでよ。ふうっ。まあ、アユミの言うとおりだね。早く学校終わらないかな。校長先生の話し長いんだもの。今日もそう思うと憂鬱だよ。ツキなんて毎度のことだけど、こういうとき起きてるんだか寝てるんだかわからないよね。」
ツキは笑いながら答えた。
「うん、あんまり聞いていないと思うよ。いつもだけど。何となく空見ていると時間って気にならないよ。」
アユミも笑いながら突っ込んできた。
「あんた本当にいい性格ね。たまにはちゃんと聞いてあげな?十回に一回はためになること話しているかもよ?それより、今日はなんか天気悪いじゃない?クリスマス雪になるのかな?」
「そうだね。今年やっと降るのかな。学校ないのは楽だけど遊び行けないな。」
アカネは再び空を見上げて答えた。
「私、雪は嫌いじゃないよ。確かに出かけるのは困るけどね。家の中でずっと見ていられるよ。街が白く染まっていくのって素敵じゃない?身の回りの世界が一色になるのって、雪が降ったときだけじゃないかな?街の喧騒も人の生活も想いも全部包み込むみたい。」
ツキは雪が降ることに困ることも悩みもしなかった。そんなツキの言葉にアユミが切れ長の目を丸くしている。
「あんたって、そんなこと考えているの?」
「変かな?」
少しアユミの頬が赤くなった。
「い、いや何か不思議ちゃんていうより・・・。」
「?」
「ツキはかわいいね。」
アカネがツキの頬を撫でながら代弁した。
「ちょっ、やめてって。アカネっていつも急にスキンシップ始めるから・・・。」
「確かに。でも、こっ恥ずかしいことよく平気で言えるね、あんた。」
アカネはさらに激しく頬を撫でまわした。
「ツキは元に戻ったんだよ。」
始業のチャイムにツキはやっと解放された。
終業式も佳境に差し迫ったところ、ツキのスマホが受信を捉えた。この時間帯に滅多にかかってくることのない着信は連絡先の目星を絞らせる。
今日も校長の話は長く、ツキは体育館の窓から空を見ようとしたが、灰色の空はまるで窓ガラス自体を曇らせているかのようで、空を見ることを諦めさせた。
式も終わり、今学期最後のホームルーム前の休み時間にスマホをチェックすると、留守電が一件入っていた。基本ツキはかけることもかかってくることも少ないので登録先も少ない。着信番号の頭の数字から固定電話からであることがわかる。電話の主は石宝堂であった。
「もしもし、石宝堂です。例の鍵が仕上がりました。近々お近くへ寄るタイミングでお渡ししますが、いかがでしょうか?ご確認、宜しくお願いいたします。」
主人は電話の相手を確かめることもなく要件を告げていた。ツキは最後の手掛かりとも思える鍵を直ぐにでも受け取りたく、階段脇の物陰でリダイヤルする。
「はい、石宝堂です。」
「お世話になっております。あ、あの私です。ツ、ツ・・・。」
気が急いで言葉が上手く出ない。
「ツキちゃんですね?メッセージ聞かれましたか?あ、学校ですよね?たいへん失礼いたしました。」
「いえ、全然問題ありません。メッセージ聞きました。今日、学校終わったら鍵を引き取りに行っても、いいですか?」
ツキが相当焦っていることを、途切れがちで乱れた口調が物語っている。
「落ち着いてください。鍵は逃げませんよ。大丈夫、今日お待ちしていますよ。」
主人は諭すように優しく、ゆっくりと答えた。
「まだ学校なので午後何時になるか、できるだけ早く行きます。」
「かしこまりました。夕方でも夜でもいらっしゃるまでお待ちしています。お店、いつもの感じですからね。」
「ありがとうございます。では。」
主人が一瞬何か言いたげに聞こえたが、言葉を発するより早く通話は切られた。直ぐに太郎へ状況をLINEで送って教室へと戻った。間もなく、太郎からは「OK」と正体不明の生物キャラのスタンプが送られてきた。
ホームルームが終わり、クラスメイトも散り散りに解散となった。アユミとタカヒロが二人でツキに話しかけてきた。
「じゃあ、私これからバイトなんだ。あさってまたよろしくね。」
ツキにもタカヒロにも直ぐに会えるからだろうか、アユミはいつになくあっさりと教室を後にした。
「次は三学期か。最近アユミの奴、お前らの話しばっかりだよ。いいな、クリスマス会。」
「ゴメンね、今回は色々あって女子オンリーなんだ。」
「そうか。まあ、次は三学期終わって学年上がるときに何かやろうか?」
「タカヒロ、もう行くよ。」
アユミはタカヒロを呼びに戻ったかと思えば、返事を待つこともなく再び教室から出て行った。
「はいはい。じゃあな。よいお年を。」
「うん、また来年。よいお年を。」
その様子を見ていたアカネが笑いながらツキの肩を叩いた。
「気づいた?」
「何が?」
「今のやり取り、昔のツキとアユミが逆になっていたみたい。」
「そうなの?」
「傍から見たらね。でもね、違うのは二人の距離かな。」
「距離縮まっていた?」
「うん。見ていてハラハラしないくらいに。じゃあ、私もそろそろ帰ろうかな。」
アカネはツキが先ほど階段の下へスマホを持って駆け込んだのを見て、何かあるのを感じ取っていた。ツキもアカネが気を遣っているのを察し、敢えてひとりにしてくれることに感謝した。
「アカネ、あさって、楽しみにしているからね。」
「私も。またね。」
アカネはツキの二の腕を軽く叩いた。
家にも寄らず、少し駆け足で駅方面へ向かい、途中で住宅地に入り込んで石宝堂を目指す。
「ツキちゃん、いらっしゃい。折り返しのお電話、ありがとうございました。待っていましたよ。」
ツキが来ることがわかっていたかのように主人が店前に立っていた。コートを羽織っていることから用事があって外に出ていたようだった。
「こんにちは。外で何しているんですか?」
自分を待っていたのかとも思ったが、さすがに時間が読めるはずもなく、それはないと思い、どんな答えでも追及する気にはならなかった。
「いやね、雪が降りそうでちょっと空を見ていたんですよ。」
「そうですね。やっと降るのかな。」
「ですね。ローカル局では大学教授が今年はこの辺り、相当暖かいのが原因とか言っていました。何でも火山が活動期に入ったとか、地下で溶岩がどうしているとか。」
「えっ?噴火とかの可能性あるんですか?」
「あくまでも推測みたいですよ。火山活動が活発になったのであれば、全然地震が起きないのもおかしいみたいです。今度本格的に調査するとか。私としては雪が降らないほうが助かりますよ。さ、お店入りましょう。寒いでしょ?」
「そうですね。ご主人さんも。」
石宝堂の中心に聳え立つツリーは今日も輝いて見える。クリスマスが近いのか張り切っているようにも想像できる。
「鍵を取ってきます。ここで少しお待ちください。」
主人は背もたれのある年季の入った椅子をカウンター前に置いて、カウンターの裏手にある扉から外へと出た。
ツキは店内を見回し、初めて太郎とこの店に来たときのことを思い返していた。椅子に座って落ち着くと、エアコンの温かさと気疲れが眠気を誘う。しかし、不意にあのピエロの人形の言葉が思い返されて眠気を追い払った。
「お待たせしました。」
間もなく主人が戻ってきた。手に持った細長い布の包みをカウンター上に置き、コートのポケットからホットの缶コーヒーを二本取り出した。
「寒い中、ご足労ありがとうございます。ブラックと甘いの、どちらがよろしいでしょうか?コーヒー苦手でしたらお茶もありますよ。」
右ポケットの膨らみが、まだもう一本飲み物が入っていること教えてくれる。主人はコートを脱ぐと、そのお茶がポケットに入ったまま、カウンター奥にあるポールハンガーに掛けた。
「すいません。ご主人さんはどちらが好きですか?」
「私はどちらも好きですよ。」
相反する味にどちらも大丈夫とは思えなかったが、それが気を遣っているのは明白だった。甘いほうを選ぶと残りはブラックとお茶という甘みのない同系統が残るのと、好みが幸いブラックでもあったので安心し、折角の厚意に素直に答えた。
「じゃあ、ブラックでお願いします。」
「はい、どうぞ。ご依頼の品のお渡し前に少し温まってください。」
「ありがとうございます。」
裏手へ出たのは飲み物を買ってきただけのようだったが、その気遣いが寒い中、急いだツキの逸る気持ちを落ち着かせた。
ツキには曲名の思い出せないクラシックの流れる空間に缶を開ける音が響いた。
「美味しいです。」
「私も失礼します。」
主人は残った甘いコーヒー開けた。
「こう見えて相当の甘党なんです。」
「よかったです。甘いのが残って。」
「はい。でも、実は昔は甘いのはそんなに好きではなかったので、仕事中はブラックを飲むほうが多かったんです。」
「そうなんですね。私のバイト先がケーキ屋さんですが、いかがですか?中には甘みを控えたものもありますよ。」
「そうですね。今度お邪魔しましょうか。」
「ありがとうございます。そうだ、お店の名刺お渡ししますね。」
ツキは財布の中から名刺を取り出したが、所々汚れていて渡すのを躊躇ったが、言った手前引っ込めるわけにはいかず申し訳なさそうに手渡した。
「すいません、汚いのしかなくて・・・。」
名刺はバイトを始めたときに、万が一の場合の連絡用に取っておいたものだった。ツキは次から綺麗な名刺を何枚か持っていようと思った。
主人は名刺をまじまじと見つめて微笑んだ。
「ありがとうございます。全然気にしませんよ。どうやらこのお店は知っているところのようですよ。」
「あっ、うちのオーナーが前にご主人さんと知り合いって言っていました。」
「はい、そうです。お店の家具はここで購入されたものが幾つかありますよ。古くはオープンのときからです。」
「今でも?」
「時々いらっしゃいます。今日も新しい装飾を午前中に届けたばかりです。そういえば試作品のケーキが完成したとのことですよ。」
「試作品、ですか?」
「はい。味は保証できないので、後で感想聞かしてくれればいいなんて、おまけしてくれました。よければ少しどうでしょうか?」
「いいんですか?でも、試作品はいつもバイトのときいただけるので、多分今回も後で食べることになりそうです。」
「いえ、何でも今朝思いつきで作ったのであるだけで終わりみたいです。結構な量で私一人では食べきれませんので是非とも。」
「珍しいな。そんなことってあるのかな?」
「何でもクリスマスケーキを頼まれて考えていたら思いついたとかです。」
「クリスマスケーキを依頼って、それ、私たちかもです。」
「では、なおさらです。ツキちゃんがきっかけなので、これも何かの縁です。お帰りのときお持ちしますね。」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます。」
その後は二人で曇り空やツリーを眺めながら無言でコーヒーを飲んだ。
「ごちそうさまでした。」
ツキは周囲を見回し、缶を捨てるゴミ箱を探した。
「空き缶、いただきます。」
主人はツキから空き缶を受け取って、自分の空き缶とともにレジ裏のPC台に置いた。
「では、ご依頼の品が直りましたので見てみてください。」
カウンター上の包みがゆっくりと開けられる。そこには先日ツキと太郎が見つけた小さなアンティークキーが元の形に、綺麗に復元されている。
「新品みたい。」
「ええ、実は彼女の遺品に型が残っていました。そこから作っているので新品です。こちらがお持ちいただいた原型です。」
主人はポケットからオリジナルを取り出して新品と平行に並べた。
「そこまでしていただいて。本当にありがとうございます。」
「いいんです。何だかんだ店は暇が多いので。表現が悪いですが、ちょうどいい時間潰しになりました。ここ最近は修理やオーダーがなかったので、勘を取り戻すのにとても助かりました。それに、本当にいいタイミングでした。遺品は処分する予定でしたので、おそらく今回を逃したら、もう作る機会はなかったと思います。最悪、時計本体を傷つけて開けるしかなくなってしまうところでした。」
「そうなんですね。それだけは避けたかったので、本当によかったです。」
ツキの言葉に含む意味は主人の思うところよりはるかに重かった。
「こういうのもなんですが、鍵の制作をしている間、何やらずっと不思議な夢を見ていました。内容は起きると忘れてしまって、はっきりとはしませんが、ひどく不安な気持ちでした。そして今朝、久しぶりに柊様の夢を見ました。」
夢の内容こそ告げないが、その顔から不安な影が消えないところから、それほど良いものではなかったことを表している。
「母は何か話していましたか?」
その表情は何があったかを聞かないといけないような、無言のアピールでもあるようだった。
「特には。しかし、とても悩んでいるようでした。何も話していないというと語弊がありまして、何か話しているかのように口は動いているのですが何も聞こえません。私に読唇術が使えれば読み取れるのですが。それが鍵と関係あるかわかりませんが、最初ツキちゃんにこの鍵を渡すべきか迷いました。それでも、直感で必ず渡すべきだと感じまして、それで少しでも早くと思い、今朝起きてから直ぐに仕上げに取りかかってお電話差し上げた次第です。」
「そんなことがあったんですね。」
今までの経験から、その夢がただの偶然ではなく、夢自体が何かを意味していることが確実なのがわかる。どんな意味であれ、今ここにある鍵こそ、やっと手に入れた手掛かりだった。
ツキは迷わず鍵を受け取る。
「この鍵、お引き取りさせていただきます。お代はお幾らでしょうか?」
どれほどの作業になるかわからないため、途中銀行に寄って財布には多めのお金を入れてきた。
「三千円です。」
「えっ?それくらいでいいんですか?一から作ったのに?」
ツキはゼロがもう一つ足りないかとも思い再確認した。
「はい。そんなところです。私の勉強代も兼ねていますので。はは、逆にお金を取るのも悪いって思えるくらいの経験もさせてもらいましたよ。」
「本当に、ありがとうございます。」
優しい口調から、まったく他意がないことが伝わってきたので、一切の不安もなく支払いを済ませ、鍵を二本ともバッグに仕舞った。
「それにしても本当にタイミングが合うなんて。あっ、すいません、鍵を制作した女性の方、亡くなってしまったんですよね・・・。」
主人は優しく微笑んで答えた。
「お気にせず。それも縁でしょう。こうやってあなたへ鍵を渡すことができたのですから。」
ツキは申し訳なさそうに質問した。
「ちょっと失礼覚悟で聞いていいですか?その女性はご主人さんとは特別な関係だったんですか?」
主人の調子はいつもと変わらなかった。
「いいえ、そんなことはありませんでしたが、彼女の才能に惚れ込んでいたのは確かです。憧憬、でしょうか。私は制作側の人間ではないので、純粋に彼女の作品を受け止めることができました。私だけでなく、柊様も彼女が間接的に気になっていたようです。いい意味で。結局、私も最後まで追うこともなかったのですが。それに最近ほとんど会うことはなかったです。元々、彼女は人間嫌いで浮世離れしたような生活を送っていましたし、亡くなったのを知ったときには大分経っていました。それは家族も同じみたいです。それでも、私宛てに作品の引き取り処分を依頼していたのには驚きました。」
「それなのにですか?」
「そうですね。おそらく、私が彼女の作品をもっとも評価して、彼女もそれを受け止めてくれたので、この店で販売することを許可してくれたのです。だからこそ、最後の依頼をしていただいたのだと思います。ここが唯一の販売店でもあったのです。」
ツキはその話を聞いて、二人がどんな関係だろうとも最後はこれで良かったような気がした。
「きっと彼女さんは商売ではなく、ご主人さんに作品を見て欲しかったんじゃないでしょうか?最後まで、ずっと。」
主人ははっとしてツキを見返した。いつもにこやかで細い眼が少し見開かれ、真顔になったのにツキは驚いた。
「どうして、そう思いますか?」
「だって、このツリー、生きているみたいですから。ここだからじゃないでしょうか?」
ツキにはそんなにも家族と疎遠になるような生活を送ってきた人間が、今まで作り上げてきた作品を生活の糧とするだけで誰かに販売を依頼するとは思えなかった。ましてや、最後にわざわざ処分の依頼までするのも意味のあることだと確信している。そんな気持ちはこのツリーを見るだけで十分に伝わってくる。主人はツリーを見上げて動かない。
「ありがとうございます。今の私にもそう見えます。何故でしょう、今までそんな風に見えなかったのに。」
「クリスマスが近いからじゃないでしょうか?あっ、関係ないですね。」
「いえ、最近のクリスマスはカップルがどうのという風潮がありますが、私は家族で過ごすというほうが好きでして。完全に自己満足かもしれませんが、家族ではなかったけど親しかったとは思いたいです。」
「私はそう思います。作品を処分するようでしたけど、どれか一つでもお手元に残してはいかがでしょうか?」
今までにない主人の沈黙は、思い出の中から何かを導き出そうとしているようだった。
「すいません、余計なこと・・・。」
「いえ、おっしゃるとおりですね。すべて失くすことが思い出として残ると思っていました。しかし、そんな選択肢も許されるのかもしれないですね。ありがとう。明日ゆっくり考えてみます。特別なクリスマスになりそうです。」
いつもの丁寧な物腰の柔らかい雰囲気が少し別人のように違って見えた。その雰囲気に初対面のような気まずさ感じ、紛らわすようにもう一度ツリーの天頂の星を見上げて、再び主人へと視線を戻すといつもの彼に戻っていた。
「では、鍵、いただきます。本当にありがとうございました。」
「いえ、お礼を言うのは私のほうです。最後に彼女と共同作業ができました。最初に不安を煽るようなことを言ってすいませんでした。何かありましたらご連絡ください。」
「はい、そのときはよろしくお願いします。」
「そうそう、待ってください。例のケーキを持ってきます。」
主人はレジ裏の奥から外へ出て行き、間もなく小さ何箱の入った紙袋を持ってきた。
「ありがとうございます。では、こちらもいただいていきます。」
「ふたり分ありますので太郎様とお召し上がりください。明日のイヴになんていいかもしれませんね。一日くらいなら少々味が落ちますけど、その辺で買うケーキより断然美味しいと思います。あ、クリスマスケーキから着想を得たってことは、もしかしたら、それを見越していたかもしれないですね。」
「あのオーナーならあり得ますね。色々と本当にありがとうございました。」
主人はいつものようににっこりと微笑んで軽く会釈した。
ツキが鍵とケーキを受け取って店を出る間際、呟くように主人が話しかけてきた。
「彼女は、古い友人でした。たまには、自分のことを話すというのもいいものですね。」
「はい、悪くないですね。では、よい週末を。」
主人の後ろのツリーの影から誰かがこちらを見ているような気がしたが、ツキはそんな些細なことは伝えるまでもないと思い帰路につくと、ちらほらと雪が降り始めた。今年最初の雪は初めて見る雪のように新鮮だった。
途中、日用品や食料で足りないものを買い足すため駅前の商業ビルへと寄った。明日からしばらくはイベント続きでゆっくりと買い物をする機会はなくなると思い、今のうちから準備を進めるつもりだった。
ツキは一階のフードコートの片隅で遅くなった昼食を取った。カレーパンと卵とハムのサンドイッチセットを食べながら、時々ホットコーヒーを冷ましながら口にする。
頭の中では足りない物がないか思い出しては忘れて一向に整理されない。すでにクリスマスムードの街に感化されているのかもしれないが、クリスマス気分に浸るにはまだ早い、勿体ないという思いから、意識が散漫になっているのかもしれない。昼食を済まし、建物内を順番に回れば何が必要で足りないか思い出すとだろうと、一階から順次回ることにした。
どの店もクリスマスを前提としたものばかりが前面に陳列されている。結局足りないのは飾り付けのための道具がほとんどだった。ついでに本屋へ立ち寄って、地方誌やフリーペーパーでクリスマス特集を探した。肝心の明日の予定が空白のままだった。なかなか考えが纏まらない。太郎が何か考えているのではとも思うこともあったが、まさかリードしてくれるなどという想像は振り払ったが、淡い期待もある。サプライズするようなことも一緒にいると改めて思いつくものもなく、帰ったら一緒に考えればいい、そう思い、本に頼るのを止めて、強くなってきた雪の中を足早に進んだ。
玄関前で雪を払い、家に入ると客間が開いており、太郎がソファーでくつろいでいた。最近はエアコンに頼らずとも何とか凌げていたが、今日の寒さは厳しく、部屋が温かいのは嬉しかった。
「お帰り姉ちゃん。鍵は?」
「うん、バッチリだよ。じゃあ早速・・・。」
太郎が慌てて静止する。
「ちょっと待てよ。姉ちゃん、寒かっただろ。身体、雪で濡れているじゃないかよ。ちょっと温まってからにしよう?」
ツキは雪の中、寒さを堪えて歩いているうちに濡れていることも忘れていた。太郎の気遣う一言で、焦る気持ちが抑えられ冷静さを取り戻す。
「うん、そうだね。結構雪、降ってきたよ。明日には積もるかも。」
濡れたコートを脱いでキッチンへと向かう。途中、洗面所に寄ってタオルで濡れたコートの水気を吸った。キッチンもエアコンがついており、廊下も開けられて家中が温かい。
「もうこんな時間だ。ゴメン、太郎、お腹空いたよね。先にご飯にしよう。」
不足分の買い物は思ったより長かったようで、時計は六時を回っていた。
「まだそんな腹減ってないから、ゆっくりでいいよ。」
扉が開いているのでお互い少し声を大きくすれば客間へも届く。ツキは部屋中の扉が開いていることの意図を感じ取った。
「すぐ食べられるものがいいよね?」
「少し休んだら?」
「動いていたほうが温まるよ。部屋も温めてくれたから十分。」
ツキは今日買ったものを冷蔵庫に仕舞い、制服のままエプロンを身に着けて中華鍋を取り出し夕飯の準備に取りかかった。冷倉庫を再び開けて今朝冷やしたライスを取り出し、例の中華鍋でチャーハンを作り始めた。おかずには昨日の残りの唐揚げをレンジで温めて彩りにサラダを用意した。スープも朝の残りの味噌汁を温め手早く準備を終えた。
部屋に充満する香ばしい香りは開けられた扉から一階中に蔓延し、太郎は吸い寄せられるかのようにキッチンへと自然と足を運んだ。
いつものとおりテーブルクロスを敷いてスプーンと箸、完成した料理から順に運んでいく。太郎は料理の準備が終わっても席に着かずテーブルを眺めていた。
「こんなときはやっぱり姉ちゃんのチャーハンだな。」
「もう食べ飽きちゃった?」
「そんなことないよ。俺、気に入っているんだよ。特製の身体の芯から温まるやつな。」
仕事を終えたツキはエプロンをポールハンガーに掛けて席に着いた。
「ありがとう。ひとりのときは手早くできるから週一くらいで食べていたんだけどね。確かにペース的に今も同じで、この前アカネに振舞ったばかりだね。それより早く座って?食べよう?」
「あのときは別物じゃんか。あ、やっぱり腹減ってきた。」
席に座って同じタイミングで手を合わせる。ツキが目で合図する。
「じゃあ、いただきます。」
太郎も続く。
「いただきます。」
ふたりとも無言で食事を腹に詰め込む。最初の一口で一気に空腹感が最高潮に達してスプーンを止めさせない。最後の味噌汁を流し込んでやっとペースが落ちた。
「ふう、ごちそうさま。」
「ごちそうさまでした。」
「チャーハンほぼ毎週って、三回目?途中抜けてる週あるとすれば俺たち出会って一か月くらい?」
「そうだね。なんか、もっと前から一緒に暮らしていた気分だよ。」
「確かに。俺、姉ちゃんが陰キャだったの知らないからずっとこんな感じかと思ってた。」
「失礼ね。そういうのって、自覚していても客観視されているのとずいぶん差があったりするんだから。」
「周りがどう思うってこと?」
「そう。だから変わったって言われてもなかなかわからないよ。アカネもアユミもそう言っているけど、どう変わったか実感ないよ。」
「みんな仲いいように見えるな。」
「それ。今思えば太郎と会った日に初めて二人がお店来たんだよ。そこからだよ、ここまでになったの。」
「なんだ、俺のおかげか。」
「そうかもね。太郎がきっかけを持ってきてくれたんだと思う。」
太郎はいつものペースで否定されないことに少し戸惑い次の言葉を失った。基本反抗することで話のペースを掴んでいただけに、最近大人しくなったツキは変に意識させるようになっている。
「さあ、太郎、少し休んだら鍵、試してみようか。」
食後に温かいお茶を淹れて温まる。身体の芯まで温まり眠気が少しずつ忍び寄るが、柱時計を見ると、この後起こることの不安とも期待ともつかない感情が目を覚まさせる。
テーブルの上を片づけ、洗い物を済ませるのは何かの儀式のようでもあった。ツキは無言で柱時計を取り外しテーブルの真ん中に置いた。ふたりは柱時計をテーブルの真ん中にして向かい合う形となった。姿形は先日ボート小屋で見たものとまったく同じにしか見えない。
ゆっくりと本体脇のロックを外して開けると、ボート小屋の時計と同じように下部に引き出しのようなものがついていて、鍵穴らしきものも見つかった。
「今まで気づかなかったな。気づかないっていうより、あるのに意味を見い出せないから意識していなかっただけかな。」
太郎は静かにツキの所作を見守っている。ツキは恐る恐る新しい鍵を鍵穴に差し込み回した。カチっと音が鳴り開錠を告げる。リングの引手を引っ張り、中を開けてみると紙のようなものが一枚入っている。
特注で追加した引き出しは、それほど大きな空間は持たず、そこに入れる紙は何回か折らないと入らない。紙は封筒に入れる手紙のように巻き三つ折りにされ、更に二つに折られて小さく畳まれている。
ツキはその紙をゆっくりと広げて中を確かめる。食い入るように見つめているツキに太郎が問いかけた。
「姉ちゃん?何が書いてある?」
ツキは無表情で紙を太郎に手渡した。そこには一文、「月姫、あなたを愛しています」とだけ書いてあった。
「これだけ?これって姉ちゃんの母ちゃんか父ちゃんの字?女の人の字っぽいけど。」
「母親のだと思う。」
「俺は何か絵とか描いてあるかと思ったよ。姉ちゃん?何か思い出したりした?」
ツキは黙って首を振った。
「何も思い出さない。でも・・・。」
静かに頬に涙が伝わった。
「わからないけど、とても大事なこと・・・。」
太郎は紙をテーブルに置いてツキの元に寄ろうとしたとき、何処かで扉を叩く音が聞こえる。ふたりは突然のことに心臓が飛び出るのではと思うくらい驚き、すぐに辺りを見回し音の出所を探した。音は鳴りやまず、リズムもなく不定期に扉を叩く。
音はキッチン入り口隣の扉、ポールハンガー裏にあるガレージへと繋がる扉から聞こえてきた。この扉はガレージを仕事場にするにあたり、手を洗うために洗面所やトイレなどへ行く場合に外から回り込まなくても家の中へ行けるために作ったものだった。扉は誰もガレージを使わなくなってから開くこともなくなり、ポールハンガーで隠すようにして身を潜めていた。
ツキはそっとポールハンガーをどけて耳を近づけて音を待つ。しばらくの沈黙の後、再び扉を叩く音が聞こえ即座に扉から離れた。
「ちょっと、これってまた何か出てくるのかな?」
太郎がツキの手を引いて扉からの間合いを取った。
「なあ、開けないほうがいいか?」
「確かに開けるのに抵抗あるけど、このままじゃあ何もわからないよ。いいよ、太郎はここで待ってて。行ってくる。」
ツキはゆっくりと慎重に扉のノブに手をかける。
「ちょっと待てよ。俺も一緒に行く。」
「また危ないことがあるかも。太郎はここで・・・。」
太郎はツキの手を握って、空いている方の手で扉を開いた。
「ここまで来て置いてきぼりはないだろ。」
ツキは頷いて太郎の決心を受け取った。
扉の向こうは真っ暗闇だった。最初はガレージの電気が点いていないだけかと思ったが、キッチンの光が届かず床もあるのかわからない。まさに漆黒の闇だった。
「これって、入ったら落ちるかな?」
「わかんね。て、誰かが扉叩いていたんだよ?誰かいたんだったら落ちたりしないんじゃねえか?」
「だね。何かがいたって思うと気持ち悪いけど、考えてもわからない。行こう。」
ツキは太郎の手を牽いて扉の中へと入っていった。そこは先ほどまで暗闇だと思っていたガレージの中ではなく一転、緑の生い茂る広場へと出てきた。さっきまで夜だったはずが、今は太陽が天頂に位置する真昼となっている。
「これって、あのボート小屋のときみたい?」
「ああ、そうだな。けど、違うのはここって何処かに実際ある場所じゃないの?あ、目の前のあの山、姉ちゃんと跳び越えてきた山じゃないのか?」
眼前には見覚えのある山がそびえ立っている。ここは山の麓のようだった。
「わかった、ここって昔の集落跡地だよ。春に祭りをやっている所だ。」
目の届く範囲には誰もいないようだった。今は冬なのに、この平野は寒さを感じさせない。夏の暑さも春秋の爽やかさも感じない。足元はスリッパを履いているが地面は暖かく、ふたりのいる空間の時間も季節も判断させるには曖昧過ぎる。
所々に隆起する地面はかつて村があり、家などの建物が朽ちて大地へ、自然へと還ったものだと聞いたことがある。
後ろを振り返ると扉がなくなっている。代わりに草原が遥か地平線まで続いている。左右は遠くに森が見える。空は限りなく白に近い水色で、木々の頭上から覗く遠くの空は無色に見えるようだった。空には再び白銀の月がツキたちから異常に近い距離に浮かんでいる。まるでふたりを見下ろしているようだった。
「姉ちゃん扉が!」
「ないね。」
「ないねってどうやって戻るんだよ?落ち着いてない?」
「わからない。それでも、また何かあるはずだよ。ここに来た意味、戻る方法が。」
太郎はあきらめたように首を回して、深呼吸して、気持ちを切り替えた。
「図太くなったな、俺ら。そうだな、一方通行でも行った先には何かあるんだろうな。」
「そういうこと。今戻れなくたって意味のないことなんて、まったくないんだよ、きっと。今までだってそうだったよね。」
「ああ、じゃあその何かを探すとするか。はあ、寒くないのは助かるな。」
ふたりはお互い見失わない距離を保ちながら探索を始めた。
「今って春かな⁉」
聞こえるような大きな声で太郎が問いかけた。
「そうだね、秋じゃ、こんな深い緑はないよね!」
ツキも声を張って答える。
「何か見つかったか?」
「何も。そっちは?」
「わかんねえ!」
「じゃあもっと奥、山の近くまで行ってみよう!確か祭壇みたいなのがあったはず。」
「祭壇?」
離れて探索していたふたりは手の届く距離まで近づいている。
「そう、祭壇。昔何かに使っていたらしいよ。私が小さいころ、ボロボロだから新しいのを作って毎年お祭りで使っていたんだ。確か昔の人は山の神様を祀っていたんじゃないかって。だから現代に蘇らせて、今の私たちが代行しているんだって。」
「ふーん。結局は祀るとか言ってもさ、お祭り騒ぎがお目当てだろ。」
「確かに。私も意味わからなかったから、結局お祭り楽しむ大義名分。それでもいいんじゃないかな。歴史を伝えるって。それにね、集落入口にある神社の巫女さんが神楽舞って、とっても綺麗なんだよ。それも楽しみだったよ。」
「へえ、そいつは見てみたいな。」
「春になったらまたやるよ。結構激しく踊ったりするんだ。山の神様って火山だから穏やかさと激しさを持ち合わせているんだとかで。」
「激しく・・・。」
少し太郎の歩調が遅れ出した。
「太郎?またいやらしいこと考えてない?エロ太郎?」
まだ祭壇は見えてこないようで、ふたり前を向いたまま話しながら歩いていたが、焦ったように太郎は早歩きでツキの前に進んで振り返った。
「何言ってんだよ!そんな、神聖なものに変なこと考えるわけないだろ!ちょっと、最近姉ちゃん失礼だぞ!」
「ゴメンゴメン、いや、でも逆に妙焦っているのって怪しいよ。太郎から神聖なんて言葉初めて聞いたし。」
太郎は図星を突かれたようで動きが止まりその場に立ち止まった。
「いや、別にそこまでは考えてないって。」
「そこまでって?」
「え?いや、あ、ほらあれじゃないのか祭壇って。」
目の前に小さな神楽殿のようなものが見えてきた。誤魔化すように太郎は小走りで先に行ってしまった。
「逃げた・・・。」
ツキは少し笑い、ゆっくりと後を追いかける。
そこには能の舞台などで見るような高台の舞台があった。雨でも舞えるように屋根もある。点在する劣化した部分は修復を重ねたことを表すように色が新しい。古さと新しさの同居は大切に整備されていることを今に伝えている。
その奥、行き止まりとなる山の麓の森を前にして、周りには何もない緑の大地の中心に、大人の背丈はあろうかという巨石を抱き抱えるように枯れた大木がひっそりと息を殺すように佇んでいる。巨木はもし枯れずにいたとすれば、ツキの学校の校舎に匹敵すると思えるくらいの高さを想像させるような根だけが岩を包んでいる。岩の天頂で何かに切られたかのように、その先を失っている。
岩と木の根は真新しいしめ縄を巻かれて静かに座っているようだった。以前は神籬として崇められ、後のツキの世代においても畏敬の念を払われ、大切にその役割を存続させられているようだった。
手前に太郎の背丈ほどもない小さな社が建っている。祭壇とはこの社を含めた神籬を指しているようだった。
「ねえ、太郎?ここもそうだけど誰もいないのかな?何だろう?別世界ってことかな?」
「世界が違うかわかんないけど、時間的には今とは違うと思うよ。だって、この前の公園の小屋も今じゃもうないんだしな。」
「そうね。何かの記憶の世界とか?」
「ああ、そう考えると今回は姉ちゃんの母ちゃんに関係しているんじゃないのか?だとしたら・・・。」
「あっ、あそこに・・・。」
ツキが指し示した方向、祭壇と神籬の向こうは山の麓の森となって行き止まりになっているが、そこに人影が見える。そこには三人いるようだった。一人の女性の前に男女が並んで立って何かを話しているようだった。
「行こう。姉ちゃん。」
「うん。」
ふたりは祭壇を迂回してその影へと近づいていく。すぐ後ろまでツキと太郎が来たのに誰も無反応で気づく気配はない。
「俺らが見えないのかな?」
ツキと太郎は三人にはふたりが見えていないことを前提にすぐ真横まで近づく。一人は桜子だった。いつもと変わらずスーツを着込んで、相変わらず顔色は生気が失せて青白い。男性は黒のジャケットを着ていたが黒デニムといったラフさは会社員というよりはクリエイターか、普段着でも綺麗目のファッションを好んで着ているような雰囲気がする。短髪でノーフレームの眼鏡をかけており、細身で若干頬がこけて病弱にも見える。歳は若そうで二十代中盤だろうか。
女性も細身で黒のワンピースに同じく黒いカーディガンを羽織っている。黒髪も染めた形跡のないロングで、ある意味桜子と同系統で魔女と例えても納得がいく。対照的なのは桜子が爬虫類を想像させる切れ長の眼に対して、この女性の眼は大きくはっきりとした二重で、目力に生気がみなぎっている。
「お父さんとお母さん?」
「マジか?」
「でも若い。きっと私が生れる前の二人?」
桜子は薄ら笑いを浮かべながら問いかけた。
「お前ら、本当にいいんだな?」
父親はまっすぐ桜子を見返して答える。
「ああ、構わない。」
しかし、母親の静は賛同しなかった。
「千暁、私は納得できない。無理よ、そんなの!」
「今更何言っているんだ。もう、後戻りできないんだよ。」
「それでも、やっぱり・・・。あなた、この子ができてあんなに喜んでいたのに・・・。」
「・・・。」
桜子がやれやれといった表情で会話に入り込んできた。
「納得とかどうでもいいんだよ。契約すれば思いどおりになるんだからいいじゃないのか?今更親の顔したって遅いんだよ。後はサインするところまできちまったんだ。」
静は泣きそうな顔で千暁の腕にしがみついてきた。
「やっぱり無理。この子を犠牲にしてまで幸せになるなんて。幸せになんてなれっこないよ、やっぱり。」
ツキの父親、千暁の顔が一瞬曇り、再び険しい表所に戻り静の手を優しく取って話しかける。
「昔からの俺たちの望みだったじゃないか?才能で食っていくって。もう不自由な生活はしないって。」
「でも、そんなので実現した望みなんて嘘よ。お金や生活だけのためなの?」
「そんなことはない、なあ、桜子さん?」
桜子は後ろを向いて頭を掻きながら火山を仰いで答える。
「ああ、それは確かさ。人の才能なんて数字残した奴以外客観なんだよ。どんなにお前らが崇める才能ってやつがあっても、世間に認められなければ埋もれてクズさ。逆に、大した才能がなくたって、世間がもてはやせば洗脳されたみたいに誰もが賛同する。名前が知られた奴なんかがちょおっと本業以外で平均点超えたくらいのもんを出しゃあ盛り上がるのってあるだろ?私はその手伝いをするだけなんだよ。」
「ほら見ろ、魔法でできないことなんてないんだよ?」
桜子はため息をついて続けた。
「魔法なんて万能じゃないんだよ?一つの体系に基づく理論のようなもんさ。あんたら聞いたこたぁないか?未来ってのは幾つもの可能性からの選択の一つってさ?その可能性の一つを手繰り寄せて、今のあんたらに繋ぐだけなんだよ。それでも相当脳ミソのメモリー食うんだよ、ずっと繋いだままにするのはさ。だからそれ相応のもののエネルギーを使って繋ぎ止めておくんだよ。夢がずっと現実みたく続いていけるようにね。だから有限なんだよ。」
千暁は桜子の話しは現実味がないと感じる反面、得体の知れない恐怖も感じている。しかし、それ以上に叶うものがあればそれに縋りたいという気持ちが強かった。たとえそれが妄想や作り話でも試さずにはいられない。
静はまだ納得しかねるといった表情だった。
「それでいいの?」
「いいも悪いもない、認められたらそれはそれで俺たちの力なんだから。そのために努力してきたんじゃないか。何度も賞を取ったり評価されてきた。でも、そこまでなんだ。だから何だよ?感動しました、いい作品でした。それだけか?そいつらはそれによって人生変わるくらいの影響があったのか?どんな大金積んでも手に入れたい作品なのか?俺の名前が絵画史に残るようなことがあるのか?」
「お金、地位、名誉、何が欲しいの?感動したでよくないの?生活最低限のお金でも、この子を育ててずっと好きな絵を描いていけるくらいでもいいんじゃないの?何が欲しいの?」
「俺が欲しいものは全部だよ。どれかを手に入れても足りなくなるのはわかっているんだよ。中途半端にずっとうろついていたから。静もわかるはずだよ。同じところに居続けることは不可能って。上るか落ちるかどっちかだよ。それに俺は環境が好転しても、そこに胡坐かくつもりはないよ。作品を生み出し続けない限り先はないんだし、余計な苦労がなければ次の作品にも注力し続けられる。そんな環境が欲しいだけかもしれない。」
「嫌、子どもを犠牲にして成り立つものなんて一生後ろめたいまま生きていきたくない。」
二人はそれぞれ考え込んでいるかのように沈黙した。桜子は振り返り、腕を組んで交互に凝視している。
太郎が二人の会話に聞き入って微塵も動かないツキの腕を掴んで、軽く振って意識を引き戻した。
「姉ちゃん、親御さんたち何言っているんだ?姉ちゃんはここにいるんだろ?犠牲とか何なんだよ?」
ツキは二人を注視したまま、腕を掴む太郎の手に、もう一方の手でそっと触れて反応した。太郎もツキも悪い予感しかしない。
「わからない。聞きたく、ないかも・・・。」
「じゃあ、帰ろうよ?」
「待って。やっと答えが見つかったかもしれない。どんなことでも見届けなきゃいけないと思う。」
ツキは震えそうな足に力を込め、大地に杭を打ち付けて身体を固定したかのように立つ。太郎もどんな内容であろうと見届ける意を決してツキの隣に並んだ。
「最初からそういう運命だったと思えばいいんだ。契約すればすべて忘れて日常に戻れる、そうだよな、桜子さん?」
やっと出番が来たと言わんばかりに嬉しそうに桜子は回答する。
「ああ、そうさ。何も後ろめたいことなんてない。最初からそういうことだったんだ。それにさ、だいたい十三年は生きられるんだ。その間、思い出だって幾らでも作れるさ。」
静が声を震わせて問い詰めた。
「何で十三年なの?」
桜子は鼻で笑った。
「その子の残りの人生をあんたらに与えるとそれだけ残るんだよ。後は裕福に不自由なく生きていけるんだからいいだろ?この場で残りの人生全部持っていかないだけありがたいと思わないとなぁ?本当に派手に世の中巻き込むくらいを望むんだったら、その子の人生全部だけでなく、お前たちの寿命も差し出す必要があることを忘れるなよ?」
ツキも太郎も事態を少しずつ理解し始めた。温暖な気候が逆に不気味に感じる。嫌な汗が全身からどっと吹き出しそうだった。
「さあ、わかっただろ?こいつにサインすれば終わる。そして新しく始まるさ。」
桜子の右手にはいつの間にか一枚の紙が丸めて握られている。いやに恭しくその紙を千暁に手渡した。千暁はその紙を受け取って広げて、一文字一文字目を通す。しかし、契約については見たこともない文字で書かれてあり、普通の人間には読むことができない。それでも、何が書いてあるかは感覚的に想像できる。静は文面が読めるのか、無言で唇が何かを呟いている。
ツキと太郎からは何が書いてあるか見えなかったが、ふたりにも何が書かれているのかわかっていた。
桜子の右手には今度はペンが握られている。それはツキたちが見たことがあるペンだった。そのペンを逆さに持ち、千暁へとゆっくりと差し出す。千暁はペンを受け取り悩んでいるようだった。静がその手を掴んだが千暁は優しく振り解き、背を向けて一気にペンを走らせる。静はその背中から名前を最後まで書ききらせまいと右腕を掴んだが背中で強引に振り払われてしまった。
サインが終わると桜子は契約書をもぎ取るように受け取った。ぼんやりと文字が光っているように見えるが、間もなく元のインクに戻った。
「はい、これにて契約締結だね。さあ、後は今日のことは忘れていつもの生活に戻るんだよ。おっと、いつもじゃなくって夢みたいな生活だね。」
千暁と静の頭の中は白靄がかかったかのように不鮮明になり、今ここで何をしているのかがわからなくなっていた。
「俺は、何でここに?あんたは誰だ?」
桜子は契約書を丸めるとスーツの左の袖に仕舞い込んだ。その手を下げても契約書は地面に落ちることはなかった。桜子の行動を親たち二人は焦点が合わず何となく眺めている。最早、物事を考えるほど頭は回ってはいなかった。
「じゃあ、私はこれで失礼するよ。」
「まだ、終わっていない!」
桜子が踵を返したとき、突き刺すような静の声で再び三人は面と向かう形となる。
「何?あんたまだ意識も記憶もあるのかい?」
静は桜子の袖を掴んだ。
「私はあなたと契約します!」
その一声で桜子の足元に光の円が広がって消えた。
「ちょっと!何するんだい?もう終わっただろ?」
「いえ、終わっていないわ!契約書を渡して!」
「どうるすつもりだい?もうその男は契約完了しているんだよ。」
「静?何を?」
親二人は再び意識をはっきりと取り戻したようだった。
「わかっています。だから、私がこれから新しい契約をするんです。」
いつの間にか桜子の手元に一枚の紙が丸めて握られていた。
「あんたら意識が戻っているんかい?どういうことだい、こんなケースって?」
「今のことは絶対忘れてはならないんです。だから・・・。」
桜子が手にした紙を広げると、すでに契約内容が記載されている。やはり文字は見たことがないが、静は内容を理解することに問題はなかった。
「あんた、まさかこんなことを願うのかい?」
桜子が珍しく目を見開いて文面を何度も見返している。
「静?どういうことなんだ?今更新しく契約なんて?何をするんだ?」
静は敢えて千暁と目を合わせないようにしている。
「静?」
「ごめんなさい・・・。」
「何?何を謝るんだ?」
桜子がしびれを切らして新たな契約を告げる。
「ハッ、やるじゃないか。いいかい、あんたらはその子が運命のときに入れ替わるんだよ。」
千暁は話の意味が理解できず、静の肩を掴んで揺さぶって問い詰める。
「何なんだ?入れ替わるって?なあ?何なんだよ?」
桜子が珍しく他人に介入し、千暁の手を取って静から離した。
「いいかい、よく聞きな?その子の十三歳以降の運命は契約として捧げられた、これは千暁、あんたの契約さ。だけどね、その捧げられた運命、いや、人生はそこからも続くんだよ。」
「どういうことだよ?それじゃあ契約は?」
「もちろん、あんたの希望どおりになるさ。その子が捧げられるときまでね。そこからは静、あんたの契約が生きる、つまり、あんたらの運命をこの子に捧げるんだよ。」
「え?何だって?じゃあ、俺たちはどうなるんだ?」
「わからないかい?あんたらの人生はそこで終わりってこと。あんたらが奪ったものを返してもらうだけなんだよ。だけどね、それだけじゃあ使っちまったものは足りないんだよ。何らかの形で補完することになるね。何なのか私にもわからないけどね。」
「なんだって?それじゃあ俺の願いは意味がないじゃないか!ふざけるなよ!そんな契約なんて無効だ!」
桜子は激高する千暁の襟首を掴んで引き寄せた。
「あんたに、そんなこと言える権利があるのかい?人の、子どもの犠牲の上に人生積んでいるんだよ?逆も覚悟できない奴がいきり立ってんじゃないよ!」
「なら最初から俺の契約を受けるな!」
「私情と契約は完全に別さ!契約は公平に払うもの払えばどんなクズでも受けるさ!最初に言っただろ?だからあんたは静にとやかく言う権利はないね。」
桜子は千暁を突き飛ばすと、千暁は尻もちをついて地面に座り込んでしまった。放心状態で地面を無心で見つめている。その間に桜子は再びペンを差し出し契約書と一緒に静へ差し出した。
「さあ、好きにしな。」
静は虚ろな目でペンと契約書を受け取る。
「静!やめろ!」
千暁の声が草原に響いた。
一瞬の瞬きの後、ツキと太郎はガレージの中にいた。スリッパ越しでも足の裏のコンクリートの床が氷のように冷たい。
「戻った?姉ちゃん?」
ツキは情報を整理するのと、どんな感情がこの場合必要なのかがわからず、頭が少しも働かない。太郎が率直な意見をぶつけた。
「言っちゃ悪いけど、姉ちゃんの父ちゃん、そんないい奴じゃないと思う・・・。アカネ姉ちゃんのオヤジも最初はいけ好かなかった、いやあ、今でも嫌いだけど、でも、それでもアカネ姉ちゃんを想っていたのはわかるよ。それでも・・・。」
ツキはただ黙っている。
「姉ちゃん?」
ツキは何も答えずキッチンへと戻った。太郎もゆっくりと後に続いた。ツキは再びテーブルの上の紙切れを開いて文面を見つめている。
「そうだよ。二人が亡くなった夜、私はすべてを見ていたんだ。」
「思い出したのか?」
再びガレージの扉が叩かれた。誘っているのか、ふたりが扉を開けない限り鳴り止むことはなさそうだった。
「やっぱり、姉ちゃんは行くよな?」
ツキは頷いた。
「俺は行かないほうがいいのかな?きっと、この先は・・・。」
ツキは太郎の肩に優しく手を置いた。今までであれば頭を撫でるところが、今は相応しくないと感じる。
「一緒に来て。」
ツキは扉を開いた。当たり前のように、そこには暗闇が広がっている。ツキは躊躇うことなくその闇へと踏み込み、太郎も迷うこともなく飛び込む。
すると再びガレージの中に戻ってきた。しかし、今までと違うのは扉もそのまま残っている。正しくは今通ってきた扉ではなく、別の世界の扉であると経験から理解した。
何処かで話し声が聞こえてくる。ふたりはキッチンへと入り声のする客間へと向かった。
ツキは少しずつ鮮明になる記憶が、これから目の前にする光景と重なることを予感し、足が震えて少しずつ歩調が鈍くなる。それでも確かめなくてはならないという責任感から、一歩一歩踏み締めるように廊下を進んで行く。太郎は先ほどから何も言わず、ツキに歩調を合わせて進んでいる。
客間に辿り着くと、開け放たれた部屋の中から何人かの話し声が聞こえてくる。ツキは自分たちがその対象者には見えない、これは過去の記憶という確信から、いつものように部屋へと入った。
そこには桜子と両親がいた。新しいソファーを買う前の部屋、配置も家具も以前のままだった。壁には一枚の絵が飾られている。絵の中にはアカネの母親の記憶と寸分違わず、公園の湖と手前左手にはあのボート小屋があった。
ツキと太郎は部屋の中に入り誰にも気づかれないよう、実際は気づかれることもないのだが、テーブルの前に立って桜子と両親を左右に伺っている。
道路側の窓の前の桜子はカーテンを身幅と同じくらい開けて外を眺めている。カーテンから覗く外の風景は何もない真っ暗闇だったが、当時も異常な闇が広がっているのをツキは朧気ながら知っている、思い出し始めている。桜子はゆっくりと音も立てず、こちらへと振り返った。全員の視線が集中する。
「さあ、もう思い出したよね?今日が何の日なのか?」
つい先ほど見た千暁より目の前の千暁の髪は少し長く、痩せこけていた頬の厚みも窪みがわからない程度まで増している。歳を取ったのか人並み以上の生活水準で不自由な生活を忘れているかのように感じた。
千暁に対して静は髪型や体形、顔色など見た目は大きく変わってはいない。少し皺は増えたが、その目には前回よりも生気がみなぎり、この日のために生きてきたとの気迫さえ感じる。
桜子は相変わらず、一人だけ時間に干渉されないかのように何も変わっていない。
「俺は、認めていない・・・。」
「はっ!誰も認めてくれなんて思ってもいないさ。これが現実なんだよ。今日はそれも終わるんだけどね。」
千暁は何をすればいいのかがわからず、桜子と静を交互に見つめている。静が千暁の手を取った。
「ごめんなさいね。こうするしかなかった。」
「こうするしかなかったって、おかしくないか?これは本当のことなのか?あり得ないだろ?魔女だとか願いを叶える代わりに代償とか?」
桜子は舌打ちをして低い声で脅すように千暁を突き刺した。
「逃げてんじゃないよ?あんたが望んだことだろ?私を、契約を面白半分で信用したのかい?だったらそれでもいいさ。現にここに証拠があるんだからさ!」
いつの間にか手にしている筒状に巻かれた紙を千暁に乱暴に差し出した。
「その署名、あんたらの字だろ?契約の文面は読めずとも、ちゃんと伝えたとおりになったんじゃないのかい?どうよ?」
千暁は震える声で答えた。
「ああ、そうだ。でも・・・。」
「でも何さ?」
「これはあんたのおかげって証拠なんてないだろ?だって、人の運命を変えるなんてできっこないだろ?これは俺の運命で現実に起こったことだろ?」
桜子はため息をついた。
「はいはい、そりゃ正しい、大正解さ。でもさ、最初に言っただろ?魔法なんて万能じゃないってさ。魔法なんて言っているけど正確には私らは脳ミソをあんたらよりちょっと多めに使えるだけなんだよ。私に可能なのは可能性を引き寄せて繋いだままにするってこと。可能性なんて幾つでもある、だから選択によってまったく違う可能性を引き寄せちまう。天国から地獄ってのがいい例えさ。だから、その望んだ先へ繋がっている糸を離さないようにしておくんだよ。それには膨大なエネルギーが要る、それだけのものを差し出してね。」
千暁は信じられないといった表情のまま反論した。
「そんなの何とでも言えるだろ?結果論じゃないか。」
再び桜子は大きな、わざとらしいため息をついた。
「ああ、そうさ、結果論だよ。今がその結果なんだって。だから、そのために使ったものを支払ってもらうのが今日なんだよ。覚えているか?あんたが何を差し出したか?それを覆すため彼女が何を差し出すのか?」
千暁は静を見たが、静は千暁の手を繋いだまま桜子から目を離さなかった。
「ツキか?本当に今日までの命なのか?なぜ生まれて直ぐに連れていかない?」
「最初に命が終わっちまったら、それだけじゃ足りないんだよ。生まれることがわかったときの感情だけじゃあね。あんたらが何より大切に想ってこそ価値がある。そこまで築き上げたものじゃないとね。ああ、何さ、私が取って食おうとかじゃないのさ。物事は勝手に進んでいくだけ。それを見届けるのが債権者の私の最後の役目さ。あぁ、そろそろじゃないかね。」
千暁は続けた。
「バカな!何を根拠に!いいから出ていけよ!もういいだろ?」
「うるさいね。終わったら勝手に出ていくさ。でもね、あんた今でも自分のことばかりじゃないのか?」
「悪いのか?俺ががんばっているからみんながいい生活ができる。それに、俺たちには才能で生きていくしかないんだよ。認められない、自己満足の才能なんて価値もない!生きていることと同じ価値なものだよ!」
「だからって、まだ生まれる前の子どもを使ったんだよな?情が移る前に?」
「あのときは・・・。それに今では・・・。」
「あんたは何が怖いんだ?これから死ぬことか?それによって何もかもがなくなることか?」
「ああ、全部嫌さ、人間なら当たり前だろ?」
「はっ、あんた娘を犠牲にしたけど、静は自分自身を犠牲にしたんだ。どうなんだい?」
「それは・・・。」
「大事なときに答えられない。それって結局は自分のことばかり考えているんだよ。まあ、いいさ。それも終わりだよ。最後にすべて思い出したようだけど、あんまり変わっていなかったね。」
「じゃあ、記憶を消すなよ!今さら思い出させるなよ。何も知らないまま一思いに終わりにしろよ!」
「都合いいね。覚えていたら、思いどおりになったことに後ろめたさや後悔で望みが叶ったなんて受け入れないだろ?それでも、あんたの妻は時々思い出して苦しんでいたんだよ。」
千暁の青ざめた顔が一層血の気が引いた土気色の表情となり、静に問いかけた。
「そうなのか?知っていたのか?」
静は千暁から手を離し胸の前で祈るように手を組んで、俯いたまま千暁を見ようとしないで話し始めた。
「ずっとじゃないし、確証はなかった。同じ夢を何度も見たの。それに、あの祭りで祭壇を見ると一瞬意識が飛んで断片的に思い出したの。それで思った。これは何かある、ツキを守らなきゃいけないって。最後に手の届かないことが起きるのも予感していたわ。だから、ひとりでも生きていけるようにしなくちゃって、生活の術や人付き合いの仕方、それとなく周りにも声をかけて今日に備えてきたの。」
しばらくの沈黙が流れた後、桜子が冷たく続ける。
「それはまさにイレギュラーだったね。あんたらが楽しんだ分じゃあ娘に返すだけの人生は賄えないんだよ。最初どうなるか、まさか足りなくなって何か起こるんじゃないかって思ったけど杞憂だったよ。結果静が足りない分を他の人間から賄ってくれたんだよ。記憶の封印が弱まったのは、契約で繋がった私の力の一部を発現することになったからじゃないかって。わかるよね?あんたの絵さ。」
千暁は身震いした。
「確かに静の絵を手にしたら何かが起るのは知っていた・・・。最初は偶然かと思っていたけど、段々と確信に変わって、俺は恐ろしくなってただ見ているしかできなかった。目を逸らしていたんだ。あくまでも偶然と俺自身に思い込ませて・・・。」
「そりゃあ普通の神経ならただの超常現象さね。実際本人が意識して使役するもんじゃないみたいだったしね。絵を描くって行為の結果だわね。」
「確かにそうだと思うわ。本音を言えば私はそのことに、私の絵に不思議な力があるのを感じていたよ。それでもね、一瞬でも喜んでくれたり、お礼を言われると止められなくなっていたの。それにね、この力がいつか悪夢を終わらせてくれるんじゃないかって期待もあった。だから描き続けてきた。やがて本当に絵が好きなんだって、生きている実感が持てた。でも、結局は何も変えられなかった。」
桜子は来客用の長ソファーに腰かけ前かがみになって、射貫くように両親を睨みつけた。
「自惚れるんじゃないよ?何もできなくて当たり前なんだよ。悪夢なんてクレームつけんじゃないよ。楽しんだくせに。」
千暁が怒りを露わにして反論した。
「もうやめろ!楽しんだとか望んだとか、俺は何も記憶になかった、当たり前だと思って過ごしてきたんだ。それも記憶を消されなければ!」
「前に話したよね?後ろめたく生きては何にも楽しめないって。自ら望んで嫌々はないだろ?最終決定権はお前にあったんだから。決めたんだよ。」
千暁は何も言い返せなかった。その沈黙を破ったのは扉の向こうの物音だった。
「おや?誰かいるんじゃないのか?聞き耳立てて?出てきな。」
そこには昔のツキが立っていた。
「ツキ?何している?」
もうひとり、記憶のツキは声が出ないようだった。頭と心が追いついておらず、会話にこそ出なかった「死」というキーワードが脳内をリフレインしている。
「お父さんお母さん、何の話しをしているの?」
桜子は改まった表情でソファーに腰かけ直してツキへ挨拶をした。
「はじめまして、ツキ。私は桜子。魔女をやっている者だ。」
ツキはあり得ない自己紹介に現実か戸惑っていたが、本能的に桜子が普通の人間ではないことを感じ取った。
「あんたが信じるかは任せるよ。私は人間と契約してその願いを実現することができるんだよ。でもね、タダじゃない、ちゃんと見合ったものと交換するってのが条件だよ。そこでね、あんたの残りの人生使ってこいつらの人生は成功したんだよ。本当ならあんたは今日使われた寿命が尽きて死ぬはずだったんだ。だけど、そりゃあ嫌だってことで両親二人の命をあんたへ渡すんだよ。まあ、オヤジは原因つくったくせに巻き込まれた感じの被害者面で一緒におさらばするけどね。それが嫌で怒っているのさ。」
過去のツキは事態が飲み込めず、それでもこの状況では桜子が嘘をつくメリットも感じられない。ツキはこの場の空気の嫌悪感から吐き気を催して蹲ってしまった。
「ツキ!」
静が駆け寄ってツキの背中を擦った。
「さあ、そろそろいいかい?終わればこの子の記憶からも、このことは消え失せるんだから安心しな。」
桜子はスーツの左手の袖から二枚の巻かれた紙を取り出した。その紙をそれぞれ広げて重ね、聞いたこともない言葉で文面を読み出した。この呪文ともつかない台詞が終わるとすべてが終わる、そう思いツキは必死に立ち上がり桜子へ詰め寄った。そして一言。
「私があなたと契約します!」
その一声で桜子の足元に光の円が広がって消えた。桜子の口から言葉の続きが発せられるのが止まる。いつの間にかテーブルの上に一枚の紙が置かれている。
「お母さんとお父さんを連れていかないでください!代わりに私を好きにしていいから、だから、本当は私がいなくなるんでしょ?独りになるなんて嫌。だったら・・・。」
ツキは泣きながら縋るようにテーブルに手をついて、それでも顔は伏せず、かすれて声にならない叫び声を上げた。千暁と静も目から涙が溢れている。
「ツキ、やめて・・、いいの、いいんだよ。だからそんな紙切れは・・・。」
桜子は二枚の紙を懐に仕舞って、新たに表れた契約書を手に取ってまじまじと見つめている。そこには新たな契約が書かれており、両親とツキには何が書いてあるか読めないが、内容はすでにわかり切っていた。
「こんなの、無理だね。また一巡するだけ。無効だよ。元はオヤジが始めたことなんだ。あんたが背負う必要なんてないんだしね。他人ながらヘドが出るよ。」
契約書が軽く叩きつけられるようにテーブルに置かれた。それでも、その場の全員の心臓を跳ね上がらせるのには十分な音量だった。
「やってみないとわかりません。どうすればいいんですか?」
桜子はため息をついてペンをツキへ差し出し、文末の横一文字に引かれた線を指差した。
「あんたがサインすればいい。一度契約を切り出したからには取りやめるなんて無理なんだよ。」
静がツキの手を取って止め、桜子を睨んだ。
「何で、そんな簡単に契約なんてできるの?」
桜子はまたため息をついて答えた。
「あんた、覚えていないのかい?簡単にできるもんじゃないさ。すべてを失う覚悟が必要だっていうのを?そのうえで契約したんじゃないか?千暁だって昔自殺し損ねて契約する直前までいったんだよ。そのときの契約書をずっと後生大事に取っておいたんだしね。ああ、そうか、だから記憶も曖昧ながら残っていたんだね。偶然とはいえ、あんたから近づいてきたもんだからつい構っちまったよ。」
桜子から出た話しは過去のツキには衝撃であったが、今からすれば終わったことであり、どうでもよかった。それよりも、この状況を何とかしたいという気持ちが強く、意識を切り替えて考えを巡らせている。
両親がツキの決心がどれほどのものかを理解した。わずかな間に聞いた話を真摯に受け止めたのがわかる。
静は千暁が過去に自殺を図ったことは知っていた。学生時代に才能の限界まで突き詰めて栄光と挫折を繰り返してきたことや、社会に出ても将来について希望も見出せず筆を折って流されるままの日々を続けたり、大人の事情で人に裏切られたりして世の中を儚んだ行動と聞いている。それでも、静に出会って人が変わったように、ずっと何かを探して生きている千暁に寄り添っていこうと決めたのも、今でもはっきりと覚えている。しかし、その裏には今日まで続く因果があったことを、今この時点で初めて知った。過去を思い出し呆然としている静はいつの間にかツキの腕を離していた。それに気づいたとき、隣でツキが契約書にサインをしている。
「ツキ!」
すでに名前は記入されていた。契約の文面から黒い炎が燃え上がり、契約書はツキの名前を残して何も示していない白紙となった。
「これって?」
「やっぱりね。無効なんだよ。見たまんまの白紙。お前の命を捧げるって代価はすでにこいつらの契約書に入っているんだ。二つも叶えられないね。後は別のことでも願いな。」
「そんな、他に願いなんて何もないよ。」
「じゃあ、いつか本当に必要になったら使うんだね。そのときまた現れるさ。」
桜子はツキから契約書をそっと取り上げて懐に仕舞った。契約書は誰もから見えなくなったことで、まるで別の空間へと移り消えたようだった。
そのとき、千暁が膝を着いた。体を維持するのにはもう限界で床に横たわる。
「なんだ、急に、眠くなってきた・・・。」
桜子はソファーに姿勢を正して座り、懐から改めて二枚の契約書を取り出し三人に見えるように双方の手に持った。それぞれ文面のインクが鈍く黒い光を放っている。
「さあ、ついに契約履行だよ。」
静も膝を着いて必死に眠気と戦っている。
「桜子さん、何か、書くものを・・・。」
桜子はこの状況で静が何をしようとするのかわからなかったが、契約書をソファーに置いて、渋々自前のペンとテーブルに置いてあったノートを開いて手渡し従った。
静は抜ける力を振り絞り、一筆書くと地面に両手をついた。震える手で上着のポケットからキーケースを取り出すとテーブルの上に投げるように置いた。
「今書いたものを、キッチンの時計の中に、鍵はこの中に・・・。」
桜子は珍しく茶化すこともせずに受け取った。
ツキは大声で泣きながら静の手を取った。
「お母さん?大丈夫?」
他にかける言葉が見当たらない。千暁の元へも駆け寄っていく。
「お父さん?」
千暁の肩をゆすると千暁は力なく床に倒れ込んだ。
「すまない・・・。ツキ、俺はお前を・・・。」
それが最後の言葉だった。まるでマネキンのように千暁は目を開けたまま動かなくなった。
直ぐに静の元へ戻る。
「お母さん!」
静にしがみついて今まで以上に大声で泣き叫ぶ。
「ツキ、ごめんね・・・、今まで、ありがとうね・・・。楽しかったよ。」
静もそのまま動かなくなった。まるで今まで生きていたのが不思議なくらい、動かないのが当たり前の人形のように。
桜子は姿勢を崩さずその場でツキを見つめていた。ツキはどれくらいの時間泣いていただろうか、泣き疲れたのか徐々に嗚咽は収まり、震えも間隔が開きやがて止まった。
桜子が頃合いと見たのか、ツキへ声をかけた。
「あんた、これからどうするんだい?」
しばらく沈黙していたツキに桜子が煽りかけようとしたとき、返答が返ってきた。
「わからない。何をしたらいいのか。願うことなんて何もない。」
桜子は珍しく優しい声で答える。
「あんたの父親は結局自分中心だったのには少しは同情するよ。ある意味きっかけに同意した母親もね。そんな奴らに命懸けようなんて殊勝なのも結構。だけどね、折角の契約だ、あんたのために使いな。私はね、そんな親のために自らを犠牲にしようとしたのは、若さゆえの世間知らずって思いたいよ。」
ツキには桜子の言葉の意味が理解できなかった。パンクしそうな頭の中を、今までの状況を整理しようとすると急に眠気が襲ってきた。両親と同じことになるのではと思い恐怖で震えてくる。
「安心しな。負荷がかかり過ぎて、ちょっとお休みするだけだよ。無効とはいえ、一度私と契約しちまったんだ。目が覚めたら忘れているさ。でもね、契約途中ってのは困るんだよ。またそのうち会いにいくよ。きっと何かきっかけが起きるのは確実さね。」
過去のツキは両親の間に丸くなるようにして眠りについた。
「私、この後目が覚めてから記憶が始まっていた・・・。」
記憶の世界はまだ続いており、桜子はツキと太郎の間を通りキッチンへと向かった。
「姉ちゃん、追いかけよう。」
ツキは固まったまま反応しない。太郎はツキの手を引いて桜子の後を追いかけた。引かれるツキは客間から視点を外さない。
キッチンでは桜子が壁の柱時計を開けてつぶさに状態を調べていた。引き出しの鍵穴を見つけ、静から受け取ったキーケースの中から特徴のあるデザインの鍵を選んで鍵穴へ差し込んだ。無音のキッチンに開錠された音が響く。引手を引いて引き出しを開けると、中には何枚かの紙が入っている。桜子はそれら一枚一枚に目をとおした。
「まるで夢日記みたいだねえ。それでも娘に何か伝えようとしていたんだね。」
手紙は五枚あり、静は半信半疑ながらもツキと太郎があの祭壇で見てきたことを断片的に思い出すたびに記録していた。
桜子は引き出しの中の手紙を広げて、その上に先ほど託された手紙を重ねた。手紙を合わせると黒い炎が上がり、桜子に握られたままの手紙を焼き始めた。桜子は熱さを感じないのか手を離すこともなく、そのまま炎を虚ろな眼差しで見つめている。
太郎が何かを言おうとしたが口だけが開閉している。ツキもまるで呪いの儀式のような光景に先ほどまでの呆然とした表情が驚きの表情へと変わっている。
直ぐに炎は収まり、桜子の手には一枚の紙が残っている。桜子は最後の一枚を小さく折って引き出しの中に戻して鍵をかけ、最後にゆっくりと時計の蓋を閉めた。パタンと空気を閉じ込めるような音がキッチンに響き渡る。しばらく時計を眺めると、遠くを見つめるような表情で柱へと戻した。続いてキーケースから引き出しの鍵を外して懐に仕舞い、キーケース本体をテーブルに置いた。
「伝わるさ、この一枚で。」
最後の言葉とともに桜子はキッチンを後にした。玄関へと歩みを進める桜子の後ろ姿をツキと太郎が一瞬手を伸ばしたが、すぐに諦めるように立ち尽くして見つめている。扉が開き桜子が出て行く間際、桜子は振り返りふたりと目が合った。心臓を鷲掴みにされているような恐怖で全身に寒気が走る。
またもや、瞬時に場面が切り替わるように、ふたりは再びガレージの中にいる。
冷蔵庫のような室内でコンクリートの床は足の裏が冷たい。太郎はその場で足踏みをして体温が奪われるのを少しでも防いでいたが、ツキは虚ろな表情で立ち尽くしている。
「姉ちゃん、風邪ひいちまいそうだよ。早く部屋に戻ろう。」
ツキはガレージの壁を見つめたまま動かないので、太郎は無理やり腕を引いてキッチンへと戻った。もう二度と開かないように乱暴にガレージへの扉を閉め、ポールハンガーを塞ぐように置いた。
ツキをテーブルに座らせて様子を見る。姿勢こそ真っ直ぐだがテーブルの天板を見つめて黙っている。太郎はどう接するべきかわからず、かといって何もしないのはバツも悪く空気も重い。
まずは冷え切った身体を温めるため、キッチンでお湯を沸かしてお茶の準備に取りかかる。水が沸騰して熱湯に変わるまでの間、どう声をかけようか考えていたが具体的なものが出てこない。まさかあんなにも探し求めていた真実が、親の姿が想像とかけ離れていたことに太郎も気持ちに整理がつかない。いっそのこと、曖昧な記憶、想定していた一つの答えの病死であればどんなに楽であっただろうか、そう思わずにいられなかった。
最初は記憶のない太郎のほうが桜子との接点や事の重大性があると思っていた。ツキは桜子と出会わなければ、ツキの届く範囲から消えた静の絵も、記憶の空白でさえも知らないまま過ごすことができたに違いない。そう思い、出会ったことがこのような結果を招いてしまったのではないかと自責の念にもかられてしまったが、これは必然であったと切り替えた。今弱くなるわけにはいかない。
桜子自ら果たせなかった契約をするために現れたのは間違いない。ツキの願いは聞き届けられなかったが、願いの主の桜子と接点を持ってしまったがゆえにイレギュラーとして記憶の一部、母親との接点について失ってしまった。しかし、何故、今になって近づいてきたのだろうか。そのままツキの記憶も白紙のまま、忘れていればお互い会うこともなく終わっていただろう。太郎と出会ったことがきっかけ、いや、知っていればツキと太郎を会わせないようにすることもできたはず。敢えて運命共同体と仕向けるように動いたのは意図がある。考えてもわからないことは考えない、それがふたりの共通の行動であったはずだったが、今は太郎ひとりになった気分で、想像が堂々巡りしている。
お湯が沸く音が想像を中止させるように迫っている。
「姉ちゃん、お茶飲もうよ?寒かっただろ?」
太郎がふたりのお茶を用意する。
「冷めるよ?温かいうちに飲みな?」
父親が子どもに勧めるようにカップをそっとツキの前に差し出した。ツキはただカップに手を添えて温めている。太郎が冷ましながら飲み干しても、ツキはずっと生温くなったお茶で手を温め続けている。
無言の間を破るかのように急に時計が鳴りだした。音は十回鳴り響いて止まった。太郎はこの家で時計が鳴ったのを初めて聞いた。
「もう鳴らないと思っていた。」
ツキが下を向いたまま呟いた。
「お父さんが始まりだったなんて。私を、願いを叶えるために、お母さんも犠牲になるなんて。」
「ああ、姉ちゃんのオヤジは最低だと思う。親じゃないね。母ちゃんも関わっていたとはいえ、結果かわいそうだったけど、姉ちゃんの味方でいてくれたんじゃないか?」
太郎は本音で返した。優しさや気遣いは必要ない、そう感じた。しかし、桜子の感情的な言動がずっと引っかかっていた。大切なものでないと捧げる価値がない。ツキの父親については間接的に聞いた話と、ふたりで観た過去の断片でしかわからないが、ツキに対しての想いは本人にしかわからなかったのだろうか。それでも許せないことには変わりなかった。この場にいたら間違いなく殴っていた。
「信じたかった。記憶が欠落していたのはこんなことじゃないって。もし、もし何か特別な理由があったとしても誰も恨まないような・・・。」
太郎は恐る恐る質問した。
「姉ちゃん?やっぱりオヤジ、憎いか?」
ツキは頭を振った。
「もういない人をどう思えばいいのか。私だけが残っている意味も。お父さんは私じゃなくてお母さんが大事だった。それ以上に自分のことが。」
「それでもおかしいだろ。そんなことのために家族失っていいのかよ?」
「おかしい、おかしくないはもうどうでもいいよ。私たちがそう思っているだけかも。あの人はそれが当たり前、ずっと変わらなかったんだよ。」
「やめろよ、姉ちゃんは何もおかしくなんてないんだよ。いや、みんなおかしくたっていいんだよ。みんな違うんだから。」
「ゴメン、ちょっとひとりにして。」
ツキはそう言うと部屋へ戻っていった。太郎は声をかけなければと思ったが身体が反応しない。階段を一歩一歩ゆっくりと上る音が聞こえる。思わず階段下まで走り寄って叫んだ。
「姉ちゃん!風呂、ちゃんと入れよ!風邪ひくなよ!」
太郎自身、とっさのことで何を口走ったのかわからなかったが、何も言わないよりはマシだと思った。キッチンへ戻ってツキが口をつけなかった冷めきったお茶を一気に飲み干し、後片付けを済ませる。クリスマスの飾り付けを途中まで行っていた部屋が妙に暗く感じる。椅子に寄り掛かったりテレビをつけては直ぐに消し、駅前で買った飾りの入った袋を開けてはまた閉じたりして時間を潰していたが、ツキが下りてくる気配はなかった。静かな部屋が逆に耳が痛い。
このまま待っていてもひとり寝るしかない。ツキが戻ったときに備えようと風呂の準備をするために、足音を消して二階へと上がった。ツキの部屋の前でそっと聞き耳を立てる。泣き声が聞こえてくるのではと身構えたが、まったくの無音だった。取り急ぎ階下へ戻って風呂を済ませた。その間も下りてくる気配もなかったので、泣き疲れて寝てしまったのではと思った。それならそれでいい、変な気を起こさなければ、また、桜子が現れて事態が良くないほうへ進まなければいいと。キッチンでひとり椅子に座って、ツキと出会ってからのことをぼんやりと思い出して時間が過ぎるまま夜が深まる。
なぜ、あの夜、追いかけてきたのだろうか。
なぜ、他人である俺を当たり前のようにこの家に招き入れてくれたのだろうか。
なぜ、記憶のない俺を助けてくれるのだろうか。
なぜ、自分のことより太郎のことを優先してくれるのだろうか。
いつも信用してくれるのはなぜだろう。
俺と一緒にいて楽しいのだろうか。
俺のことをどう思っているのだろうか。
この先も一緒にいられるのだろうか。
ポールハンガーには一足先にツキへプレゼントした黒いケープがコートの隣にいつでも身に着けられるように掛けられている。買ってから一緒に出かけるときはいつもの如く荒事がありそうで、汚れや破損を気にしてあまり身に着けていなかった。ぼんやりと眺めていたら改めて眠気に襲われた。最近立て続けに大きなことが起きたせいか、身体がとてもだるい。気がつくと日付が変わっていたが、今まで時計の音を聞いた記憶はない。
もう寝よう。部屋へ戻る途中、改めてツキの部屋を扉越しに伺ったが、気配がしないのでそっと足音を忍ばせた。
翌日、太郎が目覚めるとすでに昼前だった。前日は異様に身体が疲れていたようで、夢も見たのか思い出せないほど深い眠りに落ちていたようだった。
今朝は一階から物音が聞こえない。普段はツキの朝食の準備の音が目覚まし時計代わりだったが、何も聞こえなかったのが寝坊の原因だった。
そっとツキの部屋に耳を当ててみるが、今回も気配すら感じられない。キッチンへと下りてくると朝食の準備もなく昨晩のままだった。再び二階へと戻りツキの部屋をノックしようとしたが、扉を叩く寸前でその手を止めた。
「姉ちゃん?」
そっと扉越しに呼びかけた。しかし、返事はこない。
「大丈夫か?」
嫌な想像が頭をよぎる。
「開けてもいい?」
沈黙はノーと答えている。
「俺でよければ話し相手になるよ?」
「・・・。」
(今日はクリスマスだよ?)
沈黙の中、無意識に一言発せられた気がした。
約束を忘れたわけではない、それを伝えたかったが声に出せずにいる。太郎は部屋でひとりのツキを思うと悲しくなり、扉を開けたいのを必死に我慢した。
どうして大人は自分の都合で子どもを理解した気になって、勝手に先に行ってしまうのだろう。ツキの両親は子どもにとっても決して良い人間ではない、しかし、ツキは信じるしかないのは親という切れない関係に今でも縛られているからだろうか。もっと自由になれないのか、そう思うと歯がゆい。記憶がないことがどれだけ楽なのか、今ばかりはそう思った。
「いつでも呼んでくれよな。」
階段を下りてキッチンへ向かう途中、風呂場が使われていた様子があった。太郎が寝ている間にツキが入ったようだった。
キッチンへ入ると柱時計と静の最期の手紙がテーブルに置かれたままになっていた。テレビをつけて時間を確認すると、柱時計の時間は昨日の夜で止まったままになっている。時間を戻そうとしても正しい方法がわからないので長針と短針を手で回して合わせる。テレビを消して、柱時計を壁の元に位置に戻し、手紙はどうするべきか暫く考えたが、結局答えは出ない。仕方なく文面も見ないで折り畳み、ポケットに仕舞って後で考えることにした。
立ったまま腕を組み、やるべきことを考えていると腹が鳴った。こんなときでも空腹は免れず、慣れない食事の準備を始めた。卵、ハム、レタスなど、今ある素材でサンドイッチを作り、普段飲まないコーヒーを淹れて一気に飲もうとしたが、ブラックはまだ太郎には向かないようで、たっぷりの砂糖とミルクで何とか飲めた。サンドイッチはふたり分作り、ひとり分を皿に乗せてラップをかけてツキの部屋の前に置いた。それでも部屋から出てくる気配はない。
ひとりの時間はゆっくり流れていくが、時計に目をやると前に見たときから一気に時間が進んでしまったようだった。特に観たいテレビはない。今思えばふたりが休みの日は必ず出かけていた。平日もお互いの時間以外、朝と夜は必ず一緒だった。今ふたりが家にいるのにひとりで過ごすのは初めてで、これほど持て余すなど思ってもみなかった。
ひとりでできること、クリスマスの残りの飾り付けを済ませて簡単に部屋を掃除した。客間で今まで埋めた地図を広げて見落としたところがないか繰り返し確認した。部屋を見回すと、すぐそこにツキの両親が倒れていそうな気がしてキッチンへと移動した。それも終わるとやることがなくなってしまった。
いつもの生活から何かが足りない。それはわかっていた。自分の一部を失くしたからだった。ツキはこんな生活を続けていたのだと初めて知った。これがツキの世界だった。このままにしてはいけない、そう思った。
ツキの行動や言動から感じたものに、いくら学校で人と接しても、本来は他人の集まりで通り過ぎるだけの場所ということがあった。結局は何処でも接する人自体が大事だと。学校が太郎という人間を形作ったものではないものという認識、寧ろ、記憶がないことで本能的な率直な感想だった。何も変わらないし変えてくれるものでもない。居場所や目的がなければただの箱、学歴という免許を取る世界でもあり、そのような世界で友人を見つけられたことがツキにとってどれだけ救いになっていたかも今になって理解した。
もう一つの社交場としてのバイト先のありがたさも実感した。ふたりが出会ったきっかけでもある。
物思いに耽っていると、今日の約束の期待があったことを急に意識し始めた。その想いと一緒にツキを待っている間、時間はただ過ぎ去っていく。
ツキは部屋へ戻ると、部屋の真ん中で大の字になって天井を見つめていた。頭や感情が麻痺している。そのままでいると冷えた部屋が体温を奪ってしまい、思わずエアコンをつけた。何もする気が起きなくても、どうして身体は寒さを無視できないのだろうか。生きるという本能が体調を崩すリスクを避けての行動に違いないが、こんな気持ちのときもそれが生きるとは思わなかった。
布団を敷いて再び大の字になる。今、何も感情が働かないことで気持ちの整理がつけられない。浮かんで消えるにまかせる、感情を無視した情景が次々と流れては消えるのを繰り返す。
両親が亡くなったときに感情は残らず出し切ってしまった。さっきまでは父親のエゴで母親ともども犠牲になったというショックから、激しい悲しみや怒りが混同していたのだが、今更何を想えばいいのか見当もつかない。今日までの年月が感情を風化させていた。
父親の思い出や記憶が温かさをあまり感じさせなかったことが唯一の救いだったのかもしれない。どういうわけか、最初から結末を知っていた気がして、事実を目の当たりにしても、感情の着地は予想した地点だった。
どれだけ時間が経っただろう。理由もなく急に意識が身体に降りてくる。
「あ、今日、約束していたんだ。」
突然、太郎を独り置いてきたことを申し訳なく思った。そっと部屋を出て、太郎の部屋の前で耳を澄ましたが何も聞こえない。
一階へ下りると無人だった。最後に太郎が風呂に入るようにと言ったことが妙に頭に残っていた。こんなときにいつもの調子のひとことが妙に嬉しかった。
部屋へ戻り着替えを取って、気分を切り替えようと熱めのシャワーを浴びた。蓋が意味をなさないほど温くなった湯船に、今から湯を沸かし入る余裕はなかった。
風呂から上がり、部屋ではいつものお香を焚いて大の字になる。幾つもの感情が交錯し気持ちの整理がつかず迷っているうちに、いつの間にか深い眠りに陥っていた。
夢を見たような気がする。それは夢とはっきり認識したかと思う。誰かがいたような、それはとても身近な誰かだったと思う。泣いていたり、激しく怒って叫んでいたり、酷くうなだれていたような、そんな記憶が薄っすらと残っている。現実はこんなにも非現実的なことばかりなのに、夢の中は日常が流れていて、そこには都度、突出した感情が次々と襲ってきた。
やがて意識が途絶え、再び戻った意識の中、目を開けると薄暗い部屋の中にいることを感じ取った。意識のはっきりしない中、思わず手を伸ばすと天井が目の前にある。ツキは夢と現実の狭間で漂っているが、やがて意識がはっきりとして、今は現実なのだと段階的に理解する。
カーテンの隙間から差す日は明るい。時計に目をやると正午を回っている。思わず飛び起きて部屋を出ると扉に軽く何かが当たった音がした。扉がわずかに当たったのは、足元に置かれたサンドイッチの乗った皿だった。ツキはその皿を手に階下へ下りると誰もいなかった。
キッチンはエアコンが自動運転でつけっぱなしになっている。その温さでさえ今まで起った不可思議な出来事と嫌な予感に直結する。
太郎は何処へ行ったのだろうか?家中の部屋を見回したが見つからない。いても経てってもいられずパジャマの上からコートを羽織って外に出ようすると、玄関の扉が開いて太郎が戻ってきた。傘をさしていたが肩には白い雪が乗っている。太郎の後ろは一面真っ白に見える。外で傘に積もった雪を落とし、全身の雪を払って急いで中に入って扉を閉めた。
「あ、姉ちゃん、おはよう。」
ツキは身動きできずに太郎を見つめていた。昨日とは雰囲気が違っている。ふたりでツキの過去に触れ、両親の死の原因を目の当たりにしてお互いにかける言葉を失い、顔を合わせることも憚られて別々に夜を過ごしたことが微妙な距離を生んでいた。
思い出せずとも感覚としてとても長い夢を見た後、太郎とは何日かぶりに今朝再会したように感じた。太郎が急に大人びたような、離れているはずの歳の差を一晩で詰めてしまったかと思った。
「何処か行くの?そんな恰好で?」
いつもと変わらない太郎が、今は夢ではなく現実なのだと教えてくれる。
「姉ちゃん?具合、どう?無理しないで休んでいろよ。」
最初、太郎が何を言っているのかわからなかったが、追いつくように頭の中がはっきりとして、引き籠ったことで心配をかけたと理解した。
「うん、多分、大丈夫。寝ているより、何かしているほうが、気が紛れていいよ。」
昨日がまるで遠い過去のように、今日は気持ちが落ち着いていた。それでも、何も考えることがないと、すぐ後ろから何者かの手が伸びて掴まれて、過去に引き戻されるような不安が影に身を潜めている。
「そうか、じゃあよかった。」
太郎のその笑顔がとても懐かしい。
「寒いな。外、真っ白だよ。」
「そうなんだ。ついに降ってきたね。」
「ああ、この辺の冬はこんな感じなんだな。」
「そうだよ。太郎と会った夜、あの日降るかと思ったけど全然だったよ。」
「姉ちゃん?キッチン戻ろうか?風邪ひいちまうぜ?そんな恰好だと。」
「そうだね。そういえば、サンドイッチありがとうね。」
「おお、そうだった。なかなか起きてこないからひとりで朝食べたよ。味はどう?」
「これから食べるよ。お昼になっちゃったけどね。」
ふたりキッチンへ戻り、ツキがコーヒーを淹れようとすると太郎が静止した。
「いいよ、サンドイッチ食べてろよ。俺がやるから。」
「ありがとう。じゃあ、お願いしてもいいかな。」
「ああ。」
ツキはコートを脱いでテーブルについてサンドイッチを食べ始めた。思えば初めて太郎がひとりで作った料理を口にした。少し時間が経ってしまって乾燥していたが、少し濃い味付けはツキの好みに合っていた。今までツキが作った料理から覚えたのだろうか。
太郎がお盆にポットとコーヒーの粉の入った容器、コーヒーカップを二つ乗せて戻ってきた。そして、ツキが泣いているのを見て思わず足を止めた。
「大丈夫か?姉ちゃん?」
ツキは自分が泣いていることにやっと気がついた。
「あれ?どうしたんだろう?」
頬を伝う涙を拭う。
「昨日の今日だよ。無理すんな?」
太郎はツキの両親のことを伝えていたが、ツキ本人はこの涙は違うことを知っている。
「大丈夫。ホッとしたからかな?涙が、緩くなったみたい。サンドイッチ、とっても美味しいよ。」
ツキはどう言い表すべきか迷っている。
太郎はコーヒーを淹れて各所定の位置に置いた。静かな部屋に椅子を引く音が反響する。静かにふたり、コーヒーを啜る。どことなく重い空気が流れている。何とかこの雰囲気を変えようとツキは辺りを見回した。
「あ、部屋の飾り、やってくれたんだね。うん、とってもいいね。」
石宝堂から譲り受けた木の枝が冷蔵庫や食器棚などの天板から天板へと橋のように架けられて、途中で何本も交差しながらキッチンの天井を縦横に覆うように配置されている。そこにリボンやモール、百均で買った本来はツリーが着飾る星や靴、杖、ボールなどが吊り下げてある。
「暇だったからな。」
「ゴメン、ひとりでやらせちゃって。」
「いいんだよ。他にやることなかったし。」
「・・・。」
「まあ、きっとそのうち起きてくるって思ったから。ちょっとはよくなった?」
「うん、本音はまだ本調子じゃないけど、落ち込んで塞ぎ込むのはもう終わったよ。きっともう平気。いいよ。」
本音は平気とまではいかないが、立ち止まってはまた同じことを繰り返すことへの抵抗と、まだ太郎の記憶探しという目的が残っていることで前を向くことができる。
「そうか。いいならいい。今日こんな天気だけどどうする?」
太郎は掃き出し窓へ歩み寄ってカーテンを開けると外は雪で真っ白だった。音もなく白い粒のような雪がお互いの距離を保ちながら降り続いている。
「わ、凄い。本当に降ってきたんだね。」
ツキは窓際で空を見上げた。次に目の前を見回すと道路に覆い被さるように積もった雪は、誰かが通った跡もなく綺麗に偏りもなく積み上げられて、まるで白い大地に家が沈んでいるようだった。
「せっかくだから、ううん、出かける約束だよね?寒いの平気?」
そう言って振り返ったツキはいつものツキだった。昨晩の憔悴した顔が雪で一瞬のうちに洗われたようだった。
「寒いのは大っ嫌い。だけど、いいぜ?約束だからな。」
「もう、素直じゃないね。相変わらず。」
「本音だろ?寒いの嫌いって。姉ちゃんみたく雪国育ちじゃないんだよ。多分。まあ、たまにはいいんじゃないか?ホワイトクリスマスってのも。」
「了解。じゃあ、準備してくるからちょっと待っててね。」
カップを下げようとしたが、太郎が先に手に取って流しへと向かった。
「早く行きなよ。やっとくからよ。」
「ありがとう。じゃあ、お願いね。」
太郎の優しさが、気を遣っていることは明白だったが、間を埋めるにはよかった。太郎は手際よく洗い物を済ませて、降り続ける雪を無心で見つめている。特別な外出のときくらいはいつもとは違う服に着替えたいと思ったが持ち合わせがないのが悔やまれる。
気象予報士の見解が正しいのか、火山活動の影響から温められた地面は雪が積もるのを妨げていたようで、足場の雪は深くはなさそうだった。
やがて、ツキが下りてきた。今までとあまり変わらないような恰好だった。シャツからカーディガン、スカートまで黒づくめ、ストッキングも履いているので黒い部分が多い。黒い服が多いのもあるが、昨日の出来事を思い出すと喪服に見えないこともない。いつもの三つ編みに今日も化粧をした風には見えない。この短時間でメイク完了とは思えなかった。
「お待たせ。太郎も準備いいなら出かけようか?まずは駅前でいいかな?」
「ああ。他に行く場所なんてないんじゃない?この辺。」
「相変わらずディスってるね。反論できないのは悔しいけど。」
「じゃあさ、何かプラン考えてるのかよ?」
「全然。行き当たりばったりだけど駅前なら色んなお店あるよ。まあ、ちょっとは考えてもいるかな。」
「何だよ?」
「行けばわかるよ。」
「そうなのか?まあいいや。とっとと行こうぜ。」
ツキはコートを着て、太郎からのクリスマスプレゼントのショールを羽織った。
「どう?いい感じ?」
「また聞く。なんかのコスプレ?」
「魔法使いかな?」
「なにそれ?」
「太郎が言っていたじゃない?」
「俺は魔女って言ったんだよ。確か。」
「どっちでもいいよ。だって、私たち、ちょっとした魔法使えるんだからね。」
「そうか、そうだったよな。」
「ね?じゃあ行こうか。」
外に出ると足が雪に沈む。足首まで埋まったが、積もり具合から全体的にそれほど深くはなさそうだった。
「太郎、何履いているの?結構積っているよ。」
太郎はツキの編み上げのショートブーツを履いていた。
「ちょっと借りちゃったけどいいかな?」
「いいけど、前に駅前で長靴も買わなかった?いつ降ってもいいように。」
太郎は申し訳なさそうに頭を搔いている。
「いやさ、せっかく買ってもらったけど、何だかサイズ会わなかったみたいなんだ。」
「そうなの?試着しなかった?」
「ああ、したけど、今朝履いたらダメだった。だから悪いと思ったけど姉ちゃんの靴借りちゃったよ。」
今までずっと一緒で意識していなかったが、太郎の背丈はツキに大分近づいている。長靴のサイズが合わないのではなく太郎が合わなくなったのだろう。手袋もきつそうに見えるが、生地が伸びて何とか手が収まっている。怪異と呼べる現象に幾度となく逢ってきたが、太郎の短期間ではありえない変化は何か不吉なものを感じさせた。何かが起るのではないかと。本人は感じているのだろうか。そう思い、敢えていつもの風を装う。
「いいよ、貸してあげる。私には大きめだったから丁度いいみたいだね。また靴見にいこう。」
「ありがとう。見た目も長靴替わりでちょうどよくってさ。後で痒くならなきゃいいけどな。」
「ちょっと!私そんなに足蒸れて変なことになっていないよ!いっそのこと痒くなって寝れなくなっちゃえばいいよ。」
「やめろよ。洒落にならないって。水虫って感染するんだぜ?」
「こら!水虫って言うな。もう、せっかくのデートに。」
「悪りぃ、早く行こうよ。ずっと立っているのも寒いんだよ。」
「まあ、そうだね。早く行こう。ホントにもう。」
雪の中をゆっくりと転ばないよう、ふたりとも黒い傘を握りしめて慎重に進む。ツキは慣れたように重心を下げた足運びだが、太郎は変に力が入って危なげな歩みで、一歩一歩確かめるように進んでいる。ツキは太郎にペースを合わせてゆっくりと歩いている。
大通りに出ると、車道は車の往来で雪が解けて黒い地面が露出している。歩道も慣れたもので、各家が玄関先だけでなく隣の家の境までも雪かきをしていたのでほとんど積もっていない。
「姉ちゃん、こりゃ楽だな。助かるよ。」
「そうだね。駅前までは無事辿り着けそうだね。太郎が筋肉痛になって倒れちゃうもんね。」
「マジそう思う。」
クリスマスという特別な日、今日は雪にも関わらずいつもより人が多い。駅前ロータリーの中心には飾り付けられたツリーが建っており、店もそれぞれ思い思いに着飾っている。ふたりはいつもより華やかな雑貨屋を何件か回って、ウインドウショッピングをしながら駅前の商業ビルへと入った。
そこはクリスマスカラーに彩られて、いつもよりもいっそう明るく、軽快で楽しげなクリスマスソングが流れ、気分も自然と上がる。
「そろそろおやつ食べない?いい時間じゃない?」
「おいおい、出る前にサンドイッチ食べただろ?足りないのか?」
「うん、動いたらお腹空いちゃって。朝食べてないからね。」
「マジかよ。でも、まあ、俺も昼から大分経っているからいいか。何がいい?」
「そうね。ちょっと見てみよう?」
ふたりは地下から一通り回り、一階入口まで戻ってきた。
「決まった?」
「太郎は?食べたいもの教えて?」
「じゃあ一緒にな。俺は・・・。」
「たこ焼き。」「たこ焼き。」
「おお、珍しく意見合ったな。」
意見の一致にフードコート入口にあるたこ焼き屋が一役買っていた。
「ホントだね。ほら、あれ。あれ見たら刷り込まれるって。だって私ん家じゃ作れないから。さっきはパン系だったし、お米やラーメンはご飯だよね。」
「おう、俺もそう思った。じゃあ決まりな。」
たこ焼きを食べながら他愛もない会話が弾む。ふたりで出会ってきた不可思議な出来事も今は笑って話せる。たった一か月だが共有したものは多い。
会話の間も太郎はツキの表情を伺っている。少しお互いぎこちない。いつ感情がおかしくなっても不思議ではない、太郎はツキが気を紛らわせて無理をしているのではと思いながら注視している。
ツキは時折昨日のことが脳裏をよぎり気持ちが落ち込んで不安定になる。太郎が朝からよそよそしいのもわかっている。気づかせないようにすることが無理なのもわかっているだけに、逆にオーバーリアクションにならないように気遣いもしながら、可能な限り平生を装っている。それでも会話が途切れることがないのは救いだった。今までそれぞれの目的に向かって一緒に行動してきたのだが、今ツキはひと段落終えて自由になっている。しかし、結果は最悪で気分もまだ持ち直していない。それでもいつものように振舞える、会話が楽しいのは本当に気が合うのだと今更ながら実感した。
すでにたこ焼きは平らげたが、会話はまだ終わらない。今日はいつもよりカップルが目につくが、直ぐにふたりの意識から外れている。
「そうそう、屋上に行ってみない?」
「へえ、ここって屋上あるんだ。」
「そうだよ。この街の景色が一望できるんだよ。行こう?」
「ああ、行ってみようか。」
ふたりはエレベータに乗って屋上へと上がった。エレベータを降りると幾つものテーブルと椅子が置かれた休憩スペースが広がり、目の前一面のガラスを隔てて見える外の風景は空も真っ白く塗りつぶされていた。雪はちょうど止んでいたが、空は雲で薄いグレーに覆われている。
「うわっ、太郎、外、真っ白だ。」
「寒そ。」
「行ってみよう。」
「マジで?俺、ここでいいや。」
「行こうよ。せっかくここまで来て。外は見晴らしいいんだから。ちょっと待てて。」
ツキは近くの自動販売機でホットコーヒーとホットココアを買って戻ってきた。
「はい、カイロ替わりに。」
「お、おう、悪いな。」
「じゃあ行こう。」
扉を開けると不思議なくらい無風だった。人はまばらだったが、今日はやはり友人同士や家族連れよりカップルが多い。フェンスの向こうには真っ白な屋根の家々が眼下に広がっている。黒やグレーなどの建物の壁の色、主な車道だけ雪が解けて黒い地肌を露出させている。まるで白いキャンパスを何本もの黒い線で縦横無尽に区切ったかのような風景だった。
「私、雪が降っているときにここへ来たのって、初めて。」
「そうか。」
太郎は傘の柄を肘にかけて両手でココアを包み込んで辺りを見回した。その恰好のまま何となく休憩スペースを曲がって裏手へと進むと、生け垣に大人より少し高い木が何本も植えられていた。建物の屋上という人工物としては似つかわしくない、自然が造られてあった。その下を細い道が続いている。そこを抜けるとフェンスによって行き止まりとなっていたが、そこにはツキの家のガレージくらいの開けた空間が広がっている。フェンスの先、遠くに真っ白く染まった山が連なり、その端の歪な形をした山が群を抜いて高く聳え立っている。
「こんな所あったんだ。前は木が植えられて、入ったら怒られるかなって思って進まなかったよ。見晴らしいいよね。」
「姉ちゃん、あの端の一番高い山、あれを越えたんだよな?」
手を缶から離さず視線で示した。
「うん、そうだよね。あの向こうへ行ってきたんだよ。そして跳び越えて戻ったよね。こうやって見ると結構高いね。」
ツキも太郎と同じように傘を肘に、両手で缶を転がすように包み込んでいる。
「俺、思い出したら何だか楽しくなってきた。」
「何で?」
「え?だって、あんなことできるのって普通ないぜ?前に姉ちゃん言ってなかった?」
「そうだっけ?でも、そのとおりだね。おかげでアカネもアユミも助けられたよね。」
「そうだな、大変だったけどな。」
「私死にかけたもんね。」
「おぉい、マジでそうだけど、軽いな。」
「時効だからだよ。何か、それも夢みたい。不思議なことばかりで今もどっちかわからないな。」
太郎は冷めてきたココアをコートのポケットに突っ込んでツキに半歩近づいた。
「ゆ、夢じゃないよ。今は現実だよ。」
山を見つめるツキの横顔は、余計なものを排した白い背景によく映える。そっとゆっくりと手を伸ばす。
「あ、あれ。」
小さな広場の端に小さな社が立っている。ツキは近づいて立札の文字を読み始めた。太郎は思わず手を引っ込めて、素早くポケットに両手を入れて首を軽く回しながら社へと近づいていった。
「何なんだよ。それ?」
太郎には立札を読む気はない。
「昔この地方、特にあの山を中心に襲った災害で亡くなった人たちへの鎮魂の社だって。元々山の近くにあった神社で祀ってあったんだけど、そこも水害で壊れたらしくって、もう二度と壊されないよう高台のここに遷したみたい。」
「そうなのか?確かにここはあの山がよく見えるしな。ちょうどいいかもな。何だよ災害って?」
「特に書いていないみたい。でも、昨日見た山の麓の広場には昔村があったって聞いたことがあるよ。」
昨日の話しが出てしまい、太郎の表情が慌てているのがわかる。
「あ、ゴメン思い出させて。」
ツキは温くなったコーヒーをポケットに仕舞って太郎の頬を軽くつまんだ。
「そんな顔しない。気にしないで。それに太郎のせいじゃないんだから。」
「でも・・・。」
「太郎らしくないよ。もっと変なこと言ってよ。いつもみたく。」
急にそう言われると返す台詞がまったく思いつかない。
「そうだ、飲み物冷めちまうよ。早く飲もうよ。」
「ここで?」
「そうだよ。もうカイロにならないし、冷たくなる前に飲んじゃおうよ。まさかこのまま持って帰ってまた温める気?荷物になるぜ?」
「そうね。コールドになる前に。」
ツキはポケットからコーヒーを取り出して蓋を開けた。太郎はココアの缶を開けてツキへと向けて差し出した。
「じゃあ、姉ちゃん、乾杯。」
「何に?」
「あの山に。」
「乾杯より献杯だね。」
「そうなのか?」
「うん。」
太郎は意味を理解し、再びしまったと思ったが、敢えて表情を変えず訂正した。
「いやいや、クリスマスにだよ。サンタにか?」
「そうだね。じゃあクリスマスに乾杯。」
ふたりは缶を目の前に掲げ、缶がぶつかる高くも鈍い音が空と雪に吸い込まれる。
「うわっ、冷てぇ!」
「ちょっと、これは身体冷えるよ!」
飲み物はすでにコールドのレベルまで冷え切っている。
「いや、いい。せっかくの乾杯だ。」
太郎は意を決したように一気にココアを飲み干した。相当冷たかったのか両腕を抱きながら小さくなって足踏みしている。ツキも笑って、太郎に倣って一気に飲み干した。同じように両腕を抱いて小さく跳ねる。雪がふたりの足元で白い煙のように舞っている。
突然太郎が休憩スペースへと小走りで駆け寄っていく。
「どうしたの?」
「トイレ!」
ツキは笑いながら太郎の後をゆっくりとついていった。まだ、私は笑える、食事のときも笑っていられた。まだ前へ進める。
ふと後ろに何かの気配を感じて振り返った。しかし、そこにはあの山を背に社が立っているだけだった。
太郎とエレベータ前で合流し、再びビル内の店を上の階から次々と回る。いつもの見慣れた店がクリスマスに彩られると初見の店のようで新鮮だった。ペットショップではお互いにそっくりな犬猫を探し、服屋を何件か巡りお互いに合ったコーディネートを見繕い、文具屋で好みのクリスマスカードを見せ合った。途中のイベントスペースでは、子どもたちがリースを作っているのを眺めて、どの子が上手だのセンスあるだの評論して思い思いに楽しんだ。
「あそこ、ツリーがあるよ。後で見てみよう。」
屋内の中心が吹き抜けになっており、眼下にクリスマスツリーが立っているのが見える。
「ああ、順番に下りていけば辿り着けるよな。」
田舎ながらの土地を十分に使った施設は全部の店を回るには広過ぎる。そろそろ目ぼしい店も巡り、最後にツリーを見てから外に出ようかとお互いに思っていたとき、本屋の片隅にこの街についての特集コーナーがあるのが目についた。ツキは手前の本を手に取って目次を開くと、かつて街を襲った災害についての記載があった。そこには山の麓にあった村が一晩で大雪に埋もれて村人全員が亡くなったと記されている。家々が雪の重みに潰されて皆死に絶えたらしい。にわかには信じがたいことでもあり、あくまでも近隣の村から見に行った誰それが記したので、真実は定かではないとされていた。
後に壊滅した村より南に位置する川のほとりに、慰霊のための神社が建てられたが、そこも戦後、台風による川の氾濫で流されてしまったとあった。現在、川は整備され氾濫することもなくなり、神社も再建されたとある。
「これって、さっき屋上で見た社に関係することだよね?」
「ああ、そうだな。雪で村壊滅って、どんだけ降ってんだよ?他に何かあったんだろうな。きっと昔からおかしなこと起きていたんじゃないのか?」
「確かにね。それ以降は特に変わったことは何も書いてないから、本当に何かの災害だったんじゃない?ちょっと私たち考え過ぎかもよ?」
「うーん、そうかもな。短期間に色々あり過ぎて過敏かもしれないよな。それよりさ、あそこの絵本コーナー、いい感じじゃない?」
太郎は目についたクリスマスの特設コーナーへ話題を変えたが、確かに煌びやかな本が並んでいる店は見ているだけで気分も楽しくなり、マイナス思考を和らげてくれそうだった。
「いいね。かわいい。」
ツキは気になった本を手に取って、ペラペラとページをめくっては次々と吟味した。
「俺はこれがいいな。」
太郎が手に取ったのは洋書で中世の絵画をポップにディフォルメしたようなデザインで描かれている。太郎のように茶化した雰囲気のするサンタがイヴの準備をするにあたっての苦労のエピソードや、それでも起きるトラブルを乗り越えてプレゼントを配るストーリーだった。仕事を終えたサンタが南の島でトナカイとバカンスを満喫して次のクリスマスまでのんびりするところで終わっている。
「うん、太郎っぽい。特にこのトナカイ、憎ったらしい顔してそっくり。」
「おい!こりゃ似ているわけがないだろ?それより姉ちゃんはどれがいいんだよ?」
「私?私は・・・。これかな。」
ツキが手に取ったのはアールヌーボー調のデザイン集のような、これもまたサンタがクリスマスの準備やおもちゃ配りのストーリーだった。
「なんか、絵、好きそう。クリスマスの話しってさ、みんな似たり寄ったりだよな。ネタが限定的なんだよな。」
「だよね。あとは本とセンスが合うかだね。服やアクセサリーと似ているよ。その人のイメージも反映されるの、よくわかるよね。」
「そういやそうだな。それでも、俺はこのトナカイは違うからな。」
「そう?じゃあ、買って帰ろうよ?家でゆっくり見比べて?」
「要らん!」
「なんでよ?面白くない?」
「面白くない。そんな大きな本、俺のバッグに入れたら邪魔だよ。」
ツキは今日も手ぶらだった。太郎は襷掛けにしたショルダーと絵本を重ねて若干大きいことを示した。
「別に私が持つのに?何気にいつも太郎って優しいよね。」
「あ?何が?」
「だって、いつも先に色々やってくれるんだから。今も荷物持ってくれようとしている。」
太郎は意識していなかったが、ツキは危ない場面でも些細なことでも、いつも太郎が先に動いてくれていたのを覚えていた。
「別に。姉ちゃん、いつも手ぶらだしのんびりだから。俺は準備万端でせっかちなんだよ。」
太郎は照れるといつも早口になる。
「そうかもね。でも、やっと、前へ進めるようになったかな。」
そこでふたりは黙ってしまった。どこか照れくさく、意味もなく建物内を見回す。突然、ツキの後ろで子どもたちが騒ぎ出して沈黙を塗りつぶしてくれた。
そこには巨大な何かの動物のサンタの着ぐるみが風船を配っている。サンタは本屋の脇の社用通路から出てきたようで、近くにいた子どもたちが目ざとく見つけて一斉に集まってきたようだった。親たちは手にはスマホを構えている。
「おいおい、あのサンタ、某遊園地のキャラをパクったようなデザインじゃないか?」
「あはっ、確かに。SNSにアップされてばれたら著作権ってやられそう。」
「ふっ。やべえな。俺たち映り込まないように逃げようぜ。」
何も悪いことはしてはいないが、こっそり逃げるように、ふたりはその場を後にした。
一階へ戻ってくると外は薄暗くなっているが、逆に屋内の照明が昼間より明るくなった。その明るさに対して、音楽がいつの間にかバラードのように力強くも落ち着いた曲に変わって気分を別の意味で盛り上げる。ここはちょうど一階の中央で、ホールの中央に上階から覗いた巨大なツリーが高々とツキたちを見下ろして建っている。それでも石宝堂のツリーの輝きに比べると、人工的で不自然な造り物の感じは否めない。
ツリーの足元には白い三段の幅広い階段があり、最上段に大人の身の丈以上はあるクリスマスカラーのアーチと、その円の上部には大きなベルが飾られていた。
順番にカップルや子連れの家族が階段を上り、アーチの下で写真を撮っている。
「一緒に撮る?」
ぼんやりその光景を眺めていた太郎に、不意にツキが問いかけた。太郎は声が出なくなって耳まで一瞬に赤くなった。
「そういえば私たち、写真なんて一枚も撮っていなかったね。何か緩い毎日だったけど、忙しかったな。」
「別にどうでもいいけど?」
ツリーの頂上の星へと視線を逃がして呟くように答える。
「嫌?」
「だからどうでもいい。」
「はっきりしないなあ。」
「好きにすれば?」
「じゃあ撮ろう?」
「どうやってふたりで?」
「そんなのインカメでいいんじゃない?」
「上手く撮れるか?」
「もう、太郎らしくないな。」
ふたりが煮え切らないやり取りをしていると、その様子を見ていた一組のカップルが声をかけてきた。
「すいません、写真撮ってもらってもいいですか?」
女性がスマホを差し出しながらツキか太郎かどちらへ頼もうか左右に振れて迷っている。男性も照れくさそうに見守っている。カップルはツキより大人びた外見から年上に見える。
「いいですよ。ちょうど今、空いているみたいですね。並んでください。」
ツキはスマホを受け取って快諾した。カップルがアーチの下で肩を組んで並んだ。
「はい、撮りますね。」
言い終わると同時にシャッターボタンを押した。
「じゃあ、もう一枚。」
再びボタンを押す。
「オッケーです。」
身動き一つしなかったカップルは緊張が解けて、二人小さく息を吐いた。
「ありがとうございました。」
階段から下りてきたカップルが示し合わせたかのように声を合わせてお礼を述べ、受け取ったスマホをチェックする。
「どうです?上手く撮れていますか?」
男性が満面の笑みで答えた。
「ありがとう、バッチリです。ふたりも撮りましょうか?」
太郎が慌てたように裏返った声を出した。
「えっ?俺ら?どうする?姉ちゃん?」
ツキは薄ら笑いを浮かべて、返答を太郎に一任している。
「こ、断るのも悪し、折角だからお願しようか?姉ちゃん?」
「そうね。すいませんがお願いできますか?」
ツキはスマホを撮影モードへ切り替えて男性へと手渡した。
「仲のいい姉弟ですね。」
男性はスマホを受け取ると、ふたりを交互に見比べた。
「そう見えますか?」
ツキは太郎を見ると、太郎は即座に目を逸らした。ツキの質問に女性が答えた。
「はい。私、一人っ子なので羨ましいです。クリスマスも一人ばっかりで一緒に遊ぶのって。」
太郎がここぞとばかりに割って入る。
「そうなんです。姉ちゃん彼氏いないから、ひとり家にいるのも寂しくてこうやって出てきたんですよ。この雪の中を。」
「太郎!余計なこと言わない!」
カップルの笑い声がホールに響いた。
「あぁ、すいません。笑っちゃって。いえいえ、それでも羨ましいですよ。こうやって付き合ってくれる弟さんて、とても素敵じゃないですか。」
「そうそう、俺なんてこいつと付き合うまで家で弟とずっとゲームしていたから。兄弟でも男同士で出けるなんて寒いっすよ。」
「そうなんですか。私もひとりだから、い、いやひとりだったら何していいかわからないと思います。彼氏なんていないもんで。」
ツキは話しながら太郎の頬を軽くつねった。
「痛てえな。悪かったよ。余計なこと言ってよ。ほら、丁度空いたよ。早く行こうか。」
太郎は顔をつねるツキの手を離すと、その手を取って引いて先に階段を上がっていった。手の平は温かいが細い指先は少し冷たかった。何度か繋いだ手だったが、初めて体温を感じることができた。
アーチの下に並ぶと、太郎は無意識にツキと手を繋いだことに気がつき、思わず手を放した。ツキの顔を見ることができないまま被写体となりスマホに向き合う。今どんな顔をしているのか気になるが身体が硬直して上手く動けない。おかしなくらい不自然に全身がまっ直ぐ伸びているのではないかと想像して、すぐに思いつくポーズを取った。
「撮りますよ。笑ってー。」
意識していなかったが、今自分は笑っていないのだ、そう思うと隣のツキも笑っていないと想像し、ひとりだけ笑うのは難しく思った。シャッターが押されるまでのしばらくの間が何を意味するか気になる。
「はい、もう一枚いきまーす。」
いつの間にか写真が撮られていたようだった。
「はい、お疲れ様です。」
今度はツキが先に下りてスマホを受け取った。
「どう?バッチリ撮れてます?」
写真をチェックしたツキは笑顔で答えた。
「バッチリです。ありがとうございました。」
「よかった。じゃあ、ふたり楽しんでください。」
カップルはお辞儀をしながら去っていった。
「姉ちゃん、どうだ?」
「気になる?」
「そりゃあ、そうだよ。」
ツキはスマホの写真を開いて太郎へ見せた。そこにはツリーを背にアーチの下で優しく微笑むツキと、少し困ったような表情の太郎が並んでいる。ツキは両足を揃えて姿勢正しく立っている。両手を伸ばして身体の前で手の平を重ねて、まるでウエイトレスが客を迎える恰好に見える。
太郎は棒立ちで少し休めの体制、片腕を腰に当てているが、強張ったように肩に力が入っているのがよくわかる。表情は照れくさそうに、気持ち少し笑っているように見える。いつの間にか少し長かった前髪はもう顔を隠すことはなく、幼さも切り捨てたかのように精悍さが垣間見える。
ふたりを並べてみて実感するが、太郎の背はツキとほぼ並んでいる。ツキ自体同世代では若干高いくらいだったが、ツキに並ぶ今の太郎は、三人組で一番背が低いアカネよりも高い。初めて会ったときは小学生か中学生でアカネよりも低いかと思っていた。ジーンズの裾はブーツインされているが、おそらく寸足らずだろう。元々オーバーサイズのデザインかと思われていたコートも、折り曲げてあった袖も伸ばされて全体的に身体に合っている。
そんな変化も、今のツキにはどうでもよかった。
何が起きているかは間もなくわかる。
わからないことは考えても仕方ない。
今はこの瞬間が楽しい、それで十分だった。
太郎は今楽しんでいるのか、昨日のことを見てツキに対してどう思っているか気になる。
太郎は写真を食い入るように見ている。邪魔をしては悪いような気にさせるほどだったが、このままでは何故か気まずくなるようで、それとなく声をかける。
「太郎、ちょっと堅いね。でも、それも太郎らしくていいね。」
「なんだよ?それ?」
「普段ふざけた態度でも、実はシャイだったりね。根が優しいのかな。」
太郎は時々妙に持ち上げてくれると背中がむず痒くなり、とても恥ずかしい気分になる。その一言で正気に戻ったように、スマホをツキへと返した。
「どうでもいいよ、そんなの。俺は俺だよ。ふざけた態度が俺らしいだろ。」
「そうだね。この写真、いいよ。」
ツキは大事そうにスマホを胸に抱えて太郎に微笑みかけた。初めてのツーショット写真が嬉しかった。思えばスマホを手にしてから、誰かとふたりきりで映ったのは初めてだった。幼いころにはアカネ含めて複数の友人と一緒に誰かの親に撮られたことはあったが、自撮りをしたことはなかった。
両親は小学生のツキにスマホは持たせず、中学に入って様子を見てから持たせる予定だったが、結局は与えられることはなかった。今となっては、母親が未来についての断片的な記憶から、一緒にいる時間を少しでも多くしようとする意図か、来るべきときに備えての時間を惜しんでいたのかはわからない。例の事件から親戚が一時期同居していたために、連絡手段としてスマホを持ち始めたが、そのときの心理状態では楽しむ余裕はなかった。
太郎は今までツキの色々な表情を見てきたが、子どものように無邪気に笑うツキを見て、改めて好きなんだと実感した。いつも年上の、姉のように接してきたことに自分をどう思っているのかわかっている。それでも受け入れている。相変わらず鼻で笑って顔を逸らした。
ツキは太郎の年下とは思えない考え方や行動を垣間見て、実年齢が小中学生か疑問を持つようになっていた。それも今朝の太郎を見て確認していた。おそらく本当は自分とそれほど歳は変わらないのではないのかと。桜子との契約が関わっている以上、常識は通用しない。魔法にかけられた王子様などというメルヘンチックな表現も恥ずかし気もなく想像することもあった。それでも王子様とはかけ離れているのはリアルだった。弟のように接してきたが、いざというときに見せた大人びた行動には別の感情を抱いたことは事実だった。その双方の感情が入り混じり、混ざり合ってひとつの色になることがないのに戸惑っている。それも近いうちに解放されることをどこか期待している。どのような形になろうが、それはそれで一つの終着点、形にしなくてはならないと。
叶わなかった契約もまだ残っている。
太郎もまだ探している。
すべてが終わってはない。
それでも休息は必要だ。
たまには楽しんでもいい、誰にでもなくそう反論し、今日ここまできた。辿り着いた真実は暗い感情とともに心の中の砂漠へと押し込んでも決して忘れることはないが、いつかその表面は風化して、残ったものは飲み込んで腹の底に押し込めてしまえばいい。そう思えるほどの年月をすり減らしながら生きてきたのだから。
外に出ると、すっかり日は暮れていた。逆に商業ビルへ入る人々は増えている。駅前もイルミネーションが点灯し、行き交う人数もいつもより多い。普段は何処にいるのだろうと思うくらいの人出だった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
まだ雪は降ってこないが、空一面を覆う雲によって空と地上が分けられて、まるで雲の上に雪が積もって堰き止められているようにも思える。
「そうだな、また降ってきそうだしな。」
本来であれば、ここでお互い別れて、それぞれの家路につくのだが、一緒に帰ることが当たり前の関係に太郎は家族ではない線引きがもどかしい。
ツキは帰りも雪道を慎重に歩く太郎に歩幅を合わせて、軽口をたたく余裕がない太郎に声をかけることもなく、ゆっくりと歩いている。
太郎は何か言わなくてはと気まずい反面、露出した氷で脚を滑らすたびに踏み止まることを繰り返すので精一杯だった。太郎が履いているツキのブーツは年季も入っていたので靴底は摩耗して滑り易い。見かねてツキが話しかける。
「その靴、結構気に入って履き続けたから底がやられているんだ。いつか直そうと思っていても、結局そのままだったよ。ごめんね。」
「いや、勝手に履いたのは俺だから。姉ちゃん、いつも何かと謝り過ぎ。」
「これは、癖になっちゃたのかな?」
「だろうな。俺には気にしなくてもいいよ。そんなこと前にアユミ姉ちゃんも言っていたな。」
「そうだね。何度も、怒りそうだよね。」
「ああ、それにアカネ姉ちゃんにもいいんじゃないの?同じくらい気を使わなくても。」
「うん。少しずつ意識して変えていこうと思うよ。」
「ああ、いいんじゃないか。」
「その靴、サイズよければ履いていいよ。お店でちゃんと靴底直してもらおう。」
「いいのか?履いているうちに結構いいかもって思っていたんだよ。全然ボロに見えないし。ちゃんと手入れされているみたいで綺麗だし履きやすい。」
「そう?じゃあ、あげるね。」
「おう、ありがとう。」
またふたり、沈黙とともに歩く。
駅前から少し離れると人気はなくなる。今までの賑わいが嘘のようだった。この道を曲がっていけば石宝堂へと続く。視線が同じなのはふたり考えることが一緒の証だった。
「太郎、あのツリー、今日は一段と輝いてそうだよね。」
「ああ、ご主人さん、今頃カウンターでのんびりコーヒー飲んでんじゃないか?」
「想像できる。いいね。こんな晩も。誰にも邪魔されず、お店の中から雪を見ながらツリーの元で過ごすのって。」
「ある意味よくないよ?お客ゼロだぜ?」
「あっ、そうか。」
「姉ちゃん、相変わらずだな。でもさ、そんな損得勘定がないのがいいんじゃないか?姉ちゃんに集まってくる連中もそんなんばっかだろうしな。」
「それだったら太郎も同じだよ。」
「だったらいいよな。」
また沈黙と一緒に、ふたりは住宅街へと入っていく。
大通りからツキたちの家へと続く道はやはり人の出入りが少ないのか、車道も歩道も一面雪に覆われている。
やがて、ふたりの家の前へと辿り着いた。門を通って家と塀との間の小さな庭でふたりとも足を止めて家を見上げる。
「なんだか、長かったよな。今日まで。」
「もう季節が一周してまた冬になったみたい。」
「お、そう思う?俺も姉ちゃんとは長い付き合いみたいだよ。」
「太郎もね。季節はまだ冬のままだけどね。」
「ああ、春も夏もまだまだだな。夏も・・・。」
太郎は何かを言おうとして飲み込んだ。再びツキの逆鱗に触れることを学習した。
「言いたいことはわかる、今日は無礼講。だからって言わなくてもいいからね。」
「どっちなんだよ。」
「でも、ほんとこの辺って人気ないんだね。」
周りの家々は電気が消えていることも多く、地方の田舎らしく家と家の間にも空地があり、それぞれの家の敷地内も庭などで空白の空間が確保されているのがさらに隣人との距離を感じさせる。ツキの近隣の家々も人の気配すらしないことが多かった。
時間がゆっくりと流れているかのようで、会話の往復にも一定の間を含んでいた。まるでふたりして時間をかけてゆっくりと確かめているかのように。
「街灯もこれだけ間隔空けると、この家が周りから孤立しているみたいだよな。」
ふたり白い溜息をつく。
「そうだね。それは夜帰ってくると感じるよ。でもね、太郎が家に来てから、バイトで遅くに帰っても灯りがついているとホッとするんだよ。ちょっと、駆け足になる。」
ツキが手袋越しに冷えた手を擦り合わせて温める。
「そんなもんか?」
太郎がマフラーを直して位置を手で確かめる。
「そうだよ。だって・・・。」
突然、脳裏に両親の影が過る。家へ帰ると誰も出迎えてくれないが、二人はいつもそこにいる。ツキの眼から涙が流れる。
「あれっ?」
温めていた手を胸に当て、涙を抑えることができず、次々と目から溢れ出す。
「姉ちゃん?どうしたんだよ?」
「わからない、なぜか急に感情が抑えられなくて・・・。」
太郎はツキの両腕を掴んだ。
「悲しいのか?」
ツキは首を振ったが、それが正しいのかも理解するのは難しい。
「ううん、悲しい、でも寂しくて、独りになったみたいな、太郎がここにいるのに、私、どうなったの?」
太郎はツキを何度も揺すった。
「姉ちゃん?俺はここにいるよ?」
「うん、太郎を感じるよ。ごめん、それでも何か違うの。家を見ていたら急に昨日、違う、私が生れる前のことが、その後もずっと勝手に物事が動いているのが悔しくなって、それでも、怒っていいのか泣いたらいいのかもわからなくて、声も届かなくって・・・。」
先ほどまで何事もなく煌々とふたりを壁越しに照らしていた電灯が点滅している。形だけの門が外界と家とを区切っている。
ツキの感情が濁流のように太郎の中にも流れてくる。無音の暗闇に独り取り残されたかのような寂しさ、それを遠くで眺める両親、すべてを知ってしまったが故の悲しみ、不可抗力とはいえど何も知らずに過ごして、最後は何もできずにいた自らへの怒り。そして、忘れることでしか生きていけない両親と自分への哀れみ。
家が暗い影をふたりに落としているようで、今にも影に押し潰されそうな息苦しさを感じる。まるで塀の中が深海の底に突き落とされたかの如く。
この家がトラウマの引き金になっている。そうなってはいけない。このまま飲み込まれて昔のツキに戻る。ツキを連れ戻さないと。太郎はさらに強く腕を掴んだ。
「しっかりしろよ!こんなの姉ちゃんらしくないんだよ!」
「違う!これが私!私何もできないんだよ!」
「そんなの仕方ないだろ!あんなもん見させられて気持ちはわかるけどよ!終わったんだよ。姉ちゃんの両親が勝手にケリつけたんだ。もうできることなんてないし、何かしようなんて考える必要もないんだよ。」
ツキの声は叫び声も混じり嗚咽ともつかない。
「それでも、勝手じゃない!」
「ああ!あいつらは勝手だよ。勝手にてめぇの人生を生きて終わったんだよ!だから、姉ちゃんに責任なんてないし、もう好きにすればいんだよ!何が悪いんだよ!」
「わかってる!もう、二人が亡くなったときに感情も何もかも吐き出して終わったって思ったよ!昨日も最初はショックだったけど、少しずつ落ち着いてきて、最後はいつもの私に戻ったと思った。だけど!終わってなかった。終わったんじゃなくて私の中に一生残るんだよ!」
「何がだよ!」
「何がって!そんなのわからない!私もあの人たちと同じになるのよ!そして繰り返す!また繰り返して・・・。」
太郎はツキに唇を重ね、次の言葉を遮った。そして、ツキのすべてが止まった。太郎に両肩を強く掴まれ、胸の前で拳を握っていたツキの両腕が力なく重力に従った。冷え切っていた唇が今は温かい。ツキは震えていた。流れ頬を伝う涙が温かく太郎の左頬にも伝わる。
止まっていた時間が動き出す。
ツキは突然のことに驚いたが、感情は真っ白になるにつれて震えは小さくなり、やがて止まり、目を閉じる。ふたりの周りに静寂が訪れている。
「少し黙って。」
そっと唇を離して太郎は呟いた。ふたりはそのままお互い額をつけて俯いて、沈黙を続ける。時折、ふたりを中心とする一帯は街灯も家の灯りも消えて、一瞬暗くなる。
「ツキ姉ちゃん、いいじゃないか、好きに生きてみても。誰も責めやしない。」
「・・・。」
「何もできなかったなんて過去だろ。それも押し付けられたものじゃないのかよ?今日まで一緒にいて、姉ちゃんが切り開いてきたもの見てきたよ。姉ちゃんの中にネガティブなものが残っても、それを背負う責任なんてないんじゃないのか?そんなので変わる必要もない。ツキ姉ちゃんはツキ姉ちゃんなんだよ。」
「太郎・・・。」
「それにさ、姉ちゃんはもう独りじゃないよ?みんないるんだよ?一緒のときくらい嫌なこと忘れられるだろ。」
「また独りになるのは怖い・・・。」
「何でそうなるんだよ?姉ちゃんの力で築いてきたんじゃないのか?だったらどうしたらいいかもわかるだろ?」
太郎は自分自身にも言い聞かせているとツキは感じ取った。
「・・・。」
ツキの答えを待つかのように太郎はただ沈黙している。
「うん、わかると思う」
「じゃあ、大丈夫だ。いいんじゃないのか?」
ツキは涙を拭った。風が止んで長い沈黙を、時の流れを助長している。
「そうだね。いいならいい、だよね。」
このまま動かないとも思われたツキが顔を上げた。ぎこちない笑顔が戻ったのは、今このときの答えを出した合図だった。しかし、次の瞬間にはまた悩むかもしれない。それでも進むしかないことだけは確信している。立ち止まること、後戻りすることを今は考えない。
太郎の探し物が終わっていないことも背中を押している。私たちにはまだやるべきことがある。過去に落ちそうなツキを呼び戻してくれた太郎に恩返しをしなければ。自分がこの物語を始めたのだから、最後まで責任を取る義務がある。
「じゃあ、帰ろうか?」
先に家に帰ろうとする太郎をツキは止めた。ツキは足元が温かく光るのを感じたが太郎には感じない。母親の実家の跡地で感じた感覚にも似ている。
「ちょっと待って。また跳べそう、そんな気がする。」
無暗やたらに走り出したい、そんな衝動に駆られている。暗いマイナス感情を振り払うにはアクションを起こさないとならない、そんな気分だった。心の裏の裏までを曝け出すように泣いたことを太郎に見られたことが急に恥ずかしくなり、その気持ちを上書きする何かが欲しかった。
「えっ?何て?今?」
ツキは聞き返す太郎の手を取って、再び門を開き外へ出る。そして、そのまま雪の中を波に足を取られるかのように走り出した。
「どうたんだよ?急に?」
引きずられるように太郎がツキの後を追う。そのとき、再び雪が降り始めた。
「一緒に来て。」
雪の中を走っても一向に速度が上がるはずがない、そう考えるのは常識での話だった。徐々に加速がつき、脛まで埋まっていた足は少しずつ雪から浮き出している。
「姉ちゃん!これって?」
「そう、跳べるよ!」
ふたりは雪の表層を走り、歩道をトラックのように疾走する。太郎もツキのように走っている。確かにツキの月の雫は手を繋ぐ太郎にも伝わっている。角を曲がりそのまま学校の塀へ向かって直進する。
「姉ちゃん、行こう!」
太郎はテンションが上がり、ついさっきまでふたり悩んでいたことが嘘のように楽しくなっていた。ここで余計なことを考えるのは無粋だった。
「太郎、行くよ、跳ぶよ!」
そのままふたりは塀を大きく跳び越えて学校の校庭へと着地した。それでも勢いは収まらずそのまま走り続ける。
校庭は一面雪に覆われて白い平原と化している。まるで、ツキの過去、あの集落跡を緑から白へと塗り替えることと同義だった。冬休みの週末の学校は教員も早く帰り、校舎の安全灯以外の灯りは消えてほぼ真っ暗だった。
ふたりが校庭へと入ると、空一面に広がる雪雲がわずかに光っている。雲越しに浮かぶ月の光が雲全身を侵食して辺り一面を照らすように降り注ぎ、ふたりのシルエットが白い大地に浮かび上がる。今日の月はふたりが出会った夜のように大きい。それは下界にいるふたりには知る由もないし、気にもならない。
校庭をふたりの影が横切る。校舎へぶつからないよう曲がろうとするが、あまりのスピードにバランスを崩して曲がり切れない。思わず太郎が校舎側へ向けて手を差し出し衝突を回避しようと試みる。太郎の手は壁を触ることはなかったが、見えない力の衝撃でふたりの身体は押し戻され、校庭の白い雪のステージを跳ねてそのまま弧を描いた。
体勢を何とか保とうと着地する瞬間、ツキは軽く雪を斜めに蹴り上げた。ふたりは雪の表面を低空で滑空するように、まるでスケートのように滑っていく。
再びツキは雪を蹴る。雪に足が沈むことはなく、水面を跳ねるように二回、三回と繰り返すうちに、やがて、ふたりは体勢を持ち直した。ツキの次に太郎も雪の大地の表面を蹴る。
今、ふたりの月の雫は交じり合っている。
ふたりが辿る軌道上を白い波しぶきのように雪が舞い踊る。向かい合って両手を繋ぎ、交互に雪を蹴りながら輪舞を舞うように廻りながら雪のステージを自由に舞う。雪のキャンバスに幾つもの円を描く。
初めて遥か大空へと飛び込んだときの何もかも考える必要もなく、ただ今を受け入れて楽しめばいい、そんな感情が再びふたりを支配する。不自然なほど大きな月の灯りは、この曇り空を夜が明ける薄暗さと同様に、漆黒の闇に一握りの光を混ぜ合わせたような明るさで照らしている。雪は辺りを白く染めて、ふたりの周りに光の粒となって舞っている。肌を切るような寒さを感じているが、この感情を邪魔するには至らない。身体の感覚はすでに麻痺しているが不思議と不快も不安もない。
ふたりの影が重なり、いつまでも雪の中を廻っている。何周ステージを廻ったのだろうか。言葉は要らない、今この瞬間を感じ続けていれば、それだけで良かった。この夢のような大切な瞬間の連続を留めておかなくては、ツキも太郎もそう願っている。それでも、いつか夢は終わるのを知っている。
ステージの中央に差し迫るとツキは大きく雪を踏みしめて跳び上がった。ふたりは大きく宙を舞い、そのまま全身で着地すると雪原深く飲み込まれた。その場で隣り合って仰向けになったまま動かない。激しく舞った衝動から解放され、一気に全身から力が抜ける。ツキと太郎は正気に戻り、その姿はまるで泳ぎ疲れて海面を漂っているようだった。薄暗く光る雪雲を眺めていると、だんだんと腹の底から可笑しさがこみ上げてくる。
「ふふっ、あはっ、あははははははっ!」
「くくく、ははっ、あーはっはっはっっはー!」
ふたりの腹の底からの大きな笑い声が一面の雪の中に静かに響いては吸い込まれていく。その笑い声はツキが辿り着いた真実そのものを身体から追い出しているようだった。
太郎が何か語りかけている。
しかし、雪に溶け込んで聞こえない。
ツキの笑い声でかき消されるように、わざと小さな声で話しているようだった。
「何?聞こえない。」
太郎は答えない。
ツキはそれ以上問わない。
雪の大地に飛び込んだふたりは小さなクレーターを作り、その中心に寝転んでいる。太郎を見るとまだ空を見つめている。その横顔は今まで弟のように扱ってきたことが間違いだったと思い知らされる。
ツキに気づいてこちらを振り向いた。今度はツキが急いで空を見上げる。
「楽しい。こんな楽しかったのは俺、生まれて初めてだって言ったんだよ。」
ツキは無言で素直に受け入れている。
「おかしい?」
「おかしくないよ。私もだから。」
太郎のほうを見たまま答え、再び正面に向き直る。
眼前の空は雪が止んでいる。はるか上空では強い風が吹いているのか、雲が散り散りになって、ふたりの視界から足早に退散している。
「見て、あの月!なんて大きいんだろう。」
そこには銀色の満月が大地を照らしている。
「満月、だからかな?こんなに大きかったか?」
「太郎と会ってから一か月くらい前かな。あの晩も満月だったよ。」
「満月って一か月周期なんだ?」
「ひと月に少し足りないけどそれくらいって聞いたよ。でも、どうなんだろう?あの月って本物なのかな?今まで当たり前って思っていたものが全然当たり前じゃないことばかりだったから。今しか見えない月なんて、きっとあってもおかしくないよ。」
それは事象について語っているものだけではないことを、ふたり理解している。改めて思い知ったのか、太郎は腕を組んで考えている。
「俺たちにしか見えないのかもな。」
ツキも腕を組んだ。
「そうだね。私たちの中の月の雫が引き寄せているかもね。」
太郎は首だけを動かしてツキのほうを向いた。
「月の雫?」
ツキも再び太郎のほうを向いた。
「そう、魔女と契約して、この身に宿った力をそう呼ぶんだって。」
「そうなのか。」
太郎は何処で誰に聞いたかを問うことはしなかったが、ツキは隠すつもりもなく、太郎には見たもの全部を知ってもらいたいと思っていた。
「昨日、石宝堂で不思議なことがあって、そこで人形に聞いたんだよ。」
誰も信じないようなことでも太郎とは共有できる、ひとり呟くように空へ向かって端的に答えた。
「ふーん、そうか。力ってアバウトに話していたけど、それらしい名前がようやくわかった感じだよな。なるほどな、月同士引き合っている、ぴったりだな。」
「だよね。」
ツキは少し恥ずかしそうに続けた。
「それって、私と太郎にも言えること・・・。」
話しの腰を折るように太郎が大きなくしゃみをした。
「はぁ?何だって?」
再び大きなくしゃみを連発した。台詞が届かなかったことに残念な気持ちと安心が同居している。
「太郎、ヤバいよ。風邪?」
「風邪も何も寒いだろ?こんな雪の中で寝っ転がって。」
ふたりは今更という風に跳び起きてクレーターから這い出した。
「うわあ!ホント寒いよ!何で今まで平気だったの?」
ツキは全身の雪を払っては、両腕で身体を抱きしめながら小刻みに足踏みを繰り返す。足は脛まで埋まって足踏みのたびに足元の穴を大きくしている。
「俺が聞きたいよ!俺ら頭おかしくなってんだよ。感覚マヒ。ハイになり過ぎだって。」
太郎もツキと同じ行動を取っている。ツキは笑っている。
「やっと素面に戻ったね。」
「笑っている場合かよ。早く戻ろうぜ?熱い風呂入りたいや。」
太郎は雪の中をゆっくりと駆け出した。
「太郎、こっちっだよ。」
ツキも足を取られながら雪の中を進む。
「おい待てよ!置いてくなよ。さっきみたく雪の上とか走れないか?」
「もういいんじゃない?家までは。」
「家着くまでに凍っちまうよ?」
「そうなったら熱いお風呂で溶かしてあげるよ。」
太郎はツキに追いつき追い越しながら先へ進む。
「先行くぜ。そうならないようにな!姉ちゃんが先に凍ったら溶かしてやるからな。」
ふたりは徐々に息が荒くなるが身体は一向に温まらない。塀までが遠く感じるが苦痛はなく、寧ろ楽しさが勝っている。
ツキが太郎を追い越し先へ進む。
「どうせまた変なこと考えているんでしょ?」
太郎が反論の意として、ツキを後ろから引っ張ろうと肩口を掴もうとして空を掴んで転ぶ。後ろを振り返ってツキが声を出して笑うと、今度はツキが転んだ。太郎は体制を立て直して再びツキを追い越しそうになるところ、足首を掴まれて再び転んで、顔から雪へと受け身を取れず突っ込む。
「何やってんだよ。足の引っ張り合いしてる場合じゃないだろ。」
「あははっ。太郎、顔が美白。」
顔一面の雪を払って太郎が笑い出す。
「うるせえな。遊んでないで早く帰ろうぜ。」
歩き出そうとして足がもつれて再び転ぶ。
「もう、無理しない。」
笑いながらツキが手を差し出し、太郎はその手を取って起き上がった。
「マジに俺ら、いつまでも締まんねえな。」
「ホントにね。でもこの緩いのがいいんじゃない。」
ふたり手を繋いてお互いバランスを取りながらゆっくりと雪の中を進む。
「まあ、気が楽でいいや。」
気が楽というのは落ち着く、そう伝えたかったが、追って説明する必要は感じない。少し前まで気がおかしくなりそうなことがあったのに、今はいつものふたりに戻っている。真っ白な雪の中を舞い踊って気持ちが巻き戻ったのだろうか。どんなに進んで戻ろうが、ふたりは確実に前へと進んでいることを実感している。
やっとのことで正門まで辿り着いた。
「前に太郎、脚立持ってきてくれたよね?それってあそこの納屋から持ってきたの?」
校門から校舎へ塀沿いに進んだ先に納屋が見える。
「ああ、そうだよ。戸が空いていたもんで、中覗いたらあったんだよ。よく覚えていたな。あんな状態で。」
「それらしい場所ってそこしかないからね。学校周辺を掃除させられたことがあって、あそこから道具持っていったのを思い出したよ。」
再び雪の中を進み小屋の前に立つと、戸は閉まっていたが鍵はかけられていない。中を物色した太郎が再び脚立を見つけた。
「おお、あったあった。俺たちに使ってくださいって、待っていたみたいだな。」
「そうだね。あ、箒、例の店に置きっぱなしだったよ。」
「そうだったな。さすがにもうあの店に行く気にはなれないよな。あれって普通の箒だったよな?」
ツキが振り回し、井上の顔面を破壊した箒はまるでバットか木刀のように思い出される。
「そうだよ。何で?」
太郎は言葉を選んでごまかした。
「いや、学校の備品ってやけに高そうじゃない?当たり前にその辺でも売っているやつでさえ。だから、学校の癒着ルートで買っている高額商品だったかもなって。」
「確かに。学校に指定された物って、何かと割高だよね。やっぱり回収してこっそり戻すべきかな?」
「いいって。もうあいつらとは関わる必要ないし、なくなったら勝手に補充するだろ。あれは必要経費ってことで。姉ちゃんたちから高い学費取っているんだろ?」
「ホントだね。実際幾らか聞いたら太郎びっくりするよ。」
足場が悪い中、脚立をふたりがかりで抱えて再び門へと戻る。
「姉ちゃんは大人並みに色々やっているよな。偉いよ。バイトとかもな。」
「ありがとう。何かと忙しいけど、やっててよかったなって思うよ。」
「そうか。じゃあ、よかったな。」
両親が健在であれば何かの部活に入ったり、友人と放課後に遊んだりしたのだろう。そうなったらアカネやアユミとここまで親しくなれたのだろうか?桜子とも無縁で、そこから辿れば太郎とも会うことはなかった。今ふたりは雪の中を進みながら同じことを考えている。
「もし、なんてないけどね、太郎、私たちって常に目の前のことに対して選択して進めているって思っていたけど、それってひとりだけで進めるものじゃないんだよね。誰かの意思が介在して、どうしようもない方向へ流されていくこともあると思うんだ。その濁流の中、岸に向かって進めないと、やがて暗い水の底へ飲み込まれてしまう。それでも、また誰かが流れを変えてくれたり、岸から手を差し伸べて引き上げようとしてくれる。その手を取るのもひとりで進もうとするのも私次第なんだって思えるようになれたよ。今まで全然意識しなかった。ひとりで何でもしてきたって思い上がっていたんだ。」
ふたりは門の前で立ち止まり、大きな月を見上げている。
「相変わらず姉ちゃんの言うことってよくわかんね。と、言いたいけど、一緒に進んできた今なら、わかる気がするよ。」
太郎は脚立を組み立てて門の前に立てかけた。
「さ、先に行きなよ。レディファースト。」
「何か太郎っぽくない。じゃあ、お先に。」
「覗いてやるから。」
ツキは思わず途中までかけていた足を止めて脚立から離れた。
「やっぱりね。そういう魂胆だ。エロ太郎から先行って。」
「はいはい。」
太郎ひとりであれば脚立は不要、門の鍵をかける部分に足をかけて登って難なく乗り越えられる。ツキにそれを強いるのは難しいので、どうしても脚立が必要になる。
太郎は先に門を軽々と乗り越え、反対側から門越しに手を伸ばして脚立を掴んで安定させる。次にツキは恐る恐る登り切り、ゆっくりと向こう側へ降りるために門にぶら下がった。足元が宙に浮いて、暗さも手伝い足元を見ることが困難なのは手を離すことを躊躇わせる。すかさず太郎がそっとツキの腰の両サイドを抑えて身体を軽く持ち上げて支えた。ふたりは何も合図はしないが、その安心感でツキは手を離し、まるで高所から下りたかのように着地とともにバランスを崩したが、太郎が後ろから転びそうになりながら支えた。
「ありがとう。」
「ああ。かなりスタント、板についてきたんじゃねえ?まあ、このくらいの高さはそのうちひとりでも乗り越えないとな。」
「ふふっ、結構楽しいかも。悪くないな。」
実際、スカート丈は長くストッキングも履いて、さらにこの暗がりの中ではスカートの中など満足に見ることなど不可能だった。先に脚立が問題ないことや、以前も同じように門を乗り越えて見せたが、そのような行動に不慣れなツキへの見本を見せる、太郎なりに気を遣っているのはツキには見抜かれている。いつものふざけた態度は何かを含んでいるのも併せて。それでも、太郎本人にはそのつもりがないのは性格だろう。ツキは、そこに今まで救われてきたことに、やっと気がついた。
後ろを振り返ると前と同じく脚立が一人立っている。
「脚立、このままでごめんなさい。」
「まあ、こっちからは登れないし、学校入って何かする変な奴もそうそういないんじゃない?制服盗むにしたって盗撮するにしたって休みだしな。」
「経験者は違うよね。」
「おい!気持ち悪いこと言うなよ!」
「だって、さらっと言うほうが生々しくて気持ち悪いよ。」
ツキは誰も慣らしていない真新しい雪の中、道を作りながら逃げ出した。太郎はやれやれといった表情で、距離が開くのを待っている。時間差でツキを追いかけるが、ツキの作った道は直ぐに崩れた雪で塞がれて思うように進まない。
「おーい、姉ちゃん帰ったら何食うんだ?」
ふたりの距離は街灯と街灯の間だけ開いている。街灯の元に光の島が浮かんで、ふたりの位置を示している。
「昨日買った、ピザ、チキン、コンソメ、スープ、お野菜、かな。」
「先風呂、入ろうぜ?寒くないか?」
「そうだね。」
「おい、ちょっといい加減そこで待てって。もういいよな。」
ツキは今いる街灯の元で立ち止まった。太郎が追いついてツキの手を取る。太郎の手は冷たいが、ツキの心臓が跳ね上がって血の気が一気に顔へと押し上げられる。
ふたりは静かに歩きだした。ツキは手を繋いだ意味を深く考えてしまうと、太郎の顔を見ることができない。太郎の横顔を横目で見ながら、さまざまな考えが頭を横切っていくうちに、いつの間にか家の前へと戻っていた。
ツキは手を離し、急いで鍵を取り出して家へと駆け込み、コートも着たまま次々とエアコンをつけ風呂にお湯を張った。
太郎は玄関前で雪を落とし、キッチンでコートを脱いだ後、冷蔵庫の中を調べて夕飯の材料を探した。その間にツキは風呂場でコートの雪を払ってキッチンへと戻った。
「太郎、先に入ってね。私、準備するから。」
「いや、姉ちゃん先入れよ。何か俺、もうそんな寒くないんだよ。それにさ、ちょっと風呂で落ち着いたらいいんじゃないか?」
太郎の「寒くない」にどのような意味を持つかは深読みするほど余裕はなかった。確かにこの家で、再び感情が抑えきれなくなる可能性もまだ払拭されてはない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね。」
「ああ、どうぞお先に。」
ツキが風呂に入っている間、太郎は食材を並べて終えて考え事をしていた。徐々に部屋が暖かくなってくると、ゆっくりとした眠気に襲われた。
その間にツキは湯船に浸かりながら今日のことをずっと思い出していた。今まで弟のように接してきたつもりだった太郎が、いつの間にか同じ目線で接していることはもう隠しとおせない気がする。まだやるべきことは残っている。それが終わるまでは今までのまま接しよう、そう思い頭からお湯をかぶって雑念を追い払おうとする。敢えて、これからのこと、太郎の記憶に関わることについて考えを巡らせることで何とか自分を繋ぎ止めている。昨日のあの人形の言葉、もうすぐ終わるというのはふたりの記憶についてだろうか。考えてもわからないことは考えない、逆に考えることで忙しくして余計なことを考えないようにする、そんな真逆の信条も今は必要かもしれない。
太郎は寒くはないと言ったがそんなことはないだろうと、手身近に風呂を済ませてキッチンへと向かった。太郎は椅子に座ったまま眠そうにしている。頬杖をついてぼんやりと何も映っていないテレビを眺めている。
「太郎、お待たせ。早く温まって。」
そっと太郎の肩を叩いた。すると突然、太郎が何かを恐れるかのように飛び起き、椅子から転げ落ちそうになった。
「おお!何だ、姉ちゃんか?」
「びっくりした!どうしたの?」
「いや、何か夢見てたみたい。思い出せないけど・・・。」
「大丈夫?今日は疲れたかな?」
「いやいや、平気。まあ、色々あったもんな。雪の中を・・・。」
「ご飯食べながらゆっくり話そう?」
ツキは紫色のパジャマに黒いカーディガンを羽織っている。いつもの夜にリラックスするときの恰好だった。長い髪は太郎に風呂を譲るため、少しでも早く風呂場を出ようと急いでドライヤーもかけず濡れている。太郎はずっと見入っているようだったが、ツキが視線を逸らしたことで我に返り、直ぐに風呂場へと向かった。
太郎が風呂場へ向かったかと思えば、すぐにキッチンへと戻ってきた。
「何?何か忘れ物?」
少し怒っているかのようにドライヤーと手鏡をテーブルに置いた。
「あ、ありがとう。でも、早く夕飯・・・。」
「少し長く風呂入るからいいよ。明日みんな来るんだろ?」
太郎はツキの反応を待たずに風呂場へと消えていった。その後、風邪ひくなと繋がることは、ふたりともわかっている。続けることは不要だった。先ほどまで寒くないと言っていたのに、根は優しいのだが素直に話せない、相変わらず天の邪鬼なところも太郎らしく、いつもの安心感がある。しかし、記憶を取り戻して別人になったら、ツキのように不安定になってしまったら、悪い方向に考えるのは無理もないが、今の太郎が昔の太郎と変わらないことを願った。髪を乾かし夕飯の準備が終わるころ、太郎は風呂から上がってきた。
「もうすぐご飯できるよ。ドライヤーありがとうね。ところで、太郎の髪って、こうやって見ると結構伸びたよね。」
「ああ、伸び早いみたい。これでも定期的にセルフで切っていたんだよ。」
髪だけではない、パジャマもワンサイズは小さく見える。
「エロい人は髪伸びるの早いってホントだね。」
「おい!コラ!失礼だぞ。あんまり否定できないだけに余計失礼だろ。」
太郎の語調には棘がなく、目も笑っている。
「あはっ。自他ともに認めたところで、ご飯食べようか。」
今日の夕食は気まずさで無言になるかと思ったが、いつもと変わらず最近の話や他愛もない近況、そして、今日の楽しかった出来事で盛り上がった。部屋がクリスマス仕様以外は気にもならないくらい、いつもと変わらない夕飯となった。太郎の馬鹿話に笑ったり、ツキの天然に太郎がツッコミを入れてふたりで笑う。ふたり今を楽しんでいる。その間も部屋の装飾された天井の飾りがライトに照らされ、時々光って見える。食事がほぼ終わりに差し迫ったとき、ツキが軽く手を叩いた。
「そうそう、石宝堂さんからなんだけど、ケーキ貰っちゃった。この後食べよう?」
「あの店そんなのも売っているのか?実は食品サンプルとかじゃないの?」
「それはそれで高い完成度を期待しちゃうよ。」
「プレミアもんだな。」
「冗談さておき、何処のだと思う?」
「姉ちゃんのバイト先。」
「ええっ?何でわかったの?」
「当たった。姉ちゃん、俺たちの知ってるケーキ屋ってあそこ以外にある?」
「ああ、なるほどね。クイズにならなかったね。そうそう、あの二人知り合いだったみたい。お店の家具は石宝堂のが幾つかあるんだって。」
「ああ、やっぱりって思うよ。センスのある人たちって繋がり合うんだな。」
「ホントだね。昨日家具を納品しに行ったとき、試作品ってことで貰ったんだって。」
「へえ、楽しみだな。じゃあ、クイズに負けた姉ちゃんは飲み物係な。」
嬉しそうに太郎は食事の後片付けを始めた。食器を洗う太郎の隣でツキは湯を沸かしながらコーヒーとお茶の用意をする。第三者が息の合っているふたりの後姿を見たら、交際期間の長いカップルに見えてもおかしくはない。
ツキがテーブルに飲み物を用意して、太郎が洗い物を終えて皿とフォークとともに席に着く。ツキが冷蔵庫から小さな箱を大事そうに持ってきた。箱をテーブルに置いて慎重に開けるのを太郎が真剣に見入っている。
中からは何も乗っていないショートケーキがふたつ出てきた。ふたりは思わず噴き出した。
「やっぱりだよな。ショートケーキだと思ったよ。」
「私も。期待を裏切らないのはさすがだよね。」
「恒例のお試しだから、これが最初で最後みたいだよ。」
「おお、マジでプレミアもんだ。お、見てみろよ?中にフルーツ入ってないか?」
「ホントだ。これってオレンジかな?他にも何かありそう。」
「おう、道理でイチゴとか乗っていないわけだ。」
「こっちはベリーかな?かわいい。」
「姉ちゃんベリーいいんじゃないのか?俺オレンジで。」
「うん、それでいいね。食べたらまた何かあるかもって楽しいよね。」
太郎はそれぞれのケーキを丁寧に皿に乗せて、フォークをツキに手渡した。
「早く食べないか?」
「そうだね、いただきます。」
「いただきます。」
ふたりはほぼ同じタイミングで一口頬張った。
「美味しい!」
「うめぇ!」
ふたり同じ感想を口にした。
「俺のは中にホワイトチョコが入っているみたいだな?姉ちゃんのも?」
「こっちは普通にブラックだよ。ちょっと大人な感じ。前にオーナー、最近チョコに拘っているみたいで、知り合いの業者さんと身体に優しいチョコ作っているとか言っていたな。太郎、ちょっとちょうだい?」
「おい、ちょっと待てよ。姉ちゃん不器用だからケーキ破壊しそう。」
太郎は一口分をフォークで取って、そっとツキの口元へ持っていった。ツキは目をつぶって子どものように口を開け、太郎は優しく食べさせてあげた。
「うん、こっちも美味しい!太郎も私の食べてみて。」
ツキも一口分をフォークで不器用に取って太郎の口元へ運ぶ。太郎は照れくさそうに差し出されたケーキにかぶりついた。
「おお、これはいいな。ホントに試作品か?」
「そうみたい。確かに初めて見るケーキだよ。次バイトへ行ったらお願いしておこうかな、商品化してって。」
太郎はツキのケーキをもう一口フォークで取って食べた。
「そうだよ、俺、両方ひとりで思いっきり食べたいよ。」
ツキも太郎のケーキを一口分取って食べる。
「私もそう思う。これじゃあ足りないよ。」
「おいおい、食べ過ぎ。もっと大事にゆっくり食べようぜ。ある意味プレミア感で頭おかしくなってるよ、俺ら。」
「ふふっ。確かにね。」
ふたり椅子に深く腰掛け、また同じタイミングでコップに口をつけた。
「太郎?」
「何?」
ツキは何を話すか考えずに太郎の名を呼んだ。太郎はただ次の言葉を待っている。その間が長く、間を繋ぐようにツキは再びケーキをさっきより小さく取って口へと運ぶ。太郎も急かすことはしないで、もう一口お茶を飲んだ。口の中でオレンジの甘みとお茶の渋みが混ざり合ってお互いを引き立て合う。飲み込んだ後も甘さと渋さのほどよい余韻が心地良い。
ツキが口元をそっと撫でる仕草に太郎ははっとした。感情に流されそうになったツキに対して行った行動、寧ろ、太郎のほうが感情に流されたのではないかと今更ながらに思う。
「太郎は記憶が戻ったら・・・。」
やっとツキが会話を再開した。続きはふたりとも同じことを予想している。
「どうだろうな。それよりもさ、ケーキもう一口くれよ。」
ツキは皿を太郎の魔の手から遠ざけた。
「ちょっと、食べ過ぎ。」
「いいじゃんか、オーナーさんに作ってもらえばさ。」
「ダメダメ、ちゃんと商品化する確証ないんだから。」
「大丈夫だって。こんな美味いんだからさ。」
「ううん、今日しか作れないかもしれないんだよ。オーナーって芸術家気質だから、気分が乗ったタイミングでしかできないものって、これまで幾つもあったんだから・・・。」
そこまで口にしてツキは口籠った。
「そうなんだな。じゃあさ、なおさら大事に食べようぜ。」
「そうだね。」
「そういやあさ、姉ちゃんって結構色々考えるよな。」
「どういうこと?」
「会ったときからそう思っていたんだよ。」
ふたりの思い出話は夜遅くまで続き、お互いを意識したら軌道を修正しては平常運転を繰り返す。
「太郎、見て。また雪だよ。」
「こんなときは悪くないな。」
窓の外では再び雪が静かに降り始めた。白い世界の中、装飾された部屋が一際輝いて、冬本番を通り越して春が来たかのように温かく感じる。ふたりで静かに夜の中の雪を見つめていると、音のない白い世界にこの部屋だけしか存在していない、そんな気分になる。クリスマスイヴの夜は静かに更ける。
次の朝、いつもより少し遅く起きたツキは朝食の準備をしながらアカネたちと連絡を取っている。昨日は遅くまで太郎と話し込んでいたので少し眠い。それでも身体は習慣化されて、一度は目覚ましとほぼ同じ時刻には目が覚めていたが、もう少し目を閉じての一瞬は平日ならば遅刻する時間だった。
朝食の準備を終えるころ、太郎も起きてきた。
「姉ちゃん、メリークリスマス。」
「メリークリスマス。昨日はお疲れ様。」
今日はパジャマのままエプロンを身に着けている。
「姉ちゃんもな。体調はどう?」
「もう平気だよ。心配してくれてありがとう。昨日遅かったからちょっと眠いけどね。」
「そうか、だからパジャマのまんまなんだな。」
ほぼやることがない太郎は椅子に座ると伸びをしながらツキを頭から順に眺めている。
「バイト始まる前まで休みはこんなだったよ。」
「ふーん、そうか。」
「さあ、今日は来客で忙しいよ。お昼にはみんな来るから準備だね。外見た?雪止んでいるよ。」
太郎はレースのカーテンを開いて外を見た。そこには真っ白な雪が足跡もなく一面に積もっていた。空には雲一つ浮かんでいない。冬の日差しが一段と温かく部屋に差し込んでいる。
「いい天気だな。これならみんなテンション上がるよな。」
「そうだね。下準備は完了って感じ。後は仕上げ。」
「朝食べたら一気にやっちまおうな。」
朝食を済ませ、ざっと家の中を掃除する。普段太郎がこまめに掃除をしてくれていたので、それほど手間はかからなかった。元々物が少ない家だったが、それでもラックには学校のプリントやスーパーの特売のチラシ、気になる折り込みなど生活臭のするものは点在する。それらを引き出しとゴミ箱へと仕分けする。洗濯物も籠に入れてワゴンの中に隠す。他に気になる物は目につかないようにと、ふたりで家中を確認する。念のため、個人の部屋もチェックして片づけたふたりはキッチンで落ち合った。ツキが最後にキッチンを見回した。
「いいんじゃないかな?」
「ああ、もういいだろ。」
すでにツキは静の手紙を何処に置いたのか意識の中にはなかった。なかったというより、今日の期待で上書きして考えないようにした結果、気持ちを忙しくして存在を頭の片隅に追いやっている。
ふたりは着替えて再びキッチンへ戻り、アカネとアユミが来るまで時間を潰そうと思案している。
「姉ちゃんっていつも黒いな。」
「そうでもないって。白も混じっているよ?」
ロングスカートとカーディガンは基本黒ベースだが、今日はブラウスだけは白でバイト先の制服と被って見える。
「あんまりわかんねえ。まあ、俺は相変わらず手持ち少ないから人のこと言えないけど。」
「また買いにいこう?」
「いいよ、無理しなくって。今のままで十分着まわせるよ。」
太郎の服は石宝堂で一週間分は取り揃えていた。それでも、似たり寄ったりのコーディネートが多い中、今日は黒系に寄っている。黒いセーターに色落ちしたブラックデニムと黒が基調となり、ふたりは重なる。
「そう?必要だったら教えてね。」
「おう、そのときは遠慮なく。出世払いだしな。」
途中、椅子に座っている太郎の頭が沈み、眠そうにうとうとし始めた。
「太郎?眠い?疲れているなら、みんな集まるまでちょっと寝ちゃいな。」
目をしばしばしながら答える。
「部屋が温かくって、つい眠くなっちまったよ。」
心配そうにツキが太郎を覗き込んで確認する。
「いいんだよ?太郎、最近ちょっと頑張り過ぎていたからね。休んで?」
ツキの頬を軽くつねって反論する。
「大丈夫だって。相変わらず心配し過ぎだな。逆に姉ちゃんのほうが大変じゃないのかよ。」
「私は平気だよ。ごめんね、心配かけてばかりで。」
「いいからさ、自分の心配をしろよ。平気ならいいんだよな?」
「そうだよ。じゃあ、誰か来るまでちょっと寝てようか。」
「ああ、いいね、じゃあお休み。」
太郎はそのままテーブルに伏せて静かになった。
「じゃあ、私も。」
ツキも太郎の対面で顔を伏せて目を閉じた。部屋の温かさが心地よい。これならすぐに眠りに落ちることを予感させる。
「太郎?」
沈黙で返答を諦めかけたとき、答えが返ってきた。
「寝てないよ。何だよ?」
「このまま寝入ったら、誰か来ても起きれそう?」
「起きられると思うけど、ちょっと自信ないなぁ。気持ちよくって。」
「だよね。」
「スマホで目覚ましでもかけたら?」
「そうだね。」
「・・・。」
「・・・。」
「姉ちゃん、寝た?」
「寝てないよ?」
「何だよ、動かないのかよ?俺、人のスマホ触らないよ?」
「いい心がけ。」
「おいおい。このままじゃあ本当に寝ちまうんじゃないの?」
「うん。そうなったら起こしてね。」
「俺が先に寝るって。て、話しているうちにちょっと目、覚めたかも。」
「私はもうやばそう。」
「ずるいぞ。」
「悪い魔女に魔法かけられたからね。」
「それって桜子?」
「あははっ・・・。かもね。あの人って、敵でも味方でもないよね。自分のために動いているって感じ。」
「まあ、助けられたこともあるしな。俺的にはあんまりいい思い出がないから、悪い魔女でいいや。」
「そうね、じゃあね。」
「投げやり。おーい、寝るなー。」
「ゴメンお先に・・・。」
「どうするんだよ。」
「王子様のキスで目覚めさせてね・・・。」
太郎は急に飛び起きた。
「姉ちゃん!」
寝に入っているツキは少し笑っているようだった。
「昨日のこと・・・、あ、あれはショック療法というか・・・、おい、起きてる?」
返答はなかった。太郎はこれ以上話しかけることを諦め、借りているタブレットの画面を何となく見ていると、アラームのアイコンを見つけた。今まで必要がない機能に触らなかったことから、どのようなアプリがあるのか気にも留めていなかった。十二時に設定して再びツキの前で顔を伏せると、直ぐに瞼が重くなる。やがてキッチンは静かにふたりを包んだ。
目覚ましが鳴る前に太郎が目覚めると、すでにツキが昼食の準備をしている。
「あ、姉ちゃん、起きていたんだね。」
「おはよう。さっき起きたばっかりだよ。」
昼は簡単にインスタントラーメンで済ませる。それでも、追加された具材は丼ぶりからはみ出すくらいのボリュームがある。
「もうちょっとだから待てってね。」
隠し味に数滴ゴマ油を垂らすと香ばしい匂いが部屋中に広がり、アラームが鳴ると同時に完成を知らせた。実はツキは寝てなどいなかったのではと太郎は思った。
「足りなかったらご飯入れて雑炊もあるよ?食べるでしょ?」
「もちろん。」
昼過ぎにはメンバーが集まるから手早く済ませるつもりだったが、ふたりともお代わりだけは除外する気にはなれない。
「姉ちゃん、よくそんな食えるよな。」
ツキのお代わりは二杯、スープもほぼライスが吸って綺麗に丼ぶりが空になった。
「今日は妙にお腹空いちゃった。これから体力勝負だからね。」
「まあ、ねえ・・・。」
太郎は何かと考えが頭をめぐっている間、ツキが手早く後片づけを済まし、そのタイミングに合わせたかのようにインターホンが鳴り、アカネが到着した。
「こんにちは。今日はよろしくね。」
ふたりでアカネを玄関先で出迎える。休みに入る前は毎日顔を合わせていたのだが、久しぶりに会ったような気がする。美容室へいったようで、ショートカットの毛先が綺麗に整えられて少し明るくなっていた。ベージュの膝丈までのロングコートも、元々身長が低いアカネにはオーバーサイズなのか、袖が長いようだった。その下のグレーのセーターと黒いデニムはふたりに並べばある意味お揃いとも見える。
低身長に反比例して黒い傘は大きめ、おそらく大人の成人サイズで、そのおかげで身体に雪は乗っていなかった。
「いらっしゃい。アカネ、メリークリスマス。」
「おう、アカネ姉ちゃんいらっしゃい。」
「ささ。外寒かったでしょ?早く入って。」
「ありがとね。はい、差し入れ。夕飯の足しにして。」
アカネが持つと余計に大きく見える、箱の入ったビニール袋をツキに手渡した。
「わ、ありがとう。うちが準備係だからいいのに。」
「いいのいいの。お母さんが持っていけって。それより、やっと雪降ったよね。クリスマスに合わせて降ったって感じ。太郎君もよろしくね。あれっ?ちょっと見ないうちに背、伸びた?」
アカネは靴を脱いで上がるとき、太郎と身長を比べてみた。
「そう?俺じゃわかんね。」
「やっぱりそう思う?今はアカネより大きいんじゃない?」
アカネと並んでみると確かに若干太郎のほうが大きい。
「へえ、やっぱり男の子ね。そういうもんなんだね。伸び盛りって感じ。思春期まっしぐらだね。」
「アカネ緩っ。そういうものなのかな?」
「だって、今がそうなんじゃない?」
「まあ、それもそうかもね。」
「姉ちゃんも緩っ。この二人似てらあ。」
アカネはにやにやしながらふたりを交互に見ている。元々アカネは世渡り上手で相手の懐に入り込むのが早いのだが、本心の手前で相手に気づかせず線を引いているところがある。良くも悪くも広く浅くだが、そこをなかなか悟らせない、自然に身についているスキルがあった。それでも、付き合いの長いツキと、本音でしか付き合わないアユミには心を開いているのは間違いない、ふたりはそう思っている。それでいて、勘が鋭いところがあり、この笑みの意味をツキは深読みした。
「さあ、早くこっちへ。」
何を言い出すかわからないと思い、アカネをキッチンへと急かして、脱いだコートを預かってポールハンガーに掛ける。
「わ、素敵ね。こういうレイアウトもあるんだね。」
部屋中の天井に張り巡らされている木の枝に吊り下げられた装飾たちが日の光で輝き、部屋全体を白く浮き出させ、夜の強調される輝きとはまた違った風合いを醸し出している。
「アユミもそろそろじゃないかな?さっきケーキ受け取ったって。」
太郎の表情が明るくなった。
「お、例のケーキか。」
「太郎は昨日から食べ過ぎだよ。」」
「なんだよ、姉ちゃんも一緒に食べただろ。」
「私はもうこの歳なんだし、量が違うよ。」
アカネを意識してか、太郎との歳の差を強調しているようだった。
「おや、おふたりは昨日からクリスマス楽しんでいたみたいね。やっぱりケーキ食べたんだ?」
「あっ、ごめん、別ルートからオーナーの試作品貰っちゃったから。オーナー、インスピレーションで作るときがあるんだよ。でも、あくまでも試作品。本命は今日だから。」
アカネはまたもや意味ありげな笑みで答えた。
「いいっていいって。気にしてないよ。そこは働くツキの役得だからね。オーナーさんもやるね。」
「何が?」
「イヴも今日もそれぞれ意味あってのことなんじゃないのかな。」
太郎と目が合い、太郎は意味を感じ取ったのか目を逸らす。
「おいおい、アカネ姉ちゃん、昨日俺はひたすら勉強漬けだったよ。まあ、ケーキは差し入れみたいなもんだな。」
「そ、そうだよ。太郎、頑張ってたもんね。イヴなのに偉い偉い。」
アカネは笑顔のままだった。彼女は勘づいているのだろうかと、ふたり顔を見合わせていると、チャイムが鳴ってアユミも到着した。
「メリークリスマス。」
皆揃ってアカネを玄関先で出迎えた。黒いショートのコートの肩から雪が積っている。玄関前で交互に荷物を持ち換えて雪を払う。
「お、おう、みんなメリークリスマス。わ、部屋温かい~。」
「寒かったでしょ、ケーキ引き取り、ありがとうね。」
恭しくツキにケーキと別途ビニール袋を手渡す。
「これ、家で余っていたから。」
「アユミまで。アカネもアユミも差し入れありがとう。」
「何?別にいいって。本当に余りものだから。ここで立ち話しないで、早くいこうよ。」
来客を先にキッチンへと案内し、最後尾となったふたりはお互い背中を軽く叩いた。
一同キッチンへ集まる。
「おお、なかなかにいいじゃん。これってツキと太郎ちゃんがやったの?」
いつの間にか太郎ちゃんになっていたが、特に誰もツッコミはなかった。
「そうだよ。ほとんど太郎がやってくれたんだ。」
「さっすが男子、やるね。そうそう、オーナーさんが結構いい感じだって。先にお代集めちゃうね。」
「アユミ姉ちゃんしっかりしてるな。」
「一人五百円で。小学生の太郎ちゃんは除外ね。」
「えっ?安。アユミ、少し負担していない?」
「ううん、ツキにはいつも世話になっているし、久々に商売抜きで思う存分楽しんだからいいんだって。」
「おいおい!俺そんなガキじゃないって。」
太郎はむすっとした表情で食ってかかった。
「まあまあ、ちょっと背が伸びたとしても歳は変わらないんだから、今日はお言葉に甘えておこう?」
ツキがフォローする。
「姉ちゃん!その言い方ひっかかる。」
アユミとアカネがクスクス笑っている。
「少し会わなかった間、ホントに太郎ちゃん大きくなった?」
「アユミ姉ちゃん、今頃気づいた?」
「うん。アカネと同じくらいだったイメージ。ま、いいか。成長期?沢山食べて大きくならないとね。」
太郎はその一言で待ち切れずケーキに手を伸ばした。
「おお、そうだよ、成長期は腹減るんだ。早速・・・。」
「ちょっと待った。早いよ、太郎。夕飯までまだ時間あるんだから。」
「何だよ、夕方まで長すぎるって。これから何すんだよ?そもそも、パーティーって何すんだ?何も聞いてないし。」
アカネが嬉しそうに答えた。
「話すこといっぱいあるじゃないの?寧ろ、夜までに終わらなかったらどうすんのよ?」
太郎はため息をついて怪訝そうな表情を浮かべる。
「女子って話し長そうだよな。よくそんな長話続くよな。」
「おや?何だかわかった風だね?何かあったの?」
アカネが珍しくからかうと隣でツキが赤くなり、太郎が悟られないよう直ぐに弁明した。
「いや、今日女ばかり集まって俺は何したらいいかって考えたら、やっぱり女子会ってお茶飲みながら長話って思ってさ。テレビでもそんなの観たよ。」
「太郎ちゃんも楽しめるようにトークだけじゃなくって、持ってきたPCの中にカラオケもあるしゲームも入っているよ。後でテレビ繋いでやろうよ。」
ツキと太郎の顔がこわばった。
「ちょっと、カラオケは姉ちゃん、危険だって・・・。」
アカネが思い出したように笑った。
「あははっ、そうだった、ツキね、昔音楽ヤバかったんだよ。まあ、今はどうかな?」
ツキと太郎は相変わらず厳しい表情のままだった。
「えっ、もしかして現在進行形?」
「そうなの?だからアカネにカラオケ誘われても断っていたとか?」
ツキは気まずそうに答えた。
「いや、別にそういうんじゃなくて、本当に放課後バイトだったのもあるけど・・・。」
そっと太郎を見る。
「まあ、カラオケもいいけど、俺的にはゲーム気になるな。コントローラーあったりする?」
アユミは意味を理解して、含んだ笑みをアカネに向けた。
「オッケー、ハンデないように持ってきたよ。じゃあ最初はゲームだね。」
夕方まではゲームや雑談、スマホのアルバムなどを見ながら盛り上がっていた。いつ撮ったのか、バイト先のオーナーが何枚か写っており、本人もバリエーション豊かな表情で楽しませてくれた。幸いカラオケへ触れることがなかった、というか、敢えて太郎が話題を逸らしては牽制して触れないようにしていた。
やがて日も暮れて夕飯時に差し迫り、柱時計を見てツキが動いた。
「じゃあ、そろそろご飯の準備かな。ふたりとも、ちょっと待てってね。」
ツキの号令で太郎がキッチンへと向かい、素早く食卓周りの準備に参加する。
「わっ、太郎ちゃん手際いいね。アカネ、知ってた?」
ツキもキッチンで作業を始めていた。
「うん、前泊めてもらったときね。ふたり息ぴったりだったよ。」
「太郎ちゃん?私らも何か手伝えることあるかな?」
人の家のキッチンや準備は勝手もわからず確認したが、太郎はやんわりと制止した。
「任せて。姉ちゃんは用意いいからそんなにかからないよ。テレビ観て暇つぶししていて。」
テレビ台に置いていたリモコンをアユミに手渡した。
「あ、ありがとう。けど、せっかくだから今日はテレビつけなくていいや。」
アユミはリモコンを元の場所に戻した。
「そうだね、みんなでいっぱい話したいもんね。」
そうこうしているうちにレンジが鳴って着々と準備が進んでいることを伝える。
「じゃあ、レンジの中の持っていってもらえるかな?」
「オッケー、太郎君先生。」
「太郎助手じゃない?」
アカネの返答にアユミが修正を加える。
四人の動きも示し合わせたかのよう流暢で、間もなく夕飯の準備が整った。
「ねえねえ、私たちっていいコンビネーションじゃない?」
アカネに誰もが賛同した。
「いいじゃない、これってお店だったらいい感じだよね。」
「アユミ姉ちゃん、最近ファミレスでバイト始めたの、早速役に立ってるんじゃない?」
アユミは少し照れくさそうに答える。
「まだ全然なんだけどさ、今やっと実感したよ。前よりマシだなって。」
「アカネ姉ちゃんも弟さんの面倒みてるから手際いいよね。」
アカネはまんざらでもない表情だった。
「ありがとね。そうなの、ケンジっていまだに手がかかって。家だといつも私にべったりだからお世話しないと。お母さんが忙しいと時間勝負だから。」
「アカネって意外に早く帰るんだよ。やっぱりケンジ君の面倒みてるんだね。」
「ていうか、お父さん遅いからお母さんワンオペになっちゃうから。それに、ケンジって最近サッカーやっていて少し遅いから、そんなに無理して早く切り上げて帰ってはいないよ。」
アユミが軽くアカネの肩を叩いた。
「みんな知っていたよ。親父さん忙しいからいつも家にいないの聞いてたし。」
「そうなの?てっきり付き合い悪いって思われてんじゃないかって、最近ちょっと心配してたよ。」
アカネの驚いた表情に、アユミは苦笑いしながら答える。
「だからって、みんなに逐一LINE送ることないって。疲れるでしょ?」
ツキがメインのチキンを持ってきた。
「だって、アカネ。よかったね。はっきりして。」
「うん、スッキリしたよ。それが聞けただけでも今日は他の約束全部断った甲斐あったよ。なんて、元からこっち優先するつもりだったけどね。」
「ちゃんと男って伝えた?じゃないと納得しないんじゃないんか?」
太郎がにやけながら割り込む。
「こら!太郎。またいやらしい顔して。」
怒るツキにアカネもアユミも笑っている。
「問題なし。はっきりじゃないけどごまかしたよ。その子たちは明日遊ぶから。そういうのってなかなか悩むよね。彼氏いないとしても何て説明すればいいのか。」
ツキが興味深々にフォローした。
「そうなの?ホントいたらそっち優先してくれてよかったんだよ?」
アユミがツキの肩を叩いて弁明した。
「あんたと違って一緒に過ごすのは弟ケンジ君てことみたいよ。そういや前聞いていたけどさ、ケンジ君って昼間誰かと遊ぶ予定なんだっけ?」
「そうなの。グループで遊ぶって出かけたよ。でもね、どんな服がいいとか、珍しくお父さんの整髪料使って失敗して、結局髪洗い直していつもの頭に戻したり。最後、私の香水貸せって言い出したの。怪しくない?まだ小学校なのに?」
「うん、怪しい。その中に好きな子いるって。いやあ、お年頃だね。」
ツキはアユミの言葉におかしなニュアンスが含まれることも忘れてのめり込んでいる。アユミもツキが気づいていないのか否定しないのか勘繰りながら次を選んでいる。
「アカネも先越されちゃうね。私も誰か紹介できればいいんだけどね?ツキ?」
ツキは急に話の先が自分へと向いてきたので回答に困っている。代わりに太郎が答える。
「姉ちゃんにそんな人いれば苦労しないって。まあ、特に本人苦労もしてないか。」
「そうだよね。ツキはもう十分だよね。」
ここぞとばかりにアカネが止めを入れるが、意味をわかっていない様子のふたりにもどかしさを感じつつ別の本題に移った。
「ところでさ、アユミ?山口君は?どう?」
アユミはやはりきたかといった表情で沈黙した。無言がどんな結果を示しているのかは本人しか知らないが、立ち話で答えるには軽くはない雰囲気が流れる。そんなアユミにツキは仕切り直しの場を提供しようと軽く手を叩いた。
「じゃあじゃあ、みんな料理できているし、冷める前に食べちゃおうよ。」
「そうだよね、アユミ先食べよう?」
「だね、私の話はこの後でね。悪い、折角の料理、温かくて美味しいうちに食べないとね。ツキありがと。」
お湯も沸いて順番を待っている。すかさず、太郎がみんなのカップにコーヒーを注いで回った。
「あっ、コーヒー飲めない人って誰かいる?」
全員首を振る。
「じゃあ、俺も。」
「ちょっと、太郎、あなたブラックはダメじゃない。ほら、砂糖とミルク持ってくるから。」
そのやり取りをアカネとアユミが顔を見合わせてくすくすと笑っている。
「じゃあ、適当に気分出そうか。」
アユミがPCで事前にセレクトした曲をループで流し始めた。洋楽、邦楽、クラシックまで相当雑食に詰め込んでいるが、誰もが知っている曲ばかりで、ある意味今日という日には最高のチョイスだった。窓際に置いて近くのコンセントに繋いで位置を確定させる。準備が整ったところで視線がツキに集まり、少し照れくさそうに音頭を取った。
「ええ、本日は皆さま貴重なお時間をいただき・・・」
「固い固い。いつもの感じでいいって。」
アカネが突っ込む。
「ただメリークリスマスと乾杯でいいんじゃない?」
アユミも一声。
「姉ちゃん。」
太郎が笑っている。ツキは一つ咳払いして一息、再び音頭を取る。
「改めて。みんな、メリークリスマス!乾杯!」
誰もが初めて聞くツキのとても通る声に応えるように、グラスが幾つも軽くぶつかる音が部屋中に響いた。
「乾杯!」「乾杯!」「乾杯!」
ここからは全員がこのために食事を抜いてきたかのようにテーブルが空くまで忙しく、ひたすら食べの時間が始まった。
来客二人の差し入れも似たり寄ったりで、チキン系の料理やサラダ、フライドポテトなど食卓へ並ぶメニューとほぼ同じカテゴリに入り量を増すことになるが、それでも身体が欲するジャンキーなメニューはいくら増えても平気だった。他のメンバーも昨日は同じようなメニューだったとも想像できたが、誰も不満は感じられないほど笑顔で次々と途切れることなく口へと運んでいる。同じ料理でも、味付けが違うことで食べ比べて飽きることはなかった。
「美味しい」と誰か交互に呟いている。並べられた量は時間に比例せず、卓上はほとんど空となっている。全員がどれくらい食べたかも自覚しないほど食べることに集中していた。そんな中、最初に口火を切ったのはアカネだった。
「アユミ、さっきの件だけど?ここまでくるとやっぱり気になるよ。話しにくかったらここで終わり。どう?」
ツキと太郎が真剣に見つめている。
「オッケー、話せるよ。」
「ってことは?」
ツキがすかさず聞き返す。
「ちょいと、あんたこの手の話しになると積極的だね?はいはい、一応そのとおりです。」
アカネがわざわざテーブルの対面から嬉しそうにツキの肩を叩いた。
「痛いって。何で私?」
「いや、何となく。じゃあ、山口君とお付き合いってことで決まり?」
アカネは照れくさそうとも悩んでいるともつかない微妙な表情になった。
「うーん、何かよくわかんないんだよね。本人も付き合っているんだか、仲のいい幼馴染みからの友達なんかわからないって。」
アカネが残り少ないポテトをここぞとばかりに口に突っ込みながら質問する。
「えーっ?それって今までと変わらないじゃない?はっきりさせるってどうなった?」
口から飛び散った破片がツキの顔へと飛んでくる。
「ちょ、アカネ汚い。」
それを見て太郎とアユミが笑っている。
「まだ続きあるって。焦んなさんなって。だからさ、このままでいるつもりか聞いたんだよ。」
三人興味深げに視線を集中して続きを待つ。
「ちょっと、あんたら近い!まあ、そしたらタカヒロも同じこと言ったんだよ。」
「それで?」
アカネが乗り出す。その隙にツキと太郎が最後のポテトを映画館のポップコーンを上演の合間とともに一気に頬張るように口へと運んでいる。
「何て言うか・・・、変な期待と、ちょっとずるいかもだけどカマかけて一緒だったら?って聞いたらそうだってさ。」
「うん?何かあやふやが多いな?」
ツキは首を傾げ聞き返した。
「ツキ、それはね、オッケーってことなんじゃない?そこまで女の子に詰められて気持ち解らないような男じゃないってこと。だよね?アユミ?」
アカネがどや顔で諭した。アユミの耳は珍しく赤みを帯びている。
「まあ、そんなとこだよ。好きならちゃんと伝えろって真顔で迫られちゃったけどね。何だかやっとスッキリしたよ。」
ツキも赤くなって目を輝かせている。
「よかったね。いい答え聞けて、上手くいくかなってちょっとドキドキして心配だったんだから。」
アユミが笑いながら隣のアカネの肩に手をかける。
「何であんたが心配すんのよ?おかしな子だね。自分の心配しなって。例の小屋の件とか?」
ふたりは突然そのことが話題に出て、一気に心拍数が上がって顔を見合わせる。
「姉ちゃん、俺らも問題解決ってことだよな?」
太郎が心配そうに確認する。
「うん、そうだね。みんなゴメン、色々と心配かけました。今はもう解決したよ。」
アカネがツキの表情の変化を一瞬も逃さずに見つめていたが、杞憂に終わるとみてコップを差し出した。
「今日はいい日だ。ツキもアカネもよかった、よかった。」
三人はコップを鳴らす。
「てか、アユミ姉ちゃん家は大丈夫かよ?」
太郎の遠慮しない質問は誰もが聞きにくいことをストレートに引き出すので、場合によってはありがたいときもある。
「平気だからここにいるよ。心配ありがと。今はお父さんも帰ってきて、家も業者さんが手際よく直してくれたから一応見た目は元どおり。相変わらずお母さんは素気ないけど、修羅場潜ってきたから慣れたもんだよ。そうそう、小屋の件って言えばお父さん、大分追及されたみたいだったよ。上司から報告が意味不明って。」
「ああ、本当にごめんなさい。でも、すっごく助かったよ。近いうちに謝りに行くね。」
「思い出してまた暴れて家壊すなら行かないけどな。」
太郎が意地悪そうに付け加えた。
「こら!太郎!せっかく助けてもらったのに!」
「いや、あの親父苦手でさ。」
アカネは笑って太郎をフォローした。
「いいのいいの。太郎君と同じく私もだよ。いつ噴火するかわからないからね。でもね、ツキと太郎君のことは感謝していたよ。」
太郎が最後のチキンをかぶりつきながら目を丸くしている。
「何で?何かした?」
「暴れた晩に私を助けにきてくれたこと。ふたりだけじゃないよ、アユミも山口君もみんなありがとうって。あんなにボロボロに体張ってくれる人ってそういないって。だからじゃないかな、公園でふたりを何としても助けようってしたのは。」
アユミが椅子にふんぞり返って腕を組んでいる。
「悪いアカネ、そんな評価される筋合いないけどね、原因作った人にさ。まあ、確かにあの晩のみんなの力、凄いって思うけどね。」
太郎がチキンを平らげた時点で食事の完了となった。
「俺ら最強ってな。」
「うん、最後はアユミのお父さんが来て助かったけど、そこまでの行動力みんな凄いよ。」
アユミは姿勢を正し前のめりで話し出した。
「私、今まで思っていたけど、ツキ、あんた何者?あの晩も結構遠い所にいたみたいだけどどうやって戻ったの?それにあのチンピラ吹っ飛ばした爆発力みたいな、普段のあんたから想像もできない行動とか?」
場の空気に乗って、今までアユミもアカネも疑問に思っていたことを改めて問われ、まさにツキ自身も探している答えに口籠って回答を探している。
「えっと、あのときはホントに必死で覚えていないくらいで・・・、暴力振るうのも悪いって思っていたけど頭に血が上って、それで、それで・・・。」
太郎が隣から助け船を出す。
「アカネ姉ちゃん、ごめんよ。姉ちゃんこう見えて必死になると視野が狭くなっちゃうんだよ。行動も。考えるより先に動いてさ、だから、直ぐに引き返したらタイミングよく電車乗れて戻ってこれたし。俺もずっと引っ張られて何が何だかわからないくらいで。俺よりアカネ姉ちゃんは付き合い長いからよく知ってるだろ?このキャラのまんまだって。アユミ姉ちゃんも姉ちゃんがこんなだけど嫌じゃないから付き合ってるじゃない?ホントにこのまんまだって、俺が保証する。変だけどいい奴なんだよ。」
「ちょっと、太郎、最後のところ、全然フォローになってない。」
アユミとアカネはふたりの掛け合いに思わず笑い出した。
「わかったって、もういいよ。いつもの陰キャと違って気になったんだよ。いやさ、誰もが色んな一面持っているよね?それがツキはあまりに真逆で気になったんだよ。まあ、あの感じじゃあ空飛んできたなんて言っても納得するって。」
「お、おう。そうだな、一山跳び越えて参上ってとこだよ。」
ツキはこの話題が終わったとを期待しているが、まだ不安な表情をしている。そのツキの表情にアカネが何かを感じ取ったのか、空気を変えるべく切り出した。
「さあさあ、みんなの疑問が解消したところで、お待ちかねのケーキじゃない?そんなに待てるの?」
ケーキというキーワードで一同行動を始める。手際よくテーブルを空けてお湯を沸かしてコーヒーのお替わりを淹れ、ツキが冷蔵庫からケーキを持ってきた。
「さあさ、オーナー特製ケーキだよ。」
ツキはゆっくりと勿体ぶって箱からケーキを取り出す。ケーキは一見ごく普通の真っ白なホールケーキだった。天井には所々グリーンのチョコで針葉樹の葉のようなものが数枚デコレーションされて、まるで舞台上に落ち葉が散っているよう見える。アクセントとして金粉がまぶしてあるが、ホイップクリームもイチゴも見当たらずすっきりとしたシンプルな作りだった。それがまるで昨日のホワイトクリスマスを思い出させる。他にはブラックチョコのプレートにはメリークリスマスと書いてあるので何とかクリスマスケーキとわかる。
「結構普通だよな?」
「だね。昨日のもシンプルでも相当趣向凝らしてあったから何かあるかもよ。」
アカネが興味深そうに質問する。
「昨日の試作品ってどんな?」
「昨日のはね、一見ショートケーキだけど、私が食べたのは中にベリーとチョコ、太郎はオレンジとホワイトチョコが入っていたよ。」
アユミが何かを感じ取ったようにふたりを見ている。
「オシャレね。ふたりはそういう感じなんだね。」
今になってツキと太郎はふたりのイメージから作られたケーキだと理解した。アカネが笑顔で咳払いをして同梱の蠟燭を開封してテーブルに置いた。
「クリスマスって誕生日みたく部屋暗くしてやるんだっけ?」
言うが早く、すでに太郎が蝋燭をセットしている。
「それでいいんじゃね?じゃあ火、点けよう?姉ちゃんライターとかある?」
「ちょっと待てて。」
ツキは二階へと上がり、直ぐに百均で購入したノズルの長いライターを持って下りてきた。
「ツキ、それってお香とかやっているんだよね。」
「ああ、それであんた、何か変わった匂いするんだね。」
「そうだよ。変だった?」
「いや、ちょっと気になっていたりするんだよ、お香って。眠れないときや勉強のリラックスとかにいいんでしょ?色々教えてよ。」
「雑食だけど。駅前にお店あるから、今度行ってみる?」
「いいね、そうだよ、冬休みはみんなで買い物行こうか?」
太郎が点火を待ちわびて進行を進める。
「いいか?女ってどうしてこうも話が飛ぶし長いんだよ?早くケーキ、食べようぜ?」
「そうだね。太郎お待ちかねだね。」
すでにデコレーション完了されたケーキに火が灯る。アカネが慌てて席を立つ。
「ああっ、ちょっと電気待って!つい楽しくって忘れていたけど、料理とか全然写真撮ってないよ!」
「そういや、珍しくアカネが写真撮ってなかったね。後でみんなに送ってよ。」
アカネはケーキを撮ってみんなに近く集まるように指示する。全員のポジションを確認してキッチンカウンター上にスマホケースを器用に使ってスマホを固定する。
「アカネ姉ちゃん早く。蝋が垂れまくるよ。」
「もうちょい、いいよ。いくよ。」
アカネはタイマーをセットして素早くスマホの反対に回り込んでフォーカスに収まった。そのタイミングでシャッター音が鳴る。映りをチェックするアカネの背後からみんなでスマホを覗き込む。
「どう?いい感じ?」
そこには四人バランスよくケーキと一緒に映り込んでいる。
「いいじゃん、アカネやっぱり上手いや。」
「ホントだね。私あんまり写真撮らないけど、上手いのってよくわかるよ。」
「ツキらしい。じゃあ再開ね。」
電気を消して部屋が暗くなり、わずかな蠟燭の薄明かりの中、沈黙が訪れる。何ともじれったい間に耐え切れずにアユミが声を発する。
「何か歌う?」
ツキが回答に困っている。
「ええっ、そんなことしてると蠟燭終わっちゃうよ?どうするっけ?」
メンバーを見回すアカネに代わって、太郎が仕切り出す。
「メリークリスマス!さあ!みんな火を消せ消せ!」
一斉に慌ただしく息を吹きかけて部屋は暗闇となった。アユミが持っていたスマホを懐中電灯代わりに部屋の灯りを点ける。一斉に天井を見つめ、まばらには拍手が起こり、しばらく続いた。
「さあ、ツキ、ケーキ切り分けて。」
「了解。」
溶けた蝋燭がケーキ本体にも浸食しており、その撤去から始まった。ツキはバイトの経験よりケーキの種類に見当がついたが、何も言わず入刀した。目ざといアカネは断面でただのケーキではないとわかったようだった。
「これって?バームクーヘン?」
「多分、ザッハトルテだよ。でも、ホワイトチョコって珍しい。」
ツキがケーキから目を離さず確認しながら回答する。
「姉ちゃん、さすがケーキ屋だね。俺、見た目じゃ何も判断つかないよ。」
「蝋燭取るとき、少し本体触って匂いでわかったよ。」
アユミがケーキに鼻を近づけて香りを嗅いでいる。
「全然わかんないよ?てか、蝋燭臭くない?あんた犬か?」
「そう?普段ずっと花粉症や何かと鼻詰まっているんだけどね。」
「マジ?あんた色々不思議だね。」
ツキは否定せず笑いながらケーキを切り分けた。最後にチョコのプレートをどう分けようか悩んでいるとアカネが提案した。
「それはこの家の主でもあって、ケーキ頼んでくれたツキが食べればいいんじゃない?」
「みんなで分けるべきじゃ・・・。」
「そんな均等にするのが難しいって。いいから食べなよ。」
「じゃあ、太郎、半分ずつ食べようか?」
ツキは器用にプレートを綺麗に半分に折って太郎に手渡した。
「お、じゃあ遠慮なく。」
アユミが笑いながら茶化してきた。
「おや?仲いいね。ツキってそんなキャラだっけ?」
ふたりは最初意味を理解していなかったが、少しの間で思わず恥ずかしさがこみ上げてきた。今日はずっといじられっぱなしだった。
「まあ、太郎ちゃんもこの家の主人みたいなもんだしね。いいんじゃない?早く食べようよ。」
ケーキはホワイトチョコのミルク感とアプリコットジャムの甘さが口いっぱいに広がり、今までのクリスマスメニューの油っこさとは対照的で、野性的な口の中を一気にリセットしてくれた。これが同じ甘い系統でも濃厚なミルクチョコでは重さを助長してこうはいかない。女子陣はコーヒーの苦みがケーキの甘みを引き出して幸せ感でいっぱいになった。ケーキは文句なく美味で、誰もが感嘆の言葉を発した。その間もこまめにアカネが写真や動画を撮っている。いつもはどこかクールなアユミが珍しく口の周りにケーキがつくほどがっついている。
「オーナーいいセンスしているね。当たり前の美味しさじゃ私ら満足しないって、ちゃんとわかってんのね。」
「あはっ、アユミ口の周り汚ったな。」
「いいじゃん、たまには。あんたらも手、早過ぎ。もうなくなりそうじゃない。」
すでに平らげたツキがみんなに残りをサーブする。
「大丈夫。一人もう一つはあるからね。これ、商品化するといいな。」
「そうだよ。ツキ、あんたオーナーに提案してよ。」
「うん、でもね、あの人ホントに感性でケーキ作る人なんだよ。思い出の味ってのは次同じの食べたって違うんだって。頭の中に入っている同じレシピで頼まれたら作れるらしいんだけど、食べるシチュエーションごとで別物、だから一回きりでいいんだって。」
アカネがコーヒーで一息入れながら惜しそうに残りのもう一つを見つめている。
「そうなんだね。頭の中にレシピが残っているって凄いね。ある意味いつも思いつきや試作品なんじゃないんじゃないの?」
ツキがはっとした表情になる。
「あ、そうだよね。横で見ていてそう思わなかった。そのまま受け取っていて、何も思わなかったよ。ちゃんと意味あってだね。」
「姉ちゃん、そんなのもわからなかったのかよ。」
「初めて気づいたよ。」
「太郎ちゃん、わかっていたような感じじゃない?」
「いや、俺も今知った。」
「太郎ったら、まったく。確かにお客さんがオーナーに個別のオーダーするのって記念日とか多かったよ。そう、結婚記念日や出産祝いに、やっぱり、誕生日が多いかな。ケンジ君の誕生日にも買ってくれたよね。」
「うん。それに、私が選んだのは試作品だったよ。そう考えるとあの日だけの特別な味だよ。ケンジすっごく美味しいって喜んでいたよ。」
「よかった。またみんな来てくれると嬉しいな。」
アユミがツキの肩を何度も叩いた。
「何しんみりしてんのさ。また行くに決まってるじゃん。ケーキのお礼しないと。ふたりは昨日ケーキ貰ったんだよね?そのお礼も忘れずにね。」
「ちょ、それより昨日は山口君とクリスマス出かけたの?」
ツキと太郎は意味を深読みしたのか話題を変えた。
「バイト上がりに会ったからそんなに余裕なかったよ。」
「何で?特別な日なのに?」
ツキはこの手の話には食いつきが良い。
「バイト始めたばかりで直ぐに勝手には休めないって。昨日入るから、代わりに今日か明日どっちか頼んで今日休みにしてもらったんだよ。」
「ええ?私とアカネ天秤にかけて傾くの?山口君とは?」
「ちょい待って。タカヒロの奴、昨日は部活なんだよ。年始早速大会あるからね。だから丁度よかったんだよ。」
「何か理解のない先生だよな、昨日が何の日かってさ。」
太郎が不服そうに割り込んできた。アカネが太郎の頬を突いて笑っている。
「太郎君が先生ならよかったね。あ、よくないか?」
「あんたらどっちでもだけどさ、まあ、私の店はチェーンだから家族とか早くに来店してさっさっと帰る客が多くってさ、こじゃれている客もそんないなくって定時で上がれたしね。」
「じゃあ、夜に何処かムーディーな場所に呼んでとか?」
ツキが質問を続ける。
「いやいや、普通に昔よく遊んだ公園だよ。逆に雪降って辺り一面真っ白で無人ってのは、それはそれでいい感じだったよ。あんた、結構そういうの気にする派?意外ね。」
「ツキはロマンチストなんだよ。じゃあ、ふたりは雪の中で恋人同士キスでもしたんだ?」
思わず藪蛇で、話題が自分へ戻され焦っていたところにアカネが話を繋いだが、その一言がツキと太郎の心拍数を一気にマックスまで押し上げる。
「い、いやあ、そんなの大昔にお遊びで済ませてるよ。」
アカネは頬に手を当ててオーバーリアクションを取った。
「まあ、おませさんね。今更かしら?でも?」
「まあ、一応ね・・・。」
アユミも少し照れながら否定はしない。太郎が顔を赤めて聞き入っている。時々ツキを見るが敢えて目を合わせない。
「いやあ、いいねいいね。私みんなでワイワイするのが好きだけど、そういう話し聞いちゃうとそろそろ決まった彼氏作ってもいいなって思うな。」
「そんなの、あんた、候補なんていっくらでもいるじゃないの。」
視線がアカネに集まる。
「ええ?ダメだって。私誘いやすいから簡単に声かけてくる人ばっかり。別に理想とかじゃないけど、そうね、ツキが男の子だったらいいよ。」
次にツキへ視線が集まると赤面しているのがばれてさらに赤くなった。
「ちょっと、アカネったら。どういうこと?」
赤面の意味をアカネとアユミはどう捉えたか太郎にも視線が注がれる。
「男前ってこと。女前?ゴメンね、太郎君。」
太郎は腕を組んで悟られぬようにあらぬ方向を向いている。
「別に。そんなんじゃ、当分アカネ姉ちゃんは男できないな。まあ、それまで姉ちゃんがいるからいいか?駅前で買い物したり公園で遊んだりいいんじゃね?」
「そういや、太郎ちゃん、昨日ツキと駅前のショッピングモールにいなかった?バイト先から見えて、ふたりが入っていった気がしたんだけど?」
アユミが思い出したかのように太郎に問いかけた。やっと下がってきたふたりの心拍数が再び一気に跳ね上がる。
「そんなの、アカネ姉ちゃん!別に・・・。」
言い訳は逆効果なのは明白であり、ツキは太郎の援護に入った。
「そうだよ。今日の準備で行っていたんだよ。足りないもの沢山だしね。」
「お、おお、そうなんだよ。姉ちゃん持ち切れないっていうから仕方ないから。」
アユミがアカネの表情を楽しそうに横目で見て続ける。
「だろうね。別に慌てなくっても。でもさ、あの広場にあるゲート?ふたりで潜ってたらカップルじゃない?」
「あれってやっぱりそうなの?」
ツキが前のめりになる。
「ツキ、近い近い。嘘。家族でも友達でもやるって。意味は本人たちに委ねるんじゃないの?やっぱりカップルが一番やりたがるかなって思ってね。そんなことしたの?」
「おい!姉ちゃん!カマかけられているじゃんか!」
アユミが手を叩いて喜んでいる。
「あははっ、ホントふたりって仲がいいんだね。」
ツキは俯いてもう何も言えなくなっている。アユミは腹を抑えている。
「いいんだよ。別にさ。実際私ら太郎ちゃんが何者かってどうでもいいんだよ。」
「どういうこと?」
ツキが赤い顔で問うと、アカネとアユミは笑ってはいるが眼差しは真剣だった。
「ツキ、私もアユミも太郎君が親戚って思えなくってね。ふたりを見ていると。だからって別に詮索する気もないよ。だって、どうでもいいって、だから何って思うくらいふたりが好きなんだよ。」
太郎が照れくさそうに頭を掻いている。アユミも少し照れくさそうに話しかける。
「ちょうど太郎ちゃんが来たころかな?私、ツキに対して少しずつ近くなってきたのって。それまで近づくどころか、ちょっと苦手で遠ざけてきたところもあったんだよ。きっかけはちょっと変わってきたなって思ったことかな。それに、親戚なんかじゃそうそう変わらないって思うし特別な何かがあるなって。」
アカネは何度も頷いている。
「うん、私もそう思う。みんなの時間が動いてきたのかもね。」
「ありがとう。太郎はね、太郎は・・・。」
ツキの目が潤んで何かを必死に伝えようとしている。太郎はツキを遮ろうとはしない。アカネが優しくツキの頭を撫でる。
「いいよ、無理しなくたって。その気になったら教えてね。」
アユミも太郎の頭を軽く叩く。
「女泣かせるなんてやるね。さ、もうういいでしょ?またぱっとやろうよ?カラオケ、やる?」
「マジでダメだって姉ちゃん歌マジでダメなんだよ?」
太郎が慌てて遮る。ツキは目頭をこすってテレビをつけて、太郎の言葉を聞いていないかのように窓際に置かれたアユミのPCを持ってくる。
「いいよ、折角なんだし。アユミ、お願い。Wi-Fi設定よくわかんないけど?」
「オッケー、だろうと思ってテザリング直でできるよう持ってきたよ。」
アユミはPCを受け取ってアプリを起動している。部屋の隅に置いてあるバッグからケーブルを取り出してテレビに繋ぐと、画面に映像が映し出された。
「おお、いいね。ツキの歌、初めてじゃない?リストここにあるよ。じゃあ何歌う?」
その後は満場一致の感想だった。何周かして盛り上がって、ある意味笑い疲れている。
「ツキ、あんた面白いね。ホントにカラオケ行こうか?ちゃんと練習してさ。」
「いやいや、アユミ、このままでもいいんじゃない?」
アカネも爆笑している。
ツキは何がおかしいかわからないといった表情だった。
「そんな下手?」
太郎も笑いながら意見を述べる。
「実際音痴とは違うんだけど、個性的でいいんじゃない?姉ちゃんの視点と美的センスでの解釈って。」
アカネが太郎の肩をゆする。
「それって芸術的って意味?ああ、おかしい。ツキはいつもぼっちだから自分の歌声知らないんだよ。それに比べて太郎君は結構上手いね。器用に音合わせて。」
アユミは変にツボにはまっているようだった。
「私ら殺さないでよ。いつも歌っているの?太郎ちゃんたち?」
「いやあ、そんなでもないよ。ソファーの歌くらいだったかな?あっ、やべ・・・。」
太郎はツキの表情を注意しながら答えると、ツキの視線が鋭くなって太郎がキッチンへ避難する。
「コーヒーもうないだろ?一服しようぜ?喉乾いただろ?」
「ソファーって何?」
アユミは太郎を逃さず聞き返す。
「ああ、その歌って姉ちゃんの創作で・・・。」
ツキの視線が再び突き刺さる。
「太郎!」
「創作って何?」
アユミが机を叩いて笑っている。
「ええ?聞かせてよ。」
アカネが涙目で催促する。
「もう!その話はいいから!適当に作った歌なんだからもう覚えてないよ!」
ツキがいつになく慌てて声を荒げるが、太郎は場の盛り上がりに調子に乗って、ここぞとばかりに火に油を注ぐ。
「俺覚えてるぜ?」
ツキが席を立って太郎を追いかけだした。夜遅くまで笑い声が続いていった。
柱時計を見てアユミが切り出す。
「大分遅くなっちゃたな。本当はお泊りしてオールしたいくらいだけど、明日もバイトなんだよ。今日休んだからね。」
「あ、私もだった。つい忘れちゃってた。」
「前もあったけど、アユミとツキは入れ替わったみたいだね。」
「まあ、初めてツキの気分が少しわかった気がするよ。」
「そう?ちょっと嬉しいかも。またみんなで集まろう?そのときはオールでもね。」
「うん、じゃ、私もそろそろ帰るね。」
皆が帰りの準備を始めると、途端に部屋が寂しくなる。
「二人って、帰る方向逆だよね?」
「俺はどっちでもいいぜ?」
アカネが笑いながら手を振った。
「あれ、ふたりとも見送ってくれるの?平気だよ、私ら帰り道は大通り沿いなんだし。」
アユミは準備を終えている。
「何だか、あんたらのこと読めるんだよね。まあ、実はタカヒロと地元の駅で待ち合わせなんだ。」
アカネが嬉しそうにアユミを突っつく。
「いいねいいね。それでこそ付き合いはじめって感じだね。明日また色々聞かせてね。」
「おいおい、どうしてまた明日も報告するのさ。もうここまできたから隠す必要ないけど、あんたに話したのは厄介だったね。さ、もう帰るよ。」
「なによ、つれないな。ま、このままだとまた長居しちゃうから、私も帰るね、ツキ、太郎君。」
「うん、気をつけてね。今日は本当に楽しかったよ。」
「おう、俺も楽しかったよ。女子会っていいもんだな。」
「あっ、そうだ、太郎ちゃんだけ男混じってた。じゃあ今日は特別だね。もう女湯入れる歳じゃないってね。」
「なんだよ、全然意識されてなかったんかよ。まあ、いいよ。それでも俺はみんなと楽しく過ごせて幸せもんだな。」
「ふふっ、太郎君、何しんみりしてんの?それって今だけの役得かもね。じゃあ、アユミ、いこうか?」
二人が玄関の戸を開けると雪は止んでおり、暗闇に街灯の灯りで路面の雪が白く輝いている。
「よかったね、二人とも。雪、止んでいるね。わ、雪が光って綺麗だね。」
「だね。普段気にしなかったな。そう思うと帰り道も少しは楽しいかも。あんた、色々気づくよね。」
アユミが白い息を両手で受け止めて外に出ると、靴を履き終えたアカネがアユミの背中をそっと叩く。
「誰かと一緒って、気づかないこと教えてくれるんだね。じゃあね、おふたりさん。お休みなさい。」
「おふたりさん、じゃあね、また。」
「お休みなさい。」
「じゃあな。」
ふたりはアカネとアユミが見えなくなるまで手を振って見送った。
「さあ、お風呂入って寝ようか。疲れたでしょ?この週末。」
「ああ、すっごいパワー使った。」
「私の探し物はもう終わったようなものだけど、明日からまたいつもの毎日に戻るかな。」
そう言ってツキは両腕を上げて全身で背伸びをした。
「そうだな。」
「じゃあ、先お風呂どうぞ。飾りとか片しておくね。」
「ああ、木材は後で一緒にやろうか。じゃあお先に。」
太郎は大人しく従った。ツキは太郎を待たず、試しに木材を一本その場で持ち上げてみると思ったより軽く、結局は飾りだけでなく木材もすべて下ろしてキッチンの隅へまとめて置いたが、今はガレージへ入る気になれない。
(ご主人さん、後は処分って言っていたけど、来年も使えるんじゃないのかな?それに、大事な人の遺したものを譲ってもらったのに捨てちゃうのも忍びないな。明日ガレージに置いてまた後で考えよう。)
しばらくして、太郎が風呂から上がってきて、片づけられた部屋を見て質問してきた。
「飾りは捨てちまう?取っておく?それに木は処分って、大事なものなんじゃないの?持っていて、また使ってやったほうが喜ぶんじゃないの?」
「だよね。だから明日にでもガレージに保管して、また何かのイベントのとき使おうかって考えていたんだよ。」
太郎が頷いてツキの背中を叩いた。捨てないと聞いて安心している。
「何よ、何かアユミみたい。」
「じゃあ、先に寝るな。お休み、姉ちゃん。」
ツキは少し何かを期待していたが、太郎はそのまま部屋へと戻っていってしまった。
次の朝、ツキはいつもの時間に目が覚めて、いつものようにふたりの朝食の準備をしている。
朝食の準備が整っても太郎が起きてくる気配がない。週末、色々なことがあり過ぎてツキも少し疲れが残っていた。
探していたものが思っていたものとは違ったこと。
風化したと思っていた感情をずっと背負っていたことを改めて思い知らされたこと。
呪いのように自分を責めて、過去に縛られそうになったところを太郎が引っ張り上げてくれた。
今日はゆっくりと休ませてあげてもいい、そう思った。ひとりで朝食を取って太郎の分にラップをかけて身支度を済ませる。一昨日と逆だった。
髪をいつもの三つ編みにまとめ、相変わらずの黒ずくめの服装に太郎のプレゼントが加わった。
なかなか起きてこない太郎が少し心配になって二階へと上がる。太郎の部屋をそっと開けて覗き込む。そこには綺麗に畳まれた布団が部屋の中央にあるだけだった。
「太郎?」
返事はない。二階の部屋すべてを開けて声をかけたが、やはり返事は返ってこない。一階へ下りて、くまなく探したが何処にも見当たらない。玄関にはツキの靴一足だけが残っている。
ツキは何も考えることができなくなって、その場に立ち尽くした。今までの太郎と一緒の朝が再びひとりの朝に戻っている。
太郎はこの家にはいなかった。
LUNA 銀の食卓 宮前ユキ @m-yuk
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