第5話 公園
自分を見つめ直すことはひとりでは限界があるみたいだ。時には誰かの主観を幾つも集めて客観的に自分という人間像創り上げることで初めて知ることも多い。それが受け入れることができなくても、自分ひとりでは導き出すことのできない答えのひとつに繋がっている。それでも答えはひとつではないことも教えてくれる。
ツキとアカネが家から外へ出ると雲一つない晴れ空だった。冬の空の青さは夏の青さに比べて、どこか色褪せたような、それでいて、手を伸ばせば薄い布地を掴んで引きはがせそうな近さを感じさせる。
年末の刺すような寒さは相変わらずだったが、日が当たる暖かさは、あるのとないのではありがたさがまったく違ってくる。
二人は昨日のことには触れず昔話に談笑しながら学校へと向かった。教室に着くとアユミとタカヒロが何やら話し合っていた。アカネがいつもの調子で話しかける。
「おはよう、アユミ、山口君。」
「おはよう、お二人さん。昨日はツキの家でよく眠れた?」
アユミも極力昨日の事件には触れないような別の切り口で話しかけてきた。
「うん、快適だったよ。ツキの手料理もごちそうになって、とっても美味しかったよ。家がまだ直らなければこのままお世話になっちゃってもいいかも。ていうか、本気でそうしたいかも。ね、ツキ?」
アカネは相変わらず子どものような笑みで、悪戯でもしたかのように問いかける。
「まあ、私は別に問題ないけど。今更一人増えようが同じだよ。」
「ホントに?じゃあ、そうなったらお願いね?」
「アカネ、あんた楽したいだけなんじゃないの?」
「ううん、私的には問題ないよ。楽しかったし、ご飯もちょっと量増えるだけだから、やることはいつもとそんなに変わらないんだよ。」
「おお、羨ましいな、俺も今度頼もうかな?うちの親、料理苦手であんまり美味くないんだよな。」
「ダメ!ツキん家は男子禁制なの。まあ、あんたん家の食事に関してはどれだけ悲惨かはよく知ってるけどさ。」
「何だよ、男って太郎がいるじゃんか?」
「あの子は親戚でしょ?山口君は別。アユミの家に行きなさい。」
「ちょっとアカネェ、タカヒロ最近は全然家に来てないけど、もう歳的に父さんだけじゃなく母さんの目も時々怖いよ。」
「あれ?幼なじみ特権は効力切れた?」
「とっくに。まあ、昼間親いないから上がれるかもしれないけど、帰ってくる夕方は部活でしょ?」
「そりゃあ、そうだけど。」
「さぼるんだったら入れないからね。」
アカネが再び悪戯っぽくアユミを横目で煽る。
「あら、さっきから家来るだの親いるいないだの、何だかいやらしい感じするね?ね、ツキ?」
「えっ、いや、それはまあ、若い男女が昼間っから一つ屋根の下で一緒なんて・・・。」
アユミは面白そうににやけながらツキに詰め寄った。
「あんた、何だか古いわね?私たち何するって?ねえ?」
「な、アユミまで変なこと振らないでよ。」
「フフッ、冗談よ。もう、慌てないでよ。意外に昨日はタカヒロもたまには顔見せにこいって母さん言ってたよ。寄っていけばよかったのに。何かがあったの、親の直感でわかったのかな?」
「そうなんか?怖えぇ。じゃあ、なおさら菓子折りでも持ってご挨拶いかないとな。」
「ツキのお店のがいいんじゃない?」
「おお、そうだな。またショートケーキ、新作出るかな?」
さっきまで照れて俯きがちだったツキの顔が明るくなった。
「うん、そろそろ出るかも。最近新作考えているって。そいうときって間違いなく遠からず出るんだよ。なんかインスパイアされるとかで。」
「じゃあ、アユミと山口君も一緒にまたツキのお店行こう?さっそく今週末とか?」
「あ、今バイト日曜休みなんだ。最近ずっとだったから、少し休み増やしてもらったよ。だから日曜に例の公園行く予定。でも、土曜はお店いるよ。」
「だから昨日太郎君と昼間から出かけていたんだね。駅前で見たの、お昼だったもんね。」
「うん、太郎の気晴らしもしないといけないからね。土曜は午後からいるよ。」
するとアユミが気まずそうに手を挙げて会話に入ってきた。
「ゴメン、土曜さ、バイトの面接なんだ。」
「え?アユミもバイトするの?初耳。何の?」
「急に決まったんだよ。ファミレスだよ。人手不足ですぐにもって。話そうって思っていたけど、まあ、昨日は忙しかったじゃない?やっぱりお小遣いだけじゃ足りないしね。親ももう高校生だから自分で稼げって言い出す始末。それにね、原付とか免許取ろうかって思うんだよ。本格的に。」
「そうなんだ。私も考えようかな。無免許じゃやばいもんね。」
「お前ら原付取って何すんだ?無免許って?」
「アユミの親戚のお兄ちゃんが東京の大学行って原付置いてったの。こっち帰ってくるまで貸してくれるって。それをたまに工場の空き地で乗り回して遊んでるんだ。これが結構面白くってね。そのうちツーリング行ったり、ちょっと遠くまで買い物したり、大きな街でオシャレなお店でバイトしようなんて話していたんだよ。だけど、免許取ってバイト行くにしても先にお金貯めるのが先。順番逆じゃない?なんてね。」
ツキは子どものように興味を示して食い入っている。
「へえ、面白そうね。私も何か形にするもの探してみようかな。」
「そうだよ、ツキ。今は生活のことばっかりじゃない。アユミみたくあれもこれもじゃすぐ尽きちゃうけど一つくらい何か考えてみなよ。」
「あれもこれもなんてないんですけど?まあ、確かにツキはもうちょっと遊んでいいんじゃないの。まあ、無理しろっていうわけじゃないんだけどさ。」
「そうだね。最近ちょっとだけそう思ってきたんだよ。流行っているのとか教えてもらってもいいかな?」
ツキはアカネとアユミを交互に見つめ、何か言いたげなタカヒロへも視線を送った。
「流行りならアカネ先生にお任せだね。もちろん私も頼って。」
「いつでもウエルカムだよ。アユミ先生ほどスパルタじゃないから安心して。」
「おいおい、こいつらと一緒だと不良になっちまうぜ?」
「あんたとじゃ、脳筋になるよりマシだよ。」
「じゃあ、俺と一緒にいるアカネも同じじゃねえの?」
「ふふっ、アカネ、アユミって脳筋なんだね。」
「あんたらは!」
チャイムが鳴り、急いで四人は散り散りに席へと向かった。
ツキは今週の日曜はボート小屋を探そうと思っていたが、上手く時間を調整してケーキ屋と両方とも行けないかとも考えていた。
今日の最後の授業が間もなく終わるタイミングでツキのLINEに着信が入った。教師の目を盗み、メールを確認するとアカネからだった。
「今日家帰るよ。帰りに荷物取りにいっていい?」
斜め後ろのアカネのほうを振り返る。アカネが小さく手を振って胸の前で〇×を交互に作っている。ツキは右手でOKのハンドサインを送って、すぐに何事もなかったように前へ向き直った。
ツキは放課後にバイト先へ事情を話して休みをもらった。電話越しでは表情は見えないが、オーナーは嫌な顔ひとつしないで、寧ろ行ってあげてと言ってくれた。
ツキの家まではアカネとアユミと三人で帰った。
「ごめん、急で。午前中から業者さん来て直してくれたんだって。仕事のコネだね。」
「よかったじゃない、早くて。でも、お父さん、大丈夫?」
「そうだよ。親父さんとはどうする気?」
「うん、しばらくは会社とホテルの往復になるって。実際、忙しくて家へ帰らないのもあるけど、少し冷却期間も必要だって。」
アユミが明らかな不快感を露わにする。
「マジか。このままフェードアウトってならない?私だったらそれでも仕方ないって思っちゃうんだけどな?家が直ってもツキん家お世話になるよ。」
「うん、そうしたいのも山々なんだけどね。お父さんのことはもう言うこと言ったし、後はまたどこかで時間取るしかないよ。もう、あんなことがあったからこれ以上はないと思う。ケンジとお母さんだけじゃちょっと心配。それに、あんまりツキに迷惑かけられないよ。」
「迷惑だなんて、とんでもない。私、昨日は楽しかったよ。色々話せて。」
「何々?気になるな。私の方は昨日は何にも楽しくなかったんですけど?」
「あ。ゴメンね。てか、私はツキとラブラブだったけど、アユミは山口君と一緒だったからいいんじゃないの?ね?」
「い、いやあ、あれはもう腐れ縁だし、今更ね。」
「そうかな。私いいなって思うときあるよ。二人自然で。」
「おや?ツキもそんなこと思うんだ?意外。アユミたち見てそう思うの?私には熟年夫婦みたいなんだけどな。」
「ちょっと!言い返せないの悔しい!」
「ふふっ、それ合ってる。結婚して歳取ったらどうなるんだろうね。」
アユミは珍しく真っ赤になってツキの背中を平手で叩いた。
「痛ったい!ゴメンゴメン言いすぎちゃった。」
「そこ怒ってるんじゃないの。」
「え?」
「ツキはまだお子ちゃまだから難しいんだよ。ね、アユミ。」
「何よ?二人で。まだこれからだって。」
「ちょうど太郎とお似合いだよ。」
今度はツキが赤面した。
「そんなの歳離れすぎだって。あの子は・・・。」
「アユミも一理あるよ。いいじゃないの。あの子、結構男前だよ?見た目じゃなくてね。ぱっと見、少し前の陰キャのツキみたいだけど。親戚なのが悔やまれるね。」
「あ、そこ似てるかも。さすが親戚。でも、やるときやるのも似てるかもね。大きくなったらどうなるんだかね。」
照れながら、太郎が評価されていることのほうがツキには嬉しかった。
「そうだね。親戚で年下っていうのがね・・・。」
話しが盛り上がってきたところでツキの家に着き、玄関を見回すと靴が一つも見当たらなかった。どうやら太郎は不在だった。
「ちょっと上がってく?寒いでしょ?お茶かコーヒー淹れるよ?」
「お、初ツキの家だね。いいの?」
「もちろん。じゃあ、どうぞどうぞ。」
二人を客間へ通して注文を聞いた。
「お客様、お飲み物は何にしますか?」
「アユミももうすぐ接客業デビューだね。私コーヒー。」
「じゃあ、私もコーヒー。」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
ツキのキッチンへの足取りは少し嬉しそうだった。
「あの子、慣れてるね。この前、お店行ったときも思ったんだ。私も見習わないとって。変なお客さん来たらケンカしそう。」
「あははっ、そう思う。アユミならやりそう。そこんとこツキは慣れてそうだよね。元々の性格もあるんじゃなかって気もする。」
「そうね。きっと大人しいだけじゃやっていけないんだと思う。昨日のツキもびっくりだったけど、ある意味かっこいいなって思ったんだ。」
「アユミもそう思った?どんなとこが?」
「自分見失っても立ち向かっていけるのって。昔の私じゃ無理だったな。おかげで今こんなだけど。」
「逆にそのうちできなくなるのかもね、そういうの。大人になるっていうのかな?」
「何それ?どうなんだろ。よくわかんないな。まあ、今は今を考えよう?それより、ツキ、身体は大丈夫かな?結構激しかったよね?」
「うん、太郎君も。でも、昨日の夜の感じはもう平気そうだったよ。身体が丈夫な家系なのかな?」
「そう?ならいいんだけど。時々あのふたりって、背中に黒いものが見えるっていうか、一瞬陽炎みたいなもので歪んで見えるっていうか・・・。」
「怖いこと言わないでよ。アユミって見える系だっけ?」
「いや、そういうの駄目なんだ。こう見えて。」
「あはははっ!何それ?ホントそう見えないよ。」
「うるさいなあ。マジで嫌なんだよ。洋画のスプラッターやホラーとかは平気だけど、ジャパニーズホラーは絶対無理。あのいるんだかいないってやつが大っ嫌いなんだ。前にタカヒロの馬鹿に騙されて、そっち系の映画連れていかれそうになって一週間口利かなかったくらいなんだから。」
「いやあ、いいこと聞いちゃたな。後でツキにも話そ。」
「やめろって。マジ、やめて。あの子そこんとこ無害だけど、変に親近感湧かれても困るって。」
「はいはい。わかったよ。それにしても、ちょっと不思議な子たちだよね。遠くにいると思ったのに短時間で駆けつけてくれたり、あんな大人しいって思っていたらチンピラ吹っ飛ばしちゃったり。」
「そうね・・・。そんなでも、私は結構好きだよ、あの子たち。ツキは最初、掴みどころなくってアカネの傍にいるから社交辞令で声かけていたくらいだったけど、話す私の目を見てちゃんと受け答えするんだよね。そううち気になってきたんだよ。この前ケーキ屋で話したら意外に楽しい子だなって思ったな。」
「うん、そうそう。」
「太郎ちゃんもいい子だよね。コミュ力妙に高いし。そのくせ行動力もあるね。そういや急にあの子、私の目の前に現れたの。最初っから驚きっぱなしだったなあ。」
「今となってはもう驚かないよね。まあ、アユミにそう言わせたら大したもんだよ。」
扉をノックする音が聞こえてツキが現れた。トレイにコーヒーカップを三つ、板チョコを三枚乗せていた。二人が驚いたような表情でこちらを見ているので、ツキも思わず動きを止めた。
「何?何かいいことあった?」
「え、ええ。ここに例のボート小屋の絵があったんだよって話していたの。」
コーヒーもお替わりして、板チョコも平らげたところで外も暗くなってきた。それまで他愛ない日常会話でずっと盛り上がっていた。アユミの面接するバイトから、いずれはハーレーに乗る予定まで、アカネの最近はまっている音楽やサブスクの映画や駅前にできたお店と話題は次々と変わりながら続いた。
ツキも最近のことを聞かれ、バイト先のケーキから常連から聞いた噂やソファーについて、そして、アユミもアカネも石宝堂に行ってみたいと先のことまで続いた。
やがて、話題はクリスマスにはツキの家に集まって夕飯を食べることが決まった。家に親がいないということが決め手となったのだが、ツキは悪い気はしなかった。
「タカヒロも呼ぶ?女子会にするかパーティーにするかって?」
「太郎君がいるじゃない?そうなったら呼ばないのかわいそうじゃない?後で何故俺だけってなりそう。あ、でもイヴは一緒よね?だから別に来なくてもいい?」
アユミは腕組みしながら改めて考えだした。
「うーん、そこなんだよね。イヴっていっても、まだどうするかも決めてないし、多分ギリギリで動くんじゃないかな?タカヒロ何考えてるんだか。」
無言の間が流れ、急にアカネが話題を変えた。
「ねえ、疑問に思っていたんだけど、アユミと山口君て、付き合ってるの?」
「え、そうじゃないの?ねえ?アユミ?」
「どうなんだろ。いつも一緒だけど、明確に付き合ってとかないんだけど。幼稚園からの幼なじみでずっと一緒で何とも思ってなかったな。そういえば、遊びにいっても女友達みたく駅やその辺で別れたら次の日また学校で会って、そんな毎日が続いてきたからかな。」
「えっ?何もないの?」
「ない・・・、って変?」
アカネの問いにアユミは珍しく赤面し、言葉もたどたどしくなっていた。
「ホント?私ったら二人はもうあれやこれやで。」
その後、しばらくはアカネの生々しいトークが続きツキも耳まで真っ赤になりながらも。じっと聞き耳を立てて聞き入っていた。
「私、誰かに付き合ってるかなんて聞かれたの初めてだった。」
ツキは何度も頷いている。
「そうなんだね。あまりに当たり前に思えるくらい自然だったから誰も聞かなかったんじゃないかな。じゃあ、イヴはちょっと特別になるのかな?」
「ツキ、まさかのあんたに言われたから意識しちゃうじゃない。」
「まさかそんなだなんて思っていなくて。」
「いや、タカヒロの奴も私のこと仲のいい親友なんて言ってるから、そろそろはっきりさせるころかもしれないな。」
アカネの眼がいっそう輝き出したように見える。
「きゃあ、何か萌えるわ。幼なじみにお別れを、恋人からよろしくなんて、ロマンティックねえ。」
「ちょっと待ってよ。私も親友みたいっていうか同じ感じだったんだから。まあ、確かにあいつの気持ち、純粋に知りたいって興味あるなあ。」
「アユミ自身はどうなの?」
珍しくツキが食いついてきた。
「私?私はどっちでも。」
「どういうこと?ツキ先生納得できる?」
「いやあ、できません。」
「何なのあんたら。よくも悪くもどっちでも問題ないってこと。ずるいって思うけど、タカヒロの答え次第かな。好きって言ってくれたら付き合ってもいいし、親友か仲のいい幼なじみって言われたら今までどおりだよ。」
「それって意識しちゃわない?今までどおりでいられる?アユミって真っ直ぐで裏表ないのがいいところって思うけど、今回みたいな話だとペース狂って裏腹なこと口走りそうな気がするよ?」
珍しくツキの目も一回り大きいように見える。
「ツキ先生、今日は珍しく突っ込んでくるね。誰か好きな人、いるの?」
「えっ、いやいや、いないんだけど、気になるよ。友達が状況を変えようってしているの。恋愛でじゃないけど、私ももっと変わらないとって思うもの。」
ツキは意図せず話しが自分へ戻ってきたことに慌てて取り繕った。
「ツキは大分変わってきたよ。変わったというより昔に戻ったかも。元々引っ込み思案で陰キャなのは変わらないけど、ちゃんと考えてる奴。意外に話すと面白くて引き出しも結構あったり、自分より相手のことばかり心配しぃだったりね。」
「ちょっと、やめてアカネ。そんな。」
「ツキ先生、照れない照れない。私もそう、変わらないとって思う。ありがとね。おそらくそのとおりってのもわかるんだ。そんなことは滅多になかったから。関係壊すの怖くて、ずっとこのままだったんだって。まあ、こう見えても憧れとかもあったりするもんなんですよ、私も。」
「いやあ、何か今日アユミとツキは逆になったみたい。アユミってそんなキャラだった?」
「うるさいなあ。あんたら、ちょっと甘い顔するとすぐつけあがるんだから。」
そう言いつつも、アユミの表情は今までの中でもっとも穏やかに見える。
「ちょいちょい、盛り上がっているとこ悪いけど、外真っ暗だよ。」
「ちょっと、ツキ?これからがいいところなんだよ?て、結構長居しちゃったよね。昨日ハードだったからみんな疲れてるよね?私、今日学校しんどかったよ。アユミ、まだイヴまで時間あるしまた話そう?ツキ先生もね?」
「あー、そうだね。迷ったら相談するかもね。まあ、まずは私らのクリスマスどうるすか決めようよ。ケーキはそのときにしよう?ツキ、オーナーさんにクリスマスケーキ作れるか聞いてみて?」
「うん、きっとオッケーだよ。楽しみ。じゃあ、今週末はなしかな?」
「私土曜行く。ケンジかわいそうだから、またケーキ買ってくよ。この前の誕生日ケーキ、とっても美味しいって喜んでいたんだよ。また食べたいって。」
「そうなんだ、嬉しい。ぜひ来てね。」
「何だよ。私も面接終わったら行けたら行くよ?バイト先は駅前なんだから。」
「そうなんだ。じゃあ時間わかったら教えてね。ツキと遊んでるよ。」
「ちょっと、私は仕事なんですけど?」
「まあまあ。じゃあ、オーナーさんに会えるかな?」
「きっと会えるよ。話し上手だし女子力高いよ。あ、アユミも相談乗ってもらってもいいかも。年の功ってやつ?結構常連さんも相談目当ての人も多いんだ。女目線も男目線もわかるから参考になるんだって。」
「そ、そうなの?まあ、考えておくよ。」
「それでさ、ツキは日曜に公園行くのね?一緒に行こうか?この前助けてもらったし、お父さんの会社なら、いざというとき私がいることで何とかなるかもしれないよ。」
「ああ、私も行くよ。借り返さないと。手伝わせてよ。」
「ありがとう。でも、私たちの問題だし、そんな大変なものでもないから太郎とふたりで大丈夫かな。それに何ていうか、ちょっと複雑なんだ。たかがボート小屋だとしても、ごめん、ちゃんと伝えられなくて。」
ツキは(何か起きそう)と口から出そうになったが、すかさず口を閉ざした。
アカネは覗き込むようにツキを見た。
「そうなの?まあ、ツキがそこまで言うんだったら。」
アユミは軽くツキの肩を叩いた。
「無茶しないでよ?あんた意外に突っ走るみたいだから。ほっとくと冷や冷やするよ。」
「ありがとね。それにアユミ、借りとかそんなのないよ。」
ツキは親友と伝えたかったが、照れくさく言葉を飲み込んだ。
「そうね、アユミもある意味戦友?そんなもんかな?」
「おお、そうだね。それいいね。うん、いい。ツキも私も、アカネとタカヒロも戦友だ。」
「じゃあ、太郎もだね。私たちが困ったときは一緒に戦ってね?」
ツキは嬉しそうに答える。
「了解。ツキもアユミも二人とも遠慮しないでよ?」
「わかってるって。なあ、ツキ?」
「そのときはお願いします。」
「ツキちゃん?何か考えごと?」
ツキは不意に後ろからオーナーに声をかけられて、気持ち少し飛び跳ねた感じがした。
「え?あ、すいません、ちょっと。」
「そうなのね。平気。どうせ大体暇なんだしね。それより最近また何かあった?」
「え?わかるんですか?」
「何となくだけど、雰囲気変わったかしら?」
「どんな風にですか?」
「ちょっと大人びたっていうか、急に落ち着いた感じがするみたい。今までも妙に落ち着いたところがあったけど、それって下を向いて周りから一歩引いていたようだったわ。確かに大変なこともあったし、環境に無理やり適応しようとした結果、大人や世間に振り回されていたじゃない?一つの処世術でもあったかなって感じるわ。今は何ていうか、ちゃんと前を向いて目が違うわ。」
「そうなんですね。実は色々あったんです。あり過ぎて私自身追いついていないんです。」
「そうなのね。いいのよ、無理して話さなくても。ツキちゃんにとって大きなことがあったっていう感じね。」
「そんなこともわかるんですか?確かに、自分でも怖いって思うこともいっぱいありました。」
「やっぱりそうなのね。少し影が濃くなったなって感じるわ。」
「影、ですか?」
「そうね。ふさわしい言葉で言い表せないけど、さっきも言ったように目が、ね。」
「そうなんですか・・・。」
「あっ、ごめんなさい。つい、いつもツキちゃんにはずけずけ思ったこと話しちゃうのね。」
「いえ、気にしないでください。寧ろ、オーナーははっきり言ってくれて、私はありがたいです。みんな本音わからない人ばっかりだし。あ、そんな中でも、前に話した友達はそんなことないんです。」
「ありがとう。この性格は中々治らないわね。ツキちゃん素直だし、ちゃんと受け止めるだけでなく返してくれるから言っちゃうの。週末のことはその友達とだったのかな。」
「はい、それと、オーナーが教えてくれた母親の実家へも行ってきたんです。」
「あら、そうなの。どうだった?静の家?」
「それが、綺麗さっぱりなくなっていました。」
「そうなの?残念ね。じゃあ静の親御さんもどっか行っちゃたのね。」
「そうみたいですね。ありがとうございました。住所教えていただいて。」
「無駄足させちゃったわね。ところで、あの街どうだった?」
「いえ、全然無駄足なんてことなかったです。ぶっちゃけ、あの街は怖かったです。人も全然見当たらなくて、寂しいっていうより暗い雰囲気が漂っていました。」
「やっぱりそうなのね。静が越したからそう感じるのかもしれないわね。」
何でも知っているようなオーナーの口ぶりは、街のことも絵画のこともすべて知っているのではないかと思える。しかし、さらに深く聞くことによって巻き込んでしまうかもしれないという心配と、あまりにスムーズに話しが通じることはレストランの一件と同様に、実はオーナーも絵画に支配されていたりしないかとの疑惑もないわけではなかった。
それでも、オーナーは信頼できる人間の一人でもあり、仮に後者であったとしても、そこは成り行きに任せても構わないとも思った。そこで、敢えて話題を変えた。
「その後、友達の家の問題もあって、色々大変でした。」
「そうだったのね。」
相変わらず相槌を打つが、それ以上踏み込んでこない。踏み込まなければそこまで。しかし、その先を話せば親身になって聞いてくれる、そんなオーナーの立ち位置はツキを安心させ、もっと話を聞いてもらいたくなるが、巻き込みたくというジレンマも抱えてしまう。それでも今のツキは、少しだけ立ち入って欲しい、意見を聞きたいと、先を続けることを選んだ。他人にはわかりにくい、曖昧な語りではあったとしても。
「新しい友達も一緒でした。解決ってわけじゃないけど、問題は先延ばしになった気はするけど、少しは助けになれたって、そう思うんです。」
「そんなことがあったから、ツキちゃんは成長したのかな?友達みんな問題や悩みも共有して、距離がもっと縮まったんじゃないの?」
「はい、そうなんです。それに、前に話した従兄弟の太郎も一緒で仲よくなれたみたいです。」
「まあ、それはよかったわね。その友達って前にお店に来てくれた子かしら?」
「そうなんです。よくわかりますね?」
「だって、ツキちゃんの交友関係って話題に出る子に絞られなくって?」
ツキのはっとした表情に、オーナーは優しく微笑みかけた。
「確かに。オーナーは魔法使いで、何でも知っているって思っちゃいましたよ。」
「あら、魔法使いなんて素敵ね。私も魔法使えればいいのにね。」
オーナーは店のガラス窓越しに空を見上げた。
「魔法使えたらどんなこと願いますか?どんな力が欲しいとかってありますか?」
「魔法ねえ。使えたら色々あるわね。もっと美味しいケーキ作れますようにとか。」
「何言っているんですか。これ以上ないくらい美味しいですよ。」
「そうかしら。いつも、もっと美味しくなれば、みんなもっと幸せになれるって思うのに。」
「十分です。私、オーナーのケーキで幸せもらいました。このお店が縁で、昨日の事件の疎遠だった友達とまた近くなったり、新しい友達とも親しくなれたんです。」
「あら、嬉しい。ひとりでもそう言ってくれると。」
「他のお客さんもきっとそうですよ。私みたく直接話さないだけで。だって、リピーターばかりじゃないですか?」
「ちょっと、泣かさないでよ。」
オーナーは口だけでなく、本当に目頭が潤んでいた。ツキはオーナーが演技ではないこと感じ取り、始めて見る涙もろいところが友人のように思えた。
「オーナーこそ、そんな、もらい泣きしちゃいますよ、最近涙腺緩くなってきたんですから。」
「ふふっ、ゴメンなさいね。せっかくだから自画自賛しちゃうけど、小さな願い事を叶えるケーキなんて大袈裟かしらね。」
ツキは一瞬心臓が跳ね上がるのを感じて話題を変えた。
「大袈裟じゃないですよ。そうだ、クリスマス、そのメンバーみんなで集まることになったんです。クリスマスケーキなんて作ったりしますか?私このお店でクリスマス初めてで」
「もちろん。毎年店頭には出さなくて、聞いてくれた人にだけ作っているの。その人の希望に沿ってね。それって、ある意味願い叶えるケーキかしら。」
太郎の地図は空白がほぼ埋められてきた。毎晩客間で、今日の探索報告を食後にお互い話すのだが、進展がないためにルーティンと化して、大半は雑談タイムとなっている。
食事中には探し物以外のプライベートな話題、ツキは学校やバイト先での出来事、太郎は昼間の空き時間や探索での出来事についてひととおり話すのだが、それでも足りないかのように、報告の後にも話し込むことが多くなってきた。それでも今日は新たな手掛かりでもあるボート小屋の公園についての報告はツキに期待を持たせる。
「今日、例の公園へ行ってきたよ。」
「どうだった?」
「全然駄目。確かにあの森みたいなのに駅側から行くと橋があったよ。元々のやつは壊れ
たのか、似つかわしくない工事用みたいな鉄か何かでかなり頑丈なやつ。先週、俺らは反対から行ったんだよな、川跳び越えて。あのときは何が何だかわからなかったけど。それでさ、橋を越えて道なりに行くと公園の入口がちゃんとあったよ。だけどさ、周りは結構高いフェンスで囲まれてるし、入口はチェーンと錠前みたいので鍵かけられていたよ。」
「そうなんだ。ちょっと厳しいかな?」
「やっぱり姉ちゃんのジャンプでいくしかないと思うよ。」
「それは難しいかも。実は最近何度か試してみたけど、全然跳べないんだ。今はもう足の感覚は戻っているけど跳べる気がしないんだよ。急に跳び過ぎて見当違いなところいっちゃたら取り返しつかないことになりかねないかもしれないよ。それに、特別な力に頼り過ぎたり、あまり多用すべきじゃないと思う。この前のアカネのときに感じたけど、過信もあったんだ。私はちょっと違うんだって。みんないたから留まったけど、今落ち着いて考えると怖い。跳べないのはそのせいかもしれないよ。」
太郎はしばらく考え込んだ末に頷いた。
「うん、俺もそう思う。じゃあ、正攻法でいくしかないよな。」
「何かゴメンね。一番確実そうなのに。」
申し訳なさそうにしているツキの前で、太郎は両手を縦に広げて声を張って答えた。
「そうでもないぜ?フェンスは大人より少し高いくらいだよ。頑張ってよじ登れば乗り越えられる。だから、いけるって。」
「じゃあ、強硬突破できる?」
「いや、要所要所でカメラがあったよ。それにフェンスには何やらコードみたいのが巻いてあるから、派手なことするとセンサーか何かで反応して警備とか来るかもしれないや。」
「ちょっと厄介だね。捕まったら面倒になりそうだよね。」
「ああ、少し回ってみたら案の定警備員が現れたよ。最初遠くから見張っていたけど、少し経ったら近づいてきた。」
「大丈夫だった?」
「大丈夫だからここにいるじゃんか。確かに最初隙見て逃げようか様子見してたけど、地理は向こうが把握してるだろうし、今回は俺一人じゃあ厳しいって思ったよ。だからこっちから近寄って聞いたんだ。これ何かって。」
「危ないなあ。逆にそれでよかったんだね?」
「そうなんだ。向こうも迷ったのか聞いてきたから、友達とはぐれてフェンスとか変なもの見つけたから見ていたって言ったら信用したよ。しかも、ここは公園跡地だけど、これから工事が始まって危ないから帰れって送ってくれたよ。」
「太郎が子どもだったから信用してくれたのかもね。監視も兼ねていたんだろうけど、親切な人で助かったね。」
「まあな。そこでだよ・・・。」
太郎は地図の公園に該当する部分を指し示した。そこは周りを川に囲まれ、所々でっぱりはあるが、大まかには長方形に近い浮島のようだった。赤ペンのキャップを外し、駅のある側に橋を描いて浮島への道を作った。その次に、島の内部いっぱいに楕円形を描き、橋と楕円の接地する位置に半円を記入した。
「これってフェンス?で、これは門かな?」
「さすが姉ちゃん、わかってるね。じゃあスマホかタブレットで地図検索して?」
ツキはテーブル脇に置いたタブレットを手にして、地図アプリを開いたが公園名がわからないため、最寄り駅を検索した。映し出されている地図を縮小すると、駅から南にかなり広めの緑のエリアが現れたので、その地域へと移動する。地図上でも公園は孤島で太郎が渡った橋は見当たらなかった。元の橋はアプリに地形が反映される前からなくなっていたようで、今ある橋は太郎が見たとおり最近設置されたと思われる。上空から見下ろす公園はかなりの広さで、前回いくら走っても森が並走しているような感覚だったのが納得できた。
「姉ちゃん、航空地図は見れる?」
「あ、そうか湖、跡地でもあればわかるよね。」
「そうだよ。強硬突破したら警備員が駆けつけるのも時間の問題だろ?事前にどこか覚えて隠れながら行くしかないよな。小屋に用事あるなんてわかりゃしないと思うし、探し物見つけたら逃げやすい場所も目星つけないと。」
「やるね。それと警備員の詰所とかがわかれば、遠く離れて最短で向かえる場所もわかるね。最悪バラバラになってもお互い地図頭に入っていれば動けるよね。」
「そうだな。でも、そうならないこと願うね。目標はやっぱり絵だよな?」
「それが正解であってほしい。今度こそ。」
「また、レストランみたくおかしなことになってないだろうな。」
「ちょっと、不吉なこと言わないで。もうあれは遠慮したいよ。」
ツキは苦笑いしているが、本当に不安そうに、悲しそうな表情に変わるのを見た太郎は、昨日のことが遠い昔に感じ、ずっと心に引っかかったまま過ごしてきた気分になった。
ツキが地図の拡大と移動を止めた。
「これじゃない?」
緑色に覆われた公園のほぼ中央に位置する、歪に横に長方形に広がる空間は、その薄茶色が緑の中で一際目立っている。長年放置され、草木も生えてもおかしくはないはずが、そのエリアだけは昔の姿を保っているようだった。森を切り取った空地のような空間の中に、円形を縦に二つ並べたような不自然な窪地らしきものが輪郭を浮かび上がらせている。全体像として、航空写真からでもはっきり写っている道が公園の周囲を縁取るように走っており、中央の更地から放射線状に何本も道が伸びて繋がっている。
「そうだよ、姉ちゃん。あのチンピラたちが瓢箪池って言っていたの、これじゃない?」
「だね。ここ見て。池の南、ここ。ズームするとわかる。森の中に建物らしいのがあるよ。木が生い茂って池の跡地まで迫ってきたんだね。それで埋もれちゃっている。」
「おお、これだ。そうに違いねえな。」
「じゃあ、次は警備員の詰所だね。」
公園の北側、橋があったポイントから公園へと続く道が伸び、太郎が門を描いた場所へと画像を進めた。そこから時計周りに移動すると間もなく北東の角付近に四角い建物が見つかった。
「きっとこれじゃないのかな。ボート小屋より大きいのはきっと工事するにあたっての事務所や作業員の拠点も兼ねているんじゃない?」
「それだ。他にないか?」
公園のフェンスに沿って一周したが、他に建物らしいものは見つからなかった。
「じゃあ決まりだね。」
太郎は地図に池とボート小屋、詰所を書き込んだ。
「行くなら昼か夜かどっち?俺は夜のほうがまずい気がする。」
「私も。まず、夜は公園内が真っ暗になると思うよ。地理的に街の灯りも遮られる可能性高いね。そうなると目的地行くのも難しいし、懐中電灯とか灯は警備員にも居場所を知らせるようなものだよ。それこそ私たちバラバラになってどこにいるか見失ったら、きっと掴まるのも時間の問題。それにボート小屋に入っても、真っ暗じゃ探すのも難しそうだね。しかも、手掛かりになるものあっても気づかないこともあるかもだよ。」
「だよな。よく考えてるな。強硬突破するってことは時間勝負だもんな。」
「他に気づかれないで入る方向ある?」
ふたりは考え込んだが他には浮かばなかった。
「じゃあ、日曜、日が昇る前に決行でいいかな?朝早ければ街に人も少ないし、警備員も夜勤明けで気が緩んでそうじゃない?私なら眠いよ。」
その「眠いの」意味は、毎朝ツキが太郎の朝食の準備してくれるため、本来より早く起きるようになったからなのかと、ふと思った。
「そうだな。姉ちゃん起きる六時くらいは大分明るいよな。もっと早く暗いうちに起きて、日が昇るころにはすでに小屋にいる、そのくらい目指していこうか。突破するポイントだけど、前に橋掛けて川渡ったのがこの辺だろ?」
太郎が地図を動かし、西側に道が園内から川へ向かって途切れている部分が見つかった。まるで以前は外界と橋で繋がっていたかのようだった。
「あ、そうだね、ここだよね。しかも、ここからなら詰所から結構離れているね。」
「そういうこと。じゃあこれで決まりだな。」
週末までは特に目立った動きはなかった。ツキは学校から帰るとバイト、家へ帰ると太郎が待っている。
太郎はほぼ毎日家の掃除をしてくれている。最初会ったときの恰好からは思いもしなかったが、綺麗好きで結構マメな性格のようだった。洗濯も済ませて畳んでくれるので、あとは夜にツキが下着類を洗濯するだけだった。最初一緒でも構わないと言ったとき、太郎は相当怒ったので今のようになったが、今だったら恥ずかしくて、そのようなことは言えない。毎日家全体を掃除するのではなく、今日は一階、明日は二階と分ける。掃除が終わるころには洗濯も終了する。掃除機だけでなく壁や窓、床に至るまで拭き掃除を行っているようで、そこまで行う徹底ぶりはツキが発見した太郎の意外な一面でもあり、自分と比較して差を感じた部分でもあった。
洗濯物を干し終わるとお茶を飲んで一服し、近所をまわり、昼食を取りに帰ったら午後は少し遠くまで探索し、日が落ちる時間には帰宅していた。
探索だけでなく本屋があれば立ち寄ったり、興味をそそる雑貨屋や、スイーツの店など見つけるとふらりと立ち寄ったりもした。それでも物色するだけで一円も使わない。それらもちゃんと地図に詳細まで記入してツキに報告した。夕方ツキが帰ってくるまでアニメを観るだけでなく、ニュースもチェックしてふたりに何か得る情報がないかも確認していたが、特に役立つ情報もあるわけもなく、夜の雑談のネタだけが増えたが、それが太郎には楽しみだった。
ツキも太郎の進捗よりも、身近な話題、気になる店を見つけたとか、ニュースなどに関心が向いているが、それも悪くないと思っている。探し物がいつまでが期限と決められているわけでもなく、今はふたりが感じているのは、見つからなければそれでも構わない、寧ろ見つかって何かが変わってしまうことが少し怖かった。もはや、この生活がふたりの日常となっている。
そんな日常になる前、ツキは今までバイト先でオーナーや馴染み客と話す以外はほぼ無言だった。学校でこそアカネが話しかけてくれたが、当たり障りのない言葉を打ち返すだけだった。それが、今では学校へ行けばアカネやアユミとグループになることが多くなったが、自分から話しかけるにはまだ抵抗がある。それでも、二人のほうから集まってきてくれるのが嬉しかった。話題も他愛ない最近の出来事ばかりだったが、それでも、ツキには今までにはない特別な時間となる。これが当たり前になったら何も感じなくなってしまうのか、距離を保つには話題は何が必要なのか、そもそも、いつまでこの時間は続くのか、そんなことも考えてしまう。今更ながら気がついた新鮮さを味わっても悪くはないと思う気持ちが勝っている。友達も太郎との生活も楽しいほど有限に感じることに不安に感じている。
金曜の午後はオーナーが急用で不在となり、ツキのバイトが休みになったので、太郎と駅前の商業ビルや幾つかの雑貨店へ日常品や消耗品などを補充しに出かけた。冬の放課後は晴れていても日差しは遠く、空は薄いフィルターがかかった青空を展開しているのが、まだ何かが引っかかっている心境に重なる。駅に近づくにつれて人も増えて、木々にはイルミネーションの準備も着々と進められ、ショップの赤・緑・黄色といった装飾が一層賑やかに街を彩っている。彩られた街並みが、冬の寒さを忘れさせる暖かさを演出している。
「姉ちゃん、あれ。」
目の前の駅のロータリー中心に大きなクリスマスツリーが建っている。飾りこそまだ全然足りないが、木のフォルムや巻きつけられた電球がクリスマスツリーであること、これからここでクリスマスの主役を張ることをアピールしている。
「いやあ、もうすぐだね。先週電車乗ったときはなかったよね。あそこ、夏やイベントでは舞台が建ったりするんだよ。クリスマスツリーが建つなんて、忘れていたな。」
「俺らも準備しとかないとな。みんな集まるんだろ?百均とかで飾り買い込まないと。」
「そうだけど、何買ったらいいんだろう?」
「何だよ、ダメな女だな。女子力低し。」
「何よ、女子力なんて最初っから期待していないくせに。」
「そうさ、だから、リスト作ってきたんじゃんか。」
「えっ、何、そんなのあるの?」
「ああ、姉ちゃん何にも考えていないんじゃないかって思って。昼間ネットやテレビからヒント見つけてメモってきたんだよ。」
「太郎、えらい。あなた、いいお父さんになるわ。」
「お父さんって、一気に飛んだな。まあ、いいや。じゃあ行こうか。」
日常品の買い物はほぼ完了し、それだけで両手に持参したエコバッグやトートバッグがほぼ満杯になっている。
「後はツリー関係だけだね。ねえ、太郎?クリスマスツリーなんて百均の小さいのしかないよ。あとはホームセンターくらいじゃないのかな。家、そんな広くないから大きいのは厳しいかもね。一番広いキッチンで集まると思うけど、それでも場所取るよね。」
「そうだよな。まあ、要らないかな。」
太郎は残念そうにあたりを見回していた。
「石宝堂へ行ってみない?何かあるかもしれないよ?」
「お、そうだな。何か気分上げるものありそうだな。行ってみようぜ?」
「そうだね。でも、あの壺は買わないよ。ツリー生けようなんて考えないでね。」
(マジで欲しがってると思ってるな・・・。そんな変なこと考えるの姉ちゃんだけだって。)
「いらっしゃいませ。」
主人は奥で新聞を読んでいたが、ふたりの気配を感じた途端、嬉しそうに近づいてきた。
「暇?」
「太郎!」
「暇ですよ。相変わらず。ご来店いただいて嬉しいです。今日はどんなご用命でしょうか?ささ、お荷物重かったでしょう?こちらへ。」
主人はレジの手前に籠を用意して促した。
「ありがとうございます。今日はクリスマスパーティーの飾りを探しにきました。最初ツリーも考えていたんですけど、他に何かないかなって思って。それにこの荷物じゃ持って帰れないので下見くらいでも。」
「そうなんですね。でしたら、色々見ながらふたりのイメージを話し合ってみてはいかがでしょうか?お家の何処に何を置くか、今日買われた物に合うのか、パーティーにいらっしゃる方は男性、女性、どのようなものが喜ばれるか。もし、迷われたり、こんなものはないのかとご質問ございましたらお手伝します。お気兼ねなくお呼びください。」
「はい、ありがとうございます。見させていただきますね。」
「どうぞ、ごゆっくりと。」
主人は再びレジ横の椅子に腰かけ、手を振ってくれた。
ふたりは入店するまで話し込んで周りが見えておらず、馴染の店ということもあり店内に気を配ることもなかったが、やっと一階の大物家具の中心に大きなクリスマスツリーが二階の高さまで聳え立っているのが目に入った。
「すげえな。どうやって店に入れたんだ?」
所々に飾りが取り付けられて、頂上には星が乗せられている。
「なあ、姉ちゃん?あれって売り物かな?あれ?姉ちゃん?」
いつの間にかツキの姿が見えなくなっている。
「太郎!こっちこっち!」
中二階のフェンスに身を乗り出してツキが叫ぶ。嬉しそうに太郎は急いで階段を上り、ツキに並んだところで目の前にツリーの星が輝いている。針葉樹の葉も星の輝きを受けて一層艶やかに光っている。
「おお、綺麗だな。これって何でできているんだ?」
「でしょ?プラスチックじゃないし電気も入っていない。光を反射して輝いているみたいだね。」
「この木、本当に重そうだな。これだけでかいと何でも乗せられるよな。」
「周りも見て。」
階下を見回すと、視界全体のほとんどを占めるソファーの光沢が、店内の少し落ち着いた暖色の照明を受けて黒く輝いているように見える。暖色のテーブルなどの木製の家具のマットな質感と相まってグラデーションが利いて、まるで夜の海を思わせる。
「不思議だね。光る飾りもないのに辺りを照らしているよ。ツリーが身に受けた光を受け流して、地面に降り注いでいるみたい。」
ふたりはしばらくツリーと夜の海を眺めていた。
「姉ちゃん、見てみろよ。クリスマスらしく品揃え増えてるよ?」
二階に陳列された商品は前回より数を増しているようだった。今までは商品同士がお互い少しの距離を置いて展示物のようだったのが、今日は少し息苦しそうに感じる。
「ここって中古屋だろ?」
「アンティークショップ。素人じゃ値のつけられない年代物も扱っているんだよ。」
「似たもんだろ?どいつもクリスマスの資金源のために色々売ってきたんじゃないのか?」
「夢ないなあ。でも、確かに現実はそんなものかもね。あ、ここ全部がリサイクルじゃなくって、中には一応新品もあるらしいよ。敢えて表示していないみたい。」
「マジに?全然わからないや。混ぜてるのか?逆にそれってデメリットじゃない?」
「そうなんだよね。それでも、見る人が見ればわかるって。その新品も閉店した知り合いの店からが多いんだって。だからある意味アンティークとか。」
「変な拘り。ほら、見ろよ。時計も前より色々なのが並んでるし、人形も変なのばっかり増えて、壺もこんなでっかいやつもゴロゴロしてる。あ、いや、全然欲しくなんてないんだからな?本気にするなよ。」
「はいはい、それよりツリーの替わりどうしようか。」
「そうなんだよな。一回りして考えようよ。」
ふたりは二階から一階まで一緒に何周もして話し合い、次には別行動で散策した。再び合流し二階へ戻り、何となくツリーを眺めて無言の時が過ぎていく。結局、何も思いつかないのだが、頭をリセットするかのように、何も考えずツリーの輝きを眺めていることが何とも心地よかった。何かを考える必要も感じず、お互い隣にいながら干渉する気も起きず、時間だけが緩やかに流れている。
ふと、天井を見上げたツキが最初に口を開いた。
「あれとかどう?」
何本もの太いロープが緩やかなUの字描いて両端を天井に括り付けられていた。そのロープ自体には白いモールやカラフルなボール、雪の結晶のオブジェが垂れ下がっている。
「ツリーにばかり目が向いて視界に入らなかったな。二階で目の前が星だからそれより上は見ないよな。」
「うん。そこまでって思うよね。あんな感じでツリーの替わりによさそうかな。飾りとか似合いそうじゃない?」
「おお、いいアイデアじゃんか。いいけど、狭い部屋でロープってのもどうかな。これだけ広い空間だからある意味、あの味気ないロープが存在感あるっていうか。」
「ふふっ。何かデザイナーみたいだね。確かに家じゃ細い紐になっちゃうかもね。何かないかな・・・。」
再びふたりは店内を見回してアイデアが転がっていないか探した。一階へ下りた太郎が二階を見上げてツキを手招きした。
「何かあった?」
「あれ。」
太郎がショーウインドウから見える外の駐車場の隅を指し示した。そこには何本もの白い枯枝が立て掛けてある。長いものはふたりの身長を足しても足りないくらいの長さはあり、短くてもツキより少し長く統一感はなかったが、白く乾いた表情から、同じ種類の木だとわかる。
「あれって使えないかな?」
ツキは黙ってイメージを膨らませていた。
「うん、よさそう。ロープみたく天井這わせて飾りつける感じだよね。キッチンの壁際の食器棚やコートハンガーとかで天井渡らせたり、足りなければガレージに棚も幾つかあるよ。壁際に棚なら邪魔にならないよね。」
「だろ?じゃあ売ってくれるかご主人さんに聞いてみようか?」
いつの間にかふたりの後ろに主人が立っていた。
「うわあ!」
「きゃあ!」
思わずふたりは叫んでしまった。
「おやおや、驚かせてしまいましたね。これはごめんなさい。」
「びっくりさせないでくれよ。どこぞのレストランでもこんなのあったわな。何か二人とも似てるし。」
「ははっ、そうだね、ホント。」
「私が似ている?」
「あ、すいません、こっちの話しなんです。ご主人さんに似ている人がいたんです。」
「そうですか。是非会ってみたいですね。興味あります。ふむ、私に似ているとは。・・・。ところで、失礼ながら先ほどのおふたりのお話し聞かせていただきました。あ、こんな閑散とした店なので、聞こえてしまったというほうが正しいかもしれません。その案、とても素敵だと思いますよ。」
「そうか?じゃあ、あの木売ってくれる?」
「いえ、それは難しいです。」
「なんでだよ?そんなに大事なもの?売り物じゃないって?」
「はい。なので、おふたりに差し上げます。」
「え?本当ですか?」
「是非とも、持っていって使ってください。その代わり一つお願いします。」
「くれるなら何でもするって。何なの?」
「あの木たちを飾り付けて最後の晴れ舞台の場をいただけましたら、最後は焼いてほしいのです。」
「焼く?捨てちゃダメ?」
「勝手な要望ですが、ゴミとしての処分はご遠慮いただきたくて。せめて焼いていただければ、それで結構です。私では焼くには忍びなくて、自分勝手なことを言って申し訳ございません。今のご時世、何かとうるさいと思いますので、ここの裏の空地で焼いていただいて構いません。」
「最後処分してくれればあげるって?一緒に焼き芋作ってもいい?」
「太郎!」
「全然問題ありません。それも最後の思い出です。」
主人は優しく微笑んだ。
「最後って、あの木は何でしょうか?そこまでするのって特別なんじゃ?」
「はい。あの木は友人の育てた木の残りなのです。」
「そんな、焼いちゃって平気なんですか?」
「そうして欲しいのです。すでに本人はいないのですから、せめて一緒にさせてあげたくて。あのツリーも同じです。この冬が終わったら友人の元へ送り出してあげるつもりです。」
その言葉から答えはわかっているが、確かめるように太郎が呟いた。
「その友人って・・・。」
「太郎・・・。」
「ああ。わかってる。やっぱり何でもないや。じゃあ、遠慮なく貰っていくよ。」
「ありがとうございます。ところでおふたりはツリーが光っているとおっしゃっていましたね。」
「あ、聞こえました?」
「失礼しました。先ほども申しましたが、こんながらんとした空間ですので、おふたりの楽しそうな声が聞こえてきたもので。」
「やべ、結構はしゃいじゃったかもな。」
「いえいえ、お気にせずに。寧ろ、楽しんでいただいて私も嬉しかったです。そんなように見えたのはおふたりが初めてだったもので、つい聞き耳立ててしまいました。」
「そんならありがたく頂戴するけど。ところで、あの木って何の木?飾りも友達の?」
「普通のモミの木です。飾りも友人の手作りで木製です。」
「それがあんなに輝くんですね?」
「うーん、私には普通に見えるんですけどね。他のお客様も同じかと。」
ツキと太郎は顔を見合わせた。
「まるで光が差し込んで、木を照らして、ほんのりと輝いているように見えるんです。今もそう見えていますよ?」
「そうなんですね。おふたりにはあのツリーの気持ちがわかるのかもしれませんね。」
「俺は霊感的なもん、何もないと思うんだよな。今日までの感覚で。姉ちゃんは?」
「私だって。お化け見えたら怖いよ。」
「そう?でもあのツリーのてっぺんから赤いオッサンがこっち見てるよ。」
ツキは太郎の背中を叩いた。
「ちょっと!やめてよ!サンタでも嫌だよ。」
「ふっ。大丈夫ですよ。友達は女性ですから。きっとおふたりはお優しいからツリーも気づいてくれて喜んでいるんですね。」
「そうだと嬉しいです。」
太郎の頬をつねりながらツキは答えた。
「痛てえよ!バカツキ!」
「いいから、枝に合う飾り、探しにいくよ。」
「では、ごゆっくり。」
主人は気を遣ってか、再び一階の奥へと戻っていった。
「変なこと言うからよ。何かアカネみたい。これからまた普通じゃなさそうなこと色々ありそうなのに、変に意識しちゃうじゃない。」
「姉ちゃんって、そういうタイプ?心霊番組見ると隙間や後ろ気になったりする?」
「そうよ。だからそういうの危ないの。興味あって本当は好きだけど、幽霊やらUFO番組とか一度気になるともう駄目。寝たら本当に出そうで。」
「あはははっ、姉ちゃん怖がりなんだな。ボート小屋なんて廃墟みたいだったらヤバイんじゃない?入口が何か悪いもの封印してあるみたいにチェーンやお札まみれだったら、それだけで入れなくなっちゃうよ?」
「もう!やめて。うーん、て、嫌だけど、確かにそうね。」
「だろ?怯えている場合じゃないって。」
「ううん、物理的に入れなかったらどうしよう?施錠してあったりとか?」
「あ、そうかもな。最悪ガラス割って入るしかないな。」
「うん。ハンマーとかあるかな?どうせ小屋も取り壊すんでしょ?錠前やドアノブとか壊すくらい平気よね?蹴破るのもアリだけど、そもそも、木造で壊せるかわからないよね。そうなると鉄製が安心だよね。」
「姉ちゃん、やるって決めると躊躇ないな。」
「迷っても仕方ないよ。強硬突破あるのみだね。」
太郎はそんなツキのさっぱりしたところも嫌いではなかった。ツキは探すより聞いたほうが早いと思い、レジ横で本を読んでいる主人に階段の隙間から尋ねた。
「工具は二階に着いたらすぐ右手側の棚にありますよ。ハンマーもそこにあるはずです。」
「ありがとうございます。」
ふたりは再び二階へと向かった。
「仲のよいおふたりですね。」
主人は聞こえないようにそっと呟いた。
二階に到着してすぐ目の前、中央に位置する時計や宝石などが並ぶショーウインドウの右手の隣向かいに独立した棚が設けてあり、そこには工具類が取り揃えてあった。おそらく商品のメンテナンスや組み立てに必要となるのだろう、オイルやネジ類まで置いてある。ふたりは何度も通ったはずなのに、興味もないと意識から消えてしまうようだった。
「やっぱり鉄製ハンマーかな?」
ツキが威力のありそうな、ヘッドの大きめのものを手に取って太郎に確認した。
「姉ちゃん、ゴツイの選ぶな。顔に似合わずパワー系?レストランでも相当な立ち回り演じていたしな。」
「だって、中途半端なもので全然役に立たなかったら意味ないよね?だったら、最初から飛ばしていくくらいの選ばないと。」
「そうだな、チャンスは一回ってくらいの気持ちでいかないとだよな。正解。」
「他には?」
「うーん、後は絵を持ち出すときに隠す袋とか、最悪切り取って持っていくためナイフとか?」
「そのへんは家にあるよ。駐車場が作業場で持っていくのに包むのものやナイフもあったと思う。なければ包丁かな。あ、あとこれなんてどう?発煙筒だって。警備に追われたら目くらましに使えないかな?車で非常時に使うみたいだね。何でもあるな。」
「忍者かよ。一応買ってくか。あれば何かに役立つだろうな。それにしても色々と面白いものあるよな。あれ見ろよ。姉ちゃんの家の時計の親分みたい。この中の腕時計もびっくりするくらい高いのあるよ。それにこの人形も変わってんな。紐で動くのか?」
工具棚の隣、中二階から階段を下りるときに見える場所にはアンティーク調の低いテーブルが置いてあり、人形が何体か並べてあった。今までは意識していなかったか、ツリーの存在に霞んで気にもしなかったのか初めて見た気がした。クリスマスの飾りも形になり、気持ちに余裕ができたから、あらゆるものが目に留まるようだった。しかし、この人形たちはさっきまで存在しなかったかもしれない、そんな気がした。
「これは操り人形だね。よくヨーロッパの昔話とかで出てくるよ。現物は初めて見たかも。ウサギや猫が人間みたいな恰好してかわいいね。」
「おい、あそこの箱に入ったやつ十万円って。あ、それってマトリョーシカ?」
「よく知っているね。人形の中にまた人形が入っているっていうのだね。あ、見て。あの食器も高いよ。あんな高いので食べたら美味しいのかな?」
「別に変わらないんじゃねえ?気分の問題だって。そんなんでありがたがって不味いもの食べても不味いのは変わらないって。俺は普通に姉ちゃんのご飯で十分美味いけど。」
「な、なによ、おだてても今晩のご飯リッチになったりしないんだからね。でも、ありがとうね。ウソでも美味しいって言ってもらえるのは嬉しいもんだね。」
太郎はツキの顔を見ずに答えた。
「俺ってウソついたことある?」
「ないかも。よくも悪くも本音だよね。それって・・・。」
太郎は何も答えず階下へと下りていった。
「あっ、ちょっと待って・・・。」
ツキは太郎を追って階段を下りようとしたとき、後ろから誰かが声をかけたような気がして思わず振り返った。
「今、誰か何か言った?」
近くには誰もいるはずがないのは承知のうえだったが、確かめるように誰へともなく問いかけた。
「もうすぐ、もうすぐ終わるよ・・・。」
確かに誰かの声がする。その声は子どものようでもあり、性別もどちらかともつかないような機械的な声でもあった。
「何?終わるって、何が?」
ツキは全身に鳥肌が立つのを覚え、不吉な答えを予感しながらも聞き返さずにはいられない。
「ふたりの旅が終わるよ。もうすぐだよ。」
「終わるって、いつ?どうなるの?」
「終わればわかるよ。どうなるかなんて自分で確かめなよ。」
「何も教えてくれないなら話しかけないで。あなたは誰なの?」
「目の前にいるじゃない。」
ツキは下りかけた階段から中二階へと戻り、辺りを見回すと、先ほど太郎と一緒に見た操り人形たちの中に気配を感じた。その中の一体、ピエロの子どものような人形がテーブルの中央に座ってこちらを見ている。他の人形たちは左右に移動し、中央の舞台を空けている。
明らかにこの人形だけがおかしい。その表情の笑顔は表層的なものであって、実のところ笑っていないうえに感情が読み取れない。
ツキの全身に悪寒が走る。全体的に使い込まれたかのような人形たちは綺麗にされているとはいえ、その衣服や肌に染みついた汚れや色落ちは、作られたと同時に命を得て、所有者とともに時間を過ごしてきたことを想像させる。そう思うと、どの人形が語りかけてきてもおかしくない。そのような人形に中において、先ほどまでこのピエロの人形は存在していなかったのは間違いない。インパクトのある風貌は忘れるはずがなかった。
命と意思のある人形が明らかに話しかけてくる。ツキは改めて問いかけた。
「あなたは誰?」
「誰?誰って何?ボク、私は誰でもないよ?ただ、すごく懐かしいにおいのする君たちがボク、私を起こしたじゃない?」
「私たち、そんなことしていない。」
「あれ?君たちの中にある月の雫は何?誰かに曲がった力貰ったんじゃないの?普通の人は力なんて引き出せないはずだけど、君たちのは違うみたいだよね。光が色々教えてくれる。眩しくてボク、私は起きちゃったんだよ。」
「月の雫?」
「そう、本当はとっても小さな光。でも、大きくもすることも形を変えたりもできる。その光に君たちの今まで、これからが見えるよ。今はとても弱い光。」
「それって・・・。」
「わからない?本当はみんな持っている力。心を形にする力。それが曲がった力を受けると本人でも思いもしないように形が変わっちゃって、大きな災いになっちゃうよ。」
「もしかして、桜子さん、魔女との契約で身に宿ったものなのかな?」
「それは曲がった力。欲望、願い、潜在意識に作用するんだよ。もう何か起こっているよね。」
「確かに。だけど、悪いことばかりじゃなかった。私たちを助けてくれたんだよ?」
「君たちは探し物もわからず、右も左もなく、ただ、がむしゃらに前に進んだから欲に飲まれることがなかったからだね。それでも、わかっているんじゃない?少しでも気を緩めると感情に飲み込まれてしまうって。そうなると止められないって。」
「・・・。わかるかも。」
「それって、誰にもあり得ることだね。君の場合、振り幅が大きいんだね。自己嫌悪するくらいに。」
ツキは手の平を見つめながら今までのことを思い出していた。
「せいぜい頑張んなよ。先のことなんでわかっても仕方ないんだし。だから教えてやらない。」
視線の隅から色が消え失せたように感じ、瞬きの一瞬、何もない真っ白な部屋の中にツキと人形だけが取り残された。その空間が二人を引き離すかのように引き伸ばされて人形がどんどん遠ざかっていく。
「ちょっと待って!あなたは誰?」
ツキは思わず駆け寄って手を伸ばそうとした。
「知る必要なんて、ないんじゃない。」
それでもツキは知りたかった。人形が誰であっても、もっと教えて欲しいことも沢山ある。
「こっちへ来ちゃ危ないよ。君にはそこで知ることもやらなければならないこともあるんじゃないの?」
ツキは後ろで誰かに呼ばれた気がして、振り返るとそこには太郎が立っていた。
「姉ちゃん?どうしたの?さっきから立ち止まったまま動かなくなって?」
「えっ?私・・・。」
いつの間にか周りは元の店内に戻っていた。ふたりは階段の踊り場に立っている。
「あっ、姉ちゃん、何処行くの?」
先ほどまで会話を交わした人形の置いてあるテーブルまで戻ってみたが、ピエロの人形は見つからない。人形たちは等間隔で並んで、ピエロが収まっていた空間も空いていない。
「ううん、何でもないよ。ちょっと気になってね。」
「操り人形、欲しくなった?デザインや雰囲気、好きそうだよね。」
「そうね。こういうセンス悪くないな。あ、ごめんね、早く行こうか。」
ツキの心の中にピエロの言葉が引っかかっている。あまりに常識外れな事象が多かった影響もあり、正常な判断も麻痺しているのが当たり前に思えて、それ以上考えることを後回しにすることにした。例え現実でも、考えてもわからないものは、今は要らない。
ふたりは先ほどの商品一式を手にして階段を下りてレジへと向かった。
「お買い上げありがとうございます。年末は何かと物入りでしょう?よろしければこちら持っていってください。」
主人は洗剤と軍手二組をビニール袋に入れてツキに手渡した。
「えっ、すいません、いただいちゃっていいんですか?これだけしか買っていないのに?」
「いいんです。実は貰い物でまだあるんです。ちょっと前に年末の大掃除用に業務用洗剤を買い込んだので困っていたんです。家で使っても来年もかなり残りそうです。」
「いいじゃん、アカネ姉ちゃんたち来る前、掃除必要じゃない?」
「そうだけど・・・。」
購入したハンマーと発煙筒は決して高くはなく、寧ろツキは一人暮らしになってからよく通うホームセンターで購入するより安いのではないかと感じている。
〈〇円以上ご購入でお掃除グッズプレゼント〉などよく目にしそうなキャンペーンでさえノルマに達していないように思え、何かを足さないと悪いような気がして他に欲しい物があるか、一階奥の服飾コーナーを見回した。ツキの目についたのは、奥のマネキンが身に着けている真っ黒な夜を思わせるショールであった。
「ちょっと、あれ、見てもいいですか?」
「どうぞ。何でも気になりましたらご自由に試着してみてください。」
「ありがとうございます。」
ツキはショールをマネキンから外し、今身に着けているマフラーを外して肩に巻いてみる。ショールは一見台形だが、長辺の一方が緩やかなカーブを描いており。短辺側には結ぶ紐がついているところから、こちらが首側になることがわかる。ツキが着ているロングコートの上から羽織ると、探偵のトレンドマークのトレンチコートやショート丈のマントのようなデザインとなった。表はベルベット素材でわずかに黒光りしており、裏地は薄手の毛布で見た目から温かさが伝わってくる。表面のみを見れば、防寒よりもデザインが勝っていそうなイメージだが、すべての素材がわかると見た目以上に寒さを凌げそうだった。
「これいいかも。」
「まあ、いいんじゃない。それに姉ちゃんのマフラー薄くって寒そうだしな。その上にマフラー巻くくらいでちょうどいいんじゃないのか?」
「そうね、首元もっとボリューム出せばね。じゃあこれ買っちゃおうかな。幾らかな?高そうかな?」
ショール全体をくまなく調べたが値札らしきものは見当たらなかった。主人に確認しようと場所を離れようとしたとき、太郎に背中を軽く叩かれた。指し示すマネキンの首に貼り付けてあった値札ラベルを見つけ、そこには三千円と記載されている。
「これって誰かの手作りなのかな。これくらいだったら買っちゃおう。」
「じゃあ、俺持ってくよ。」
太郎がツキの手からショールをそっと受け取って、畳みながらすたすたと先にレジへと向かった。
「お買い上げありがとうございます。でも、無理しないでください。洗剤は本当に余り物でしたから、気を遣って余計なお買い物せずとも。」
「いいえ、私が気に入って買うので、無理なんてしていないですよ。何となく周りみたら目について気になって、試着したら気に入っちゃっいました。洗剤と軍手がきっかけになったけど、もう私の買い物です。」
「それならよかったです。物とは縁ですので。」
コートの内ポケットから財布を取り出すより早く、太郎がキャッシュトレイに五千円を乗せた。
「おや、太郎様がお買い上げでしょうか?」
主人は正式に太郎から自己紹介を受けていたわけではなかったのだが、店にふたりしかおらず会話も響き渡っているために、本人が太郎意外の誰でもないのはわかっていたので、迷わず太郎の名前で聞き返した。
「もちろんだよ。」
「ちょっと?太郎?」
「いつも世話になってるから、たまには何かさせろよ。」
「お金持っていないんでしょ?」
「ああ、俺無一文だよ。これって姉ちゃんがこっそり渡してくれたお金だよ。だから姉ちゃん本人が買っているのと変わんないんだよ。俺経由で戻っただけ。」
「あのお金って緊急用だよ。」
「そうそう使うことないって。いいじゃんか、気分だけでも味あわせてくれよ。出世払いでって話し、前にもしただろ?」
「それはそうだけど。」
主人は笑いながらお金を受け取ってお釣りを太郎に返した。ショールをラッピングしてクリスマスリーフを象ったシールを貼って太郎に手渡した。
「形はどうであれ、素的なクリスマスプレゼントですよ。」
「そういうこと。あ、それとあの木の枝、どうやって持って帰る?」
太郎は話しをはぐらかすかのように急いで話題を変えた。主人は軽く柏手を打ち助け舟を出し、にこやかに答えた。
「来週月曜にツキちゃんのお家の近くへ配達があります。そのときに玄関先に置かせていただきますが、それでよろしいでしょうか?」
ツキは話題を逸らされたが悪い気もせず、主人の提案に乗った。逆に遠慮し続けることもなく流れとしては良かったと感じている。
「ええ、お手数おかけしちゃいますが、お願いしてもいいですか?なんか、洗剤とかも貰っちゃったりで荷物まで持ってきていただいて。」
相変わらず主人は嬉しそうに答えた。
「お客様の希望に最大限答える、それがこの店のサービスです。なに、ついでです。それに、あの木を使ってくれる方のお手伝いができるのは、私としても嬉しいんです。」
「ねえ、その友達ってどんな人?あんな大きなツリーやら木の枝何本も使って何してたの?」
相変わらず太郎が思ったことを素直に口にした。
今回はツキも興味が勝り、目で興味を訴えている。主人はツリーの元までゆっくりと歩き、その後にふたりは静かに続いた。やがて主人はツリーの幹をそっとなでながら話し始めた。
「そうですね、その方は普段、山の中で暮らしていました。人間嫌いなんですよ。でもね、嫌いといっても気の合う数人とは交流があって、時々山から下りて色々なお話をしました。その中の一人が私なんです。人間があまり好きではないので親しくない人と接する仕事は苦痛でした。それでも、食べないと生きていけない。かといって山で自給自足も限界があります。なので、好きな自然を相手にさまざまな作品を作っては友人にお金にしてもらっていたんです。まあ、芸術家とでもいいましょうか。この店の木製商品の何点かは彼女の作品です。柱時計、額縁、テーブルや椅子、さらにはオブジェとかまで。そんな彼女もいつしか病気になりましてね。もう長くないことはわかっていたようです。不思議と人と接することが少ない分、自分自身に向き合っていた時間が長かったせいか、自らの限界、死期がよくわかっていたようでした。そこで最後に私たちにクリスマスプレゼントを作ってくれたのです。それが、あのツリーでした。木の枝は何に使うのかはわかりませんでしたがツリーと一緒に置いてあったのを持ってきてしまいました。きっと間に合わなかったのかもしれません。ただ、ツリーは正直、私もあそこまで大きなものを作っていたなんて思ってもいなかったのでかなり驚きました。」
いつになく多弁な主人は友人の死という重いテーマを話しているが少し嬉しそうで、その目は大きなガラス窓のさらに先、建物で見えないが遠くの山を見ているようだった。
「そりゃあ、驚くわな。友達も最後にご主人さんを驚かせようとしたんじゃないのか?こんだけ感謝していたんだってな。」
「おや。ほお、そう考えられるか。何故、今まで気づかなかったんだ・・・。」
太郎の一言に、主人は腕を組んでは下を向いたり前を向いたりしながら頷いていた。
「まあ、そんなもんじゃんか。じゃあ、そろそろ行こうか?姉ちゃん?」
「そうね。あ、そうだ、すいません、つかぬこと聞きますが、二階にある人形でピエロの操り人形ってありませんでしたか?」
ツキが見た内容を話しても信じてもらえないと思ったが、実在するか確認しないと気が済まなかった。それでも回答は薄々わかっていた。
「ピエロは見たことがありませんね。それがどうかしましたか?」
「いえ、あの雰囲気にそんな人形もあったかなって思ったので聞いてみました。」
「そうですか、確か何年か前にはありましたよ。」
ツキは少し心拍数が上がり、聞き返さずにはいられなかった。
「それっていつですか?もう誰か買っていってしまったんでしょうか?」
「姉ちゃん、店だから当たり前だろ?」
「去年あったのは覚えていますが、いつの間にかなくなっていました。お店に来る人も少ないので一度来ただけの人も結構覚えているのですが、誰が買ったのか全然覚えていないんです。私自身誰から買ったのかもさえ。いつの間にかあったのです。ちょっと不思議です。」
「万引き?」
「こら!太郎!」
「ははっ、そんなことするほどマニアックな方でしょうかね。私の目利きで仕入れた品物はみんな必要なところへ落ち着くと信じていますよ。たとえ覚えていなくても万引きされたとしてもね。」
「じゃあ、勝手に歩いてどっか行ったんじゃないの?言葉とか喋りそうじゃん?」
ツキは先ほどのことを思い出して少し後ずさったが、それを太郎は見逃さなかった。
「姉ちゃん、後ろ、ほら、そのレジの横からピエロの人形がこっち見ているよ。」
「ちょっと!ホントに怒るよ!人の気も知らないで!」
ツキはすでに太郎の背中を強く叩いていた。
「ちょ、いってえ!もう怒ってるだろ!」
珍しく主人が大きな声を出して笑った。
「おや、ツキちゃん?今日も何かいいことあったの?」
「いえ?特には何もないですよ?」
「そう?どことなく口元が緩いんじゃなくって?あら、前にもあったかしら?」
「え?そう見えますか?」
バイト前、キッチンで出かける準備をしているとき、太郎から少し早いがと昨日購入したクリスマスプレゼントを渡されていた。最初はまだ早いと断っていたが、元々一目惚れして早く身に着けたいとも思っていたことから、気持ちも変わり受け取った。早速身に着けて太郎に感想を聞いてみる。
「どう?似合う?」
いつものロングコートの上に羽織って、その場でゆっくりと一回りして見せた。
「何か、桜子みたく魔法使いとか探偵みたいだな。」
「そうかな?最近変なことばかりだから、頭の中が非日常へと偏って発想もファンタジーみたくなっちゃったんじゃないの?」
「何だよ?それ。まあ、悪くはないんじゃないのか?例えが悪かったかもしれないけど、似合ってるってことだと思う。」
太郎の声のトーンは明るく、まんざらでもないような雰囲気だった。
「ありがとう。じゃあ行ってくるね。」
「ああ。」
あっさりとした答えに太郎は少し肩透かしを食らったような気持ちになっていた。もう少しいつもの悪態をつけば話も盛り上がっただろうか。しかし、それもお互いに慣れてしまったのだろうか。そのように考えると、人は慣れによって会話が減るような気がした。
太郎は玄関のドアを開けて外出するツキを見送って、いつもの探索の前に掃除でもやろうかとキッチンへ戻ろうとしたとき、再びドアが開いて何事かと振り返った。
「太郎、いつもありがとうね。プレゼントも嬉しかったよ。」
今度こそツキはバイトへと向かった。太郎はその場に立ったまま腰に手を当てて首を傾げ、ツキが出ていったドアを見つめていた。
「日に日に表情がよくなっているわね。友達ともうまくいっているからかしら?」
「はい、そうかもしれないです。また今日来るみたいなんで、来たら是非紹介します。」
「あら、それは楽しみね。ツキちゃんがこんなにも変わったお友達って気になる。」
言っている傍からガラス窓の向こうからアカネとアユミが手を振っていた。ツキが手を振り返して扉を開けて店先で二人を迎える。
「二人とも早かったじゃない?アユミ、面接は?」
「午前にお客さんで混む前にやっちゃったよ。もちろん合格。来週からになったよ。」
ツキとアカネは二人で小さく拍手をした。
「おめでとう!よかったね。」
「私もそろそろバイト考えようかな。て、こんな早いんだったら連絡くれればいいのにね。ねえツキ、私駅前で買い物して時間潰していたから合流早かったんだよ。」
「だから。妙に二人一緒で早いって思ったんだよ。」
「そうよ。アユミったら時間教えてくれないから先に買い物済ませちゃおうって思って。」
「ゴメン、聞かれなかったから忘れてたよ。」
「まあ、逆に私も聞き忘れてたけどさ。」
二人は笑い、ツキも一緒に笑っていた。挨拶が済んだので扉を開けて二人を店内に招き入れる。
「いらっしゃい。とても仲よしね。」
オーナーが優しく声をかけてきた。
「あ、こちらがお世話になっているオーナー。こっちがアカネで、こっちがアユミ。」
「初めまして。大河内アカネです。先日、私がこちらへ来たときは気を遣っていただいたみたいで、ありがとうございました。」
ツキは恭しく挨拶をするアカネを見ていつもの天真爛漫な姿とのギャップを感じ、新鮮であると同時にただの八方美人ではなく、人に対する接し方の芯がしっかりとしているのだと改めて見直した。
「ご丁寧にありがとう。もっと楽にして。ちょうどあの時は私も用事があったの。気にしないで。」
「あの日アカネだけじゃなくてアユミも来てくれたんだよね。」
「そうね。」
アユミはオーナーへ向き合って、にこやかに軽く会釈をした。
「初めまして、小坂アユミです。先日食べたこのお店のケーキがとても美味しくて、今日も買いにきました。」
ツキは正直アユミも丁寧な挨拶ができるのは少々驚いた。いつものクールというか不愛想に一言で済ますかと思っていた。そんな彼女が接客業で働くというのも意外で、まだ見たことのない一面がまだあるのだと思い直した。
「アユミさんもご丁寧にどうも。あなたももっとフランクで構わないわよ。このお店で堅苦しいのはなし。でも、嬉しいわ。いい子たちで。私こんなでそれなりの年だけど、タメ語で全然問題ないわよ。寧ろ気を遣わないで。」
アカネが早速飛びついた。
「じゃあ、オーナーさん、今日のおすすめ教えていただけますか?弟と母親と食べようかと思うんです。」
初見でありながら人との距離を縮めるのが上手い。
「あれ?親父さんは?」
「今日もまだホテル。土曜も追い込みで仕事あるんだって。例の公園、もう少しで開発が始まるみたい。」
ツキはそれを聞いて、もう時間がないことを知った。
「そうなの?いつからなの?」
「年明けだから、まだ時間あるよ。明日行くんでしょ?」
「うん、そのつもり。よかった。あ、ゴメン続けて。」
ツキは少し下がって二人とオーナーとの空間を作った。
「そうね、アカネちゃん、前回は秘密のショートケーキ買ってくれたんですってね?」
「え?知っているんですか?」
「二人とも何買ったのかツキちゃんに聞いているわよ。」
「オーナーはお客さんの買ったもの覚えていて好みとか把握しているんだよ。そこからオススメしてくれるからお任せって人多いよ。ちゃんと覚えてくれていたんだ。」
「へえ、すごいね。あたしもバイト始めたら見習わないと。でも、チェーンなんてそんな馴染み客と親しくなれるかな?」
オーナーは嬉しそうにアカネの肩を優しく叩いた。
「大丈夫。そういう気持ちあればね。それにね、チェーンだからって店員さんが作る雰囲気、店員さん自体が好きで通ってくれる人もいるはずよ。例え月に一度来るかって人でもね。逆に馴染み客ばかりだったら接客大変で疲れちゃうわよ。何より相手にとって心地いい空間づくりのほうが大事。相手のこと考えて、あなた自身がいい人になれば、きっと好きになってくれる人は現れるって。でもね、変に背伸びしたり、演技だと途中で行き詰まっちゃうわ。確かバイトは始まったばかりなんでしょ?まだまだ、これからよ。」
アユミは照れくさそうに二人を見て呟いた。
「ツキ、何だか、初めて会ったばっかりなのにいきなり励まされたちゃったね。」
ツキは嬉しそうだった。
「いいじゃない、オーナー何でも聞いてくれるよ。」
「ちょっとツキちゃん、何でもなんてハードル上げないで。」
アカネがそれだったらと試すように切り込んできた。
「じゃあ、今家のお父さんが私たちと気まずいんですけど・・・。」
際限なく話しを突っ込んでくると思いアカネが止めに入った。
「ちょっと、先にケーキの話しじゃなかった?買うの先に決めちゃわない?」
「そうね、じゃあ、改めて、オススメありますか?」
その日は二人と三時間は店でオーナーと話し込んでいた。途中常連が何人か来店して少し話し込んだりもしたが、先に帰って結局二人とも長居してしまった。大半は学校のこと流行り、お互いの好きなことや熱中していることなど自己紹介みたいな内容で、結局はそれぞれの身の上話になることはなかった。
「あ、結構な時間だね。すいません、こんな話し込んじゃって。アユミも大丈夫?」
「ええ、大丈夫だけど、あ、ホントだ、こんな時間になっちゃったね。オーナーさんご迷惑をおかけしました。」
「平気よ、私も楽しかったんだし。遠慮しないでね。こうやって若い子の感性に触れるのも刺激になって、ケーキづくりの参考になるんだから。」
オーナーはウインクをしたが、今ここに引くような者はいなかった。
「今日はとても楽しかったです。ツキが明るくなったのもわかりました。」
アカネはツキの肩を叩きながら目配せした。
「ありがとう。でもね、ツキちゃんが変わってきたのはあなたたちのおかげが大きいのよ。このお店に来てくれたころからかな、どんどん素敵になっていったわ。いいお友達ね。」
「そんな、素敵だなんて。」
ツキの頬は少し赤みを帯びている。
「そうそう、褒め過ぎると結構調子乗りますよ、この子。」
アユミが嬉しそうに横から突っ込んできた。
「ちょっと、オーナー、折角いいこと言ってくれているのに。」
「そうだよ、アユミ。ツキは陰キャからやっと卒業したんだから戻らないようにしないと。」
「ふふっ。みんな素敵よ。特にケーキ美味しいって言ってくれるところなんて。」
「まあ、本音ですからね。オーナーさん、私でもまた来てもいいですか?」
アユミはオーナーの反応を伺っている。普段は初対面の相手でも気兼ねすることなく話せるのだが、オーナーはツキにとって恩人ということもあり慎重だった。
「何遠慮しているの。是非来てね。何ならケーキ買うんじゃなくて、近く寄ったタイミングで顔出してもらっても全然オッケーだから。」
二人はいつもあっさりしているアユミが今日は珍しく食いついていたように思えたのには、オーナーと気が合っているのを感じていた。
「ありがとうございます。また、お邪魔しますね。」
「ツキ、じゃあまたね。月曜かな。クリスマスまでもうちょっとだね。太郎君にもよろしくね。」
「うん、伝えるね。二人とも、いつでもどうぞ。お待ちしていますよ。」
ツキは二人を店の外まで見送って、姿が見えなくなるまで後姿を見つめていた。アカネもアユミも最初は寒いからと見送りは断ったのだが、ツキは少しだけということで押し通して外へと出た。道を曲がる直前、二人は振り返って手を振ってくれた。さすがに冬の寒さは店の制服では厳しい。直ぐに店の中へ小走りで駆け込んで両手、二の腕を擦って冷えた身体を温めている。するとオーナーが温かい紅茶を提供してくれた。
「ありがとうございます。うう、寒っ。遠慮なくいただきます。」
「即席のポット保温のお湯だからそんなに美味しくないけど。」
「そんな、もう。十分美味しいですよ。」
ポットのお湯ということもあり沸かしたものほど熱いわけでもないが、猫舌のツキには息を吹きかけて冷ます必要があった。それでも直ぐに飲めるくらいで丁度よかった。途中から一気に喉へ流し込むと、身体の底から温まってくる。
「いい子たちね。アカネちゃんは気が利くし聞き役もできる。アユミちゃんははっきり言ってくれるだけじゃなくって、その後も引っ張ってもくれるわね。好きよ、そういう子たち。二人の個性って、引っ込み事案のツキちゃんにはぴったりかもね。あと、太郎君だっけ?何だかんだで一番話題に出る子。この子の影響も大きいんじゃない?」
ツキはいつの間にか太郎について色々と話していたことに気がついた。自覚はしていなかったが比率が高いと聞いて戸惑った。
「た、確かに太郎は一緒の時間が長いです。それに、バカでほっとけないんです。いつもトラブルを起こしたり首突っ込んで。」
オーナーは嬉しそうに続けた。
「そうね、そういう子が一番かわいいってね。ツキちゃんの母性に訴えてきているのかしら?それともお姉さん?」
ツキは太郎との関係については最近わからなくなっていた。最初は保護者として弟のような気分だった。それが、生活をともにして太郎の性格や行動を知るにつれて、年齢は関係なく一人の人間として知ることで新たな感情が生まれていた。同じ苦労や経験の共有、ときには意見の食い違いこそあったが、助け合ってきたことの仲間意識と、ある意味、家族としての位置づけをすることで納得させていた。
それが、最近では自分も友達も助けられ、逆にリードされることもあり、弟として見るには少し先にいる存在として感じていた。オーナーは無言で考えているツキの潜在的な考えを察したかのように、気持ちを後押しするかのようにさらに問いかけた。
「親戚じゃなかったら、もし歳が近かったら彼氏かしら?それとも一緒に何かを目指す親友かしら?」
実は、みんな悩みの答えはわかっている。自覚がなくとも誰かが形を描けば、それが答えになる。
ツキは耳まで真っ赤になり、思わずガラス窓に張りついて外を凝視した。
「ツキちゃん、私はふたりのことはまだ全然知らないけど、後悔のないようにね?」
周りに太郎については親戚で受験勉強とは伝えるだけで、年齢や交友履歴などを聞かれたことがなかったので誰もが疑っていないと思っていた。実のところアバウトな設定でおかしく感じることも多々あった。もちろん、オーナーにしても疑問点が幾つかあったが、そんなことはふたりには特段問題でもないと思い、また、あったとしても事情があるのだろうと追及はしてこなかった。それでもオーナー自身、突然現れた太郎という人間が気になり、ツキが変わったことの最大の原因であると確信している。今まで娘のように、ときには友人のように接してきたツキへの最大限の応援でもあり、これがオーナーのふたりへの最初で最後の質問だった。
「はい。私、まだよくわからないんですけど、もう少しで何かが終わる、そんな気がするんです。ある人にも言われました。そこが一つのゴールなんだって、そう思っています。」
外の風景を眺めながら、自分にも言い聞かせているかのような口調だった。
「そうなのね。想い描いた結果になるといいわね。」
日曜の朝、太郎はアラームで日が昇るより早く目が覚めた。今日はやるべきことがある、ツキに気遣うように静かに扉を開いたが、いち早く階下より朝食の準備の音が漏れていた。
「姉ちゃん、起きていたんだ?」
「あ、おはよう太郎。緊張かな?目覚ましより早く目が醒めちゃったよ。起こしちゃったかな?」
「いや、予定どおりに起きたよ。今日も朝食べてから行くんだ?」
ツキはエプロンをハンガーラックに掛けて、朝食を並べ始めた。
「そうだよ。こんなときだからこそ食べないと。途中で力が出なくなったら危ないよ。」
太郎はいつものように手伝い始めた。
「姉ちゃん、前から思っていたけど、細い割によく食べるよな。この前のレストランもそうだけど、昼は学食で食べてるって聞いたけど、そうなるとちゃんと三食は食べるよな?」
「そうね、本当はお昼も節約でお弁当にしたいけど、学食安いし美味しくて、毎日日替わりとか食べて抜かないよ。バイト前もたまにお腹空いたらコンビニで肉まんとか買って食べているよ。」
入学してから数日は弁当持参だったが、教室で一人食べるのも、例えアカネであっても誰かに声をかけられるのを避けたかったので、間もなく学食に切り替えた。しかし、最近では考えも変わっているのも自覚していた。
「間食って、マジかよ。それで太らないっていいよな。」
「そうでもないよ。これでも食べた分は後で運動とかして消費しているんだから。お店の制服って結構タイトだから着られなくなったら困るよ。それより、食べないことで大変なのは経験しているから、食べられるときはちゃんと食べる、それは悪いことでもないし、つい忘れちゃうけど、食べられることはありがたいって意識しているんだよ。」
話しながらも食べる準備が整い、ふたりは着席した。
「そうだよな。姉ちゃん、買い物は計画的だし、貰ったものはちゃんと無駄にしないで食べてるもんな。」
太郎はツキが食べられない時期があったことは、両親が亡くなったことや相続でごたついたのを聞いたので容易に理解した。実際どれくらいの期間かわからないが、すぐに空腹となる太郎にしてみれば、食べ物を口にすることが厳しい期間が数日続くことは想像しただけでも恐ろしかった。ましてや、無一文では食べ物を買えないこと自体が死活問題でもあり、現在の日本においては行政より何らかの助けがあるであろうが、それも行き届かない家庭があるのをメディアで知り、自身に当て嵌めると不都合なものしか想像ができなかった。
「じゃあ、食べて力つけようか。今日も頑張れるように。」
「おう、じゃあ、いただきます。」
「いただきます。」
今日の朝食のメインはトーストしたパンに目玉焼きと軽く炙ったハムを乗せたシンプルなものだった。後は野菜入りのコンソメスープ、副菜としてレタスサラダが添えられていた。しっかり食べるが、いざというときに負担にならないように備えてのチョイスであった。
太郎は目玉焼きにたっぷりとソースをかけ、サラダにもマヨネーズをまんべんなく塗りたくって食べた。ツキは初めてその量を目にしたときには驚いたが、改めて太郎と比較すると、自分もサラダには多めにドレッシングをかけているので注意することもなかった。それでも太郎の方は多すぎると思い、次のタイミングでは健康のために量を減らしてはどうかと提案したところ大分量は減ったが、気を抜くといつの間にかはみ出したドレッシングがテーブルを汚すくらいの量はあった。それでも、太郎なりには自粛しての量だった。
食事を終えて後片付けを行って、暖かいお茶で腹を落ち着けている間でも、まだ外は暗かった。
「太郎、眠くない?」
「最初ちょっとしんどかったけど、食べたら目が覚めたよ。」
「そう。何にしても、今日は一緒に来てくれるって、ありがとうね。」
「ああ、別にヒマなんで。それに気になるじゃんか。今度こそって思うと。」
「そうだね。そろそろ準備しようか。」
前日ツキはショルダーに石宝堂で購入したハンマーと発煙筒、それ以外にもカッターやドライバーにペンチと工具を幾つか詰め込み、風呂敷を折り畳んで準備をしていた。もし、絵画を持って帰ることになった場合、包むものが必要かと探した結果、テレビや漫画で見る柄の風呂敷しか見つからず、太郎に泥棒と笑われたが、他に思い当たらず持っていくことにした。
太郎は唯一のアウターのコートと、週一に洗濯の時だけ交換するデニムパンツ以外、着替えは一週間分を毎日ローテーションで変えるだけなので、それほど選択肢もなく時間もかからないので、先に客間でツキを待っている。
客間は冷蔵庫のように冷えていたが、エアコンをつけても温まるより先に家を出ることがわかっているので、冷たいソファーには座らず扉を開けて立ったままだった。思ったとおり、間もなく二階の扉が開閉する音に続いて階段を下りる音が聞こえてきた。
「お待たせ。エアコンつけないで寒かったね?」
「別に。」
ツキはレザーのシングルライダースにブラックデニムと動きやすい恰好を選んでいた。レザーだけでは防寒には厳しいので厚手のハイネックのニットとマフラーを首に巻き、マフラーの両サイドは垂れ下がって何かに引っかからないよう首元に軽く結んで纏めてある。髪はいつもの三つ編みや休日仕様の簡単に一本結びではなく、ポニーテールにしている。太郎から貰ったケープは、これからのことを考えると破損の恐れから身に着けなかった。
「女スパイ?」
「かな?今日はいっぱい動きそうだし、始めっから塀を乗り越えたり、ちょっと激しいアクションありそうだからね。森の中ってのも可能な限り軽装にしないとって思ったよ。」
太郎はツキと服装を見比べた。
「俺はいつものしかなかったや。」
「気にしないで。その下に着ているの、毎日変えていること知っているよ。」
「いや、そうじゃなくて身動き取りずらくって足引っ張んないか思って。」
「その恰好くらいじゃ、そんなことにはならないんじゃないかな。今から心配しないでもいいよ。困ったときに困ろうよ。」
「そうだな、いつもそうだったな。」
「そういうこと。それに太郎はそんな運動神経悪そうじゃないよ。走るの、私より早かったし。」
「そうだっけ?兎に角、日が昇る前に早く行こうよ。」
「そうだね。」
外に出ると夜の間に冷やされた街と、少しでも地球を早く回して朝を呼び込もうとしているかのように吹く風は、ふたりの頬をそっと撫でるように熱を奪って、その熱で代わりに何かを温めようとしている。
「うわっ、寒っみいぃ!」
「う、ホントだね。日差しが恋しいね。」
太郎は体を温めるかのようにゆっくりと走り出した。ツキも急いで鍵をかけて小走りで追いかける。
まだ薄暗い街に人の気配はない。まばらに設置してある街灯が点いているのが道標。まだ夜が明けないことを示している。まるでツキの母親の街のように、このまま誰とも出会わないのではないか、公園で再びレストランのようなことが起るのではないか、そうふたりを不安にさせ走る足を止めさせない。もし、誰かがふたりを見ることがあれば、こんな早朝にランニングをするには相応しくない恰好に違和感を覚えるだろう。しかしながら、一定のペースで並走する姿に、どんな理由で走っているのかを想像する人もいるかもしれない。
駅へ続く大通りに差し掛かるころにはふたりとも身体が温まり、息も切れていたので走るのを止め、クールダウンしながら歩き出した。白い息が何度も煙のように吐き出されて空に上がったかと思えば、すぐに周りの風景に溶け込んで見えなくなっていく。やがて、呼吸も穏やかになり、白い吐息も深呼吸すると一筋の雲が伸びたかと思えば、すぐに形を崩して消え去ってしまう。
空が少しずつ明るくなってきて、辺りの街並みの印影を薄っすらと浮かび上がらせた。
「ふうっ。寒かったけど、身体が温まると気にならないし、これって結構気持ちいいよな。」
太郎がコートの首元のボタン一つだけ空けて、火照った身体と衣服の間に籠った熱気を逃がしている。
「うん、本当に。今日は特別だけど、たまには早起きして外出るのもいいよね。この街が色づいていくの、好きだな。」
ツキもマフラーを外して形を整えて再度首に巻きつけた。隣で太郎が視察で覚えた公園までの道を見つけ指し示す。ボタンを閉じて気を引き締める。
「あの道を曲がれば例の橋まで行けるよ。」
「じゃあ、もうすぐだね。」
今まで長年慣れ親しんだ街でも、用事や目的がない限り大体は同じ道ばかり通るので、初めて行く場所については未知の部分しかない。一度通ってしまえば今後のショートカットや、余裕があるときに散策する気にもなるのだが、その一歩のきっかけがないことがほとんどだった。
橋までの道はメインストリート並みに広く、以前は公園目当てに人の往来も多かったのか、来客目当ての店が何件も立ち並んでいる。営業時間外ではなく、閉店のシャッターこそ閉まっているが、かつては賑わっていたことを想像させる。
「こんな通りあったんだ。全然知らなかったな。その公園も何となくあったのは知っていたけど、行ったこともなかったよ。この前近くを走っても思い出さなかったな。」
「そうなのか?地元の奴らは行ったことあるかと思ったよ。」
ふたりは並んで、少し早歩きで歩を進めていた。
「私が物心ついたときにはもう寂れていたのか、特に行くほどのものは何もなかったのかもしれないよ。寧ろ、私の世代は遠足で行くとなると、あの海とか、山の麓の集落跡に春は桜、秋は紅葉を見にいくのがお決まりだったからね。」
「そうなんだな。まあ、この前見たテレビの受け売りだけどさ、公共物なんて開発入ったらちんたら何年もかけてあれこれやってさ、立ち入り禁止のまんま何年も隔離され放題なんだろうな。やっと動き出しただけマシかもな。」
「ホント、そうだよね。だからボート小屋もマンション建つ目途がつくまで撤去されずに残っていたんじゃない?」
「ああ、そうか。ある意味それで残っていたんだからラッキーかもな。橋も取り壊されていたのが新しく架けられたのは助かるよな。それに、嫌なこと思い出すけど、アカネ姉ちゃんの件があったから、アカネ母ちゃんからヒントになること聞けたっていうのも偶然か必然か。でもさ、開発間近っていうからこれが最後のチャンスだろ?」
ふたりは早歩きしながら顔を見合わせ、太郎が拳を握って片腕でガッツポーズをツキに差し出した。ツキも同じようにガッツポーズをして太郎の拳に軽く当てた。
「これって、桜子さんが言っていた時期が引き寄せるってやつかな?」
「知らね。けど、俄然やる気出てこない?テンション上がるね?」
「だね。今やるしかないって感じ、悪くないね。」
話している間に、ふたりは公園前の橋に差しかかった。橋の向こう側には長年手入れをされていなかった木々が森のように影を潜めている。橋は真新しく四車線はあろうかという広さと、大型重機も通れそうなくらいの鉄筋で作り上げられた重厚さは、公園への橋渡しというよりは基地への入口を思わせる。
先日ふたりが橋を架けたポイントまでのルートは、公園の周りを取り囲む川沿いに行くのがもっとも早く、目的がはっきりしている今回は迷って余計な時間をかけずに行けそうだった。
ふたりは再び小走りで川沿いを走り出した。辺りに人影は見当たらず、川の向こうから警備員が、ランニングには似つかわしくない恰好のふたりを不審に思って注視する気配も今はない。
再び身体が温まって汗ばむかと思われるころ、侵入地点となる先日架けた橋が見えた。ここは用事がないと誰も通らない道のようで、幸い今日まで関係者に見つかり撤去されることもなかった。
橋を渡ると空の気配が変わってきた。朝の空は明るくなり始めると日が昇るまでが早い。遠く地平線で空と地上を引き裂いた切れ目から日の光が差している。
「太郎、急ごう。」
「おお、思ったより時間かかったな。」
ふたりは森に入り、フェンスを目指してひたすらまっすぐ進む。方向は合っているようで、間もなく森を抜けて目の前にフェンスが現れた。高さはツキが手を上げたより少し高い。フェンスの向こう側では、所々に長年手入れをされていない木々が思い思いに自由に四方へ伸びて育ち、低木も後から追って生い茂る風景は再び森へ戻るかのように感じるが、幸いに荒れ果ててはいるがアスファルトの歩道が残っているのは、目的地へ向かって歩くのにかなりの助けになる。
フェンスは太郎の報告どおりコードが張り巡らされていたが、天井部には鉄条網が何重にも設置してあることまでは聞いていなかった。
「あんなのあった?」
「いや、入口側にはなかった気がするな。」
「こっちは詰所から遠くて目が届きにくいから厳重にしているのかな?あのコード、何かを感知してフェンス越えようとすると、管理室とかに通報もいきそうだよね?早いとこあのトゲトゲ何とかしないとね。」
「悪い、そこまで見てこなかった。」
「悪くないよ。こっちは違うだけ。あれくらい全然問題ないよ。」
ツキはショルダーの中からペンチを探して取り出した。
「太郎、これ、使えるんじゃない?」
「おお、準備いいな。こいつなら邪魔なあいつをちょん切れそうだよ。」
「じゃあ、肩車するから頼めるかな?」
「えっ、俺が?」
「そうだよ。太郎が私を肩車する?」
太郎は色々と想像している。体重はツキのほうがあるような気がするが、背の高さではやはり太郎が下ではバランスが悪そうだった。それ以前に、ツキを肩車すると足の感触など想像してしまい妙に照れくさく恥ずかしかった。
「いや、俺が乗るよ。じゃあ、それ貸して。」
太郎はツキからペンチを受け取ってフェンスの前に立った。
「じゃあ、いくよ?」
ツキが太郎の後ろで身を屈めて準備している。
「ああ、頼むよ。」
その合図とともに、ツキが太郎の両足を肩に乗せると近くの木を頼りに立ち上がり、一気に太郎の身体が持ち上がる。
「うわあ!姉ちゃん!もっとゆっくり!」
思わず太郎の身体がのけぞって、ふたり揃ってエビぞりになりそうになったところで、ツキが大地を踏みしめて再び木を支えに体制を整えた。
「ゴメン、肩車なんてしたことなくて、気合入れすぎちゃった。」
「い、いや、大丈夫だけど。意外に姉ちゃんって力あるんだな。それにちょっと背もあるから眺めもいいや。」
「う、そうでもないよ。結構、太郎、重い・・・。早く、ね?」
ツキよりも背が低いのと、年下で自分より軽いことは想像していたが、思いのほか体重があるようで汗が噴き出してきそうなくらい体力を使った。肩に乗っかっている足もしっかりとしていて筋肉のつき方も違うのを感じ取り、やはり男子なのだと改めて実感した。
太郎はフェンスに触らないように細心の注意を払いながら、手にしたペンチで邪魔になる鉄条網の左右を切って乗り越えるためのルートを開いた。ペンチをポケットに突っ込んでツキへ合図した。
「オッケー、降ろして。ゆっくりと・・・。」
最後まで話すより早く、ツキは一気に力が抜けて勢いよく太郎の身体が急降下する。途中でツキの身体が片膝を着いた時点で止まり、両足の着地より早く太郎の股間がツキの頭に着地したようで、下腹部に激痛が走った。太郎は思わず言葉を失って、ツキの肩からよろめくように降り、そのまま地面に四点ポジションをつく体制となる。ツキも後頭部を何かで叩かれたかのような痛みでその場にしゃがみ込んでいた。
「痛たたた。太郎、大丈夫?」
痛みをこらえながら太郎を見ると、小刻みに震えているのが見えた。
「どうしたの?落っこちちゃった?」
太郎は答えに困りながら震える声でツキに懇願した。
「頼む・・・。腰をグーで叩いてくれ・・・。」
意味はわからなかったが、ツキは拳を握って太郎の腰骨の辺りを何度も叩いた。
「どう、腰やっちゃったの?痛みは?」
「ああ・・・。そんなところかな・・・。フリーフォールでやっちまったっていうか。ああ、楽になってきた。何となく嫌な予感はしたんだけど、的中しちまったよ・・・。」
朝靄の中、ドスドスと太郎の腰を叩く音が響いて木々に吸い込まれていった。
「もういいよ。大丈夫。」
「ホント?ケガしてない?」
「それはない。男心が傷ついたくらいだよ。」
「えっ?それって精神的ダメージってこと?私?太郎、何かやらかした?」
本当に事態がわからないツキがおかしく思え、このまま続けるとややこしいと思い話題を切り替えた。
「もう平気、気にすんな。何とか持ち直したよ。それより、もう明るくなってきたよ。」
日が昇り始めて、今までフィルターをかけたような世界が一気に現実となって、お互いの顔がはっきりと見える。
「急ごう。先に俺、行くよ?」
そう言うが早いか、太郎は猿の如く器用にフェンスを登り始めたかと思うと、頂上から折り返して向こう側へと入り込んで、半分まで下りると後ろへ飛び退て着地した。
「姉ちゃん、いけそうか?」
ツキは頷いてフェンスを登り始めた。太郎と同レベルと器用にはいかないが、それでも着実にフェンスの頂上へと辿り着いた。逆に下りるほうが足元を確認しづらく難しく、先ほど太郎が行ったのを思い出しながら梯子を下りるようにフェンスを下って、ツキもフェンスの中に入り込んだ。
「太郎すごいね。こんなの、簡単にこなしちゃうなんて。」
「そうか?こういう遊びかなんかやっていたのかもな。思ったよりあっさりだったよ。さ、そろそろ管理室とかで感知して、向こうさんも動き出すんじゃないのか?早く行こう。」
ふたりとも目的地のボート小屋があると思われる方向へ走り出した。幸い、コンクリートで整地された歩道は、老朽化して破損していても歩いたり走るためには十分機能している。足場の裂け目から雑草や低木が生え、中には何年もかけて成長した、人間よりも高い木が生えている場所もあったが、歩道自体が広かったので、木を避ければ別の道を探すこともなく進める。
「なんか、すごいね。廃墟っていうかディストピア感するよ。」
ツキが物心つくころにはすでに封鎖されていたことを考えれば、十年以上は人の手が入らない空間は、緩やかに自然に還ろうとしているようだった。案内の標識は、ツタや何かの植物に覆われて緑に取り込まれている。所々に設置してある木製のベンチらしき物も朽ち果てて傾いて完全に形を失っている。
辺りから聞きなれない鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「これって何の鳥?ジャングル入ったわけじゃないよな?猛獣なんて出ないよな?」
「まさか。それでもホントに雰囲気あるよね。鳥の声って、意外に聞いたことない鳴き声も時々街中で聞かない?そんな鳥が住み着いているのかもね。それより、朝早いのもあるけど空気美味しい。公園として残っているより、これはこれで悪くないな。」
「俺もそう思う。公園ってそんな好きじゃないよ。何ていうか、都会に自然なんて言っているけどさ、所詮、人間たちが無機質に囲まれて息苦しいから、人工的に作った休憩室って感じがわざとらしいよ。だったら普通に山とか海行きたいって思うわ。」
「へえ、そう思うんだね。何だか納得。私、公園自体あんまり行かなかったからなあ。普通に開けた空間があるくらいで、そこまで考えていなかったなって。」
「まあ、この一か月くらいで感じただけの話しだよ。思い出の公園なんて思い出せないからそう感じるかもな。だけど、姉ちゃんの感想もわかる。」
ツキは太郎と最初に会った公園を思い出したが、太郎はその公園は記憶にはなく、ツキと会った海を思い出している。
ツキと太郎は前を向きながら並走し、ときには道を塞ぐように茂った低木を加速つけて跳び越え、道の中心に陣取る大木をスピードを落とさず左右に挟み込むように躱しながら進むと、突然視界が開けた。
サッカーコートの広さはあろうかという空き地にツキが頭まで余裕で入る深さの窪地が広がっている。一見すると歪な楕円形に思えたが、中心部には窪地を二等分するかのように、凹んではいるが一本の道らしきものが通っている。
「姉ちゃん、これってチンピラたちが言っていた瓢箪池の跡地じゃない?」
「うん、きっとそうだよ。あの真ん中の道、元々橋じゃない?池は埋め立てられたみたいだね。」
「ああ、この近くに小屋があるんじゃないのか?」
航空写真で見たとき、木々が小屋の周辺まで進出していたのでふたりのいる場所からは建物らしいものは見えない。
「ちょっと待って。」
ツキはスマホを取り出して再び公園の航空写真を開いた。
「今この道だと思うから、もっと西、あそこにもう一本道があるはずだからその近くにあるみたい。」
ふたりは西方面を見回すとある部分だけ他より木が少なく、何本かはまだ背が小さい木が立っている箇所を見つけた。
「あ、あそこじゃないかな?太郎、行ってみよう。」
「待って!姉ちゃん。」
太郎は突然、ツキの手首を掴んだ。太郎の指し示す方向、湖跡地の対岸に二人の人影がこちらへ走ってくるのが見えた。服装から明らかに警備員とわかる。
「おい!お前ら!ここで何している!」
二人のうち背の高い体格の良い男が叫んだ。明らかに予想していたセリフだった。
もう一人も叫んだ警備員より背は低いが広い肩幅からから体格の良さがわかる。二人とも何らかのスポーツか格闘技を習っており、バイトではなく本業として、それも荒事もこなせるような万能さも持ち合わせていることを想像させる。
「すいません、私たちはこの公園に用事があって・・・!」
ツキは大声で叫んだが、警備員の表情はさらに険しくなり一段とスピードを上げる。このまま話し合いが通用することは不可能と暗に答えている。このスピードでぶつかられたらまるでタックル、ひとたまりもない。おそらくそのつもりで突っ込んでくるに違いない。
「無駄だよ、姉ちゃん!通じない!今は逃げよう!」
言うが早く、太郎はツキの腕を引っ張り、ボート小屋があると思われる近くの横道へと駆け込んだ。再び木々の間へ侵入する間際、古ぼけた木造の小屋のようなものが一瞬視界に入り込んだのをふたりは確認した。
「また、このパターンだね!」
公園に入って短時間とはいえ、今まであらゆる障害物を乗り越えてきたばかりのふたりのほうが警備員よりも道に慣れたようで、距離は少しずつ離れていく。警備員は森の中で侵入者を追いかけるのは不慣れであった。メインの仕事は定期的なフェンス外の見張りがほとんどで内部の細かい地理にも疎い。過去、フェンスを越えようとした侵入者は好奇心と遊びでリスクを冒す必要性のなさから諦めるか、駆けつければ直ぐに逃げるかで、滅多に園内での追跡劇などは起きなかった。
森を抜けてフェンスまで戻ってくると、後ろには警備員の姿は見えなくなっていた。
「あいつら撒いたかな?」
「まだ追ってくるかも。隠れたほうがいいかな?」
「うーん・・・。」
森の中に隠れたままでは目的地へ辿り着けないのもわかっている。直ぐ傍には公園が機能しなくなってから自由に生えた低木が茂っていた。その奥に立つ大木の中でも大きい部類と思える二本の裏にそれぞれ背筋を伸ばして身を隠している。ふたりで耳をすまして気配を探る。人が走ってくる足音や呼吸音、木の枝に身体が擦れる気配はしなかった。
「どうしよう。湖跡まで戻っても隠れて待ち構えているかもしれないよ。」
「ああ。あいつらプロっぽいよな。捕まったら一発でアウトだろ。それでも、慎重に周囲見ながら戻るしかないよな。」
このまま警備員が諦めるまで待つのも考えたが、監視カメラが何台か設置されていれば、どこにいるかは大体特定される。気配を殺していつ後ろから襲われるかもしない可能性を考えれば、ふたりの選択肢は〈行動する〉以外なかった。
「そうだね。ゆっくり、行こうか?太郎も後ろ注意してくれるかな?ふたりで左右の森に注意しながら。」
「了解。もし警備員に出くわしたらお互い別れて逃げよう。少しでも時間稼げるし、最悪共倒れはないだろ?夜と違って暗くないから目標はわかるだろ。」
「それじゃあ、小屋へ行けるのはひとりかもしれないよ?」
「問題ないよ。先に着いたほうがとっとと手掛かり探してここを出れば。見つけたら連絡すれば後は帰るだけだろ。園内で合流するより安全だよ。」
「そうだね。目標は絵で間違いないよね?きっと。もし絵があってもなくても探索終了って一文だけで十分だよね。そしたら公園出て家へ戻ろう。」
ツキは早くこの場を離れたかったが、今思いつく案はそれしかなかった。
「了解。じゃあ、行こうぜ?早く行かないとあいつら、何処から来るかわからないな。」
「そうね、何かサバイバルだね。」
ツキも太郎も追いつめられる側でありながら恐怖より、まるで鬼ごっこのようなスリルを楽しんでもいる。
方角的には侵入した地点より離れるようにフェンスに沿って歩くと、再び森に入る歩道があった。事前に頭に叩き込んだ大まかな地形では、公園の外周を円状に縁取るような道に囲まれ、公園のほぼ中心に池があり、そこから放射線状に何本も道が広がって外周まで伸びている。外周を辿って園内へ続く道を見つけたら、その道を真っ直ぐ進めば池に辿り着くことができるはずだった。
ふたりは少し間隔を空けて縦に並んで、再び森に入っていった。五感を研ぎ澄ますと、朝の静けさと冬の澄んだ空気が遥か遠くの物音まで運んでくるのが聞こえるようだった。時々立ち止まり、足音も気配も消して、周囲へ神経を張り巡らせると自分も草木の一部になったように感じられる。
かなりの距離を進んだが人の気配はしなかった。
「誰も見当たらないな。あいつら横の茂みから急に現れないよな?」
それでも、左右の茂みに潜んでいる気配は感じない。やがて視界は開けて再び池の跡地が見えてきた。手前の木陰に身を隠して周囲を見回したが人影は見当たらなお。
「小屋はあの辺だったよね?」
「ああ、違いねえな。どうせあのカメラでばれているんだろうな。」
「えっ?あ、あれ?」
目を凝らせば森の中に不自然に光るものが点在し、ツキは目が合ってしまった。現在地からは橋の跡地はそれほど遠くなく、そのすぐ傍に最初逃げるために入り込んだ脇道が見える。
「じゃあ、一気に走るね?」
すでに居場所は割れた。遠からず警備員たちはふたりを追ってくるに違いない。ツキはこのまま再び森に逃げ込んで状況を見ていても、追いつく時間を与えるだけだと悟り意を決し太郎を見た。太郎も同感で頷いた。
「じゃあいくよ?せーの!」
ふたりは一気に駆け出し、橋のすぐ傍を目指した。森に近づきすぎると、潜んでいる警備員が飛び出してくるかもしれないため、つかず離れずの距離を確保しながら走り続けた。お互い示し合わせたわけではいのだが、何度も危険な目にあったことからの危険察知を無意識に身につけていた。頭をフル回転させてあらゆる危険なパターンをシミュレートして導き出した行動だった。間もなく、ある意味期待外れなほどあっさりと小屋の道へと辿り着いた。
「ホントに何処行ったんだろう。不気味だね。」
「考えている暇ないよ?チャンスと思って早く行こうぜ。」
「そうだね。」
道を少し入ったところに、まだ若く真新しい細い木々に囲まれるようにして小屋は隠れ潜んでいた。背の高い雑草をかき分けて、木々を避けて入っていく。
何年も放置された古ぼけた小屋は全体がツタに覆われ、苔が生え、木造の家屋は今にも腐り落ち倒壊しても不思議ではない。ふたりの想像とは違い、小屋は特に閉鎖されている形跡はなかった。扉はチェーンや錠前などで封をされてもいない。誰かを招き入れるよう、ずっと待っていたようだった。
「じゃあ、入るよ。」
太郎がそっとドアノブに手をかけた。しかし、どんなに回そうとしても、まるで何かで固定されたかのように動く気配がない。扉を押したり引いたりすれば腐った脆い所を壊しながらでも開くのではないかと思い、乱暴に力を込めて押すも引くも試したが、動く様子も扉自体も壊れる気配がなかった。
「どうなってんだ?ちょっとこれは実力行使だよな?やっちまおうぜ。姉ちゃん?」
「うん、やるしかないか。」
ツキはショルダーからハンマーを取り出しドアノブの横、内部には鍵が仕掛けられている部分を壊しにかかった。腐りかけた木を壊すなど造作もないことに思われた。ところが、何度ハンマーを打ち付けても一向に壊れるどころか、傷つくこともなかった。扉を叩く音も木を叩く音ではない。まるでプラスチックのような無機質で、それも硬いものと柔らかいものの中間の何かを叩くような音が鳴り、力は吸収されるだけの無反動の不思議な感覚が手に走る。
「なんだよ?駄目なのか?」
「どうなっているの?これって何でできているんだろう?」
ツキが扉に触れたそのとき、一瞬の間に薄明かりのさす空は一面の青空に、大地は緑の芝生が地平線まで広がって、ふたりを取り囲んでいた木々は恐ろしいほどのスピードで遠くへと逃げていく。まるで小屋を中心に空間が広がっていくようだった。状況を確認する間もなく、小屋とふたりを残して認識できる空間には何も存在しなくなっていた。空には太陽ではなく不気味なほど大きな白い月が浮かんでいる。太郎を初めて見つけた夜の月も普通ではないのを何故か急に思い出した。
「姉ちゃん!これってまた?」
「わからない!でも、私たちに関係する何かがあるのは間違いない!」
「マジかよ?空間がおかしいんじゃないのか?どこへ迷い込んだんだよ?俺たち?」
ふたりは唯一取り残された小屋の前で周囲を見渡し、事象の把握に努めた。それでも理解が及ばない。
「これって、姉ちゃん家で桜子が見せた宇宙空間の森パターンみたいじゃねえのか?」
「ああ、そうだね。よく覚えていたね。」
「おいおい、もう忘れちゃったのかよ?」
「あ、いや、忘れたわけじゃないけど、もう気にならなくなったっていうか・・・。」
「はあ、姉ちゃんらしいな。気にならなくなったんじゃなくて当たり前のことになったんじゃないの?」
「うーん、そうかも。だったら、目の前に目的地もあるし、進んでみるしかないよね。」
「まあ、そうなるわな。戻れるかなんて微塵も考えてない感じ。」
「そこは後で考えよう。他に行く場所なんてないから。」
(この人、こんなとき強えぇわ。)
ふたりが意図せずほぼ同じタイミングで瞬きをすると、小屋の周りにモノクロの風景が浮かんだ。木々もモノクロで、まるで白黒写真や昔の映画を観ているようだった。その世界では、今まで小屋を取り囲んでいた森は池の畔をさらに一回り大きくするくらいまで開け、いつの間のか池の水が満たされて、橋も架かっている。遠目にも池の形が円形をふたつ並べているのがわかるまで形がはっきりしている。湖には何艘かボートが浮かんでいるのが見えた。
「姉ちゃん、この風景、今とは違う、まさか昔の公園?何かの映像か?」
「そう、だよね?まるでそこにあるみたい。私たちはこの空間に入り込んだのか、映像を観させられているのかな?」
「ああ、やっぱり桜子に見せられた、あの宇宙空間みたいなの思い出すな。」
ふたりは状況把握のため辺りを見回し情報を回収する。モノクロで半透明な人たちが現れては消えてを繰り返し始めた。楽しそうに談笑しながら歩いている家族、追いかけっこをしながら橋を渡る子どもたち、手を繋いで池の周りを歩くカップル。中には無表情で目的もなさそうに歩いている中年男性や、ひどく背中の曲がった老婆、迷子になったのか泣きながら森への道へ入っていく子どもまで、さまざまな人間模様が展開されていく。再び小屋へと視線を移すと、いつの間にか朽ちかけた小屋は真新しく、最近建てられたかのような様相でそこに建っていた。
「何か、怖い・・・。」
「姉ちゃん、落ち着いて。危害はなさそうだよ。」
太郎は少し強くツキの手を握ったが、本人もこの不思議な空間に得も言われぬ恐怖を感じていた。ふたりの存在自体もモノクロの空間に溶け込んでしまいそうな、このままこの世界の住人になってしまいそうな不安に支配されている。
何をすべきかわからないまま目の前の風景を眺めていたが、遠くから一人の女性が近づいてくるのが見えた。その女性だけは消えることもなく近づいてくる。
「お母さん?」
ツキは確かめるように呟いた。
「えっ?姉ちゃんの?」
「うん。写真で見た、若いときみたい。」
髪はロングのストレートで愁いを帯びた表情は、太郎が初めて会ったツキに雰囲気が似ている。服装が半袖のワンピースなのはこの世界が夏かそれに近い暑い時期だろう。突然のことで、他の人たちの服装から季節まで意識していなかったことがわかった。ふたりが肌に感じる冬の寒さが情景とかみ合わない、この違和感が一層不安と恐怖を煽る。
その女性はふたりが見えていないようでどんどんツキに近づいてくる。ぶつかろうという距離まで来ても歩みを緩めず、ツキは思わず飛びのいて道を譲った。
「姉ちゃんが見えてないのか?」
「そうみたい。」
ツキの母親と思われる女性はドアノブに手をかけると、先ほどまで何をやっても壊れることもなかった扉が簡単に開いた。
「太郎、今だよ!」
ふたりは母親の脇をしゃがんですり抜けるようにして小屋の中に入った。母親は反応もせず、何も感じないように扉を閉めた。すると、辺り一面が真っ暗闇に閉ざされ、何も見えなくなってしまった。
「おい!何も見えねえぞ!ツキの母ちゃんは?電気点けてくれよ?それになんか臭くないか?」
太郎の声に誰も答えることはなく、明るくなる気配もない。下手に動くと何があるかわからない恐怖から、目が慣れるまでその場で待っていたが、一向に漆黒の暗闇から変化は見られなかった。
太郎は少し手を広げてみると右手が壁のようなものに当たった。恐る恐る手を動かし、壁らしきものを触って形を確かめると、どうやら壁ではなく太郎の胸の辺りまでの高さの台らしき物だった。
「姉ちゃん気をつけろ、右手側に何か障害物あるみたいだ。」
「了解。動かないでちょっと待ってて。」
ツキはライダースのフロントジップを開けて内ポケットからスマホを取り出して、暗闇の中を手探りで電源をつけモニターを見た。いつの間にか圏外になっていたが、今、通話や通信は必要ない。ライトのボタンを押して目の前を照らした。わずかな光は懐中電灯には及ばなかったが、この状況ではとても頼りになる。
壁際にライトを向けると部屋の照明のスイッチらしきものが浮かび上がった。今いる小屋は果たして現実世界か過去の世界のものか。どちらの小屋でも電気が通っているとは思えなかったが、それでも何もしないよりは行動すべきと、恐る恐る近づいてスイッチを入れると部屋が明るく照らし出された。
先ほどまでの新築のような外観とはうって変わり、部屋の中は荒れ放題で、木材の壁は経年劣化で黒く変色し、中央のテーブルも湿気やカビで腐り切って、今にも脚が折れて倒れそうだった。
「うわっ、何だよ!気持ち悪りいな!」
足元もあちこち床が凹み、蜘蛛の巣も室内にまんべんなく張り巡らされ、まるでお化け屋敷か外国のホラー映画に出てくる風景が広がっていた。
室内を見回すが母親の姿は見当たらない。
「太郎、急いでそれらしいの探そう。」
「ああ、とっとと見つけて、おさらばしたいよな。」
部屋は管理室兼来客用で入口脇にはカウンターがあり、その裏にはレジらしきものや腐り切った書類が収められている棚が置いてある。先ほど太郎が触って確かめたのはこのカウンターだった。ここでボートの管理と貸し出しの対応を行っていたのだろうか、よく見ると壁には公園の地図や観光案内のポスターが貼ってあり、ジュースやファーストフードの自動販売機も錆にまみれて置かれている。
半分森に飲み込まれていた外観から内部の広さはわからなかったが、実際に中に入るとそれほど広いわけでもなく、家族連れが三組は入れる十畳くらいの広さだった。
「なあ、絵はありそうか?」
「あるんだったら壁に飾ってあるのがセオリーだよね。」
ふたりは部屋の壁を隅々まで調べたが、母親の絵画と思われるものは見当たらなかった。
「隣の部屋行ってみようぜ?」
他には正面奥に中央と右端に二つの扉がある。まず中央の扉を開けて電気を点けると、そこは休憩室のようだった。隣の部屋より一回り狭く、テーブルと椅子の数から六人休めるほどの広さだった。入って左手には大人の背丈より小さな食器棚の隣に、一人暮らし用の冷凍と冷蔵がワンセットの小さな冷蔵庫、その上に置かれたレンジといった、よく見る組み合わせがある。奥のテレビ台には変わった形のモニターらしき物が置いてある。
「何だこれ?パソコンにしちゃあモニターだけみたいだし?やけに四角いな?」
「ああ、これって昔のテレビだよ。太郎は知らないんだよね。ブラウン管って名前なんだって。昔、テレビは薄くなくて、こんな箱みたいだったんだよ。」
「へえ、何かこの形はデカくて邪魔くさいよな。(そんな歳、離れているか?)」
「昔は私ん家にも残っていたんだけど、使ったのは見たことないなあ。そのとおり場所取るからいつの間にか処分していたよ。建て替えのとき、他の荷物と一緒に紛れて持ってきたと思う。何だか懐かしい。あ、それより、早く探そうか。」
広い部屋ではないので直ぐに絵画が無いことはわかった。食器棚や冷倉庫の中も探したが、特別目を惹くものは何も見つからない。
「特にないみたいだね。」
「ああ、そうだな。次行こうか。」
再び管理室へと戻り、端にあるもう一つの扉を開いた。扉を開けて近くにあるスイッチを押して電気を点けてみると、そこはトイレだった。他の部屋と同じ老朽ぶりは納得だが、トイレという性質上、汚れているだけで一層不快感が増す。ツキは悪臭がするわけではないが、思わず口を手で覆った。ツキは部屋には入らずに中を見渡した。
「う、予想どおりの汚さだよ。よくトイレに絵を飾ってあるの見るけど、あったらあったで何か嫌だな。」
「まあ、それでもあるならマシじゃん?それにしても、用足しながら見る絵って・・・。」
「確かに。見たところ何もなさそうだけど・・・。」
太郎もトイレの中を吊り棚の中も含めてすべて調べたが、特に気になるものはなかった。トイレの扉を閉めて太郎は再び部屋の中を見渡した。
「結局、何もなかったのか?それじゃあこの異変は何なんだよ?」
「お母さん、まるで誘っているみたいだった。だから、きっと何かあるんだと思う。」
「これだけ見て絵一枚見つからないんじゃあ、他に何があるんだろ?」
ふたりはどこを見るともなくそれぞれ考えを巡らせる。
「そもそも、私のきかっけが親の絵っていうのが違うんじゃないのかな?それって、ただの先入観に引っ張られていたのかもしれない。親の職業、家から無くなった絵たち、特にヒントみたいに客間にあった絵と、このボート小屋にレストランの件。今回の件には全部関係があってここまで来たのには間違いはないんだと思う。でも、よく考えてみれば、探しているものは何かはっきりしていなかったよね?」
「確かにそうだ。勝手にそう思い込んでいたよな。関係ないことないけど、姉ちゃんの母ちゃんがここに何かあるって教えてくれていたようなもんだよな。絶対何かあるって。絵って線は捨ててさ、もっとよく探そう。姉ちゃん自身に関係ある何かを。」
ふたりは再び部屋の中をしらみつぶしに調べ始めた。そもそも廃棄が決まった小屋内に残されたものはゴミや不要なもので、価値のありそうなものは見当たらず、調べるような場所は多くはない。
「あっ!あの変な時計、さっきまであったか?」
太郎が指し示した壁の上部に小型の柱時計が時を止めたまま、こちらを見ているかのように掛けられてある。長年放置されていたようで斜めに傾き、少しの振動を与えただけで柱から落ちてしまいそうだった。
「あれって、私の家にあるものと同じ?形自体珍しいから、そうそう同じのはないと思うな。だからきっと目についたらまず気になると思う。特に私は。だからさきは無かったはず。」
ツキは背伸びしてその時計を壁から外した。外した時計をテーブルに置こうとしたが、乗せた振動だけで脚が折れるのではないかと思い、入口のカウンターに置いた。
ツキは時計を見入っていたが、疑惑が確信に変わったようだった。
「間違いない。これって家にあるのと同じだよ。私の部屋の時計以外はこれしか見ないから形覚えている。」
「じゃあ、何か思い出したりした?」
「特にこれっていうのはないかな。ちょっと調べてみるね。」
ツキは裏面までまんべんなく調べたが、それらしい変化は見つからなかった。
「中はどうなっているんだろう?」
簡単に開かないよう脇の鋲にL字型の金具でロックがかけてある。ツキは恐る恐るロックを外し、できるだけ時計を遠ざけて、ゆっくりと中を開いた。太郎も今までの流れから、開いたら何か出てくるのではと思い、警戒しながらツキの一連の動作をわずかな異変も見逃さないよう注視したが何も起きなかった。ツキも取り越し苦労を安心し、開かれた時計をカウンターにそっと置いて、ふたりで中を覗き込んだ。蓋の裏側には歯車などの機構が見受けられ特段問題はなさそうだが、本体の内部に鍵らしきものが入っていた。ツキは何度か爪先でつついて不審な点や変化が見当たらないことを確認してから手に取った。
「何だろう?鍵?だよね?」
その鍵はツキたちが使っている家の鍵とは形状が異なる古いタイプ、アクセサリーなどで見かけるクラシックキーだった。しかし、先端の凹凸が欠けて役割を果たせそうにない。
内部を改めてよく見ると本体下部に引き出しのようなものがついており、鍵穴も見つかった。小さなリングの引手もついていることから引き出しとして使うのは間違いなさそうだった。
「ここに使うんじゃないのか?この鍵?」
太郎が引手を引っ張ると簡単に開いた。しかし、中には何も入っていなかった。
「あれ、引き出しも壊れているのかな。簡単に開いたけど何も入っていないよ。だから、鍵も一緒に入れて置いたのかもね。そう考えるとこれって、ヒント教えてくれているようなものじゃないのかな。」
「ああ、家の時計もこいつで開けろってか。とは言っても、ご丁寧に鍵壊されてたらどうしようもないよな。最悪時計壊せば問題ないんだけど、嫌な予感がする・・・。」
「だよね。きっとよくないこと起こるよね。ここまでして鍵とヒントくれたのは、鍵は直せる方法あるってことじゃない?」
「こんな古い鍵をか?そもそも元の形わかんないと直しようがないと思うけど?」
「そこだよね。鍵屋さんだってこんなに古い鍵自体取り扱ってないんだろうし、形がね・・・。街に鍵屋も古時計屋もあったかな?」
「姉ちゃん、どこで買ったかわかる?」
「あ、そうか。石宝堂で買ったんだよ。ご主人さんなら何かわかるかもよ。」
「そもそも、この時計が何なのかわからないし、家のと関係あるかもわからないけど、この鍵は持っていって見てもらえば何かわかるかもしれないよな。」
ツキは太郎に鍵を手渡して、時計を閉めロックをかけて元の柱に掛けようと近づいた。
「姉ちゃん、そんなことしなくても。もうここは廃棄で取り壊されるだけだよ。」
ツキは時計を元の位置にまっすぐに戻して眺めていた。
「うん、わかっているよ。けど、最後だからいいじゃない?本当はネジもあったら巻いてあげたかったけど入っていなかったよ。家のは中に鍵じゃなくてネジ入れてあるんだ。そういえば、そんな引き出しや鍵穴なんてあったかな?見ようとしていなかったのか、意識していなかったのかな?」
「それ、何かわかるかも。そんなもんあるべきところに無いって先入観ってやつ?そいつが視界から消しているんじゃないの?」
「かもね。何か不思議。家の時計にも引き出しはあるのかな?帰ったら確認しよう。」
ツキが柱時計から視線を離し振り返ると、柱時計がガタガタと、中に生き物でもいるかのように震え出した。
「何?また何か起こるの?」
「姉ちゃん!早くこっち来い!」
ツキが急いで太郎のほうへと走り出すと同時に、柱時計がロックを壊して開き、中から黒い影、髪の毛のようなものが大量に溢れ出す。その房の一つがツキの足首に絡みついた。ツキは思わず転びそうになり、何とか堪えたが身動きが取れない。他の髪の毛は太郎の胴にも絡みついて引っ張ろうとしている。また別の髪の毛は扉のノブを掴んでふたりが外に出ないように邪魔している。
「やっぱりヤバイやつじゃねえか!」
太郎は鍵を握りしめたままカウンターの天板を抱きかかえて引っ張られないように堪えたが、カウンターそのものと一緒に強い力でゆっくりと引きずられていく。幸い引かれる途中、朽ちた床が太郎とカウンターの重量に耐え切れず陥没し、カウンターは半分近くを飲み込まれてその場に留まった。そこで太郎はツキに向かって鍵を持たないほうの手を伸ばす。
「姉ちゃん!来れるか?」
ツキは濁流の中を進むかのように少しずつだが前に進み、やっと太郎の手を掴んだ。太郎の手を伝いながら、ゆっくり前に進んでカウンターにしがみついた。掴まれた足首こそ痛むが、カウンターが壊れない限り引っ張られることはなさそうだった。
「ありがとう!出口までいける?」
「いや、駄目だ!あれ見ろよ!」
ドアノブにはびっしりと髪の毛が絡みつき、刃物で切り落とさないと扉を開けそうにない。そうしている間にもふたりを引く力は徐々に強まってくる。
「姉ちゃんのバッグに何か使えそうな工具とか、どうだ?」
「カッターならあるよ。やってみるしかないね。」
ツキはショルダーの中からカッターを取り出して刃をスライドして引き出した。カウンターの縁にしがみつきながら縁をなぞるようにゆっくりと扉へと進む。ドアノブまで手が届く距離に辿り着き、カッターを肩まで振り上げ絡みつく髪の毛へと切りつけた。髪の毛はカッターで切られた途端、まるで痛覚があるかのように床をのたうち回り、動きが止まったかと思われた次の瞬間、怒りを露わにツキへと襲いかかってきた。
「姉ちゃん!」
太郎の叫びが朽ちた部屋の四方に吸収されたかのように吸い込まれる。髪の毛はツキの両足に絡みついて今まで以上の強い力で暴れ、ツキの身体は耐え切れず持っていかれる。太郎が手を伸ばしてツキの腕を掴もうとするが、その腕を髪の毛は見逃さず絡みついて、ふたりを引き離す。ツキの身体が逆さまになって足からと柱時計へと引きずりこまれていく。柱時計の中は髪の毛に覆われて見えないが、その先はまともな想像はできるはずもなかった。近くで見てわかったが、蓋がまるで生き物のように開閉を繰り返して髪の毛を内部へと引き込んでいる。
「おい!何なんだよ!お前!姉ちゃんがせっかく最後だからって、元あったように戻してくれたのによお!」
太郎のその声に反応するかのように蓋が半分閉じ、隙間からはみ出た髪の毛の掴む力が弱まった。その瞬間を逃さず、ツキは渾身の力をこめて右足を髪の毛に掴まれながらも引き上げ、頂点に達した時点で弓を射るかの如く引き込まれる力を利用して蓋ごと力強く踏みつける。ツキの蹴りで粉々になるかとも思われたが、時計盤のガラスでさえ割れなかった。柱時計も前にも感じた感触、硬いものと柔らかい物の中間のような未知の物質のようだった。相変わらず何の効果もないかと思われたが、踏みつけられて閉じた蓋と本体に髪の毛は強く挟まれて、蛇が苦痛でのたうち回る姿を思わせるように暴れ出し、ふたりの身体は解放された。
「太郎、走って!」
背中から床に落とされたツキは痛みも気にせず叫ぶと同時に走り出し、太郎も走り出した。出入口を塞いでいた髪の毛も苦痛でドアノブを塞いでいる場合ではないらしく、太郎は間もなく外へと脱出した。続いてツキも小屋から躍り出た。ふたりとも勢い余ってバランスを崩し、地面へとヘッドスライディングするように勢いよく倒れこんでしまった。
眩しい日差しが暗闇に慣れた眼に痛い。もうモノクロの世界ではない、カラーの世界へと戻ってきた。
「太郎、大丈夫?」
「ああ、姉ちゃんこそ。」
「私は大丈夫だよ。足掴まれってちょっと捻ったくらい。」
「歩けるか?」
ツキはゆっくりと起き上がって三歩ほど歩いてみたが、痛みは軽く歩行の妨げにはならない。
「うん、今回は問題なく歩ける。それより周り見て。いつの間にか元の公園に戻ってない?」
「本当だ。この先の道って池の跡地へ繋がっているやつだよね。」
太郎とツキは小屋を取り囲む木々の前まで戻っていた。ふたりはようやく小屋の異変から解放され一息ついて、すぐ傍で警備員が迫っていたのに気がつかなかった。
太郎がいきなり後ろから左腕を掴まれ、その場で半周するかのように身体を回されて地面へと伏せるような体制となり、掴まれた腕をそのまま背中の真ん中で固定される体勢となった。背中には背の高い警備員が残った右腕で太郎の右肩を抑えつけて自由を奪っていた。残った右腕にはしっかりと鍵を掴んでいたが、仮にその腕が自由になったところで背中まで回ってロックを解くほど人間は都合の良い構造にはなっていない。
一瞬のことでツキが事態を把握する間もなく、もう一人の背の低い警備員が後ろから太郎と同じように瞬時に左腕を背中に回させて固定し、立った状態で右腕は親指を掴まれて自由を奪われてしまった。
「お前ら一体どこに隠れていたんだ?急に現れたりしておかしな連中だな?何者なんだ?何が目的で忍び込んだんだ?」
太郎が不自然な体制で腕に痛みを感じながら反論した。
「一度に何個も質問するなよ。もうここには用事ないから帰るって。それでいいだろ?」
「そういうわけにはいかないんだよ。その用事ってのは何なんだ?急にモニターから消えるなんて普通じゃないだろ?」
今度はツキが弁明した。
「こ、断りなく入ったのはすいません。そこの小屋に探し物があったんです。でも、見つからなくって。それがわかればもう十分ですので帰ります。それで何とか今回のことは大目に見ていただくことはできませんか?」
警備員はお互い顔を見合わせて、太郎を抑えている警備員が答えた。
「小屋って何のこと言ってるんだ?確かに昔小屋があったみたいだけど、とっくに朽ち果てて森に飲み込まれているんだけどな?」
ふたりは身動きが取れない体制ながら、つい先ほど出てきた場所を、その奥にあった小屋を探したが、うっすらとも建物のシルエットさえ見つけられない。
「そんな。さっきまであったのに。」
太郎より、ほんの少し体制的に自由が利くツキは目を凝らしたが、そこは木が生い茂っているだけだった。
「何か怪しいな。そもそもお前たち、何でここに小屋があったって知っているんだ?ここは十年以上前に立ち入り禁止になってんだよ。それに忍び込んで何かを探すなんて。おい、お前何持ってんだ?」
背の高い警備員は太郎を抑えつけていた右腕を強引に伸ばすと、何かを握っている指を乱暴に剥がすかのようにして開かせようとした。太郎は必死に抵抗するが、親指の支配権を取られると後はあっけないほど簡単に鍵を落としてしまった。警備員は鍵を拾ってまじまじと見つめた。
「やめろよ!返せよ!」
「これが探していた物か?さっきは何も見つからなかったって言っていたよな?」
ツキは慌てて取り繕った。
「そうです、探し物は見つからなかったけど代わりにそれを見つけました。せっかく来たのに手ぶらも嫌なので、かわいいから何となく持って帰ろうと思って。」
「何の鍵?おい、長谷川、わかるか?」
長谷川と呼ばれた背の低い警備員はわからない話を振られ困惑している。
「知るか。そんなもんのために必死になるほどか?おい、本当のこと言えよ?」
太郎は不自然な体制で声が詰まるが、何とかこの状態を抜け出そうと思いつく限り答えた。
「本当だって。よく見ろよ。壊れているだろ?俺たちはこの公園にあったっていう小屋見にきただけなんだよ。母親の昔の思い出だっていう。公園がなくなる前に見ておきたかったんだよ。だけど、結局それらしいのがないから、記念に落っこちていたそいつ持って帰ることにしたんだよ。」
長谷川が訝しげに答えた。
「お前らこの公園がなくなるの、何で知ってる?再開発は一部の人間しかまだ知らないんだけどな?」
太郎ははっとして失言したことに気づいた。先日アカネの父親から聞いた内容であったが、それも部外者は知らない事情でもあり、それを告白すればアカネの父親はともかくアカネ本人にも迷惑がかかる。アカネの父親は嫌いであったが、これ以上親子の関係を悪化するようなことは避けたい。太郎もツキも沈黙していた。
「どちらにしろ、身柄抑えさせてもらうよ。鍵もセンター長の判断つくまで預からせてもらうな。」
長谷川は片手で腰に下げている無線機を取り出して何かの番号を親指で押した。ツキは右腕が自由になったからといって、背中で完全に極められている左腕をどうにかしない限り身動きが取れないのは変わらずであった。
「まずいな!このまま捕まったら警察沙汰になるかもしれない!姉ちゃん!いいよな?」
太郎が叫んでツキに問いかけるより早く、ツキは体を沈めて今にも跳び出しそうな体制となっている。
腕に力を込めるたびにツキの腕は鋭角に曲げられていく。それでも逆にツキの力は強まる一方で、長谷川は何かを感じ取り、思わず無線機を手放して残った右手首を捻るように掴んだ。
「おい!やめろ!腕がいかれるぞ!」
そのとき、地面に転がっている無線機から乱れた音声が流れ出した。耳をすませば雑音の少ない公園内で聞き取るのはそれほど難しいことでもなく、何度も「やめろ」「はなせ」と言っているのがわかった。
「おい、和田!聞こえるか?そいつら放せって聞こえないか?」
その場全員が口を紡ぎ、無線機に耳を傾けると、確かにふたりを離せと聞こえる。
「聞き違いじゃないみたいだ。おい!お前ら!本部から解放の指示が出たみたいだ。一応確認取るから、話しつくまで逃げるなよ?」
横から長谷川が入ってきた。
「怪しい者じゃないのならわかるよな?逃げるなよ?」
再び和田が脅してきた。
「逃げてもすぐ捕まるからな?」
太郎はしびれを切らして声を荒げて答えた。
「わかったから!兎に角早くしろよ!腕痛てえんだよ!」
やっとのことでふたりとも警備員の関節技から解放され、思い思いの方向へ腕を回したり伸ばしたりしていた。
長谷川は無線機を拾い上げ通信を試みるも返答がないようで、代わりに和田が自分の無線機で何かを確認している。
「あれ、さっきまで繋がっていたのに。こんな早朝だから人いないのかな。」
「痛ッ。ちょっと捻ったかな?太郎は大丈夫?」
左腕の肘を曲げ伸ばししながらツキは太郎へ状況を問いかけた。
「まあ、何とか。それより女の子に乱暴するなんてひでぇ連中だな。絶対モテないな。」
悪態をつく太郎を見て、逃げる素振りがないことを確信し長谷川が話しかけた。
「そりゃあ、お前、ここが立ち入り禁止ってわかって入っているうえに、逃げ出したりすりゃあ、不審人物で男女関係なく捕まえるだろ。」
「すいません、どうしてもやらないとならないことがあったんです。ちょっと込み入って話せないのは本当にごめんなさい。でも、皆さんに迷惑かけることではないんです。あ、この状況自体迷惑かけていますけど。私何言ってるんだろう?」
申し訳なさそうに謝るツキの隣から和田が笑いながら話しかけてきた。
「繋がんないや。まあ、確かに変だよ。言ってることバラバラ。けどよ、あんたら悪い奴って感じでもなさそうだよな。ここに来た目的はよくわからないけど、きっと大事なことなんだよな。おおっと、そっちの小さいのは手を出すと噛みつかれそうだけどさ。」
太郎はまたも声を荒げて反論した。
「小さいってのは何だよ!あんたがデカいだけだろ。そっちの警備員とはそれほど変わらないぜ?それに嚙んだりなんてしないわ!」
長谷川は少しむすっとした。
「まあまあ、太郎の気持ちもわかるよ。本人思っているほど小さくないって思うもんね。そのうちね?」
「おい!姉ちゃん!ちょっとばかり身長あるからって!そのうちって何だよ!直ぐに追い抜いてやるわ!」
ここまで太郎自身身長にコンプレックスを感じていたのは意外であった。太郎は年上中心の交流から、いつしか自分も同じ土俵でやり合っていきたいという気持ちが強くなっていた。縮まることのない年齢差が、少しでも見た目だけも追いつきたいということだろうか。中身を磨くこと以前にまずできることとして外見に捉えられているが、周りには行動自体が評価を受けているとは自覚もない。ツキはそこについてしっかりと伝えてあげなければと感じた。
ふたりのやり取りを見てすっかり気が抜けたような警備員たちは警戒を解いて笑いながら見ていた。太郎も警備員二人には敵意がないことを感じて続けた。
「俺的には姉ちゃんは身長より胸に栄養いったほうがよかったって思うんだけどな。」
前言撤回、ツキは太郎の言いたいことを口に出してしまう性格も改めて注意しなくてはと痛感した。その前に本人も言いたいことを吐き出した。
「ちょっ!それ最近気にしているんだから!」
「え、マジ?何かあった?」
「太郎が私のまっ平らな洗濯板みたいな水着姿なんて見たくないなんて言うから、そういえばアユミもそんなこと言っていたし!立て続けにみんなに言われると気にならなかったことも気になるよ!あなたたち、ちょっとは気を遣ってよね?」
「う・・・。ゴメン、そこまで言ってないけど・・・。そんな気にしていたなんて。」
「おふたりさん、もうそこまでな。俺は貧乳のほうが好きだよ?そういう人も世の中いるんだって。ニーズはあるんだよ。」
和田が笑いながらフォローするが、物凄い勢いで振り返って睨みつけてきたツキに思わず後退する。
その横で長谷川の無線機が受信したようで何かを聞いている。
「おいおい、漫才トリオも結構だけど、本部があんたら出口まで送っていけだってよ。さあ、早く行こうか?こんな朝早くから走り回ったりで、交代の時間ももう過ぎちまったよ。」
「俺までカウントするなよ。そもそも何でこの子ら不問なんだ?」
和田が納得いかないような表情で問い合わせたが、ふたりのやり取りや、悪意のなさを感じ取ったようで語調は穏やかだった。
「なんでも部長が来ているんだと。理由はわからないけど、本人からの指示だって。」
「そうなのか?部長の知り合いとか?まあ、別にどうでもいいや。後で誰かに聞けば。早く上がって寝たいしな。それじゃあ、こっちだ。俺が先行って案内するから後ろ頼むな。」
先頭に和田、続いてツキと太郎、最後に長谷川が殿を務めるような並びになって、池の跡地を横切って正門方面へと歩き出す。
「なあ、あんたらは姉弟なのか?」
途中、後ろから長谷川が問いかけてきた。
「いえ、親戚ですけど?」
ツキは即答したつもりだったが、長谷川の反応が鈍く通じなかったのかと思い、付け加えた。
「ちょっと遠いし、久々に会ったので呼び方がまだしっくりきていないんです。」
「なるほどね。姉ちゃんって呼んでいたから、何かすっごく親しいけど、似てないから姉弟か親戚って感じでもないし、歳の差の友達か幼馴染みって思っていたよ。」
ツキは焦っていたが関係をおかしく解釈されないよう平然を装った。
「そうなんですか?周りからどう見られているかなんて初めて聞きました。悪い感じじゃないようでよかったです。」
和田が前を向いたまま話しかけてきた。
「俺は学生時代には姉とはケンカばっかりだったよ。だけど、社会人になってからお互い遠くへ住んでいるからかな、めっきり会わなくなっちゃったよ。大きくなったのもあるけど、たまにお盆や年末年始に会うと、全然ケンカなんてしなくなったな。寧ろ、休み終わってまたしばらく会えなくなるって思うと、ちょっと寂しくなってさ、ついつい遅くまで飲み明かすよ。」
「そんなもんなんだろうな。俺は一人っ子だからわからないけどさ、小さいころ、親戚の歳が近い子と会うっての、何か特別感があって、結構楽しかった記憶あるよ。」
長谷川もふたりに対して親近感を持ったようで、失敗や悪戯など、笑えるようなエピソードを気さくに話し出した。ツキたちは笑いながら話に耳を傾けながら公園を進んだ。
入口へ着くと長谷川が門に小走りで近づいて何やら無線機で話し、施錠のカードリーダーに懐から取り出したカードを通したり、暗証番号を入力したりしてやっと扉が開いた。
「さあ、もう出てっていいぞ。悪かったな、乱暴にしたりして。でも、わかってくれ。」
今はふたりに警戒心はなかった。
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしました。お二人のお仕事ってこともわかります。」
「こうやって俺ら出られたんだから、もう文句はないよ。あんたらも悪い奴じゃないのもわかってるしな。」
「偉そうな。まあ、姉ちゃん大切にな。あんまり困らせんなよ。」
和田が苦笑いとともに太郎の頭を軽く小突いて鍵を差し出した。太郎ははにかみながら鍵を受け取り、軽く和田の胸を拳で叩いた。
正門を出ると太陽は真上に輝き、全身に浴びる日光の暖かさのありがたみを感じ取れる。ふたりは身動きせずに日差しを受けて身体を温める。
公園に入ったのは日の出前だった。警備から逃げ、小屋での探索も含めて、それなりに時間が経過したとはいえ、もう正午を回っている。ふたりは時間の感覚がおかしくなっていた。
「姉ちゃん?何かすごく時間経っていない?もう太陽があんなところだよ?」
「うん、私もおかしいって思った。小屋の世界だと時間の流れが違うのかな?」
「だよな。それでも、まあ、それらしい物も見つかったし、昔話みたく、何年も経ったんじゃないならよしとするか?」
「だね。ちょっとくらいなら。結局はどうしようもないもんね。さ、行こうか。」
橋を渡りながら太郎は確認した。
「ところで、その鍵って姉ちゃんの家の時計に関係しているってことで合っているよな?」
ツキもまだ確信はなかったが、ここまで導かれたかのような流れと、あまりに相違点が見当たらない時計が別の場所に存在し、なおかつ、目的と思われる壊れた鍵を手中に収めた時点で小屋が役目を終えたかのように消えてしまったことに疑念を抱きたくはなかった。
「多分、ね。そう考えるとあの時計も特別な物に思える。確か海外のアンティークみたいだよ。家の建て替えのとき、そのまま持ってきて使っていたから特に気になっていたよ。よっぽど気に入っていたのか、高価なものかもって。」
太郎は腕を組みながら考えているようだったが、どこか納得したかのようで頭の後ろで手を組んだ。
「太郎、今までのこと、ちょっと考えてみたんだけど、おかしなことが起きたときって共通点があったんだよ。わかる?」
「何かわかったの?全然何とも思っちゃいなかったけど?」
「だろうね。太郎は。」
「おいおい、実は色々考えてはいるんだよ?変なことまでは分析するほど頭回していないってことだけどさ。あれって、常人が考えてわかるものじゃないだろ。」
「ゴメンゴメン。私って考えても仕方ないことはなるべく考えないようにするんだけど、やっぱり、ああいうのは気になっちゃうんだよね。頭から離れないから、仮でも答えを考えるっていうか。不可思議なこと、怪異とでも表現するのかな、あれが起るのは、私たちがいる空間というか世界というか日常と別のところで起こっていたんだよ。レストランもあの店の中、さっきのボート小屋も小屋自体はもうなかったけど本来存在していた跡地、考えてみれば太郎を見つけた公園内、さらにはあの海辺。特に海辺はバイト先を出た時点ですでに街という空間がおかしかった。それにね、母親の実家の跡地でも、私が使えなくなった力が一時的でも戻ってきたりしたよね。そこに何かしらそれぞれトリガーとなるものがあったんだと思う。」
公園跡地へ続く元商店街の大通りを歩いている途中、木製の年季の入ったベンチが幾つか間を空けて並んでいる。人が来なくなった今でも誰かしら使うニーズがあるのか、それとも回顧に浸っての行動でシャッターの閉まった店の人間が手入れをしているのか、座ったら壊れるような気配はなかった。
ここで話を纏めるには一度落ち着くのが良いという考えは同じようで、どちらとも声をかけずに、ほぼ同タイミングで一番近いベンチへと腰かけた。
すでに寂れた商店街には人通りもなく、ツキの母親の街を思い出させる。
「なるほどね。レストランでは見なかったけど、店内のどこかに絵があったろうし、小屋にはこの鍵、俺を見つけた公園や浜辺は俺自体だったのかな?姉ちゃんの母ちゃんの実家はあの空地だよね。姉ちゃんを待っていたかのように、まるで邪魔するものが建たないように空けてたみたいだしな。そう考えると、本来あるはずのない場所にあったこの鍵ってのが原因になってもおかしくないよな。それとも姉ちゃん家の時計自体とかも。そう考えると闇雲に刺激すると危ないな。正攻法でいくしかないよな。」
太郎はツキに丁寧に鍵を手渡した。ツキは壊れた先端を眺めていたが、どう見ても元の形を想像できず今はジャケット裏の胸ポケットに仕舞っておくことにした。
「うん、髪の毛じゃなくて、もっと危ないもの出たら困るよね。石宝堂のご主人さんなら何かわかるかもしれないから行ってみよう。」
「何かとお世話になるよな、あの店。」
「だよね。それ以前に趣味が合うんじゃない?親は色々買っていたみたいで、よく一緒に行ったよ。それでも、私、買い物したのは初めてなんだよ。あのソファーが。お店に行ったのが両親亡くなって以来だからね。」
「そういえばご主人さん、最初お久しぶりって言っていたよな。そういうことだったんだ。」
「よく覚えているよね。一人暮らしじゃないと家具って自分じゃ買わないもんだよね。今はひとりじゃないけど、家計預かると必要なんだね。」
「確かにな。そういうこと覚えているのに俺自身のこと全然わからないなんて、めんどくせえ。」
「もうすぐ、なんじゃないのかな。何となく。私のことが終わったら太郎も、そんな感じするよ。」
太郎は沈黙した。何気なく空を見上げ、風もなく、日差しも暖かく、また、朝早く起きてから緊張の連続からの解放感が、急に眠気をもたらしてきた。
「やべ、寝そう・・・。」
ツキも同じように空を見上げていた。雲一つなく、晴れ渡る空は本来の青を少し薄めたことで優しさを感じる。そこから降り注ぐ日差しは、これから来る本格的な寒さの前に、最後の暖かさで包んでくれている、今はそう思えた。
「うん、いいね。ちょっと寝ちゃおうか。」
ふたりは眠りこそしなかったが、どちらかが声をかけるまで何も話すことはしないと決めて、ただただ、空を眺め続けた。
その何気ないが心地良い時間から、ツキのスマホが現実へとふたりを引き戻した。アカネからのLINEメッセージが入っていた。
「何?誰?」
「アカネだ。今どこ?だって。」
「そういや今日公園行くの伝えていたんだよな?心配して連絡してきたのか?」
返信しながらツキは答えた。
「そう。だからかな。あ、アカネのお父さんが朝出かけたって。」
そこまで話せは太郎も状況が飲み込める。
「部長ってアカネ姉ちゃんのオヤジだろ?口利いてくれたんだな。」
「みたいだよね。昨日ダメ元でまた頼んだんだって。え?お父さんは私たち不法侵入すると思うから公園へ行ったんだって?」
「おーい!何でわかるんだよ。ていうか、そんな風に見られてるのか?」
「あはっ、だよね。今までの行動見たらそう思うんじゃない?おかげで助かったよね。」
「そうか。でも、何というか・・・。」
「まあ、結果オーライで。あれ?アカネ、それでも先日の件はチャラにはしないって。お父さんは会社から追及ありそうだって。厳しいね。もう私たちは平気だっていうのに。」
「よかねえよ。まだしっかりと働いてもらわないとな。」
「結構根に持つね。もうお願いすることはないって。あとは仲よくねって。ある意味それが一番堪えそうだよね。」
ツキはメッセージを送信し、アカネからお返しにベロを出した謎の動物キャラのスタンプが送られ、そこでこの話しは終わった。
再び石宝堂へと、ふたりはやってきた。今まで意識せず気がつかなかったが、外からでは中二階こそ壁面で見えないが、店の中の巨大なツリーは遠くからでも目を惹いている。珍しく客と入口ですれ違い、店内も若いカップルや家族連れが物色している。
「お客さん、来るんだ。」
「太郎!」
太郎は再びツキの鋭い一声を浴びたが、その声は流れるクラシックのBGMにかき消されたかのようで、レジ横で新聞を読んでいる主人は何事もなかったかのように軽く会釈をした。寧ろ、当たり前のことだと太郎の性格を理解しているので、特に気にしていないかもしれない。
ふたりは真っ直ぐ主人の元へと向かった。
「いつもご来店、ありがとうございます。」
ツキは今日の目的は買い物ではないことも併せ、鍵の件は見当違いではないかという思いから、すまなさそうに問いかけた。
「すいません、今日はつかぬことで聞きたいことがあります。」
主人はいつもの低いが、優しい声で答えた。
「何でも結構ですよ。気になったらまず聞いてみよう、それが石宝堂です。」
太郎はニヤニヤしながら突っ込んだ。
「それってここのキャッチコピー?折り込みチラシとかある?」
「こら!太郎!」
主人は怒る素振りも見せずに太郎の質問に答えた。
「おや、それもアリですね。チラシなんてオープン当初作ったくらいです。最近はネット中心で新聞は購読数も減っていますし、特に若い方は新聞取らないのでチラシもポスティングでもしないと届きませんね。それでも私、紙媒体好きなんですよ。」
ツキも主人に賛同したようだった。
「わかります。紙って暖かさがありますよね。大事にして取っておくと、年季が入ってそれがまたいい感じになりますね。嵩張るけど好きなときにすぐ見られるし、思いもよらないタイミングで出てきて、ついつい思い出に浸って読んじゃったりします。」
「おっしゃるとおりです。チラシ一つでも気に入っていただいて、いつか購入しようと手元に置いていただけるのは素敵です。実際そうやって来店された方々もいらっしゃいます。」
主人も満足そうに答えた。
「それって、うちの親とかも?」
「そんなこともありました。」
このまま昔話に花を咲かせて延々と続くのではと感じた太郎が話の軌道修正に入った。
「姉ちゃん、例の物、聞くんじゃない?今日は他のお客もいるし、思い出話はまた次にゆっくりでも。」
ツキは確かにといった表情で頷き、懐から鍵を取り出して主人に見せた。
「これは?」
「家にある柱時計の中の引き出しの鍵です。先日見つけたのですが、こんな感じで壊れていました。この鍵ってスペアとかありますか?」
いつも微笑んでいる顔が真顔になっている。
「そうおっしゃるのでしたら、確かにこの鍵はあの時計のものでしょう。しかし、残念ですがスペアはありません。」
「マジかよ?何とかならないのか?」
太郎が焦りから興奮気味に問いかけた。
「スペアはありませんが設計図でしたらありそうです。その時計、私が思うものでしたら先日お話ししました、そう、そこのツリーの製作者が作ったのです。正確には元々店にあった時計で、ツキちゃんのお母様がお気に召されて購入しようとしたのです。たまたま、私が店の片隅にそっと保管していたのを見つけられて、一目で気に入られてお声がけされました。しかし、何せ古くて蝶番が壊れていたり歪んでいて、とても売り物にはなりませんでした。そこでたまたまお店に居合わせた彼女が採寸して、残った木材を最大限生かしてお母様と話し合って直したのです。なので、本来あるはずの振り子が小さい錘に変えられて内部に収まったり、一見変わった形状となってしまったのですが、その余ったスペースで収納を作ったようです。」
太郎が二階の時計スペースを覗き込むようにしながらツリーと交互に眺めた。
「へえ、色々と覚えているもんだな。その人、木でできるものは何でも作っちゃうんだ。」
「はい。おもちゃでも、あのツリーまでも。先日遺品を全部引き上げて確認していたときに、その時計の設計図らしきものを見たのでちょうど思い出していました。彼女、今まで関わったものをほとんど取ってあったみたいです。人嫌いなだけに、逆に物に対しては手元に置いておくようでした。では、鍵をお預かりしてもよろしいでしょうか?」
ツキはそっと鍵を主人に手渡した。
「直りそうでしょうか?」
「そんなに難しい構造ではないと思います。元の形がわかれば鍵屋でも鋳型を扱えるお店でもできるでしょう。何なら私でも可能かもしれません。結果は追ってご連絡しますね。お代は完成してからでよろしいでしょうか?これでしたら・・・。」
「何としても必要なんです。お代はお任せします。」
金額の呈示を聞く前から、ツキはなんとしても直してもらわないと困るので、懇願するように口を挟んだ。
「安心してください。ある意味、私のスキルアップに使わせていただきますので、材料費に少し色をつけるだけです。」
主人はツキの必死の訴えに、わからないなりにも鍵の重要性を感じ取り、敢えて穏やかに答えた。
「ありがとうございます。期待しています。」
「ははっ、ハードル上がりましたね。何としても直さないとなりませんね。」
「ご主人さんはそんなこともできるの?金属で色んなもの作ったりとかできる?」
ツリーや中二階を階下から見回していた太郎が急に食いついてきた。
「いえいえ、簡単なメンテナンスで部品が必要なときに作るレベルですよ。昔のものは大量生産していない分、ネジも今のものでは代用不可能な場合もあったりしますから。昔、私も色々な業界の方々に師事したものです。」
「太郎は何か作りたいものあったの?」
「鍵作れるんだったら、姉ちゃん家のぼろい門のデザイン直したり、動物のオブジェとか作ると楽しいとか思ったんだよ。」
「そうだね、あの門、ずっと前からあったみたいで親が気に入って残しているけど、錆とかすごいもんね。家の門とかに金属なんかでデザイン的にアレンジした動物のオブジェとか見かけるけど、そういうのもかわいいよね。」
ツキはなるほどといった表情で答えた。
「俺はせっかく門があるんだったら、ドラゴンとかグリフォンとかカッコいいのがいいや。そういうの作れたりしない?この店に置いても合うと思うんだよな。」
「ほう、それもありですね。たまには私が作った物を売っても楽しそうですね。」
主人は何度も頷いてまんざらでもなさそうだった。
「何だか楽しそうね。太郎、教えてもらったら?」
「えー?俺は剣術教えてもらいたいんだけど。」
主人は今まで一人で切り盛りをして、商品に対しての知識や造詣、審美眼を磨くことで客の満足度を高めることに喜びを感じていただけに、自分から何かを作ったり教えたりと、発信することは考えてはいなかった。それだけに、ふたりの提案は新鮮で新しい発見でもあった。
「剣術も創作も教えるほどではありませんが、一緒に練習するというのでしたら是非ともお願いします。」
「俺、絵とか工作って上手くできるかわからないなあ。記憶ないし。」
「ちょっと、あ、そうか、そんなに久しぶりなんだよね。」
「ああ、そうなんだよね。いつ以来かな。やってみないと何とも言えないや。」
慌てて太郎もツキに合わせて答えた。
「そうなんです。やる前からできないなんて言っているうちは可能性ゼロですから。やってみて判断してみてください。それで駄目なら本当に駄目なんです。それでも好きなら続けてみる価値はあるかもしれません。趣味で結構。何せ判断は客観と主観のどちらが本人に必要かで変わってくるのですから。」
「よくわかんないけど、姉ちゃんの歌よりは上手くいける気がするぜ?」
「太郎!今日は何度怒らせたら気が済むの?」
ツキは真っ赤になって太郎を睨みつけた。怒るというよりは恥ずかしい思い出を慌てて火消しに入ったようだった。その必死の形相に主人も少し焦り、ツキの怒りを感じ取った。
「まあまあ、何があったか知りませんが、少し落ち着いてください。下手の横好きとの言葉もあります。」
慌てて口に手を当て、失言に気づいた主人にツキが突っ込んできた。
「珍しくフォローになっていないです!歌も胸も残念でも生きていけますから!」
「胸?」
「ほら、お客さん、こっち見てるよ。あんま騒ぐなって。何か探しているんじゃないの?」
若いカップルが階段近くから物言いたげに、こちらを遠慮がちに見ている。
「これは失礼、何か御用でしょうか?」
太郎が慌てて遮り、主人はこれ幸いと、いつもより顔の皺を増しながら、足早にカップルの元へ移動して接客を始めた。カップルは家具について聞きたいことがある旨を告げた。
「姉ちゃん、そろそろ行こうか?怒ってる?」
太郎は恐る恐るツキを見上げるように顔色を窺ったが返答はなかった。
「姉ちゃん?」
「見て。赤ちゃん。」
ツキは先ほどのカップルを見たまま呟いた。
「えっ?何だって?」
「あのカップル、ううん、夫婦だね。あの女の人のお腹、ちょっと大きいから。」
主人にテーブルの説明を受けている女性を見て太郎も理解した。
「あ、ホントだ。テーブル見てるってことは、子どもが生まれるから引っ越しでもするのかな?」
「うん、そうっぽいね。何か、いいな。」
ぼんやり眺めているツキの横顔を、太郎は懐かしそうに見つめていた。ツキはいつの間にかヒートアップした頭もクールダウンして、平常運転へと戻っている。
「じゃあ、鍵はお任せして帰ろうか。」
接客の合間に目が合った主人にツキは軽く会釈をして、太郎は手を振った。主人も軽く会釈をして手を振り返す。ツキが沈静化して太郎も内心ほっと胸を撫で下ろしていた。今までツキは何事も緩い感じで流していたのだが、最近は以前より大分感情を表に出すのでペースが狂っていた。いつもの感じに戻ったツキを刺激しないように、太郎は何も言わなかった。この状態では言えなかった。
帰り際、ツキが思い出したように切り出した。
「そうだ、私のバイト先へ行かない?」
「急に何?」
太郎は急な提案に戸惑った。
日は天頂から下り坂へと移っている。
「ここからそんな遠くないよ。お昼過ぎてるでしょ?どうせなら何か買って帰らない?それともがっつり食べたい?」
「いや、相変わらず色々ありまくって、空腹のピーク過ぎて胃が受け付けないって感じ、だったけど、甘いもののお誘いは断れないよ。」
「でしょ?どうせならオーナーにも会ってみたら。きっと太郎のこと気に入ってくれると思うよ。」
「気に入るって、大丈夫なのか?」
「平気だって。懐広い人なんだよ。それに太郎みたく生意気なタイプとか喜びそう。」
太郎は身の危険を感じながらも、今までのツキの話しを統合すれば意外に常識人とも思えるので断る理由もなくなっていた。それより、ツキが太郎のことを人に会わせようとするのが意外だった。アカネとアユミは事の流れで出会ったが、必要以上のトラブルや数々の怪異から遠ざけるべく、人との関わりを極力避けて行動すると思っていた。それだけオーナーを信用していることが感じられる。
ツキがいつの間にか変わっていたことを初めて実感した。
「どうかな?」
「あ、ああ。俺はチョコケーキな。」
呆然としている太郎ははっとして慌てて答えた。
「男の人って結構チョコ好きだよね。山口君もそうだったよ。」
「兄ちゃんとは話し合いそう。走り幅跳び習ってみようかな。」
「太郎が心開くなんて珍しい。チョコは偉大だね。」
「違うわ。姉ちゃんがまた暴走しないよう俺も習ってみるんだよ。」
「そうか、私もそこんところ何とかしないとだね。」
その言葉には、この旅が終わったら力も役目を終えるのかというニュアンスが含まれ、太郎もそれを感じ取っている。
「あら、ツキちゃん、いらっしゃい。珍しいわね、お休みの日に来るなんて。」
オーナーは相変わらず来客が少ないことを見越してか、奥の厨房で何か作業を行っている。口元についたクリームを拭いながらのっそりとカウンターへとやってきた。
「おや、その子、もしかして噂の太郎ちゃん?」
太郎は思わずツキの後ろへ半分身を隠した。
「はい、そうです。」
「はじめまして、太郎ちゃん。よろしくね。」
「は、はい。太郎です・・・。よろしく、お願いします。」
太郎はいつもの悪態が嘘のように大人しく、軽く会釈した。ツキが間を繋ごうとオーナーへ話題をふった。
「ちょうど朝早く出かけていて、これから帰るのに手ぶらも何だか味気なくって、お土産買おうと寄ってみたんです。そんなに噂ってほどでもないですけどね。」
「いやいや、そうでもないわよ。そうそう、さっき大河内さんと小坂さん来てくれたの。別々の時間だけどね。二人ともツキちゃんと太郎ちゃんのこと、楽しそうに話していたわ。小坂さんは陸上部のお友達に差し入れってケーキ買っていったわ。ちょっと色々話し込んじゃった。そこから入れ替わるように大河内さん来たわ。買い物帰りで弟さん連れて、お母さんにってケーキ買ってくれたの。」
「ホントですか?ああ、やっぱりアカネ、お父さんにはケーキあげないんだ。どうせなら現場近いから持っていってあげればいいのにね。大活躍だったのに。ところで、あの二人、私たちについて何か話していませんでしたか?」
「とっても素敵なふたりって。まあ、小坂さんはちょっと辛口だったけど。」
「やっぱり。」
「話していた内容は悪くない方向にベクトル向いていたわよ。強いて言えば、もっと歩み寄って欲しいって。」
「そうなんですね。それにしても意外です。こんな短期間で来てくれるなんて。しかも、私がいないときですよね。」
「そうね、ちょっと二人ともプライベートなこと話していたから、別々でよかったかもよ。」
「オーナー話せるから相談したかったんですね。頼れる大人です。」
「何言ってんのよ。大人ってより女心わかるって付け足してもらえるとポイント高かったけど。」
「ははっ、すいません、頼れるってところに含んでいました。アカネは何話すか想像つくけど、アユミも来るなんて正直びっくりです。彼女、性格強いしプライドも高いから、あまり会ったこともない人とは距離を置いたり、直ぐに頼らないって思っていました。」
「リミット抱えた問題で、参考でも何でもって感じだったわね。でもね、話してみると、とっても真っ直ぐな子で白黒はっきりして、ある意味話しやすかったわよ。ぶれない直球投げてくるしね。」
「ですよね。人によっては言い過ぎって拒絶されますけど、私はスッキリして好きです。あ、リミットってクリスマスに山口君と・・・。」
「そこから先は想像にお任せするわ。」
アユミの性格からツキとアカネに話したことが前提での相談なのが想像される。
「はい。」
ツキは自覚こそないが最近友人たちのことが気にかかる。だからこそ、以前より多弁になり、オーナーも気兼ねなく話せる。
「オーナーさんって姉ちゃんたちと話し合いそうだよな。」
二人のやり取りを見ていた太郎が恐る恐る口を開いた。
「あら、わかる?そう思ってもらえると嬉しい。」
オーナーは嬉しそうに答えた。
「姉ちゃんたち三人ってキャラがバラバラだけど、オーナーさんは誰とでも話せそう。」
「確かに性格がみんな違うし、私も誰でも合うってわけじゃないわ。共通しているのはみんな素直ってこと。人を見かけじゃなくて、もっと内面でお話しできるってことかしら。だから話しやすいのよ。」
「うん、あの二人はそのとおりですね。」
「いや、姉ちゃんもそうだと思うぜ?前どうだったか知らないけど、会ったときからお節介で意外に強引だけど俺のことは馬鹿正直に信じて決して否定しなかったよな。」
ツキは急に褒められて赤面した。
「おや、太郎ちゃん、相手を否定しないなんて素敵なこと言うわね。そうね、ツキちゃんは最初下向いて、変に物事受け入れるのが早くて自分の世界で納得しているみたいだったわ。関心のないものはすべて通り過ぎるだけだったけど、あの子たちと親しくなってから明るくなったわね。それにつれて本来の性格、まさに太郎ちゃんが言うとおりになってきたわ。そこには太郎ちゃんと会ったのもあるのかしら。」
「ちょっと、二人して、何も出ませんよ。なんだかんだで、アカネやアユミがいてくれて、とっても楽しいです。」
「太郎ちゃんは?」
「もちろんです。」
ツキは太郎を見ようとはせず答えた。オーナーの口元が優しく緩むとツキも嬉しくなった。敢えて太郎のほうを見ないで話を続けた。
「そうだ、オーナー、今日はいつものショートケーキとチョコケーキお願いできますか。」
「オッケー、今日ヒマだからこのまま食べてく?スタンディングになるけどテーブルあるわよ。」
ふたりの答えを聞くまでもなく、奥の物置からツキの腰あたりまでの高さのハイテーブルを持ち出してきた。
「まだ誰も来ないからそこに置いて食べてね。」
「いいんですか?これからお客さん来たら邪魔になりますよ?」
「平気よ。そのときはそのときで。ちょっと待っててね。」
「悪くないじゃんか、姉ちゃん。せっかく用意してくれているんだし。姉ちゃんは周りに気を遣い過ぎなんだって。そんなにみんな気にしないよ。」
「太郎は気を遣わなさ過ぎ。でも、ま、お言葉に甘えて、ちょっといいかもね。こういうの。」
ふたりはテーブルに手をついたり肘をかけたりしながら、普段使うことのない高さのテーブルでの過ごし方を練習していると、オーナーがレジ横の小さなドアを開いてふたりのオーダーしたケーキとオレンジジュース二つをトレイに乗せて持ってきた。
「はい、どうぞ。飲み物は太郎ちゃんの初めての来店サービス。オレンジでよかった?」
太郎は当たり前のように答えた。
「もちろん。」
「す、すいません、何かと気を遣っていただいて。」
ツキがお礼を伝えている最中、早くも太郎はケーキを一口進めていた。
「マジ美味いよ!」
「太郎、早っ!」
オーナーは嬉しそうにカウンターの向こうへと戻って、自分用に淹れてあった大分冷めたコーヒーをショーケースの上に置いた。
「ありがとう。その一言が嬉しい。」
一時間は来客も途絶えて、ふたりは店の中でオーナーも交えて雑談をして過ごした。異常な体験やアユミの事件を可能な限り避け、他愛のないふたりの話で盛り上がった。オーナーの絶妙な突っ込みは太郎にはツボらしく腹を抱えて笑っていた。
「ところで太郎ちゃんは幾つなのかしら?」
「えっ?俺ですか?俺は・・・、中二、三?」
オーナーの少しきょとんとした表情に、ツキは慌ててフォローに回った。
「すいません、この子実は少し前まで病気していて、あ、半年かな?長い間意識朦朧とすることがあって誕生日も過ぎちゃって、時間の経過がイマイチ理解できていないんです。そう、今二年です?病気もあって空気の綺麗なところで療養しながら、えっと、元々頭は悪くないから、受験勉強も兼ねて学校にも近い私ん家へ居候しているんです。ね?」
太郎はツキが回答に迷っているのを直ぐに感じ取り、テンポを合わせるのに少々ずれが生じたが、話の内容を補足した。
「そうそう、そうなんです。目覚めたら季節変わっていたりして。学校の友達も何だかみんな大きくなって、そう、まさに浦島気分でしたよ。アハハッ・・・。」
「そうなのね。ごめんなさいね、急に変なこと聞いて。いえね、ツキちゃんから受験って聞いていたから中学受験とばかり思っていたのよ。そんなで太郎ちゃんに会ってみたらしっかりしていたから、あれって思ったの。納得。思ったより大きかったからね。」
オーナーはふたりの話しに不自然さを感じ取っていたが、それ以上突っ込むことはしなかった。太郎は大きいと言われ少々嬉しかったようで、ハイテーブルに組んだ腕を乗せたままつま先を何度も床に突いてはトントンとリズムを刻んでいた。
(そういえばこの子、少し背が伸びた?たるんでいたジーンズがいつの間にか真っ直ぐになっている?さっき肩車したときも思ったより重かったような?)
「ありがと。俺ってやっぱり年相応以上、大人に見えるんだな。アユミ姉ちゃんやアカネ姉ちゃんもそんなこと言っていたような気がするし。わかる人にはわかるんだ。」
珍しくツキは何も口には出さなかった。以前のツキであれば少しも気にならず、そんなものかと受け入れていたかもしれない。しかし、ここまで行動をともにし、多くの普通ではない出来事を経験してきたツキにしてみれば、このことは少し不安だった。その不安を拭うかのように話題を逸らした。
「太郎、オーナーには礼儀正しいね。」
「そう?話のわかる大人って尊敬できるんだよね。」
「あら、嬉しい。こんな私でもそう言ってくれるなんて。」
「そうだよ。初めて会うタイプで最初は接し方わからなかったけど、話してみるとそこら辺の大人よりずっといい人だったからよかったよ。」
「太郎、失礼な!」
ツキは思わず声を荒げたが、オーナーは優しく窘めた。
「全然よ、ツキちゃん。そういうのわかるもの。私を否定しないし肯定もしない。わかる人だけで十分だって。それでも嬉しいわよ。」
「オーナー・・・。」
「オーナーさん・・・。」
ふたりの真摯な眼差しを受けてオーナーは照れくさそうにしている。
「何よ、ふたりとも。せっかくバカ話でいい感じだったのに。空気。そうそう、前に話していたクリスマスケーキ、かなり美味しそうなのが完成しそうよ。当日までのシークレットだけど、期待のハードル上げてもいいかなって思っちゃった。」
ケーキの話しに期待を膨らませたのか、太郎の顔が輝き出した。
「マジ?やべ、超期待しちゃうじゃんか。」
「私も期待しちゃいますよ。」
「受けて立つわ。まずいなんてことあったらお代はいらない、なんてね。」
ツキは太郎と視線が合って頷いた。
「そんなことないのは私、わかっていますよ。」
太郎は無言で何度も頷いている。
「久々に本気の本気、出そうかしらね。」
「なんだよ、このケーキでまだ本気じゃなかったらどんだけだよ?」
「ふふっ。いつも本気よ。今回は本気のさらに向こう側。私も未知の領域、楽しみだわ。」
オーナーは太郎を見つめながら舌なめずりをした。
「おっと、やめてくださいよ。俺は美味しくないですよ!」
「何気に綺麗好きで好き嫌いなくしっかりご飯食べる太郎は結構美味しいかもね。ね?オーナー?」
「ああ、太郎ちゃんにクリームトッピングとかぞくぞくしちゃうわ。」
「マジやめてくれよ!想像しちゃったじゃないか!」
店に馬鹿笑いが響いた後、次の来客が扉の前で中の様子を伺っているのがお開きの合図となった。
「そうそう、ツキちゃん、せっかくだから来週土日お休みでどうかしら。太郎ちゃん、クリスマスで賑わっている街とか連れていってあげなさいな。」
「そんな、クリスマスはお店、忙しくないですか?」
「全然。何だかんだで毎年みんな忙しくて、ケーキ買ったらすぐ帰っちうんだから。売り切れたら私も早く帰るわ。それより受験前の気晴らしと、少し早いけど一年間頑張ったツキちゃんのお休みね。ほらほら、お客さんが待ってる。」
オーナーは二の句もつけさせないという感じでふたりを帰させる。
「じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとうございます。」
「オーナーさんありがと。姉ちゃんにいっぱい奢ってもらうよ。」
二学期最後の週末、石宝堂から鍵が仕上がったと連絡が届いた。
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