第3話 新しい日常
今日も窓から見える冬空は、今にも雪が降るのではないかと思うくらいの曇りだった。そんな冬空も、ツキは晴れた日には夏よりも遠くまで澄んで見える気がして嫌いではない。加えて、今日は気持ちが少し軽いのが、より一層遠くまで景色を見渡せるような気にさせる。
週末の出来事は夢かと思うくらい実感もなく、もう何日も経っているかのような疲労感が残っている。それと同時に何事にも意識せず過ごした毎日が、今は目的を見出せたこと、友人との距離が縮まったことはツキにとってとても大切な変化でもあった。
「行ってくるね。今日はバイト休みだから早く帰ってくるよ。」
玄関先で太郎がツキを見送っている。
「だったら俺のほうが遅いかもな。」
「じゃあ、少しのんびりして待ってるね。」
「ああ、いってらっしゃい。」
そう言って、太郎は昨日のツキのソファーの歌を鼻歌で歌った。
「太郎!」
ツキは思わず腕を振り上げ、土足で家へと上がりこんだ。太郎は素早くキッチンへと逃げ込み、ツキはふくれっ面をしながら靴で踏んだ床を払って家を後にした。
気持も緩んでいたのか、いつもより足取りが緩やかで、教室へ着いたのは始業間近だった。教室に入ると直ぐにアユミが声をかけてきた。
「アカネ、会わなかった?」
「会わなかったけど?」
「いつも私より早いんだけど。休みかな?」
「そういえばアカネ、いつも朝は早いよね。噂だと教室入るの一番じゃないかな?」
「でしょ?昨日は元気そうだったけど?」
「うん・・・。」
アカネは小学校、中学が一緒でクラスが違う学年もあったが、いつも早く登校することは知っていた。当時は、弟のケンジの保育園へ父親と一緒に行くようで朝は早かったが、卒園して小学校へ入っても、途中までは同じ道のりということもあり一緒に行くようで、朝はケンジに合わせて余裕を持って、早く家を出ていたようだった。先週、バイト先に来たとき、少し陰のある表情をしていたのを思い出した。間もなく、始業のチャイムとともに担任が教室へ入り、アカネが体調不良で休みなのを告げた。
帰りにアユミが再び声をかけてきた。
「アカネ、ずっと既読スルーなんだけど、本当に体調不良かな?」
「私にも返事ないよ。いくら体調悪くても、少しずつは何か返せるんじゃないかな?」
「でしょ?あの子の性格からしても絶対返信するって。ちょっとおかしくない?ツキ、昔からの友達でしょ?何か知らない?」
「前から元気なほうだとは思ってはいたけど。仮病だったとしたら理由思い当たらないなあ・・・。」
「あの子、交友範囲広いから、変なことに巻き込まれてないかな?」
「うーん、基本器用だから、そこは上手く立ち回るんじゃない?」
「男とかは?」
「えっ?いるの?」
「知らない。でもさ、男友達も結構多いじゃない?意外にそっち方面、友達にはオープンにしない性格っぽくない?」
「確かに。ずっと見ているけど、そんな風な相手は見た記憶なかったかな。でも、遊びグループには男子が誰かしら傍にいるから・・・。」
「ね?そういうところ、照れ屋っぽいよね、あの子。」
「そう言われると、そんな気もしてくる。」
「タカヒロは部活だから、帰り一緒にアカネん家、来てくれるかな?今日の分ノートも渡したいし。それに変な奴家にいたら、一人じゃちょっと怖いし。今日もバイト、かな?」
ツキにとって、いつも派手でマイペースなイメージのアユミから出た意外な言葉だった。先週店に来る前は、今時の怖いもの知らずの女子高生といった感じだったが、話してみると、自分の意見を通すより相手にも合わせられる、話せる人だと感じていた。今日は強がらずに、素直に気持ちを話せる新しい一面を垣間見たことが親近感を沸かせた。しっかり授業のノートも取って、それを友人に渡そうとする行動にも驚きに輪をかけた。
「うん、行こうよ。今日は定休日だよ。」
アカネの家は、ツキの家から高校と小中学校を挟んだ反対側に位置しており、小学校から高校までがひと区域に密集しているので、小学生の足でも通える距離にあった。
アユミはアカネの家には初めて行くようで、道案内はツキの役目となる。途中、アユミにはアカネの昔のエピソードを次々と聞かれながら、ゆっくりと家へと向かった。出会いから中学までどのようにして遊んでいたか、共通の友人について、その友人は高校も一緒か、昔の趣味など。話しているうちにあやふやな記憶も多く、高校で距離が離れたことによって、どこか自分の中でも他人に近くなってしまったと感じる部分も再認識した。
会話の途中でアカネの家が見えてきた。アカネの家は周囲の家と同じようなデザイン群の中に建っている。周りに馴染んでいる姿は、昔からそこにある一軒家を思わせる。今は両親と弟のケンジとの四人で暮らしている。小学校三年生の頃に祖父母より継いだタイミングでリフォームして今に至る。外観も目立った汚れも見当たらず、リフォーム時の姿を維持してよく手入れされているのは両親とも、若しくはどちらかが綺麗好きか几帳面、気の行き届く性格であることが窺い知れる。
元々、曇り空ということもあり、すでに辺りは薄暗くなっていたため、二階に電気が点いている。
「アカネか誰かいるみたいだね。電話してみるね。」
ツキが電話をかけたが、出る気配はなかった。
「ツキの電話でも出ないか。直接家、行ってみようか?」
「そうだね。家の人だったら、アユミのノートだけでも渡してもらおうよ。」
少しためらいながらインターホンを鳴らした。沈黙が家の誰もが出ることに対して躊躇い、お互い顔を見合している風景を想像させる。それでも二人は何かを待っていると、ドアがゆっくりと開き、そこにはアカネの顔があった。
「なんだ、いるじゃない。具合どう?」
「あ、うん・・・。少しはよくなったよ。それよりどうしたの、二人とも?」
「こっちのセリフだよ。私はともかく、ツキのLINEにも返事しないなんて。何かあったかと思っちゃったじゃない。」
「ゴメン、ずっと寝てたから。」
ツキが心配そうに少し屈んでアカネの顔を覗き込む。この二人の身長差は一学年違うかと思わせる。
「大丈夫?風邪?」
「まあ、そんなところかな・・・。」
「無理しないで。アユミが今日の授業のノート、持ってきてくれたよ。」
「ありがとう、わざわざ持ってきてくれたんだね。」
アユミは嫌な予感が外れて、いつもの調子に戻った。
「私のノートなんて、貴重なノートだよ?感謝しなさいよ。散々心配かけさせて。でも、無事でよかったよ。」
「無事?」
「あ、いや、全然連絡つかないから変なことに巻き込まれているんじゃないかって。取り越し苦労でよかったよ。せめてツキには何か言いなさいよ。」
「・・・。」
ツキは俯くアカネの顔を再び覗き込むようにして問いかける。
「どうしたの?他に何かありそう?今、家はケンジ君と二人だよね?」
「今は私一人。ケンジは今お母さんと出かけているよ。」
「そうなんだ。体調悪いならあまり長居しないほうがよさそうだね?ツキ、そろそろ帰ろうか?」
「うん、ゴメンね。身体、お大事にね。」
あまり歓迎されていない雰囲気から気まずさを感じた二人が帰ろうとしたとき、アユミはいつものムードメーカーとは程遠い表情と声で引き留めた。
「もう体調は全然大丈夫だから、ちょっと寄ってかない?」
「風邪、辛くない?」
「ホントは風邪じゃないよ。外寒いし、せっかく来てくれたんだもの。ちょっとあったまっていってよ。家に私一人だけだから気にしないで。」
ツキとアユミは顔を見合わせたが、無言でお互い了承した。
「じゃあ、ちょっとだけお邪魔しようかな。アユミの家、ホントに久々だしね。」
「ツキが最近忙しすぎるんだよ。いつでも来ていいのに。」
「うん。そこはゴメン。」
「ツキ?謝ってばかりいないで、早く中入ろう?正直ずっと寒かったよ。」
「あ、ゴメン。」
「また謝って。」
三人は二階のアユミの部屋へと上がった。六畳の部屋はシンプルな白い家具に統一され、ベッドも少し前まで寝ていたとは思えないように、綺麗に整えられて清潔感がある。衣類は制服が壁にかけてある以外タンスに仕舞われているようで、他には見当たらない。テレビや雑誌もなく、本棚は学校の教科書以外は幾つかの参考書や小説が半分、残りは空白となっている。
二人はいつものアカネの明るさや物事の引き出しの多さから、もっと散らかった部屋、今時のアーティストやモデルなどのポスターや雑誌が散乱していることを想像していた。ツキは中学校時にもアカネの部屋は何度か訪れたことがあり、その当時は同年代の部屋といった感じだった。テレビも置いてあり、あらゆるジャンルの雑誌やマンガが本棚を埋め尽くし、制服と一緒に私服が何着か長押に掛けてあった。他にも私服が着た後かこれから着るのか、いつも何着かそこら中に置きっぱなしにされていた。ツキは高校生ともなると大分変るものだなと、自分の部屋の変化を思い出して比較していた。
アカネは初見ならではの感想ではあるが、一瞥して本人のイメージとは違う部屋であっても、それはそれでアカネの個性の一つであると認めた。寧ろ、学校や外では外発的なエネルギーが大きい反動で、プライベート空間は極めて質素で、無駄なエネルギーを使わず、逆に充電するためのシンプルさを求めているであろうと感じた。
「さあ、ゆっくりしてね。」
アカネは押し入れから取り出した座布団を二つ友人の前に置いて、本人はベッドの上に座って、壁を背もたれにしている。
ツキは用意されたふたつの座布団のうち、ベッド寄りに正座するように座ったが、アユミは入り口で立ったままだった。
「ホントに風邪、じゃないよね?うつされたら嫌だよ?」
「大丈夫だって。今日はね、ちょっと疲れちゃって、とてもじゃないけど、学校行ってられないくらいだったんだよ。」
アユミは招かれるまま部屋へ入って座布団の一つに胡坐をかいた。
「ツキのLINEも返せないくらい?」
「うん、何もしたくなかった。本当に心配かけてゴメンね。決して無視してなんかいないんだからね。私もたまにはそういうときもあるんだよ。」
「うん、何となくわかるよ。私も時々そうだから。」
苦笑いするツキに、アカネも苦笑いしながら答えた。
「ちょっと?私はともかく、ツキは少し前からそうだったんじゃない?」
「そうそう、高校陰キャでデビューしちゃったもんね。あ、悪く思わないでよ。色々話しは聞いているから。でも、こうやってアカネと一緒のクラスになれたんだし、ちょっとはよかったんじゃない?」
「うーん、そうかもね。元に戻るのに時間かかったからね。」
元々大きなアカネの眼が少し大きくなる。
「何々?吹っ切れたの?」
「い、いやあ、まだよくわからないな。」
アカネの眼は元の大きさに戻り、少し伏せ気味になった。
「だよね。全部が吹っ切れるもんじゃないんだろうけど、それはそれ。学校の友達は友達で肩ひじ張らず、自然に今までどおり付き合っていかないと。じゃないと、疲れてバランス崩れそうじゃない?」
アユミがツキの肩を軽く叩く。
「ツキはそこが不器用だから闇落ちしたんだよ。」
「私ってそんなにダークサイド?」
「うん、重い。バックストーリー知っているから余計にみんな気を使って近づかないんだよ。」
「じゃあ、私もみんなもお互い離れたままだよね?」
「だからぁ、ちょっとは心開けって言ってんの。特にアカネには。高校も一緒になれたんだから、何でそこまでするのって。」
「そんな気はなかったんだけどね。高校入って知らない友達が増えていくのを見て、私の居場所が少しずつなくなっていくって思っていたんだよ。そういうの二人にはないの?」
「ない。」
「またアユミは。竹割った性格ってこのこと?」
「だって、離れていく人は離れればいいじゃん。気にしたら疲れるだけだよ。そんなの小学校からクラス替えするたびにあったんじゃない?逆に減った分新しい友達増えるよ。」
「私はそんなにはなかったかなあ。」
「そこが重いっての。だったら自分で話しかけて趣味でも合うメンツでつるめって。」
「またまたぁ。この子はそんな器用じゃないんだよ。マイペースでのんびりしてるところあるし。合わせられないっていうか、実は変に変わらないとこがあるよ。でもね、そこは一緒にいるほうはどこか安心する、そんなとこあるんだよ。」
「あんたアカネに感謝しなよ?ここまで言ってくれるの、他にいないんじゃない?私もここまで友達のこと言うこの子、初めてだよ。」
「うん、ありがとうね、アカネ。嬉しいよ。」
「ツキ、あなたのこと、好きだよ。」
「や、くっつかないで。今まで学校じゃこんなことしないのに。」
いつの間にか寝転んでいたアカネが突然ツキの首元にしがみついてきた。ツキの髪や首筋からほんのりと嗅いだことのある香りがした。
アカネは流行りの香水の小瓶を量販店などで購入するほか、ユーフォーキャッチャーなどの景品で取ることもあり、遊びと試しで幾つも友人と交換することがあった。まだ、自分の好みや合う香りを模索中で、ツキの香りがラベンダーとまではわからなかった。ツキは香水をつけるタイプではないのは知っていたので、おそらく整髪料か柔軟剤の匂いかと思ったが、その独特の香りは脳裏に残ることとなった。
「あんたら、お似合いだよ。私もそういう風に想ってくれないと妬いちゃいそうだよ。」
「アユミも好きだよ。」
素早くターゲットを変更し、蛇のようにするりとアユミにも抱きついてきた。アユミはやはりというか明らかな香水の匂いがした。休日には香水を身につけることは知っていたが、それでも、ほのかに香る程度だった。学校では校則に明記こそないが無用なトラブルを避けるかのように使用はせず、アトマイザーに入れて持ち歩いて、放課後にハンカチやティッシュに含んで直接つけないようにして使っている。消えそうに漂う少し重めのオリエンタルな香りがアユミらしい。
「ハイハイ、ツキには負けるよ。」
「これからアユミもアカネも二人で関係作っていけばいいんだよ。」
「ライバルのあんたに言われたくないって。」
空気も軽くなったことで談笑の時間を過ごせるようになり、やがて、外も完全に暗くなった。その暗さが時間の経過を教えてくれる。
「ところでさ、アユミ、あんたが学校休むほど疲れるって、何かあったの?」
「・・・。」
「言いたくなければ言わないでも構わないよ。もし、言いたくなったら話し聞くよ?」
ツキが優しく窘める。
「話したいから家呼んだんじゃないの?まあ、無理強いすることはしないけどね。」
沈黙が流れる。アユミもそれ以上続けはせず、ベッドに寄りかかって再び胡坐をかき、天井を見上げて無言を続けた。
アカネは起き上がり、壁に背中を預けて二人を前にして話を始めた。
「うん、今日はね・・・。」
その声を合図にアカネがゆっくりと振り返る。
「二人が来てくれて本当に嬉しかったよ。こんなときに。」
再び沈黙、アユミは黙って続きを待っている。やがてゆっくりと続きが始まる。
「ツキは何となく覚えているかな?よく両親がケンカしていたってこと。」
「うん、話には聞いていたよ。そのたびによく私ん家に来て遊んでいたよね。」
「そう。あのときもね、いつも嬉しかったよ。家に居場所がなくてツキが遊んでくれたの。でも、いつも小さかったケンジを置きっぱなしにして、申し訳ないなって思っていたよ。」
「それってケンジ君、小さいから一緒には無理だったと思うよ。親御さんもアカネが家にいて気を遣うよりも楽だったんじゃないかな?」
「うん、そう思うようにする。」
「またケンカでもしたんだ?」
「そんなところ。」
「何だよ、大人のケンカって。そんなしょっちゅうやるならネタは同じ?それとも毎回違うことで揉めてんの?」
「きっかけは毎回些細なことが始まりっぽいよ。でもね、ケンカが当たり前になってくるときっかけなんてどうでもいいのかも。でも、したくてしたいってのも違うと思うんだ。いつからかお互い顔色伺うようなことが多くなっているみたい。」
「めんどくさっ。夫婦もマンネリで他人みたくなるってこのこと?」
「多分。ケンジが生まれてからかな。二人ともあれやれこれやれって、やって当たり前の押し付け合い。ケンジのことに限らず、物事をお願いじゃなくて説得するような感じ。もしかしたら、私が生まれたときからかもしれないけど、この歳になるにつれて見えてきたかな。」
ツキもいつの間にか座布団の上で胡坐をかいて前のめり気味で話し始めた。
「でも、そんな仲悪かったら二人目なんて考えないんじゃないかな。アカネも大分いい歳だから本人たち中心になって・・・。」
「ツキ、あんたさすがだね。そうよ、レスよ、レス。そうじゃなかったら計画的だって。」
「い、いや、そういうことじゃなくて。」
アユミのストレートな突っ込みにツキは顔を赤らめて否定した。アカネは大きく頷いて賛同している。
「ううん、私もそう思う。じゃないとケンジかわいそう。それに最近は物騒になってきて心配で。」
「DV?」
「そこまではまだ大丈夫。でも、お父さん、時々暴れることもあったけど、最近はもっと暴力的な感じもするし、昨日は、じゃあ別れるかって。」
「マジで?それでお母さんは弟君と避難中?」
「そんなところ。今朝も雰囲気最悪だったから、学校行ってる場合じゃないなって。そしたら、お母さんが会社休んで、ケンジ連れて出ていっちゃった。」
「それでこの時間になっても帰ってこないんだ。心配だね。思い当たるところある?」
「お昼過ぎまで幾つか回ったけどいなかった。もちろん、ずっと既読スルー。家帰ってきてからずっとどうしようか考えていたら、あっという間に時間経っちゃった。早いよね、こういうときって。」
「実家に帰ったとかは?」
「それも考えたよ。実家はそんなに遠くないからね。でも、私、最近行ってなかったし、詳しく聞いてないけど今は引っ越したらしくて、何処行ったかわからないんだ。」
「マジ?親父さんには連絡した?」
「うん。大丈夫だから家にいろって。」
ツキは小さくため息をついた。
「ケンジ君たち、全然大丈夫じゃないよね。でも、朝からって、さすがにこの時間だよ。そろそろ心配して帰ってくるんじゃない?」
「うーん、結構残業多い人だからね。それにこんな場合、いつも遅くに帰ってくるよ。」
アユミが軽くベッドを平手で叩く。
「おいおい、使えないなあ。わざとかよ。」
「アユミ言い過ぎ。」
「ううん。私もそう思う。原因作ったのに一番遠くへ行っちゃうんだから。」
「タカヒロだったら絶対ぶん殴ってるよ。」
ツキは苦笑いしながら手を振って否定する。
「まあまあ、そこは友達の親だから。」
「いや、あいつはやるよ。前に後輩が万引きで捕まったとき、兄貴がけしかけていたのわかって、真っ先に家乗り込んでいってぶん殴ろうとしたんだよ。でもさ、逃げられて結局は殴らないで済んだんだけどね。」
「はあ、そこまで。」
「結果、よかったよ。選手生命終わってたもん、やってたら。」
「今日は私ん家、来なくてよかったかもね。」
「マジホント。」
「今日はこんな時間だから、闇雲に動いて入れ違いになるかもしれないから、待っていたほうが賢明なんじゃないかな?」
「うん、そのとおりかもね。」
「それでも気になることあったら連絡ちょうだい?できることって言ったら、お店のネットワーク使わせてもらっての情報収集くらいだけど・・・。」
「出た。あのオーナー結構な人脈あるって噂じゃん。意外といけるかもよ。」
「誰がそんなこと?」
「タカヒロ。あの店知ったのって、卒業生のプロの先輩が常連客だからだって。クローズされた個人のSNSメンバーは各界の人間もいれば、地元の主婦層や学生までって。この辺強そうじゃない?」
「うん。ツキ、そのときはぜひお願いするよ。」
アユミがツキの肩に手をかけて、アカネに向かって自らを親指で指し示した。
「私へも連絡して?何かできることあれば協力するから。人手はあるに越したことはないよ。」
「アユミの一声で集まる人って頼れそうだしね。私じゃ誰も集まらないよ。」
「そこで陰キャ戻らない。せっかくいいとこだったのに。」
「あはは、いつものツキだね。困ったときは二人に連絡するよ。もうスルーしない。」
「当たり前だっての。ま、少しは気晴らしになった?」
「うん、すごく。二人見たら、まだまだ大丈夫って思えちゃった。あ、ゴメンね、こんな時間まで。」
時計は八時を回っていた。
「まだこんな時間じゃん。て、明日もあるし、アカネの元気な顔も見れたから、そろそろ退散しようかな。」
「私もそろそろ帰るね。」
「うん、今日は本当にありがとね。明日は学校で会えると思うよ。」
帰り道早々に、ツキとアカネはLINEを交換した。
「この後ヒマ?サクッとご飯食べていかない?」
「え、ゴメン、ちょっと用事があるんだ。」
「そうなんだ、ちょっと意外。」
「そう?あ、全然嫌とかじゃないんだよ。寧ろ、誘ってくれて嬉しいけど、行けなくて残念で・・・。」
「何言ってんの。あんたが嘘つくなんて思ってないよ。普通に生活しているんだなって思ったんだよ。」
「生活感なさそうってよく言われる。」
「ホントそのとおり。また今度誘うよ。でもさ、今日は私もありがとね。一緒に来てくれて。」
そのとき、二人のLINEに時間差で【お母さんとケンジ帰ってきたよ】と届いた。続けて【二人とも元気そう。これからお土産食べるよ】と続いた。
「小学校休んで何処かで遊んできたのかな?」
「だね。何だよ、心配させやがって。弟君、遊び覚えて不良にならなきゃいいけどね。」
「アカネが言うと、何か大丈夫って思っちゃうよ。」
「何それ。ふぅ、でも、今日はよかったね。」
「?」
「何してんの。手を上げたらハイタッチでしょ?」
音の外れたハイタッチが夜の住宅街に沈んでいった。
「ごめん、遅くなっちゃった!お腹空いたよね?」
「あ?別に。」
ふてくされたような太郎が、リビングでテレビから視線を外さず答えた。今日のいきさつを説明したところでやっと視線を合わせてきた。
「じゃあ、アカネさんはもう大丈夫なんだ?」
「ううん。結局、お父さんはまだ帰ってきていないみたい。気まずいんじゃない。当分は膠着状態になりそう。次もまた今日みたいのあるかも。」
「ふうん、何だか難しそうだな。まあ、今の俺にはよくわかんないや。」
「そうだよね。そこは仕方ないよ。」
「そうそう、親って言えば、姉ちゃんはさ、親御さん二人のことは忘れてはいないんだよな?そこって不思議じゃない?俺みたく自分自身に関わるすべてじゃなくて〈絵〉って特定の物ってのが。」
「確かに。今まで誰かが勝手に持っていって、気づいたら無くなっていたって思っていたけど、実は忘れていたとか?」
「そうだよ。話聞いていてずっとおかしいなって思っていたんだ。何で子どものころから一緒なのに、ひとつも見たことないんだって。」
ちょうど考えがひと段落着いたところで、タイミングよくふたりの腹の音と風呂が沸いたことを知らせるメロディーがシンクロした。ふたりが失笑するのも同タイミングだった。
「遅くなっちゃうね。サッと作るから先お風呂入って待っていて。」
「いいよ。たまには何か手伝おうか?」
「おや?何かあったの?そういえば、今日の収穫は?あ、ご飯食べながらでいいよ。」
「先に話すけど何もなかった。終わり。それよりやることある?」
「何だ、残念。でも、焦らずいこう。じゃあ、洗濯物回してもらおうかな?洗剤や柔軟剤、服によってネット仕分けするの、わかる?」
「そんなの子どもじゃないって・・・。」
そこまで言って太郎は慌てだした。
「ちょっと待てよ!やることは別のないのか?」
「何で?他にはあんまりないなあ。やっぱり洗濯くらいかな?」
「掃除は掃除?あの客間ソファー入れたとき、大分砂や埃入っただろ?それにテーブルもこれから活躍するんだからさ、こまめに綺麗にしないと。拭いとくよ。」
「そうね。じゃあお任せしてもいいかな?洗面台の下に雑巾とバケツがあるよ。洗剤も同じ場所。時間遅いから軽くで十分だよ。」
「おう、任せとけ。」
太郎は急いで洗面所へと向かった。
「洗濯、嫌いなのかな?もしかして記憶に関係している?」
「危ねえなあ、あの人。下着も男に一緒に洗わせて平気なのか?俺のこと弟みたいな扱いしてるから、本当に何とも思っちゃいないんだろうけど。だけど・・・。」
客間は落ち着いて見てみると、家具の配置も変わったためか、初めて入る部屋に感じた。昼間の明るく白い採光の良いイメージが前提にあるので冷たい感じはしなかった。外は大分風が強くなり、時々部屋が揺れるようだったが、不思議と不気味さはなかった。外の暗さもあり、以前、母親の絵画が掛かっていた壁の変色は、誰かが指摘しないと気づかないほどだった。一人用のソファーが二つとも部屋の隅の角に移動され、そこにあったシェルフラックが中央寄りにずらして置かれたために、すでに絵画の存在の痕跡は不要といといわんばかりに半分以上は隠されている。
窓、シェルフラック、テーブル、独り掛けのソファーと雑雑巾がけを行い、最後は例のソファーに取り掛かった。太郎はそこまで一気に集中して一連の流れで手早く済ませた。元が真面目なのか、一度集中すると、何かの区切れがつくまで途切れさせることなく継続させられるようだった。
「でかいソファーだな。こんなの窓から搬入したんだよな。」
石宝堂のオーナーが当時話していた言葉〈物は大事にしてくれる人に恩を返す〉を思い出しながら雑巾で磨いた。
「まあ、俺を殺そうとしたことは水に流すよ。俺にやきもち妬くのは理解できるから。え?何?姉ちゃん?ふっ、やめとけって。あれはヤバイ女だぜ?お前の手に負えるもんじゃないよ。」
「何が手に負えないの?」
「うわあ!何だよ!いきなり!」
「ご飯できたって。聞こえなかった?」
「急に入るなよ!びっくりするじゃないか。」
「入口、開いているよ。バケツで扉が閉まらないようにしていたのは太郎じゃない。で、何か危ない物あったの?」
「いやいや、そんなのないよ。今回の俺たちのヤマは簡単には手に負えないなって、そう話してたんだよ。」
「ソファーと?」
「まあ、独り言っていうか、そんなところ。ちょうど終わったよ。早く食べようよ。」
「そうね。お掃除、ありがとね。」
太郎は無意識に扉を開けたままにしていた。平日はツキが帰宅するまで、玄関や客間を往復して何か変化がないか確認していた。得体の知れないものに何度か会っていると、本能的に家の中でも、何があってもおかしくないと思うようになっていた。
「今日はカレーなんだ。」
「うん、時間ないから作り置き。スープとサラダはお代わり自由に。」
「カレーくらいだったら今度作ろうか?サラダも簡単そうだし。」
「ホントに?じゃあ週末お願いしようかな。」
「おいおい、食べたばっかりじゃん。」
「カレーっていつ食べても美味しいし、凍らせて取って置けるし、寝かされてさらに美味しくなるんだから。」
「まあ、そうだよな。また何かあって遅くなることもあるんだろうしな。」
「それにね、太郎が作ってくれるの楽しみだよ。」
「またまた。カレーなんて、誰作っても同じじゃんか。」
「そんなことないよ。カレーはね、誰が作ってくれたかで全然美味しさ違うんだよ。」
太郎の瞳をまっすぐ覗き込むようなツキの視線を受け止めきれず、掻き込むようにカレーを次々と口へと運んだ。
「お腹空いていたんだね。ゴメンね。早く連絡すればよかったね。カレーなら太郎でも解凍して食べられたね。」
「ふん、んなことぁねえよ。姉ちゃんは俺のことより自分のこと優先しなよ。」
「大丈夫だよ。私のことも。太郎こそ気を使わないで。記憶戻るまでここが自分の家って思っていいんだよ。」
「・・・。」
スプーンがカレーの皿に当たる音が何度も食卓に響いた。
「太郎は姉弟とかいるのかな?」
「?」
「私ひとりっ子じゃない。太郎くらいのころはもう学校から帰っても誰もいなかったり、ご飯やお風呂もひとりが多かったんだよ。友達が弟と仲がよくって姉弟欲しいなって何度か思っていたんだ。当時は最初友達と遊んでいるときちょっと邪魔だなって思うことも正直あったよ。でもね、ずっとついてまわるの、かわいいなって。留守番のときも一緒にいて自分のことできないんじゃないかって聞いたらね、一緒に遊んでいるうちに時間なんてあっという間に過ぎるからそんな暇ないって。」
太郎は暗に先ほど聞いたアカネのことであろうと推測した。
「俺は嫌だな。」
「ひとりで何にもすることがない時間って、本当に長いんだよ。実は、時間が止まっているんじゃないかって思うこともあるよ。」
「ふーん。今の俺にはそんなことないなあ。」
「うん。やることいっぱいだもんね。私もだよ。」
「じゃあ、いいじゃん。」
「そうだね。ご飯一緒に食べたり、今日どんなことがあったか話すのも結構楽しいよ。太郎は?」
「別に。」
「そうなんだ。」
「おいおい、別にって楽しくないわけじゃないんだよ?姉ちゃんの話し聞くのは嫌じゃないって。だから、気にするなってことっていうか、何でも話せっていうか。何言ってんだろ。」
「大丈夫、伝わるよ。」
いつの間にか、頬杖をついて見つめるツキの顔がそこにはあった。今度は目を逸らさず見つめ返す。
「じゃあ、明日もお話し聞かせてね。」
いつの間にか食事を終えていたツキはコーヒーを淹れに席を立った。その場で硬直した太郎は、ツキが戻ってくるまで次のアクションを取ることが困難になっていた。
ふたりとも寝付くころ、ツキも太郎も、その日の夜は、いつもより寒さが和らいだ気がした。暗い部屋の無音が心地良かった。
それから、お互いに収穫はないまま週末を迎えた。収穫がないのは非日常のほうで、本来の日常はそれなりに変化のある一週間だった。
水曜はアカネも登校し、前日は何もなかったかのような学校生活だった。いつもと違うのは、アユミがアカネとの会話にツキを引っ張って加えたことだった。途中タカヒロも加わり、小さなコミュニティができあがった。
翌日は、昼に太郎がツキの家に入るのを見た近所のおばあさんが訪ねてきた。最近、腰が悪く、久々に家の前を散歩で通ったところ、ツキではなく知らない男子が中へと入っていったのを見て、いつの間にかツキは引っ越してしまったのではと心配して様子を見にきたようだった。対応した太郎は、いつもの設定でごまかしたらしいが、一度家に帰った後、親戚がくれたが食べきれないと、沢山の野菜をカートに詰めて持ってきてくれた。直ぐに帰すのも悪いと、お茶でも飲んでいくよう勧めたが、今度ツキのいるときに改めると言って帰ったと報告を受けた。
結局、カレーは作り置きがまだ二人前は残っていたので太郎の出番はこなかった。
毎晩、ツキは帰宅次第すぐに夕食の準備に取り掛かる。その間、太郎は台所のセッティングや食器の準備を行いながら、お互いの本日の報告となる。
毎日進展もないということは報告することが少ない。後はテレビを観ながら談笑したり、片づけや入浴の少しの合間には、今後のことやお互いのことを聞いたりした。
ツキの音楽の趣味は、最近のものより少し前のロック系が好きだったということ。そこがアカネと合うところでもあり、先日アカネの一件でアユミとの帰りに少しその話に触れ、意外にも近い趣味があった。他には、アニメや漫画も少し前まで読んでいたこと、それも少年漫画でアクションからグロ系まで結構いけること。渋いアンティーク趣味なだけでなく、超常現象や伝承、都市伝説が好きだったことなど、男子が好きそうなものが沢山出てきて、太郎の目が輝いていた。すべて過去形というのが、両親の死が起点となる生活の変化によって、ツキ本人が変わってしまったことを物語っていた。
今はどうかと尋ねれば、返答は難しくなっていた。趣味や自分自身が人との関わりに拘りを持たなくなったと考えれば正しいのだろうか。趣味嗜好は本人を形作るものの一端である。今になって思えば、興味そのものが失せてしまったと錯覚していたのかもしれない。そこには両親の死だけでなく、他の原因があったように思える。改めて人との距離を考えられるようになったのは、太郎と出会って、桜子の話を聞いたからではなかろうか。
距離を置いていたアカネと再び近くなったこと、アユミとの親密度が上がってツキ本人のことも話す機会が多くなったことで、ツキという人間の棚卸ができたことは、新しい自分を再構築するのに十分だった。
太郎もツキの趣味やメディアの話しを聞いているうちに感性の合う話題が出たことや、自分自身に関わっていると思われるロックされた記憶のもどかしさもありつつ、空っぽだった中身が満たされていく気がした。少しずつだが、自然に上手く笑える気がする。
ツキは先日まで、このまま無気力な毎日に流されていくことに抵抗も疑いも持ってはいなかった。しかし、太郎を初めて見た夜からすべてが変わった。変わったのではなく、立ち止まっていた背中をみんなに押され、再び歩き出したのかもしれない。やっと止まっていては何も得られないことに気づき始めた。そう思うと、今まで近くにいてくれたアカネにとても申し訳なく思い、声をかけてくれたアユミに対して、一方的に性格が合わないと思っていたことの後悔とともにありがたさを感じた。知らない人を知ることも悪くないと思った。
土曜は穏やかな朝となった。
学校は休みだが、いつもどおり起きたツキはキッチンでコーヒーを淹れていた。太郎はまだ寝ている。起こすのはツキの役目だが、今日はゆっくりできるので、ひとりコーヒーを飲みながら外を眺めている。まだ薄暗い冬の朝は、空気が澄んでいることが雑音すらも浄化して、外はとても静かに感じる。寒いが、この静けさがツキは好きだった。一週間の忙しさや頭に詰め込んだものが自然と何処かへ流されていくような、何も考える必要のない空気がそこにはある。ふたりの探し物が見つからない焦りも、ひと段落と区切りをつけるには十分な一日の始まりだった。
「よお、姉ちゃん、おはよう。」
自然と目が覚めたのか、太郎が眠そうにキッチンへ入ってきた。
「おはよう、太郎。」
軽く挨拶を交わし、再び外を眺めた。
「お湯、貰うな。」
太郎は手際よくお茶を淹れてそれ以上何も言わず外を眺めた。
ツキはコーヒーを飲み干したが、外を見つめたまま動こうとはしない。太郎も口を開く必要性を感じないので外を眺めていた。静かな時間を、柱時計の時を刻む音が進めていた。
窓の外が色づき始めた。同時に部屋の、自分たちの周りが温かくなってくる。ふたりは言葉には出さなかったが、朝はこんなにも温かいものだと感じた。
「ご飯、客間で食べない?せっかくだしね。」
「ああ、いいんじゃない。エアコンも使い出したら匂いもしなくなってきたしな。」
客間のテーブルの上にはサンドイッチとオニオンスープ、サラダが並べられた。ティーポットには紅茶が淹れてあり、太郎の手元にはシュガーとミルクが用意されて食事の準備が整った。
ふたりは買ったばかりのソファーに並んで腰かけた。
「おお、このソファー気持ちいいな。」
「うん、柔らかさもちょうどいいね。逆に硬すぎることもなくて痛くない。」
「俺の目、なかなかだろ。」
「私のもね。さあ、食べよう。」
「結構な量あるな。」
「オーナーが毎日何かくれるからね。実はもっと作ってあるんだ。お礼に差し入れ。」
「ところでさ、今日バイトは?」
「うん、午後からだよ。そうそう、今日またアユミと山口君来るんだって。」
「デート?」
「そうだね。仲いいよね。」
「姉ちゃんはそういうのないの?」
「ないよ?相手いないもん。」
「色気ねえ青春送ってんな。」
「うーん、ないものはないで仕方ないよね。最近まで引き籠りみたいなもんだったから。」
「そういうの、憧れない?」
「山口君はいい人だけど、特にないなあ。」
「じゃなくて、彼氏とか、恋愛したいとか。」
「そうね、昔は思ったかも。でもね、今はあったらいいかなってくらい。」
「あー、相変わらず暗いなあ。もっと、何ていうか、年頃なんだしアグレッシブにいけよ。」
「ふふっ。何?急に?」
「何か毎日の姉ちゃんの話しって、友達が楽しそうな話ばかりじゃん。自分はどうなんだよって。」
「私も楽しいよ。それより紅茶やスープ、冷めちゃうよ。」
太郎はこれ以上言っても無駄との判断から、今は食事に注力することにした。
「まあ、あれだ、飯は美味いな。」
「ありがとう。こうやって食べるの楽しいよね。太郎が来てくれなかったら、きっと今日もひとりだったよ。」
「・・・。」
「この一週間、すごく長く感じた。でも、まだ一週間しか経っていないんだよね。アカネは元々知っていたけど、アユミももっと前から仲がよかったって気がしちゃった。」
「いいんじゃねえ?楽しそうで。」
「太郎も。記憶ないの嘘みたい。」
「嘘じゃないよ。まだ空っぽな部分が沢山あるよ。」
「空っぽな部分はいつか埋まるよ。それより、新しいこと、これからをもっと増やしていこうよ。」
「・・・。そうだな。最近さ、記憶はどうでもいかなって思うときもあったりするんだ。わかんないものはわかんない。姉ちゃんが言うように、今のほうが大事っていうか。だからって、もちろん手掛かり探しは手を抜かないよ。」
「さすが。何か今日の太郎って同級生みたいだよ。」
「ふん、俺だって毎日成長してるんだよ。たまには頼れよ。」
「うん、困ったら助けてね。」
太郎は今まで気づかなかったが、ツキは肩が当たる距離にいる。顔も近く、はっきりと眼に映る表情は、化粧もしていないのが逆に映えて見える。食事とエアコンで温まった身体は顔を紅潮させて、唇の血色の良さが際立っている。太郎の視線はそこに注がれた。不意にツキの手が太郎の右の頬から口端へと流れるよう優しくなぞった。
「ソース、ついているよ。前言撤廃だね。」
太郎はこんなにも心臓が破裂するかと思ったことはなかった。そんな記憶を持ち合わせていなかったとしても、初めてのことだと断言できる。言葉が、悪態すら出てこなかった。
「最近ツキちゃん忙しいわね。」
「そうですね。私自身驚いていますよ。」
「いいことよ。やっとスタートに立ったっていう感じね。」
「まだ、スタートですか?」
「そう、これから友達と色んなこと経験して思い出を分け合っていくの。ひとりじゃ半分も持てやしないわよ。」
「そうですね。ひとりじゃ話す人、いませんものね。」
「思い出が増えたら先のことも目を向けないとね。やりたいことやさらにその先があって、その前に進学とか就職とかね。まあ、盛沢山。ツキちゃん、何かあるの?」
「そうですね・・・。考えたこともなかったです。大学までいけるのかなって最初に思いますもの。」
「そうねえ。まずは先立つものかしらね。多分そこは大丈夫だと思うけど。」
「知っているんですか?」
「何となくね。お母さん、何かと準備していたみたいだったから。お金の管理や弁護士とか。多分、一番手っ取り早く、やり方によっては税金潜り抜けてお金が手に入る絵はみんな取られちゃったけど。今思えばツキちゃんにちゃんとしたお金残せるように目を向けさせたった感じ。」
「はい、何かに備えていたみたいですね。家でも家事やお金のこと、相当教えられたんですよ。」
「そう、彼女らしいっていえばらしいけどね。」
「オーナー、生前交流あったんですよね?どうでした?亡くなる前に何か変なこととか、ありませんでしたか?」
遠い目で天井を見つめたオーナーは記憶を呼び出すように少し沈黙してから切り出した。
「ごめんなさいね。本当に思い出せないわ。急だった。彼女は昔っから自分のことはあまり話さない人だったわ。それでも、ツキちゃんのことはよく聞いていたわよ。」
「え?どんな風に?」
「自分に全然似ていないんだって。お父さんにも。冗談で神様がこっそり連れてきてくれたんだって笑っていたわ。生まれる前からお腹の子だって、神様が連れてきてくれたっていうのにね。」
「確かにあんまり話さなかったかもしれません。昔のことや父親との思い出とか。」
「そういうのって、年取れば取るほど聞きにくくなるものよ。」
「オーナーはいつからの知り合いなんですか?」
「そうね、小学校からかしら。」
「そんな前から。」
「ちょうどアカネちゃんと近いんじゃないかな。」
「かもですね。仲よかったんですか。」
「よく遊んだけど、昔は今とちがって男女一緒だと後ろ指さされること多かったのよ。今でこそ私こんなんだけど、昔は結構やんちゃして、暴れてはケガばっかりしていたわ。そんなとき、彼女が心配してくれたの。」
「そんなオーナー、想像つかないです。」
「昔はね。でも、私は根本的に今に繋がるものがあったみたいで、自然と女の子とは話が合ったの。そのうち段々と相談乗ったりすることも多くなったわ。助かったのは男の子にも相談のることも多くて板挟みもあったけど、ある意味それでバランス取れていたみたい。」
「うん、オーナーいい人だし話しやすいです。みんな集まるのは今と同じですよ。」
「ツキちゃん上手いわね。今日もおだてても何も出ないわよ。」
「ホントの話です。もしかして母親と付き合っていたとか?」
「アハッ。それはないわ。彼女、高校出たら引っ越しちゃったの。それから久々に戻ったかと思えば、いつの間にか結婚するってお父さん連れてきたわ。でもね、引っ越さなくても付き合うことはなかったと思う。」
「そうなんですね。久々会うって、何処へ引っ越したのかな?小さいころ、実家へ行ったことあったけど、ほとんど覚えていないんです。帰省ってくらい、そんな遠くないってのは覚えているんですけど。物心ついたときは忙しくて帰らなかったようです。祖父母ともそんなに会っていなかったのもあるので。」
「近くても、ご家族ととっても仲よくなければひとりじゃ行かないわよね。」
「ですね。今どうなっているかも知りません。まだあるのかも。」
「調べて行ってみたら?何か発見あるかもよ?お母さんの人となりとかね。」
「あ、そうだ、もしかして、絵もあったりするかもですよね。」
「そうね、売れる前のものとかあるかもね。もうそっちへも親戚の手が入っているかもしれないけど、失敗作や下手で売れなさそうなものは残っているかもね。」
「可能性あるなら行く価値ありです。」
「気になったら行動って、素敵よ。住所とか覚えている?」
「いえ、親にただついていったもので。手掛かり、遺品の中探してみますが、何かと勝手に処分されちゃったみたいです。それに、元々ミニマリストっていうか物に執着しないのか荷物が少なかったみたいです。」
「親戚連中がガチャガチャやっていたのは見たわよ。お通夜やお葬式だっていうのにね。嫌な連中ね。少しでも我先に絵画とか持ってくため、お互い足の引っ張り合いして。」
「そういえば、オーナー色々手伝ってくれましたよね。あの時期、一人仕切っていたから親戚の人かと思っていました。」
「ふふっ、彼女に生前頼まれていたのよ。自分に何かあったらお願いって。そうなったら何かに使え、余ったら自由にしろってお金も貰っちゃったけど、冗談じゃないって突き返しても聞かなかったわ。だから全部飲んでやったわ。もちろん彼女と一緒にだけど。」
ツキはオーナーらしいと思い笑っている。
「彼女、元々ご両親も地元出身だったみたいだけど親しい親戚は近くにはいなかったみたい。兄弟も大学卒業後、すぐ出ていって交流少なかったって聞いていたわ。それに比べて、お父さんのほうは地方出身で、親族とは疎遠のようで数人しか来なかったな。それなのに、何で知ったのか。やることなんて彼女の親戚もみんな一緒って、呆れるわね。」
「そのとおりでしたね。いっそのこと、誰も来ないほうが気楽でした。オーナーにも負担かけず済んだと思います。」
ツキは申し訳なさそうに答えた。
「いやいや、二人分相手にしても全然平気よ。悪いけど、お父さんのほうはほとんど交流はなかったわ。だから、ある意味少なくって助かったかな。結婚して戻ってきたとき紹介されて何度か会ったけど、合わないっていうより避けられていたわ。私こんなんだから避けられているかもって思ったことあったしね。」
「すいません・・・。」
「全然。謝らなくていいわ。ツキちゃんのことじゃないしね。娘はこんなにいい子なのにね。」
「あの人、私もよくわからないんです。全然話さなかったし、目も合わせないくらい。」
「そうなのね。今、絵画探しているっていうのも、二人のこと知りたいからかしら?」
「はい。そんなところです。」
「そう、今までご両親についてあまり話さなかったからちょっとびっくりしたわ。友達がお店に来たあたりから変わったわよね。いい方向に。自分のルーツにも興味持つのは素敵なことよ。世界が広がるわ。」
「はい、今まで何もしないで止まっていたこと、痛感しました。」
「明るくなったしね。」
改めて思い返しても、ツキ本人だけでなく何かが変わったのは太郎を公園で見失ったあの夜からであろう。あの強く吹く風が、自分を取り囲んでいた暗いベールのようなものを吹き飛ばしてしまった。近寄ってきてくれたのにも関わらず遠ざけていた人たちを、目の前の靄が晴れて直視することができるようになったことが今へ続く起点となっている。
あのときの頭上の大きな月が今でもツキを照らして、自己の存在の輪郭を浮き上がらせてくれているかのようだった。
「で、結局住所わかったの?本当にお母さんのだけで大丈夫?」
「うん、父親は施設出身で、出てから帰っていないんだって。」
食事を早々に切り上げ、ふたりで元両親の部屋に残っている書類などすべてに目を通した。元々遺品自体少なく、衣類など今後使わないものは処分していた。
「うーん、駅名は何となく覚えているんだけどなあ。書類とか、やっぱここの住所のものしかないみたい。あとは役所で戸籍取り寄せるしかないかな。」
「日曜はやっていないんだよな?」
「うん、月曜かな。」
会話に加わるようにツキのLINEの着信メロディーが鳴った。
「あ、オーナーからだ。実家の住所が載っているよ!」
「マジ?やったじゃん。」
「昔、母親が引っ越した後、少し手紙のやり取りしていたみたいで残っていたって。直ぐに探してくれたんだ、感謝だね。」
「世話んなりっぱなしだな、姉ちゃん。」
「うん、ホントありがたい。こんな私のためにそこまでしてくれるなんて。」
「姉ちゃんだからじゃん?」
「そうかな?オーナーいい人だから。ん?久々に母親の話ししたら懐かしくなって昔のもの色々探しちゃったんだって。もう見つかっていたなら余計なことかなって、いえいえ、全っ然、見つかりませんでした。あ、この場所って、想像していたのと全然違う。よかった駅も全然違うじゃない。」
「あっぶね。姉ちゃん、月曜役所行く前、明日になったら勘を頼りに行ってそうだったもんな。」
「うん、大分気が焦っていたからね、行くだけ行こうかと思っていた。駅降りたら思い出すかもなんて。危なかったよ。」
「おいおい、やめてくれよ。俺も一緒に行こうかと思っていたんだから。」
「え?来てくれるの?」
「当たり前だろ?」
「探索は?」
「一日くらい平気だって。毎日探していたんだから、明日くらい休んだってどうってことないんだよ。」
「ありがとう。本当にいいの?」
「うるさいなあ、いいったらいいんだよ。姉ちゃんひとりじゃ危なっかしいし、駅だって、ほら、こんな感じだからさ。」
「ホントね。」
「笑い事じゃねえよ。ったく。ていうか、実家は誰かいるんか?」
「うーん、おじいちゃんおばあちゃんいると思う。でも、お葬式から会ってないからなあ。」
「孫なんだろ?もうちょっと交流したらって思うけど。そういや、両親亡くなったとき、実家で暮らすとか話し出なかったのかよ?」
「うん、出なかった。最初から私がこの家に住むって決まっていたみたい。最後の念押しみたいに、一緒に住むか聞いてきたことはあったよ。でも、何か歓迎されていない感じとか、当時の私って、無気力でどうにでもなれって感じもあって断っちゃった。そしたら、色々と準備されていて困らなかったけどね。最初は叔父さんと叔母さんと一緒だったけどそのうちいなくなっちゃった。お金は毎月振り込まれているから、今でもちゃんとやってくれているみたいだけどね。」
「そいつらも信用できないなあ。途中から音信不通で、お金も入らないってなったりしないか?」
「高校出るまでは月々支払って、その後残りは私が全部引き継ぐって話しらしいよ。もちろん幾らか手間賃を渡しているんじゃないかな?そうじゃないと初対面の娘にいちいちお金の工面なんてしないと思う。」
「ドライだな。嫌な話だけどそれが一番妥当って感じ。」
「うん。今まで会ったことのない親戚がいっぱい現れて、誰も信用できなかったのもあるね。特に父親側なんて、施設出身でほとんど会ったこともないのに、何で今更、どう考えてもお金でしょって。」
「やだなあ。親父さんの両親も?」
「来た、らしい。」
「らしい?」
「うん。父親側の親戚ってみんなオーナーが追い払っちゃったみたい。玄関先で敷居跨がせないくらい。身分証明書出せとか親族なら証拠見せろって怒っているの聞こえた。」
「強えぇ。」
「今でもオーナーが怒っているのを見たのは、あのときだけなんじゃないかな。でも、後で、気がつかず父親側の両親もおじいちゃんおばあちゃんも帰しちゃったかもしれないけどゴメンねって謝っていたよ。」
「すげえな。」
「でも私的には全然問題ないって思ったよ。だって、捨てた親が今更だよね。もし、子どもが成功していなかったら本当に来たのか疑問だよ。そう思ったら、どうでもいいやって。どうせ知らない人たちだったしね。オーナーが怒るのもわかるし、私たちを代弁してくれているんだって。」
「俺も同じ考えだなあ。都合よすぎる。」
「結局、その後も仕事関係や親戚っていう人たちが勝手に家に来たけどね。しかも、オーナーがいない頃合い見計らうかのように。居留守や顔も見ないで帰ってもらったけどね。最後は弁護士が話しつけてバイバイだよ。やっと誰も来なくなったって思ったら家の中すっからかん。」
「マジでムカつく奴らだな。俺だったら一人一人ぶん殴ってそうだな。」
「うん、今話していたら、だんだん腹立ってきたかも。」
「遅いよ、怒るのが。沸点あるの?」
「太郎には低いよ。」
「おい!て、怒ってるって言っても全然怖くないけどな。」
「そうなの?かなり怒っているよ。もう片っ端から蹴っ飛ばしてやりたいって。」
「ははっ、やっぱ怖くない。姉ちゃん優しすぎるから全然そんなオーラ感じないって。大丈夫、そいつら呪いの絵にやられて今頃大変なことになっているからさ。」
「いつから呪いのアイテムになってんの。でも、石宝堂のご主人さんの話しもそんな感じだったよね。そうじゃなくても、お天道様はちゃんと見ていて、しかるべき処置しているんだと思えばちょっとは気が晴れるかも。」
「うんうん、そのとおり。いつかそいつらに会ったらおれがぶっ飛ばしてやるよ。」
「もう、物騒な。」
「じゃあ、明日は姉ちゃんの実家行ってみようか。」
「うん、そうだね。確か駅からそんなに遠くないと思うけど、検索してみようか。」
住所をネット検索すると目的地にはツキの街から電車で十五駅目、そこでローカル線に乗り換えてさらに六駅目を降りた先、山を挟んで丁度ツキの家と反対側に位置していた。最寄り駅からはそれほど遠くはないが、徒歩での道のり検索では三十分はかかる距離。地図から写真に切り替えると、見た目は何処にでもあるような一軒家が映し出された。
「例のオーナーにお土産買って帰ろうか?」
「そうだね、お礼しないとね。太郎、オーナー好きになっちゃった?」
「武勇伝聞かされればね。どんな人か気になるよ。」
「きっと太郎のこと、気に入ってくれると思うな。」
「どんな意味でか気になる・・・。」
やっとつかんだ手掛かりにふたりは遠足気分の反面、桜子の不安を掻き立てるような話しが混在し、無理にでもテンションを上げないと、悪い考えのほうが楽観的な期待を塗り潰してしまいそうだった。
日曜の朝は相変わらずの曇り空だった。しかし、ふたりの少しだけ光明が見えたかのような気分は、天候など気にはならなかった。
天気予報で、今日は曇りで傘は必要ないと聞いたツキは手ぶらで出かけようとするので、太郎がショルダーに折りたたみ傘を入れた。家にあるのは一つだけで心許ないが、ないよりはマシだろうと思い、ツキには告げなかった。
「今日、お昼は向こうで食べようか。時間読めないし。」
「ああ、別にいいよ。」
ツキはコートの裏ポケット左右それぞれに財布とスマホを入れて、いつものブーツを履いて外へ出た。今日は気合を入れているのか、平日のように三つ編みで纏めている。
太郎はいつも軽装のツキは女性にしては珍しいと思っていた。それほど詳しいわけではないが、たいてい女性は大小関係なくバッグは持ち歩くものと思っていた。その中には荷物というよりメイク道具を持ち歩くとの認識がある。何故そう思うのか、それは何気なく刷り込まれた、テレビやネットなどメディアから受け取った後天的な記憶、欠如した記憶とは無関係な記憶と思い勝手に納得する。若しくは、身内の誰かを見ていたはっきりとしない記憶、姉妹がいて一人っ子ではないのか、それとも、外出時の母親のバッグとメイクに関する行動が刷り込まれているのか。あやふやなのは親族という接点が微妙に所々を隠しているとも思えた。
住宅街を駅に向かって歩く途中、ツキの恰好を見て、手ぶらでメイク道具も持たずに出かけることに少々興味を持ち問いかけた。
「姉ちゃん、いつも化粧しないの?」
「何よ、ちゃんとしているって。私も年頃なんだよ。」
「してるところ見たことないもんで。」
「・・・。しているわよ、日焼け止めとか・・・。」
これ以上突っ込むのが虚しくなり、さらに問いかけるのは気が引けた。それからはお互い各自のことに思案する時間となった。
「そこのふたり、ちょっといいかな?」
沈黙を破るように、急に横から誰かに声をかけられふたりは驚き立ち止まった。そこには一人の警官が立っていた。警官の見た目は若そうだが、一人で巡回しているところから新人ではないようだった。はっきりとした発声や背筋もしっかりとした真面目そうな雰囲気が年齢不詳を醸し出していた。
「君、何度か昼間見かけたけど、そちらはお姉さん?」
平日昼間に小学校くらいの子どもが出歩いていれば確かに目につく。ましてや、人通りの少ない田舎で何度も見かければ記憶にも残る。今まで声をかけなかったのは、太郎を見かけるのが下校ギリギリの時間帯で動向をチェックしていたのか、太郎がとっさにまいていたのだろうか。理由はいくらでも考えられるにしても、ずっとマークされていたには違いない。同伴者がいることで声をかけるタイミングを掴んだようだった。
即座にツキが回答する。
「はい。そうです。」
「最近学校行かないでこの辺りで遊んでいる子が多くてね。念のため確認お願いできるかな。君、名前は?苗字と名前、教えてくれるかな?」
ツキの回答を無視するかのように、手帳とペンを取り出し、太郎へ質問を続けた。
(しまった、姉ちゃんの苗字って何だっけ?全然気にしていなかった)
「この子の名前は・・・」
「ちょっと待っててもらえるかな?本人に聞いているところなんです。」
「感じ悪いな。俺は太郎だよ。」
「何、太郎君?苗字はどんな字を書くのかな?」
「・・・。山田太郎です・・・。」
(ちょっと!そんなベタな名前ってある?)
「じゃあ。何小学校か中学かな?」
「第二中学。」
(おっ、近所の探索の効果、出ているかな。覚えたんだね。)
「住所は?」
「〇〇市〇〇町三の五。」
(それって嘘、適当じゃないの。地図で頭に残っていたの?)
「それじゃあ、お姉さん、学生証とか見せてもらえるかな?」
「えっ?持っていませんけど?」
「何で持っていないの?」
「だって、今日はお休みで、近所出かけるくらいだから、家に置いてきちゃいました。」
もちろん嘘だった。交通機関の割引など学生証は使えることも多いので常に財布に入れて持ち歩いていたが、警官に見せれば嘘の住所や、苗字が山田ではないとばれて厄介なことになる、そう思い、とっさに持ち歩かないことにした。
「じゃあ、家の人へ連絡してもいいかな?」
「両親とも亡くなって今は私たちだけなんですけど。」
「ふたり暮らし?どうやって生活しているのかな?」
確実に何かしらのやましさがあると疑っている。
「遺産で生活しています。」
「ちょっと、おかしくないかな?子どもだけの生活は色々と厳しいんじゃないかな?だったら本当は施設とかじゃないの?」
「本当です。あ、ちゃんと生活見てくれる叔父と叔母が時々来てくれます。」
「今、家かな?連絡つく?」
警官の質問には答えず、可能な限り動揺していると感づかれないよう、手際よくスマホを取り出し電話帳から適当に番号を検索した。オーナーの番号表示でダイヤルボタンの数ミリ手前で指が止まって小さく震えている。
「どうかしたの?君は本当にこの子のお姉さん?」
「どういう意味なんだよ?何か疑っているみたいだけど何言いたいんだよ?」
太郎が食ってかかったが、警官は意に介する様子もなく続けた。
「最近、年頃の子は簡単に家出したりSNSで色々な人と知り合っておかしなことに巻き込まれることが多いからね。念のために色々確認しているんだよ。叔父さん叔母さんへは繋がった?」
警官からスマホの画面を見えないよう、太郎の方向へ少し体をひねって死角を作った。電話帳画面のままスマホを耳に当て、少し時間をおいてスワイプして画面を切り替えた。
「出ないみたいです。」
「そうか。じゃあ、家も近いみたいだから、ちょっとお邪魔してもいいかな?」
「(え?あの出鱈目な住所はこの辺りなんだ)二人とも出かけているかもしれませんよ。電話出ないし。」
「家が確認できれば大丈夫だよ。学生証、見せてもらえるかな?家にあるんだよね?」
ツキは返事が出なかった。このまま沈黙を続ければさらに怪しまれる、しかし、次の行動が思いつかず、警官から目線を逸らすと、太郎がしびれを切らしたように声をかけてきた。
「もういいよ、行こうぜ。」
「ちょっと待ちなさい、話しは終わっていないよ。」
「これって任意とかいうやつだろ?強制じゃなくて。なら、もう十分だろ。俺たちだって忙しいんだから、もういいだろ。」
太郎は警官を避けるように歩き始めた。
「まだ待ってと言っているよ。」
警官は真横を通り過ぎようとする太郎の腕を掴んだ。大人の力、それも定期的に鍛えられた腕で引き留めるために加えられた力は相当なものだった。
「痛てぇ!ちょっとやめろよ!」
「ちょっと!やめてください!太郎が痛がってる!」
ツキは警官の腕を引き離そうとしたが石のように動かない。逆にツキを振りほどこうと勢いよく腕を振り上げると、ツキはよろけて舗装路の段差に足を取られ尻もちをついてしまった。
「何すんだよ!この野郎!」
太郎が変声期前とは思えない、低く響く、獣のような声をあげて手を振り払おうとした途端、警官の身体が見えない何かに突き飛ばされたように自らの背面へ向けて三メートルほど吹き飛ばされた。ふたりは唖然としてアスファルトに転げ、事態を認識できずに天を仰いでいる警官を眺めていた。やがて我に返った警官の顔が赤く変色し、怒りの表情へと変化していく。
「やべえ、逃げろ!」
ツキと太郎は同タイミングで同じ方向へ一斉に駆け出し、その後を警官が、呂律が回らないのか何処かの方言なのか、何やら聞き取れない言葉を叫びながら追いかけてくる。
ふたりは今何処を走っているのかもわからなかった。少しでも角を曲がるタイミングが合わないときや、相手の挙動を確かめ、迷いながらの逃走ではすぐに追いつかれてしまう。しかし、お互いに全力で自分が思う方向へと走っているにも関わらず、示し合わせたかのように同じ方向へと走っていた。何故か迷いもなく、思う方向へ走ってもお互い逸れないとの自信があった。
何度も道を曲がって警官を撒こうと試みるが、引き離せないどころが距離は少しずつ縮まっていることに焦りを感じる。幸い警官は、身体を相当鍛えているが、走ることに関してはそれほど得意ではないらしい。
やがて視界の開けた道へと躍り出た。右手には川が道に並行して流れ、左手には砂地や所々鬱蒼とした草が生い茂る空地が長々と続き、川と挟んで一本道を作ることによって逃げ道を限定している。
警官を撒ける横道を探したが、道は直線しかない。川の向こうには並行して林が続いている。そこから先は見渡す範囲に木々が生い茂り、反対の空地の向こう側には遠く民家を捉えられるが、敢えて進むには足場の悪さで、警官に追いつかれるリスクしか思い浮かばない。
川幅は三メートル程度で、河川敷までの高さはツキの身長より少し深めと決して大きな川ではなかった。河川敷から歩道まで緩やかな坂になっているため、向こう岸まで渡れそうだが、スピードのロスで追いつかれるのは目に見えている。川の端には太郎の腰くらいの水草が生い茂り地肌を隠していた。
やがて川は数メートル先で緩やかに左へと曲がり、川に沿って道が並ぶ。カーブでの減速による嫌な予感が過るが、後ろから警官の足音が近づいてくることが他の選択の余裕を与えない。さすがに、常に鍛えられた成人男性のスピードに、普通の女子高生と小中学生では分が悪い。ここで立ち止まるわけにもいかず、とはいえ、ここで曲がるためにスピードを緩めれば必ずどちらかが捕まる。
不思議とツキに迷いはなかった。
「太郎!跳ぶよ!」
ツキは太郎の手を取り加速した。太郎は戸惑ったが、このまま川へ飛び込むのだろうと理解した。横目で見る川は幸い底も見えるくらい浅いようで、飛び越えないまでも、川を越えて対岸まで届けば、背の高い水草もクッションにはなるだろうと気が楽になった。
太郎はツキに並走するようスピードを上げて合わせる。ふたりは一層加速し、川辺でツキは走り幅跳びの要領で思い切り大地を蹴った。飛んだ勢いで太郎の身体が引っ張られる。引っ張られると感じたのは一瞬で、ツキとシンクロしたように本人の身体としての実感が消失し、自身の重さが失せて、そのまま浮いたという表現しか思い当たらない。
太郎はこのまま川への着水を想像していたが、現実はそのとおりにはならなかった。ふたりの身体は大きく弧を描き、川を越え、対岸の木々の前の舗装路へと着地した。飛んでいる間の奇妙な時間の長さが飛距離を表して、その時間はまるでスローモーションのように、目に映る景色をコマ送りのように進ませる。着地すると、次はジャンプの勢いが残っているため、再びそのまま前方へと走り出し、アスファルトから土がむき出しの地面へと変わったところで柔らかい地面に勢いを吸収されて、顔面からの衝突を避けるべく、手を前方へと差し出して木に軽くぶつかることで止まった。
思わずお互い顔を見合わせた。そこには笑いも驚きもなく、現実を受け入れるべく相手の存在を確認していた。何故そう思うのか、それは訓練もされていない人間の跳べる距離ではなかった。いまだに信じられず、自分たちが跳んできた対岸を確認すると、警官が目の前の現実を受け入れられないといった表情で棒立ちとなって、静かにふたりを凝視している。我に返ったツキが再び太郎の手を引いた。
「早く!行こう!」
左右を素早く見渡し、遠めに建物らしいものが見えた方向へと再び走り出した。息が切れるが足は緩めない。このチャンスを逃してみすみす警官に捕まるわけにはいかない。遅れ気味の太郎に合わせてスピードを落とすと太郎のスピードが上がる。
遠目に見えた建物は民家だった。しかし、再び川が目の前に流れており、道に沿って曲がり、前方の直線の先を見ても元の道へと戻る橋は見当たらなかった。どうやら陸の孤島というには大げさだが元の街へ戻れない気がした。
「このまま道なりに進むとこの森、一周しちゃうんじゃないのか?」
「そんな雰囲気だね。何処かで渡らないとまずいかな。」
しばらく進むと川幅が狭くなり、以前は橋があったような場所へと辿り着いた。そこには橋の残骸が対岸とこちら側に残っている。
「洪水か何かで壊れたのかな?」
「姉ちゃん、これ使えるんじゃないか?」
太郎は森の中に放り込まれるようにして散乱している木の板を何枚か見つけた。理由は不明だが、わざと橋を壊し森へと入れないようにして、緊急時には中からは出られるように板を置いているのかもしれない。ツキも太郎もこのような人の目の届かない場所は不審者が入り込む可能性から、行政が管理しての対応かと想像したが、今はそれが助けになる。
「いけるね。」
ツキと太郎は一緒に木の板を立てかけて対岸へと倒して橋を作った。板の幅は一枚では片足程度と狭く、三枚を並べて使って広さを取った。対岸は板が重なってしまいバランスが悪くなったが、こちら側からではフラットになるようにずらすことは難しく、ここで時間をかけると、いつまた警官に追いつかれるのではとの不安からこのまま渡ることにした。先に太郎が渡り、渡り切ったところで重なった板を並べて調整し、ツキが続いた。
「ありがとうね。」
対岸へ渡ると民家も立ち並んでおり、再び住宅地へと戻った。後ろを振り返ると警官はもう追いかけてはこなかった。呼吸を整え、周囲を警戒しながら現在地をスマホで検索する。初見の地域だが、幸い駅までは大分近い場所だった。
ツキは長年住み慣れた土地ではあったが、住宅地の裏側に、あんなに人気のないエリアが広がっていることに興味を抱いた。今まで感心も用事もない地域なので行くことはなかったが、こんなに狭い世界なのに知らないところがまだある、ふたりの探し物もきっとそんなところにあるのではないかと思えた。これから必要な場所は、街のほんの一部分でしかないだろう。
人通りの少ない街中を進むと、急に人気のある大通りへと出た。少し先に小さな公園があったので、お互い顔を見合わせ頷き合った。低木が外から若干の死角を幾つか作っているのは助かった。ふたりが入った出入口だけでなく、対面にも出入口があるようで、身の回りを見渡せるように、公園の両入口から距離の離れた中央のベンチに座った。呼吸を整え太郎が先に質問を投げかけた。
「姉ちゃん、さっきのは一体?」
「太郎も。」
「・・・。」
ふたりは沈黙し、先ほどの説明できかねる事象の内容と、ふたりに起こっていることを頭の中で反芻し纏めあげた。
「俺は姉ちゃんが暴力ふられたことに対して怒ったんだ。あいつを遠くへ吹っ飛ばしてやろうと、姉ちゃんに触るなって思ったら本当に吹っ飛んでいたよ。」
「触ってないのに何か見えない力で吹き飛ばされたように見えたよ。前にテレビとかで見た気功や超能力で似たことやっていたかも。それってもしかして桜子さんが言っていた力かな?普通じゃないもん。」
「ああ。俺の腕力じゃ、あそこまで大人を突き飛ばせないよ。」
「ちょっと、そこにある空き缶にやってみて?」
ツキは生垣に立てて置いてある空き缶を指し示した。太郎は右手を広げて空き缶へと向ける。何度も唸り声を上げながら手を押し出したり、引っ込めては勢いよく突き出したりしたが、空き缶は微塵も動かなかった。
「姉ちゃん、何にも起きないや。何かコツがあるのかな?ていうか、本当に何かの力か?」
「うん、きっとそうだよ。じゃないと説明無理。衝撃で突き飛ばすとか気みたいな見えない何かを出したとかかな?前にソファーの下敷きになりそうになったときも押し返したようなことあったよね?」
「そういやそうだな。一瞬空中で止まったけど、今思えば何かで一瞬押し返した感じだった。」
「ピンチが発動条件?」
「かもな。さっきも感情爆発って感じだったりしたと思う。」
「使い方によってはちょっと危なさそうだね。ちゃんと扱えるようにしたほうがいいかもね。」
「そう思う。でも、姉ちゃんのほうも普通じゃないんじゃない?」
「あのジャンプだよね?」
「そう。スポーツ選手なら跳べそうな距離だけど、普通の俺らじゃまず不可能だろ?それに姉ちゃんなんてもっとダメそう。」
「何よ。私こう見えてもポテンシャルはあったりするんだよ。」
「ああ、確かに逃げ足早かった。ちゃんと走れていたよな。」
「そうかな?それでも、あんなに跳んだのは想定外。」
「跳べるって思った?」
「うん・・・。思った。何でだろ?変な自信が湧いてきたっていうか、ここでいかないと後がないって思ったら、突然、迷いが消えたんだよ。」
「姉ちゃんはまっすぐ先しか見ていなかったよな。まるでそこに道があるかのような。行くって切り出したとき、何も不安はなかったよ。」
「結果オーライだけどね。」
「いやいや、こうなるって決まっていたんだよ。」
「ならよかった。跳ぶって決めたときね、身体、特に足先に力が湧いてくるような感覚があったんだ。全身の血というか、何かの力が足に流れていくみたい。これならいけるって。ジャンプ中、太郎の身体もすごく軽く感じて、跳んでいるときは時間がゆっくり流れているみたいだったよ。まるで自分自身が風なって、周りの気流に身を任せているみたいだったよ。」
「俺も感じた。姉ちゃんに引っ張られてジャンプしたとき、俺の力で跳んだって気がしなかったよ。引っ張られるというより、見えない何かに流されるみたい。」
「これって、やっぱり桜子さんの言っていたやつだよね?」
「多分。」
「ちょっと試してみようか?」
「また川とか越える?」
「ううん、普通にジャンプしてみる。」
「俺みたく何か必要かもよ?」
「やってみるだけ。さ、行くよ。」
ふたり両腕を掴んで、ツキはその場で強く大地を蹴った。次の瞬間、ふたりの身体は民家の屋根の高さにあった。そのまま地面へと落下し、若干のズレからアスファルトではなく生垣に落下し、葉も落ちて枝木だけとなった裸のツツジがクッションとなった。バランスを崩して腰から落ちたのと、幸い冬の厚着と長袖が肌を傷つけずに済んだうえに、衝撃をほとんど感じなかったのは幸いだった。
「マジかよ。今、跳んだよな!」
「ホントに跳べるんだね。ちょっとびっくり。」
ふたりは服の汚れを払いながら、辺りに人がいないことを確認した。
「何か特別なことした?」
「特には。足に力込めてさっきみたくしただけ。」
「はあ、姉ちゃんのは楽そうだな?何処までいけるんだろ?やってみる価値あるか?」
「試してみようか?限界知るのも必要だよね。」
「地球び飛び出したらやばいよ。」
「ふふっ。きっとそこまではいかないって。」
辺りを見回し再び人がいないことを確認して手を繋いだ。
「じゃあ、行くよ。カウント!3、2、1!」
ツキは両足で大地を強く踏みしめ、身体を深く沈めてからカウントゼロを無言で数えて一気に解き放った。ふたりの足元に薄っすらと輪のようなものが光っている。繋いだ手にもぼんやりと光の環が、お互いの手が離れないようにするかの如く浮かんでいる。
一瞬で視界が真っ白になり、ふたりは思わず目を強く閉じた。空気抵抗が身体を大地へと押し戻そうとしているようだった。ツキが太郎を引き上げたのではなく、跳んだ瞬間に太郎も同タイミングで無意識にジャンプしていた。
それもほんのわずかな時間で、間もなく身体が軽くなった。大気が冷蔵庫の中のように冷たい。一定の距離まで達すると、強く吹く風がさらに上空へふたりの身体を押し上げた。やがて上昇が止まり、重力を感じなくなったのは空中で静止していることを意味した。耳が詰まり、呼吸するのも当たり前とはいかないくらいに難しく自然と浅くなる。
ふたりは恐る恐る目を開いた。直ぐ頭上には遥か遠くまで白い煙のような雲が延々と続いている。周囲を見回すと極めて薄く青い空間が広がり、足元へと視線を移動させると、そこには今まで自分たちが暮らしていた街がミニチュアのように広がっている。それを瞬時に本物か判断するには頭が追いついていかない。
「姉ちゃん!これって!」
「太郎、私たち、今何処にいるのかな⁉」
「何呑気な!多分、想像どおりだろ!」
眼前には遥か遠くの海から、緩やかに湾曲した地平線まで見渡せる。右手には山の穹窿が広がり、その先の、ツキの街から反対に広がる街も見下ろすことができる。ひときわ薄暗い、あれが目的の街だと直感的に感じ取った。
生身の身体では誰も辿り着けない場所で、ふたりだけが見ることが許された風景に言葉もなく、あるのは恐れも超えた感動そのものだった。その感動がこの一点だけであることの証明に、やがてゆっくりとふたりは落下を始め、今を受け入れることが恐怖へと変わっていく。
「姉ちゃん!やばいやばいやばい!落ち始めた!」
「太郎!何かいいのある?」
「パラシュートなんて持ってないよ!」
風が全身を切り裂くようにまとわりつきはじめ、その風切りの音は詰まりかけた耳からふたりがお互いの会話を聞き取るには困難を極めた。太郎はショルダーの蓋を閉じたまま片手で隙間から器用に傘を取り出しボタンを押して開いた。傘は開くと同時に勢いよく風によって遠くへと持っていかれてしまった。想定内の結果ではあるものの、何か行動しないとこのまま終わるような危機感が迫る。
建物が視界の中で大きくなっていく。それでもふたりは手を繋いだまま離さない。想像より、身構えるより早く地面が目前に迫ってくる。落下地点は公園から外れて歩道のアスファルトを目指している。
ツキは跳べる力があるのであれば、逆にその力で衝撃を相殺可能かと考え、地面に叩きつけられる瞬間を狙って、再度地面を蹴り上げようと体制を変えようと試みるが、空気抵抗で固定されたように地面と身体が平行になったまま動けない。
「この野郎!」
今まで太郎は自分が起こしたであろう現象を思い出し賭けに出るべく、辺り一面に響き渡るような大きな声で叫びながら目前に迫った大地に向けて拳を振う。感触は硬くもなく、頭の中に伝わってくるものは何かを殴ったような手ごたえのイメージだった。同時に、アスファルトに直径一メートルはあろうかという大きな窪みを刻み、その反動でふたりの身体がツキの身長を越える高さまで跳ね上がり、再び生垣に落下した。
最初にツキの身体が背の低い枯れ木の上に乗り、その上に太郎がのしかかって木々を押し分けながら中に埋もれていった。鈍角なくの字の状態で埋まったまま、しばらくふたりは微塵も動けなかった。そのまま少し頭を上げて空を仰ぎ見て、つい先ほど届いた雲と、空の境目から視線を外せずにいた。まるで、ハンモックでリラックスしているかのように落ち着いている。
身体の奥からか笑いがこみ上げてきた。気づけばふたりとも声を出して笑っていた。
「怖かったー!」
「マジ死んだかと思った!」
「ホントに!だけど、すっごく気持ちよかったー!」
「ああ、超楽しい!」
再びふたりで、おかしさがすべて身体から出ていくまで、周りも気にせずに思いっきり笑った。視界の範囲内には誰もいなかったが、もし、近くに誰かいても気にすることはなく、腹の底から笑うくらいに周りが見えていない。やがて、笑いも出し尽くし、現実へと引き戻された。
「あぁ、楽しかった。それより、太郎、ちょっと重いよ。」
「あ?ああ!悪りぃ。」
低木のベッドから降りたふたりは、汚れた服を払って深呼吸した。身体を少し丸めて腰から突っ込んだおかげで、顔や手に大きな怪我はなかった。
「姉ちゃん、耳おかしくない?」
「うん、新幹線や山とかで起きるのだね。何度も唾飲み込めば治るんじゃないかな。」
ふたりは唾を飲み込もうとしたが、冬の大気の乾燥に加えて、逃走と興奮から口の中は乾燥している。
「マジ、口の中、超カラカラじゃね?」
「う、そ、そうだね、そこの自販機でジュース買ってくるね。ちょうど喉も乾いているよね。お茶?」
「あぁ、お願い。」
太郎はツキから貰った五千円を出そうかと思ったが、結局はおごってもらうのに同じだと思い、もどかしさを感じた。太郎が悩んで、遅れてお金を渡そうとしたとき、すでにツキはそこにはいなかった。気まずさを感じ、腕を組んで凹んだ生垣を眺めていると、人気のない歩道に小さく響く足音が大きくなるのが聞こえる。
ふたりはガードレールに腰かけて飲み物にありつくと、やっと一息つけ、今までの緊張も解れた。
「お茶、今度お返しするよ。」
「ううん、それくらい大丈夫だよ。律儀ね。それより最後、太郎助けてくれたね。」
「ああ、何か出たね。いやいや、出なけりゃ死んでたわ、ホント。」
「うん、ありがとう。」
「ありがとうじゃあないや。いきなりあそこまで跳ぶなんて。」
「ゴメン、まさかあんなに跳べるなんて思っていなかったよ。まだ、力の加減できなかったから・・・。」
「あ、ああ。それは俺も同じだし、姉ちゃんが悪いわけじゃないって。こっちこそ何も考えずにけしかけて悪い。」
「そんなことないよ、でも、ちょっとこの力ってものがわかってきたかも。少しずつ練習すれば、こんなことにならなくて済みそうだよ。それに、この力って普通に生活すれば必要ないと思う。だから、いざってときだけにしよう?」
「そうだな、地面こんなにしちまうなんて、さっきの警官に同じくらいのパワーが出ていたら、俺、殺人犯になってたかも。」
「あ!そうだよね。これ、すごいね。」
そのとき、周りに何人か近づいてきて、一定の距離を保ったまま遠巻きにこちらを見ている。
「やば、俺ら見られた?」
カップルの会話が聞こえてきた。
「さっき降ってきた人って、あの人たちかな?」
「じゃない?あの地面の穴、あそこに落ちたんじゃないか?」
中年夫婦らしき二人組の声も聞こえた。
「人間?」
「警察とか呼ぶ?」
興味と不信感しかない会話が他にも聞こえる。やがて、野次馬たちは事件の中心が女子どもだと判明すると、危害を加えられる可能性が低いとの判断か、スマホを取り出し照準を合わせてきた。
「こいつら!姉ちゃん、逃げたほうがよくないか?」
「そうだね。」
ふたりが駆け出そうとしたとき、目の前が一瞬ブラックアウトしたかと思うと、野次馬たちは力が抜けたようにその場に蹲り始めた。
「あんたら、何目立ってんだい。」
気だるげなその声に聞き覚えがあった。
「こいつら、めんどくさいから直近の記憶消して少し寝てもらったよ。ここら一帯、あんたらの跳んだり落ちたりってのを見た連中もね。」
「その声、桜子さんですね。」
背後から声が聞こえたかと思い、ふたりは振り向いたが声の主はいない。再び前を向くと眼前に桜子が立っている。
「あっ、桜子さん、お久しぶりです。」
「お久しぶりじゃないよ。この前会ったばかりじゃないか。」
桜子が指を鳴らすと三人は今までいた道端から、瞬時に無人の路地裏に移動した。ふたりはもう驚かない。
「ところでさ、一週間くらいでここまで力引き出すなんて、あんたら何かやったのかい?」
「いえ、ちょっとトラブル続きというか、気づいたらこうなっていたっていうか。見ていたんですか?」
「ああ、急に魔力が膨れ上がったのを感じたよ。来てみれば警官吹っ飛ばしたり、バカみたく飛び跳ねているじゃないか。ふーん、実践で目覚めたってところかい。そりゃあ、力加減なんて、あったもんじゃないよね。」
「こっちも死に物狂いだったんだよ。形振り構ってられねえよ。」
「あんまり目立ったことされると、あたしも色々やりにくくなるんだよ。変な噂流れたら、どいつもこいつも普段マヒしている感覚が敏感になって、気づかないものに気づき始めちまうもんさ。ましてや、人が空飛んだとか、落ちてきたとか、共通の話題が一つあれば最近じゃあネットであることないこと拡散されて、噂の元に本当に出くわすんだよ。運悪く写真や動画なんてあればネタは増える一方さ。今の世の中、真贋なんて二の次さ。」
「すいません、何もわからずに力使ってしまって。」
「いいんだよ、姉ちゃん。だって最初に教えてくれたらこんなことならなかったんだよ。」「あぁ、最初はどんなもんが発現するかわかりゃしないし、あんたらじゃあ何もできないって嘗めてほっといたのかもしれないねぇ。」
「ふん、この調子でとっとと探し物見つけてやるよ。」
「ハッ、早くしておくれよ。こっちも暇じゃないんでさぁ。」
「すいません、この力って他に何か危険なことってありませんか?」
「シンプルな力でこれ以上はなさそうだね。見たところ、加減すれば問題ないんじゃないかい?基本的には潜在的に意識するものが具現化されるものさ。いいも悪いもね。ツキ、あんたはシンプルに脚力の強化だろうね。何だい?空でも飛んで逃げたい現実でもあるのかねぇ。」
「そうだったかもしれません。でも、今は違うんです。もっとやりたいこととか知りたいこととかが勝って、今から逃げるなんて考えられません。」
「さあね、私には何のことか知ったこっちゃないけど。まあいいさ、そんなの自分の解釈で何とでも言えるもんさ。第三者もね。客観なんてそんなものさ。言い合うだけ無駄。」
「確かにそうかもしれませんが・・・。」
「それと坊主、あんたは結構派手に出たねぇ。」
「誰が坊主だよ!」
「そこのクソ坊主のことさ。あんたわかりやすいよ。厨二病よろしくの衝撃波そのままだね。威勢の割にチキンそうだから、人を傷つけるってよりは拒絶してるって感じかね。」
「てめえ、誰がチキン・・・。」
桜子に歩み寄る太郎の前にツキが立ちはだかった。
「姉ちゃん!止めないで・・・。」
背を太郎に向けたまま続けた。
「太郎って名前があるんです。坊主ってやめてください。それにチキンでもないです。」
「ほぉ、そいつの本当の名前、知っているのかい?」
「知りません。それでも、今は太郎なんです。本人嫌がっています。」
「私に説教しようってのかい?」
「そんなつもりはないです。ただ、変なこと言うの、止めてくれればそれで十分です。」
「お前、私に対して変なことばかり言ってたの忘れたのかい?」
「あ、いえ、その節はすいません・・・。」
「姉ちゃん・・・。俺んときもだよ。」
「あら、そっちもゴメン。」
「バカらしいねぇ。わかった、わったよ。太郎でいいんだろ?変な名前しているから、ついからかっちまったんだよ。」
「そっか、太郎の本当の名前知っているんですよね?教えてくれますか?」
あっさりと切り返してくツキに、桜子は少し拍子抜けした。
「コラコラ、駄目だって。あたしを契約違反させようってそうはいかないよ。」
「あれ?そんなつもりはなかったです。でも、違反したらどうなるんですか?」
「天然は怖いねぇ。違反したら私の身にも同じように、何か取られちまうのさ。契約した奴にね。あんたらは相応のもの見繕って差し出しゃいいけどね、願い叶える側は受け取るだけだから、ましてや、前例がないだけに何が起こるか想像すらできやしないんだよ。もし、私が死んじまったら、あんたらの願いを叶えられないどころか、記憶なんてどうなるか知ったこっちゃないよ。もしかしたらだけど、戻るかもしれないし、戻らないままかもしれないしね。」
「そうなんですね。つい知らずにすいません。戻る可能性もあるんですね。」
「惜しい、残念。もう少しだったのにな。」
「何だと!だからクソ坊主なんだよ!」
「太郎!」
「悪い、もうやめるよ。」
「ホントにもう!仲よくしなさい!」
「誰がこんなガキ(こんな女)と仲よくだって!」
このときばかりは二人の意見は一致したのか、反論がシンクロした。
「まあまあ。ところで、この力ってすごくないですが?願い叶えていないのに、こんなことができるなんて。」
「だから厄介なんだよ。本当は契約履行して終わりなんだけど、あんたら、叶えもせずに時間ばかり過ぎたせいで、魔が育っちまったみたいなんだよ。今までもそんなケースは何度もあったけど、ここまではっきり大きく出たのは初めてでねぇ。別にあんたらが望んだものじゃないとは思うけどね。さっき、これ以上危険はないって言ったけど、前例がないのとシンプルな能力の発現だったから、そう思ったのさ。」
「何だよ、その含んだ感じ。前例ないなら何があってもおかしくないじゃんか。」
「まあ、気休めだよ。」
「使えるなら使わせてもらおうよ。本当に必要なときに。」
「そうだな、さっきみたく逃げるのには役立つな。」
「好きにしな。目撃者一人くらいなら信憑性薄いし、噂なんてすぐ落ち着いちまうさ。でも、何人も同じ情報を発信したら噂ってのは本当にもなっちまうもんさ。目立つことはもう止めるんだよ。それに太郎、あんたの力はいざってときでも人に向けるんじゃないよ。打ち所悪いとただじゃ済まないよ。」
人の命を物として扱うことが当たり前と思っていた桜子が、人を気遣うような発言をしたことに、ふたりは内心違和感を覚えたが、横目で視線が合ったことで、意見が通じたことを認識して何も言わなかった。
「それはもう嫌ってくらい感じたよ。でも、どうすれば?」
「練習しかないねぇ。」
「なあ、この力って感情とか関係あるの?」
「あるかもしれないしないかもしれない。力それぞれさ。でもね、自由に使うのに感情なんて不要さ。あんた、手を動かすのにいちいち考えたりするかい?重さなんて感じるかい?ないだろ?魔ってのはさ、体の一部なんだよ。まあ、確かに感情ってのは、あらゆる力を引き出すきっかけにはなるけどね。」
「何か難しいなあ。火事場の馬鹿力なんてあるみたいだけどそんなもん?」
「おや、意外に賢しいね。一理あるよ。魔力に限らず、人の持つ力なんて見えないから、結果や作用で推し量るもんだよ。肉体的な力とかがわかり易いのがそれさ。生活の中じゃあ用途によって加減しているだろ。」
「そっか、太郎のは見えないからわからないんだよね。イメージしてみたらどう?例えば、さっきの地面を本気で殴ったとき、拳にあのクレーターくらいのオーラ的なものが出るとか、警官のときはバレーボールくらいとか?拒絶っていうか押し出す感じ?」
「おや、悪くはないんじゃないか?」
「じゃあ、無難にテニスボールくらいで。姉ちゃんこれ持ってて。」
太郎はさっきまで標的にしていた空き缶をツキに手渡した。ツキは手の平に空き缶を乗せて太郎の目の高さに固定した。
「これでいい?イメージしてみて。」
太郎は空き缶の前に手をかざした。頭の中で手を押し出すイメージ、しかし、身体は動かさず、あくまでも想像で押し出した。ふと身体が半歩先へと動いた気がしたが、実際は一歩も移動してはいなかった。
「後はあんたらでやっとくれ。せいぜい目立たないようにね。もう次はないよ。」
桜子が立ち去ろうとした次の瞬間、空き缶が蹴り飛ばされたように勢いよく斜めに飛び跳ね、眠そうにあくびをしていた桜子の顔の中心にヒットした。桜子は鼻血を流しながら言葉にならない声を上げてその場に蹲った。
「このクソ坊主!ぶっ殺してやるよ!」
「ごめん!今のは本当にわざとじゃないんだよ。」
初手の脅しとして太郎の目の前に振り下ろした手の先の地面に五本の切れ目が入った。次の一手は確実に太郎を狙って振り下ろされる。
「やめてくれって!」
太郎は後ろに飛び跳ねるとツキが桜子の腕にしがみついた。
「ごめんなさい!太郎悪気はないんです!」
桜子は我に返り、振り被ろうとした手を収めた。
「チッ。あまりに不意突かれて、頭の血が上っちまったかい。あぁ、もう、大丈夫だよ。」
「ホントに、ゴメンよ・・・。」
「ああ、もういいって。こっちも素人相手にムキになっちまったよ。取って食おうなんてしないから身構えるなって。」
太郎は恐る恐る近づき手を差し出した。
「これで仲直り。」
桜子はその手を叩いてポケットを探りだした。
「これ、使ってください。」
ツキはスカートのポケットからハンカチを取り出し差し出した。桜子は乱暴に受け取って、思い切り音を立てて鼻をかんだ。
「汚ねえ・・・。」
太郎を睨みつけた後、真ん中が真っ赤に染まったハンカチをポケットに仕舞った。
「そのうち、綺麗にして返すよ。」
「大丈夫です。差し上げます。」
「いらん。近々、返すからな。」
「じゃあ、いつでも結構ですよ。」
「まあ、なんだ、迷惑かけたな。今度、何か返すわ。」
「そんな、最初に迷惑かけたのはこっちですし、私たちが力使ったのを目撃した人たちの記憶を消してくれて、助けてもらってばかりです。」
「そいつは私自身の問題でもあるからね。あんたらほったらかしにしたっていう。まあ、魔を宿して未熟でも、あんたらふたりとも理解しつつあるみたいだから、もう変なことには使わないかと思うがね。どうだい?」
「はい、可能な限りは。」
「俺は使いどころでは使うけどね。ばれないように。さっきみたく、危ないときは姉ちゃんに任せて跳んで逃げて、俺のは最後の手段として。」
太郎は桜子の爬虫類のような視線にまとわりつかれて、思わずツキの後ろに隠れた。
「ちょっといいですか?私の考えですけど、私の力、空は飛べないけど、脚力の強化でジャンプして弧を描いて目的地に着地するだけだと思います。さっきは跳びすぎから体制を崩して、地面に叩きつけられそうなところを太郎に助けてもらいました。跳べるなら着地までできて当たり前なはずです。」
「考えていることは間違っていないようだね。力ってのは本来釣り合いが取れていないといけないものさ。高く跳んで落ちて死んじまったら、そりゃあ、元も子もないよね。あんたは着地までが一連の能力って考えるべきさね。まあ、太郎のほうはシンプルに込められた力を放出するってとこだね。前も先もなくその一瞬にかける力の調整でも練習しな。」
「はい。ところで、私たちは魔の力で自分の姿を消せますか?」
「あんたらに発現した能力以外の習得は不可能だね。魔女にでもならない限り。いっそのことなってみるかい?」
「いやいや、それは遠慮します。」
「何だいつまんないねぇ。まあ、習得は無理でも、一回だけなら力貸してやるよ。太郎を殺しかけたお詫びってところかい。」
太郎は思わず桜子から数歩下がった。
「ありがとうございます。でも、今じゃないんです。今後、さっきみたく追いかけられたり、どうしようもないときに使いたいんです。」
「当たり前だろ。あんたらの行動ずっと見ていられるかい。ちょっと待ってな。」
桜子はジャケットの内ポケットから手帳と万年筆を取り出し、何かを書き始めた。
「あれって姉ちゃんの欲しいやつじゃん?」
「うん、いいね。改めて見て。」
「早く次の買わないのかな。文句言っていた割にはまだ使ってるぜ。お金ないのかな?」
「チッ、あんたらよりは余裕あるわ。」
何かを書き終えると、手帳から一ページ破ってツキに手渡した。そこには魔法陣のようなものが描かれていた。文字は今まで見たことのない、記号のような不思議な形状だった。
「使い方だけど、この円をふたつに裂くように破り捨てな。その時点であんたらは一時間程度だけど、人間には見えなくなるよ。ただし、ふたり近くにいないと、紙を破った本人にしか効果がないよ。」
「何だよ、ひとり一枚じゃないのかよ。」
「そんなめんどくさいことさせんじゃないよ。あるだけマシって、贅沢言うんじゃないよ。」
「ありがとうございます。一緒のときに使うことになりそうだから十分です。太郎、ひとりだったら小回り利くから何とかなるんじゃない。お互いの力で。」
「ふん、わかってきたね。力の使い方考えてみなってことさ。じゃあ、もう行くよ。」
太郎は桜子より離れたままで動こうとはしない。
「・・・。」
「お世話になりました。近いうちに、このお礼させてくださいね。」
「変な気を遣うんじゃないよ。そんな気があるなら早く探し物を見つけな。」
「はい。太郎、私たちも行こうか。」
スマホで位置を検索し、現在地から駅までのルートを確認した。ふたりが顔を上げると桜子の姿は消えていた。
「あれ、桜子さんはもう行っちゃった?」
「知らね。いつの間にか消えていたよ。何なんだよ、あれは。助けてくれたかって思えば、ヒス起こして殺そうとしたりって。」
「まあ、わざとじゃないにしろ怒らせることしちゃったからね。確かに性格きついけど、怒らなければ、そんなに悪い人じゃないと思うよ。歳も歳だろうし感情の起伏激しいかもね。」
「ああ、更年期っていうやつだろ?何百年も生きているみたいだし、そんな年頃だろうな。それでも、不安定でヤバい奴には変わりないよ。怖えぇよ。この地面どうやったらこんな風に切れる・・・・、あれっ?何ともない?」
つい先ほど切り裂かれたかと思われたアスファルトは、見渡す限り何も起きなかったかのように無傷のままだった。
「何か、もう驚かないよ。」
「そうだな。それより駅までは遠い?」
「ううん、大分近いよ。じゃあ、出発しようか。」
ふたりが見える距離にあるビルの屋上で、桜子は舌打ちした。
「あのバカどもが。人を年寄り扱いしやがって。やっぱりブチ殺してやればよかったわ。」
目的の街の駅までは特に問題も起きずスムーズに辿り着けた。それほど遠くはないがツキの街から山を隔ててちょうど反対側なので、その山を迂回するので時間がかかる。
山は過去に何度か噴火を繰り返した。内陸へ向けて溶岩を流し込んで、山頂以外からも噴火を起こしたために、姿形は山としての三角形ではなく、緩やかな斜面を描いた歪な台形のような形になっている。東西に長細い形となっているので海側か内陸を大きく迂回しないと反対側へと辿り着くのは難しい。
車両も乗り換えると編成も乗客も減り、最後の私鉄は二両編成で、一シートに一人乗っているかいないかと閑散としている。車内ではふたりとも疲労による睡魔と戦いながら乗り過ごさないよう、何度もアナウンスと案内で一つ一つ駅を確認して言葉を発することも忘れていた。
到着した目的の駅は私鉄の小さな駅で、ホームもプラットフォームとしての機能しか持ち合わせず、往来どちらにも、キヨスクも何も店はない。改札も駅員の姿が見当たらず、降りる乗客はツキたちふたりだけで、無人駅のような静かさだった。
駅を出たころには、日は真上から傾き始めていた。ネットで目的地を検索すると、昨日検索したときより駅から若干遠いように思える。歩いていけない距離でもないが、バスかタクシーがあればかなり楽になる。午前中の度重なる出来事での疲れが抜けきれず、歩いていく気にはなれなかった。
駅前のロータリーは閑散として、バスも一時間に何台来るのか不安になる。ツキは曖昧な記憶を裏付けするかのように、バスのルートを検索すると、母親の実家近までバスは通ってはいないようで、確実性のあるタクシーを探すことにした。
「タクシー、なかなか来ないね。」
「人もあんまりいないよな。駅前だってのに、コンビニくらいしかないな。姉ちゃんの街のほうがまだ都会かもな。」
「都会って言えるのかな?比較するにしても、昔何度か来たはずなのに全然記憶ないなあ。こんなだったかなって。それよりお腹空かない?もうそんな時間じゃないかな?」
「さすが姉ちゃん。ちゃんと食うときは食うな。もちろん賛成。」
「だよね。お腹空いていたら力出ないよね。でも、お店見当たらないね。ちょっと待てて。」
駅の周辺で食事ができそうな店を検索してもヒットせず、目の前のコンビニで代用することになりそうだった。
「何もないなあ。やっぱり個人のお店はひっかからないかな?駅の反対側行ってみる?」
「じゃあ、俺行って見てくるからここで待ってて。」
「ありがとう。私もこの辺見てくるからここで待ち合わせね。」
「おう。じゃあ、また後で。」
駅前の交通量のなさに加え、人や店の少なさだけでなく、朝からの曇り空が町全体を薄暗く覆い、まるでゴーストタウンのような印象を受ける。ツキはまさか無人の街ではないかと思い、コンビニをガラス越しに覗いてみると、店員の姿が見えて少し安心した。
線路沿いに少し歩いてみたが、民家が並ぶだけで視界の先に店らしきものは見当たらず、先へ進んでも期待できなそうにないので駅へと戻った。駅を通り過ぎて、反対方向へ線路沿いに歩いて状況を確認したが、こちらも変わらず諦めて再び駅へと戻ってきた。
(交番も見当たらないなあ。あっても今朝みたく、また色々と聞かれても困るから、なくてよかったかな。駅員さんに聞いてみようかな。)
駅の中には駅員は見当たらない。無人改札機の脇には呼び出しのベルが、駅員を呼び出すためのものだとアナウンスの貼り紙もされずに置かれている。仕方なく待ち合わせ場所へ戻って、スマホを取り出し検索範囲を広げてみると、ロータリーから進んだ少し先に洋食屋が見つかった。
(さっきはこんなお店あったかな?)
そのとき、太郎が戻ってきた。
「駄目だね。」
「こっちも。でも、この先に洋食屋があるみたいだよ。」
「えっ?さっきは何もなかったよな?」
「うん。検索範囲ギリギリで見落としたかも。もうここしかないから行ってみよう?」
「・・・。一目見て変な店だったら却下な。」
地図上では、駅前ロータリーから伸びる大きなメインストリート沿いにあるのでわかりやすい。途中、何件もシャッターの閉まった店が軒を連ね、以前、この界隈は賑わっていたことを想像させた。
「マジ、シャッター銀座だな・・・。何か、もうこのあたりって終わっている感じ。」
「ちょっと寂しいね。この通り、何となく覚えているよ。ここバスで通って家の近くまで行ったと思うよ。今と違って、昔来たときはお店とかやっていたから全然イメージ違うけど。」
「あぁ、ゴメンよ。そんなつもりじゃ・・・。」
「ううん、気にしないで。現実は現実だもの。もっと長く過ごした地元だったら、緩やかな変化に気がつかないまま過ごしていたと思うよ。久々に帰ってきて、今この状況を見たらもっと寂しいと思う。そんなに想い入れもないから率直な感想。太郎と同じ気持ちだよ。」
話しながら歩いているうちに、目前に看板らしきものが見えた。閉店されている店が並ぶ中、看板に電気が通っているだけで、一際目立っている。
「桃園、ここね。」
「洋食屋で漢字って、凄く昔のセンスって気がするや。それってハズレか博打っぽい。マジに入るか?」
店は高さから一見三階建てと見て取れるが、一般的な観点からすれば、縦に窓が二つ並ぶことから店内は二階建てと思われる。その二階部分にある窓が、一階の窓より高く離れて設置されていることから、一階の天井は高いのではと想像させる。建物自体は両サイドの雑居ビルに挟まれて息苦しそうではあるが、左右のビルはどの窓にもカーテンも看板もなく無人のようで、何かを主張するものがないので、店は気兼ねすることなく、自由に上手く収まっているようにも見える。外からは曇りガラスで店内は見えないが、今までの街の様子から繁盛しているとも思えない。
「入ってみよう?今の世の中まずいもの探すほうが難しいよね。」
「そういやそうだな。店員が変な奴じゃなきゃいいか。」
ふたりは恐る恐る扉を開けて中へと入っていった。最初の店への感想は思ったとおり天井が高い。
店を見渡している間、ふたりは誰かがこちらを見ているような気配を感じていた。
「いらっしゃいませ。」
ひどく痩せた中年の店員が、まるでツキたちふたり来るのを知っていて待っていたかのように、入って間もなく、入口から少し離れたところから声をかけてきた。ふたりは先ほどの視線はこの男性かと納得したが、どこか違和感が残った。
「二名様でよろしかったでしょうか?」
「はい。」
「では、こちらへどうぞ。」
一階は長方形の間取りとなっており、ふたりはその中心の席へと通された。案内された席は、周囲を見渡すには好都合だった。誰もいない店内の中心を陣取っていることは、この空間を独占したような特別感があり、少しの緊張と一種の優越感をもたらした。
店内は壁や床だけでなく、テーブルと椅子といった家具も木製で統一されており、全体的に年季の入った木が、薄茶色く変色して全体的に暗さを感じさせるが、暖色系のライトに照らされて、夕方暗くなって帰宅したときのような温かみのある安心感が漂っている。
「お決まりになりましたらお呼びください。」
店員はふたりにそれぞれコップ一杯の水とおしぼり、メニューを渡して何処かへと姿を消した。ツキはざっとメニューに目を通し太郎に問いかけた。
「普通、だよね?」
「メニューはな。だけどさ、あの店員、ガイコツみたいじゃない?」
「しっ!太郎、聞こえちゃうよ。」
「やべ、誰もいないから丸聞こえかな?」
店内には聞いたことがあるが、曲名までは思い出せないようなクラシックが流れている。それでも、ふたりしかいない空間で人の話し声はよく通る。
「桜子さんにもそうだけど、もうちょっと抑えてね?」
「悪い、もうトラブル起こすわけにはいかないもんな。可能な限り気をつけるよ。危ないときは姉ちゃん、フォローしてくれるか?俺、どうもつい口に出ちまうみたいだから。」
「うん、可能なときはね。意識してくれるだけでも違うと思うよ。ささ、なに食べようか。」
「俺はハンバーグ定食。」
「もう決まっているの?ハンバーグ好きなんだね。私も同じにしようかな。」
「何だよ、別に好きなのにすりゃいいじゃんかよ?」
「私もハンバーグ好きだよ。じゃあ、お店の人呼ぶね。」
「その割には今まで食卓に出なかったよな。」
「太郎の好きなの聞いていなかったからだよ。そうだ、今度は作ろうね。他に希望あったら教えて。」
「お決まりでしょうか?」
ふたりの会話を聞いていたのか、無意識の世界から現れたかのように、視界の外から店員がオーダーを取りに現れた。
骸骨との例えが合っているかの如く、痩せ細った顔は眼窩が窪んでいるような影を落とし、頬もこけて、いったい普段は何を食べているのか、食べてさえいるのか疑問に思える。オールバックの髪も白髪が混じり、それでも黒髪の割合から初老くらいと推測される。
「ハンバーグ定食を二つお願いします。」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
必要最低限の対応で、店員は再び何処かへと姿を消した。
「そうそう、さっきのお話の続きなんだけど。」
ツキは店員の話題にならないよう、別の話題を持ちかけた。
「私の街もね、今は結構人が出ていっているんだよ。観光地としてもそれほど有名じゃないし、大学の海洋研究や高校はそれなりに進学やスポーツに力入れているってことで、ちょっとは他から人は来るけどね。それでも年々人口は減っているよ。やっぱり仕事や地方へ進学してそのままって人が多いみたい。」
「あの街って観光地なんだ?」
「そうだよ。ここ来るときに迂回してきた山は火山みたいで温泉が出るよ。だから駅前は旅館までのバスが出ていて、人が出入りするから結構に賑わっているんだよ。街も南北が山に囲まれていたかと思えば西には海もあるし、自然が豊かで都会の人には人気みたい。山の麓には昔集落があったとかで、かなり開けたところがあって、春になるとお祭りがあったりするんだよ。そうそう、山には女の神様がいて、お願いを叶えてくれるなんて言い伝えもあってね、神様か火山のおかげか土地が温かいみたい。だから、祭りの時期、早くから一面桜が咲いてすっごく綺麗なんだ。毎年それを目当てに来る人も多いんだよ。」
「へえ、それでなんだ。駅前に姉ちゃんと行った商業ビルだけじゃなくて、雑貨屋とかお土産屋とか色んな店や建物あったりするのって。温泉なんて初耳。姉ちゃん話してくれなかったから。」
「ゴメン、街の人や知っている人は知っているから、そういうのに慣れて忘れていたよ。温泉も地元いると当たり前で全然意識しないんだ。」
「そういうもん?温泉行かないの?」
「旅館とかは地元過ぎてあんまり行こうってならないんだよ。たまに日帰りや銭湯感覚でアカネと近くの温泉は行ったことはあるよ。そういえばアカネの家族で行くときにも一緒に連れていってもらったこともあったな。」
「姉ちゃんの家では行かない?」
「うん、結局行かなかったよ。そういえば、アカネのお父さん、そんなに悪い人って感じはしなかったな。」
「そこは俺にはわからん。まあ、温泉って人気あるし女子って好きだよな。俺、そんな風呂好きじゃないからどうでもいいけど。」
「お風呂とは全然違うよ。身体にいいのは元より、何ていうか、雰囲気?広いし自然の中にってのが日常を解き放ってくれるよ。露天風呂なんて最高だよ。温泉に浸かりながら星空や昼の青空を眺めるのって。時間忘れて頭も空っぽにして、嫌なことも面倒なことも忘れてリラックスできるよ。」
「リラックスってのはよさそうだな。」
「うん、そこは太郎にも合うと思うよ。是非行ってみようよ。」
「えっ?姉ちゃんと一緒に?」
「他に誰かいるの?温泉、気持ちいいよ。」
「そ、そうなんだ・・・。」
「変なこと考えないよう先に言っておくけど、混浴じゃないからね。期待しないで。」
「するかよ!」
ふたりはっ自分たち以外の客がいないことで心置きなく話せる環境から、いつものような会話を続けていた。他愛もない話に夢中になっていると、存在も忘れてしまっていた店員が料理を持ってきたかと思うと、再び何処かへと行ってしまった。
「俺、思うけど、ここってあの人が料理もやってるのかな?」
「私もちょっとそう思っちゃった。」
デミグラスソースの甘酸っぱい豊潤な香りが湯気と一緒にふたりの鼻先に漂ってきた。付け合わせのポテトやニンジンは色味や艶から新鮮なのはわかるが、繋ぎ合わせれば歪な統一性のない形状なのがかえって自然で、地元か産地直送で仕入れて、この店の中でしっかりと調理されたことを想像させた。
「わ、いい匂い。」
「美味そうだな。いただきます。」
「早っ。熱々で火傷しないようにね。」
「あちっ、でも、うまっ。」
「うん、美味しいね。ここのお店でよかったね。」
ふたりとも次々とハンバーグをカットして、息継ぎをする間も惜しむような速さで口へと運んだ。ほとんど平らげたところで太郎が話を続けた。
「この店でよかったっていうか、ここしかなかっただろ。」
「ふふっ。確かにね。来るべくして来たってとこかしら。」
「そういうことにしとこうか。ん、野菜もうめえ。」
「何か懐かしい感じ。ちょっと泥臭いっていうか、微妙な苦みも残って、これが逆にいい感じにアクセントになっているね。太郎、こういうの好きなんだ。」
「まあね。今のはどれも調整されて同じ味っていうか優等生。新鮮な感覚だよ。もちろん、姉ちゃんの作ってくれる飯はホントに美味いよ。でも、買ってくる野菜はみんな同じ味がすると思うな。そこを味付けで料理ごとに調整してるのって、ある意味すげえなって思うよ。姉ちゃん飯屋とかいけるんじゃない?」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ。」
「マジに美味いって。いつも食べているから気がつかないんだよ。父ちゃん母ちゃんに言われなかった?」
「うーん、時間的に自分で作って食べて終わりだったかな。一緒にご飯食べるのってあんまりなかったかも。教えてくれた母親が試食して感想くれたくらいかな。しょっぱいとかもうちょっと焼いてとか。味の調整は試行錯誤だったよ。」
「何か、味気ないな。そういや、さっきから気になっていたんだけどさ、その壁、何処かで見たことないか?」
太郎がツキの後ろの壁を指した。そこには一部、はっきりとした長方形が見て取れる。大きさは長辺が一メートルはあった。まるで、少し前まで何かを飾ってあったかのような、壁の劣化の違いによる、時間の流れの差を表している。
「これって、家の客間の?」
「そうだよ。ここに絵が飾ってあったんじゃないかな?」
「何の絵だろう?」
しばらく眺めている間、ふたりは自然と心臓の鼓動が高鳴っているのを感じた。
「よくお気づきですね。」
いつの間にか太郎の斜め後ろに店員が立っていた。
「うわあ!びっくりした!」
「驚かせてしまいましたね。失礼しました。」
店員の暗い影を落とした眼窩から、顔はすまなそうというより悲しそうに見えた。
「何の用だよ?」
「太郎!」
「お水のおかわりはいかがかと思いまして。おふたりとも私に気づかないくらい注目されていたので、いつ声をかけてよいかと迷っていました。」
「すいません、気づかなくて。私は貰います。太郎は?」
「あ、ああ。俺も。」
「はい、ありがとうございます。」
流れるような動作で水を注ぐ店員を見ながら、太郎はツキに目で合図する。ツキが意図を汲んで話しかけようとした矢先、店員から話しかけてきた。
「ここに絵画が飾られていたと、よくおわかりですね。」
「はい、家にも以前飾ってあって、その絵を取り外したらここみたく壁の色が変わっていたんです。だから同じかなって思いました。」
「そうなんですね。仰るとおり、ここには一年ほど前に飾ってありました。」
「やっぱりな。でも壁の色が変わるくらい置いてあったのに何で外しちゃったの?」
「飾ってあったのは半年だけでした。」
「えっ、それでこんなにも壁の色って変わるものなんですか?」
店員は壁を凝視したまま口を開かなかった。ふたりとも、太郎も茶々を入れることもせずに話が続くのを待っている。
「あの絵画は命を吸い取ってしまうんです。建物自体だけでなく街さえも。だからここだけ絵画の裏なので見つからず免れていたんでしょうね。」
「なんだよそれ?」
「おふたりはどちらからおいでになられましたでしょうか?」
「え?山のちょうど反対側から電車で来ました。」
「そうなんですね。では、途中、駅前や街はご覧になられましたかと存じます。」
「ああ、ゴーストタウンみたいだったよ。」
「こら!失礼でしょ!」
「いえ、平気ですよ。本当のことなんですから。」
「すいません。でも前はこんなんじゃなかったんですよね?私、小さいころに母と来ているんですが、ここまで寂しい記憶はありませんでした。だからといって、昔の街がどうだったかまでは思い出せないんですけど。」
「ほう、この街に何かご縁があるのですか?」
「母の実家があるんです。今日はそこへ行くのが目的です。」
「そうなんですね。お母様はもうお先に?もしかして今日はご姉弟だけですか?」
「いえ、母は少し前に亡くなっています。今日はその遺品で確認したいものがあるのでやってきました。」
店員は慌てて頭を下げた。
「なんと。たいへん申し訳ございません、余計な詮索をしてしまって。」
「いいえ、それが現実ですからお気になさらずに。それより、まさかとは思いますが、ここにあったのはもしかして・・・。」
「こちらに飾ってあった絵画は柊静様の作品になります。この辺りでは少々有名人ですが、ご存知でしょうか?」
「やっぱりそうなんだ。ここにもあったんだ。」
「まさか、柊様のお子様で?」
「はい。実家へ絵がまだ残っているか探しに行くところでした。」
「なんと・・・。」
店員の顔が青ざめ、瘦せこけた顔がさらに歳を重ねた様相となっていった。
「さっきの話し、何で母の絵が命を吸い取ってしまうんですか?街がこうなったのも何か関係あるのでしょうか?」
「これも何かの縁ですね。少々そちらの席にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「はい、是非教えてください。」
「ありがとうございます。では、お食事が済みましたら、改めてお伺いいたします。」
店員は先ほどまでとは違う方向へと向かって歩いて、いつの間にか視界から消えてしまった。気配はしなくても、革靴の踵が鳴らす小さな足音が彼の後をついていくのが聞こえる。
「急に見えなくなるなんて、お化けみたいだな。でも、まさか姉ちゃんの探し物がここにあったなんてな。来るべくして来たみたいだよな。それにしても、この街といい、絵のことといい、なんか気味悪いな。」
「うん、ちょっと怖いかも。普通じゃないって覚悟していたけど。」
「何にしろ、あのおっさんに聞けばわかるんじゃないか?早く全部食べちまおうぜ。」
「そうだね。考えてもわからないしね。あ、おっさんはやめなさい、失礼よ。」
「ふぁい、ちゃんと店員さんて呼ぶよ。いや、感じからして店長か?」
太郎は急いで野菜の残りを頬張りながら返事をした。最後のスープは、口にするときには大分温くなっていた。
「冷めても美味しいね。」
「ああ、これで腹いっぱいだよ。」
「お店も温かくてこの落ち着いた雰囲気、眠くなっちゃいそうだね。」
「お待たせしました。」
「うわぁ、急に現れるなよ!」
「すいません、仕事柄、お客様のお邪魔をしないよう静かに行動するのが染みついてしまいまして。まずは食器を片づけますので、そのままお待ちください。」
店員は再び音もなく消えていった。
「私もあの店員さん、今回はお化けかと思っちゃった。」
「だろ?足音もしないし、気配もしないんだよ。」
「それだけ影に徹するプロなんだね。」
辺りを見回したが、見渡す限りツキたちふたり以外にまだ誰も見当たらない。やがて、遠くで影が動いたかと思い、その影、店員がコップを三つトレーに乗せて小さな足音とともに近づいてきた。
「失礼いたします。弟様には温かいレモネードをお持ちしましたが、お姉様はコーヒーで大丈夫でしたでしょうか?ご同席させていただきます、サービスです。」
コップの脇には小さなミルクのカップと、スティックの砂糖がワンセット置かれている。
「はい、ありがとうございます。コーヒーは好きなので大丈夫です。ブラックでお願いします。」
「どうも。俺はレモネードでOKだよ。店員さん、あ、いや店長さんもコーヒー?お店はいいの?」
「はい。私もコーヒーが大好きです。あ、自己紹介が後になり申し訳ありません。私はおっしゃるとおり、店長を務めさせていただいております。お気遣いありがとうございます。この時間はお客様が少ないので問題ありません。それでは少々お邪魔させていただこうかと思います。」
何か言いたそうな太郎は、自分を凝視するツキの視線を感じて出かけた言葉を飲み込んだ。三人とも無言で飲み物を堪能している間、店の中をクラシックが静かに流れていく。対話を再スタートさせたのはツキだった。
「教えていただけますか?絵や母について知っていることを。」
「かしこまりました。」
店長は静かにコップを置いて始めた。
「ちょうど三年くらい前の冬でしたでしょうか。柊様が戻られたのは。当時はちょっとした有名人でした。街から著名人が出たといった感じです。お戻りの理由は誰からも聞いてはいませんでした。すぐに街を出られてしまったのですから。しかし、それほど遠くなく、お亡くなりになったことを知ったとき、ご本人様はそれを悟ってお家を整理されたのではと誰もが思いました。」
「死期を悟っていた?」
「あくまでも推測です。」
「私、両親の絵についてはまったく知らないんです。最近、母を知っている人に聞いたのですが、店長さんが見たのはどんなものだったのでしょうか?」
「そうですね、旦那様は心情世界というか、風景一つ描いてもそこにあるものとは完全に別物、見た人間が感じている、本人の内側から滲み出たものがそこに反映されているかのような強烈なものがあったかと思えば、絵によっては現実の風景そのものを絵画の中に閉じ込めたような、まるで小さな現実的な世界を展開していました。静物も抽象的なフレームで表現されたりと、その時々の感情をそのまま映し出したような、変化に富んだ作品が多かったです。写真と見間違うかのようなリアルで繊細な絵もお得意とされ、それも心情世界と表現しても差し支えないものでした。」
「何だかよくわかんないけど、すげえってことは想像できたよ。」
「見た一人一人が違う受け取り方をする、その本人だけに向けて描いたような絵画だったと思います。」
「やっぱり、わかんね。母ちゃんのは?」
「対照的でした。メインは風景画ですが、淡い優しさを感じるものが多いと記憶しています。旦那様の作品と並ぶと不思議とバランスが取れている、光と闇、男と女、天と地といった森羅万象の対があったようです。」
「そんな静かな絵が何で・・・。」
「こちらに飾ったのはお亡くなりになった半年前になります。その当時、絵画は大量に出回っており、まるで、あるだけすべてばらまいているかのようでした。私も例にもれずに非常に魅力を感じていましたので、何が何でも手に入れて飾りたいと思い、躍起になって探してようやく手に入れたのを覚えております。うちの店に飾ったらどんなに素敵だろうと想像していたものでした。いや、実際飾ってみると想像以上でした。」
「どんな内容のものを飾ったのですか?」
「草原です。空は曇っていましたが、その隙間から光が何本も差し込む、そう、エンジェルロードというものです。まるで神話に出てくる天高原を想像させました。」
「何それ?エンジェル何とかとアマなんたらって。」
「エンジェルロードは雲の隙間から光が射して、それが一本の道になって見えることだよ。まるで地上から空へ道が繋がっているみたいな感じ。よく、漫画やゲームでそういった表現があるよ。それと天高原は大昔、空に住む神様がいる世界のこと。天界でいいのかな?」
「よくご存じで。それでしたらイメージもつきやすいかもしれませんね。」
「はい、大体想像つきました。」
「俺も何となく。」
「飾ってからは見にいらっしゃるお客様も増え、私も最初は満足していました。そんなあるときです。一人のご老人がその絵画にお願いをしに何度もお見えになりました。お孫さんが病気のようでして、何とか治らないかと。先ほどもお伝えしたように神々しい光景ということもあり、思わずお願いをしたくなったとおっしゃっていたのを覚えています。元々、毎週いらっしゃる常連の方で、時々お話をすることもありましたので、身の上話もすることもありました。そして、お祈りをされるうちに願いが叶ったと仰っておりました。その噂は瞬く間に広がり、いつしか願いが叶う絵画と呼ばれるようになりました。」
「実は偶然のタイミングかもな。それでも噂になるには十分だよな。」
「はい。しかし、その裏では恐ろしい偶然が重なることになっていたのです。」
「偶然、ですか?」
「その後、ご老人がお見えにならなくなったので気になっていましたところ、ご遺族の方がお見えになり、お孫さんと入れ替わるように亡くなっていたことを教えてくれました。ご遺族の方はご老人が話していた、願いを叶えてくれた絵画を一目見ようといらっしゃったようでした。お年からもあり得ない話ではないので、当時は誰も違和感はなかったようです。そのような中、他に願い事をされた方々は次々と身に不幸が起きていたようでした。しかし、一方的なものではなく、不幸の直前には何らかの形で願いが叶ったとお聞きしています。そんな話が出てなお、願いをしに来る方は減るどころか増える一方でした。」
「姉ちゃん、それって。」
「ええ、同じね。」
「まさか、何か思い当たることでも・・・?」
「はい、うまくお伝えはできませんが、私たちの目的と関係があるみたいです。その絵、絵画はどうなったのでしょうか?」
「いつの間にか無くなっていました。おそらく夜のうちに誰かに盗まれたと思います。ところが、警察の調べでは外部から不審者が入った形跡もなく、逆に中から外へ出た証拠も見つからなかったようです。内部の人間の可能性としても知ったメンバーでしたし、みんなアリバイもありました。仮に誰かが盗んだとすると、おそらくお金か願いを叶えるためかと存じます。お金目的はともかく願いとなると、例の噂から、何らかの不幸が代償になると思いましたが、誰もそんな形跡はありませんでした。それからはあまりに気味が悪く、それ以上追いかけることはやめました。」
「足でも生えて出ていった、あ、中からも出ていかないんだったら消えたとか?」
「気味悪いね。願い叶えたら消えちゃうのかな?」
「かも知れませんね。柊様がお亡くなりになったタイミングとも合いますし、何か因果めいたものを感じます。しかし、それだけでは終わりませんでした。絵画が消えてから街は生気を吸い取られたように衰退していきました。関わった人たちは元より、そのご本人の関係者へもよからぬことが続いて、街中に不幸が連鎖したのです。また、元々観光名所もほとんどない街ですので、地元の方々で成り立っているような街でしたが、どういう訳か元から住んでいた人が外に出て戻ってこなくなり、外から人は来なくなりました。お店も次々と閉めていき、会社も倒産や街の外へと移り、やがて、駅前含め、ほとんどのお店が機能しなくなりました。お店や会社がなくなると生活もままならず、人が減っていったのです。」
「だから駅前もあんなで、人も歩いていないんだな。」
「こういうと失礼ですが、こちらのお店は大丈夫なんですか?」
ツキは申し訳なさそうに質問した。
「いえ、そんなによくはありません。客足が途絶え、売り上げも厳しいです。従業員も減ってしまいました。」
「だから、店長さん一人でホールも調理もやってるんだな。」
「太郎、それはないでしょ。」
「ははっ、さすがに私一人で全部は無理ですよ。調理はこんな閑古鳥ですから一人で十分まわせます。今は二人で細々とやっていますよ。その者も私と一緒にこのお店を立ち上げたメンバーということもあって残ってくれました。」
(この人、笑うんだ)
ふたりとも意見が通じ合ったのか、同時に顔を見合わせた。
「なんか、寂しいですね。何とか元に戻ればいいですね。」
「それよりさ、何で厳しいのに店やってんの?」
「それが私の義務だからです。絵画がこの状況を引き起こした原因とするなら、それを持ってきた私はここを離れるわけにはいかないのです。」
「絵のせいだとしても、あなたに責任はないと思います。」
「いえ、今なお正気を保っていられるのが私だけですし、そう思うことは度々起こるのです。私がここを離れたら、絵画の力は自由になって、今以上に周りに恐ろしいことが起こる気がします。それ以前に、ここを捨てて出ることなんて思ってもいませんけどね。」
「私以外に正気って・・・。」
ふたりは店の奥、厨房と思われる方向へ恐る恐る視線を移した。もう一人の従業員がどのような面持ちで料理をしているかを想像すると、不吉な絵面しか思い浮かんでこなかった。
「ご心配なさらず。料理もちゃんとしたものですから。彼は料理に取り憑かれたようで、普段は何も考えていない抜け殻みたいですが、オーダーが入ると目に輝きが戻り、一心不乱に料理を作るのです。」
「はい。とっても美味しい料理ですもの、おかしいわけがないですよ。」
「ああ、ホント美味いし、変な奴には絶対作れない味だよ。」
「本当にありがとうございます。」
店長は手の甲で目尻を拭った。
「この店にまだあるなら、姉ちゃん、探してみようか?」
「うん、店長さん、思い当たるところはありませんか?」
「私も隅々まで探したのですが見当たりませんでした。でも、詮索はお止めください。絵画が怒って恐ろしいことになります。」
「何だよそれ?あるのかないのかはっきりしないのに探すと怒るって意味不明。」
「おそらくですが、人に見られたくないから姿を消したんでしょう。」
「なら、見えないだけでまだこの辺りにあるんじゃないのか?」
太郎は壁際まで歩き、色が新しい部分をノックするように叩いた。
「太郎、やめておいたほうがいいんじゃない?何か嫌な感じがするよ。」
「何だよ、姉ちゃんまで。そう言われるとこっちまで気味悪くなってくるよ。わかったって。見つからないもの探すより、そろそろ実家行ってみようか。」
太郎は意識せず、去り際に再度壁を後ろ手で少し強くノックした。その瞬間、店全体が揺れ始めた。振動は徐々に大きくなり、三人は立っているのがやっとだった。それぞれ壁や店内の建付けの仕切りに掴まって体制を保っている。
入店時に感じた視線が強くなる。明らかに店長のものではなく、まるで縄張りに入った人間に対する敵意のような、強い攻撃性がふたりに突き刺さる。
「太郎、外!」
「まだ夕方前だったよな?なんで?」
ガラス窓の外は漆黒の闇と化している。その窓ガラスに無数の手の平の跡が現れた。ツキは思わず悲鳴を漏らす。四方だけではなく天井、床の下からも何人もの男女のような呻き声が聞こえる。やがてその声は近くなり、まるで、店を取り囲んでいるかのようだった。
「どうするんだよ?ずっとこのまま収まるまで待たなきゃならないのかよ?」
「店を出ないと危ない感じだよね!何とか入口まで行こう。」
「駄目です!あの扉もすでに彼女の支配下です!」
「彼女って?」
「絵画です。人格があるのです。さっきまで否定的なことを言われ続けて、最後、弟様に小突かれて怒ったのでしょう。」
「やっぱりここにあるじゃんか!どうすればいいんだよ。」
「以前はそろそろ収まりましたが、今回は何かが違います。」
「姉ちゃんがいるから?」
「かも知れません。柊様の血縁者に反応している可能性は考えられます。」
「姉ちゃんをどうするってんだよ!こうなったらやるしかないじゃんか。」
太郎は近くにある椅子を持って、入口横の窓へと何度も転びそうになりながら近寄っていった。
「お止めください!無駄ですし、彼女を余計怒らせます!」
「他に方法有るなら教えてくれよ!」
太郎は椅子を窓へと向けて思い切り投げつけた。しかし、椅子は壁に当たったかのように窓にはじき返され、床へと転げ落ちた。揺れが一層激しくなり、三人は立っていることが難しくなった。
「太郎!こっちへ!」
床を四つん這いになりながらも、太郎は店の中心へと這って向かった。突然、太郎の足元の床が店を二分するかの如く大きく裂けて太郎を飲み込んでしまった。間一髪、太郎は裂け目の端に捕まることで落下は免れたが、太郎が掴まった崖はツキとは対岸となった。裂け目は広がり、ツキたちの街で跳び越えた川の倍以上の底の見えない裂け目が暗闇を展開した。
太郎は必死によじ登ろうともがき、片足を床にかけて何とか登れそうに思えた。すると、急に揺れが収まったかと思えば、太郎の前の木の床がせり上がり、やがてマネキンのような人型へと形を変えた。素材の木材を反映しているのか、年季が入った黒ずんだ身体に、関節も人間のものとほぼ相違なく取り揃え、球体関節の精巧な嚙み合わせによって可動域を確保している。手には指もしっかりと生えており、意思があれば一本一本を思いどおりに動かせそうだった。全体的に細身で、マネキンというよりも美術や漫画で参考に使うデッサン人形にも見える。
「あれは何なの?」
「さあ、何でしょうか。しかし、弟様を助けるようには思えませんが・・・。」
その木製の人形は、緩慢な動きで太郎に近づいて足を振り上げ、先ほどのスローな動きとはうって変わり勢いよく縁に掛かる手を踏みつけた。
「太郎!」
ツキの叫びとは対照に、太郎は声にならない悲鳴を上げたが、床に掛けた足に力を籠めて体制を維持する。足が落ちたらその衝撃で手を放してしまうのがわかっていた。
人形は繰り返し太郎の手を踏み続けるが太郎は耐える。手の平から血が滲んできたが手を離さない。このままでは埒が明かないと思ったのか、太郎の掛けてある足のほうへとゆっくりと移動を始めた。
人形が足をゆっくりと上げて振り下ろそうとした、そのとき、大弓の矢のような勢いでツキが裂け目を跳び越えて体当たりをかました。人形は勢いよく吹き飛ぶと窓にぶつかり、関節の節々が外れたかのようにバラバラに散乱した。
ツキは直ぐに体制を立て直し、太郎に駆け寄ってその手を引き上げた。
「助かったよ、姉ちゃ・・・。」
太郎はツキにきつく抱きしめられ、言葉を詰まらせた。
「ホントにバカなことして。でも、よかった。」
「苦しい・・・。」
太郎の顔は紅潮し虚ろな目をしていた。
「ゴメン!大丈夫?」
「姉ちゃんに殺されるところだったよ。」
その後ろで、カタカタと分解された人形のパーツが再び動き出し、一ヶ所に集まりだした。
「マジかよ?気味悪いな!復活する気か?」
即座にツキは人形へと駆け寄り、手足を蹴り飛ばして次々と裂け目へと落とした。
「姉ちゃん、強えぇ。もしかして怒ってるんか?」
太郎も走り寄り、残った胴体をふたりで持ち上げた。
「せーの!」
もぞもぞと不気味に蠢く胴体を、ふたりは息を合わせて裂け目へと投げ入れた。
「ざまあみろ。マネキン野郎。痛てっ!」
太郎の足に激痛が走る。足には何処に隠れていたのか、人形の頭部が大口を開けて噛みついていた。その口には牙のような歯がびっしり並び、ジーンズの上からでも先端が生地をかき分けて肌へと届いている。
「この野郎!離しやがれ。」
口をこじ開けようとしても、噛む力は少しも緩まない。
「太郎!手を放して!」
太郎が手を離した瞬間、ハンマーを打ち下ろすようにツキの足が勢いよく振り下ろされて、人形の頭部をまるでスイカのように粉砕した。太郎には、その足が一瞬青白く光ったかに見えた。
「太郎を踏んだお返し。」
さっきまで怯えていたツキとは別人のようで、太郎はツキを怒らせると怖いと初めて感じたと同時に、いざというとき、爆発的に力を発揮するツキに頼もしさと、ある種の憧れを抱いた。今後は変な歌は歌わないほうが賢明だと思ったが、そのうち同じことを繰り返して怒らせることに自覚があるのは自分でもおかしかった。
一息入れる間もなく、周りの床が次々とせり上がり人形が何体も形作られた。
「姉ちゃん!横に避けて!」
ツキは太郎の言葉以外何も考えず直感的に左横へと身を躱したところへ、太郎が勢いよく正拳を突き出した。ツキを後ろから音もなく捕えようとしていた人形が、自身の後方の壁へと叩きつけられて粉砕された。本当は実際に殴りつけるつもりだったが、手が届く前に人形は吹き飛んだ。太郎にとってはとっさの行動だったが、今のアクションで何かを掴んだ気がした。間髪入れず、太郎の横から手を伸ばしてきた人形も一撃で吹き飛ばし、二体、三体と次々と散らした。
「これか?」
太郎は今まで使っていた力を初めて目の当たりにした気がした。一度実体を掴めばイメージはつき易い。相手を突き飛ばそうという気持ちに合わせて拳を突き出す。実践練習のつもりで一掃したが、それでも人形たちは立ち上がり、事態はまったく変わらない。
「みなさん、こちらへ急いでください!早く!」
一部始終を見ていた店長が裂け目の反対から叫んだ。一般人であれば超えるのは不可能な距離を跳んだツキであれば、戻ってくることも造作もないとの判断だった。店長が状況を飲み込み受け入れられたのは、今まで願いを叶えてきた者たちにも何らかの人外的なことが起り、加えて絵画の怒りを見てきたからでもあった。
ツキは太郎の手を取って人形の間をすり抜けて走り、崖の淵へと駆け寄った。幸い人形の動きは遅く捕まることもなかったが、数の多さではいつまでも避けるには限界がある。
ツキは崖の少し手前に立つと裂け目へと向かって小さくジャンプした。太郎は何も言わずにツキに従った。裂け目へと飲み込まれていく間際、ツキは崖の側面を思い切り蹴った。ふたりの身体は対岸へ向けて、水平に対して鋭角に勢いよく飛び出した。
「痛ってぇ!」
角度が完全な水平に近かったこともあり、太郎は崖の角で腹を打って身体を180度回転しながら小さな弧を描いて着地し、そのまま息が整うまで天を仰いでいた。
ツキも水切りのように床を数回バウンドしながら、テーブルを幾つも倒してやっと止まった。
「痛たた、太郎、大丈夫?角度悪かったかな。最初は上手くいったのに。」
「これって行き当たりばったりかよ。また崖から落ちるとこだったぞ。よくやるよな。」
「ゴメンゴメン。緊急だから調整つかなくて、普通に跳んで、変な角度ついて天井当たったら危ないからこうするしかなかったよ。」
「・・・。まあ、そうだけどさ。て、派手にやった割には姉ちゃん無傷で丈夫だな。」
「昔からドッジボールは最後まで残るタイプだからね。無傷だよ。」
「ああ。それね。大人しかったり、普段目立たない奴に限って激しい応酬の中でもよく残るよな。ん?関係あるか?あれ?俺ってどっちなんだろ?」
環境に少し慣れたせいか、いつものふたりに戻っていた。気づくと呻き声は聞こえなくなり、振動も止んで沈黙が流れている。対岸の人形たちは手が届かないことを理解したのか、次々と元の木の床へと戻っていった。
「本当に無茶をする人たちですね。」
「そうでもしないといけない状況でしたよ。」
「最近こんなんばっかだから慣れちゃったかもな。」
「あなたたちも願ってその力を得たのですか?」
「いえ、そんなことはありません。でも、間接的に関わったようで、思ってもみなかった力を得ていたみたいです。」
「ということは、そこまでしてあなたたちがご実家へ行かれる目的はやはり柊様の遺品、絵画をどうかしたいとかでしょうか?」
「はい、でも、本当はまだどうすればいいのかわからないのです。両親の遺したものが私に必要なものとは知っているのですが・・・。申し訳ありませんが、答えにならないかと思います。」
「おそらく、あなたたちの目的と私の目的は一致しないかもしれません。しかし、柊様の娘様、あなたが目的を達すれば私たちの呪いのような夢も終わるような気がしてきました。」
「ツキ、私の名前です。この子は太郎です。どうしてそう思うのでしょうか?」
「あなたたちは絵画を探しているようですが、自分たちのために利用すると思えないからです。それがこの夢を終わらせるように感じるのです。」
「そうなんですか?私たちは自分のことで精いっぱいです。もし、ふたりとも目的を達しても、結果がこの街の皆様の求めているものでなかった場合はどうしようもありません。」
「なあ、他力本願より、自分で何とかしようって気はないのかよ?」
ツキは太郎を諫めなかった。
「可能であればそうしたいのですが、無理なのです。それに、もし私たちがこのままでも、それはそれで受け入れていますので、あなた様方の責任ではありません。」
「皆さんの悪夢を終わらせる方法とは、若しかして絵を処分することでしょうか?」
「・・・。可能性の一つです。しかし、解決しても起こってしまったことはどうすることもできません。後戻りはできないのです。しかし、これからは変えられます。やり直せるようになるかも知れません。」
「かもかもって可能性の話しばかりじゃんか。見えないものに首根っこ掴まれて、身動き取れないってことかよ?」
「おっしゃるとおりです。解決策は誰にもわかりません。ですから、その可能性に賭けるしかないのですが、現に絵画が見つからない現状に加えて、彼女の癇に障る行為で怒らせてしまうと先程みたく・・・。」
店長の言葉を遮るかのように、再び建物自体が大きく揺れ始め、今度は女性が怒っているような声が裂け目の奥から聞こえてきた。声に乗って大気が震え、とてつもなく恐ろしい気配が近づくのを肌で感じ取れるまでになり、三人は体中の毛穴から冷汗が流れ悪寒を感じた。
「彼女が怒っている!このままでは危険です!」
店長の悲鳴にも似た叫び声に呼応して、床の裂け目から大きな女性のような腕が肘まで現れ、三人を叩き潰そうと圧し掛かってきた。それぞれ後ろへ飛び退いて躱したが、再び振り被って制止した。それは、三方へ散った誰を圧し潰そうか考えている様子だった。
その腕の巨大さから、顔や身体はまだ穴の中にあるはずが、若しかして、本当に腕だけの存在かと思われた。
「急いでこちらへ!」
店長は奥の厨房入口を指し示した。
「さあ、急いで!」
厨房はホールに比べると小さいのは当たり前だが、それでも四つあればホールに匹敵するのではと思うほどの広さはあった。そう考えると、この建物が二階もあることを考えれば全盛期は何人もの調理人たちが働き、相当な客入りがあったことが想像される。
厨房内には入り口から奥にかけて中央に二台の細長い調理台が左右に並んでいる。部屋の広さに対しては二台しかないのは少ないが、今の従業員数からすれば打倒だろう。その少なさが余計に室内の広さを際立たせている。
右の調理台と壁の間の椅子に、店長にも勝るとも劣らず痩せこけた顔の中年男性が座っているのが見える。服装からすぐにコックだとわかった。腕を組んで下を向いているが、寝てはいないようで、一瞬顔を上げて三人を一瞥したが、興味もないように再び下を向いて目を閉じてしまった。店長と違うのは、痩せてはいたが、その上半身は細身の筋肉で締まっているのが、首筋と袖から覗く腕の肉付きから見て取れる。これで調理器具を触らなければ、店長と同じように骨と皮だけになっていたであろう。
「・・・。失礼します・・・。」
ツキは恐る恐る声をかけたが、コックは何も反応しなかった。
「彼は普段こんな感じなんです。しかし、料理を始めると生き生きとするのです。」
「そうなんですね。ハンバーグ、とっても美味しかったです。」
ツキは遠慮がちに再び声をかけた。
「ああ、ホントまた食べにきたいくらいだったよ。家からこんな遠くまででもさ。」
太郎も少し声のトーンを落として話しかける。コックは微塵も動かないが、一瞬笑ったように見えたのは錯覚だろうか。
その後ろで扉や壁を叩く音が何度か聞こえたが壊せないようだった。諦めたかのように建物の揺れは収まり、同時に呻き声も止んだ。
「彼女、やっぱり自分で身体を壊すのは嫌みたいですね。」
「身体って?この建物自体壊せないのですか?」
「私が思うに、絵画は無くなったのではなく、この建物に同化したんじゃないかと思います。そうでもしないと何処へ行ったか探しても見つからない説明がつきません。飛び過ぎた想像かもしれませんが、先ほどの床みたく自らの意思で形を変えられると思います。」
「なるほど。ちょっとSFやファンタジーみたいですけど、そう考えるのもアリですね。それじゃあ、壁なんて・・・」
ツキの悪い予感を体現するかのように再び建物が揺れ始め、壁が両開きの自動ドアのように中央から左右に開いた。取り残されて棒立ちの扉が、一同の視線が集中していることに気づいた途端に床に倒れた。
いつの間にか、厨房のすぐ目の前まで裂け目は移動していたが巨大な腕は見当たらず、地の底から押し上げるような揺れが迫ってきた。
隣で椅子に座っていたコックは、いつの間にか腕を組んだまま姿勢を正して座っており、開いた壁を眺めていたが、すぐに下を向いて眠ったように静かになった。
女性のような呻き声と、地の底からの不吉な気配が一層強くなる。
「やべえ!これじゃあ逃げ場がない!早く何とかしないとまた危ないもんが出てきそうじゃんかよ!」
「奥のその小さな扉を蹴破ってください!きっと、外に出られるはずです!」
調理場の突き当り奥には、冷倉庫とシンクの間に人間一人が立てるだけのスペースがあり、その下に木の扉のようなものがある。丁度、大人が屈んだくらいの大きさの扉は、扉というより木の板を打ち付けてあるだけだった。四隅を何本もの釘で厳重に固定されて、封印されたように長い年月開けられた形跡が見当たらない。まるで建物と一緒に作られたような年季の入り方は、使用目的が何も感じられず、本来であれは冷蔵庫や棚か何かで覆い隠してしまいそうだが、敢えて人目につくようにしているのは何か重要性を含む意味を漂わせている。
「ホントに大丈夫かよ?さっきみたいのは勘弁だぜ?」
「おそらく、そこしか外に出られません。」
「おそらくって?」
後方、すぐ後ろまで何かが迫ってきたかと思うくらいに声が大きくなってきた。振り返ると、床の裂け目から黒い霧のようなものが立ち上っている。思わず見入っていると黒い塊、前回より巨大となった女性の腕が地の底から天井へ向かって勢いよく伸び上がった。
「行ってみよう!太郎!」
「それしかないな。」
三人は小さな扉へと駆け寄って走った。
「姉ちゃん!」
「了解!」
走り込んだ勢いで、ツキは思い切り扉を蹴飛ばした。扉はあっけなく割れて、そこから暗い穴が現れた。太郎が覗き込むと通路が左に向かって壁の間を通っているようだった。
「入ったら道なりにまっすぐ進んでください。突き当りで右に少し曲がっていますので、その先の行き止まりにも板があるのでそちらも壊せば外です。」
「扉じゃなくて板って言っちゃったよ。」
「何でもいいでしょ。店長さんもコックさんも早く!」
「私たちは行けません。早くふたりで行ってください。」
「何してんだよ!あの黒いのに捕まっちまうよ!来いよ。」
太郎が店長を後ろから穴の中へ押し込もうとするが、店長の身体は見えない壁があるかのように穴の前から進まない。
「ははっ、痛いですよ、お手柔らかに。」
「店長さん、もしかして・・・。」
「はい、お願いしてしまいました。このお店とずっと一緒にいられますようにと。ここが私たちの唯一の居場所なのです。多くの人たちに美味しい料理を食べてもらうことの引き換えに、そう、いつかは世界中に私たちの料理を届ける夢を失う替わりに居場所を手に入れました。そのときに彼女に会いました。」
「マジかよ・・・。何で・・・。」
「それだけこのお店が大切だったのです。彼と一緒に子ども時代からお店を出して、多くの人に美味しいと思える料理を届ける毎日を過ごすのが夢だったんです。彼も巻き込んでしまったのが私の罪。夢は叶ってもやがて覚めてしまいます。そうなるのが怖かったんです。」
「そんな、夢が叶ってまた夢を願うなんて、終わりがないじゃないですか。」
「そうですね、夢は終わらない、いつまでも続くものなんですね。」
「でも、ここは現実です。いつまでもなんて願って縋って、その先に何があるんですか?」
「さあ、何があるのか、ずっと続くだけで先が見えません。でもいつか、それで彼が解放されるのであれば、私も彼も救われます。」
三人の背後から強烈な冷気が流れてくる。穴から伸びた手が厨房へと入り込んでこちらへ迫る。
騒音に気がついたのか、先ほどまで寝ていたと思われていたコックが起き上がり、調理台を勢いよく押し出して黒い腕をもう一台の調理台との間に挟み込んだ。そのまま調理台は押されて対面の壁で止まり、黒い腕を足止めしている。
「おっさん!」
「急いで!ここは私たちがこのお店が完成する前に作った通路です。夢が叶う前の道です。絶対誰にも塞がれたりはしません。」
「でも!このままでは二人が危ないです!」
「大丈夫。私たちはお店と一緒、それが契約です。だから、心配しないでください。」
「姉ちゃん!行こう!おっさんたちの死を無駄にするなよ!」
「はっはっは、ですから死にはしませんって。だからこそ行ってください。」
「ありがとうございます。全部終わったら、また太郎とご飯、食べにきます。」
「はい、是非いらしてください。ツキ様、太郎様。」
「店長さん、コックのおっさんは巻き込まれたなんて思っちゃいないだろうよ!」
店長の窪んだ眼窩に収まる眼が見開かれると、少し生気を取り戻したように見える。
「そうですよ。こんな美味しい料理作れるんですもの!」
ふたりの騒音に負けずと張った声に、生気が宿った目尻より涙が流れる。
ツキは太郎に手を引かれて穴の中へと入っていった。中はいきなり突き当り、左折することで先へ進めた。洞窟のように真っ暗で湿っており、足場も少しぬかるんでいる。ツキがスマホのライトを点けてやっと少し手前が見える。入口付近は大人一人分の道幅はあるものの、天井の高さは屈まないと進めない狭さが本当に外に続いているかと不安を煽る。それでも、少し進むと屈まず立てるまでの空間の余裕が出たところで少し安心した。
激しい揺れに暗闇の中は立つのもやっとで、壁に手をついてバランスを取りながら進む。壁には泥のようなものが付着しており、建物が揺れるたびにカビや埃などが舞い散り衛生的とは思えなかった。
店長の言うとおり突き当たって右手の先を見ると、その先に外からの光が差し込む細い隙間が何本か見える。ふたりが出口を確信すると、後ろの道の奥でひときわ大きな、何かが崩れるような音がして、厨房から漏れる光が消えた。同時に、今までの揺れが嘘のように静かになり、沈黙と暗闇が後ろからふたりにまとわりついた。
ふたりは目の前のわずかな光を頼りに進む。
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