第4話 日帰り旅行

見知らぬ街が自分を受け入れてくれるかなんて、これから起きることですべて変わってしまう。希望が絶望に変わることもあれば、拒絶していたことが嘘のように受け入れてくれるかもしれない。


ふたりが木の壁を蹴破って外に出たとき、日は頭上を見上げなくても時間の検討がつくくらいに傾いていた。レストランの裏手は細い路地裏となっており、傾いた日が差し込むには狭すぎて薄暗い。ずいぶんと長い時間店内に滞在したかと思うほどの出来事はふたりに多大な疲労と、興奮からの覚醒状態をもたらしていた。疲れているが気にならない、そんなコンディションだった。手の平が泥だらけで、全身埃まみれでも気にならない。

「太郎、店長さんたち大丈夫かな?」

「表に行ってみよう。」

路地裏に沿って走り、大通りに出ると太陽が目に痛い。

「眩し!もうこんな時間になっていたんだ。」

「俺はもう夜になったかと思っていたよ。」

開けた道には想像どおり人影も、往来する車も見当たらなかった。

急いでふたりはレストランの入り口へと回った。そこには何もなかったかのようにレストランは来たときと同じようにひっそりと佇んでいたが、違うのは曇りガラスの窓にはカーテンが閉め切ってあるようで、店内の明るさを推し量るには外は明るすぎた。

「ねえ、扉、開けて大丈夫かな?」

ツキは恐る恐るドアノブに手をかけようとしたが、横から太郎が割って入り、ドアノブを思い切り引いた。しかし、扉はびくともせず大きな音を立てて鍵がかかっていることを告げた。それは本来の扉に鍵がかけられているのか、別の力で開かないのか判別し兼ねる。

「もう、びっくりさせないでよ。いきなり開けようとするなんて。またあの人形や巨大な腕が出てくるかと思っちゃったじゃない。」

「大丈夫だって。あいつら多分建物の中じゃないと存在できないんだよ。そういう縛りなんだろ、おっさんの願いって。じゃないと、あの化け物が街のあちこちにいると思うよ。」

「きっとそうね。そう考えると、この街と一緒になんて願っていたらそうなっていたかもね。」

「ああ、それだけあの店が何より、街より大事だったんだろ。」

「うん。やっぱり、もう、入れないのかな?」

「どうだろ?今は無理っぽくない?それより姉ちゃん、手、洗いたくない?」

ドアノブが泥だらけで、やっとふたりとも相当汚れていることに気がついた。

「ああ、ごめんなさい。こんな汚しちゃって、太郎が。」

「きっちり俺のせいにしてんな。まあ、そうだけど。悪いけどこのままで。店長、後は頼む。今触っても余計汚くしちゃうから。」

「確かにね。こう言うのもよくないけど、お客さんあんまり来ないかもだし、寧ろ今入るのって、どう考えても危ないよね。入れないにしても万が一開いちゃったらって思えば、これなら入るのを躊躇からいいかもね。」

「だな。入ったら化け物の餌食だな。敢えてこのままにすれば、こんなドアノブ触ろうとしないだろうな。それに、店に入れないのは救いか。」

「怒らせなければだよ。店長さん、いつもと違うって言っていたね。私がいるからかもって。」

「向こうはわかっていたんじゃない?いつもと違うのが来たってね。」

「そうかもね。私、気になっていたんだけど、こんな状況を店長さん、悪夢って言わなかった。呪いのような夢って。呪いって怖いイメージだけど、いいことも見方変えれば呪いなんじゃないかなって。」

「あぁ、何となく理解できるよ。願うってことも、ある意味呪いなんじゃない?幸せと不幸は表裏一体、自分の幸福が人の不幸の上に成り立っているってな。他人にしたらいい迷惑だよ。」

「あなた、急に大人になった?今までそんなキャラじゃなかったのに。」

「何だよ、悪いかよ。」

「ううん、悪くない。何かに固執し続けるのも呪いかもね。本人には見えない。それに気づいちゃうと店長さんみたくなっちゃうのかも。何となく、私もそんなんだったかなあって。」

「今は?」

「わからない。でも、ひとりじゃないから大丈夫って思う。」

「もうすぐだな。これで終わるかな?」

「ちょっと怖いけど、これで終わりじゃないよ。太郎のもあるんだからね。」

「そうだった。ははっ。忘れてた。」

「もう。でも、今日は付き合ってくれてありがとう。私だけだったら大変だったよ。」

「いやいや、俺がトラブってばかりな気もするんだけど。」

「ふふっ。ホントだね。でも、力のことや絵について進展もあったし、こんな経験普通できないよ?ちょっと楽しかったかも。」

「ああ、そうだよな。俺のことなんてまったく忘れるくらいだよ。」

「全部終わったらいつもの日常に戻るのかな?ねえ、太郎は・・・。」

「知らね。そんなもん考えてもないよ。終わってから考えればいいじゃんか。余計なこと考えてると、ちゃんと跳べないぜ?さっきぶつけた腹、まだ痛いんだから。」

「あら、ゴメンゴメン。あっ、太郎、手ケガしてるじゃない。あの人形にやられたところだね。駅まで戻って手当しよう?トイレとか手を洗える場所でこの泥も落としたいし。」

「そうだな、思い出したら痛くなってきたよ。あのデク野郎、次会ったら粉々にして燃やして、それでキャンプファイヤーしてやる。」

「いいね、私は焼き芋かBBQやりたいよ。」

「オッケー。あれだけいれば何でもやり放題だな。」


駅へ向かう途中バスとすれ違ったが乗客の影は見えなかった。

トイレは駅の外にあった。冬の寒さで悴んだ手には水の冷たさが一層染みわたり、感覚がなくなってなお、刺すような痛みを感じた。太郎は傷の痛みも重なり、思わず手を引っ込めたが、意を決し、一気に手を絞るように洗うことによって痛みを紛らわした。

鏡の前で、頭髪や衣服に着いた泥や埃を落としたふたりは駅前で合流した。コンビニを目の前にして、お互いの引きつった顔が手を洗うことでこんなにも苦戦してきたことを物語っている。

「チェーンでも薬局って駅前によくあるイメージだったけど、コンビニしかないね。」

「駅の反対には何もなかったよ。そこしかないみたいだから行ってみよう。」

幸い消毒薬とガーゼ、包帯と最低限の手当一式の用品は見つかり、ツキは一緒にホットのお茶も二本購入した。

「さすがだよな、こんな街のコンビニでも大体のものが揃うな。何か店員はさっきのレストランのコックみたく、ボーっとしていたけどさ。金額もいらっしゃいも言わなかったな。」

「まさか、ここもレストランと同じなんてことないよね。あの二人、大丈夫かな?」

「平気だろ?あの黒い腕もデクも二人には手を出さなかったと思う。それって契約で守られているんじゃないのか?」

「かもね。あの桜子さん、魔女との契約みたいだね。」

「確かにな。反面、マジ契約者以外には容赦ないよな。そう考えるとこれから姉ちゃんの実家行っても大丈夫かよ?」

「私も考えていた。ここからは私だけがいいんじゃないかって。太郎巻き込んじゃうし、私だけだったら何とかなるんじゃないかなとも思ったよ。」

「娘だから手を出さないとか?」

「うん。」

「店長のおっさんが言っていたじゃないか?姉ちゃんいるからいつもと違うって。逆にこれはこれで、あんまりよくないんじゃないかな?襲われないかもしれないけど捕まれば変なことになっちゃうんじゃないかって思うよ。」

「うーん、そう考えるとそうかも。じゃあ、尚更、私ひとりがいいんじゃないかな?」

「いや、ひとりは余計に危なくないか?助けられっぱなしの俺が言うのも何だけど。いや、逆に助けられっぱなしだから言える。うん、ひとりだったらさっきの大穴落ちて死んでたかも。だから今度は俺が助ける番。」

「そんなことないよ。私が調子乗って力使い過ぎて高く跳んだとき、最後は助けてくれたじゃない。今思えばソファーに潰されそうなときもそうだったんじゃないかな。それにね、ここまで一緒に来てくれただけでも心強いよ。」

「そんなもんか?最近ずっとこっちはマンネリで今日は休もうかって思ったけど、ちょうどよかったや。それより、薬貰える?せっかく買ったお茶も冷たくなるよ?」

「あ、ゴメンね。今手当するから、そこのベンチ行こう。」

駅前には三人がけのベンチが幾つか並んでいる。今の街の姿からは想像できないが、以前はそれなりに待ち合わせなど必要とされていたのであろう。

「手、出して。」

太郎の手の甲は幾つもの擦り傷や内出血で赤や黒ずんだ紫に変色し、見るからに痛々しかった。ツキは消毒液をガーゼにたっぷりと染み込ませ、傷口を優しく拭って砂や汚れを綺麗に落とした。太郎の顔が少し歪むが声は一切聞こえない。

「もうちょっと。ガマンしてね。」

「平気だよ。変なバイキンしっかり洗ってくれよ。俺まであんなデクになって姉ちゃん襲ったらやばいだろ。」

「ふふっ、ゾンビみたいに感染したらこの街どころか世界が危ないね。」

「桜子って魔法とか言ってるけど、何処かの国の怪しい科学で何か企んでいたんじゃないか?」

「じゃあ、例えば実は太郎は記憶ないってウソ?某国の諜報員で、噂の調査で私に接触して潜入捜査中?」

「だったら?」

「このまま騙されていいよ。」

「マジで?まあ、色々危ないことはあったけど、ここだけの話にしてくれたら悪いようにはしないよ。」

「もう十分、普通じゃないこといっぱいあったからね。これからも、もうこれが当たり前って思うから気にしないでね。」

「ははっ、作り話しに適応しすぎ。だけど、これからも非日常的なことがあるだろうから、受け入れられるって、大事だと思うよ。」

「うん、私自身驚いているよ。今こうやって落ち着いているから、客観的にも見ることができると思うけど、普通の人ってこんなの受け入れていられるのかな?ずっと必死で無我夢中で走ってきたから、何とも思わないってことはないんだけど。思考停止しないでいられたのは受け入れていたのか逃げなのかな。」

「逃げなんかじゃない、これが今の俺たちには普通なんじゃないのか?ふたりの普通っていう偏見。未完でも何か願った結果でこうなったと思うけど。記憶ないんだし、そこは突っ込むところなんだけど。これって俺たちがどうしようもない状況に置かれてさ、勝手に向こうからやってきたことばかりじゃないか?だから、これが普通のことになっているんだよ。他人も俺たちもこの状況をどうこう言うのって、どうしようもないことなんじゃないかな?あれ?何言ってんだろ、俺。」

「それって何となくだけどわかるよ。家の両親が亡くなってひとりになるってことと一緒。同情や哀れみは何にも意味ない、他人にあるものがないって、ある種の劣等感感じたこともあったけど、いつの間にか何も感じなくなっていたよ。それが私の普通。いつもの生活送っているだけ。」

会話を続けながら太郎の手にガーゼと包帯を巻いている間、ツキは顔を上げて太郎を見ることはなかった。

太郎も手当をしているツキではなく、ぼんやりと空を眺めながら遠くへ語りかけるように、誰とも知れない誰かと会話をしているようだった。

「じゃあ、バス来たら乗ろうか。」

「ああ。」

太郎の手当てが終わった。そして、すっかり温くなったお茶を、緊張を忘れて乾ききった喉に流し込むと、強張っていた肩の力が抜けるのがわかる。それが何とも心地良い。

ふたりの座っているベンチからロータリーが一望できる。幾つかバス停があるが、誰もいないので座ったまま待っていることにした。途中、思い出したようにふたりで近くの自動販売機の隣のゴミ箱へ空のペットボトルを捨てに行き、再び席に着く。

「どのバス?」

「三番乗り場だよ。ちなみに歩けば二、三十分くらい。バス降りてからも歩くけど、そんなに遠くないみたい。道はさすがに覚えていないけどスマホあれば大丈夫。頑張ればここから歩ける距離だけど、バス乗りたいよね?」

「異議なし。もう十分。後は絵を見て終わりだろ。」

「そうだね。まさか、お昼食べに行ってこんなことになるなんて思ってもみなかったからね。」

「まあ、おかげで色んな情報手に入ったしな。」

「うん。バス、もうちょっとかかるかな。一時間に二本しかないからね。」

太郎にスマホの時刻表を見せた。

「こんなの誰が運営してるんだろう。夕方帰りはバスないんじゃないか?歩きか?」

「そうかもね。最悪タクシー呼ぶしかないかな。歩いて帰るの、もう嫌でしょ?」

「いや、別に。用事済んだら急がないし、タクシー代がもったいないじゃんか。」

「しっかりしているのね。じゃあ、そのときの気分でどうするか決めよう。」

「オッケー。また変なことあってどっぷり疲れるか、気が楽になって足取り軽いかだな。」

「もちろん後者希望だね。ここは星空、よく見えそうだし、歩くのも悪くないと思うな。」

「やんわり何もない街って言ってんな。」

「いやいや、そんなんじゃないよ。私たちの街もそんなに変わらないじゃない。駅前は賑やかだけど、家や学校の周りなんて静かなものよ。」

「そうだな。街の外にはもっと賑やかな街もあるんだろうな。東京なんて夜でも明るいってテレビで観たよ。」

「うん。県庁がある街もそれなりには都会だよ。最近は全然行っていないけど。遊ぶ場所もお店も沢山だし、人もいっぱいいるよ。」

「へえ。楽しそうだな。行ってみたいな。」

「私は人が多いのは苦手だな。気疲れしちゃうよ。のんびりがいいなあ。太郎もこの前人が多いのは苦手って言っていたじゃない?」

「たまにはいいじゃんか。遊べる所ってそんなだろ?個人で自由行動できれば別。戻ってきたときには地元のありがたさがわかるんじゃない?」

「そうね。昔の太郎は都会育ちだったかもしれないよね。都会に疲れて人ごみ避けたくなったなんて。記憶戻ったら住む世界違っちゃうかもね。」

「俺は、あの街は結構気に入ってるよ。駅前に面白い店もあるし石宝堂のご主人さんには居合習うって決めたし、姉ちゃんのバイト先へも行ってみたいし、昼間探索して気になる店見つけたりもしたんだよ。海も今は気持ち悪いけど、これが終われば元に戻るかな?そうしたら夏なんて海水浴へ行けるじゃない?いや、絶対行こうよ、海。」

話しが盛り上がってきたからか、動かないでいる寒さを忘れようとしているのか、多弁となった太郎のテンションが上がっているのが伝わってくる。

「急にそんなに誘って、水着の女の子でも見たいの?」

「な、何言ってんだよ!俺は純粋に泳ぎたいの!後は釣りしたり打ち上げられたクラゲで遊んだりすんだよ。姉ちゃんのヒョロヒョロの貧相な胸なんてどうでもいいんだよ。」

「誰も私なんて言ってないけど。失礼ね。スタイルいいとか言えないの?まったく。」

 太郎も男のサガか、想像せずにはいられず、顔がみるみる紅潮して恥ずかしそうにそっぽを向いた。その姿を意地悪そうにツキは見つめて溜飲が下がった。

「ま、楽しそうだよね。アカネやアユミとかみんなと行くのも楽しいかなって思った。アカネとか子どものころはよく遊んでいたのに、今は全然だったよ。ううん、私からそうしていたのかな。何か、昔思い出した。そのうち太郎も紹介できればいいな。さっきキャンプファイヤーって言っていたけど、やっぱりBBQや花火なんかもいいんじゃないかな。」

 話題が転がったことで太郎も調子を取り戻した。

「おお、そうだな。そうだよ、楽しいこと考えようぜ?どうせ、ろくなことないんだから。その分楽しいこと考えて実行する。それでいいんじゃないんか?」

「それ、半分ひねくれているけど、賛成。その前にクリスマスやお正月だよ。」

「そうか、まだ先だよな。クリスマスは何したい?」

少し太郎のトーンが静まって、言葉がぎこちない。

「そうね、暖かい家で美味しいごはん食べて、のんびりでいいかな。」

「かあっ、またそれ、欲がねえなあ。若いんだからさ、他に何かないのかよ?」

「ぷっ、おっさんみたい。」

「姉ちゃんはどこか暗いっていうか無欲っていうか。オシャレな服着てイルミネーション見るとか、スキーやスノボ行くとか、さっきも言っていたように、仲いい連中でパーティーとかあるだろ。」

「うーん、それはそれで楽しそうだね。」

「だろ?クリスマスまでもうすぐだし、何か考えようぜ?」

太郎のテンションが少し戻ってきたように、声が微妙に高くなる。

「うん、そうだね。私は雪が降ると素敵だなって思う。」

「雪、好きなのか?俺は寒いの嫌だよ。雪に関する記憶は全然ないけど、降ると寒いってのは感覚あるんだよ。」

「暖かい家の中から見るのが好きなんだ。昼間、優しく降り始めて、夜に積もると外がまるで音のない別世界になったみたい、そんなのが好き。ちょうど太郎と会った寒い夜、暖かいお店から外を見ていたときもそんな感じになりそうだったよ。」

「姉ちゃんの恰好が寒そうだったの覚えてる。何でこんなところにメイドがいるんだって。」

「ウエイトレス。あのときは太郎に追いつこうと必死だったんだから。さすがに寒かったよ。」

「ごめんよ。そうとは知らないで。」

「まあまあ。初対面だったし、こんなことになるなんて思ってもみなかったよね、あの夜は。」

「先のことなんてわからないよな。」

「そうそう。だけど、太郎言っていたよね、先のことは楽しいこと考えようって。だったら、たまにはでかけるのも楽しいんじゃないかな。」

「そうだよ、ひとりで家いても、まあ、姉ちゃんは楽しいかもしれないけど、誰かと出かけるのも楽しいんじゃないか?」

ツキは少し俯いて考えて、太郎のほうを改めて向き直した。

「そうね、じゃあデートしよう。何したいか考えてね。私も考えるから。」

「デ、デートって、そんな大したもんじゃないって。単に暇つぶしっていうか、楽しいこと考えるのにイベントに乗るっていうか、それに俺と姉ちゃんは歳も違うし、俺じゃあ釣り合わないだろうし。」

「ふふっ、なに動揺してるの。そう、大したことないよ。だって、いつも一緒に出かけているじゃない。」

「それは目的あってのことで・・・。」

「だから、別の目的で出かけよう。少しこの街を、冬を楽しもう。ふふっ、最初に言ったのは太郎だよ。」

「・・・。」

「何にも悪いことなんてないよ。歳なんて出かけるのに意味ある?釣り合うなんて誰が決めるの?私、高嶺の華なんかじゃないよ。」

「それは・・・。(そんなこと全然ないよ。)」

「たまには、ね?先のことはわからないんだし・・・。」

ツキは寂しそうで、太郎もなぜか涙が出そうになってきたのを堪えた。

「その次は私の水着姿でも想像しながら夏を楽しみにしていてね。」

「だから!誰も見たくないって。しかも夏ってまだずっと先じゃねえか。南半球かよ。」

遠くからエンジン音が聞こえ、目的のバスがロータリーへと入るのが見えた。


バスの中は想像どおり誰もいなかった。ロータリーを出て再びレストランのある大通りへと入る。車窓から見えるレストランは先ほどの騒ぎが嘘みたいに、営業時間を終えたかのように静かに周囲に溶け込んでいる。ふたりはバスが曲がって見えなくなるまで、ずっと目で追っていった。

「ねえ、太郎、ハンバーグ美味しかったね。」

「ああ、また、食べにこようよ。」

確かめるようにツキはいつも太郎の名を呼ぶ。そして、再びの沈黙。次があるのかも知れずに曖昧な約束を交わした。

大通りを曲がってからはずっと大きな道なりに進んでいく。特に目立ったランドマークや地方ならではのショッピングモールもあるわけでもなく、ひたすら住宅地を通過する。道路を走っているのはこのバスだけではと思うくらいに車を見ることもなく、窓の外から見える景色には、人影も見た記憶がないくらい殺伐としていた。道幅も広いだけに、人気のなさは寂しさを助長している。やがて、ツキたちの街とこの街を分けている山が目前に見えた。

「あれって前に言っていた火山?」

「そうだよ。ちょうど私たちの街と反対なんだね。以前はこの街も温泉が出て、旅館とかあったのかもね。駅前から送迎バスとか出ていたりして。」

「確かにロータリーは結構広かったけど、今じゃそんな気配すらしなかったよな。だったら、よく観光地にある顔出しパネルくらい置いてないのかよ。」

「あったら帰り写真撮っていこうか。」

「あったらな。江戸時代かなんかの旅人みたいなやつじゃない?姉ちゃん、ちょんまげのおっさんな。俺は芸者とか。」

「ふふっ、似合いそう。」

ふたりとも駅前の閑散とした景色の記憶に、そんなものは見た記憶がなかったのを覚えているだけに変な期待も同居していた。そんなとき、次の停車場を告げるアナウンスが流れた。

「ここだよ。」

ツキは降車ボタンを押した。バスはゆっくりと速度を落として停まった。バスを降りると、今まで以上に目立つものがない。大通り沿いにあったマンションやアパートなどの集合住宅は姿を消して、戸建てが建ち並ぶ住宅地と入っていた。唯一、バス停の近くにある時代を超えたような屋敷くらいしか特徴のある家は見当たらない。

「あ、あの江戸時代みたいなお屋敷、ここ何となく覚えているよ。確かこの辺りの道を進んで花屋さんの先を曲がったらすぐだった。ちょっと待てってね。地図開くから。」

太郎はツキがアプリを起動させ検索している間、近くをうろうろと歩いて様子を伺っていた。

「お待たせ。この道を進んですぐみたい。」

「目立ったものないからはぐれたら迷子になりそうだな。」

「ホントだよ。ちゃんとタブレット持ってきた?」

「大丈夫。ここに入ってる。」

ショルダーを軽く叩くと乾いた音がして、板状のものがあることを知らせた。

「姉ちゃんこそ手ぶらで、急に何かあって走ってスマホ落とすなよ。」

「うん、内ポケットのボタン閉じて落とさないようにする。」

「地図は?」

「覚えたし、ここまで来たら思い出したよ。もうすぐそこだからなくても平気。じゃあ、行こうか。」

曲がった先の道は、車の往来と歩道として通行人も通れるくらいで特に狭くはない。何かの特徴も見当たらない家を何件も通り過ぎると、シャッターこそ閉まってはいるが、花屋と思われる店があった。

「この看板、覚えてる。縁に描かれた花がかわいいから気になっていたよ。」

「看板も切り出したみたいな木の板ってのが雰囲気出しているな。姉ちゃん、こういうセンスとか好きそうだもんな。」

「うん、好き。これは親の影響だけじゃないと思う。私自身、絵が好き。よくアカネとアニメのキャラとか描いたり、美術の授業も好きだったよ。」

「そういや親の絵を見たことないって。それって記憶じゃなくて本当に見たことなかったんじゃない?」

「私もそう思ってきたよ。絵が完成したら家に置かなかったんじゃないかな。置かなかった理由があったのかも。」

「さっきのやつだよな。」

「そう。だからガレージでアカネと遊んだ記憶はしっかりと覚えている、そこには無かったと思う。」

「いつからなんだろうな、記憶が曖昧になっちまったのは?」

「そこなんだよね。どの時点で始まったのか。この街へ母親が戻ったのはそんな昔じゃないみたいだけど、そのときはもう始まっていたんだなって。」

 ふたり考え込んで、歩調も遅くなって、少しの沈黙。太郎がペースを上げるべく切り出した。

「ところでさ、もうすぐなんだろ?家は?」

「うん、この先。ここを曲がったら、きっと見えるはず。」

その道を曲がると、また特徴を探すのには時間を要する家々が並んでおり、その合間には駐車場らしき空地が不自然に空間を空けている。

「おかしいな、この辺りのはずだったと思うんだよなあ・・・。」

「家の特徴とか?姉ちゃん家って独特だったじゃない?そんな感じとかないのか?」

「うーん、今の家と違って普通に地味だったと思う。確か曲がって三,四件辺りだったと思ったけど。」

一角には駐車場も一件と含むと五件家が並んでいるだけで、すぐにまた曲がり角へと差し掛かってしまった。

「順に表札見て行こう。太郎は反対の家、見てもらえるかな?柊ね。木に冬の。」

「了解。」

ふたりは表札を見ながら道を戻ったが、「柊」と書かれた表札は見つからなかった。

「どう考えても、この駐車場がそうっぽいけど・・・。」

本来は五件並んでいただろう家々の真ん中を陣取るように、空白となった土地の前へと戻りツキは立ち止まった。

「マジで?ここ?」

「うん、この両隣の家、何となく覚えているし、地図アプリでもちゃんと家は映っていたよ。そうなると最近なくなったのかも。」

記憶を辿って考え込んでいるツキに代わり太郎がアプリを起動し、住所を表示している地図をツキに見せた。地図から周辺の写真へと移動しても、駐車場のある場所には何処にでもあるような特徴のない家が表示されていた。ズームしても表札はトラックが停まって見えないが、右隣の家の塀に貼られた番地を示すプレートにも間違いがないことを確認した。

「姉ちゃんの婆さんとかいるんじゃなかった?」

「祖父母がいたと思うんだけど、引っ越しちゃったのかな。」

「ここでいいみたいだし・・・。何かあったのかもしれないな。さっきのこともあったからなあ。」

「そんな、ここまで来たのに・・・。」

ふたりに今まで緊張と期待で忘れていた疲れが一気に押し寄せた。ツキは駐車場の車止めに腰かけた。太郎も反対の車止めに腰かけふたりは黙ってしまった。敷地内は車が六台置ける広さがあるが、奥に二台分の白線があるだけだった。コインパーキングではないことから、営利目的もなく、防犯か税金対策か、土地を遊ばせない措置としての契約駐車場のようだった。

日が徐々に暮れて遠い空は赤く染まり、夜が下りてくる気配が濃くなった。

「隣の家に聞いてみようよ?座っていても何にもならないよね。」

ツキが口を開くと同時に太郎が立ち上がっていた。

「今、俺もそう思っていた。」

「じゃあ、こっちから行こうか。」

ツキは駐車場、母親の旧家を目の前にして右隣の家のインターホンを押してみた。しかし、返答はなかった。駐車場へと戻って、一足先に向かい側の様子を伺いに行った太郎が首を振りながら戻ってきた。

「駄目だね。そろそろ電気点いてもいい時間なのに真っ暗。反対も期待できそうにない感じだよ。」

「そう・・・。一応試してみるね。」

左隣の家も同じ反応だった。駐車場を中心とした界隈の家々は電気が点灯する気配がない。

「空き家、じゃないよね?」

「いや、どうだか。でも、その割には家自体綺麗で住んでる感じだよな。居留守か?」

「私たちがここにいるとまずいかなあ?何か不気味だよね。」

「この一帯居留守だったら見事にご近所ぐるみだよ。てか、この街来てほとんど人見ていないんじゃなかったっけ?」

「うん、そうだよね。用事がない限り外へ出ないのかな?」

「にしちゃあ電気も点けないで、陰気臭い連中だな。」

「コラ、これだけ静かだと聞こえちゃうよ。」

「構うもんか。それで文句つけに出てくれば話早いじゃんか。」

「誰が陰気臭いんだって?」

すぐ後ろに一人の老婆が立っていた。少し乱れた乾燥しきった長髪は真っ白で、腰も曲がっており、深い皺だらけの顔は正に老婆といった風貌だった。

「うわあ!化け物!」

「ちょっと、失礼でしょ!きっと人間よ!」

「失礼なのは両方だよ!」

老婆は、ふたりを頭の先からつま先まで眺めるように視線を動かしながら怒鳴った。

「ゴメンなさい。悪気はないんです。この街で色々あったものでして・・・。」

「婆さんには普通じゃないような信じられないものばっかりだったから、説明しても無駄だと思うけど。」

老婆は太郎に視線を定め、瞳の中を覗き込むように視線を合わせて逸らさなかった。太郎は助けを求めるように、視線をツキへと逃がした。

「ふぁっ、この街じゃあみんな普通の生活なんて、とうの昔に忘れちまったよ。」

抜けた歯から空気が漏れるような笑い声が、老婆を一層不気味に演出している。

「では、この家に何があったかご存じですか?」

「そんなんは知らん。」

「何だよ?街がおかしくなった原因はここじゃないのかよ?」

「おかしいとはなんだ?これはみんなが求めてなるべくして成った結果でしかないんだよ。じゃあ何だ?私はおかしいってことかい?」

「すいません、そんなことありません。ただ、外からやってきた私たちには、今まで住んでいた街と雰囲気が違ったものですから。だから、そう感じてしまったと思います。」

「まあ、普通はそう思うわな。私も街が昔は今とは全然違うのは自覚しているつもりだよ。時間とともに慣れると、これが日常になっているんだよ。嫌なら出て行けいけばいい。みんな残ることを決めたか出ていけない連中なんだよ。」

「では、あなたはこの辺にずっとお住まいなんでしょうか?」

「そうだね、このちょっと先に家があるよ。何度か街を出ていっては戻ってきて、結局ここに居座っているかな。年を取ると腰が重くなるもんでね。ここの家の噂は嫌というほど耳に届いていたもんだよ。」

「それって、やっぱり絵のことだよな?」

「ああ、そうだよ。不可解なことが起るっていうね。私もあちこちにある絵に試そうと思ったけど、結局は欲しいものなんて思い浮かばなかったんだよ。」

「あちこちって、駅の近くにあるレストラン以外にもあったんですね?」

「おお、よく知っているね。もう潰れたと思っていたよ。」

「なんだよ、ちゃんとあったぜ?ハンバーグ美味かったよな。」

「そうだね。店長さんにもよくしてもらいました。絵は他にまだあるんですか?」

「もう無いんじゃないかな。柊さんが帰ってきたかと思えば間もなくいなくなって・・・。」

「一緒に無くなった、そんなオチじゃないのか?アタリ?」

「ああ、アタリだよ。ついでにここの家から誰もいなくなっちまったんだがね。」

「じゃあ、ここには年配の夫婦はいませんでしたか?」

「いたけど、いつの間にか引っ越したのか何処かへ行っちまったよ。柊さんがいなくなって間もなくかな。最後に見たとき、やるべき何かが終わったって感じだったかなあ。二人で家を眺めて悲しそうでも、なにか安心したような感じがしたなあ。」

「マジで?それでどうなった?」

「知らんわ。後は家しか残らなかったねえ。誰も住まなくなった家なんて物騒なもんさ。どっかの不動産屋が管理していたみたいだけど、ちょっと前に取り壊して、ほら、このとおりさ。売る気なんてなかったのかねえ。」

「そのお二人の引っ越し先とかわかりますか?」

「さあね。元々、私は交流なんてなかったし、近隣の連中もいつの間にか引っ越したからねえ。今いるのは最近越してきた連中よ。残っていた家が取り壊されたっていうことは、あんまりいいことになってはいないんじゃないかねえ。」

「それって、多分・・・。」

「姉ちゃん・・・。」

「私が知っているのはそんなくらいだよ。あんたら何しにきたか知らないけど、この辺はお宿も何もないよ。もう暗くなってきたし、早く帰ったほうがいいんじゃないかい?」

「はい、色々教えてくれてありがとうございました。」

「いやいや、こんなところまでご苦労だったね。そうだ、その駐車場、今だに誰も借り手がついていないくらい、何か変な感じがするんだよ。地面がいつも何となく暖かいっていうかねえ。散歩の途中よく一休みさせてもらっているんだよ。日が当たらないときや、夜なんてよく感じるよ。温泉でもあるんかねえ。」

「さっき感じた?」

「わかんね。」

「ふぁっ、言われないとわからないくらいってことだよ。そろそろ晩御飯だから帰るよ。」

「はい、ではお気をつけて。ありがとうございました。」

「じゃあな。」

「ふぁっ。」

老婆が見えなくなるまで、ふたりは無言で見送った。

「あのばあさん、晩御飯って何食べるんだろう。そもそも食事なんてするのか?」

「ちょっと生活感ないよね、ここの人たちって。そんな何人も会っていないけど。」

ふたりは駐車場へ戻り、車止めに腰を下ろした。

「暖かい?」

「全然。」

「こっちも。お婆さんのお話し、昼間の熱が残っていただけかもね。こんなに冷たい感じのする街だもの、ちょっとの暖かさが際立っているのかもしれないね。」

「それって俺たちもそんな感じ?」

「うん、似ていると思う。」

「何もないから、日の光をいっぱい浴びられるんだよね。」

「何もないのは嫌だなあ。」

「そうだね。でも、今はどうだろうね。」

再び静かな空気が流れた。夜が辺りを包み始めたが、まだ水平線は赤みを帯びている。いつもより夜になるのが遅い、そう感じるのは、夜が落ちてくるのをわずかに残った夕日の赤が支えているからだろうか。ふたりはこのまま終わるかと思っていた旅がまだ続くことに、口には出さないが安心していた。会話もなく静かな空間に座っていると、がらんとしたこの空間がふたりを包み込んでいるように感じる。

突然鳴ったLINEの着信音が空気を変えた。


「あ、アユミからだ。」

「前に聞いた最近仲よくなった同級生?」

「うん、ちょっと待ててね。」

慎重に受話器ボタンを押す。

「ツキ!い、今何処にいるの?」

その声はいつものクールなアユミとはあまりにかけ離れたほど慌ただしく、一瞬別人かと思われた。

「ちょっと電車で遠出しているよ。何かあったの?」

「アカネが危ないの!今家に向かっているんだけど!」

「えっ?何が起きたの?」

「アカネの、アカネの・・・!」

アユミは走っているようで、息を切らしながら話を続けようとするたびに言葉が出てこないようだった。

「少し落ち着いて!走らないでちょっとでも、早歩きでもいいから、呼吸、整えて。」

「う、うん。わかった!」

アユミは徐々に息と息の間が伸び、やがて落ち着いた。心配そうに見つめる太郎にも聞き取れるよう、スピーカーへと切り替えた。前に何度かアカネが複数の友人と、スマホの向こうの友人とも話をする際に行っていたのを見習った。

「どう、大丈夫?アカネに何があったの?」

「さっきアカネから電話あって、オヤジが暴れているの!アカネは、家から逃げたみたいだけど、スマホの向こうからガラスの割れる音や怒鳴り声が凄くって!声や音だけずっと拾っていたんだよ!お母さんやケンジ君の呼ぶ声が何度も響いて!」

「それでアカネの家へ向かっているところなんだね?」

「そう。電話口が最後静かになったから余計に怖くって。その後切れて繋がらないよ。」

「他に誰か一緒?」

「タカヒロは電話出ないから、LINEだけ送ったけどまだ未読。」

「今から私も向かう!」

「え?ツキ、遠出してるんじゃないの?」

「いい!ほっとけないよ!急いで行くから!」

「・・・。オッケー!何かあったら連絡するよ。」

「無理しないで。状況次第で警察にも連絡して。」

「うん、でも、きっとそこまでしたくないと思う。それに、あそこまで大事になっていれば、誰かの通報も時間の問題かも。それでも危なさそうだったら私も通報するよ。ありがとう。」

そこで通話は切れた。通話の終了とともに切り替わった画面には、着信があったことを知らせる表示が映し出された。①と赤くマークされている電話アイコンを開くと、レストランにいたころのアカネからの着信履歴が一件残っていた。

「そんな、気づかなかったなんて・・・。」

「あんなことの最中じゃあ仕方ないよ。それより、やばいことになってるんじゃない?」

「太郎!急いで戻るよ!」

ツキは落ち込んでいる場合ではないことは重々承知している。もし、通話に気がついていたら、目の前の目的を後回しにして戻っていただろうかとも考えたが、過ぎたことより今を、前を向かないとならない、そう切り替え、自分自身に気合を入れ直すつもりで声を張った。

「マジ?今からじゃ間に合わないよ。」

「それでも!」

「山一つ向こうだけど迂回していかないとなんないからなあ。」

「山・・・。」

ツキはしばらく山越しに自分たちの街、アカネの家の方向を見つめている。突然、思い出したかのように、コートのポケットに手を突っ込んで一枚の紙を取り出した。

「それって、確か俺らを見えなくするためのやつだろ。」

「昼間みたく変な騒ぎ起こしたら、アカネの家に行くどころじゃなくなるからね。」

「まさか・・・。」

ツキはその紙を半分に破り捨てた。紙は二枚ともほぼ同時に地面に落ち、地面に着く間際、突然、炎に包まれて跡形もなく消え失せた。すると一瞬、ツキと太郎は互いの姿が消えたように見え、目を何度も瞬かせたが、ふたりとも確かに存在し、視認可能なのは変わらなかった。それでも、そのちょっとした手品みたいなことですら信用に足るものはあった。ツキの行動で、太郎は何をするつもりかを理解した。

「本当にやる気なんだな!」

「うん、行くよ。」

ツキと太郎は手を繋ぎ駐車場から公道へと走り出した。車も通行人も来るはずはないとの確信と、来たとしても関係ないといわんばかりの助走で公道へと飛び出し、思い切り大地を蹴った。次の瞬間、ふたりの身体は跳び上がった、と思われたが、普通にジャンプした程度で公道の中心へと着地しただけだった。

「跳べない?」

「おいおい、急に何でだよ?」

「時間ない!もう一度!」

再び駐車場の奥まで走り、助走距離を取ってジャンプしたが、同じ結果だった。

「限界なの・・・?」

「あぁ、さっきレストランで、俺を助けて対岸へ戻るとき、ちゃんと跳べなかったよな?」

「まだ体力はあるのに?」

「多分、別物なんじゃないか?桜子風だと魔力とか?昼間あんなに跳んでかなり力使っちゃったんじゃないのかな?」

「こんな大事なときに!」

「考えても時間経つだけだろ?駄目なら別の手で急いで戻ろうよ。バスはもう終わっただろうけど、途中でタクシー通ったら拾おうよ。あれ、俺ら視えないか?」

「それでも、それしかない、かな・・・。」

急にふたりの足取りが重くなった。先ほどから空の暗闇を支えている夕日が、夜の裂け目からふたりを見守っている。その情景が変わることなく続いていることが、人気のない静かな街と相まって、まるで時間が止まったかのように感じられる。

放心状態だったツキは、ふと何かの気配のようなものを感じ後ろを振り返ると、わずかでも夕日に照らされているためか、かつて母親の家のあったスペースがほんのり輝いているように見える。その変化に太郎も振り返る。

「これってさっきの婆さんが言っていた?」

「太郎にも見える?」

「ああ、何があるか行ってみようか?」

ふたりは駐車場に足を踏み入れ、中心まで進んだ。

「何か、別にそんな暖かいとか感じないけど?」

太郎は駐車場内を歩き回ったが、特段身体に変化は感じなかった。

「確かにそんな暖かくないね。でも、疲れが取れる感じしない?」

「ええ?俺は別に。気持ちの問題か?」

「そう?私だけかな?身体が軽いっていうか・・・。」

ツキは姿の見えない誰かに呼びかけられた気がした。その声は男性ではないことは確信した。

「姉ちゃん?」

ツキは駐車場の中心で足元を見つめたままで返答はなかった。太郎が下からツキを覗き込むと、顔を上げて消えそうな声で呟いた。

「大丈夫、次は行ける。」

「え、何?何処へ?」

「私たちの街、アカネとアユミの元へ!」

ツキは駐車場の奥まで進んで振り返り、そこで太郎を待った。太郎もそれ以上は何も言わず、ツキの隣へと進んで並んだ。再び、ふたりは手を繋いだのを合図に再び駆け出す

アユミから告げられた非常事態に混乱して、さまざまな感情が頭の中で蠢いていたのが、今はとても穏やかだった。ここにいると身体が軽くなって、今までの疲労が吹き飛ぶ気がする。

また、誰かが呼んだ気がした。そして、今は跳ぶことだけに意識を集中する。駐車場の全長が滑走路と思えるくらい、何処までも長く伸びているように見える。公道に出る間際、再び大地を蹴り、まるで崖を飛び越えるが如く、何かを懸けたかのようなジャンプだった。

大地を蹴ると一呼吸遅れて視界がブラックアウトし、風を切り裂きながら重力から解き放たれたのを実感した。次に目の前を意識したときには、ふたりは夜の黒い雲の真下にあった。それでも、ツキの街までは距離が足りないのは明白だった。

「おい、このままじゃあ、あの山に落ちちまうよ!」

太郎の声が空気圧で押し込まれて、まるで遠くから聞こえる。すでに跳躍の頂点からは折り返しに入り、山頂に向けて緩やかに降下を始めた。以前、何かの映像で観た山は、山頂に火口の窪みを有していたが、ツキたちの着地点と思われる場所よりは少しずれているのは、そこに飲み込まれず幸いだった。

その間も、ツキは山の向こう側の目的地を狙い定めている。風で全身を刻まれるかのような痛みさえ麻痺している。目の前に大小の火山岩を露出した山肌が迫る。遠目にいつも黒く見えた山も、木々といった緑がないだけで、無機質な大きな岩の塊にしか見えず、太郎には、まるで高所からアスファルトへ叩きつけられるかのようなイメージが脳裏に浮かんだ。

「姉ちゃん!」

「もう一度、行くよ!」

ツキは黒い大地に叩きつけられる手前で、反り返った身体を整え前傾姿勢となり、力強く山肌を蹴った。それに太郎も倣う。再びふたりの身体は空へと舞う。それでも今までの高さに達することはなかったが、ツキたちの街への距離を稼ぐには十分だった。

ツキの背後、火口付近に何かの気配を感じて振り返ると、黒い人影が立っている。それは、よく知っている人物であったように見えた。その影はずっとこちらを見ている。その姿が誰なのか確信に変わる前に、わずかに残った夕日も闇に飲み込まれて、辺りは暗闇に包まれてしまった。まるで今まで止まっていた時間が再び動き出したのか、持ちこたえていた日の光が、遂に限界を迎えた。

「姉ちゃん!」

ツキは太郎の呼ぶ声で我に返った。

「このままじゃあ、ヤバい所に着地しそうだよ!」

曲線を描いて着地する先を想像すると、大きな無数の光の塊、ツキの街の駅周辺に落ちることが濃厚だった。道路に辿り着けば問題ないが、建物への衝突、人に直撃したら自他ともに無事では済まない。最悪、線路や車道に落ちれば大惨事になりかねない。

「太郎!お願いできる?」

「何を!」

「あっちへ向かって力、使ってみて!」

ツキはそう言って海の方向を指し示した。

「ああ、駄目元でやってみる!」

高度も下がるにつれて考える暇もなくなり、太郎は言われたとおりツキが指し示した先へと繋いだ右手の反対、目を閉じて左手を突き出し、目の前の何かを突き飛ばすよう集中した。全身の血が巡って手の平へと流れ込み、そこから一直線に突き出るイメージを描いた。それはレストランで人形を相手に掴んだイメージだった。

イメージが重なると太郎の手が鈍く光り、ふたりは進行方向に対して直角に吹き飛ばされた。急な方向転換は大きな力が負担となって全身を引っ張り、体制が、天地が乱れる。ふたりは空中で天地逆さまに、まるでダンスを踊っているように見える。

「ぐえっ、Gがやばい!」

「太郎、大丈夫?」

「ああ、ムチウチってやつになるのかな?それより、このままだとどうよ?」

道行く人の視線が届く距離まで落ちてきている。それでも、誰もふたりの存在がわからないのは、桜子の札の効果があるのは間違いない。ツキは周囲を確認し、頭上に大きな空地を見つけた。それはいつも通っている高校のグランドだった。

「太郎!学校のグランド、見える?もう少し右へ寄れる?」

「右ってどっちだよ?」

ツキは太郎の左手に自分の右手の指を絡めて握りまっすぐと伸ばした。

「このままさっきより弱め、半分くらいでいける?」

「了解、やってみる。」

太郎は再び集中した。先ほどより小さな光が拳に宿り、消えた瞬間ふたりの身体はほんの少し押し出されるように角度を変え、それによって発生した回転は上下逆さまのふたりを元へと戻してくれた。

軌道は学校のグランドの方向へ収まる角度に修正された。落下は続き、地面が徐々に迫ってくる。地面が近づくと、さらに速度を増したかのような体感に陥る。ふたりは体制を整え着地の体制を取り、脚が地面に着いたタイミングで光の環が展開され衝撃を吸収した。桜子のセリフを思い出し、着地までが正しい形だと信じていた。それでも勢いは収まらず、背中を誰かに押されたかのように前のめりとなって体制を崩し、前転や横回転も交えながら不規則に転がりながら、数メートル先の塀際のネットにぶつかって止まった。

「痛たたっ、何とか着いたみたいだね。」

「派手に転んだよな。体中が痛えよ。それでも、一応は着陸成功ってとこなんだろうな。」

「ゴメン、危険な目に合わせちゃって・・・。」

「な、何だよ。平気だよ、俺も姉ちゃんの提案に乗ったんだから。そんなの責めてんじゃないよ。無事に着地できたんだから結果オーラオじゃないかよ。まあ、無事っていうにはちょっとアレだけど。」

「そうだよね。太郎、巻き込んじゃって。」

「だから、俺はいいんだよ。姉ちゃんが無理してんじゃないかって。」

「・・・。そうかもしれない。気ばっかり焦って何とかしないとって。」

「いやいや、俺はそんな姉ちゃんを信じているんだよ?いつもちょっと俯いて考え込んだかと思えば、次は決心したように前を向いて駆け出す。その前にちゃんと俺の名前呼んでくれる。それだけでも、失敗しても間違いないって思うんだよ。まあ、俺たちなら失敗しないって変な自信もあるんだけどね。」

「ありがとう。こんな私を信じてくれて。でもね、太郎を呼ぶのはひとりじゃ心細いから。逆に私も太郎なら来てくれるって信じている。だから呼ぶの。」

「な、何言ってんだよ。周りに他に呼ぶ奴なんて、俺しかいないじゃんかよ。」

「それもそうね。こんなことになったのも、いつも太郎と一緒だからかもしれないね。」

「だろ?俺だけだったんだって。」

「うん。こんな、あり得ない状況で、世界中で私を理解してくれるのは太郎ひとりでもいいよ。」

「お、おい、何寂しいこと言ってんだよ。ひとりなんて。ほら、最近親しい友達もできたって言ってるだろ。きっと今の状況も話せるようになる、って、あ!」

「あ、そうだったね!急いで行かないと。」

ツキは立ち上がろうとしたが、両足に力が入らずその場に座り込んでしまった。

「大丈夫かよ!」

「疲れちゃったのかな?脚に力が入らない。今になって気づいたけど感覚がないんだ。もう少しなのに。」

悔しそうに唇を噛み締め、何度も立ち上がろうとするが、そのたびにグラウンドの砂を巻き上げるだけだった。

「少し休んでろよ。先に俺が行ってくる。」

ツキの肩に手をかけて太郎が立ち上がった。

「待って、ひとりじゃ危ないよ!」

「姉ちゃんの友達も行ってるんだろ?誰もひとりじゃないよ。姉ちゃんは少し休んでからで。」

「でも・・・。」

「そんなことより、早く家までナビしてくれよ。せっかくショートカットしたんだ、取り返しつかなくなる前に間に合ったんじゃないか?」

「うん、きっとそうだね。私のスマホ使って。タブレットじゃ、画面見ながら歩くのって、やりにくいでしょ?確認しながらで迷わないように。今度イヤホンマイク買おう。」

「今度な。それよりさっきので壊れていないといいけど・・・。」

太郎はショルダーから真っ暗な画面で沈黙しているタブレットを取り出し、電源ボタンを押した。

「よかった、壊れてないみたいだよ。」

ふたりはスマホとタブレットを交換し、ショルダーはツキが使うことになった。

「じゃあ、太郎が学校出たら連絡するから、現在地を常に教えて。」

「了解。」

「今アカネのお父さんはかなり激しいみたいだから気をつけて。普段は温厚で、無関心な感じであんまり人に興味示さないけど、何かの拍子にスイッチ入ると暴力的になって暴れちゃうんだよ。きっとその状態。まだギリギリ警察沙汰になっていないみたい。アカネたちに会ったら一緒に逃げて。それも難しそうだったら近所の人を呼んで。そうすれば無暗やたらに人に手を出すとは思えないから。」

「そうか、ヤバいな。最悪やり合うことになんてならなければいいけど。」

「力はやめてね。大分慣れたと思うけど、それでも危ないものには変わりないよ。人間とアスファルトは全然違う。立ち向かうなんて考えないで逃げて。」

「ああ。それよりアカネさんと友達はどんな人?写真ある?」

「あ、最近、写真なんて撮ってなかった。」

「マジかよ。ホントに女子高生かよ。」

「ふふっ、ホントに。こんなことになるなんて。説明するとアカネは小っちゃくてショートカットの童顔。下手すれば太郎の同級生って思われるくらい。」

「それマジに言ってる?」

「それくらいの特徴でわかるはず。次にアユミはモデル系。すらっとした体形の黒髪ロングで涼しげなメイクが特徴。話すと見た目どおりでいかにもだからわかるよ。」

「それも判別難しいっぽいけど。」

「大丈夫、ホントに二人とも見たままだよ。多分、修羅場だから中心にいるのが二人。」

「ああ、それだったら間違いなさそうだな。逆に心配は向こうが俺のことを知らないってくらいだな。」

「太郎のことは話しているし、私の名前出せばわかるはず。まだ、お札の効果残っているかな?見た目じゃわからないね。兎に角、危なければすぐに人呼ぶべきだと思う。」

「そうだな。俺に何ができるかわからないけど行ってくるな。後から来てくれよ。」

「うん、少しずつだけど、脚の感覚が戻っているみたい。そんなに時間かからないと思う。」

ツキは再び立ち上がろうとしたが、中腰の状態までいくと、糸が切れたかのように地面へと崩れ落ちてしまった。

「おいおい、休んでいろって。」

「うん、ありがとう。さ、あっちの門の先だよ。」

ツキが指し示した校門は、さすが休日のこの時間は閉まっている。外に出るには越えないとならないが太郎の運動神経では造作もないことだとわかっていた。太郎は校門近くまで走っていったかと思うと辺りを見回し、今度は校舎のほうへと走っていった。間もなく、折り畳まれてはいるが、開けば身の丈はありそうな脚立を手にして戻ってきた。校門脇に脚立を置いてツキの元へ走り寄った。

「これ使って。もう行くな。」

「うん、ありがとう。お願い。」

太郎は脚立をそのままに、器用に校門を上って向こう側へと乗り越えて、闇へと消えていった。


ツキたちの高校を越えてナビどおりに進むと小中学校が見えた。小学校と中学校が隣接しており、その大きさと校舎の数から、以前は一学年でさえ相当数の生徒が在校していたことを想像させる。

「そう、そこが私たちの学校だよ。そこを越えたらもうすぐだよ。」

「了解。こっちもまた状況連絡するよ。」

スマホの向こうでツキが息切れしているのを感じる。不自由は身体をおしながらこちらへ向かっているのが感じ取れる。それについて太郎は何も言わなかった。

再びツキのナビを頼りに進むと徐々に人数が増えてきた。誰もが同じ方向を注視しているようで、嫌な予感が太郎の胸に過った。

やがて、人だかりの中心となる家が見えてきた。ツキのナビのゴールであることは明白だった。そこには、少し前までは何の変哲もなかった一軒家が建っていた。窓ガラスは所々割れて、玄関の扉がなくなっている。扉はおそらく内側から蹴破られたようで、家の目の前に無残に転がっている。相当な騒ぎだったようで、近所の人たちが様子を見にきていたようだった。

「きっと、この家だろうけど、姉ちゃん、家がめちゃくちゃで猛獣が暴れたみたいだ。」

「・・・。アカネはいる?」

ツキの声は冷静を装っていても震えている。

「見当たらないよ。特に物音や声は聞こえないみたい。中に入ってみるよ。」

「待って、やっぱり誰か呼んだほうがいいよ。」

「誰かって、周りは人が沢山いるから何かあっても大丈夫だよ。」

太郎は人の間をすり抜けて家の中へと入った。直ぐ傍を通り過ぎても、誰も太郎のことを認識していない。

(まだ札の効果が残っていたんだな。これはラッキーかも。悪いけど緊急事態だ、土足で上がらせてもらうよ。)

玄関を見ると女物の靴が二足散乱している。他の靴は見当たらない。男物がないのを見ると父親とケンジは家の中にはいないと思われる。

一階はどの部屋も扉が開かれていた。まるで何者か何かを探して、一部屋ごと確認していたかのようだった。

太郎は入口から近い部屋から誰かいないか確認しながら進む。どの部屋も棚に置かれていた物が散乱し、リビングではテーブルとイスがセットにならないような配置で乱れている。テーブルの上に置かれていた食器が床に散乱して割れていた。そんなリビングに入ったら靴こそ履いてはいるが、破片を踏んで後々厄介なことになるのを避けるため確認だけして後にした。

やがて、奥の寝室らしき部屋で女性がベッドの上で座って俯いているのが見えた。時々嗚咽が聞こえる。太郎は年恰好からしてアカネの母親と推測した。所々衣類が乱れているようで、ツキの警告がいよいよ本物であることを予感させる。母親は突然起き上がると、衣服を整えて玄関へ向かって歩き出した。太郎の横を通り過ぎる母親は身体的には一見して問題は見当たらなかった。話しかけることで事態を混乱させること危惧し、人に見えないこの状況を活かせるだけ活かすために、敢えてそのまま見送り二階へと向かった。

階段の途中、後ろのからヒールが石畳を突く音が聞こえ、靴を履いて外出したことを知らせた。何やら野次馬たちが声をかけているようだが、太郎はひとまず母親は自分で何とかできると断定し、今はツキの友人に会うことのほうが重要な任務と捉えて、家の中へ意識を集中したために、外野の会話は何も頭に入ってこなかった。

二階へ上がると、再び各部屋の扉が開けっ放しとなっていた。奥にはこちらの扉も内側から蹴破られたのか、蝶番が外れて壁に寄りかかっているような状態の部屋があった。太郎はこの部屋がもっとも危険、若しくは何かが起きていたと感じ、興味と警戒を掻き立てられたが、堅実に手前の部屋の中を一つ一つ調べながら奥へと進んだ。予想どおり、途中どの部屋にも人の気配はしなかった。

アカネが普段履かない靴を仕舞う習慣があるのであれば、玄関にあった靴の数からして、もう一人誰かいるはずであった。それがアユミかアカネであると。

探索の最後は、初見から何かがあると感じた扉が壊れている部屋だった。恐る恐る中を覗き込むと、一人の女性が床に仰向けで倒れているのが目に入った。部屋の中でもセミロングのコートを羽織ったままでいるところから、この家の住人ではないことがわかる。目を閉じて息が少し乱れており、太郎が家に入る少し前に何か暴力的なものに抵抗したのか、力尽きた身体を休ませて体力を取り戻そうとしている。長い黒髪が床で四方に放射線状に広がっている。本来では色白であろうと思われる顔は興奮のために真っ赤に染まっている。ツキの話と状況からアユミの可能性が高い。

家の惨状の顛末、アカネの行き先の情報もアユミが握っているのは明白であり、他人に自身の姿が見えないとしても、何とかアユミに協力を頼まないと先へ進めない。それ以上に、このままアユミをほっておけなかった。形振り構わず声をかける。

「ねえ、あんた、アユミさん?」

アユミは声がするのに姿が見えない何かに怯えたようで、飛び跳ねるように起きて部屋の隅へと後退り、中腰となって構え、周囲を見回した。

「誰?アカネ?戻ったの?」

この女性がアユミであることを確認した。

「誰かいる?ツキ、来てくれたの?」

再び問いかけるアユミに近づいて腰を下ろし、目線を合わせてみたが、視線は太郎のさらに後ろを見つめている。

「ツキ姉ちゃんはもうすぐ来るよ。」

太郎はアユミの肩を軽く叩いた。次の瞬間、アユミは上ずった声で悲鳴を上げた。

「きゃあ!お化け?え?誰?何処から来たの?」

今のアユミには太郎が見えているようだった。そのまま真正面の太郎から身体を横にスライドさせて逃げ道を探しているようであった。

「ちょっと待って!怪しい者じゃないよ!落ち着いて、オヤジに気づかれたらヤバイよ。」

「・・・。」

動きを止めて太郎を凝視し、あらゆる情報から何者かを推測しているようだが、やがて考えが纏まったようで、心なしかさっきまで張っていた肩の力が抜けているかに見えた。

「さ、さっきツキって言ったよね?」

突然、目の前に現れた少年の正体よりツキの名前が気になっている。寧ろ、その一言が、目の前の少年に対しての警戒を解いた。

「ああ。姉ちゃん、もうすぐだと思うよ。」

「あなた、ツキの何?」

「何って・・・。」

その「何」に何を含んでいるか少し想像したが、答えは最初から用意されている。

「俺はツキ姉ちゃんの親戚だよ。」

 今の太郎に自分の名前を言うことは憚られた。

「何それ?初めて聞いたんだけど。」

「姉ちゃん、あんまり人に自分のこと話さないからなあ・・・。」

「ああ、確かにね。」

「でしょ?」

「で、何でここにいるの?」

アユミは今更ながら平静を装うかのように急いで乱れた髪と服装を整える。突然見知らぬ少年が現れて、不測の事態に焦っているとは悟られないように、体制を戻し冷静な口調で返してきた。少し早口で、端的に切る感じのセリフは一見の冷たさから警戒か元々の性格か、太郎にこれ以上踏み込ませない強さがあった。

「さっきまで姉ちゃんと一緒だったんだけど、急にアユミさんから連絡あったから、俺だけ先に急いで来たんだよ。友達が危ないって。」

「ホントに?ならツキは?少し遠出しているって聞いたけど?」

「急いできたからちょっと身体が・・・。今、姉ちゃんは学校あたりで少し休んでいるよ。」

「身体がって、大丈夫なの?」

「うん、少し休めば問題ないって。ひどい筋肉痛みたいな感じ。俺はここまでナビしてくれたから辿り着いたんだよ。」

再び太郎を値踏みするかのように、上から下まで何往復も見つめている。

「名前、何?」

「太郎。」

「ありがとう、来てくれて。」

アユミは相変わらず突っぱねるような口調だったが、素直なお礼の一言は、今までの冷たい印象を取り払い、不思議と親近感を感じさせた。

「一体何があったの?」

「アカネのオヤジが暴れるだけ暴れてこの有様。来たときにはすでに家は荒れ放題だったよ。やばそうだから直ぐに家の中に入ってみたら、止めに入っている母さんをそのたびに突き飛ばして、最悪だよ。」

太郎はアユミも同じように友人の父親をオヤジ呼ばわりすることに、ある種の仲間意識を感じた。

「何でそんなになってんの?」

「相変わらず別れるだの揉めていたんだって。時々やらかしているから、いつものことだと思っていたら今回は違ったみたい。本気だったみたいで、断った母さんと口論になって暴れ出したらしいよ。アカネも振り回されたりで、もうぐちゃぐちゃ。」

「マジかよ。こりゃ頭おかしいレベルだよ。さっき下にお母さんらしい人がいたけど、何処かへ行ったみたい。普通に歩けていたから、一応怪我はしていないのかな。アユミさんは大丈夫だったの?」

「私も止めようとしたんだけど、突き飛ばされたりでこんな状態。変なところ入って、ちょっと動けなくなっちゃたんだよ。」

最初に見たアユミを思い出してみても、突き飛ばされたというレベルではなさそうだったが、それ以上、太郎は問い直すことはしなかった。

「最悪だ。女に手を出す奴なんて、男としちゃ最低だな。」

「あんた、年下の割には何か経験したような感じだよね?」

「いやあ、そんなもんじゃない?まあ、俺にも何かと色々あるもんだよ。」

「まさかツキと何かあった?」

「い、いやいや、何もないんだけどね。世間一般論。それより、例のアカネさんはどうなったの?」

「アカネはオヤジの後を追って出てったと思う。それに、弟のケンジ君の姿が見えないんだよ。」

「急いで追いかけないと。」

「ええ、でも、行先わからない。」

「心当たりはあったりする?アカネさんに聞いたこととか何かない?」

「そういえば、前に聞いたことあったけど、毎回暴れて出て行って、暫くして帰ってくると決まって酒臭いって。」

「本当に常習犯じゃないか。じゃあ、行きつけのお店かな?」

「そうかも。アカネも行ったから、また暴れていたらすぐにわかりそう。」

「連絡取れる?」

「やってみる。」

アユミは部屋の隅に投げ出されていた私物のバッグからスマホを取り出して、アカネに連絡を試みた。呼び出し音が一定時間続いた後、対象者が出ないことを告げる音声が流れた。

「駄目、出ない。」

「姉ちゃんにも聞いたことあるか聞いてみる。」

今度は太郎がツキに連絡を取った。間もなく応答したスマホの向こうから聞こえる声は、少し懐かしく感じる。

「太郎?今何処?ケガとかは?」

スマホのスピーカーの向こうから聞こえたツキの声は疲労か心配か、消えそうなくらいに遠く聞こえた。探るような口調は、太郎が何かしらのトラブルに巻き込まれていることを前提としている。

「今、アカネさん家。でも、オヤジとアカネさんはいなかったよ。」

「太郎、無事なんだね?」

「ああ。でも、アユミさんが暴力ふられたみたいでケガしてるよ。」

「えっ?アユミは大丈夫なの?」

アユミは太郎へ手を差し伸べてスマホを要求する。太郎も意図を汲んで、そっとアユミへとスマホを手渡す。

「ツキ?ツキだよね?近くなの?」

「あぁ、アユミ・・・。そうだよ。今小学校あたり。ちょっと疲れちゃって、少しずつだけどそっちへ向かっているよ。それよりアユミは大丈夫?暴力ふられたって?ケガは?」

「全然大したことない。でも、よかった。まさか来てくれるなんて。無理させちゃったみたい。」

「ゴメン、すぐ行けなくて、役に立てなくて。」

ツキの声は少し泣きそうで、それでいながら、状況は芳しくはないが、アユミと話せて安心したように聞こえる。

「何言ってんのよ。太郎君連れてきてくれたじゃない。」

「俺はまだ何もしてないけど?」

「ううん、誰かいてくれるだけで心強い。それより、アカネからオヤジがこんなときに行く場所とか聞いたことあったりする?どの辺とかでも。」

「飲めるお店がどのあたりにあるとかわからないな・・・。」

「だよね。私ら飲み屋なんて行かないもんね。」

三者それぞれ何かを考える沈黙が流れた。アユミは床を見つめ、太郎は窓の外を覗き込んだ。

「アユミさん、とりあえず野次馬にどっち行ったか聞いてみようよ。ここにいても何にもならないと思う。姉ちゃん、先行ってるよ。」

太郎はアユミの手元のスマホに向かって、ツキにも聞こえるような声を上げた。

「二人とも気をつけて。何かわかったら教えてね。後から行くから。それと、私からもアカネに連絡取ってみるよ。」

「わかった。じゃあ行くね。ツキも気をつけて。」

「うん。後でね。」

アユミはスマホの通話を切って太郎へと返して荷物を纏め、目先の目的が決まった二人は階下へと急いだ。

外にはまだ何人か野次馬が立っていた。家の中を伺っている者、雑談をしている者たち、スマホを触っている者と、それぞれ好き勝手なことをしている。二人が二階から勢いよく下りてきて、全員がこちらへ向かっていることに気がつき、気まずそうに道を開けた。アユミはその中で、玄関前で家の中を伺っていた大学生風の若者に声をかけた。

「ねえ、あんた、家の中からオヤジが出て行くの見なかった?どっち行ったか知ってる?」

「えっ?ああ、あの人ならもの凄い形相で、あっちへ向かっていったよ。」

アユミは気まずそうに答えた若者を射殺すような目で睨みつけると、若者は逃げるように目を逸らした。太郎に向かって頷き、若者が示した方向を顎で指し歩き出した。太郎も二人を見ないように目を逸らしている若者を睨みつけ、そのやり取りを遠巻きに見ている他の連中へも敵意の眼差しを向けて一瞥し、アカネの後を追った。

二人はアカネの学校とは反対方面へと向かっている。途中、アカネはスマホを取り出し、何か操作をして再びコートのポケットへと仕舞った。走りたい気持ちはあったが、街の暗がりの中にアカネが潜んでいても見落とさないようと、常に辺りを見回しながら慎重に進む。

アユミは太郎たちが昼間向かった山の北側の街とは反対、南の街から電車で通学していたので駅から学校までが行動範囲、学校を通り過ぎるエリアとなると土地勘がなかった。

逆に太郎は白紙の地図に何があるか観察し書き込むという作業を日々行い、塗りつぶすかのように街を回っており、今から向かう方面はすでに足を運んでいたので、どのような場所かわかっていた。

「こっちには幾つか店が集まっていて、ちょっと賑やかだと思うよ。」

「知っているの?太郎君はこの辺に住んでいるの?」

「え、いや、住んでるのはちょっと遠くだけど、ここらは前に来たことあったから。」

「そうなんだね。ツキとはよく会っていたの?太郎君のことは初めてだったから。」

「あ、ああ。たまにかな。さっきも言ったけど、姉ちゃん人見知りだから自分のことは人に話さないからね。今日まで俺のこと知らなかったのも納得。」

「確かに。でも、ツキとは最近かな、ちゃんと話すようになったのは。」

「俺もそんなこと聞いたよ。親しい友達ができたって。何か変だよな。学校で会っているのに。」

「同じクラスだからって、みんな親しいわけじゃないよ。私だって全然話さない奴、結構いるよ。それに仲いいと思っていても相手がどう思っているかなんてわからないね。だから、友達ってLINEみたく知り合い全員ともだちだなんてこと、あるわけないんじゃない?」

「じゃあ、姉ちゃんにとっても、アユミさんは本当に友達なんだね。」

アユミの一瞬はっとした表情に太郎は何かを感じたようだった。

「あの子、友達ほとんどいないから。ちょっと親しくなったくらいで友達なんだよ。」

「それだけ嬉しかったんじゃない?一見ボッチの陰キャだけど、話すことは話すよ。逆に、だからこそ隠しごとなんてできるほど器用じゃないし、感じたことそのまま話していると思うよ。」

「ホントバカ正直だから・・・。ま、そんなツキは嫌いじゃないよ。あんたもそんなでしょ?」

「まあね。ちゃんとしてりゃ、いい女だと思うんだけどな。陰キャっぽいうえに天然でちょっとおかしなセンス持ってるのがねぇ・・・。」

「でしょ?珍味みたいな変な味があるんだよね。それ含めて太郎君もツキが好きなんだね。」

「い、いや!好きだとかそんなんはないんだって。嫌いじゃないってこと。」

「何照れてんの。親戚でも好きなものは好きでいいんだよ。私も昔いとこのお兄ちゃんとかいいなって思っていたんだよ。だから、今の私があるんだって、気づいてからこんな簡単に他人事みたく話せるようになったから。」

「そんなもんなのかな?よくわかんね。」

「アハッ、いずれわかるんじゃない?ツキにもそんな風に子ども扱いされてんのかな?」

「姉ちゃんも子どもだから同レベルである意味対等だよ。それ以下でも以上でもないよ。」

「えっ?そうなの?何か意外。」

「何で?」

「実はもっと大人っぽいかと思ったよ。ツキってあんなだけど、家庭のこともあってさ、ひとりで生活したり、早くからバイトして私たちよりちょっとだけ早く世間に出てるの、知ってるよね?」

「ああ、大体は聞いてるよ。」

「無理やり大人にならないとならない事情があって、そこに心が追いついていない感じがするんだよね。何ていうかバランスがすっごく悪いんだよね。具体的に何って言えないけど。今話しているツキは、話題が変わると別の顔のツキが出てくることがあったりね。大人と子どもが入れ替わっているっていうか。そんなあの子が一定して接しているのがびっくり。私、アカネほど付き合い長くないから、その距離でまだ見えている部分の話しなんだけどね。」

「子どもってアユミさんやアカネさんと一緒が楽しいから、知らないうちに出ちゃっているんじゃない?素がそれなんじゃないの?」

「あんた、年下?やけに達観してるね。」

「達観て?」

「よくわかっているねってこと。」

「あの姉ちゃんと一緒だと、鍛えられるからだと思う。」

「そうなんだね。なんか、ありがとね。ツキのこと好きでいてやってね。」

「なんだよ。一体?それに好きとかそんなこと話していたの、絶対にばらすなよ?後でからかわれるのが目に見えて困るよ。」

「アハハッ!あんたらほんと面白いね。これ終わったらみんなで遊びにいこうよ。」

「姉ちゃんも同じこと言ってた。」

「へえ、あのツキが?何処に?」

「色々。海でBBQとか。」

太郎は敢えてクリスマスは外して答えた。

「意外!楽しそうじゃないBBQ。でも、冬は寒くって、外でお肉どころじゃないね。夏だよね、やっぱり。」

「でしょ!いいよね。海。」

「おや?何かあんたいやらしい顔してる。」

「また姉ちゃんと同じこと・・・。女子の水着姿目的でしょとか。」

「そこまで言ってないよ?やっぱりそうなんだ、スケベ太郎。」

「ちょっと!マジでやめてくれよ。姉ちゃんがもうひとりいるみたいじゃんか。」

「いや、マジあんた楽しいね。もっと早く紹介してって。ツキん家へはよく来るの?今更だけど、こんな夜に親とか心配しない?親御さんにはツキがいる前提だから大丈夫って思って付き合ってもらっているけど?」

「俺、今は姉ちゃん家で居候だよ。受験勉強で実家は環境悪いから。あそこの家は空き部屋も沢山あって、勉強に集中する環境整っているからね。」

「それって同棲なんじゃん?まあ親戚だったら変でもないか?」

「ど、同棲ってそんな大層なものじゃ!」

「プッ、また慌てて・・・。家の環境悪いって、あんたも色々あるんだね。」

アユミには、太郎の初々しさの意味が何となく読み取れた気がした。

二人は会話に夢中になって今まで意識しなかったが、街が大分明るくなっている。大通りに入って飲食のチェーン店や小さな複合施設が何件か並ぶエリアに入っている。

二人はアカネへの心配を紛らわすかのように明るく振舞ってきたが、この明るい街並みと、隙間にねじ込まれたような暗がりが現実を突きつけている。明かりの灯る建物と建物との間に生じる影が不安を形に変えて、もの言いたげに所々に潜んでこちらを見ているようで、自然と口数も減ってしまった。

街の変化に気づく遅れを取り戻すように辺りを見回したが、アカネの気配はなかった。賑やかな通りを進み、チェーン店や大きな建物は見当たらなくなり、入れ替わるように個人店がまばらに点在するようになってきた。

そのとき、アユミのスマホが反応を示した。

「アカネだ!」

とっさに受話器ボタンをタップしたスマホの向こうから、泣きそうなアカネの声が聞こえる。

「アユミ?」

「あんた何処にいるの?」

「バーみたいなお店の前。お父さん追いかけたら、ここに入って行ったの。」

「何て店?」

「え?えっと、ルート66?」

「ルート66?ちょっと、そこで待ってなさいよ!今行くから!」

アユミはわざと店の名前を反芻し、隣の太郎に目配せした。直ぐに太郎はスマホで店を検索する。

「ごめんね。巻き込んじゃって。私の問題に。」

「何言ってんのよ!そんなのどうでもいいんだよ。それより、助け求めて勝手にどっか行ったりしないでよ!」

「ごめん。どうしたらいいか、私じゃどうすることもできなくて。改めてこういう時話せるのって、やっぱりアユミとツキだけかなって思っちゃったんだよ。」

「あ、そうだ!ツキが今こっち向かっているよ。」

「そうなの?だって、ツキは遠出してるんじゃないの?」

「何で知ってるの?」

「昼間、駅で見たんだよ。お父さんが外で話あるからって駅で待ち合わせしていたら見たよ。」

「そうなんだ。さっき、あたしが呼んだんだよ。お店みんなで行くから待ってて。」

「ありがとうね。でも、もうこれ以上迷惑かけられないよ。こんなことになるなんて思ってもいなかったなんて言っても仕方ないけど。後は私一人で大丈夫だよ。心配かけてごめんね。悪いけど、ツキにも伝えてくれるかな。」

そこで通話が切られた。

「あのバカ!相談するなら最後まで人を頼れよ!」

「アユミさん!店、こっちだ!」

太郎は道を戻り、先に大手居酒屋チェーンの脇道へと入った。

「あんた、仕事早いね。」

「俺にできること、やっただけ。」

「それがさすがだって。」

太郎は時々スマホを確認しながらアユミの前を走った。止まっては改めて位置を確認しては再び走り出した。途中、巡回中の自転車に乗った警察官を遠くに見つけて、思わず横道へと入り、息を殺し、気配を消した。

「やべえ、昼間も警察に追われてヤバかったのに、また出くわすなんて。」

「あんたら、何かやったの?」

「あ、いや、別に。色々聞かれて、身分証明する物がなくて面倒だったくらい。」

「なるほどね。この時間、捕まったら質問だけじゃ済まないね。やり過ごそう。」

二人は脇道から路地裏へ曲がって逃げ、再び息を殺して潜んだ。遠くから使い古した自転車の軋む、ペダルを漕ぐ音が近づいてくる。思わず顔を引っ込めて近くの電柱の裏へと隠れた。幸い自転車は角を曲がらず直進したようで、自転車の音は音程を少し変えて遠ざかっていく。

「っふう、マジホラーかよ。」

太郎の溜息が深い。

「だったら後ろにいるってパターンかもよ。」

太郎は野生動物のような素早さで後ろを振り返った。

「プッ、大丈夫だって。もう少し様子見よう。後ろも注意してさ。」

太郎が胸をなでおろすと、遠くに警察官の自転車の反射鏡がわずかに見えた。やがて角を曲がったのか見えなくなった。

「まあ、私らは事情があって隠れているけど、ああやってパトロールしてくれているから街も安全なんだよね。近くにいたらアカネのオヤジも変なことできないだろうしね。」

「だな。さあ、急ごうよ。もう脅かさないでくれよ。心臓によくないや。」

「アハハッ、悪い悪い」

表通りの明るさから一転、人気のない細い道へ入ったところでその店はあった。ナビのゴール地点へ辿り着くと、雑居ビルの地下への階段の入口にぶら下がっている朽ちた鉄板に、店名「ルート66」が記されている。階段脇に原付が置いてあるが、今までの流れからアカネや父親が乗ってくるわけもなく、建物はオフィスビルのようで灯は全階消えており、未成年の二人でも酒を提供する店から店員の所有物と推測した。

入口で足を止めた二人は顔を見合わせ、太郎が先に階段を下り始めた。途中、アユミが太郎の肩を叩き、静止した太郎の先へと割り込んで先に進んでいく。階段を下りると目の前に先に木製の黒い扉が現れ、扉には「CLOSED」と札が垂れ下がっていたが、扉越しに音楽が聞こえてくる。雰囲気を出すためか、使い込んだような木製の扉は思うほど重厚ではなく、完全に外界から隔離するには薄いようだった。

どう見ても店内に人がいることは確かだが、二人ともバーへと入るのは初めてということもあり、中へ入ることは躊躇われたが、アユミは意を決し鉄製のドアノブを握り締め扉を開いた。札の内容とは裏腹にあっけなく扉は開いた。店内の照明は薄暗いが、壁のネオンライトで太郎の顔がはっきりと見えることから、数歩先までは誰かわかるのは想像以上で少し安心した。扉の外で微かに聞こえた洋楽ロックの音が、一気にボリュームを上げたように耳をつんざき、充満するタバコやココナッツのようなアロマが入り混じった香りに、二人は思わず入ってきた扉から外へと戻ろうと身体が反応してしまった。

冬の夕方は早くも日が落ち、夜が来るのを早く感じさるが、日曜とはいえ、まだ来客がある時間にクローズする理由がそこかしこにあった。店内はテーブルで幾つかの島が点在し、その上には空の酒瓶が何本か置かれている。おそらく、昼間貸し切りでのイベントかパーティーが行われたであろう形跡がまだ残っている。日曜は客入りも少なく、昼間で今日の売り上げを賄ったか、店員の親しい関係者で行われたために、気分良く、そのまま今日の仕事は終わりにしたのだろう。

壁側のカウンターやテーブルには誰も座っておらず、奥に数人の人だかりが見える。その人だかり、三人の男性が一斉にこちらへと視線を投げかけた。その視線に異様なものを感じてアユミは身構え、男性たちの傍で小さく蹲っている人影を見つけて思わず声をかけた。

「すいません、ここに友達がいるかもって聞いたんですけど?アカネ?そこにいるの?」

アユミの声は音楽のボリュームに負けてしまったようで、誰にも届かなかった。人影は周りを拒絶するように頭を傾げて視線を床へと落とし、一切の情報をシャットアウトしているようであった。

やがて、細身の男がこちらへと近づいてきた。ジーンズに黒のシンプルなカーディガンと特に癖があるわけでもなく、暗がりもあり、一見特徴が掴めないことから歳は若そうに見える。ところが、近寄ってきたその顔を見ると、口元のほうれい線や額の広さから、初見ほど若くないことが見受けられた。足元が千鳥足なのは大分酒が回っていることを物語っている。

「看板、見えなかった?あんたら、何?もしかして学生?」

「そ、そうだけど・・・。」

「飲みにきたって感じじゃないんだけど、何?店間違えた?」

「友達を探しにきただけですけど・・・。」

「は?誰それ?」

太郎がアユミのコートの袖を引っ張った。

「アユミさん、あの奥にいるのって、女の人じゃない?」

「ホントだ。あそこの人、友達かもしれないんですけど。」

奥を覗き込もうとする二人の視線を遮るかのように、細身の男は正面から動こうとしない。

「もう閉店だよ?それに、ここはお子様の来る場所じゃないよ?さあ、帰ったら?」

「その奥を確認したら帰ります。」

眼前の男性を避けようとすると、もう一人いぶかしげな表情で奥からやってきて、残りの視界と道を塞いだ。

「何々?高橋?この子たち迷子?」

「ああ、そうなんじゃねえ?石原、お前外まで案内してやれよ。」

石原と呼ばれた中肉中背の男は店内が暑いのか半袖、その両腕にはトライバルのタトゥーが入っており、短髪を何かしら明るい色で染めているようだった。この男も一見若そうに見えるが、顔に刻まれた皺からは高橋と呼ばれた男とは年齢も近いと思われた。酔いも同レベルのようで足元が頼りない。

「お嬢ちゃん、坊ちゃん、さあさあ、帰ろうね。」

両手で野良犬でも追い払うかのようなジャスチャーをしながら間を詰める。二人は石原をかわして奥の人影へと駆け寄っていった。

「アユミ!」

駆け寄る二人に反応したその影は紛れもなくアカネであった。

「何やってんの!オヤジいないみたいじゃない?帰ろう!」

そこで、それまで静観していた、アカネの隣にいた長身の男が近寄るアユミと太郎を睨みつける。全身黒ずくめのワイシャツにスラックス、オールバックは、いかにもバーの店員のイメージを体現している。男はジム通いか何かのスポーツをやっているのか、シャツがタイトに張りつくように全身の筋肉が形を露わにしている。

その男は低い声で、それでも店の音楽にかき消されることのないくらい通る声で脅迫してきた。

「勝手なことしないでもらえるかな?お、俺たちは大河内さんのお子さんとお話してるんだよ?部外者が、口、挟まないでほしいな。」

所々呂律が回らないことから、この男も相当に酒が回っている。それでも、人物由来なのか、酒に負けない語気の強さがアカネを足止めするが、アカネは力を振り絞って反論する。

「違います。父は関係ありません。私はもうここには用はないので帰ります。」

「何勝手なことしてんの?大河内さんに戻ってくるまでここで大人しくしていろって言われたよな?あ?」

「知りません!何処に行こうが勝手です。」

「そうだよ!あんなオヤジの言うことなんて聞くことないよ。さあ、帰ろう。」

アユミはアカネの手を取って立ち上がらせたが、アカネを連れて帰ることを阻止すべく、その腕を高橋が掴んだ。

「俺らが怒られるだろ?勝手なことすんじゃねえよ。」

「痛い、やめてください。」

アカネはその腕を引き離そうとしたが、その腕を石原が掴んで二人を引き離した。

「おい、やめろよ!」

太郎が石原の腕を引っ張ったが振り払われ、そのまま高橋に腹を蹴っ飛ばされて店の壁に背中を強打してしまった。

「太郎!」

思わず叫んだアユミの口は高橋に塞がれてしまった。太郎は抜け殻のように壁からずり落ち、腹を相当強く打ったようで、声も出せずに床に蹲った。

「うるせえな、ガキ一人にムキになるんじゃねえよ。つっ、痛てえな。」

石原の腕には太郎を引き離したときの爪痕が残っている。

「おい、井上。そいつらも一緒に待っててもらおうかよ?外出したら面倒じゃねえ?」

「ああ、そうだな。」

店員らしき男、井上がやる気がなさそうに扉へ向かい、鍵をかけて再び戻ってきた。

「はい、本日の営業は本当に終了しました。ここからは俺はプライベート。」

高橋が嬉しそうに女性陣二人を見回しながら確認する。

「大河内さんはいつくらいに戻るか、お前ら聞いた?」

石原は何かを予感したようで少しトーンが下がる。

「さあ?近くのホテルから息子連れてくるってことだから、それまでじゃないの?」

「そうか、じゃあそれまでお楽しみってわけだ?なあ、高橋、石原?」

「ああ、そうだな。」

石原の悪い予想は当たったようで、トーンは下がったままだった。

「おい、娘さんに手出したら殺されるぜ?」

「は?もう一人いるだろ?そいつだよ。」

アユミは自分が標的にされていることを感じ取り、高橋に抑えられている口と手を振り解こうとしたが、もがけばもがくほど力は強くなって、身動きが取れなくなっていった。

「やめて!アユミは関係ないじゃない!」

「あ?関係ないから好きにするんじゃないの?」

高橋は引きつった口元をさらに歪ませてヘラヘラと笑い出した。井上もにやけ顔でアユミに近づいてくる。石原は二人を交互に見ながら落ち着かないようだが、アカネを掴んだ腕を緩めようとはしなかった。

「おいおい、二人とも、それはヤバいんじゃないのか?娘が逃げないよう見張ってろって言われただけだろ?」

「関係ないって。こいつのことまでは言われてないよな?大河内さんもそこは寛大だよな?つべこべ言うなよ?ちょっと遊ぶだけだって。」

高橋はアユミを羽交い絞めにする形で、二人の間に円形のテーブルを挟むように移動してアユミの背中をテーブルの上に乗せた。井上がマフラーを乱暴に引っ張って床に捨て、コートの裾をまくるとブラックデニムが露わになった。

「デニムは邪魔だなあ。ちょっとは考えろよ?でも、まあ、ガキにしちゃあ、結構ないい女じゃない?」

井上が二人に目配せして視線を逸らした瞬間、アユミは思い切り井上の腹部を蹴りつけた。その反動でよろけて後部のテーブルとともに床に倒れこみ、高橋もバランスを崩してアユミの乗っていたテーブルごと転倒した。

「うげっ、何しやがるこのクソ女!」

激高した井上がアユミを再び掴もうと手を伸ばしたが、その手はアユミに届くことはなかった。突然、井上に向けて椅子が投げつけられ、左肩に当たり激痛に顔を歪ませて地べたに膝を落とした。

「いい加減にしやがれ!クソジジイ!」

持ち直した太郎が次に投げるべき椅子を見つけて手を伸ばした途端、身体は立ったまま蹲るような不自然な体制で近くのテーブルセットへと突っ込んでいった。いつの間にか、井上がアカネから手を離し、太郎の腹を蹴り飛ばしていた。酔っぱらっているにも拘らず、一般人とは思えない動きが、筋肉が伊達ではないことを教えた。

「おい!舐めてんじゃねえぞ!」

「ちょっと待てよ、井上。こいつ死んじまうぜ?」

石原が怖々声を発した。

「あ?死ぬってこういうこと言うんだよ!」

井上は寝転んでいる太郎の髪を掴んで立ち上がらせ、何度も腹に拳を叩き込んだ。

「やめて!」

アユミの悲鳴は音楽のボリュームを越えるかと思われたが、井上はその手を休ませない。隣で、今までヘラヘラと笑っていた高橋からも笑顔が消え、額には脂汗が浮かんでいる。何度も殴られながら太郎は拳に力を込め、反撃する機会を待ち構えている。

「おいおい、石原の言うとおりじゃねえ?死んじまったらヤバイよ?まだガキだぜ?」

「死なないように加減してるわ!ちゃんと児相にばれないよう顔は狙ってないの、優しくねえ?」

「おい、高橋、井上って前離婚したのって、子どもやっちまったんじゃなかった?」

耳打ちするよう石原が高橋に懇願するような声で語り掛けた。

「ああ、だから子ども嫌いなんだよ。」

「おい!うるせえよ!俺はこういう自分じゃ何にもできないくせに媚びるが奴らが大っ嫌いなんだよ。」

「あんた!いい大人のくせにバカじゃない!太郎は媚びもしなければ、あんたなんかよりずっと大人なんだよ!」

アユミが怒鳴りつける。

「あ?これのどこが大人なんだって?」

「会っていきなり暴力で黙らせて、それこそガキじゃない!あんたホントのクズ男だよ!」

井上は太郎を乱暴に突き放すと、近くの椅子を蹴飛ばして道を作りながら、アユミへ迫り胸倉を掴んだ。その口からは幾つもの酒が混じった香りを放ち、酒を知らないアユミにはただの悪臭でしかない。

「臭いんだよ!身も心も腐ってるんじゃないの?」

「このクソガキ!てめえの立場理解してんのか?」

そのままアユミの襟首を掴み直して強引に引っ張った。力加減の利かない、ただの暴力によって、コートと白いブラウスの胸元までボタンが一気に弾け飛んで一緒に肌着も胸元まで引き千切られて、白い肌と派手なライトによって紫に見える下着が露わになる。その一連の動作は、アユミの上半身はまるで事故にあったかのように一瞬のうちに井上の間近まで引き寄せられたかと思うと、次の瞬間、力が抜けたように後ろへと倒れ込んだ。

その間も石原はアカネを離さず動きを一緒にしたが、それでも酔いの中、この事態が危険なことを感じ取るだけの頭は残っていた。

「おい!さすがに冗談じゃ済まないよ!揶揄うだけで、遊びのはずだったんだろ?」

高橋は、その狂暴なやり取りを見て危機感から力が抜けたのか、アカネから思わず手を離してしまった。その前で井上が石原を罵倒する。

「黙れ!クソブタ!」

「なんだと!」

今まで見た目に反して弱々しかった石原がその一言で激高したが、力関係として敵わないと自覚しているようで、それ以上反抗することをあきらめた。

仲間割れの隙を見逃さず、太郎が後ろから殴りかかる。しかし、殴るアクションこそ起こしたが、途中でその拳を引っ込めてその場で立ち止まった。アユミを含め、興奮状態で背後の太郎の動きに気づかなかった井上以外の全員が、太郎の拳が一瞬光ったように見えた。だが、それが何を意味するかは太郎本人にしかわからなかった。

三人の視線に気づいた井上が振り返ると、太郎が仁王立ちで睨みつけていた。その姿に、瞬時、背筋に寒気を感じ、喉元をえぐられたかと思い息が詰まった。ふと我に返り、喉を擦って何も起きていないことを確認すると、幾分か酔いが醒めていたが、逆に悪酔いした後のようで最悪の気分に陥った。

「何見てんだよ!クソガキが!」

今度は腹ではなく顔面に向かって拳を振り下ろした。が、太郎にヒットする前に後ろからアユミが井上の腹部にしがみつき動きを止めた。バランスを失った井上の上半身が折りたたまれるように太郎の眼前に迫ってきた。すかさず、太郎は膝を上げると吸い込まれるように井上の顔面の中心へとめり込むと、反動で海老反るように軌道を逆になぞった。そのまま井上は床に倒れこみ、顔面を抑えて悶えて左右に転がった。

「アユミ姉ちゃん!アカネ姉ちゃんを早く!」

アユミは呆気にとられている高橋の腕を振り解き、アカネを引っ張り太郎の元へと駆け寄った。しかし、途中でアカネは転がっていた井上に足首を掴まれ引っ張られて転んでしまった。アユミはアカネの手を放してしまった。

「てめえら、舐めやがって!大河内も関係ねえ!ぶっ殺してやる!」

井上は近くのアカネを引き寄せて馬乗りになったかと思うと、喉を締めあげて拳を振り上げた。周囲の眼に映った井上の顔は鼻から下は鼻血で赤黒く染まっており、怪しい光の元では、誰にでも牙を剥く獣に見えた。

振り下ろした拳はアカネではなく、飛び込むようにしてアカネに覆い被さった太郎の背中に振り下ろされた。太郎は殴り慣れているかのような強烈な一撃に息が詰まって、声にならない声が漏れた。

「まだ動けるのか!クソガキ!だったらてめえからブチ殺してやる!」

その腕をアユミが両腕で抱きかかえて全体重をかけて床へ井上ともに倒れこんだ。その衝撃で太郎とアカネは解放され、二人とも別々に床に転げ込んだ。

「話せ!クソ女!おいお前ら!こいつ引き離せ!」

声をかけられた男性陣の二人は戸惑い、お互い顔を見合わせている。

「高橋、てめえさっきまでこいつ抑えていたじゃねえか!今更何やってんだよ!」

「いやあ、だってあんときはフリだけでそこまでするなんて思わなかったんだし。脅しかなって思うわなあ?石原?」

「いっ、俺に振るなよ。でもまあ、よお、大河内さん来るまでって思っていたのはあるわな。」

「井上も大河内さんには恩あるから娘預かっていたんじゃないのか?そいつら娘の友達だろ。だったらやり過ぎじゃね?」

「うるせえ!それとこれは別だわ!このふざけた奴らブチのめしてやるだけだわ!」

腕にしがみつくアユミに対し、脚を突き刺すように押しつけて引き離し、立膝の体制のまま再び太郎に殴りかかった。その隙に起き上がったアカネがその手首にしがみついたが、井上は転倒することなく耐え、同じように脚で何か粘着的なものを腕から抜き取るようにして、ゆっくりとアカネを押し出して最後は肩口を蹴り飛ばした。アカネは倒れているテーブルの縁に背中を強打して嗚咽を漏らしたが、四つん這いの状態で寝転ぶのを堪えた。 

井上はゆっくりと立ち上がり、近くの、まだ倒れていないテーブルの上に残っていた空のビール瓶を手にした。

「それはまずいって!」

石原が叫んだが意に介さず太郎へと近づく。全力で太郎へ投げつける体制に入った、それと同時に、鍵がかかったはずの扉が大きな音を立てて開き、そこにはツキとタカヒロの姿があった。


ツキはタブレットのLINE通話を切って、アカネの家へ向かって再び歩き出した。校門脇に片づけ忘れたであろう土間帚を数本見つけ、その中から形の整った二本を拝借し、本来の用途とは逆に柄を地につける形で両手に持ち、登山の杖のように身体の負担を抑えながら進んでいる。どうやら手にした物体は、札の効力があるうちは視認されない。そうでなければ、他人には箒が自立して歩いているように見え、ちょっとした騒ぎになりかねない。

校門を乗り越えるために脚立の置き場所を調整している最中、少し大きな音が出てしまい通行人に見られたが気づかれなかった。脚は大分動くようになってきたが、走るには心許ない。これから修羅場が待っていることも想像すると、無駄に体力は使えない反面、少しでも急がなくてはというジレンマは、知ったはずのアユミの家までの距離を遠く感じさせ、余計に体力と気力を奪っていた。

歩いているうち、札の効果で誰にも見つからないと思っていたのが、通り過ぎる誰もが自分を見ている。どうやら札の効力は消えてしまったようだった。すれ違う人たちは皆、奇異の目でツキに視線を合わせ、通り過ぎた後でも視線をずっと感じていたが、体面など気にはならず、額の汗も拭わずにひたすらアカネの家へと急ぐ。

突然ショルダーから着信音が鳴り響いて歩みを止めた。メールは太郎からで、一言「ルート66」と記され、店の情報URLが添付されている。

「これって?」

ツキは状況を即時に理解し、地図を導き出して目的地を対象の店へと変更した。以前、行ったことのある界隈だったが、あくまでも、自分の意思ではなく誰かについていったことがあるという記憶で、曖昧でも店のあるエリアを特定することは難しかった。時々、立ち止まってはタブレットを蓋が開けっ放しのショルダーから取り出し、ルート案内に従って歩き続けたが、一向に進む速度が上がらない。何かが起きた後に駆けつけては無意味だと、不安から涙が溢れそうになるのを必死に堪えて、前を睨みつけながら進む。

不意に誰かが隣に並んで、こちらをずっと見ている気配を感じたが、敢えて、そちらを見ないようにして気持ちだけでも歩調を速めた。

「おーい、何やってんだよ?こんなところで?」

車のエンジン音に混じって聞こえた声とともに最初に視界の隅に映った黒いコートと軽いノリはナンパかと思ったが、こんなに声をかける酔狂などいるわけもなく、人違いか、おかしな女だとからかっているかと思い、無視を決め込もうとしたが、再び聞こえるその声は間違いなくツキという存在に向けられている。

「ちょっと、俺だって俺。」

(新手のオレオレ詐欺?)

少し落ち着いて聞いてみれば、聞いたことのある声に恐る恐るそちらを振り返ると、隣から声をかけてきたのはまさかのタカヒロだった。

「やっとこっち見てくれた。黒川、お前、何て恰好してんだ?何かのトレーニング?」

タカヒロは茶化そうと言葉を続けようとしたが、二人が街明かりに照らされると、この寒空の中、ツキは汗をかいて目が潤んでいる。タカヒロは今起きている事態の異常さを感じ取って口を噤ませた。

「まさか、お前もアユミたちのところへ行くのか?」

ツキは歩きながら無言で頷いた。少しでも声を出すとアスファルトに足を取られるようで、少しのロスでさえ惜しまれる。

「何処か知ってるのか?」

再び頷いて歩きながらタブレットを取り出して地図を見せた。タカヒロも歩みを止めずに、ツキから受け取ったタブレットの地図を拡大させたり縮小したりして位置を探っている。

「大体わかった。行先は同じだな。そうそう、昼過ぎアユミから、今から大河内の家へ向かうってLINEが届いたよ。そしたらさ、GPSがオンになって、変な場所に向かってるみたいでさ?ありがとう、これではっきりしたよ。」

「GPS?」

「俺ら待ち合わせとかでお互いの居場所がわかるようにGPSのアプリ入れてるんだよ。でも、使うのは待ち合わせやはぐれたときだけ。プライベートに干渉しないって、ちゃんとルール決めてるんだ。」

「ふーん、私はそういうの必要ないし、駄目だな。」

 ツキは言葉こそ素っ気ないが、いかにも付き合っているような内容が気になる。興味を悟られないように対応したつもりだったが、何かが伝わってしまったような気がして少し焦る。

「なーに言ってんだ、結構便利だぜ?こんなときも役に立ってるんだしな。」

「そうね。参考にさせてもらうね。っつ。」

余所見をして歩いていたため、コンクリートの段差に気づかず箒をひっかけてしまい、その反動は麻痺がまだ残っている脚に鈍い痛みとなって押し寄せた。

「脚、悪いのか?」

「大丈夫。」

「そうか。俺が先行くからついてきな。店までナビ出ているから、このまま借りるよ?アユミは電波悪いのか、さっきからどうもGPSの調子がよくないみたいなんだよ。助かったよ。」

タカヒロは少し速度を上げてツキの斜め前を歩き始めた。後ろを歩くツキの箒を突く音で距離感はつかめた。

タカヒロの道案内のおかげで、目的地を確認して都度止まることのロスと、両手が上手く使えない今の状態での体力の消耗を抑えられる。ツキ自身にとっても前を進んでくれていることは、必死の姿を見られなくて救われる。それはタカヒロが感じ取ってくれての行動だと感じた。

アユミにもいつもこんな風に気を使ってくれているのだろうか?自分にはそんな相手は現れるのだろうか、頭に浮かんだ疑問に対して、ふと、太郎の顔が浮かんだ。不器用ながらもツキが言うことに本音で真正面から答えてくれて、いつも声掛けしてくれるのは形こそ違うが、太郎なりに気を使っているのではないだろうか。年下だから弟のように思って世話を焼いていたつもりが、助けられていることの多さに今更ながら考えさせられた。

「おーい、大河内から何か聞いてる?」

タカヒロから急に声をかけられ、何故か恥ずかしさがこみ上げて一気に赤面したが、幸い暗がりと前を向いたままで見られることはなかった。

「う、ううん、私もよく知らないよ。アカネのお父さんが暴れて、アユミが助けに行ったみたい。でも、その後、お父さんが出て行ったのを追いかけたアカネをアユミも追いかけて行ったんだって。」

アユミが暴力を振られたことは告げなかった。今伝えればタカヒロは激怒し、状況を悪化させるおそれがあること、それ以上に、今は余計な心配をかけさせたくなかった。

二人ともこれといった会話の糸口も見つけられないまま、暗い街を進むと程なくして、店のある建物前へと辿り着いた。タカヒロはタブレットをツキに返し看板の通り地下へと下りていった。ツキは箒を一本地下への入口に置いて、片方の手は手すりを使ってタカヒロの後に続いた。タカヒロは度々振り返ってツキの歩みを見ては、ゆっくりと一定の距離を空けて暗闇へと向かった。

下り切った先に店の扉が現れ、そこには閉店を知らせる札が提げられている。遅れて辿り着いたツキも札を目の前にして、タカヒロと顔を見合わせた。タカヒロは自分のスマホを取り出し、アユミの行き先がここで間違いないことを確認した。ツキは本能的か荷物を持つことが好ましくないのか、襷がけにしているショルダーを肩掛けにしていつでも身軽になれるように整え、タカヒロと一緒にそっと扉に耳を当ててみると何やら物音が聞こえる。

「中は騒がしいみたいだぜ?閉店のくせに音楽派手にかけてるみたいだな。」

「じゃあ、中に人が、やっぱりアカネたちがいるのかな?」

ツキは恐る恐るドアノブを回して引いたり押したりしたが、そのどちらでも扉は開くことはなかった。それは今日のレストランのことを思い出した。まさか、また何か異常なことが起っているのではと思い、地下でなお冷えるにも拘わらず冷汗が出る。

タカヒロも扉を開けようと試みるがびくともしない。そのとき、店の中から悲鳴が聞こえ、何かを倒すような音が扉に叩きつけられるように聞こえてきた。

ツキは急いで力いっぱい扉を開けようと試みたが、やはり開く気配がない。店内に向かって扉を開けるように怒鳴っても、きっと意味がないことが感じ取れる。わずかでも力が残っているのではと思い、脚に力を込めて蹴破ろうと姿勢を整えた隣でタカヒロが勢いをつけて扉を蹴りつけた。思ったよりあっけなく、それでも大きな音を立てて扉は開いた。

音楽が濁流のように流れ出し、暗がりの店内にはテーブルや椅子が辺りに散乱しているのが直ぐに目についた。二人の侵入と同時に奥の数人が一斉にこちらを注目した。

二人は表の賑やかで明るいエリアから一転、薄暗い道を通って暗闇には目が慣れていたので、おおまかに人物を判別するのに時間はかからなかった。

手前では太郎が倒れ、すぐ傍で瓶を振り上げている血まみれの男が、その体制で硬直したまま侵入者を凝視している。その隣では横たわっているアユミ、奥にはアカネがこちらを見ていた。友人近くの二人の男性は棒立ちでこちらを見つめており、店内にいる全員が黙ってツキとタカヒロを見つめ、頭の回転を追いつかせようとしていた。

「アユミ!」

タカヒロが叫び駆け寄ろうとするより早く、ツキが太郎の元へ、井上の目の前に立ちはだかった。少し遅れて、店の入り口でショルダーが床に落ちる音が音楽に飲み込まれた。そこにいる全員の眼には黒い影が一瞬のうちに移動したかのように映った。タカヒロもツキと瞬時に立ち位置が入れ替わったようで意識が追いつかず立ちすくんだ。

「姉ちゃん・・・。」

太郎は蹲ったそのままの体制で声を絞り出したが動く気配がない。

「太郎に、アカネやアユミに何をしたの?」

その声は音楽に遮られそうなくらいの大きさだったが、不思議と誰の耳にも届いた。

「あ?うるせえよ。お前ら何だ?勝手に入って。閉店が見えなかったのか?」

「答えて。」

「うるせえって言ってるじゃねえか!」

「だから!あなたたち、みんなに何したの?」

「クソ女が!娘見張ってるように言われたのを、このガキどもが邪魔したから脅してやっただけだよ!」

「みんなを傷つけたでしょ?」

「バカか?誰もケガなんてさせてないわ!」

横からアユミが叫んだ。

「ウソ言わないで!太郎君の身体、何度も殴ったじゃない!」

石原はもうアユミを抑え込んではいなかった。

「てめえら、アユミに何しやがった!」

タカヒロは喉が張り裂けんばかりの大声で叫んだ。暗がりでこそアユミの全身は見えなかったが、それでも、乱れた衣服は他人に何かをされなければ、到底ここまではならないのは明白であった。タカヒロは今にも飛び掛かりそうな勢いだったが、見るからに素行の悪そうな男性三人相手では、無暗に飛び出しても状況を悪化させることを懸念し、今は必死に自制し、次の手を考えているのがやっとだった。

「山口君!アユミは大丈夫!襲われそうなところをその子が助けてくれた!」

アカネも高橋より解放されている。

「ツキ!太郎、太郎君が!」

アユミの声がかすれて涙声に変わっていく。

「うるせえ!バカ女ども!このクソガキが邪魔したせいで興ざめだわ!」

井上は再び手に持った瓶を振りかざし、動かなくなった太郎めがけ投げつけようとした。そのアクションを合図に、ツキは左足を一歩前へ踏み出し前屈立ちの姿勢となり、今まで杖代わりにしていた箒をフルスイングで井上の顔面へと叩きつけた。箒の穂先の重みが遠心力となり威力を増している。感覚が戻り切っていない脚を脳内のイメージで踏みしめることで力を引き出し見事に振り切った一撃だった。

井上はそのまま近くの、まだ並べてあったテーブルと椅子を何セットか倒しながら床へと吹き飛び、顔を両手で覆いながら何か呻いたかと思えば、突然大声で叫びながら地面を出鱈目に転がり周囲のテーブルと椅子を店中に散乱させた。凶器となるはずの瓶は床に落ちたが、幸い割れずに店の奥へと転がって消えた。

「うわっ、痛ってぇ・・・。」

その衝撃で今まで興奮状態だったタカヒロは一気に正気へ返った。誰もが固唾を飲んでツキを見ている。

「いい加減にしてよ・・・。どこまでみんなを、私たちをバカにすれば気が済むの?」

ツキは警戒を解かずに箒を構え、その場から微塵も動きを見せない。

暴れていた井上は突然、線が切れたかのように動かなくなった。それは不気味な何かを感じさせる。やがて、ゆっくりと立ち上がると怒りに満ちた、というよりこれから誰かを殺すと言っても過言ではないような人とは形容しがたい表情でツキを睨みつけた。左頬は大きく腫れ上がり、暗がりでは青紫というより黒ずんだ瘤のように不気味に膨れていた。その後ろ姿に表情が見えないアユミとアカネでさえ異様な空気を感じ取った。

その表情をツキは真正面から受け止めている。アカネでさえ、いつのころからか読み取れなくなったツキの感情から、初めて見る怒りの表情はまるで泣いているみたいに悲しげで、アカネとアユミは溢れてくる涙を止められない。

肩で息をしていた井上は呼吸が整うと、懐からソムリエナイフを取り出し、刃を展開すると両手で握り締め、ツキの腹部へと直線を繋ぐ位置へと収めて何かを待っている。刃渡りは用途上果物ナイフに近く、簡単に致命的となる殺傷能力は持ち合わせていないように見えるが、初見のツキたちには刃物としての長短は関係はなく、脅威以外の何物でもない。

「おい、あいつマジかよ。」

タカヒロは目の前のツキとの距離を少しずつ詰めながら、周りに何か使えるものがあるか、二人の距離と動きに意識しつつ探したが、ナイフとツキの間にはテーブルも椅子も遮る物は何も存在せず、まるでこの場面のために整えられたかのようだった。

「お前が悪いんだ。閉店を無視して入ってこなければこんな目に合わずに済んだんだよ。」

ツキは井上を睨んで目を逸らさない。

「なんだ?その目は?立場わかってんのか?だからガキは嫌いなんだよ!」

そう叫んで構えていたナイフをツキめがけて思い切り投げつけた。ツキは刺しにくると思い、カウンター狙いで箒の突きで迎撃するつもりが、突然その場から放たれた刃に身体が動かなかった。しかし、迫るナイフはツキの視界にはスローモーションのように映り、遅れた初動を取り戻すには十分だった。躱すことを念頭に全身を右に、特に顔を大きく傾けた。

井上は酔いか激昂か、正確な判断が追いつかずにナイフを投げたのか、または逆に冷静な判断によりわざと軌道を外しての脅しなのか、ナイフは風を切り裂いてツキが避けた空間を大きく逸れて、タカヒロとの間の宙を切り裂き、開けっ放しの扉より外へと消えていった。

安堵も束の間、ツキは視線を戻すと井上の顔が目の前にあった。やはり、ナイフの目的は注意を逸らす狙いで、正確さは求められていなかった。

井上はツキが存在を確実に意識するより早く、両手を伸ばしツキの首を締めようとしたが、そのわずかな間隙を埋めるかのように箒を水平にして差し出して距離を取られた。それでも、勢いは止まらず、ツキはそのまま押し倒され背中を強く地面に叩きつけられた。その衝撃で力が緩み、逆に箒で首を地面へと押し込まれる形となってしまった。

ツキは必死に抵抗するが力は緩まず増す一方だった。駆け寄ったタカヒロが井上の両腕を引っ張り、引きはがそうとするが少しも緩まず、少しずつツキの首が締められていく。一見、箒が逆効果になったように見えるが、寧ろ、何もない状態であれば即首を絞められて落とされかねない危険な状態だった。まるで全体重をかけてツキの首を絞めるというよりへし折りにかかっている。

「こいつ、何て力だ・・・。離せよ!この野郎!」

井上が後ろを取っているタカヒロに勢いよく頭を上げて頭突きを食らわせた。タカヒロは吹き飛ばされたがすぐに体制を元に戻し、頭突きを避けるため、顔を井上の真後ろから横にずらし、胴を両腕で掴んで引っ張るが、まるで動かない。

タカヒロは息をするたびに鼻血が締め忘れた蛇口のように噴き出るが、目前の惨事を防がなくてはならない義務感と興奮状態から分泌された脳内麻薬のおかげで痛みは緩い。お陰で、痛みも鼻から血が溢れていることも気にならないのは、力が抜けることを防止する助けになっている。それでも事態は好転せず、タカヒロが少しでも力を緩めるとたちまちツキの喉は押しつぶされてしまいそうだった。

「おい、どうする?」

高橋が石原に問いかけた。

「どうするって、ああなったらもう止められねえよ・・・。」

「バカ野郎、このままじゃヤバいことになるぜ?」

「ヤバイことって?」

「んなこと言わせるなよ!そうなる前に逃げようや?」

隣で逃げる算段をする二人から解放されたアカネとアユミが一斉にツキの元へと駆け寄っていく。箒を握っている井上の両の拳の間隔が緩やかに狭まっていき、頸動脈を締めつける。ツキは喉の激痛で声も出せず、緩やかに意識が遠のき、暗い店内の天井の灯りがチカチカと目の前で点滅するかのように、やがて白く眼前に広がっていく。

みんなが何か叫んでいる。その声も高音が頭の中を反響するように人の声として聞こえなくなり、思考が正常に動いていないのか、何を話しているのか理解できない。

少しずつ力が抜けるのに比例して、自らを守っている両腕も限界が近づき、何をしているのかも判断がつかなくなっていた。両腕には力が入らず、指一本動かなくなっていた。

このままでは死ぬ、リアルな感覚はそれ以外にはない。身体が楽になって自身がどうなるかも考えられなくなっていった。周囲が騒がしく足音が入り乱れ、テーブルか椅子が床を引きずる音が耳障りだが何をやっているのかまったくわからない。床に寝転んでいるため足音が直接身体を伝わり、大声で誰かが叫んで何かが転がる音や話し声が、まるで間近で聞こえるようだが、内容が聞き取れない。

突然、人の声や雑音が止み、無音の間が流れている。

耳元で誰かの声がする。

目の前が暗くなってきた。

隣で叫んでいるのは誰だろうか?

アカネ?

アユミ?

山口君?

この声、太郎?

みんなが呼んでいる?

目の前が暗くなっているのではない、いつの間にか目を閉じていた。

息が吸える。大きく何度も呼吸をする。酸素が全身に、肺に、脳へも行き渡り、手の、指の感覚が戻った。

目を開くと、そこはさっきまでいた店に間違いない。意識が飛ぶ間際でツキは解放されていたようで、周りの変化に頭が追いつかず、朦朧としている間にもいつのまにか時間に取り残されていたようだった。

「ツキ?大丈夫?わかる?」

はっきりとしてきた右耳へとアカネの声がする。

「動かないで。すぐ救急車呼ぼうか?」

アユミは反対にいるようだった。

「大丈夫。動けそうだよ。」

ツキはゆっくりと起き上がろうとしたが、タカヒロが肩に手を添えてそっと制止し、両腕をゆっくりと引き上げその場に座らせた。

「立たなくてもいいよ。そのまま座ってなよ。」

タカヒロはツキを引き起こすと、近くのテーブルに山積みに置いてあるおしぼりを一本袋から開け鼻を拭って血が止まっていることを確認すると、襟もとについた血を拭いている。黒いコートなので目立たないが、血は薄暗い店内で見えるのか、同じところを何度も拭いてはおしぼりの山を築いている。その山が時間の経過を教えてくれた。

辺りを見回すといつの間にかアカネの父親が壁際のテーブルに腰かけている。隣で高橋、石原、井上の三人が姿勢よく立って何かを話しているが声が小さく聞き取れない。店の中は音楽も止められて静まり返っている。

「一体何があったの?」

ツキは誰に聞くともなく問いかけると、すかさずアカネが強くツキを抱きしめた。

「よかった。ごめんね。巻き込んじゃって。本当にごめんね。」

小柄なアカネとは思えないような腕力でツキの胴体を締め上げる。

「痛いよ。アカネ。もう平気だって。」

「ツキは最後にはアカネに殺されちゃうね。」

隣で屈んでいたアユミが二人の肩に手を置いた。

「私は一体?そうだ、太郎は?」

アカネはツキを開放し、ツキのすぐ右隣へ視線を送った。

「姉ちゃん、大丈夫か?」

そこには太郎が胡坐をかいて心配そうにツキを見つめている。

「太郎!よかった!殺されちゃったかと思ったよ!」

「何だよ。勝手に人を殺すなよ。姉ちゃんこそ危なかったじゃないかよ。」

「そうだよ。あんた、あのままだったらどうなったか!」

真剣な眼差しのアユミがツキの頬を両手で挟み込んだ。ツキの口がタコのようになって抗議しているが、何を話しているか言葉が聞き取れなくなっていた。

「アハッ、元気そうだね。あの後アカネのオヤジがやってきてあいつらを止めたんだよ。」

靄のかかっていた時間に起きたことの説明とともに、やっとアユミから解放された。

「そうなんだ。助けてくれたんだね。」

「あんた、何のんきなこといってんの。今回の騒動の大元なんだし、あれが暴れなければこんなことならかなったんだよ。」

父親はバツが悪そうにこちらを見ている。ツキと目が合った瞬間、一瞬逸らしたが意を決したようにこちらへ近づき、倒れている一脚の椅子を立て直して腰かけ、背筋を伸ばして床に座っているツキたちに話し掛けてきた。

「今回のことは悪かった。あいつらには厳しく叱っておく。この後医者へ行って診てもらってくれないか。もちろん手配も含め、すべて私が責任を持つ。」

「おいおい、何言ってんだよオッサン!悪いで済むわけないだろ!金払って終わりになんてならねえよ!みんなメチャクチャじゃねえか!」

立ち上がったタカヒロがアカネの父親の胸ぐらを掴んで今にも殴りそうな体制で拳を握り構えている。

「待ってよ、私まだ何もされてないし、やったのはオヤジじゃなくてあいつらだよ!」

アユミは壁際で不貞腐れたような面持ちで棒立ちの三人を強く指差した。

「じゃあ、あいつらに責任取らせるしかねえじゃねえか?警察だよ?警察。後、裁判だろ。百パー負けねえよ。」

タカヒロも壁際の三人を順番に睨みながら最後は父親に視線を合わせる。

「待ってくれ、彼らの責任も私が取るから。」

「お父さん!何であいつらの肩持つの?」

タカヒロの前に割り込んだアカネは父親の肩を強く揺する。その揺れでタカヒロから父親が解放される。

「彼らも本当は悪い奴じゃないんだ。ただ、環境のせいもあって少し素行が悪くてな、ちょっとコントロール利かないこともあるんだよ。」

ツキは反論しようとしたが、まだ上手く声が出ず咳き込んでしまった。アユミが辺りを見回しパントリーを見つけ水を取りに向かった。ツキを代弁するかのように太郎が口を開いた。

「あんた責任責任って言ってるけど、本人たちはどうなんだよ?そこまで庇うのって何か弱み握られているかもしれないけど、あいつら腹の底で何て思っているかわかりゃしないよ。俺らは本人たちが反省しているか知りたいんだよ。だから本人たちに責任取らせるべきなんだよ。それが当たり前じゃんか。あんたが発端かもしれないけど、謝るのは姉ちゃんたちにじゃないのか?」

太郎は壁際の三人、特に井上を睨みつけた。井上は睨み返したが、その目には光が失われ、先ほどまでの殺意や敵意はもう残ってはいなかった。

「おい、お前らこっちへ来い。」

父親のその声は鋭く、三人は委縮しているように見える。反応した三人はダラダラとこちらへ時間をかけているかのように歩いてくる。

アユミはツキに水を手渡すと三人の前へ立ちはだかった。コートも前を閉じてマフラーで隠れているが衣服は引き裂かれたままだった。

「アユミ姉ちゃん、あんなことあったのによくあいつらに近づけるな。」

 太郎が誰に問うでもなく呟いた。

水を飲み干したツキがふらつきながらアユミの隣に立った。辛そうに何かを言おうとしたツキに代わってアユミが問い詰めた。

「あんたらは何したかわかっているの?」

「ああ、悪かったよ。」

ぼそりと高橋が呟いた。

「俺はあそこまでやるなんて思っていなかったんだよ。少しからかってやろうってくらいでよぉ・・・。」

石原が横目で井上を見ながら答えた。その視線に激昂するかと思われたが何もアクションを起こさなかった。

カタヒロも二人に並んで追及した。

「とりあえず、お前らは警察行くべきなんじゃないか?このまま終わったらまたやらかすんじゃないの?俺らもこれで済ませようなんて思っちゃいねえよ。」

先程まで我関せずといった出で立ちだった井上が珍しく慌てているようだった。

「おい、ちょっと待てよ、警察なんて行ってらんねえよ。本当に悪かったって。もう金輪際やらないよ。」

その懇願はタカヒロの怒りに油を注ぐだけだった。

「何だよ、急に!さっきまで人殺しみたいだったぜ?」

「悪かったって言ってるだろ。でも、警察は勘弁してくれよ。」

太郎も納得がいかず、再戦も構わないという気持ちでタカヒロの隣に並ぶ。

「姉ちゃん殺そうとしたくせに虫がよくないか?警察行って初めて何やったか認められるんじゃないのかよ?」

「ちょっと待ってくれないか。井上は事件起こすのは初めてじゃないんだよ。次はすぐには出られない。それに警察沙汰になると厄介事が・・・。」

父親がフォローに入ったがタカヒロは一層興奮し声を荒げた。

「あ?じゃあ、こんなこと何度もやってきたっていうのかよ!アカネたちみたく酷いことされた人が他にもいるってことじゃねえか!前科あってやめないくせに、てめえのことばかり守ってんじゃねえよ!オッサンも知っていて庇うんだったら同罪じゃねえか!責任とか言ってるくせに、警察だけは勘弁なんてふざけてんじゃねえよ!大河内、いいよな?こいつらも親父も一緒にぶち込まれても?」

「・・・。お父さん、もういいよね。いつもみんな、家族傷つけて。今日は大切な友達まで巻き込んじゃって。何でこの人たちを庇うのかわからないけど、私、別に納得なんてしなくても平気だよ。」

「アカネ、違うんだよ。いや、言い訳にしかならないけど、わかってほしい。お前たちと一緒にいたいんだよ。」

アユミもタカヒロと太郎に並ぶ。

「あんたバカ言ってんじゃないよ!私はともかくアカネやお母さんみんなに暴力ふって今更何寝言言ってんの!」

「あれは暴力とかじゃなくて、確かに家の中壊しまくったのは謝る。君らがしつこく絡んできたから振り払っただけじゃないか。」

「それを暴力って言うのお父さん!」

金切り声を上げるアカネを制してツキが前へと出た。水を飲んで落ち着いたおかげでまだかすれてはいるが声が出るようなっていた。

「さっきから責任とか言っていますけど、一度も面と向かって謝りの言葉が出ていませんよ。それに、使い回したセリフでは私たちは薄っぺらいものにしか感じません。」

「それは・・・。」

「アカネやみんなに謝ってください。そして、行動で示してください。私のことはどうでもいいので。勝手に首突っ込んだだけですから。」

「首突っ込んだ割には派手にやってくれたよな。」

高橋が茶化すように割り込んできた。

「おい!黙れ!」

父親の恫喝に三人は身をすくめた。

「す、すいません。でも、こいつの顔、見てください。こりゃかなりいってますよ?」

突然、太郎が隣のテーブルを蹴り飛ばした。

「バカ野郎!姉ちゃんは俺を、みんな守るためにやったんだよ!そうでもしないとそいつ止まらなかっただろ!」

「ごめんなさい。私も頭に血が上って酷いことしてしまって。」

井上は何を考えているのか、こちらをぼんやりと見ていたが、ツキの一言で腫れあがって眠そうな糸目がはっきりしたように見える。アユミが涙声で反論した。

「謝らないでよ!太郎君の言うとおり、みんなを守ってくれただけだよ!」

アカネは先刻からずっと頬から涙が流れて床に水たまりを作っている。

「そうよ!アユミだって私を助けようとしただけなんだから。お父さん!この人たちをもう庇うのはやめてよ。一体何なの?謝る気があるなら何故か教えてよ!」

「そうだよ、あんた、アカネ姉ちゃんの味方じゃないのか?親じゃないのか?こんな危ない連中に渡したりしておかしくないか?何でだよ?」

父親は考えているような沈黙の後、やっと口を開いた。

「ああ、アカネは俺の娘だよ。だから一緒に出て行こうって言ったんだよ。それを断るから少しここで待っていてもらったんだよ。他に預ける場所もないし、ケンジを連れてくるまでの間だけでと思ったんだよ。」

「そうよ、ケンジは?」

アカネは父親の両方の二の腕を掴んでゆすった。

「ケンジは京子と一緒だ。」

「お母さんはどうしたの?」

「今、ホテルで休んでいる。今日はもう泊っていってもらうことにしたよ。家は明日業者を呼んで何とかしてもらうよ。」

「何なの?アカネを、ツキたちもこんなにも振り回して!もう仲直りってこと?は?おかしくない?ねえ、アカネも納得できる?」

「そんなのできないよ。友達をこんな目に合わせて。もう嫌。」

「安心して、次はもうないよ。」

「嘘!前ももうやらないって言っていたの、忘れたの?ケンジ連れていきたいなら好きにすればいいじゃない!」

「ちょっ、ちょっと待てよ。俺はアカネ姉ちゃんと今日初めて会ったけど、弟を連れてけって、理由知らないけどおかしいんじゃないか?本当はそんなこと思ってないんだろ?」

太郎は縋るような目でアカネを見ながらテーブルを叩いた。見たこともない、会ったこともないアカネの弟が何故か自分とオーバーラップした。命の危険も感じながらツキと一緒に駆け抜けてきたこと、出会ってから今日まで少しずつだが、ふたりの置かれた境遇の変化を共有しながら歩いてきたことが、まるで否定されたかのようで、アカネの悔しさが痛いくらいに感じられる。どうすることもできない歯がゆさが太郎の感情を大きく揺さぶっている。

太郎の気持ちに同調したツキの震える手が、静かに太郎の肩に置かれた。

「太郎・・・。私もそう思います。あなたが勝手に何をしようがアカネを悲しませる結果だけは受け入れられないです。親だからって、いつも一緒とは限らない、でも、子どもを傷つけることだけは、私は許せないです。友達の親だからって、許すことはできないです。」

「君は確か・・・。親がいないのにわかるわけがない。人の家の事情にとやかく言うのはおかしくないか?」

アカネの平手が店に響き渡った。その音がアユミとタカヒロが踏み止まらせた。

「お父さんこそ何も知らないくせに!ツキのこと!」

父親は怒りの表情を見せたがすぐに消え失せ、感情を読み取るには困難な、まるで造り物のような表情へと変わった。その薄い感情しか持ち合わせないような表情に対し、アユミとタカヒロは身構え静観している。少しの間の後、アユミが再燃したかのように、感情を露わにして追及する。

「あんたら何したいんだよ?アカネの弟連れ回したり、こんなチンピラ従えていたりとか?納得しないよ?これじゃあ。他人とか身内とか関係ないし、何とか言い訳してみせてよ?ガキって思って見下して話さないとか?」

「ふうっ。確かに君たちを巻き込んでしまった以上、最低限は話しておくよ。アカネも他人に知られても構わないか?」

「他人じゃないよ。」

「そうか。」

 父親は一息入れて話を始めた。

「前からアカネたちはそろそろ私の実家へ来ないかと相談していたんだよ。」

アユミが心配そうに二人を交互に見ながらどちらともなく問いかけた。

「実家って遠いの?もう行っちゃうの?」

「実家は東京だよ。アカネはずっと断っていたよ。一緒に京子も断っていた。そのたびにケンカばかりだったよ。」

「何で?実家へ行かないとならない理由なんてあるの?ツキ、知ってたの?」

「ううん、初めて聞いたよ。」

「ゴメンね。隠すつもりなかったし、その気もなかったから黙っていたんだ。高校入る前からかな、ツキの家が色々あったりしたタイミングも重なって言いそびれちゃって。」

「そんな、気を遣わせちゃったよね。」

父親が咳払いをして続ける。

「まあ、アカネの高校入学とタイミングは悪かったよ。私の実家、本家が事業を東京でやっていてね、そのときに代表の叔父が亡くなったんだよ。跡継ぎはいなかったし、会社の後継者は誰とは決まっていなかった。いくら分家でも私には関係のない話だと思っていたけどね。でも、叔父は独り身で子どもがいないから、よく私のことを可愛がってくれていた。そして、遺産を残してくれたんだ。そうなると遺産だけでなく会社もどうなるってことになってね。田舎とはいえ、私も小さい関連会社ながら役員を務めていただけあって、候補にも挙がったんだよ。」

アユミの眼が見開かれている。

「アカネ、あんた社長令嬢じゃない。」

「まだ、会社継いでないってば。」

「そうなんだよ。色々面倒なんだよ、会社ってのは。派閥やらで。結局今はナンバー2が取り仕切っているんだよ。」

「おいおい、何だよ、それ。今こんなになってるってことはまた厄介起きてんだ?」

タカヒロはいざというときに備え構えていたが、父親の告白に関心があるのか、近くの倒れた椅子を立て直して腰かけ、前かがみで聞き入っているようだった。それでも、時折、壁際の三人には注意を払い、隙を見せないようにしながら椅子には深く腰掛けずにいつでも動ける体制を崩さなかった。

「そいつは元々仕事はそこそこできるようだけど、人望がない、だからよく思わない連中からしてみれば面白くないんだよ。そこで私へ血縁者として相談がきているんだ。でも、いきなり代表なんてなれるわけがない。だったらせめて本社に近い東京の子会社でそれなりの役職からでもとね。まあ、傀儡なの初めから知っているんだけどね。」

「こんな暴力男ってばれたらおじゃんだよな。」

元気を取り戻した太郎が笑いながら突っ込みを入れた。

「あはっ、ホントね。パワハラで即退任じゃないの?」

アユミもこれまでのうっ憤を晴らすかのように同意した。

「確かにね。お父さん、ホントのこと話してよね。」

アカネもアユミたちの突っ込みに乗っかるようであった。

「お前ら・・・。大人には仕事とプライベートは別なんだよ。叔父も仕事は成功してもプライベートに問題があったから跡継ぎができなかったんだ。結果、俺に厄介ごとが巡ってきたんだ。その問題はまだ保留中だよ。」

「じゃあ、何で大河内の弟連れて行くのと関係あるんだよ?」

「私は叔父と同じ轍を踏まないよう、大河内の名を継ぐ人間が必要なんだ。だからアユミがどうしても行かないというのならケンジを連れて行く必要があるんだよ。そこでいつも京子やアカネと意見が合わずに揉めるんだ。」

「ちょっと、大河内の名とかいつの時代ですか?それって必要?」

ツキの身体はかなり回復しているが、それでも、立ち続けるのはまだ辛く椅子に座った。今まで引きずっていた脚はすでに気にはならない。それは疲れや首を抑えつけられた痛みや苦しみに取って代わられていたようでもあった。

「もちろん。君らにはわからないかもしれないけど、私の子どものころはそれなりの生活をしていたんだ。それは私の親、そのまた親の苦労のおかげで成り立っているんだよ。結果、本家と分家で別れて私は地方へ流れてしまったが、代々受け継がれた血筋はまだ絶えずに続いているんだよ。だからそれを絶やせないんだよ。」

「でも、その会社にも行けることも確実ではないんですよね?ケンジ君も引っ越しを受け入れていないんじゃないでしょうか?」

「東京での当てがあるから動いているんだよ。ケンジもアカネも今は受け入れていなくても、いずれわかってもらいたい。何故なら、今よりいい生活が送れる。何より今後大学や就職もこことは全然違ってくるんだよ。君たちも学生なら理解できるんじゃないのか?」

タカヒロは腕を組んだまま天井を見あげて首を傾げた。

「知らねえよ。俺は今好きな陸上やって、バカやる仲間もここにいるんだよ。親の都合で好きなように動けないなら勝手にするわ。」

「子どもにそんなことできるわけがない。」

「知るかよ、やってみないと。そもそも、ここにいるだろ?ひとりでやってきている奴が?」

タカヒロはツキのほうを目で示した。

「え、私はそんな・・・。この状況は勝手にこうなっただけだよ。やらないとならない状況になっただけ。」

アユミはツキに近寄って肩に手を置いて仲間たちへ視線を一周させた。

「あんただからやれるんだよ。私なんかじゃすぐにギブアップ。アカネみたく助けてくれる友達なんてほとんどいないけど、一人になった時点でダメ。」

ふんぞり返っていたタカヒロの姿勢が正された。

「おい、友達いないって俺はどうなんだよ。」

鼻でくすくす笑うアユミの横で、アカネが不安そうに質問する。

「アユミにとって私は?ツキやこの子は?山口君は?私、アカネも困っていたら力になるよ?」

「みんなその少数に入っているよ。」

アユミは自慢げに回答する。

「じゃあよかった。て、ことで、俺ら好きにやらせてもらうってことでいいんじゃね?それはそうともう一つ、こいつら何なんだよ?」

タカヒロはずっと壁際で大人しく会話を聞いている三人を親指で指した。指を指されたことに三人は不快の表情を浮かべたが、怒る者はいなかった。

「お父さん、私も知りたい。あの人たちに、ここまでするのって何?」

「アカネ、彼らのことはもうこれ以上聞く必要はないだろ?」

 タカヒロがテーブルを平手で叩き一同の視線が集まる。

「なくねえよ!ここまでされてんだ、何でこんなに守ろうとするんだよ?何度も言うけどさ、もう警察行くだろ?」

「そうだよ、お父さん!この人たちはただの犯罪者だよ。もうこのままにして街中で会ったりなんて嫌だよ。今度会ったらまた何されるか!」

「だから、もう何もしねえよ、大河内さんの手前誓うよ。」

井上は今までの狂犬のような荒々しさも失せて、一匹だけ取り残された仔犬のように寂しげな表情で項垂れている。

「俺らが何で大河内さんのお世話になっているか、俺の口から言わせてもらってもいいですよね?せめてそれくらいしないと、今日のことは終われないです。」

「いいのか?恥かくのはお前だぞ?」

「平気です。娘さんにはせめて話さないとならないと思います。今回の件に絡んでいるのは確かですし、聞く権利もあるはずです。いずれ大河内さんも話すことになると思うから、せめて俺から話させてください。」

その場に居合わせたツキたち一同は何も言わず、いつの間に全員が椅子に座り井上の告白を待っている。

「まあ、他の連中はおまけだけどな。」

タカヒロたちはその一言で中腰になったが、誰ともなく順に着席した。

「ハッ。気にすんなよ。まあ、聞けよ。俺は大河内さんの叔父の養子縁組なんだよ。実際、知ったのは東京で三十手前、母親が亡くなる間際に聞いたんだけどな。二十代、俺はろくでもない生活していたよ。ケンカに女、酒といった大体羽目を外す要因全部揃ってたわ。当時は何も考えずその日のことばかりだった。昔から長続きはしなかったけど、空手やボクシングかじったり、元々腕っぷしは自信もあって、バーの用心棒的なことやっていたな。そんなことしているうちに、直ぐに噂が広がってな、格闘技方面でデビューも決まって、それなりには充実していたよ。」

「おいおい、そんな奴が相手じゃ姉ちゃんも危なかったなあ。」

「ああ、知らなかったとはいえ、俺相手にあそこまで思いっきりやってくれた奴、特に女は初めてだったよ。」

 笑ってこそいないが、そのフレーズだけは声のトーンが嬉しそうに聞こえた。

「す、すいません。本当にやり過ぎて怪我させてしまって・・・。」

「バカツキ!また謝って!もうやめなって。」

 アユミの声がツキに刺さる。

「ああ、もう気にするな。おかげで色々思い出したよ。」

ツキが申し訳なさそうに井上の顔を遠目に覗き込む。

「でも、顔か頭、相当やったんじゃ・・・。」

「ヒヒッ、元々頭イッってんのさ、こいつは。」

高橋が横やりを入れたが井上は取り合うこともなく話を続けた。

「おかしいって思っていたんだよ。母子家庭が何の苦労もなく大学進学できて、生活も特には困っていないなんて。しかも、結構派手な生活して。格闘技でデビューして下積みから稼ぐようになって生活に苦労し始めたからかな、あの生活は普通じゃなかったって確信したのは。そんなころ、突然やってきたんだよ。大河内さんの叔父の代理人て奴が。そのときに大河内さんと初めて会ったんだ。内容は俺の出世の話しから跡継ぎの話しだったよ。」

「え?叔父さんに跡継ぎいないってことじゃなかった?」

 話を補うように父親が会話に入ってくる。

「ああ、そうさ。世間的にはもう消し去った、消さないとならないことだったんだよ。血の繋がりはないけど、叔父さんは井上の母親に相当熱上げていたようだったよ。話し始めなければそのままなかったことになっていたと思うよ。」

「すいません、言っちまって。」

「いいさ。話さないと先に進まないだろ。」

「はい。何でなかったことにしたか、それは俺がそいつを病院送りにしちまったからだよ。急にそんな話されて混乱していたのもあった。でも、母親をバカにされて黙っていられなかったのと、同時に母親に対して、俺を裏切ったんじゃないかって憎しみが湧いてきてどうにもならなくなって、つい、やっちまったんだよ。」

アユミが深くため息をついた。

「私にだけじゃなくてさっきのツキへの行動見ていたら納得するな。」

「ああ、運悪くそいつは普通の生活が送れなくなっちまったよ。さらに、世間的にそれなりの地位も知名度あった奴でな。大河内さんが止めなくちゃあもっと悪いことになっていたよ。その後も相当骨折って事件を鎮めてくれたんだ。」

「だからお父さんに頭が上がらないのね。」

「それに俺のことが明るみになると今の世の中、過去のことが根掘り葉掘り出るだろ。そうなると大河内さんの身にも悪影響が出るんだよ。」

 タカヒロも深いため息をつく。

「何だよ、おっさん本人のこともあって庇ってたんじゃないか。俺はてっきりもっと人道的に守っているんだと思ったよ。」

 父親は咳払いをして否定を始めた。

「理由はそれじゃないんだよ。叔父とは付き合いも長いから、こいつは間接的に幼いころから見ていたし、会ってみて根は悪い奴じゃないのも知っていた。だから、ちゃんとした人生を歩んでもらいたいんだよ。普通の家庭に育った君らにはわからないだろうが。」

タカヒロは頭の後ろで腕を組んで少しリラックスしているように見えるが、逆にそう演じて、再び何が起こるか気を張って話を聞いている。

「おっさんにも何かあったっていうようなふうだよな?」

「君らの年頃には色々経験してきたよ。だからアカネにはまともな道を歩んで欲しくて、何度も説得しようとしていたんだ。」

「お父さんのやり方になんてついていけないよ。思うようにならないと癇癪起こして、行き場のない怒りを物にぶつけているじゃない。それってい、井上、さんと同じじゃないの。」

「それは違う、私は確かに頭に血が上ると行動が乱暴になるけど、子どもたちを思っての焦りからそうなっているんだ。」

「何でそんなに焦るの?お父さんにとって私やケンジにまともな道を歩かせたいってどういう意味なの?」

「学生の時間なんてすぐ過ぎてしまうよ。私もアカネがこの歳になって改めて時間のなさを実感したよ。だから、アカネももっと裕福な生活で将来を考えながら過ごせるような余裕ある環境が直ぐにでも必要なんだって気づいたんだよ。」

ツキは座っていた椅子からアカネの隣に移動した。

「ちょっと待てください。アカネの将来とか時間がないとか言っていますけど、今のアカネのこと、どれくらい知っていますか?ちゃんとお話ししていますか?」

「もちろん。京子から聞いているよ。」

「本人には?」

「それは時間があまりないから・・・。」

 いつの間にか太郎がツキの隣、ツキが座っていた椅子に座っている。

「母ちゃんに聞けて本人に聞けないなんてずいぶんと忙しいんだな。姉ちゃんなんかバイトで遅く帰っても絶対俺に色々今日あったこととか聞いてくるけどな。まあ、どうでもいいことが多いけど。」

「意外、アカネにはともかく、家じゃ何も話さないって思ってた。」

アユミもいつの間にか椅子から立ち上がって腰に手を当てて聞いている。

 タカヒロは頭の後ろで組んでいた腕を前で組み直し、のけぞった状態から姿勢を正して父親に詰め寄る。

「俺はそういうのわからないけど、おっさん何も知らないで一人で勝手にやってんじゃないのか?」

「君らこそ人の家のことに首を突っ込むのはおかしいんじゃないのか?」

「またそう突き放す。おかしくないよ。お父さんも私と友達からしたら、逆の立場になるんだよ。もういい加減にして。お母さんもお父さんのやりたいようにするなんて望んでいないんでしょ?」

「それを決めるのは私と京子だよ。」

 タカヒロの舌打ちが妙に響く。

「おっさん、また同じことばっかりだな。もういい加減そういうのやめたら?それにこんなトラブル起こして次はどうするんだよ?結局警察沙汰じゃないのか?こんな田舎だって問題ばかり起こしてりゃあすぐボロ出るだろ?もう限界なんじゃない?」

「・・・。」

父親は腕組をしたまま少し下を見据えて誰とも目線を合わそうとはしなかった。

「私たちは東京へは行きません。」

その場の誰もが会話に夢中で、アユミの母親が入店したのに誰も気がつかなかった。隣には眠そうな目をしたケンジが立っている。

「京子、なぜここに?」

「あなたが何するかわからないから。それに答えは変わりません。私たちはここでやっていきます。」

「何回言ったらわかるんだ?もっといい生活したくないのか?子どもたちの進路も。」

「結構です。行きたいならあなた一人で行ってください。」

「何でだ?」

「そっちこそ何回言ったらわかるの?この街の私たちの家が今住む場所です。東京の大学へ行くとなっても別の話です。それに、あなたは今のままでは仕事も失敗するのが目に見えています。全部ちゃんと私たちが納得しない限りどうにもできないんです。」

「どうして?」

「おっさん、どう見ても駄目だろ。」

タカヒロが誰もが思うことを伝えるため、二人の会話に割って入った。

「何だと?」

「俺らあんたが役員とかお偉いさんなんて知らないし、今の姿じゃ信じられないよ。だってさ、今のあんた見ているとただの自己中オヤジだよ。世間からなんてそんなもんだよ。」

「だから、仕事とプライベートでは違う。」

「ああ、そうさ。あんたも俺が陸上で記録保持者なんて知らないだろ?それと同じさ。会社でちやほやされても、外出りゃただのオッサンなんだよ。」

「それは・・・。」

「その子の言うとおりです。会社では偉くても、私たちにしてみれば一家族の父親でしかないです。しかも、今は多くの人に迷惑かけているだけのおじさんです。」

「京子までおれをオッサン扱いして・・・。」

「ぷっ。オッサンはオッサンだよな。タカヒロ兄ちゃんの言うとおりだな。」

「アハハッ、だよな。」

「太郎!」

「いいの、ツキ。お父さん、おっさんだもの。」

「アカネまで。」

「お父さんはオッサンなの?」

眠そうなケンジが不安そうに父親に問いかけた。

「くっ、そんなことはない、そ、それより眠いならホテルへ、帰りなさい。京子、ケンジを連れていってくれないか。」

バツが悪くなった父親は少しでもギャラリーを減らそうと躍起になっている。ケンジは母親に支えられながら近くの椅子に座った途端、うとうとし始めた。倒れないよう母親が隣で支えている。

「お話しは終わり?みんなは納得した?」

母親の問いにアカネは首を振って他のメンバーを見回した。ツキたちも首をすくめるなどの合図で否定に賛同しているようだった。

「アカネ姉ちゃんはここに家族といればいんじゃなのか?おっさんは東京へ行って一人でやってくれれば。別れても行きたいんだったらさ。」

 太郎の家族という言葉に父親が含まれていないのに誰もが違和感を覚えない。

「そうよ、お父さんいつも思いどおりにならないと別れるとか、好きにしろってばっかじゃない。私もそのうちバイト始めるし、お母さんも仕事復帰してから、最近軌道乗ってきたって聞いているから大丈夫だよ。学費もおばあちゃんたちがサポートしてくれるって。」

「何?お前らそこまで話しているのか?」

「あなたが口だけじゃないって思っているから、ちゃんとアカネとも話して家族全員で考えているんですよ。」

「・・・。」

「アカネ姉ちゃんのオッサンだけが仲間外れみたいだよな。」

「太郎!」

「いいのよ。だってお父さん本人がそうしていることだもの。」

「そうよね、ウソだったらホントにだっさいよね。タカヒロ?」

「ああ、口先男としてもだけど、暴力までついてきたら目も当てらんねえ。」

ツキも内心同じことを思っているが、店内の暗い照明でもわかるくらい顔を赤くしている父親を見て、これ以上言葉にできなかった。

「ああ、わかった。これからどうするかは俺が決める。今日はホテルへ泊まるが明日、また話しにいくからな。」

「ちょっと待ってよ。お父さん、私たちあの家に帰れってこと?」

「こんな状態で一緒にホテルへ泊まりたいか?」

「アカネ、お母さん、別室取るよ。」

「でも、明日学校あるし荷物も取りにいかないと。」

母親とアカネは考え込んでいるようで、誰も口を挟まず間を見守っていた。

「アカネ姉ちゃん、家行って荷物取ったらそのまま姉ちゃん家泊まったら?」

急な太郎の提案に一同、店の三人組の視線も集中した。

「えっ?急にそんなの悪いよ。それに相当疲れて怪我もしてるし、病院行ったほうが・・・。」

ツキは絞められた首を何度も何度も擦ったが不思議と痛みはもう感じない。

「思ったより怪我は大したことないみたい。病院は行かなくてもよさそうだよ。きっと緊張とか疲れで落ちちゃったみたいね。」

 井上が慌てたように口を開きかけたが、諦めて見守る側に戻った。他のメンバーも壁際の二人もそれぞれ顔を見合わせたが、ツキの言葉を信用して黙っている。

「じゃあ、いいだろ?姉ちゃん?」

「私はいいけど・・・。」

太郎はアカネに目配せした。

 母親はその場の全員を見回し色々と考えていたが、それがみんなに最良の結論だと答えが出たようだった。

「ツキちゃん、本当にいいの?」

「はい、問題ありません。それに久しぶりにアカネが家に来るのって、嬉しいです。」

「じゃあ、アカネ、ツキちゃんにお世話になりなさい?ちゃんと手伝いするの忘れないでね?ツキちゃん、ご迷惑おかけしますけどお願いします。」

「ありがとう、お母さん。でもツキ、泊まる部屋あるの?」

「うん、私の部屋使って。」

 太郎はツキの両親の部屋が使われずに残っていることを知っている。そこが選択肢に出ない理由も想像の範囲内だった。

「それじゃあツキが寝るところは?」

「客間に寝るから大丈夫だよ。」

「それって寝れる?」

「新しい大きなソファー買ったんだよ。いつも布団の私にしたらベッド感覚で快適かも。」

「あら、懐かしい。あの客間ね。色々思い出すわ。今思えば、建て替えてからほんの数回くらいしか行ってないわ。」

「そうなんですね。すいません、いついらっしゃっているのか、覚えていませんでした。」

「色々忙しい家だったからね。ご両親、亡くなるちょっと前かな。私、営業やっているから昼間外回りの合間にお昼休憩兼ねて立ち寄ること多くて、ツキちゃんは学校行っていた時間ね。あの今にも壊れそうなソファー、やっぱり買い替えたのね。」

「はい、人食べちゃうからさすがに限界でした。」

「人食べる?」

「太郎がボロ出た裂け目に飲み込まれてしまって。」

「あははっ、確かにそんな感じだったわ。建て替え前から使っていたみたいね。彼女、全体的に使っていた物とか買い替えしないでそのまま持ってきていたわよね。ホント物持ちよかったわ。客間の絵も前と配置もそのままだったから代り映えしなかったなあ。」

「客間のですか?」

「そうよ、あのボート小屋の絵、まだあるのかしら?」

「ボート、小屋の?」

「姉ちゃん!」

「今はもうないんです。その絵は。」

「そうなの・・・。あの子、亡くなる前にはいつの間にか絵が無くなっていったのよね。でも、あれは最後まで残っていたと思うな。思い入れあったのかしら。」

「やっぱり、誰が持っていったとかご存知じゃありませんよね?」

「そうね、そこまでは。」

「でもさ、姉ちゃん、最後まで残っていたんだったら何かあるんじゃないのか?」

「うん。その内容って、実際にある場所の風景とかですか?」

「どうかな。私も途中引っ越しとかでこの街も一部の地理しか知らないの。あの子が描くのは現実をベースにしていたみたいだから、現実にある風景なのは確かかもね。」

「ボート小屋なんて、姉ちゃん知ってるか?」

「全然わからないなあ。どこにあるかも。ましてや家族で行ったことなんてないと思うよ。」

「俺の地元はそんなの聞いたことないし、この街の有名な場所は大体知っていると思うんだけど、そいつはぱっと出てこないな。」

タカヒロは記憶の限界のようだった。今まで何らかの形で関わっていたことのある場所であれば朧気でも情報が出てくるだろうが、それが出ないということはタカヒロの人生の中では今は無縁の場所に違いない。

アユミも記憶を辿り出した。

「そんなところあったかな?」

一同がそれぞれ記憶を辿る間、沈黙が訪れた。

「それって市民公園に昔あったひょうたん池の近くなんじゃねえか?」

意外な人物として井上が沈黙に終止符を打った。いつの間にか冷蔵庫から持ってきた保冷剤で頬を冷やしている。

「あー、そんなんあったなあ。俺らがこっち戻ってきたころにはもう池なんてなくなっていたよな。石原、あの公園だよ、小学校のときに遠足で行った、覚えているか?」

「ああ、あれね。昔この辺の小学校は海か山どっちかと市民公園は行ったよな。懐かしい。でも、公園はなくなっちゃったんじゃねえの?今の学生は公園行かねえって聞くよ。どうして公園知ってるんだよ?」

「母親の実家が駅の近くにあってな、ガキんころ夏休みとかは泊っていたんだよ。近所にその公園があって必ず連れていかれたんだよ。」

太郎が意外そうな顔で井上を見ている。誰もがこの街にあるアカネの父親の叔父と井上の母親の縁について何かを感じた。

「オッサン、あんた、だからこの街に戻ったんだ?」

「まあな。東京にいられなくなったのもあるけどな。て、大河内さんだけじゃなく俺もオッサンか?」

「盛り上がっているところすまないが、その公園は今、私の会社が再開発しているエリアの敷地内だと思うがね。もう入れないよ。」

「何やってんだよ、オッサン!姉ちゃんの邪魔すんなよ。」

「うるさいな、それとこれは関係ないだろう。仕事なんだから。」

「お父さん、そこって駅南の、あのただっぴろい森みたいな?」

「ああ、そうだよ。市民公園なんて名前がついているけど、手つかずの森をそのまま残すには治安も悪いからって、とりあえず切り開いて、勝手に公園なんて呼んでいるだけだったからな。元々周りを川に囲まれて街の発展で取り残された土地だよ。昔、地主が立ち退かなかったとか、遺跡が出て家を建てられなくて放置されたとか色々説はあったよ。」

「そんなところ、お父さんの会社は何をするの?」

「マンション建設。駅まで徒歩圏内だし、周りが自然や川で囲まれてうるさい交通が入ってこないっていうロケーションは悪くないからね。マンションを建てて周りにもオフィス兼商業ビルや公園を幾つか作る計画だよ。大手ショッピングモールを建てるにはあまり好ましくない間取りや広さっていうのも先手を取れて便利なんだ。幾つかスポンサーもついているし、何社かもオフィスとして・・・。」

「わかった、わかったって。オッサン、仕事になるとよくしゃべるな。」

父親はタカヒロに遮られて不満そうに口を閉じた。

「太郎、そこって昼間警察に追われたあの辺なんじゃないのかな。森みたいのが不自然に街から隔離されていたよね。」

「おお、そうかもな。」

ツキから意外な単語が出て、アカネが驚いた表情で問い詰める。

「ツキ、ちょっとあなたたち、警察に追われたって、何やらかしたの?」

「えっ、いやいや、悪いことなんてしていないんだけど・・・。私たち身分証明書がなくて、補導されたらちょっと面倒になりそうで逃げたっていうか・・・。」

「さっきアユミ姉ちゃんにも話したやつだよ。」

「ああ、そうだったわね。」

「そんな逃げること?ホントに?」

「本当だってば。私たちそんな悪いことするように見える?」

「うーん、ツキの性格は昔から知っているけど、意外なところあるからね。でも、悪いことなんてしていないのは信じる。」

「ありがとう。ところでおじさん、池の跡地やそのボート小屋ってまだあるんですか?」

「さあ。でも、敷地内は開発が始まるまで手はつけていないと思うけど。」

「姉ちゃん、行ってみようよ。」

「ちょっと待て、さっきも話しただろう。あそこはもう入れないようになっているんだよ。公園があった場所は囲いがしてあって入れない。近々橋も着工まで渡れないようにする予定だよ。」

「何とかならないんですか?」

「何しに行くかわからないものを通すわけにはいかないよ。さっきから聞いていればただ絵に描かれた場所へ行くだけなんだよな?それって何の意味があるのかな?」

「大ありさ。姉ちゃんにとっては。」

「行って何するんだ?思い出に浸るだけか?絵の記憶はないって言ってなかったかな?」

「でも、それでも行きたいんです。行って何もなければそれでもいいんです。行くことが目的です。」

「その行く理由は?」

「それは・・・。」

「お父さん!何でもいいんじゃない!ツキが、友達がこんなに悩んで頼んでいるんだよ。目的はその小屋探すだけ、あってもなくてもそこまで、理由なんてそれだけで十分でしょ?」

「駄目なものは駄目だよ。私の一存で部外者を入れるわけにはいかないよ。」

「あなた、それくらい大目に見てもバチ当たらないんじゃないの?」

「それだけっていうのが問題なんだよ。」

アカネがしびれを切らしたように立ち上がった。

「もう結構。頼まないから。ツキ、行こうよ。」

「うん、仕方ないね。今日は帰ろう。アユミも山口君も帰ろうよ。」

「あれ?終わり?」

 アユミは急に諦めるツキたちを見てきょとんとしている。

「あのオッサン堅物だから、どうしようもないだろ。」

タカヒロはアユミに目配せした。その意味をツキとアカネはすぐに理解した。

「じゃあ、お母さん、家で荷物纏めてツキの家へ行くね。明日はそのまま学校行くから。」

「学校終わったら連絡ちょうだい。業者さんが間に合って家の中が落ち着くかどうかで明日は泊まるところ決めよう。あなた、ケンジの荷物持ってきて。ケンジはホテルから学校へ直行するから。私、明日は有給取ります。」

「ああ、ケンジをホテルへ連れていったら家へ行ってくる。後で欲しいものあったら連絡くれ。」

父親がアカネと一緒に家へは行かないようにしたことに一同は安心した。父親なりに気を遣っていることは明白だった。

「じゃあ、先に帰るわね。ツキちゃん、迷惑かけるけどアカネをお願いします。」

「全然迷惑なんかじゃないですよ。私こそいつもアカネのお世話になってばかりです。」

「いいのよ、気を遣わないで。」

「何よ、最初っから迷惑かけるなんて。」

アユミが親子のやり取りを珍しいもののように、おかしそうに眺めている。

「アハッ、伝えておかないとアカネが何するかわからないんじゃない?」

「もう、アユミも変なことやめてよ。」

「あーあ、今日はもう疲れちまったなあ。なあ、俺も泊ってもいいか?」

「バカ!あんたはちゃんと家帰るの。」

「ツキちゃん、たまには家に遊びにきてね。またご飯食べましょう。」

「はい、ありがとうございます。」

ツキは入り口に落ちているショルダーを忘れずに拾い上げ、四人は開けっ放しの扉から、後ろを振り返らずに外へ出た。

残った大人たちは口を開かず、子どもたちが見えなくなるまで動かず見送った。この後、この店がどれだけ重い空気になるかは誰もがわかっている。


ツキは普通に歩くには支障がない状態まで回復しており、杖代わりの箒は不要となったので店にそのまま忘れてしまった。ちょうど雨の日に傘を持って外出し、雨が止んだら置き忘れてしまうのと同じ感覚だった。普通の肉体的な疲労とは何かが違うようだった。しかし、疲労も重なり、いつもの速度を出せるまでには体力は戻ってはいなかった。他のメンバーもどっぷりと疲れ切っていたため、歩調は皆合わせたように歩いている。賑やかな界隈を抜けて住宅地へ入るとアユミが口を開いた。

「タカヒロ、さっきの、ツキたち公園入れないってことだけど、どうせ塀なんて乗り越えて入っちゃうってことでしょ?」

「ああ、封鎖しているって話し、結局まだ何も手をつけていないってことだろ。だったら警備や工事は今そんなに人はいないんじゃないのか?だから簡単に乗り越えられるって思ったんだよ。」

「そうだと思った。私、あそこでお父さんに食い下がって逆に警戒されると面倒かなって思ったよ。」

「うん、私もそう思った。おじさんにはこれ以上何言っても何も聞かないと思ったから。あんまり機嫌損ねないほうが無難かなって。変に警戒されるとよくなさそう。」

ツキも同意見のようですぐにタカヒロの意図を理解したようだった。

「何、あんたら妙にものわかりいいと思ったら同じこと考えていたの?」

「ああ、そうみたいだよな。アユミは頑張って力技で道をこじ開けようとするから大変なんだよ。」

「何よ、私そんなに強引?」

「アユミは納得するまで頑張っちゃうんだよ。それも自分のことじゃなくて他の人のことも。だから疲れちゃうんだよ。本当は友達想いなんだよね。最近わかったよ。今日もね。」

「ツキ、あんた・・・。」

アユミが口籠るとアカネが小さな声で話題を繋げた。

「今日は本当にありがとう。みんな来てくれるなんて思ってもいなかった。」

「あんた、ヘルプ出しといてよく言うわよ。」

「あれは・・・。まさか本当に来るなんて思ってなかったから。」

タカヒロはアカネの代わりにアユミの肩を優しく叩いた。

「みんな来てくれた。それでいいんじゃねえか?」

「うん、山口君や太郎君まで。嬉しかった。太郎君なんて初めてなのに、あんなに傷ついてまで・・・。」

アカネは泣き始めて語尾が聞き取れなくなった。

「アカネ姉ちゃん、そんな泣かないでよ。俺、別に何したってこともなかったよ。逆にやられちまって足手まといになっただけだろ。」

昼間のレストランでの一件がひっかかっているようだった。自分を蔑むような太郎に向かって突然、タカヒロが背中を強く平手で叩いた。

「痛ってえ!」

「何凹んでんだよ。お前アユミ守ってくれたんだろ?大河内も。あんなチンピラに向かっていけるなんて大したガキだよ。」

「ガキって言うな。」

「なーに、お前尊敬してんだよ?普通逃げるぜ?俺は足止まりそうだったのに。どんな修羅場経験したんだよ。」

「そうそう、太郎君が一緒じゃなかったら心折れて動けなかったかもしれないよ。でも、いきなりアカネの家で現れたのはびっくりした。ツキがバックアップしていたとはいえ、事情全部知っているみたいで心強かったよ。」

「ね、うちの太郎、やるでしょ?」

ツキは前を向いたまま自慢げに話す。その横顔を見たアカネの表情が明るくなる。

「うん、太郎君が来なかったらどうなっていたか。二人が頑張ってくれたから山口君とツキが間に合って、私も頑張れたよ。」

「そうか?まだアカネ姉ちゃんの家の問題は解決していなさそうだけど、今日は何とかなったのかな?」

「今はこれでいいと思うよ。」「うん、みんなのおかげだよ。」「大丈夫に決まってるじゃない。」「ああ、もちろんオッケーだろ。」

太郎他一同、一斉に答えた。

やがて、アカネの家に到着した。入口は扉が蹴破られて外れているので、家の中が丸見えになっている。遠目からでも良くない何かがあったことがわかる。

「じゃあ、ちょっと待ってて。直ぐ準備してくるね。ごめん、家の中ガラスとか散らかって危ないから、少しでも風除けに玄関入って待ってて。」

アカネが扉が外れた家へと入っていくと、後ろからタカヒロが声をかけた。

「金目のものとか、持ってける貴重品は持ってこいよ。」

「うん、そうだね。」

野次馬は消えていたが、突然出発したために点けっぱなしの電気のおかげで、家の中には誰かがいるのではないかと思わせる雰囲気が人避けになっていた。

ツキはアカネを待っている間、アユミから到着するまでの経緯を聞いた。話が終わるとその場の全員が考え込んだように黙ってしまった。

「おい、このままじゃあ不用心だよな。」

場を持たせようとタカヒロが切り出し、外に出て辺りを見回すと、家の塀に誰かによって立てかけられた扉を見つけた。

「こんなの、道端に倒れてたら邪魔だから誰か立てかけたのかな?」

タカヒロは扉を入口横へと持ってきた。

「こいつ、仮でも嵌め込んでいこうか。外から家の中が丸見えってのもまずいだろ。部屋の中は仕方ないよな。後でオッサン来るみたいだから任せておこう。」

「山口君て結構気が利くのね。」

ツキがアユミに耳打ちした。

「馬鹿でうるさいって思うこともあるけど、こうやって見てると意外にしっかりしているもんだね。何か再発見って気がする。」

「何?俺何かやった?」

「ううん、タカヒロは頼りになるってこと。」

いつもおどけた態度のタカヒロが赤面したのはアユミにも意外だったようだ。どこか気まずい沈黙が流れた。太郎とツキは思わず顔を見合わせていた。

「タカヒロ兄ちゃん素敵って。」

太郎の突っ込みで二人はペースを取り戻したようだった。

「何だよ、太郎。わかってるじゃんか。お前も男前だよ。」

「やめてよ、男同士褒め合って気持ち悪い。タカヒロはおちゃらけてるくらいが丁度いいって。」

「アハハッ、太郎も男前って何か変。」

「変って失礼だろ。いつも男前なの姉ちゃん知ってるだろ。」

先ほどまで笑っていたツキは真顔になって答えた。

「そうよ、太郎、本当はカッコいいよ。」

太郎も赤面し黙ってしまった。アユミがにやけながら肘で太郎の肩を突いた。

「あらあら、仲がいいこと。太郎君のこと初めてだったけど、私もカッコいいと思うよ。こんな年下いないって。ツキって全然話さないから。」

「別に隠していたわけじゃないんだけど・・・。私、自分のことってあまり話すの得意じゃないから。」

隠していたわけではなく、話せない事情、あまりに現実離れしたことがブレーキをかけていた。しかし、今なら、みんなには話せるのではないかと思うようになっていた。

「知ってるって。話したいときに話せばいいんじゃないの。今日みたいに。私もそうだから。」

「ありがとう。」

「でも、たまには何か話してよ?気になるじゃない。ツキって、いっつも考え込んでいたり悩んでいる感じするよ。私のことも聞いてほしいときは話すからさ。」

「うん。」

やがてアカネが階段を下りてくる音が聞こえてきた。扉を失った入口は家の中の音をすべて吐き出してしまうようだった。

「お待たせ。扉ないから寒かったでしょ?早く行こう。」

アカネは大きなスーツケースと学校用のバッグを持っている。靴はシューズクローゼットから明日の朝そのまま学校へ行けるようにローファーを取り出した。

全員が外へ出るとタカヒロは扉を嵌め込もうとしたが、蝶番が引っ掛かり上手く収まらなかった。

「それでいいよ、大体で。お父さんに任せよう。」

「そうだな。これやった本人にお任せしよう。貴重品は持ったか?」

「うん、私自体は取られて困る物はないと思うよ。」

「だろうな、その荷物見ればな。」

「じゃあ、行こうよ。」

一行は何気ない最近の学校での出来事など話しながら、今日のことには触れないようにお互い遠慮しているかのように夜道をツキに合わせてゆっくりと進んだ。皆が通っている高校を通り過ぎたところでツキとアカネは立ち止まった。

「私ん家こっちだよ。ここ曲がって次の角曲がればすぐ。アユミと山口君はこのまま真っ直ぐ駅までだよね?」

「そうだけど、え?学校から近くない?」

「そうなんだよ。ツキの家って。」

「いいなあ、俺なんて朝練行くのに、電車乗るの怠りいなって思うから羨ましいわ。」

「ホント、これならメイクもっと時間かけられるのに。そういや、ツキってほとんどメイクしてないよね?」

「ちょっと、アカネ、これでもツキって、ちゃんとしてるんだと思うよ。ねえ?」

「え?そ、そう、そうだよ。ナチュラルメイクっていうか、みんなわからないだけだよ。」

「そうなの?」

「ホントか?俺、姉ちゃんが洗面所に立ってるの見たことないや。」

「太郎!最近肌荒れ酷いからごまかすくらいしているわよ。」

「そうなのね。」

アユミはにやけながらツキの顔を擦っている。

「ちょっと、やめてよ。朝は何だかんだでゆっくりしたいの。」

「ゆっくり何してるの?」

「ボーっとてしてる・・・。」

「あはっ、マジツキっぽい。早起きしても部屋でちょこんって座って、ボーっとしてるの想像つく。」

「もう、そんな時間、私好きなんだよ。」

「アカネも知らない一面かな。太郎君。ツキって朝そんな感じ?」

「俺が起きるころはもう朝食の準備してるからどうなんだろ。」

「そうなの?ちゃんと朝の準備するんだ。ツキって何かお母さんみたいだね。」

「前にツキの家に泊まったときも、私より早く起きていて、朝ごはん用意されていたなあ。」

「うん、そうだったね。あのころから家のこと、生活のこと、色々と仕込まれていたよ。」

「俺ん家なんて朝練早くてみんな寝てるし。適当にあるもの食べて終わり。たまに冷蔵庫の中がすっからかんで自腹でコンビニだよ。俺にも誰か朝飯作ってくれないかなあ。」

「じゃあ、山口君、たまにはアユミにお願いしたら?」

「何で。私、朝超弱いんだから。」

「うん、そんな感じする。」

「ツキ?メイクのお返し?」

「ゴメン、イメージどおりだったものでつい。なんて、実はそれほどでもないんじゃないの?」

「なんでそう思う?」

「だって、アユミ、毎日メイクも身だしなみもちゃんとしてオシャレだよ。遅刻したのも見たことないし。毎朝頑張っているなって、いつも思っていたよ。」

「なによ、ツキのくせに。まあ、確かにそこは気を遣ってるわよ。別に誰が見ているなんて思ってもいないんだけどね、毎日自分で気分上げていかないとやっていけないんだよ。まさか見ていたなんてね。」

「俺もちゃんと見ているよ。」

「私もだよ。」

「ホントに?ツキに乗っかっただけじゃなくて?まあ、いいか。タカヒロ、いつか気分乗ったらだけど、朝付き合ってあげる。そのときは準備あるから前日あたり前以て連絡するよ。」

「やった、何なら毎日でも。」

「調子乗らない。」

「アユミ姉ちゃんて、意外に面倒見いいんだね。」

「意外って何よ、意外って。」

先ほどからアユミは嬉しそうだった。相変わらず淡々とした口調は変わらないが、語調は今までにないくらい穏やかで、顔も険が取れている。

「て、俺は平気だけどお前ら大丈夫か?明日学校行けるの?大河内のオヤジが医者紹介すってことだけど、ホントのところどうなんだ?」

「ツキなんて身体ボロボロじゃないの?今更泊めてって言った手前だけど無理しないでよ。私ホテル戻っても大丈夫だからね。」

「無理してないよ。辛かったらこんなにしていられないよ。今日は色んなことがあり過ぎて疲れちゃったから、早く寝ようと思うよ。そうすれば明日も大丈夫、そんな気がするよ。」

「ホントに?何なら学校ひとりで行くから家で休んでもいいと思うよ。」

「大丈夫だって、バイトで鍛えられているから結構丈夫だよ。それより太郎こそ怪我酷いんじゃないの?」

「俺も平気だよ。状況が少し落ち着いてきたから意識できるようになったけど、ケガとか治り早くなったような気がするんだ。見てくれよ、この手。」

薄暗い街灯で見えにくいが、太郎の手の甲が少しだけ赤く腫れているのが見えた。いつの間にか包帯を取っていたようだった。昼間にレストランで人形に踏まれた傷は軽い擦り傷しか残っていない。

「さっきから妙に痒いと思って見たら治り始めていたんだよ。」

「太郎君、何、それ?手がどうかしたの?」

アカネが不思議そうに覗き込んだ。

「あ、いや、家の片づけしていたらちょっと擦りむいたんだけど、あ、そうそう、温泉入ってきたから治った気になったんじゃないのかな?」

「何、あんたら温泉行ってたの?それも切り上げてアカネ助けにきたんだ?」

「折角遠出していたのに邪魔しちゃったね。」

ツキは少し焦って取り繕う。

「いいって、どうせ日帰りなんだし。私たち身体大丈夫だから、アユミも無理しないでね。」

「私も大丈夫、あんたらが助けてくれたんだから。」

「でも、精神的に・・・。」

「そんなに気にしないでよ、ホントに。何もなかったじゃない。私は平気だって。」

そのニュアンスに含むものがあったが、これ以上この話題に触れるべきではないと誰もが感じた。

「じゃあ、ツキ、行こうか。山口君、アユミをお願いね。」

「ああ、今日は家近くまで送ってくよ。嫌って言っても送ってくからな。」

「今日くらいはね。」

「近くって、アユミは家まで行かせてくれないの?」

 ツキは怪訝そうに尋ねた。

「山口君、アユミのお父さんにマークされているの。最近部活帰りに会うこと多くなったからアユミの帰りが遅いって。」

「そうなんだね。やっぱり親御さんも女の子だと心配なんだね。」

「まあ、そんなところかな。いくら幼馴染みだからって、この歳になると気になるみたい。じゃあ、タカヒロ、何とかばれないようにしようか。」

「ああ。それじゃあ、また明日な。」

「うん、今日は本当にありがとう。今度お礼しないとね。」

アカネは二人に深々と頭を下げた。

「お礼なんて要らないよ。アカネの親父さん暴れないのが一番のお礼だよ。」

「それでも、みんなに本当に危ない目に合わせちゃって、何か形だけでも・・・。」

アカネが涙目になった途端、ツキはすかさずアカネの手を取った。

「形なんて必要ないじゃないの。そう思っているなら、またうちのケーキ食べてよ。それでアユミたちのも買って?」

「おお、そうだよ。それがいいじゃんか。俺はまたチョコレート、太郎もあの店よく行くの?」

「いや、俺は行ったことないよ。近く通ったことあるけど入ったことはないや。店の話しはよく姉ちゃんから聞くけど。」

「なんだよ、勿体ねえ。じゃあちょうどいい、みんなの頼むわ。」

「うん、じゃあ次はみんなで行こう。ツキはバイトじゃなくてお客さんでね。」

「そういうの初めてだよ。」

「アカネ姉ちゃん、決まったら教えてくれ。」

「了解。結構冷えてきたし、そろそろ。」

「じゃあ、ツキもアカネも明日学校でね。」

「お休みな。」

今日の不安を紛らわすかのように、誰もが口数が多くなっていた。興奮も冷めやらないのもあり、冬の夜の寒さも忘れていたが、落ち着きを取り戻してのクールダウンと、これからの予定への期待が日常へと彼女たちを引き戻し、冬の夜の寒さが一気に襲ってきたようだった。寒さから逃げるように二手に分かれ、それぞれ帰路についた。


「この門、まだ残っていたんだ。もう撤去していたかと思ったよ。ここだけしか塀が残ってないから横から入れちゃうよね。」

「そうだよ。両親が結構気に入っていて塀を残そうとしたんだけど、建て替えにあたって西側の道路を広げるとかで、塀を一部壊さないとならなくなったんだよ。結局、中途半端だからって新しく塀を作るのはやめたんだけど、門だけはオブジェみたく残したよ。」

「ふーん、芸術家ってやっぱり拘ってるんだね。」

「私にしたら残したほうが中途半端なんだけどね。」

「俺も最初見たとき、これなんだって思った。塀の役目してないのに門だけポツンとあって、何か意味あるのかなって。でも、慣れると気にならないんだけどね。」

「基本前に来たときとあまり変わってないよ。さあ、上がって。」

ツキは門に続いて家の扉を開けてアユミを先に通した。人感センサーのライトもアカネを歓迎しているようだった。

「ホント久しぶり。」

「急だったからご飯、あるのでいいかな?」

「いやいや、コンビニ弁当とかでオッケーだよ。近くにあったよね。ごめん、私、実は料理できないんだ。だから準備でも片づけでも何でもやれることを手伝わせて。」

「うん、そのときはね。でも、もう大丈夫。思ったよりも全然平気。寧ろ動いていたほうが気も楽みたい。お願い、久しぶりなんだから、簡単でもおもてなしさせて。」

「ツキ姉ちゃんは平気だよ。きっと。そういやアユミ姉ちゃん、ツキ姉ちゃんのご飯は久しぶり?大分腕上げたと思うよ。せっかくなんだし、ご馳走になろうよ。みんなで一緒に食べよう?」

「じゃあ、お言葉に甘えて。期待してもよさそうだね。それでも、残り物レンチンレベルで全然いいよ。それでもツキが作ったご飯だもの。評価対象。」

「こら、二人ともハードル上げないで。」

ツキは逃げるようにキッチンの扉を開けてエアコンをつけた。

「冷えるね。じゃあ、アカネ、部屋案内するよ。」

「俺は一階にいるからな。」

太郎は洗面所で傷ついた手を洗い、鏡を見て何かを考えていた。ツキは先に階段を上がり、自分の部屋のエアコンをつけてアカネを部屋へ招き入れる。

「ツキの部屋って何度か入ったはずなのに、今日初めて見た気がする。こんなにすっきりしていたなんて記憶にないよ。」

確かにアカネが言うように、他人を部屋に入れるのに躊躇わないくらい物がなかった。最初に目についた突き当りの窓側にある机以外、クローゼットと本棚しか見当たらない。脱ぎ捨てた衣服は見当たらず、制服が長押に取り付けられたフックにかけられているだけで、教科書以外の本も並んでいなかった。

「高校入る前にかなり綺麗にしたんだ。昔のアユミの部屋と反対な感じだね。アユミの部屋っていろんなものがあったけど、この前久しぶりに上がったら綺麗に整理されていたね。だからぱっと見シンプル。私の部屋もシンプルだけど何もないって、なんかお互いを象徴しているみたいだね。」

「違うよ。ツキは何もないなんてないよ。まあ、あれだ、実は押入れの奥に人に見せられないの、入ってるんじゃない?」

「ばれた?見られたら口利かなくなりそうなもの、入っているから開けないでよ。」

「そう言われると気になる。夜こっそり見ちゃうかも。見られたかは明日の私の様子で感じ取ってね。」

「ふふっ、今までと変わらないことを祈るよ。それじゃあ、好きなところに荷物置いてね。押し入れには布団ワンセットあるのと、私のパジャマで悪いけど後で用意するよ。」

「ありがとう。」

「じゃあ、ご飯できたら呼ぶね。もしよければ、これからお風呂沸かすから先に入って。身体冷えたでしょ?」

「確かに何だかんだ寒いよね。でも、寒いのみんな同じじゃない?ご飯一緒に食べるから、お風呂沸かすのは後でいいよ。せっかくだし、太郎君も言っていたようにみんな一緒に食べよう?」

「そうだね。みんなで食べよう。ちょっと、楽しみだな。じゃあ、また後でね。」

ツキは一階へと下りていった。そのときのツキの笑顔は子どものようで、アカネは懐かしく感じるのと、前に遊んだのがいつだったか思い出せなかった。

アカネは部屋の中心で膝を抱えて座り、部屋を見回しながら考えていた。今までツキがひとりで生活してきたことを改めて認識した。いつからか人を避け、再びこうやって一緒にいられるのは時間の巡り合わせなのか、それとも誰かが変わったからだろうか。太郎の影響という、確信にも似た結論にたどり着くには時間はかからなかった。親戚とはいえ歳も若干離れている男子をどう思っているのか。初対面の感想では年下の弟のような扱いであったが、その中にも異性を意識した態度やよそよそしさも感じる。本当に従弟かという疑問も湧いてくるが、その疑問もふたりを見ているとどうでもよく思えた。

「姉ちゃん、何作るの?」

ツキがリビングへと戻ると、太郎が椅子の背もたれに全身の体重を預けながら頭の後ろで腕を組んで、ツキの顔も見ないで聞いてきた。

「急だし、実は何も考えていないな。冷蔵庫と相談してみるね。」

「チャーハンとかどう?俺んときみたく。食進んで意外に結構な量食べられるから。元気になるよ。あ、例の中華鍋、今は使えないか?」

「腕は全っ然平気。そうね、それ、いいかも。後はオーナーに貰った叉焼もあるし、野菜スープで温まろう。」

ツキはハンガーラックにかけてあるエプロンを身に着けてキッチンへ向かった。相変わらず細腕に不似合いな中華鍋で具材が宙に三日月を描く。手際良く並行して料理を行いながら、何故か今は何かしら話さないと間が持たないと思い太郎に話しかけた。

「テレビ、観ないの?」

「ああ、別に観たいのはない。」

ツキは後ろに視線を意識して気まずさを感じていた。太郎は黙々とテーブルの上を片づけ、食器棚から今日の食事に見合う食器を見繕って準備している。料理と食器の音が交じり合いながら静かなキッチンに流れている。会話がないのが焦らせる。

「姉ちゃん、何度も聞くけど、身体は本当に大丈夫か?」

「うん、もう平気。太郎の言うとおり回復早いのかも。これって例の力と関係しているのかもね。何だか、怖いな。私が違うものになってしまうみたいで。」

「そんなことないよ。全然変わってないよ。変わらないよ。」

「そう?」

 ツキは平気そうに料理しているかに見えるが、明らかに鍋を振る手が震えて勢いも衰えていく。動きが止まりそうになったタイミングで、急に太郎が横から割り込んで、ツキの手から中華鍋を奪って見様見真似で食材を躍らせ始めた。中華鍋を激しく振って小さな火が不規則に花びらのように舞い上がる。

 ツキは驚き、太郎の手を取ろうとしたがすぐに引っ込めて、その場を譲った。

「俺、姉ちゃんの一言がなければ、あの店でチンピラたちに力使っちまうところだった・・・。」

「だけど、使っていないよね?わかるよ。」

「うん、この力を過信していたから、最初あそこまで動けたのもあったと思う。アユミ姉ちゃんやアカネ姉ちゃんが危ない目にあって、俺ならなんとかできるなんて思い上がっていた。そのうちあいつらが憎くなって、どうなっても構わないって思って、そうしたら俺自身止められなくなりそうになっていたんだよ。そんなとき、姉ちゃんのこと、思い出したら握っていた拳が自然と緩んできたんだよ。」

「太郎・・・。」

「まあ、そうしたらあっと言う間にやられちゃって、やっぱり敵わなかったや。」

「無事でいてくれるだけでよかったよ。ありがとう。みんなを守ってくれて。太郎がいなかったら、今こうやってみんな家に帰れなかった。私なんて自分を見失って・・・。」

ツキは目頭が熱くなってきた。太郎の手が時々止まりそうになるのは、初めて手にする中華鍋が想定外の重さだけではなかった。

「そんなことない。姉ちゃんこそ俺を助けてくれたんじゃないかよ。」

「あれは私じゃなかった、そう思うの。太郎を助けたんじゃなくて、私はあそこにいなかったの。ううん、あれも私なんだよ。感情をむき出しにした醜い私、今まで抑えていたものがいつの間にか私の中で化け物になって育って、取って代わって出てきたんだよ。ずっと大人しいふりをしていた私を疎ましく思っていたものが自由になって現れたんだよ。全部壊してしまえって!」

「バカ言ってんじゃねえよ!そんなの問題じゃねえって。」

「えっ?」

「みんな綺麗ごとばかりじゃないんだよ。あんな激しい面も姉ちゃんじゃないのかよ?」

「でも、そんなの・・・」

「記憶が始まったのは姉ちゃんと出会ってからみたいなもんだけど、ずっと見たり聞いたりしていたんだよ?姉ちゃんのこと。ひとりでやってきたことも、悩んでいたことも。普段の何気ない会話の中にもそれが散りばめられていたんだよ。俺、強いなって思ってた。俺だったらどうしていいかわからなくなって止まっちゃうのに。そんな姉ちゃん支えているのは化け物なんて言ってるけど、大切なものを守るために、危険に立ち向かっていける強さがあるからなんじゃないのかよ?」

「持ち上げすぎだよ。そんなこと言われたら・・・。」

ツキは泣きそうな笑顔で隣の太郎を見つめたまま、胸の前でエプロンを強く握りしめている。いつの間にか太郎の腕も止まって、その右腕は虚空を握りしめている。

「ちょっと!ご飯焦げてるよ!」

いつからいたのか、アカネがキッチンの入口に立っていた。鍋から焦げた匂いが立ち込めて煙が部屋に充満している。

「きゃあ!大変大変!」

ツキは急いでコンロの火を消し太郎は思わず距離を取ってアカネとツキを交互に見ている。ツキは少しでも焦げつきを回避しようと慌ててチャーハンを混ぜてしまったために、焦げた部分が全体に絡み合ってしまった。

「あらあら、おこげご飯になっちゃったよ。」

ツキは煙が目に入り涙を流していたが、それは煙が引き金によるものかは本人にもわからなかった。

「まったく。コラ、火を使っているんだったら目を離すなって。料理できない私が言うのも何だけどさ。てか、基本レンチンでいいってのに本当に作ってくれていたんだ。太郎君、料理できるんだね。」

「いや、姉ちゃんがせっかくだから簡単でも作ろうっていうからさ、どうせだからちょっと手伝っただけ。でも、悪い、ボーっとしてた。」

「私こそゴメン、油断していた。」

「ははっ、ふたりしてやらかしちまったな。相変わらず姉ちゃん、ツメが甘いなあ。」

ふたりは会話を聞かれたか心配で、ごまかすために妙に明るく振舞っている。

「でも、何か香ばしい匂いしてない?実は美味しいんじゃないの?ツキ先生に太郎助手?」

「確かに。いい匂いって、それだけで美味しそうって思っちゃうね。どうせだし、このままいってみようよ。」

「マジで?大丈夫かよ?」

「ツキは結構図太いからね。新作ぐらいにしか思ってないんだよ。太郎君は毒見係。」

「アカネ姉ちゃんも食べるんだよ?忘れないでよ?」

「そうだった!ま、ま、みんな一緒なら怖くないよね?」

「ちょっと。二人して私が信じられないの?きっと大丈夫だよ、死にはしないよ。あ、他の料理途中のままだった。」

「あらゴメン、結局ツキにばかり任せちゃって。あまりにそれが自然だったから。でも、私にも何か手伝わせてよ。」

「ありがとう。じゃあこれ、お願い。センスはアカネにお任せ。」

ツキはアカネにサラダの盛り付けを依頼して残りの調理を再開した。

「太郎君、毎日お疲れだね。」

「慣れたよ。姉ちゃんは転んでも直ぐに立ち上がって前へ進んでいっちゃうんだから。ある意味楽なんだけどさ。」

「ふふふっ、だよね。マイペースなんだよね、意外に。それでも、ちゃんと後ろ、太郎君も見てそうだね。」

「ああ、嫌じゃないぜ?」

「でしょうね。楽しそうね。」

テーブルで野菜を分けているアカネの童顔でいたずらな笑いかけに意味を感じ、太郎は思わず視線を逸らしたが、その先にツキの後ろ姿があり、何もない空間を探して部屋中を見渡し落ち着くのに時間を要した。

「太郎君って面白いね。」

「それってアユミ姉ちゃんにも言われた。そういやアユミ姉ちゃんもツキ姉ちゃんと同じこと言ってたなあ。あんたらみんな頭の中同期しているんじゃないのか?」

「それだけ面白いってことよ。いやあ、太郎君今度みんなで遊ぼうよ。年上の女子ばかりだと照れちゃう?」

「な、そんなことないけど、俺なんか混じっていいのかよ?」

「全然。もうすぐ年末でイベント沢山だよね。クリスマスにお正月に初詣。あ、クリスマスはツキと一緒かな?」

「ク、クリスマスは別に、いや、ちょっと何か考えてるっていうか、特にどうのとかは・・・。」

「あはは、おかしい。いいのいいの。クリスマスは家族で過ごすってのが本当みたいじゃない?あの子のんびり好きだから、そんな特別な日は大勢より気が楽なんじゃないの?」

「そ、そうかもな。あ、それでも、たまにはみんなでワイワイもいいんじゃないの?姉ちゃん根暗だから。」

「コラ、ちょっと。聞こえちゃうよ?」

キッチンではスープの煮える音と叉焼を何枚か焼いている音だけでなく、部屋に充満した煙を逃がすために換気扇が最強になって遮音性を増している。その下でツキは一心不乱に遅れた時間を取り戻そうとしている。

「そうよね。せっかくみんな仲よくなったんだから楽しいかもね。」

「そ、そうだよ。」

太郎の声のトーンや今までの会話の内容から残念に感じているものは何かをアカネは感じ取った。

「じゃあ、クリスマスはみんなで遊びましょ?太郎君はイヴにツキと遊んであげて?二日もイベント続きは疲れそう?」

「い、いや、そんなことないよ。まあ、特にやることないから大掃除の買い出しとかちょっと出かけるくらいかもだな。いや、ケーキくらいは食べたいかな、バイト先で買ってくるのもいいし、オーナーさんに一度会ってみたいし。あ、雪なんて降ったら面白そうかも。あれ?でも、そうなったら部屋でのんびりで、結局何にもしなくなっちゃうのかな?逆に外出て何か遊べるものもあるのかな?雪合戦なんてふたりでやっても寒いだけだし、スケートやるほど凍ったりなんてないだろうし。それにそれに・・・。」

太郎は慌てたように早口で次々とまくし立てるように答えた。

「太郎君?ちょっと興奮し過ぎ。楽しみなんだろうけどさ。相当面白かったけど。」

「太郎?何?楽しいことあったの?」

ツキが例のおこげチャーハンを持ってきた。

「うわあ!何でもないよ!」

「その割にははしゃいでいなかった?」

「ツキ、年末ね、クリスマスみんなでパーティーやろうかって話していたの。」

「そうなんだ。楽しそうだね。あ、でも・・・。」

「イヴは太郎君と年末大掃除の買い出しなんでしょ?」

「あ、うん・・・。そうなんだよね。受験も追い込みだし一気に年末大掃除して備えようって。そう・・・。追い込みなんだよね・・・。」

浮かない顔のツキをアカネは下から覗き込んだ。

「?」

「ううん、ちょっと心配なだけ。無事終わるかなって。太郎、意外に頭は悪くないから、いけそうな気はするんだけど。」

「意外ってなんだよ?」

「そうよ、ツキ?太郎君結構やるわよ?今日も大活躍だったんだからね。」

「そうね。あ、まずは冷めないうちに食べちゃいましょ?」

「おお、そうだったよな。新作試してみないとな。」

「返品お断り。ノークレーム、ノーリターンでお願いします。」

そう言ってツキは次々とテーブルに食事を運び、太郎も飲み物やスプーンや箸の準備などを手際よく進めた。その動きにアカネは感心した。

「慣れてるなあ。」


「いただきます。」

三人は学校、最近のツキの話しやバイトでの経緯など、太郎が来てからを辿りながら談笑しながら食事を楽しんだ。

「結構いけるもんだよな。美味かった。」

「うん、美味しい。おこげがいい感じだったよね。ツキの新作にエントリーだね。スープも身体温まってよかったよ。ツキって料理上手だよね。太郎君羨ましい。」

「いつもはもっと簡単なんだけど、ちょっと気合入って待たせちゃったね。」

「ううん、全然早い。それに太郎君が楽しかったから。」

隣で太郎がふくれっ面で皿にこびりついたおこげをスプーンでこそぎ落とし、聞こえない風で口に運んでいる。

「さあ、お風呂準備するね。最初はアカネ、どうぞ。」

「いやいや、後片付けぐらいさせてよ。ツキが先でいいよ。」

 二人のやり取りを他所に、太郎が無表情で食器を片づけ始めた。

「お客さんが先なんじゃねえ?今日ぐらいはアカネ姉ちゃんお客さんだよ。」

 アカネには今日ぐらいという言葉が次もあると同義のように思え、たまには甘えても良いと思えた。

「ありがとう。じゃあ遠慮なくね。準備してくるね。」

太郎は黙々と洗い物を始めたが、表情は柔らかかった。


全員が入浴を済ませると時計も十一時を回り、普段であればまだみんな起きている時間だったが今日は違う。誰もが同じ意見のようで挨拶を交わし、それぞれの部屋へ向かった。先ほどまでの賑やかさが嘘のように家が沈黙した。電気が次々に消えて、三人の部屋の灯りが暗闇に分断されると家は建物の役割を失ったかのように、それ以外の空間は意味をなしていないかのように存在を忘れさせた。外では雪が降っても気づかないほどの静かさだが、三人の頭の中は今日起ったことが次々と慌ただしく思い出されて、神経が研ぎ澄まされて疲れているのに眠気を感じさせない。


ツキは客間の新しいソファーの上に布団を敷いて横になっている。布団の半分は乗り切らずに床に垂れ下がっている。普段、真冬以外は毛布に包まってエアコンもつけないのだが、今日は上手く包まれないのでエアコンで部屋を暖めている。

壁際に置かれた個人用の椅子に置いてある学校の制服や着替えが、疑似的に人の気配を放っているのが少し落ち着かない。

静まり返った部屋の天井を見ていると、頭の中にさまざまなことが浮かんで目が冴えてしまった。どれもが時間軸はバラバラで、ときには連想ゲームのように繋がり、脈絡もなく現れては消えていく。


今日は本当に色々ことがあって、言葉にはできないくらい夢みたいだったなあ。私の旅も終わるかもって思ったけど、やっぱり、そんな簡単じゃなかった。

桃園の店長さんたち、大丈夫かな?今度お礼しに行かないと。そして、またあのハンバーグ食べたいな。とっても美味しかったな。うん、契約もあるんだし、きっと大丈夫だよ。全部終われば。

結局、あの変な人形は何だろう?気持ち悪い。もう出てこないよね?

あの大きな手、あれは何?結局絵は何処に行っちゃたんだろう?穴の中?あの手?

願いごとと引き換えに相応のものを捧げるって、そこまでして願うもの、私にはあるのかな?あったのかな?何かを願って、捧げる価値のあるものなんて考えても出てこないのに、先のことの期待ばかりで失うことは二の次でいいの?

アカネ、お父さんと元どおりになれるのかな?遠くへ行っちゃうのかな?折角アユミとも仲よくなったのにバラバラになったら寂しい。クリスマス約束したから大丈夫、お母さんもこの街に残るって話しだったよね。

アユミもアカネのために駆けつけてくれるなんて、何だか嬉しい。私だったら来てくれたのかな?見た目はクールだけど。そういえば、二人でアカネの家へ行ったときの表情、全然違ったな。何だか本当のアユミを見つけたみたいで、趣味も近いみたいだしもっと話してみたいな。

山口君って、いざってときに頼りになるんだ。普段の姿から想像つかなかった。目的はアユミ探していたみたいだけど、普通にアカネ探すのも手伝ってくれるんだろうな。二人ってどんな関係なんだろう?私を助けてくれようとして怪我したの大丈夫かな?ちゃんとお礼しないと。

そう、怪我って、私の身体、どうなっちゃったんだろう?傷の治りの速さはおかしいな。みんな気を遣うくらい酷かったはず。でも、今は全然平気。

あんなに跳べるようになるなんて、桜子さんが言っていた契約の副産物的なものなんだろうけど、どういった理由で発現するんだろう?得意じゃないけど、体育で想定外に跳べたのはあったけど、別に何とも思わないのに。きっと、今の私自身や現状から逃げたいって思っていたからかな?

太郎の力は対象物を吹き飛ばす、いや、拒絶する?最初あの子、私の手を何度も振り払ったな。口の利き方も知らないような生意気でよくも悪くもはっきり思ったこと口にして周りに迷惑かけていたのも何だか懐かしいけど、今は当たり前で何とも思わなくなったな。目を光らせていないと危なっかしいのは相変わらずだけど。でも、時々年下って思えないような、しっかりした考え方や、物事に気づかせてくれることもあったり、私の友達をボロボロになりながらも助けてくれた。太郎に弱いところ見せないようにって、会ったときからそう振舞っていたけど、逆に励まされて、背中押されていたんだね。弟みたく思っていたけど、いつのまにか私がついていく側になっていた。頼りにしているってこと?もし、太郎が同じ歳や年上だったら?考えれば考えるほどあり得なくて混乱してくる。

頼っているのはどっち?ふたりともこのまま?

年月が経ったら、ふたりとも大人になったら、それまで私たちは一緒にいるの?月が満ちて満月になっても、次の瞬間には欠け始めて最後には見えなくなる。そんな関係みたい。太陽と月は一緒には輝けないってことがしっくりくるのかな。そんな太郎と出会ってから、やっと時が動き始めた、それは間違っていない。でも、時は動き始めたら止まってはくれない、長針は短針を追い越していってしまうように、私たちのどちらかが追い越してしまうのかな?そうしたらまたいつか巡り合うの?

太郎の記憶が戻ったら終わってしまう、最近そんな不安を思うことが多くなってきたな。空へなんて跳べなくてもいい、危険なことがあっても逃げればいい、特別なところへなんて出かけなくてもいい。いつもの何気ない会話が、家へ帰ってきて、そこにいるだけで、お帰りって言ってくれるだけでいいんだ。

 ああ、クリスマス、楽しみかも。


割り当てられた部屋で太郎は天井を見ながら考えごとをしていた。

もう慣れたもので、この部屋がずっと前から本人の部屋だったかのような安心感がある。テレビも置かれているのだが、寝る間際までツキとキッチンで会話しながら一緒にテレビを観ているので、この部屋でも観る必要はなく、今日も沈黙している。そんな静かな部屋でも、考えごとや今までの出来事を思い出していると目が冴えてしまう。電気を消してもなお、頭の中は鮮やかなままだった。


俺はいつまでこのままなんだろう?

姉ちゃんはそろそろ先が見えてきたな。

何だか、色んなことがありすぎてわけわかんないくらい疲れたな。体中痛いけど、風呂入ってかなり回復した気がするけど。俺たち化け物になったのかな?この回復の速さは異常だな。いや、姉ちゃんは化け物なんかじゃない、自分をそんな風に見るなよ。俺はそんなこと思っちゃいないんだよ。でも、もし、化け物になるなら、なってもいいよ、俺も化け物。最初怖かったけど、悲しそうで、姉ちゃん自身を責めてるのは本当に悲しかったんだよ。俺がもっと強かったら心配なんてさせないのに。いつもフォローしてもらってばかりだな。男は女守ってやるって古臭いかもしれないけど、そうなりたい。

本当は臆病でどんな風に見られているか気になって、俺、こんなだし悪く見られているなんて自覚してるけど、悪態でもつかないと話せないのわかってるのかな?それで迷惑かけてるよな。それでも、いつも笑って済ませてくれているよね。そんな面倒なことなんてなしで、つまらないことでも一緒に笑っていたいんだけどな。

笑うとかわいい顔してるのに、姉ちゃん自己評価低いけど、俺はそんなことないって思うんだけどな。スタイルは細めよりもう少し出るとこ出てもいいと思うんだけど、顔は悪くないんじゃないのかな?メイクももうちょっと頑張ればなあ。いや、元が悪くないってことだったら美人なのか?必要ないとか?

そういや、今日は疲れたけど、危ない目にもあったけど、それ以上に楽しかった。普通じゃないことばかりで、何だか映画の主人公にでもなったみたいで、こんなこと、夢や妄想しかありえないって思うことばっかりじゃないのかなあ?

そうだ、あのとき、アカネ姉ちゃんのお母さんの話しがヒントになったようだったけど、ボート小屋が本当にあれば、姉ちゃんの探しているものがあれば、そこですべて終わりになるのかな?

後は俺の探し物、いまだに手掛かりすら見つからないけど一緒に探してくれるのかな?終わったら普通の日常に取って代わるのかな?

石宝堂のご主人さんには剣術習いたいし、姉ちゃんのバイト先のオーナーさんにも会ってみたいし、また、あのハンバーグ食べに行きたいな。あ、まだ店やってるのかな?姉ちゃんが解決したら消えちゃうなんてことあったりしないかな?いや、いつでも行けるようになる、きっと大丈夫、かな。

アカネ姉ちゃんやアユミ姉ちゃんみんなのクリスマスの約束、楽しみだな。タカヒロ兄ちゃんには悪いけど。

あ、イヴ、何しようかな?デートなんて何したらいいんだよ。記憶なんて頼りにならないし、誰にも聞けないし、ネットしかないのか・・・。そもそも本当にいいのかよ、俺で?彼氏になんてなれっこないんだよ?でも・・・。

みんな俺らの関係を何となく薄々気づいているような気がするんだけど。さっきもアカネ姉ちゃんに聞かれたかもしれないな、俺らが普通じゃないこと話していたの。

そうだよ、まさかあそこから跳んでこの街へ帰ってくるなんて思わないよな。姉ちゃんの跳躍力と俺の弾く力、何の意味があって選ばれたんだろう。俺は人を拒絶しているから想像どおりなんだけど、姉ちゃんは何だろう?

目の前の障害を飛び越える力が欲しかったのかな?

もっと高みへと自分を引き上げたいって思っているのかな?

壁を作っていたなんてことだけど、もう十分越えていけるんじゃないか。今思っているよりも強いんじゃないのか。

初めて会ったときは無理しているのが目に見えたけど、俺も姉ちゃんも自分のことを話すようになってきたら、姉ちゃん、どんどん先に行っちゃう気がしてきたな。困難や危険な相手にも立ち向かって、みんなを助けて、俺のことも助けてくれて。俺も高いところへと連れていってくれる。こんなんじゃいけない、頼ってばかりじゃ、俺から先へ行かないと。

ああ、あの空からふたりで街を見下ろしたのは忘れないよ。

その晩、太郎は夢を見た。とても不安な夢だったが、あまりに疲れていたのか、泥沼に沈むように記憶も理性も頭の奥深くへ飲み込まれて、覚えているものは何もなかった。


アカネは眠れず、何度も体勢を変えているが、睡眠へ落ちる最良の形は見つからなかった。間もなく日付が変わろうとしている。いつもはまだSNSや友人とメール、熱中しているゲームがあればまだこれからという時間でもあったので、今が遅い時間とは思えなかった。

ツキの部屋にはテレビはなく、アカネの部屋より物が少ないことに妙な解放感があり落ち着かない。部屋はツキが予めつけていた暖房の暖かさが心地よく、お香を常時炊いていたようで安らぐ香りが布団にも染み込んでいる。

これはラベンダーだろうか。突然降ったかのように思い出した。他にもムスクや木蓮の香りが混じっている。アカネはお香に詳しくはないのだが、嗅いだことのある香りも幾つかあった。ふと、学校でもツキは近づくと良い香りがするのを思い出した。先日、家に来たときに嗅いだものと同じ香りが部屋には漂っている。

ラベンダーは安眠とは聞いたことがあった。眠れない夜など、お香を焚いて紛らわすのが常習化したのか。そんなことを考えていると不思議と今日の事件の不安や恐怖より、この部屋でツキが一体どのようにして過ごしているかのほうが気になっていた。

いてもたってもいられずに起き上がり、太郎を起こさないように足音と気配を殺して、扉をゆっくりと時間をかけて開いて部屋を出た。廊下の電気を点けないで、ツキの部屋を少し開けて明かりの代わりにして階段を目指す。途中、太郎の部屋を横切ったが、部屋の灯りが扉の隙間から漏れていないので、さらにゆっくりと、物音を立てないように壁を頼りに一階へと下りていった。

一階は真っ暗に思えたが客間から微かな光が漏れている。扉に耳を当てて中の様子を伺う。上手く聞き取れないが何か鼻歌のようなリズムが聞こえた。それはツキが起きていることだと確信し扉をノックした。

「ツキ?起きてる?」

控え目に小さな声で、夜の空気が波立たないように、囁くように問いかけた。

「起きているよ。」

そっと扉を開いて中に入った。出窓に寄り掛かるように置かれたソファーの上に布団を敷いて、その上にツキが座ってこちらを見ていた。掛け布団を膝掛として使っている。アカネはツキの隣に座り、同じように掛け布団の半分を膝にかけてソファーに身を沈めた。

「どうしたの、アカネ?寝られないの?」

「うん、いつもは寝るの遅いのもあるのかな?ツキも?」

「そうだと思う。私はこのくらいにはもう寝ているんだけどね。」

「うん、早く寝そう。てか、ソファーなんかでちゃんと寝られるの?身体、辛くない?」

「大丈夫だよ。アカネは慣れない感じ?」

「普通に寝られないだけ。あ、そう、ツキの部屋いい匂いした。お香でしょ?」

「そうだよ。ああ、安眠とかって?」

「そう思った。」

「昔はね。寝られなくて病院行こうかと思ったりもしたんだけど、何か、癖になったら困るなって思って調べたんだよ。香りでリラックスできるんだって。結構色々試して、一時期は冒険しまくりでダンジョンの奥まで入り込んで迷っていた感じ。今はやっと落ち着くところに落ち着いたよ。」

「そう。そういえばパジャマ色違いでお揃いだね。かわいい。」

 ツキが紫に対してアカネは薄水色で同デザインに見えた。

「同じお店で買ったからね。建て替えで仮住まいから引っ越したときにパジャマ見つからなくて。急いでいたから間に合わせで買ったら後から出てきたんだよ。」

「あるあるだよね。私も家のリフォームで色々と買い替えたけど、気に入った本とか捨てないものは一時期行方不明になったよ。」

「アカネもそうだったんだね。お互い一時期住んでいる家が変わったよね。懐かしい。」

「そうそう、学校挟んで今と逆方向。で、お互いの今いる家の近所だったよね。」

「おかげでアユミの家の近所から広がって詳しくなったよ。だから、今日もアカネを探すのに何となく土地勘働いたんだよ。」

「そうだったんだ。」

「あ、ごめん、今日のこと、また思い出させて。」

「気にしないで。でも、本当にありがとうね。ツキにも助けてほしいって思って電話しようか迷ったんだ。駅前で見かけて遠出するんだなって思っていたのに、結局電話しちゃって。こっちこそごめんね。」

「ううん。寧ろ、頼りにしてくれて嬉しい。それにアユミも連絡してくれて。私に声かけてくれたんだなって。全然頼りになりそうにもないのにね。」

「そんなことないよ。何となく、そのボーっとしたとこが落ち着いているみたいで、いざってときに何とかしてくれる、頼りになるって思っちゃったり。前に私が休んだとき一緒に来てくれたでしょ?そのときのこと嬉しそうに話していたんだよ。あのアカネが。ツキって頼りになるってね。」

「そうなの?ただ誘われただけなんだけど。」

「そこだよ。最初は不安だったみたい、嫌がられるかって。そんなでも、ツキに恐る恐る聞いてみたら躊躇いもなく行くって即答してくれたって。」

「まあ、普通なんじゃないの?」

「いやいや、あのとき、私も普通じゃなかったよ。面倒起きる気配満々じゃない。だからだよ。それからツキって結構動く奴ってなったんだって。」

「動く奴?」

「彼女、あの性格でしょ?みんな引いちゃったり、近づいてくる子ってあんまりいないんだよ。いても顔色伺って無難に済まそうってしたりで。私は周りが変な気を遣い過ぎるから彼女みたいにストレートなタイプが楽なんだよね。だから、私もおべっかなんか使わず思ったこと言える。だから気が合うんだ。そんなだから、最初ツキが友達っていうことでちょっと私に遠慮していたらしいよ。ツキにはつかず離れずの距離を保っていたみたい。でもね、段々話しているうちに距離は保っているのに意外にいい意味で遠慮しないところもあるなって。そう思い始めたところに私の家へのお誘いの件があったんだって。」

「それが動く奴?」

「そう。思ったとおりに行動できる子だって。掛け値なしにね。それに、さっきも言ったけど、ツキって不思議と何とかしてくれそうって思うんだ。何ていうか、普段があまり読めない分、親しくなると先入観がひっくり返るっていうか。声掛けたら来てくれるって信じていたんだよ、きっと。でもね、助けてほしいのは本音だよ。だから今日は巻き込んじゃったって思っているんじゃないのかな?私もそう思う。」

「そんなこと全然ないよ。だって、無事にこうしていられるじゃないの。何も悪いことなんてないんだって。逆に頼ってくれたから、危ないところを助けられてよかったって思うよ。アユミにも伝えておいてね?私、直接話すのは何か恥ずかしいし、きっと、別にって怒られそうだから。」

「うん、だろうね。彼女、今回みたいに危ない目に何度かあってるんだって。だから慣れっこっていうわけじゃないけど、ある程度は想定していたんだと思う。だから、前に私の家に来たときも人一倍怖かったんだよ。今日なんて特に。だけど、嫌な経験しているからいつものように家へ帰れるのもあるんだよ。じゃなかったらおかしくなっているはずだよ。」

「そうなんだ・・・。気が強いだけじゃなくて芯が強そうだから何かありそうって思ってはいたんだけど。」

「家族関係も結構複雑みたいで、色々と嫌なこと経験してきているみたい。だからあの性格。幼馴染みの山口君が緩衝材になっているね。あの二人、高校は合わせて入ったんじゃないのかなって思うんだよ。」

「私もそう思うな。今日は山口君がいてくれて本当に助かったよ。やっぱり男子って感じで頼りになるね。」

「男の子全員山口君みたいじゃないんだって。彼レベルは特別。アユミ助けるっていうのも強くなった理由の一つかもね。」

「だろうね。それでも、彼は誰でも助けてくれるんだろうね。いつも学校で見たまま。」

「そうね。アユミは素敵な彼持ったよね。ツキもね。」

「彼って?」

「太郎君でしょ?」

「あの子は・・・。」

ツキはアユミから目を逸らしカーテンで隠されている外を見つめた。

「いい子じゃないの。今日の、あんなツキ初めて見たよ。あそこまで動けるなんてびっくりしたよ。」

「あのときはどうなるかわからなかった。助けなきゃって思ったら頭の、目の前が真っ赤になって、気づいたら飛び出していた。自分が怖い。アカネ?」

「何?」

「私、怖い?」

「そうね、最初は驚いた。でもね、あの状況では感情が所々麻痺していたのかな、ちょっとカッコいいなんて思っちゃったんだよ。何の迷いもなく全力で薙ぎ払っていく感じとかね。逆にツキが危険な目に遭ったことのほうが怖かった。だからツキが怖いなんて忘れちゃった。」

「ありがとう。何か自分が嫌になりそうだった。私、人に暴力を振える人間だなんて、思ってもみなかったし。それが現実なんだって、否定できなくって。どうしたら受け入れられるんだろうって。」

「うーん、上手く言えないけど、どれもツキなんじゃない?確かに暴力はよくないけど、あのまま太郎君が危なくなったら、そっちのほうが後悔すると思うな。ツキがああしなかったら山口君が同じことしていたかもしれない。私も実は何とか振り解いてその辺にある椅子か何かでどうにかしようなんて思っていたよ。だから同じ。あいつらは自業自得なんだって。あそこまでしないと止まらないし、他の誰かがもっと危険な目にあっていたかもしれないんだよ?」

「そうなの?でも・・・。」

「ツキ?いつも謝ったり否定ばっかりはもう終わりなんじゃないの?せっかくまたこうやって話せるんだよ?しかも、私を、太郎君を助けてくれたのに?ちょっとくらい暴れたっていいんだって。今まで我慢してばっかじゃない。あなたを受け入れてもね。」

ツキはトラブルがレストランでもあったことは話せずにいた。それだけに、暴力的な一面に戸惑いを感じ閉じ籠りたい気持ちに反し、誰かに話さないと不安だった。それをアカネと太郎を助けた一件で同じことを繰り返しながらも、皆で乗り越えたことで話す機会を得て、少しずつ吐き出して、そのお陰で軽くなったような気がした。それでも、まだ胸の奥底には黒い何かが溜まっている感覚は消え去ることはなかった。

「今日はツキが助けに来てくれて本当に嬉しかった。遠くにいると思っていたのに。何だか魔法みたいだよね。」

その言葉にドキッとしてアカネの顔を思わず見入ってしまった。

「なに?急に?顔、近いって。」

「あ、ゴメン・・・。そうね、早く行かないとって思っていたら、いつの間にか駆けつけていたんだ。」

「ありがとう。またピンチのときは空飛んで助けにきてね。」

「うん、跳んでいくよ。」

「何だか安心したのか、急に眠くなったよ。明日も学校だ。」

「明日は普通にみんなに挨拶だよね?何も起きなかったぐらいに?」

「そうそう、特にアユミなんて変な空気にしたら超怒って口利いてくれなくなっちゃうよ。そういえば、太郎君も学校だよね?どの学校通ってるの?」

「え、ああ、今三中に通っているよ。家からはちょっと遠くなっちゃったけど。」

「そうなんだ、明日は少し休んだら?受験もあるんでしょ?体調管理は大事だよ。」

「だよね。明日は休むように言っておくね。」

アカネはツキの言動や動作から太郎のことを色々と推測している。

(今中学生で受験ってことは中二くらい?小学生なのか中学生かはっきり言ってくれないと、私と背が近いから見た目でしか判断できないな。親戚ってことだけど、雰囲気違う?まあ、どうでもいいか。話したくないこともあるだろうし、別に私たちは誰も困らないしね。言いたくなったら言ってね。言いたくなければ言わなくてもいいんだよ。)

「結構話したね。私もちょっと眠くなってきたよ。やっぱり疲れていたみたい。」

アカネは大きなあくびをした。

「そうだよ。あんなことあったんだから。今こうやって普通に話せているの、信じられないくらいだから。」

「私たちって結構図太いよね。あ、この部屋だよね?ボート小屋の絵があったっていうの。」

「そうだよ。ほら、そこ。少し壁の色が違うでしょ?」

「ホントだ。結構大きいんだね。明日またお父さんに公園跡に入れないか頼んでみるよ。」

「うん。ありがとう。」

「じゃあ、今日はお休み。」

アカネのいなくなった部屋は少しだけ温度が下がったような、少しだけ暗くなったような気がした。

ツキは一人ソファーに座って、敢えて今日のことは考えずに頭の中を空っぽにしていると、急に眠気に襲われ、間もなく深い眠りについた。何かの夢を見たような気がしたが、それもやがて真っ暗に塗りつぶされて忘れることになった。


アカネはスマホのアラームで目が覚めるより早く、太郎の部屋の戸が開閉する音で目が覚めた。エアコンのタイマーを設定し、寝静まっても一定時間は稼働するようにして、朝部屋を出るまで暖かさを残しておく予定だったが、冬の寒さは隙を見るなり一気に暖かさを奪って部屋を自分のものにしてしまった。

再び布団に潜り込んでアラームが鳴るのを待った。いくら待っても一向に鳴る気配がしないために時間を持て余し、気合を入れて寒さに立ち向かって布団から跳ね起きた。

一階へと下りると、すでにツキが朝食を準備し終えて、太郎が並べるのを手伝っていた。朝は和食でご飯とおかずは昨日の残りの叉焼と目玉焼き、バイト先でもらった野菜をカットしてのサラダが各自配られ、少し大きな漬物の瓶がテーブルの中央でふんぞり返っている。

温め直した叉焼の香ばしさと、熱々のみそ汁の湯気を見るだけで食欲をそそられる。アカネと太郎の元には納豆が置かれていた。

「あ、アユミ。おはよう。もう少ししたら呼ぼうと思っていたよ。」

「アユミ姉ちゃんおはよう。」

「お、おはよう。ふたりとも早いね。いつもこんな?」

「そうだよ。もう習慣になっちゃったよ。」

「太郎君も偉いね。一緒に手伝って。」

「別に。早く飯食いたいだけ。」

「ふふっ。そう。」

アカネの笑みに別の意図を感じ、太郎は準備を早々に済ませて洗面所へ向かった。

「もう顔洗ったんじゃないの?」

太郎は何も答えず、しばらくしてから戻ってきた。

「アカネ、準備できたけど、食べられる?」

「食べる。冷めちゃわないうちにね。メイクは後でも。」

「あ、ゴメン。先にしたかった?」

「今更だよ。別に大したことないし。」

「アカネ姉ちゃんすっぴんってやつ?」

「太郎!」

「あはっ。平気だって。何とも思わないよ。」

「ふーん、別にそんな変わらないから、化粧なんてしなくても関係ないんだな。」

「コラ!それだけ元がいいってこと!」

「あらツキ、お上手だこと。いいのよ、太郎君。そのうちわかるんだから。」

太郎は首を傾げた。

「ふーん、でも、やっぱり姉ちゃんが鏡の前に立っているの、見た記憶ないや。」

「太郎!」

「あはははっ!ツキってホンットに化粧っ気ないのね。太郎君、そのうちツキ、化けるかもよ。」

「化けるって、もう鬼になってるから何とも思わないよ。」

「太郎!あんたが変なことばかり言うから!」

「もう、ふたりとも笑わせないで早く食べようよ。」

「そ、そうね。太郎、後で覚えてなさいね。」


アカネがツキの部屋で登校の準備とメイクをしている間、ツキはキッチンで太郎に簡単に昼に何を食べるかを伝え、客間へ行って素早く着替えを済ませた。

「(ホントにメイクしないと早いな)姉ちゃん、今日、例のボート小屋の下見してくるよ。ちょうどあの辺りも探索しないとならないからな。」

「気をつけてね?きっと人が入れないようにしてありそうだから、強引に入ろうとしないでね。それにあの辺りって、あの警官いるかもしれないから注意してね。」

「ああ。それよりさ、姉ちゃん、身体どうだ?」

「うん、今朝はもう何ともないよ。脚も普通に動くし、喉も痛くない。」

「だろ?手を見てくれ。」

太郎の手はすっかり腫れも引いて、まだ少し皮膚が荒れてはいたが、見方によっては冬の寒さによる軽い手荒れにしか見えなかった。

「これって・・・。」

「ああ、普通じゃないよな。一日で。」

「そうだね。そうだけど、考えてもどうにもならないよね、今は。逆に助かったって考えよう?今だから言えるけど、私の喉も普通だったら病院へ行くレベルだったと思う。」

「そうなんだ、でも・・・。」

話しの途中、アカネが準備を終えて二階から下りてきた。

「お待たせ。準備はいい?」

「もちろん。じゃあ、行こうか。太郎、留守番お願いね。」

「ああ、いってらっしゃい。」

玄関で靴を履く二人を太郎は後ろから静かに見つめていた。

「そういえばツキって、一人のときに歌、歌うんだね。」

ツキは真っ赤になって、ごまかすように急いで扉を開けて足早に外へ飛び出した。太郎は腹を抱えて声を出さずに笑っている。おそらくあの歌だと、不思議な歌を思い出していた。

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