第2話 ふたりぐらし
「昨日はどうだった?」
奥の調理場からオーナーが顔を出して問いかけてきた。口元にはチョコレートがついている。
「あ、楽しかったですよ。」
聞かれたことは友人の来店のことであろうが、太郎についてはどう話して良いかわからず、思わず口籠った。今話せる内容としてアカネ、アユミとタカヒロのことを話すと、オーナーの顔が明るくなった。
「いいじゃない。ちょっとずつ、ツキちゃんが人並みになってきた感じじゃない。」
「人並みって、そんな陰キャでした?」
「陰キャっていうか人を避けているって感じ。まあ、あんなことがあったからかもしれないけど。それでも、頑張っているのは知っているわよ。私じゃ何もできなかったわね。やっぱり友達は大きいわね。」
「何もできないなんて、すごく感謝しています。働くことで、完全に殻に閉じ籠らなくて済んだって思いますし、常連さんにもよくしてもらって、人との交流が持てたっていうか。その場を作ってくれたの、オーナーですよ。」
「泣けること言うじゃない。私も一人きりでお店やってきて行き詰っていたところに、一生懸命働くツキちゃん見て刺激にもなったわ。それに親心っていうか。」
「ふふ、お母さんですね。」
「よくわかっているじゃない。」
他愛のない会話の中、ずっと太郎のことが気になっていた。果たしてこれで良かったのか?失われた記憶を取り戻す助けになる自信はなかったが、あのまま警察へ引き渡せば後悔するのも自覚していた。お節介かもしれない、何ができるかわからないが、やれることはやらなくてはならない、関わったものの義務を感じている。
両親が亡くなったとき、理由もわからず置いていかれたような気持ちから、今もなお、止まった時間の中で動きだせなかった自分が、友人との他愛もない会話で、これからの生活に少しの楽しさへの期待で何かが変わったのは、心の片隅で薄っすらと自覚している。そのためか、意思もなく流されていた今までの自分への反抗か、自身へ向けようともしなかった感情を、外へ向けるためのきっかけだったのかもしれない。しかし、それでも太郎が気にかかるものは、何か別のものがあるのかもしれない。言葉では言い表せない直感的な、一人、夜の街を歩く少年へ、自分自身を重ね合わせていた。
「何か考え込んでいるの?」
「あ、すいません、色々と。」
「急に色んなことがあったかもね。私でよければいつでも聞くわよ?」
「ありがとうございます。そのときは相談させてくださいね。」
「いつでもどうぞ。」
見た目のいかつさからは想像もつかない物腰の柔らかさと、嫌味のない達観した雰囲気、それでいて程よい距離感を持ったオーナーにはいつも救われていた。この人は何で私に優しくしてくれるのだろうか。母親の知り合いということは聞いていたが、葬式のときに、バイトへ誘ってくれたときに初めて会ったばかりだった。たまたま、バイトを探しているタイミングが合っただけで、他の誰かがバイトをすることになれば、同じような接し方をしただろう。それでも、オーナーが作ってくれた空間で、人との縁を感じられるようになれたのは、自分との出会いがきっかけと思いたかった。恩のあるオーナーに、太郎のことを話すべきだと思っているが、内容があまりに日常からかけ離れていたために、信じてもらえるか不安もあり、内容をどう話すか纏めるのに時間がかかりそうだった。
「オーナー、ちょっといいですか?」
「何?」
「今日から親戚の子が家にいて、私立学校のお受験と家の建て替えもあっての居候っていうか、少しの間だけですけど・・・。」
無理があるとはわかっていたが、信じてもらうために、ツキなりに考えに考えての作り話だった。
「いいじゃない、賑やかになって。」
アバウトな内容に否定しないところが、やはり何か察しているのかと思えるが、それもオーナーの優しさだと感じる。
「ツキちゃんの家なら静かで勉強にいい環境かもね。でも、昼間一人で寂しくないかしら?」
「あ、そ、そこは大丈夫だと思います。今時の子は夜遅くまで塾なんて当たり前だし、仮住まいも狭いやら近所が騒がしくて集中できないみたいで、私の家がちょうどいいのではってことですし・・・。」
「そう?今度差し入れしてあげようかと思ったんだけど?」
「あ、ありがとうございます。気持ちだけでも・・・。」
「でも、珍しいことは立て続けに起こるものね。何だか今まで止まっていた時間が動き出したみたいじゃない。」
本当にそうだとツキは思った。ただ何気なく、毎日を消費することが当然になっていたのが、昨日一日で、あまりに多くの出来事から沸き起こった感情の濁流で押し流されて、心身ともに洗い流され、別の誰かになった気分だった。
「じゃあ、今日は少し早く上がる?」
「あ、ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「もちろんよ。何なら明日、色々忙しいならお休みでも大丈夫よ?」
「えっ?そんな、申しわけないです。」
「いいのいいの。最近ツキちゃんにお店任せっきりだったからね。どっちがこのお店のオーナーかわからないもの。あ、でもね、ツキちゃん目当てのお客さんも結構いるのよ。」
「いやいや、嘘ばっかり。じゃあ尚更お店出ないと。」
「私のファンも取り戻したいの。きっとお家、昔のままでしょう?お受験までちょっとの間でも、足りない物とか沢山あるんじゃない?」
本当にこの人は何でも知っているのではと思った。
日が完全に落ちたころ、一通り客足が遠のき落ち着いた。次の波である、帰宅する社会人や学生の来店まで少しの暇が訪れる。相変わらずケーキは残りも少なくなって、このペースで完売も目に見えてきた。その様子を見て、オーナーはツキに目で合図を送った。初見の男性では悪寒が走る仕草も、ツキにはまったく気にはならない。
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・。」
「いらっしゃいのお祝いにケーキ、好きなの持って帰っていいわよ。大分少なくなっちゃったけど。」
「ありがとうございます。じゃあ、私はチョコで・・・、太郎もチョコかな?」
「太郎君っていうのね、その子。何かシンプルで素敵な名前。何気にイケメンになりそう。」
「そんな、結構大人しいっていうか、ひねくれていますよ。」
「年頃の子はそのくらいで丁度いいの。ああ、昔を思い出すわ。」
その遠い目も怖気が走る男性は多いであろうが、ツキは相変わらず気にもせず続けた。
「やっぱりシュークリームがいいかな?あ、でも最後の一個だし。基本のショートケーキかな?」
「全部二人分持っていきなさいな。残念ながらシュークリームは半分こね。あと冷蔵庫にハムと野菜が幾つか入っているから、好きなの持って帰って。」
「そんな、悪いですよ。」
「大丈夫よ。どうせ貰い物なんだし。私一人じゃ多すぎてちょうどいいわ。あ、でもお酒はダメよ。まだ早いわよ。一緒に飲めるようになるまでお預けね。」
「ありがとうございます。いつもいつも。」
「その代わり、後で色々お話を聞かせてね。」
「もちろんです。大したことないですけど。太郎が生意気でイライラするかもですよ。」
「いいのいいの。お酒のつまみに聞きたいの。」
「ここで飲む気ですか?」
「そのときはツキちゃんにお店任せて、私は一お客さんになるから大丈夫。」
「そのためのお酒なんですね。」
「思ったより早く飲めそう。なんてね。最近常連さんからお酒もいただいたの。」
オーナーはほとんどが貰い物と話すがツキはその場に居合わせたことがなく、実は本人が買ったものではないかとも考えられる。しかし、気づかないときに誰かから受け取っていたのも不思議ではなかった。どちらにしてもありがたいことであるには変わりない。
ケーキ作りの集中力や客を楽しませる話力や気遣い、店を一人で切り盛りする姿は、見てくれから想像もできないほどの別人に思われる。そんな隙のなさを知っているからこそ、普段の軽さとのギャップに安心と、親切な振る舞いや真面目に話すことに重みを感じる。
着替えを済まし、オーナーに一声かけて冷倉庫を開けると、野菜室にはレタス、大根、キュウリ、ニンジンからパプリカ、アボカド、他にもシイタケやシメジまで、夕飯に使えそうな野菜が沢山入っている。ハムもお中元やお歳暮で見かけるような大きいもので、端はナイフが入って数切れ細くカットされていた。おそらく、すぐ食べられるようにつまみ食い用だろう。使いかけのものや小さいものを探し、冷倉庫脇に纏めてある、何かで余った使えそうなビニール袋の一群の中から比較的きれいなものを見繕って中に入れた。ツキは基本、手に持てる最小限の荷物しか持たないので、食材を貰って帰るときはビニール袋を使うことをオーナーの承諾を受けていた。お気に入りの黒いレザーのショルダーに財布とスマホ、ハンカチやティッシュにリップ、それと帰り道の買い物用のエコバッグがすべてと、外で化粧直しなどまったく気にもしていなかった。
「じゃあ、少しいただきますね。」
「どうぞどうぞ。太郎君によろしくね。」
「はい。お先に失礼します。」
「お疲れ様。あ、ツキちゃん。」
「なんですか?」
「今日とても楽しそうよ。こんなに自分の出来事を話すの、初めてかもね。」
家に帰ると太郎がキッチンの床で横になって寝ていた。二階から、昨晩使った毛布と枕を寝室から持ってきて、寝袋のように包まって顔だけ出している。エアコンも消してあり、電気だけが点けてあったのが、まるで生活感を感じさせず、最初死んでいるのではと思い、恐る恐る近づくと静かに寝息を立てている。やがて物音に気がついたのか目を覚ました。
「おはよう。よく寝れた?もう夜だよ。」
「あぁ、疲れて眠くなっちゃったよ。」
「エアコンも消して、風邪ひくよ。あれっ、洗い物してくれたんだね。ありがとう。」
シンクはきれいに空っぽで、水切り用トレーに食器一式が置かれ、乾燥の具合からかなりの時間が経っていることがわかった。
太郎には、お昼用に前日の晩の残り物を食べるよう伝えておいた。それでもかなりの量を作ったつもりであったが、すべてきれいに平らげられていた。
ツキはエアコンをつけて太郎を覗き込む。太郎が思わず顔を背けた。
「具合悪い?疲れた?」
「少し。」
テーブルの上に広げて置かれた地図には、何ヶ所か目ぼしい建物が赤丸で囲まれ、それを中心に道が赤くなぞられて、幾つかのエリアに分けられていた。その中の一つ、ツキ家の近所の一角が斜線を何本か引かれていた。
「おお、何か地図らしくなってきたね。ここは探索したんだ?」
ツキは地図を持って太郎の目線に屈み、その斜線のエリアを指さした。
「うん、ちょうど家の周りから覚える感じで。特に目立つものも見当たらないし、最初だから、まあこんな感じじゃないかなって。でも、やっぱり何にも無かった。」
太郎は毛布にくるまったまま回答した。
「ううん、最初だし、そんなだと思う。そうやって、全部埋めたころには何かありそう。航海地図みたいで、何だか冒険心くすぐるね。」
「それでも、何も見つからなかったら困る。」
素っ気ない回答だが、ツキは確かにそう思った。引き留めておいて何も結果が得られなかったら、その先はどうするかなど考えられなかった。しかし、そんな不安もありながら、わくわくするような、童心に還ったような側面も今は悪くはなかった。
「あ、そうだ、オーナーにケーキ貰ったよ。」
ケーキを寝転がっている太郎の前で箱を開けて見せて、直ぐに冷倉庫へ保管した。
「美味そう。」
「でしょ。でも、ご飯食べてからのお楽しみ。」
「何だよ、じゃあ、最初に見せるなよ。」
がっかりしたような太郎をやっぱり子どもだと思うと少し安心した。ツキを避けるような仕草が、昨晩店の前から海までずっと追いかけたとき、一向に距離が縮まらない太郎の実態がないような不思議な感覚を思い出させ、いつか突然、いなくなるような不安を感じさせたが、生意気な反応が本人の存在を定着させていた。
「明日はお休みもらったから。朝からいっぱい歩くよ。だから、早く寝よう。」
ツキは食材の入ったビニール袋とエプロンを持ってキッチンへ向かった。少し考えた後、冷凍されたライスをレンジで温めながら、今日も中華鍋を取り出しカットしたニンニクを炒めて、頃合いを見て野菜を投下し炒め始めた。部屋に野菜炒めの香ばしい香りが立ち込め、太郎の腹を鳴らした。
テーブルをセッティングして、レトルトの卵あんかけスープを温めている間にハムを切り分けて盛りつけた。スープが温まり、メニューが出揃ったころには、いつの間にか太郎が席に着いていた。
「さあ、食べよう。」
エプロンをハンガーラックへ掛けてツキも席に着いた。
「いただきます。」
「いただきます。」
誰かと挨拶をして食事をすること、そんな日常を忘れていたのを思い出した。次はいつかなんて思うこともなかった。子どものころは家族がいて当たり前だったことが、いつの間にか当たり前ではなくなったころから、ひとりが当たり前になっていた。
「このハム、おいしい。やっぱり高級ハムみたい。お野菜もおいしい。」
「まあ、悪くない。」
「もう、美味しいって言えば。」
「そんなとこ。」
「なんか気取ってるね。太郎、そんなキャラ?好きなアニメキャラのマネ?」
「わかんね。」
「まあ、本人もわからないんだよね。」
「記憶取り戻せばわかるんじゃない?」
「急に別人格になっても嫌だなあ。」
「よせよ、漫画じゃあるまいし。」
「ううん、でもあり得ないって思えないよ。太郎と会ったこと自体が不思議だったんだから。あの街って本物だったのかな?海にいた炎、怖かった。それにね、一昨日も太郎を見たんだよ?でも急に目の前からいなくなっちゃった。」
「わかんないよ。姉ちゃんと会ったのは、海ってだけは覚えているけど。」
「そうだ、明日、海に行ってみない?太郎と出会った。何かあるんじゃないかな?」
「えぇ、嫌だよ、気味悪い海だったし。」
「太郎、最初海から離れなかったじゃない?」
「何したかったか、はっきり覚えてないんだよ。でも、今思ってみるともう行かないに越したことはないじゃないかっなて。普通の海じゃないよ。」
「そんなことないよ。この街の人たちはよく行く海だし、ちゃんと管理されているから綺麗だよ。夜はさすがに不気味だろうけど、昼間なら平気じゃない?人もいるし。」
「昨日の今日でよくまた行く気になれるな。」
「私も本当は嫌だよ。昨日みたいなことあった後じゃ。だけどさ、今一番思いつくのはそこじゃない?だったら行ってみようよ。」
「でも・・・。」
「ひとりじゃないよ?危なくなったら一緒に逃げよう?」
自然と出たその言葉はツキには不思議だった。今まで一人でいることに慣れていたのに、目の前で怯えているもうひとりに手を差し伸べているなど、想像もできなかった。自分が動かないと誰も動かない、先に進まないと物事が何も進まないことがわかった。
「そうだよな、いつか行かないとならないよな。」
「うん、嫌なことは先に済まそう。それだけ避けたい場所なくらいだから、何か手掛かりあったらラッキーだよ。ううん、じゃないと困る。」
「じゃあ、いつあの炎が現れてもいいように、その中華鍋持っていってよ。それでぶっ叩かれたら超痛そう。そんでやっつけてよ。やばくなったら盾にもなりそうだよな。」
「その後やっつけた炎でまたチャーハンでも作る?」
「いいね、俺、姉ちゃんのチャーハン、結構好きだよ。」
「ありがとう。じゃあ、明日は材料いっぱい持っていかないとね。」
太郎はまっすぐ目を見つめて優しく笑うツキに、心拍が少し乱れて目を逸らした。
「さあ、そろそろメインのケーキだよ。まだ食べられる?」
「あ、うん、だ、大丈夫だよ。」
「ホント?何か熱っぽくない?」
「い、いや、部屋が暖かいから。ほら、ご飯食べると体温って上がるよね?」
「そうね。それに具合悪くてもケーキ別腹だよね。本当に体調悪かったら言ってね。」
太郎は無言で頷いた。
ツキは冷蔵庫からケーキを取り出し、まずはチョコレートケーキ二つを並べた。
「さあ、どうぞ。うちのケーキ、自慢じゃないけど、とっても美味しいよ。」
太郎はツキが言い終わる前に側面のビニールを剥がし、フォークでチョコをそぎ落として舐めて、すぐに本体もそのフォークで切り取って食べていた。
「うん、美味い。」
「早っ。ショートケーキはおすすめだから是非食べてみて。シュークリームは半分こね。久々に私も食べたいよ。」
シュークリームは箱のままふたりの中間に鎮座し、次にショートケーキの乗った皿が太郎の元へ届く。
「二つも食べていいの?」
ツキが頷くと太郎は満面の笑みで早くもチョコレートケーキを完食し、次のショートケーキをフォークで切り取っては口に運んでいた。
「いや、マジで美味いよ。いいな、毎日こんな美味いの食べれて。」
「いやいや、さすがに無理だよ。残ったら持って帰っていいって言われているけど、結構残こらないものだよ。」
「やっぱりね。納得。だから姉ちゃん痩せてるんだね。」
「何それ?そんなに痩せてないんだから。最近、少し体重も増えたし。前にも似たこと友達に言われたけど、結構気になって体育頑張っているんだよ。」
「へえ、そうは見えないんだけど。」
「何よ、何だかんだ言って、結構女の子の身体、見ているんじゃない?」
「なっ、女の子って誰だよ。」
「太郎も男の子なんだね。」
「うるせえな、当たり前だろ。あ、いやジロジロ見ているのが当たり前ってことじゃなくて。」
そう言ってシュークリームをひとりで平らげてしまった。
「あっ、何ひとりで食べてんのよ?半分って言ったじゃない!」
「女の子はダイエットしないとな。今度はちゃんと買って食べなよ。職権乱用だぜ?」
「もう!確かにそれだけの美味しさだからわかるけど。せっかく久々に食べるチャンスなのに。」
「いいよ、今度買ってあげるよ。」
「今度っていつよ?お金持ってなさそうじゃない。」
「今度は今度だって」
(そういえば確かに一つ屋根の下に男女って大丈夫かしら。まあ、太郎はまだ子どもだし。私ももっと大人として接しないと)
日曜の朝、昨日の残り物をレンジで温めて、ハムはパンに挟んで食べた。追加としてヨーグルトとリンゴが並んだ。
「コーヒー、インスタントだけど飲める。」
「苦いのはダメそう。昨日のケーキでわかったけど、甘ったるいのは大好き。」
「太郎、甘党ね。大人はブラックなの。砂糖とミルクはあるよ。」
「なら、それで。」
コップにインスタントコーヒーの粉末を入れてお湯を注いだ。太郎の元には牛乳と砂糖の入った瓶容器が置かれた。
「でもね、ブラック飲むようになったの、最近なんだ。」
「ふーん。」
興味なさそうに、砂糖とミルクを追加している太郎の反応を無視するかのように続けた。
「両親が亡くなって、何をしなきゃならないのか迷うことが続いたんだ。寝れなくなったかと思ったら、今度はその反動でお休みは一日中寝ていたり。学校でも眠くなったりして。授業も耳に入ってこないから、さすがにやばいかなって。そんなときに飲み始めたんだ。私もどっちかっていうと甘いのが大好きで、最初ブラックはダメだったよ。」
「ふーん、で、今はいいんだ?」
「うん、今は平気。いつの間にか、お休みの日はルーティン。学校がある日は眠いときだけ、普段は何となく避けている。」
「まあ、いいんじゃない。」
朝食と身支度を済ませ、とはいっても太郎はいつもと同じ格好だったが、ツキも昨日とそれほど変わらない黒ベースの恰好だった。昨日と同じに髪を簡単に一本に纏めている。キッチンを出て玄関へ向かう途中、客間の扉を開いた。
「この部屋、少し綺麗にしないとね。」
「ソファーに食われたときはびっくりしたよ。」
「ふふっ。でも、そこまで劣化しているなんて、いよいよ寿命だね。この部屋ね、両親がよくお客さんと打ち合わせしていたんだ。二人して芸術家ってやつで、特に会社とか行っていなかったから。この部屋がオフィスみたいだったよ。」
「ふーん。芸術家って何してたの?」
「絵を描いていたよ。晩年に近づくと結構な引き合いがあったみたい。学校や施設、特に不動産関係で建物のオーナーからお呼びがかかっていたみたい。しかも国内外から。」
「それで中華鍋か。それほどの画家なら有名じゃないの?」
「ううん、全然。何故か売れても世間に知れ渡ることはなかったよ。私がそっち方面に疎くて知らないだけかもしれないけど。お葬式のときはいかにもって人が結構出席していたから。」
「どんなの描いていた?」
「全然覚えていないんだ。」
「何で?」
「ほとんど興味なかったっていうか、父親はあんまり会うこともなくて、いつも距離があって、絵についても会話になることがなかったからかな。」
「家にいるのに?」
「うん、大体は仕事場。あ、キッチンの隣がガレージで、そこが仕事場になっているんだけど、いつも夜遅くまで籠っていたよ。だから朝も遅かったり。会わないことが多かったよ。」
「休みは?」
「ほとんど出かけていたよ。付き合いがあるみたいで、地方や海外とか行っていたみたい。」
「両親とも芸術家ってお母さんも?」
「うん、同じく絵、描いていたと思う。母親は家事もやっていたりして、土日も家にいたから何度か聞いたことあるよ。でも、何だろう、あまり立ち入ったら悪いって思っていたのか、ちゃんと聞いていなかったせいか全然印象に残っていないよ。」
「見せてもらったことは?」
「ううん。きっと飾られているところまで見にいかなかったんだよ。それに、二人亡くなってから間もなく家にあったのはみんな何処かにいっちゃってたんだ。」
「もしかして、ここにもあった?」
太郎は長方形に変色した箇所がある壁を指した。
「多分。母親のじゃないかな。父親はそんな風に家に絵を飾ることはしない人だと思うから。でも、本当に絵が全部無くなってから、初めてそこに飾られていたんじゃないかって思い出したよ。変なの。いい作品だから欲しいって人が持っていったのかな。」
「何だかよくある話。周りの奴らが勝手に持っていっちゃたんじゃない?金目的とか。じゃなきゃ、いくらなんでも死んだ人間の子の姉ちゃんに黙って持っていくなんておかしいだろ。」
「・・・。」
「あっ、ごめんよ。そんなつもりじゃ。悪い奴って決まってないよな・・・。」
「ううん、かもしれないし、ちゃんと大切にしてくれているかもしれないし。」
「そ、そうだよな。半分はいい奴かもしれないなあ。」
「本当に何にもわかっていなかったんだなって。でもね、嫌なのを見なかったのは、今になってよかったって思う。知らないところでやってくれていたんだね。そこそこ売れていたみたいだし、こういうのって、死んだらもうこれ以上新作が出ないってことで価値上がったりするみたいだよ。」
「ああ、よく聞く。昔の有名な作家の絵がオークションで、億単位で売れたりとかな。」
「そうそう、て、そういうのは覚えているんだ?」
「そういえばそうだな。何で見たか覚えていないけど。」
「そんなもんだよね。もしテレビで観ておおまかな記憶だけ残っても、細かいところはあんまり覚えていないもんね。」
「うん、俺自身に関しても、そんなふうにでさえも覚えていれば何か役に立ったのに。」
「大丈夫、そこをこれから探しにいこう。」
太郎は無言で頷いた。
「あ、この部屋寄ったのはね、今後ここで情報纏めたり話し合ったりしようって思ったの。キッチンじゃ落ち着かないでしょ。打ち合わせ部屋だったし、ちょうどいいかって。でも、色々必要みたいだね。昨晩エアコンは内部クリーンしたから、もうカビ臭くないでしょ?」
「そうだね。でもまあ、ちゃんと座るものは欲しいかも。」
「そうだよね。ちょっと考えよう。私もソファーに食べられたくはないよ。」
「次はマジ勘弁してほしいわ。」
この長い直線の道を進めば再び海に出る。自然とふたりは足を止めた。バイト先も道の途中に立ち寄ることも可能であったが、敢えて避けた。海の出来事は普通の事象ではなく、他の誰も巻き込みたくはないという気持ちが通じたのか、学校の知人もバイト先での顔見知りの客すら目にすることはなかった。
お互いの目が合う。それが合図となり再び歩き始めた。直線が長いのか短いのか考える間もなく、遠く眼前に水平線が現れた。意識しているつもりはなかったが、ふたりの頭の中からは昨日の暗闇と炎の群れの風景が離れない。この瞬間にも水平線上に炎が現れるのではと想像せずにはいられない。もし、現れた場合は逃げる心構えはできている。隣の仲間の手を引いて。
いつもより鈍い歩幅が無意識に時間をかけているかに思えた矢先、道が開け、目の前に砂浜が広がった。そこにはいつもと変わらない日常が展開されている。さすがに、冬先の海に海水浴をする人は見当たらなかったが、家族、友人、カップル、子どもたちと冬の海を楽しむ人々が見えた。
再びお互い目を合わせる。
「これなら、大丈夫だよね?」
「あぁ、そうかも。」
ふたりで水辺までやってきた。
「ここって、結構波は穏やかなんだよ。」
「ああ、昨日もそんな感じですごく静かだった。それが逆に怖い。」
「もの凄く荒れて大波だったらすぐに逃げてあんな変なもの見ないで済んだかもね。」
「ああ。あれ、遠くには船も見えるな。」
「うん、少し行くと港があるんだよ。さすがにこの時間、漁船は終わっちゃったから、貨物や定期便かな?」
「よく知ってるな。」
「昔時々遊びにきたからね。でも、友達の家族に何となく一緒についていって、船の話しとかは聞いただけかな。」
「・・・。」
「何か思い出しそう?」
「まだわからないや。」
「じゃあ、このまま少し歩いてみようか。」
会話の糸口もみつけられないまま、ふたりは海沿いを南に向かって進んだ。時々水平線が気になり、どちらともなく目を凝らしてみるが、空のグレーと黒く変色した海の境目が広がっているだけだった。目の届く範囲に誰かがいることが安心材料だった。十五分ほど進んだところで、ツキが話しかけてきた。
「ここから先はあんまり行ったことがないよ。どうする?もう少し進んでみる?」
「地図でどの辺?」
ふたりは足を止め、太郎が地図を開いた。地図の切れ目に記されている堤防はすでに通り過ぎていることから、現在地はすでに地図からはみ出している。
「俺らもうこんなところか・・・。」
「今度、新しい地図要るかな。」
「まずは戻ろうか。何かこのまま同じって感じがする。景色もほとんど同じだし、思い出すものは何にも見つからなさそう。」
「うん、そうだね。何かあるならやっぱりこういうパターンって、太郎と出会った場所にあると思うよ。」
「あった?」
「わかんない。」
「おいおい、最初に砂浜に入ってすぐのところじゃんか。」
「ゴメン、そのとき、特に何にも考えていなかった。」
「マジかよ。」
「だって、あの気味悪いのまたいたら嫌だよ。気が焦っちゃって考えられなかったよ。」
本当に困ったような、怯えたようなツキを見て太郎は思わず、海の先を見て口籠った。
「あ、う、うん。確かに嫌だよな。俺も同じだよ。そ、そういや武器も持ってきてなかったもんな。」
「中華鍋かフライパン。」
「そう、いや、まあ、アイツら襲ってきたら俺がぶっ飛ばしてやるよ。」
「えっ?太郎カッコいい!」
「まかせておけよ。」
「火傷しないでね。」
「・・・。はい。」
嚙み合わないのか、これが自然なのか、どちらにしても太郎は嫌な気はしなかった。今はここまでしかできることがない。本来の自分はもっと上手く立ち回れたのかもわからない。今の自分を少し俯瞰してみると、自身を相手の視線までへの持って行き方が少しずつわかってきたのではと感じていた。
帰り道は会話らしいものはほとんどなかった。時々、記憶に関する確認を行うが、回答は毎回ノーであった。
浜辺への入口まで戻り、周辺を歩いて見回しても気になるものは見当たらない。ツキが来た道を指し示すと太郎も頷く。
「ここ、ここ。幾つか閉店したみたいな建物があるこの道がこの辺で唯一海に続く道だよ。」
道の左右には民家とシャッターが閉まった店しか見当たらない。
「これじゃ、ぱっと見店ってわかんね。覚えてないとスルーしそうだな。」
「ホントに。だから、あんまりこの辺りの土地勘のない私たちは、海へはこのお店のある道からしか入れないし、帰れないよ。」
「怖っ。」
「今はスマホで検索すれば別の道も見つかるけどね。持っていないときは緊張したなぁ。」
「俺ひとりは無理だわ。」
「うん。絶対ひとりで行かないでね。」
「そんなときに限ってまたあれが出るかもな。」
「うわっ!やめて!早く帰ろうよ。」
「ははっ。ホントにビビってら。」
「置いてくよ!」
走り去るツキを追いかけて、太郎も足早に浜辺から市街地へと入っていった。幸いにもふたりは今、浜辺に人影が消えていることには気がつかなかった。
日は真上に昇っている。冬の正午は早くも夕方の気配を匂わせる。忙しくても、何気なく過ごしても、気づけば日が落ちている。その時間の短さを感覚的に覚えているからこそ、朝から正午までの時間の区切りが、日没までの折り返しであることを認識させる。
「お腹空いた?」
「ちょっと。」
「駅前だしお店あるから食べてこうか?」
「いいのか?」
「何が?」
「俺なんかといるところ、誰かに見られたら。」
「何言っているの。全然関係ないよ。俺なんかって何?」
冗談も受け流していたようなツキだったが、初めて見る、怒った表情だった。
「いや、何者か存在不明っていうか、ずっと同じ服で臭いっていうか・・・。そんなのと一緒のところ見られたら恥ずかしいかなって思って。」
「何それ?私は好きで一緒にいるだけなんだし、全然臭いなんて思ってないから。それにね、私、自慢じゃないけど友達少ないんだよ。こんなところで会うなんてまずないない。クラスメイトに会っても、目が合ってスルーでおしまい。次の日何事もなかったかのような一日だよ。」
「言ってて悲しくないか・・・?」
「全然。」
しかし、太郎には最初の部分が気になった。もちろん、好意は感じているが、それは困っている自分に対しての親切心ということも重々承知であったが、それが知り合って間もないふたりの関係を表していることに、少し歯がゆさも感じていた。実際、見た目も悪くない年上の女性がここまで親切にしてくれていること自体とてもありがたく、何か期待させるものもあるのだが、恋愛経験も記憶にない太郎にとっては、内容が理解できない流行りのドラマのようでもあった。
「じゃあ、お蕎麦でいい?」
「何でもいいよ。」
すでに駅前はクリスマスの装いを見せているが、ふたりには気に留める余裕は持ち合わせていなかった。駅前から少し離れた、住宅地に差し掛かり、あらゆる店が少なくなる界隈にある蕎麦屋へと入った。
店中は暖房と蕎麦つゆの醤油の香りが心地よい。カウンターに馴染と思える高齢者が一人、食事を終えて天井より吊り下げるように備えつけてある棚の上のテレビを観ている。中年の女性店員が挨拶とともに奥の席を案内した。奥が入口の扉の開閉で寒さを一番受け難いゆえの配慮だろうか。
「太郎、今はさすがに座ってゆっくりしたいよね。立ち食いじゃなくて。」
「うん、今日はもういいやって感じ。また海行くのに気合入れすぎたかも。」
「確かにね。収穫なかったのは残念だけど、変なことは起きなくてよかったよ。」
ふたりが落ち着いたころ、女性店員がオーダーを取りにきた。手元のメニューを太郎に渡しツキは即答でオーダーした。
「私は温かいお蕎麦とミニカレーセット。」
太郎はメニュー一瞥するだけで、元の場所へ戻してオーダーした。
「じゃあ同じので。」
「はい、ありがとうございます。お水はセルフでお願いします。」
女性店員は厨房へ入ると、話しぶりから夫と思われる男性店員へオーダーを告げた。オーダーを告げると、厨房の椅子に腰かけてテレビを観始める。代わりに動き出した男性店員はコンロに火を点けて調理に取り掛かる。
「ここって、いつも来る店?」
「ううん、昔、母親と来たことあると思うけど、はっきり覚えていないくらい前。何で?」
「あっという間にオーダー決めたからよく来るかと思って。」
「そうね。バイトや商店街からの帰りに閉まっているお店の外のメニュー見て、いつかお蕎麦食べたいって思っていたからね。女子一人では入りづらいし。カレーはちょっとお腹空いたからおまけ。」
「迷わないね。」
「うん、気分で決めたら即。どうせ食べたら他も気になるじゃない?だったら迷うのって無意味って思うんだ。今度また食べればいいってね。」
「確かに。なんか姉ちゃん、男らしいや。」
「誉め言葉って取っておくよ。あ、商店街っていえば近くにアンティークショップあるから寄っていこう?」
「アンティークなんて趣味あるの?」
太郎はアンティークという単語からリビングにあった柱時計を思い出した。
「個人的には結構好きだよ。今日はソファー買っていこうかなって。そこってアンティークショップだけじゃなくて半分はリサイクルショップみたいなものだよ。」
「でも、高いんじゃない?」
「ううん、大丈夫。特別高い物なんて買う気ないし。ご主人さんもいい人だし、予算に合ったセンスのいいものチョイスしてくれるよ。しかも、配送と引き取りもやってくれて大助かり。」
「ふーん、リビングの柱時計もそこで買ったの?」
「よく覚えているね。そうだよ。昔、両親がそのお店で絵の額を買っていて、いつの間にか一緒に買っていたよ。」
「渋いよな。ちょっと気になる。」
部屋の暖かさでふたりとも眠気を誘われ、女性店員が蕎麦ミニカレーセットを一つ持ってきたところで意識を取り戻した。
「ありがとうございます。そっちでお願いします。」
ツキは太郎のほうを促し、水を取りに席を立った。
「先に食べていて。」
席に戻るとちょうどツキの分も届いた。
「いただきます。」
「いただきます。」
ふたりは一気に蕎麦とカレーを空腹に詰め込んだ。まだ昼だというのに一日中歩いていたかのような疲労感が染み込んだ身体に、カレーの食欲を掻き立てる香りと、蕎麦の温かさが腹に染み渡ると、ある種の幸福感が言葉を失わせた。
「ごちそうさま。美味しかった。」
「ごちそうさま。美味かった。」
「お腹いっぱいで、このままここで寝ちゃいたいね。」
「あんま客いないからいいんじゃね?」
「コラ!失礼な!」
カウンターの客と店員二人はテレビに夢中であった。夢中というより何が聞こえても意に介さないといった雰囲気がある。気まずさから早く店を出たいと焦ったツキは、会計を済ませ足早に店を出た。
「もうちょっとゆっくりしようぜ?」
「もう、変なこと言うからいづらくなっちゃったじゃない。」
「俺は気にしないぜ?」
「少しは気にしなさい。」
ツキは速足で路地裏へと入っていった。蕎麦屋も商店街から少し離れていたが、そのアンティークショップはさらに閑散とした、奥まった場所に存在している。車一台通れる程度の広さの道を抜けると、今度は倍広い道が交差していた。徐々に交わる道が広くなっていくことは、おそらくこの先は県道のような大きな道へと繋がっているのだと想像させる。
広くなった道が交差すると間もなく店が見えた。太郎がイメージしたリサイクルショップのように、店先には冷倉庫や洗濯機のような独り暮らしにちょうどいいサイズの家電も、安売りのワゴンも置かれていなかった。かといって、飲食店や企業向けの事務や厨房機器のリサイクル品が並ぶガレージでもなかった。店の前には駐車場が広がり、長方形に近い建物も二、三階はありそうな高さだった。その前面の下半分の大部分は外から店内を見渡せるガラス張りとなっている。そこはディーラーなどのショールームを思わせ、その他の壁面は年季の入った黒く変色した木材で構成されている。店外からは一階に並んでいるテーブルと椅子のセットなどが見える。一見すれば何の店か不明だが、中を覗けば家具屋と見当がつく。建物の正面右端は木材の壁面部分となっており、そこに入口が設けられて扉の上には木製の看板が取り付けられている。そこには「石宝堂」と彫り込んであった。
中に入ると外に比べ明かりは薄暗く、入口を入った奥にはカウンターが隠れるように控え、一階フロア全体を占めるリビング家具の合間を縫うようにお目当てのソファーたちが幾つか点在している。ラックなどの大型家具が入口から反対側の壁側にずらりと並べられ、店正面のガラスからの突き当り、少し奥まったところには床が何段か下がって、やっとリサイクルショップらしく、白物家電が隠されるかのように置かれている。店内は二階部分を階として区切らず、中二階として一階フロアの半分の床スペースを設けることで、建物全体の空間をひとつのフロアのように使っている。
中二階は奥の白物家電スペースのちょうど真上に位置して、大型家具手前の階段から上がるようだった。中二階を支える柱も多く、全面のショーウインドウを考えなければショップというよりコテージのようでもあり、陳列された商品をすべて取っ払えば人が住んでもおかしくないような雰囲気がする。
店を知っている地元の人や、目的が決まってから検索してやっとたどり着く立地のせいか、客はツキたちだけしかいなかった。
「いらっしゃいませ。あ、ツキちゃんお久しぶりですね。」
奥のカウンターから、細身の人懐っこそうな中年の男性が声をかけてきた。入店時には姿形も見えなかったのは、まるで家具の中に隠れていたとも想像させる。男性は黒々とした短髪をオールバックに、よほど目が悪いのか眼鏡から覗く顔の輪郭が本人からずれていた。白シャツと黒のベストのセットアップといった白黒の配色は、ノーネクタイとジャケットこそ羽織っていないが営業マンを思わせる出で立ちだった。ベストに仕舞い込んだ懐中時計ひとつで、ここが何を求める店かを示しているようだった。本人の丁寧で優しい雰囲気と、そのコーディネイトが堅苦しくならず、店に馴染んでいる。
「こんにちは、ご主人さん。本当に、お久しぶりです。母親の葬式以来だと思います。」
「そうですね。色々と大変でしたね。」
「確かに。もう、ずっと昔のことみたいなくらい、今はもう落ち着いています。」
「そうですか。では、今日は何かお探しですか?」
「はい、ソファーがダメになっちゃったから見にきました。他にも色々と必要になりそうなので。ちょっと回ってみてもいいですか?」
「もちろん、どうぞ、ごゆっくり。」
主人と呼ばれた男性はカウンターの後ろへ下がりパソコンを打ち始めた。ツキの淡々とした雰囲気から何かを感じたのか、一緒にいる太郎について触れてこなかった。
主人とは母親の買い物に同行したときに少し話す程度で、深い会話などしなかった。それはツキがまだ幼いこともあったが、二人は買い物以外の会話も長かったため、一人で店内を散策することが多かった。
母親の葬儀に主人が参列したとき、初めて古くからの友人関係だったことを知った。それは芸術家と、その感性を形にする仕事での繋がりが仲を深めたと思うことは疑う余地はなかった。ここでしか会わない、そう思えばランク付けではないが、あまり仲の良くないクラスメイトに太郎を見られて紹介することに比べて、主人であれば抵抗が少ない。それだけではなく、必要なもの購入する以外に、具体的な理由は出てこないが、家族との知り合いということは今後を考えると避けては通れないことに思えた。
「太郎も必要そうなものあったら教えてね。」
「うい。」
太郎の返事を合図に、ふたりはそれぞれ思うまま自由に店内を物色した。早くもツキは幾つか候補を見つけ、中二階へと上がった。中二階はアンティーク商品が陳列され、こここそが、この店の中心と謳っている。時計は柱時計から腕時計、懐中時計まで網羅し、アンティークらしく壺や花瓶が並び、アクセサリー全般から掛け軸、さまざまな絵の具で描かれた絵画まで幅広くラインナップされている。
「太郎、来てごらん。」
「あぁ?」
太郎はまだ目星がついていないところで呼ばれて面倒くさそうに階段を上がる。
「何だよ?まだ見てる最中だったのに。」
「ゴメンゴメン、でもちょっと見てごらん。」
太郎はツキに倣って中二階の手すり越しに階下を覗き込んだ。そこには一階の家具たちが眼下に広がっていた。白物家電の真上が中二階となっている意味はこれだった。
「お、これはこれで見やすいかも。」
「ね。何かミニチュア見ているみたいでかわいいでしょ。家に置いたらこんな風に遠くから見られないよ。ここから太郎が座っているのをイメージしてもいいんじゃないかな。」
ふたりは中二階を何往復もしながら階下を眺めた。
「あ、あのソファーいいかも、」
太郎はそう言って、店奥の使い込んだような黒い革張りのようなソファーを指した。もしも、本革ではないのであれば、かえって使用感が新品に見せるわざとらしさを打ち消して、自然な存在感を与えてくれた。
「それ、私も候補にしていたよ。見にいこうか」
そのソファーは二人掛けでも若干余裕のある幅を持っていたが、三人座るには厳しいようだった。ひじ掛けがないので広く感じる。ツキが何でできているか確かめるために触ると、素材は革のように感じたが、恐る恐るタグを見ると、金額的に予算内で収まる範囲で強張った表情が和らいだ。目立った痛みも見当たらず、傷も少ないことが前の持ち主には大切に扱われていたことを物語っている。
「太郎、ねえ、これ、いいんじゃない?」
「あぁ、いいと思う。でも高いんじゃない?」
「そんなでもなかったよ。バイト代一か月くらい。」
「それって高いんじゃ?」
「そうでもないよ、ちょうど同い年の子が服欲しくてバイトするのより、ちょっと多いくらいかな?」
もちろんツキ本人に、他の学生が稼ぐ相場など知るはずもなくイメージで答える。
「なんだ?その例え。よくわかんないけど大丈夫なんだな?いいなら俺はいいと思うけど。」
「うん、これで決まりだね。じゃあオーダーしよう。太郎はその辺見ていてね。」
ツキはカウンターへと向かい、太郎は再び中二階へと上がっていく。
太郎が向かった先は絵画の置いてあるエリアだった。それぞれの値札には金額だけでなく、作者名が記入されていた。もしかしたら、ツキに関わるものがあるのではと思い、値札を見て回ったが、両親の名前どころかツキの苗字も聞いていなかったので、わかるはずもないことに今更気がついた。家へ入る前、表札さえ見ていなかったことを思い出した。
もし、ツキの両親の描いた絵画を見つけても何をするでもないが、どんなものを描いていたのか興味と、ツキが喜ぶのではといった少しの期待もあった。
探すのを諦め、絵画に一通り目を通し、柱時計を一つ一つ眺め、他の商品も適当に見ながらフロアを何周もしていると、やがてツキが上がってきた。
「今日は厳しいけど、明日お店終わったら届けてくれるって。しかも、古いソファーは引き取ってくれるみたい。助かるね。私バイトでギリギリだから八時半くらいには家にいるよね?」
「さすがに日も暮れたら、知らない街をそう出歩かないよ。」
「オッケー。じゃあお願いしてくるね。」
「あ、姉ちゃん。」
「何?」
「いや、何でもない?」
「何か欲しい物あった?」
「ない。」
「ホントに?誕生日とか何でも記念日とかわかれば、何か買ってあげてもいいんだけどね。買える範囲でだけど。」
「ホントにないってば。だったら、この壺買ってくれよ。」
太郎は一際大きなショーケースに飾られた、向日葵でも収められる花瓶にもなりそうな大きさの、シンプルなデザインのくすんだ白い壺を指した。太郎は適当に選んだので、価格は幾らか知らないが、値札を見て引きつったツキの表情が金額を想像させる。
「壺ならいつか作ってあげる。女子の手作りなんて、やったね。」
ツキは引きつった表情のまま、機械的に投げやりに言い放って、駆け足で階段を下りていった。
(本当に欲しがっているなんて思われてそうで怖いな。)
間もなくツキが再び階段を上がってきた。
「太郎、ちょっと?」
「今度は何だよ。」
「ここ、古着もあるから、何着か買っていこう。」
「別にいいよ。」
「何で?着替える服とかないじゃない。」
「いいって。」
「毎日同じの着るわけにいかないよ。せめて一週間分くらいでも。」
「だって、お金持ってないよ。」
「私が買ってあげるから。」
「ダメだよ、そんなの。」
「平気平気。そんなにカツカツじゃないよ。それに親のお金も少しあるから、ある意味、私のお金じゃないから気にしないで。」
「いや・・・。それっておかしいだろ。そういうもんじゃなくて、悪いっていうか・・・。」
「じゃあ、太郎の記憶が戻ったら、お小遣いで同じ分ご飯ご馳走してね。それなら貸し借りなし。」
「いっぱい食べそうで嫌だな。」
「ちゃんと値段分で納めるから。それも考えて選んでね。」
「あぁ、まあ・・・。だったらお言葉に甘えて。」
正直、着るものに太郎は困っていた。無償でないのであれば、取引であれば応じるのも悪いことではないと納得した。
ふたりは一階へ戻り古着コーナーへ向かうと、下着や靴下は置いてなかったが、思いの外品揃えは豊富で、ジャンルを広く選んでも五日分見繕うのには余裕だった。
「これは?」
太郎はレジ横に立て掛けてある木刀に関心を示した。
「ああ、すいません。それは私の私物です。木刀にご興味ありまあしたら売り物は奥にあります。私物を仕舞い忘れていました。」
「ここ、木刀なんて置いてあるんだ・・・。男の子って本当にこういうの好きね。ご主人さんまでとは思いませんでしたよ。」
「いえいえ、こんな店でしてね。暇な時間も多いので裏で眠気覚ましに素振りをするんです。配達やら重い物を持つときもあるので、身体は常に鍛えておかないとなりません。また、大物を鑑定する前とかに気合を入れるのにも役に立ちます。」
「鑑定と関係あるんですか?」
「はい、真贋を見極めるのには知識だけでなく集中力と雑念を取り払うのが必要です。そのときは、素振りといっても居合に近いですね。真剣は今手元にありませんが身体が覚えています。」
「へえ、剣術って居合もできるんだ。」
「はい、剣道は有段でして、居合もかなりかじっていました。同じ剣といっても実は勝手は違いますが、身体と心を鍛えるのにはとてもいいです。」
「今度教えてよ。」
「私で宜しければ。人に教えるのもよい勉強です。先述のとおり、そこそこ暇ですので、お店がやっていればいつでもいらしてください。」
「よかったね。でも、木刀は買わないよ。木刀より早く服選んで。」
太郎は渋々その場を後にして、ワゴンから何着か選んでツキの元へ持ってきた。一通り目を通し、その場で身体に合わせてフィッティングしてサイズを確認すると、ジーンズが太郎には少々大きい気がした。
「ちょっと大きくない?後で詰める?」
「いや、このままで。」
「これじゃ、靴履いたら何とかなるけど、家の中では擦るよ。」
「いいんだよ。どうせ買うなら長く使いたいし、裾なんて外じゃたるませて家の中では折り曲げればいいんだよ。」
「そう?いいならいいけどね。太郎は青が好きなんだね。」
「え?」
「こうやって選んだ服並べると全体の配色は青メインになるでしょ。」
「ホントだ。意識してなかった。」
「じゃあパンツも青かな。」
「そこまではしないって。」
「また駅前戻るけど、安いお店があるから買っていこう。じゃあ、会計するね。」
「ああ、ありがとう・・・。」
「どうも。ご飯期待しているね。」
ふたりは主人に太郎のことを聞かれなかったこと、最初に質問されるであろうと少し身に構えていたことすら忘れていた。
駅前の商業ビルに入っている安い子ども服のチェーン店で下着類を買い揃え、百均で日用品を買い足した。ビルを出るときには両手は荷物で塞がれていた。
「姉ちゃん、結構買ったね。」
「うん、生活するって何かと物要りね。」
「早く記憶、見つけないと。」
「そうだね。このままだと太郎も困るよね。」
「まあ、そうだけど。それより、荷物持つよ。」
「おや、優しいね。」
「だって俺の荷物じゃんか。」
「なら半分だけ持って?」
「いや、全部で大丈夫だって。」
「ううん、半分ずつのほうが平等でしょ?太郎のものだけど一緒に帰るんだもの。分け合っていけば楽だよ。」
「何か姉ちゃんそういうところって、大人っていうか俺には考えつかないな。」
「別に大人ぶってないよ。私は手ぶらだし、人の荷物を持つの、嫌いじゃないよ。それに半分ずつ持つのってバランスいいじゃない?ひとり手ぶらでひとり両手に荷物って、ふたりは他人みたい。」
「まあ、確かに他人なんだけどな。」
「可愛くない。傍から見たら姉弟に見えるかもよ。」
「似てない。」
「お互い両親それぞれに似て成長したってことにすれば、しっくりくるかもよ。」
「考え方としてはそうかもね。どんな人なんだろう、俺の親って。」
「あっ、ごめんね。」
「いや、いいって。気にしてない。わからないものはわからないからな。考えても仕方ないって。なら、都合いいように想像するのも悪くないよ。」
「うん、きっと優しい人たちじゃないかな。」
「何でそう思う?」
「うん。太郎はひねくれて性格も曲がっているけど、よくも悪くも素直だったり、優しいところもあって、敢えてそこを隠しているっていう感じ。中二病の走りかな。でも、優しい人と一緒じゃないと優しくなれないよ。」
「姉ちゃんって天然なのか、ちゃんとしてるのかわらない人だな。」
「それも誉め言葉として取っておくよ。」
「何だよ、じゃあいつも俺、褒めてるみたいじゃんか。」
家が近くになると、日はすでに傾いていた。季節が一日を長くも短くもする。その分昼が長いか夜が長いか、ツキはどちらが良いと感じるのも気分次第であるのは自覚しているのだが、今は少しでも昼が長いほうがありがたい。
「誰かいる。」
太郎はその人影に対して本能的に不安を感じた。黒いパンツスタイルのスーツに身を包んだ女性が、腕を組んだまま門の塀に寄りかかっていた。一見すると、企業の営業職に就いている女性にも見える。ツキよりも長身細身で、こちらからでは顔が長い髪に隠されて表情が読めない。ふたりは女性の全身が青白く光っているのかと目を疑った。日の傾き始めた曇り空による薄暗さが女性のシルエットを浮かび上がらせた、そんな錯覚だろうか。
ツキも何とも形容しがたい気味悪さ、それはまるで海辺の炎に感じた不安に近い。敢えて、その女性が目に入らないかのように太郎の手を引いて駆け込むように門の塀を避けた。
「ちょっといいかい?」
隣から聞こえた女性の声は早口で、地の底から聞こえてくるかのような低い響きを含み、逆に耳元へ直接届く高音も孕んでいるのは存在を無視されて怒っているのか、若しくはまったく意に介さずこれが本人の元来の話し方であるかとも取れる。
「はい?どちら様でしょうか?」
「ちょっとばかり話があってね。」
「私たち?」
「他に誰がいるって?」
「親に何か用があるのでしょうか?」
「今、あんたたちしかこの家にいないんだろ?違う?」
(なんでこの人それを知っているんだろう?両親と何らかの関係がある人?)
「両親は今出かけているんですけど。」
「ふーん、まあいいわ。こんなところで話すのも何だからちょっと上がってもいいかしら?」
「お断りします。あなたが誰かわからない以上、何か用があっても家に上げることはできません。」
「チッ、めんどくさいねぇ。私ゃ、あんたの両親の友達だよ。生前散々お世話になっていたんだよ。」
「それだけじゃ信用できません。そうやって近づいてきた人は何人も会ってきました。」
「はぁ、何だい、両親と仲のいい写真でも見せたほうが早いってかい?」
「あればお願いします。」
「そんなのあるわけないじゃないか。」
「じゃあ、やっぱり無理です。申しわけありませんがお引き取りください。太郎、行くよ。」
太郎の手を引いて家の扉の前まで進み、コートのポケットから家の鍵を取り出した。視線の隅で女性が後ろから襲いかかってきたりしないか注意しながら鍵を開けた。女性は相変わらず塀に背を預けたまま声を発した。
「ツキ、あんたは両親がなぜ死んだか知りたくないかい?坊主、今は太郎かい?あんたは記憶を取り戻したくはないかい?」
さっきまでのヒステリックな早口の口調とは打って変わり、優しく、まるで耳元で囁くような話し方と、内容にふたりは思わず足の感覚を失ったかのようにその場に立ち尽くした。しかし、相変わらず高音と低音の入り混じったような声色は不気味さと不安を感じさせ、身体の中から聞こえてくるようでもあった。今まで感じたことのない不思議な感覚は、背中に氷を詰め込まれ、生まれた寒気を逆に身体の芯から引き出した怖気とも取れて総毛立った。
「何で私たちの名前を知っているんですか?それに何で両親の死を、太郎の記憶なんて誰にも話していないのに、何で・・・。」
「何で何でって、知っているから話そうって言っているんじゃないか。こんな寒いところで立ち話かい?」
「・・・。わかりました。家の中で話しましょう。」
踵を返したツキの手を太郎が引いた。
「姉ちゃん!大丈夫かよ?何か変だよ?」
「変でもやっと見つけた手掛かりだよ。大丈夫こっちはふたりだし、何かあったらどっちかが直ぐに助け呼びにいける。」
「ちょいと?作戦かい?丸聞こえなんだけど?変だ変だ言ってないでさ、あたしからしたらあんたらふたりが変だよ?あんまり変なこと言うなら帰るよ。」
「ああ、すいません。あまりに突然のことだったので。」
玄関を開け客間に女性を通した。
「カビ臭い部屋だねぇ。」
ツキは部屋の換気もエアコンの内部クリーンも何度も済ませ、不快な臭いは感じないレベルになったと思っていた。
「すいません、しばらく使っていなくて。他に落ち着ける部屋がないのでここで我慢してください。」
太郎は女性から目を離さず、その動きをずっと凝視している。
「あんまり睨まないで頂戴よ。取って食おうってんじゃないんだし。今日は話しをしにきただけだってばさ。」
「・・・。」
女性は自分の家のようにずかずかと部屋の奥へと進み、例のソファーに腰を下ろそうとした。
「あっ!」
ふたりの声がシンクロした瞬間、女性はソファー内部に一気に飲み込まれた。
「ぷっ、取って食われた。」
「太郎!ごめんなさい!最初に言っとけば・・・。」
「言う前に座っちゃったんだ。姉ちゃん悪くないよ。」
女性はソファーの腹を引き裂いて飛び出るような勢いで脱出した。
「あんたら楽しいかい⁉」
声が一層重低音を響かせると、部屋の温度が下がったようでふたりは身震いした。
「ごめんなさい、そのソファー壊れていて。こっちのほうへ座ってください。」
向かいの個人用ソファーへと案内し、壊れたソファーの横にふたりが立つ形となった。
「チッ、私ぁお客なんだけどねぇ。まぁ、ボロじゃあ仕方ないねぇ。いつ誰が来ても恥ずかしくないよう、ちゃんとしたの用意しな。」
「ちょうどさっき新しいの買って明日届くんだよ。おばさんタイミング悪いんだよ。」
「オバサン?」
「太郎!すいません、まだそういうのわからない年頃なんです。」
「ふん。あんたのその年頃じゃあ、無理なのもわかるけどね。ちったぁ勉強しな。」
「どう見たっておばさんじゃん。化粧濃くって真っ白でお化け・・・・」
「太郎!」
後ろから両手で口を塞がれて太郎がもがいていると、睨まれただけで人を殺しかねない形相で女性が低い声で言い返してきた。
「元々こういう顔色なんだよ。お前だって似たようなもんじゃないか。生気のない顔して。」
太郎が何かを言おうとしたが声が出ない。
「すいません、それより家に来た目的、私たちのことについてお伺いしたいのですが。」
このままでは話が進まないと感じたツキは、強引に割って入り話を進めようとした。
「その前にあなたはどなた様でしょうか?私たちのことは知っているようですが?」
「あぁ、私かい?私は魔女さ。」
「ぷっ。魔女って、本気で言ってんの?」
口を塞いでいたツキの手が緩み、悪態が漏れた。再び女性の目が険しくなる。
「すいません、もう、太郎は少し黙っていて。」
「まあいいさ。確かにいきなり言われて信じろっていうのが無茶なもんさ。」
「じゃあ、何か魔法見せてよ。」
「太郎!」
太郎の煽りを無視するかのように女性が指を鳴らした瞬間、辺り一面が暗闇に飲み込まれた。ふたりは足場を見失い、思わずその場にしゃがみ込んだ。しかし、足場も底もなくなったわけではなく、三人の存在以外がすべて可視化できなくなっている。確かに床はそこに存在する。
魔女がもう一つ指を鳴らすと、暗闇の空間に星々が浮かんだ。あらゆる映像や写真で観た宇宙空間へ投げ出されたと錯覚する。足元遠くを彗星が流れ、頭上彼方には赤い星が輝いている。宇宙空間に投げ出されたわけでもなく、実際は見えない床にしゃがみ込んでいるだけなのに息苦しく感じる。天地が認識できず、身体の自由が利かないような浮遊感が五感を支配する。遠くで明るく光る星がみるみる大きくなってきたかと思えば、急にスピードを上げて目の前に近づいてくる。ふたりとも悲鳴を上げ、太郎は体を丸めて身を守ろうと、ツキはその太郎の上に覆い被さり、しっかりと身体を支えていた。
「おいおい、いつまでそうしているんだい?」
どのくらいの時間伏せていたのだろうか。魔女の声で我に返ると部屋は明るく、何も変わっていなかった。
「これって、魔法?」
太郎が呟く。
「それほど大したもんじゃないさ。初歩のデモみたいなやつさ。あんたらの頭に直接映像流すくらいのね。本物は代償も必要だし、マンガみたくしょっちゅう使える代物じゃないんだよ。」
太郎は言葉を失って青ざめていた。それを見た魔女は満足そうな笑みを浮かべている。
「信じるかい?」
ツキは静かに頷いた。
「は、はい。最近おかしなことばかり続いていて、何だか現実っていう感覚が少しマヒしているっていうか・・・。」
「現実って何だい?今まで経験してきたことだけで形造られたものじゃないかい?見たこと聞いたことないものは現実じゃないって言えるのかい?」
「いえ、今のはある意味、確実にそこにあったと思います・・・。」
「そうだよ。これであんたらも現実ってもんが少しだけ広がったんだよ。」
太郎が興奮気味に食いついた。
「マジすげえや。」
「わかるかい?その奥にはもっと別の現実があるんだよ。誰かに体験させられて知るんじゃなくて、自ら拓いていく、それも現実なんだよ。」
ツキが何かを感じ不安そうに問いかける。
「それってどうすれば・・・。」
「興味があるのは結構だけど私のこと、知りたいんじゃないのかい?」
「あ、そうだった。あなたは魔女で、なんて呼べば?」
「何でも好きに呼びな。あんたらは自己紹介要らないよ。」
「好きにって言われても、何とかお名前教えてくれませんか?」
「しつこいね。何とでも呼びなって。」
「じゃあ、サマンサさんとか?」
「ちょっ、何だいその変なのは?私ぁ一応日本人だよ?」
「日本人の魔女ってイメージつかなくって・・・。サリーとか、あ、メグなんて日本人にいそうじゃないですか?」
太郎が二人の会話に楽しそうに乗ってきた。
「もうメグちゃんでいいじゃんか。」
「うるさいねぇ、適当に魔女とかのまんまで十分だよ。どうせ、そんな長い付き合いなんてしないんだしねぇ。」
「そうそう。姉ちゃん、聞くこと聞いたらバイバイだから何でもいいんじゃない?」
「うーん、じゃあ魔女子さん。」
「気味悪い変な名前つけるんじゃないよ!私ぁ桜子って名前があるんだよ。う、あんたに任せたら変な名前でずっと呼ばれそうで気分悪いわ!」
思わず本名を口にした桜子は一瞬口籠った。
「あ、俺んときと同じだ。」
「それでは、桜子さん、なぜ私たちのことを知っているんですか?親のこと、記憶のこと。桜子さんとはどんな関係があるんですか?」
「それは話せないねぇ。」
「えっ、何だよ、知ってるって言うから家入れたじゃん。詐欺だよ、詐欺。」
「変な言いがかりつけるんじゃないよ。知っているけど話せない、それが契約なんだよ。」
「契約って?」
「だから話せないって言ってるんじゃあないか。でも、代わりにあんたらに目的を見つけるための手助けをしてやろうってことで来たんだよ。」
「ちょっと待って。契約って私たちと桜子さんが結んでいるんですか?」
「ああ、そうだよ。だから話せないんだよ。」
「私、桜子さんとは初対面ですけど?」
「俺も記憶ないけど、会ったことあれば何か思い出すと思う。」
桜子は鼻で笑った。
「私と契約することで、現実の範囲でのみ望みが叶えられる、だが、代わりに願ったことや私のことはすべて忘れちまうのさ。」
その言葉に太郎は少し興奮を覚えた。
「それって、まるで魔法みたいじゃんか。」
「否定はしないさ。ところが面倒なことにあんたら、中途半端なことになっちまってさ。」
「じゃあ、契約破棄すれば思い出す?」
「契約ってのはさ、双方の目的があってお互い合意のうえで結ぶものさ。一方的に破棄するのなんてペナルティ。きちんと双方納得のうえで解約しないとならないのよ。」
腕を組みながら考え込んでいたツキが顔を上げた。
「私も実は忘れていたことがあったなんて。それ自体忘れている・・・。私たちは何を求めていたかヒントとかありませんか?」
「あんたらややこしい願いで契約交わしているからねぇ。何度も言っているけど、些細なことでも忘れているものを教えちまうのはルール違反ってことさ。」
太郎は話しを総合し、桜子が触れていない点を追求した。
「願いを叶えるってことばかり気になっていたけど、逆に願う側からは何か取るんじゃないのか?」
「そのとおりさ。それがこちらの希望。でもね、交換条件だからあんたらがちゃんと希望達してからじゃないとこちらも手が出せないのさ。だから手を貸してやるって言ってるのさ。」
「ちょっと待って。契約で願いが叶うと言っていましたよね?でも、今、目的達してからじゃないと手が出せないって、私たちの願いってまだ叶えられていないんですか?」
「わかってるじゃないか。そうなんだよ。だからとっとと叶えて欲しいのさ。」
「願い叶えて何か取られるって、やっぱり魔女とか胡散臭いんだよな。」
「うるさいねぇ。願いを叶えるに相当するものは個人によるもんさ。そいつが一番大事にしているものとかね。人間が一生かけても得られないもの、能力や生まれながらの環境、身体的限界、運、時間、そんなものを無視して何も努力もせず叶えるんだもの、十分な取り引きだと思うけどね。そいつは何も本人が持っているものに限定はしないさ。まあ、たいていの奴は魂で足り得るんだけどね。それが手っ取り早いね。」
「俺らの魂、食べるのか?」
桜子の目が細く、爬虫類を思わせる視線をふたりに向けた。
「魂食べられたら死んじゃうんじゃない?」
「ああ、多分そうだな。俺の魂なんて食っても美味くないぞ、きっと。」
「うん、何かの漫画やアニメとかで観たけど、あんな白くて煙かニョロっとしたのなんて、きっとウミウシとか軟体系な歯ざわりで、味は生ぐっっさい海産物系で美味しくないよ。」
「いやいや、まずいものほど身体にいいって聞くしな。てか、ウミウシなんて食ったことあるのかよ?」
「ないけど、食べられなくはないって聞いたことあるよ。」
「おい!何気持ち悪い話しをしてんだい!食べるわけないじゃないか。魂が欲しいんじゃないんだよ。大事なものを捧げてまで叶えたいものは何か、引き換えにするものは何か、そして、願いを叶え、そして大切なもの失くす、その過程を観察したいのさ。そのひとつが誰にもが大切な命、魂って例えになるんだよ。」
「うわ、趣味悪いな。」
太郎は嫌悪感を露わにする。
「何とでも言いな。そうやって人間自体を研究しているのさ。理由は知る必要ないよ。」
ツキの顔も引きつっている。
「知りたくもないですよ。まあ、なんだ、直ぐ死ぬんじゃないならよかったかな。」
「コラ、よくないだろ!どっちみち最後は俺ら、死ぬか何かを失くすんだろ?じゃあこのままのほうがいいんじゃないか?」
「さあ、どうだろうね。あんたらどんな契約か興味ないのかい?どうなるかは叶えてみてからのお楽しみじゃないかい?それにね、あんたら何も知らないで一生終わる気かい?そりゃあ逃げ続けりゃ楽かもしれないよ。でもね、ずっと気持ちに整理つかないまま過ごすってのもどうかね?せっかく知るチャンスが目の前に転がっているってのに?そうだ、ヒントくれって言っていたね?その気になったら言いな。導いてやるよ。」
しばらくふたりは無言だった。時折、目が合うがどちらかとなく逸らし、沈黙は続いた。
桜子はいつの間にか手にした黒い革の手帳を開いて、一ページずつ丁寧にゆっくりとめくり眺めては、いつの間にか手にした万年筆を時々指で回転させていた。このままでは日が暮れるのではと太郎が感じた矢先、ツキが口を開いた。
「わかったわ。私はどんなことを願ったのか、失われた記憶を知りたい。」
「姉ちゃん・・・。いいのか?」
「うん、大丈夫。話が本当なら死ぬって決まったわけじゃないよね。それが願いで何とかなるかもしれないし、嫌なら叶えなければいい。それに、このまま全部何も知らないままなんて絶対嫌。」
「俺は・・・。」
「太郎の記憶はこれから作ってもいいんじゃないかな。忘れちゃうなんて嫌なことがあったのかもしれないよ。」
「・・・。」
「じゃあツキ、あんたは受け入れるんだね?」
「はい。お願いします。」
「待った!俺もお願い、します。」
「太郎、あなたは・・・。」
「それ以上言うなって。やっぱり気になるし、確実に死ぬわけじゃないんだろ?それにもし危ないことがあっても何とかなると思う。」
「はっ、若いって怖いもの知らずで清々しいもんだねぇ。具体性のない死より興味が勝って、いざ危険に直面しても切り抜ける自身もあるってもんだ。いいよ!いいよ!」
「私に合わせなくてもいいんだよ?」
「そんなことないって。自分で決めた。それに姉ちゃんも一緒に探してくれるんだろ?」
「もちろんだよ。」
「なら平気だよ。会ったばかりだけど、そんな気がする。俺も手伝う。」
「ははっ。まあ、案外間違っていないんだよ。魔に触れたものはお互い引き合うんだよ。だからあんたらは出会ったんだろうさ。それにねぇ、そいつらは一緒にいるとお互いに力を波及して、何かしら考えが及ばないことも起こすもんさ。理屈じゃなくてさ。そんな連中を何人も見てきたよ、何百年てさ。」
「魔女って長生きするのね。」
「はっ、悪魔に魂を捧げた見返りさ。」
「兎に角、どうすればいいんだよ?」
「ちょっとこっち来な。そして座んな。」
桜子は目の前の虚空を指さした。そこに合わせて、ふたりは桜子の前で立膝をついた。その間、ツキも太郎も桜子の目から視線を逸らさなかった。そして、桜子はツキの額を人差し指の腹で一瞬だけ軽く触った。その一瞬、指先が光ったように見えたが、熱は微塵も感じない。次に太郎にも同じことを行った。ツキはきょとんとして尋ねた。
「これだけ?」
「ああ、そうさ、終わりだよ。」
太郎はしきりに額を擦っている。
「これって何か意味あんのかよ?」
「大ありさ。あんたらが私と契約したときに植えつけられた魔力の種子を目覚めさせたのよ。本来ならそいつが私の魔力を受け取る目印でね、魔力を受け取ったら私のことも契約のことも忘れさせちまって再び眠るのさ。願いは一瞬のものもあれば、期間限定や長期もあって、叶った時点で開花とともにその実に宿した情報を吐き出して対価を捧げるって寸法。だから何処へ行っても見つけられるようにマーキングになるのさ。」
太郎は両手をまじまじと見つめている。
「じゃあ、魔力開花ってことで、例えば、火を出せるようになったのか?」
「バーカ。人間にそんなことできるわけあるかい。魔はお互い引き寄せるのさ。種子が目覚めたことでそれが強くなったのよ。あんたら、契約に関係したものに触れることができれば、その記憶も引き寄せることが可能になったってこと。鍵を手にしたと思いな。ただし、相当な想い入れのあるものじゃないと魔は記憶されないよ。普段着ている服とかなんかじゃダメ。まあ、死に際でも普通じゃない死に方して身につけていたものとかは別だけどね。何でもいい、一つ見つければ十分。そいつらは人とモノ、お互い情報を共有して、過去から現在までも一連の内容をも記憶するもんさ。結果、記憶を思い出せば願いを叶えられるんじゃないかい?」
「それが両親の死と、太郎の記憶に関係するってことですね。」
「ご名答。だけど、それが何か教えることはできないよ。願いを叶える代わりに対価を払うための、それが制約ってやつさ。あんたが探しな。」
「そんなのいつまでかかるかわからないじゃんか。それに何処にあるかなんて。」
「あんたらが出会ったように、どっちかが引き寄せるんだよ。でもね、今じゃないかもしれない。時間が経つことが必要かもしれない。人との出会いのなかにあるかもしれない。偶然見つけるかもしれない。でもね、この瞬間から少しずつ距離は縮まっているんだよ。」
「今までどおりコツコツやっていけばいつか見つかるかもね。」
「そうかな?」
「あんたら、この街で出会ったんだろ?ツキ、あんたはこの街からあまり出たことないんじゃないかい?太郎は記憶の始まりからこの街にいたんだろ?じゃあ、そんなに遠くにあるもんじゃあないかもねぇ。時間の流れも、感情からの直感みたいな行動だって、解決の一つだよ?」
「何となくだけど目的は近い気がしてきました。」
「ああ、俺ら最初に考えていた方法でいけばいつか辿り着けるかもな。」
「ありがとうございます。」
「気持悪いねぇ、よしなって。私の目的でもあるんだよ。」
桜子はノートに何かを書き込もうしとしたが、万年筆のインクが出ないのか、ヒステリックに何度も激しく振った。
「まったく、ムカつくペンだねぇ。」
万年筆はデザインこそシンプルだが天冠、クリップ、ペン先、尻軸が銀で統一されて植物の意匠があしらわれており、本体は吸い込まれるような深い黒色をしている。
「あぁ、そんな無茶したらペン、壊れちゃいますよ。かわいそう。」
「うるさいねぇ。もっといいやつ手に入れたらすぐ捨てるわ。」
「じゃあ、要らなくなったら、その子、いただいてもいいですか?」
「あぁ、やるよ。そのときは。」
「やった。ありがとうございます。」
「姉ちゃんて、やっぱりアンティークとか好きそうだな。」
「うん、デザインだけじゃないよ。使い捨てって、あんまり好きじゃないな。ずっと使い込みたい。」
「じゃあ、用事も済んだからそろそろ行くよ。」
「待って、一緒にご飯食べていきませんか?」
「人間と飯なんて食わないよ。」
「トカゲやタランチュラとか食うんだよ。」
「うるさいねぇ!気持ち悪いことばかり言うんじゃないよ。」
「すいません、でも、また会えたりしませんか?」
「姉ちゃん、もう十分なんじゃないか?」
「ううん、他にも聞きたいことあるし。魔力ってのも全然理解していないよ。」
「今までどおりにしてりゃいいさ。私はまだこの街にいるよ。契約したいって奴らがぞろぞろと順番待ちしてるんでね。」
「死人いっぱい出るぜ。」
「ハッ、違いないねぇ。まぁ、生きるか死ぬかはそいつ次第さ。あぁ、それとねぇ、魔力の副産物でちょっとしたおまけが発現するってこと付け足すよ。」
「何ですか、それって?」
「そいつは私も知らないよ。本人が潜在的に思っていることや、強く想うことが何らかの形で出てくるのさ。本人次第ってね。」
「じゃあやっぱり何かあったらお話ししたいです。」
「魔は引き合うって言ったじゃないか。必要とするときは会えるんじゃないかい?」
「そうかもですね。太郎と会えたのも何かの力かもですし。」
「そうだね。じゃあ、本当にこれで行くよ。」
「ありがとうございました。ほら、太郎も。」
「ありがとう・・・。」
桜子は視線も合わせず玄関へと向かった。靴を履き、扉に手を掛けようとしたとき、ふと立ち止まった。
「そうだ、闇には気をつけな。魔ってのは闇で力が強くなるんだよ。まあ、別にあんたら人間全般に言えることなんだけどね。闇が闇を塗りつぶして、さらに深い闇へと堕ちていくんだよ。」
桜子は、ふたりを見ようともせず外へと消えていった。太郎はツキを見て首を傾げた。
「はあ・・・。」
ふたりは客間を出て、ツキは大きなため息とともに玄関先で腰を下ろした。太郎も隣に力なく座り込んだ。
「何だか、大変なことになっちゃったんじゃないかな?」
「ああ、まともじゃないな。マジに。」
「魔法なんて本当にあるのかな?本当にあの人は魔女だったのかな?」
「何だか夢か、俺ら詐欺師に騙されているみたいだよ。」
「ホントだね。でも、私たちふたりの知りたいことに近づいたって思ってもいいのかな?」
「そう思おうよ。魂か何か取られるとか物騒なこと言っていたけど、何を願ったのかも知らないままあの世行きってのは嫌だよな?」
「うん。それにまだ叶えてないんだったらさ、叶えなければずっと生きていられるんじゃない?それに代価が魂だったって限定はできないよね。」
「そうだよ。だから俺ら生きてるんだろうし。でも、忘れちまったってことは何かおかしなことになっているんだよ。」
「じゃあ尚更突き止めないと気持ち悪いね。」
「ああ、でも、今日はもうここまでじゃない?マジ、どっと疲れたわ。」
「賛成。ああ、あの人怖かった。」
「俺もあいつ嫌い。気短いし、すぐ怒る奴は嫌いだよ。よく飯誘ったよ。」
「まだ色々聞きたいことあったしね。本当は悪い人じゃないかなって。」
「ホントお人好しだな。」
「そう?感じからして向こうも嫌っているかもね。太郎が引かなかったから。あ、いい意味で。」
「姉ちゃんも気味悪いことばかり言うから変な奴って思われているよ、絶対。」
「それはお互い様でしょ。太郎も私もみんな変。」
「自覚するなよ。何がまともかわからなくなるよ。」
「うん、みんな人から見たら変なところあると思う。隠すのが上手い人もいると思うけど、そんな人とは違うところを認めていくのが、人との関係を繋いでいくってことじゃないかな?」
「やけにものわかりいいね?俺にはよくわかんないや。」
「私ね、勝手に壁作ってクラスで浮いていてね、自分でも変だなって思っていたの。寧ろ、それでいいって思っていた。変な心地よさや気楽さがあったの。でもね、ちょっとしたきかっけで、クラスメイトとほんの少し距離が近くなったら、それも悪くないなって思ったの。」
「ふーん、姉ちゃん人付き合いは悪くないからピンとこないや。だって、俺に声かけた時点で壁なんて乗り越えているよ?」
「そうか、そうだよね。いつの間にか壁なんて乗り越えられるくらいになっていたんだよね。そう、太郎と会った日に、ううん、太郎を見つけた日に変わるきっかけがあったんだよ。」
「そんな短期間に人なんて変われるもんなの?」
「変わったんじゃない、気づいただけかもね。自分が自分を演じていることに。演じることを忘れるくらい、友達との何気ない会話が楽しかっただけ。」
「だったら、よかったんだな。」
「うん、よかった。」
初めてツキが満面の笑みを見せたようだった。太郎は思わず顔を逸らした。
「じゃあ、夕飯までゆっくりしていてね。買ってきた荷物も太郎の部屋で整理しといてね。」
いつの間にか寝泊まりする部屋が太郎本人の部屋になっている。
日が暮れて空腹になるまで、ふたりとも何をするでもなく、キッチンでテレビを観てニュースから情報を集めていた。その間、自分とふたりの行く末や願いとは何なのかをあれこれ想像していた。特に会話もなく、気づけば日も完全に落ちていたため、ツキは夕飯の準備に取り掛かった。太郎は夕飯を食べて風呂に入った後、昼間買った服の中にあるパジャマに着替えた。
「うん、サイズぴったり。似合っているよ。」
冬物の若干厚手の濃紺のパジャマは昨晩までのツキのお古のものよりフィットし、動きやすいのと同時に温かさも感じられた。
「私もお風呂入ってくるから。例の地図、今日までの分の調査記録書き込んでいてね。お風呂出たら明日からのこと話そう。」
「オッケー。」
太郎はテレビを消して海辺に斜線を引き、今まで訪れた場所にコメントを記入した。余白には桜子の話したことを箇条書きにした。
作業を終えると背もたれに背中を預けて天井を何気なく眺める。落ち着くと疲労のせいか、頭の中には何も思い浮かばない。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。やがてツキがキッチンへと戻ってきた。
「早かったな。」
「うん、湯船で考え事したら、そのまま寝ちゃいそうだから早めに済ませたよ。」
今日は淡い紫色のパジャマに身を包んだツキは、濡れた髪をタオルで拭きながら椅子に腰かけた。元々色白の肌が紅潮し頬だけでなく顔全体が赤く染まっている。顔だけでなく身体全体にも赤味がさしているのだが、顔の赤みが胸元まで広がっているように見えた。幸いなのは太郎も風呂上りで、身体の熱がまだ冷めないと思われていたことだろう。タオルを隣の椅子の背にかけてツキが切り出した。
「さて、明日からだけど昼間は私、学校あるからいないよ。その後もバイトだから帰りは夜になるよ。だから、太郎は昼間地図の白地のエリアを調べてね。バイトは週四回に減らそうと思う。土日はお客さん多いからどっちかは入るよ。バイトのない日は一緒に行動して考えよう。私は学校からバイトへ行くまでのちょっとした時間に気になる場所に行ってみるよ。あと、連絡だけどスマホもう一台は難しいと思う。だからちょっと大きくてスマホってわけにはいかないけどタブレットを使って。二階にあるから後で太郎のメールやラインアカウント作っておくから。使い方わかるかな?」
「それは大丈夫そう。」
「じゃあ今まで使っていたアカウント、覚えている?」
「・・・、駄目みたい。全然思い出せない。てか、使っていたかもどうだか。他はわかるんだけどね。」
「そうなんだ。やっぱり太郎本人に紐付けされるものは思い出せないんだね。」
「メールだけでも何とかなればよかったんだけど。」
「うん、しょうがないよ。新しく作るから大丈夫。気になるのは写真とかも撮ってね。地図もスキャンすれば持ち歩かなくて楽だよ。さっきタブレットって言ったけどパソコンなんだよ。キーボード外すとタブレットになるよ。一台しかないから大事に使ってね。」
「もちろんさ。かなり楽になるね。他に何か面白そうな機能入ってない?」
「うーん、音楽や普通にネット検索することくらいかな。音楽は私、CD買って取り込む派だから丸々入っているよ。太郎も好きなアーティスト、あ、それも思い出せないかな?」
「ああ。でもまあ、聴けば好きか嫌いかくらいはあると思うけど。何聴いていたんだか。」
「そう・・・、じゃあテレビでも街中でも耳にして気に入ったなら、誰の曲かわったらダウンロードしてあげるよ。」
「そこまでしなくても。」
「昼間ひとりは退屈だよ?探索の合間や一休みにいいんじゃないかな?」
「まあ、そうだけど。まずは姉ちゃんの趣味から聴かせてもらうよ。」
「そうだね。気に入ったら、何が好きか教えてね。」
「趣味合わねぇってなりそう。」
「趣味は趣味。合う合わないはあって当然。逆に太郎の気になるものとか出てきたら教えてね。それより、変なもの検索したり、ファイルとか見ないでね。プライバシー。」
「そんなの見ないって。」
「どうかな?最近、太郎の顔がいやらしいから不安。」
「マジ?最近って、会ってからそんな経ってないけど?俺そんなに変な顔してる?」
「うそ。でもね、今、最初会ったときより活き活きしてきたなって。あ、お風呂上りだからかな。」
「変なこと言うなよ。本気にしちまったじゃねえか。」
「ふふっ。元気出た?」
「何なんだよ。そんなことより姉ちゃんのほうはどうするのさ?」
「私はどうするか少しは考えてあるよ。」
「絵?とか?」
「そう。さすがね。両親が描いた絵を探す。まずはやっぱりそれしかないと思う。だから足を使ったり検索して調べたり。普段はスマホ使って調べたことはデータ化してパソコンにも入れて纏めておきたいんだ。だからタブレット壊したり、変なことしないでね。」
「ああ、いくらなんでもそれは大丈夫だよ。」
「じゃあ、後は自由行動ってことで解散。明日に備えよう。」
「へいへい。」
太郎は洗面所で歯を磨くついでに、顔がそんなにおかしいかを確認した。
月曜、お互いそれぞれの生活の場へと向かった。
ツキはいつもどおり登校すると席へと直行した。すでにアカネとアユミは登校しており、教室の後ろで談笑している。
一限目の準備、そして余った時間はスマホで親の絵画についての情報を集め始めた。しかし、どういうわけか、いくら検索してもヒットすることはなかった。生活は余裕があるほどの収入を得るくらいに売れたはずが、知名度もメディアを賑わした形跡も見当たらない。その限定的な存在が両親の交友関係は顔のない大人たちばかりであったことを思い出した。短時間での検索なので、まだ調べ方が不十分なのはわかっていたが、桜子が言っていた契約や願いと何らかの関係があったことに実感が持てた。さて、どうやって探そうか、そんなことを考えていると、後ろからアカネが声をかけてきた。
「ツキ。金曜はありがとね。ケーキね、すごく美味しかった。ケンジも喜んでいたよ。」
「ホント?よかった。」
アユミもいつの間にか横から会話に参加してきた。
「うん、マジ美味しかったよ。また他のも食べたいよ。」
「二人ともお店に来てくれて嬉しかったよ。」
アユミがやれやれといった表情で答える。
「なに、今まで誘ってこなかったくせに。アカネなんて昔からの友達なんでしょ?」
「うん、でも、何か恥ずかしくって。」
「まあまあ、私とアユミだけとはいえ、あの格好知り合いに見せるのって、最初抵抗あると思うよ。」
「え?結構いけてたじゃん。全然恥ずかしくないと思うけどね。」
「アユミは何でも自身満々だから。ツキはシャイなんだよ。」
「そう?あんた思っていたより話せるし、もっと胸張ってもいいと思うけどな。」
アユミはツキを頭から順に全身を何往復も眺めた。
「ちょっと、何?恥ずかしいよ。」
「まあ、胸は微妙にしろ、スタイルは悪くないと思うなあ。まな板だっけ?平べったいこと?」
「洗濯板。そういうのが好きって人も多いみたいだよ。ツキってそんなにないのかな?」
突然、アカネはそっとツキの胸を擦った。
「ちょ、やめてよ、二人とも。みんな見てるって!」
周りの生徒たちはいつの間にか三人を注目していた。ツキは耳まで真っ赤になった。
「あははっ、ツキのお店の制服姿SNS投稿してみようか?みんなの意見聞いてみるとか。」
「やだ、アカネ、人脈多いから変な人にまで届いてお店来たら困るよ。売り上げは上がるかもだけど。」
「そこはしっかり店員さんしてるね。」
「おいおい、この前の話か?」
教室へと入ってきたタカヒロが会話に参加する。
「あ、タカヒロ。ケーキ美味しかったよね。それとね、ツキの制服姿がかわいかったって話してたよ。」
「そうだな。ケーキも美味かったし、店員さんもかわいいなんて最高だよ。強いて言えば、そう、店の存在が知る人ぞ知るじゃない?」
「そんな、私は特にただのバイトだし。小さいお店だからそんな人呼べるほどでもないんだよ。」
「じゃあ俺たちは数少ない常連ってこと?」
「バカ、何言ってんのさ。まだ一回しか行ってないじゃない。」
「また行くから、それで常連じゃんか。」
会話が盛り上がってきたところで担任が教室へと入ってきた。三人は(じゃあ)と目配せしながらそれぞれの席へと帰っていった。どうやら太郎と一緒にいたことは三人には知られていないようだった。それでも、今のツキにはせめて三人、特にアカネには太郎のことは話したいと思った。そんな新しい感情に少し戸惑っている。
太郎はツキが客間に置いたパソコンを開いて色々と調べていた。モニターに貼ってある付箋に「地図フォルダのメモを見て」「ツキ専用は閲覧禁止」「連絡はLINE」と書いてあり、近くにはタッチペン、ポケットWi-Fi、イヤホン、家のカギ、百均で買った財布も置かれてあった。
パソコンの電源を入れると、ディスクトップに幾つかのアイコンやフォルダが現れた。ツキ個人で使用するアプリやデータは一つのフォルダに「ツキ専用」として纏められている。
地図フォルダを開くと、渡された地図を何ヶ所かに分けてスキャンしたPDFが格納されている。
LINEは太郎用に設定されており、ツキとはすでに友達となっているので、いつでもトークや通話ができる。
全体にアプリも少なく画面は全体的にすっきりとしており、他には検索用にデフォルト設定されたグーグルクロームのショートカット、ごみ箱、音楽再生用のアプリぐらいだった。
地図のフォルダを開いてそれぞれPDFを順に確認する。個々のPDFは太郎が区分けしたエリアを中心にスキャンしてある。フォルダには一緒にメモが入っていたので開いてみる。中にはPDFをスクショしてからコメントなどを記入するやり方、もしわかりづらければ直接メモを複製し書き込むようにと書いてあった。ツキの、太郎がツールの使い方も忘れたことを想定しての配慮が伺える。
ツキ専用フォルダが気になって眺めていたところ、そもそも圧縮されてもいないことに気がつき、パスワードがかけられている形跡は見当たらなかった。カーソルを合わせたが、クリックするには至らなかった。
(昨晩、ここまで準備してくれたんだな。)
太郎は駅前で買ってもらった麻袋のような黒いショルダーにパソコンのモニター部をキーボードから外してタブレットとしたもの、ポケットWi-Fi、朝食時に準備してくれた昼食が入った保冷の弁当袋を入れた。タッチペンはコート裏のポケットに差し込んだ。最後に財布を手に取って中を覗くと五千円札が入っていた。
(マジかよ。これは使わないようにしよう)
財布をズボンのポケットへ仕舞って玄関へと向かった。
「じゃあ、行ってくるか。」
自分に言い聞かせるかのように呟き、家を後にした。
今日も店は常連と、ほんの少しの新規だけでケーキは完売となった。
「あの子、時々来るようになったわね。」
ツキと歳も近そうな学生風男子を見送ってオーナーは嬉しそうに話しかけてきた。
「はい、ケーキ気に入ってくれたみたいですね。ハマったら全部食べてみたくなりますよね。」
「うーん、それはそれで嬉しいんだけど、ツキちゃんわかっているかな?」
「あ、すいません。もっと愛想よくしないとですね。また、淡々としていました。」
「ちょっと違うかな。」
「?」
「まあ、そこがツキちゃんらしさだものね。それにね、前より明るくなった感じするわよ。やっぱりお家に誰かいると楽しい?」
「そんな変わった感じしますか?太郎はぶっきらぼうで変に物事を理解している風にカッコつけて、いかにも男の子だなって感じで、結構大変ですよ。」
「まあ、いきなり弟ができたようなものね。そりゃ大変だわ。」
「でも、たまに気が合うなって思うところもあるんですよ。ぶっきらぼうだから逆に気を使わなくて済むっていうか。私もずいぶん不愛想だと思うんで、丁度いいかもです。」
「おやおや、素敵じゃない。気を使わないでいられるって、なかなかよ。案外彼氏として合っているかもね。」
「やめてくださいよ。どう考えてもありえないですよ。生意気でカチンとくることも多いです。」
「へえ、ツキちゃんがそう思うんだ。意外にサラッと流しちゃえる子かと思っていたけどね。それって向き合っている証拠じゃない。」
「そうなんですか?まあ、確かにほっとけないっていうか、ちょっと特殊というか。」
「ミステリアスな子なのね。」
「そうかも、です。」
「いいわね。ところで、受験忙しそうね。今時の子は頭いいから、テストの内容も大人でも難解なもの多いって聞くわ。そうだ、たまにはお店来なさいよ。いっぱいサービスしてあげる。」
「え、まあ、考えてみます。あっ、そうだ、突然ですいません、今週から出勤を週四とかに変更お願いしても大丈夫ですか?」
「太郎ちゃんでしょ?全然問題ないわ、シフトなんて私の自由なんだし、こっちもそう思っていたもの。」
「ありがとうございます。」
「もちろんよ。寧ろ、今まで週五、六なんて多いくらいよ。もっと遊んでもいいお年頃よ。」
「いいんです。私が希望して入っていたんですから。それに、そんな遊びたいってなかったですし。」
「そうね。ここで少しプライベートも増やすのにベストタイミングね。定休日の火曜日と学生らしく日曜日はお休みにして、遊んだり太郎ちゃんの相手してあげなさいな。で、あと一日は思い切って土曜でもいいし、他の好きな日にしてもいいわ。」
「土曜はさすがに忙しくないですか?」
「いつでも大丈夫。ツキちゃん入る前、私一人でお店まわしていたもの。今、ホントに助かっているわ。ちょっと甘えすぎ。」
「では、金曜にします。」
「オッケー。」
「そういえば、オーナーは母親と知り合いでしたよね?」
「そうよ。お母さんのこと、聞きたくなった?」
「母親というか、両親が描いていた絵についてお伺いしたいのですが・・・。」
「どういうことかしら?」
「はい、今、家には両親の絵が一枚も無いんです。親戚か誰かがこぞって持っていってしまって。一枚でも在り処知らないかなって。」
「ごめんなさい。全然知らないわ。あの家へ行った最後はお葬式。それ以降のことはわからないわ。」
「そうですよね。すいません、変なこと聞いて。」
「ううん、こっちこそゴメンね。あんなことあって何もできなくて。」
「そんなことないですよ。オーナーは引きこもりそうだった私に居場所をくれたんですもの。それだけで十分感謝です。」
「もう、この子ったら。私が男じゃなければ思いっきり抱きしめているわ。」
「全然気にしませんよ。」
「もう!本当にやったらセクハラって訴えられちゃうじゃない。」
「ふふっ。私の中じゃ、ほぼお姉さんです。」
「まあ、じゃあ、女同士買い物行きましょ。駅前で服見てご飯やおやつ食べて。あっ、駅前で思い出だしたけど、石宝堂って知っているかしら?アンティークショップなんだけど、そこには何かしらかあるんじゃない?」
「はい、知っていますよ。ちょうど昨日、ソファーを探しに行ったんです。けど、そこまで見ませんでした。」
「気になっているのに?」
「はい、絵のことはお店へ行った後に太郎と話して急に気になったもので、最初は気にもしませんでした。」
「そう。じゃあ、そこの主人に聞いてみたらどうかしら?ご両親と知り合いで職業柄何か知っているかもしれないわ。私、あそこの主人とは古い仲で、何度か聞いたことあるわ。ツキちゃん、昔、親御さんと一緒に買い物とかで行ったりしなかった?」
「ええ、額を買いについていったことがあります。」
「じゃあ、話は早いはずね。」
「ですね。実は今日ソファー届けてくれるので聞いてみます。ありがとうございました。」
「うん、手掛かりあるといいわね。」
日もすっかり暮れて、最後の片づけはオーナーが一人で行うということで、ツキはいつもより早めの帰路につくことができた。
住宅街に入ると、いつものことだが店の賑やかな照明とは無縁で、家の明かりとまばらな街灯では心許ない。また、太郎と出会った日のように、いつ闇に取り囲まれるのではとの心配から、不定期に後ろを振り返りながら速足で家へと急いだ。
いつもの角を曲がると、遠くにツキの家が見えてきた。今日、今までと違うのは、玄関に明かりが灯っている。そんなのはいつ以来だろうか。太郎がつけていてくれたようだったが、もしかしたら、両親がいるときでさえ明かりはついていなかったと思えた。
門の前に立ち、少しの間、明かりを見上げて立ち止まる。家に誰かが待っているという期待と安心感が、冬の寒さを少しだけ忘れさせてくれる。
「ただいま。」
初めての言葉みたいだった。
「おお、お帰り。」
キッチンから太郎が顔を出した。コートと荷物を片づけて、いつものようにテーブルに向かい合って座った。
「ソファー来た?」
「いや、まだ。」
「よかった。今日ね、オーナーが後片付けしてくれたから早く帰ってこれたんだよ。」
「ふーん、いい人じゃんか。」
「でしょ?太郎は何時くらいに帰ってきたの?」
「そうだな、時計は見ていなかったけど、暗くなるあたりには戻っていたよ。でも、特に収穫はなし。まあ、これだけエリア分けしているの見ると、一日二つ三つ回っても結構時間かかりそうだよ。いきなりアタリ引けば別だけど。」
「そう、でも焦らないでね。見落とさないようにね。」
そのとき、遠くから軽トラックのエンジン音が近づき、家の前で止まった。ふたりは直ぐに黙って耳を澄ましていると、少しの間を空けてインターホンが鳴った。カメラを見ると石宝堂の主人が映っている。
「はい、今、行きます。」
玄関の扉を開けると、門の前に軽トラックが着けてあり、主人が小さく手を振っていた。
「こんばんは、ツキちゃん。今ソファーを降ろすので、玄関と門を開けておいてもらえますか?」
「はい、開けます。」
ツキは急いで家の中へ戻り、下駄箱からドアストッパーを取り出して玄関の扉を固定した。その間に主人がトラックの縁までソファーを引き出し、足元に置かれた台車に乗せようとしている。
「あ!ちょっと待ってください!手伝います!」
いくら台車に乗せるだけとはいえソファーは一人で持つには難しく、主人一人では重労働なのは一目瞭然だった。ツキは急いで駆け寄りソファーの端を持って声をかける。
「じゃあ、いきますよ。せーの!」
ずっしりとした重みが両腕に圧し掛かる。息とタイミングを合わせながら台車の上にゆっくりと乗せた。
「ありがとう。ツキちゃん。」
「いえいえ、一人じゃ危ないですよ。」
「これでも時々もっと重い物を配達して、積み下ろしもしているんですよ。」
「私ん家だったらいつでもお手伝いしますよ。一声掛けてくださいね。」
「ありがとうございます。配達のときはお言葉に甘えさせてもらいますね。」
「もちろん。」
二人でソファーの乗った台車を転がし、門を潜り扉の前に着けた。だが、どうやらソファーの大きさでは入口には入らない。
「困ったなあ、やっぱり窓からかな。」
「そうですね。じゃあツキちゃん、窓も開けてください。」
客間へ戻り窓を開け、古いソファーとテーブルを奥へと移動してスペースを確保する。しかし、先ほどの重さを胸の高さまで持ち上げ、途中から一人で支えるのも考えただけで落としはしないかという不安と、どちらかが家の中から引っ張り上げなければならないのは相当力が必要なのは容易に想像できる。
「太郎、ちょっと手伝ってくれるかな?」
キッチンへ向かって太郎を呼んだ。最初、太郎は極力他の誰かに顔を合わせるのは避けるため、キッチンで待っていれば良いと思っていた。太郎の性格からも人前に出ることはしないと思い、声はかけなかったが、先日、主人には会っているので構わないとの判断だった。
「ソファーを一緒に持ち上げて。」
太郎が頷くと、主人も少し微笑んで頷く。
「では、最初は外で、みんなでソファーを持ち上げます。ソファーが半分以上窓に乗っかったらツキちゃんは部屋の中へ移動して、床に落ちないように少しずつ引っ張ってください。中と外でバランスが取れたら太郎君だったかな?ツキちゃんに加勢してソファーの端が窓に少し乗っかかるくらいまで引っ張ってください。最後は三人で部屋の中で持ち上げながら移動して床へ降ろします。」
「はい。」
「おう。」
「太郎君、ちょっと重いけどバランス取って支えるくらいで十分です。危なくなったらすぐに逃げてください。ツキちゃんも一緒にです。」
「大丈夫だって。俺も男だよ。姉ちゃんよりは力あるって。多分。」
「私、そんな非力じゃないよ。バイトで鍛えているし。」
「確かにあの中華鍋を軽々と振るのはおかしいって。」
「おやおや、おふたりとも力自慢のようですね。太郎君、あてにしていますよ。」
「おお、早くやろうよ。」
主人は満足そうにトラックに戻り、毛布を持ち出して窓の淵に養生として敷いた。
作業の開始の合図はツキの掛け声だった。
「じゃあ、せーのでいきます。」
「はい。」
「おう。」
「せーの!」
ソファーの両サイドをツキと主人、背もたれのある側のセンターを太郎が持ち上げる。ソファーが二人の腰の位置まで上がり一時静止する。主人は腰だけが沈んだかと思うと、さらにもう一段階持ち上げて、ソファーの片側を窓辺へと寄り掛かるように乗せた。主人は息一つ切らしていない。ふたりは細身の主人のどこにこんな力があるのか、驚き目を見開いて顔を見合わせた。
「おふたりとも息ぴったりですね。じゃあ、このままもっと持ち上げますよ。」
毛布を引きずりながら慎重に少しずつソファーを部屋の中へ押し込んで、ちょうど半分近くまで進めたところで、主人がツキへ声をかける。
「じゃあ、ツキちゃん、中で受け取ってもらえますか?」
「はい。すぐに行きます。」
ツキは急いで客間へと向かい、ソファーの反対側を受け取った。
「太郎君、大丈夫?」
「問題、ない。」
「じゃあ、中へと押し込みます。」
窓辺にあった重心が部屋の中へと移動していく。
「太郎君、そろそろツキちゃんを手伝ってくれますか?」
「おう。」
太郎は急いでツキのサポートへと加わり、ふたりでソファーをゆっくりと部屋へと招き入れる。ソファーの身体は部屋の中へと進んでいき、完全に重心がふたりのほうへと移った。
「それじゃあ、私もそっちへ行きますが大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。」
「じゃあ、少し頑張ってください。」
主人が手を離した瞬間、一気にソファーの重量が押し寄せ、すでに腕が笑っていた太郎がバランスを崩し、膝から崩れ落ちた。それと同時にソファーがふたりに覆い被さってきた。ツキも重心を捉えそこない、後ろへ倒れこみそうになったが、しゃがんだ状態で何とか倒れずに堪えたが手はソファーから離れてしまった。
その瞬間、ふたりの見る景色がスローモーションのように進み、隣で太郎が両手を上げて受け止めようと構えた。このままソファーの下敷きになるかと思われたとき、ソファーが虚空で静止したように見えた。そのタイミングを逃さず、ふたりは頭上でソファーを受け止める。
時間は動き出す。
駆けつけた主人が急いでソファーを支え、手が完全に軽くなったツキが体制を整えて立ち上がる。二人でソファーを持ち上げ、続いて太郎も加わった。窓に残ったソファーの反対側を主人が受け取り、完全に部屋の中へと引き入れることができた。
「では、ゆっくり降ろします。」
ふたりは返事の代わりに頷き、ゆっくりと窓辺にソファーが降ろされた。完全に落ち着くと、ツキと太郎はその場に座り込んで大きく息を吐いた。
「危なかった。おふたりとも、怪我はありませんか?」
主人の息切れは体力的な疲れより、緊急事態発生による心的な疲れだった。
「何とか、太郎は?」
「俺も、大丈夫。ゴメン、姉ちゃん、ご主人さん・・・。」
「大丈夫だって。結果オーライだよ。実は私も腕が限界だったんだよ。」
「ホントに?でもさ、ソファーが一瞬、空中で止まったみたいじゃなかった?」
「ほお、おふたりさんたち、ソファーに好かれたようですね。だから、ソファーも堪えてくれたんじゃないでしょうか。お陰で助かったのですよ。」
「そんなこと、あるんですか?」
「物も大切に扱えば何らかの感謝を返してくれるし、粗末に扱えばしっぺ返しをくらうこともあります。」
「まだ買ったばかりですよ。」
「買ってくれた恩と、一生懸命がんばっているおふたりを気に入ってくれたかもしれませんね。大切にしてくれそうなのを本能で感じ取ったんです、きっと。」
「なら、きっと太郎にじゃれてきたんだよ。」
「猛獣にじゃれつかれたら命取りだって。」
「ははは、それは大変。では、どちらへ置きましょうか?」
「後は、私たちでやるから大丈夫です。」
「そうですか?じゃあ、こっちの古いソファーのお引き取りで間違いありませんか?」
「はい、そうです。」
ふたりとも、また窓から搬出することを想像すると力が抜けた。
「こっちは少し小さいから、玄関から出そうですね。」
確かに二つを並べて比べると古いほうは一回り小さかったので、搬入時は玄関から入ったことを期待させる。
先も見えて少し気が楽になったツキは呼吸を整え、思い出したように主人に声をかけた。
「あ、すいません、忘れる前に聞きたいことがあるんです。」
「何でしょうか?」
「はい、両親の絵についてです。あのお店に、両親のはありませんか?」
「・・・。」
「どんなものでも構いません、一枚でもあったりしないでしょうか?」
「ごめんなさいね。今は無いんですよ。」
「全部売れちまったの?」
「いえ、やっぱり何人か売りにきた人はいましたよ。でもね、私は買い取らなかったんです。」
「何で?金になるんじゃないの?」
「はい、確かにそのとおりです。しかし、そんなことのために買うのが嫌でした。だって、明らかに勝手に持ってきたのが見え見えでしたから。私はね、どんな小さな物でも買い取るときには色々と聞きます。ご本人様についてだけでなくて、物についての出会いや思い出、来店の目的まで。直ぐにお金が欲しい人からすれば面倒くさいだけですよね。でもね、本当に大切にしていた人は沢山お話ししてくれます。だから、次の持ち主も大切にしてくれる人へと売りたいって思うのです。そうやって物が人から人へと渡り歩く、そんなお手伝いをしています。」
「だから、両親の絵を売りにきた人はお金目的で、ちゃんと引き継いでいないってことなんですよね。だから次の人へも渡せない、ですよね?」
「そう。だから一枚も買いませんでした。もし、ツキちゃんが売りにきたのでしたら話はまた別でした。」
「残念ながら、私が気づいたときには一枚も家にありませんでした。」
「それは酷いですね。あるとすれば、どなたか心ある方のお家にあるかもしれませんね。ご両親と親しい方とかいらっしゃればどうでしょうか?」
「うーん、本当に思いつかないです。生前多くの人が家に出入りしていたけど、誰も覚えていません。て、いうか覚えるほど、話した人が誰もいないです。両親も親しそうな人に私を会わせるなんてこともなかったし。」
「そうですか・・・。私も売りにきた人を思い出したり、何か記録が残っていたらご連絡します。」
「ありがとうございます。」
「ご両親の絵・・・。」
「何でしょうか?ちょっとしたことでもいいんです、覚えていることがあれば何でも教えてください。」
「はい・・・。ご両親の絵についてですが、特にお父様のほうですが、一目で不思議と引き込まれる魅力があるんです。何時間でも見ていられるというか。しかし、表現が難しくて、見た瞬間、まるで自分の中のもう一人の自分が引っ張られて、絵の中へ持っていかれるかのような感覚がありましてね、それでも妙な心地よさがあるんです。嫌なことやネガティブなものを持っていってくれるのではという期待感、それでも、心の一部を持っていかれるのではと、とても怖くなってしまいました。あの人たちは感じなかったのでしょうか?人によって違うのでしょうかね?そんなことを考えたら、お金以前に、お店に置いておくには危険かと思ったのです。手元に置きたいという強い誘惑もありました。ポリシーに反してでも買ってしまったら、独り占めしそうでした。」
「何か気味悪いな。」
「内容は全然そんなことはないです。とても綺麗な、世界の何処かにあるような風景です。置くだけで絵の世界がこちらの世界をも支配するような。逆にお母様のほうは、そこだけ絵の世界へ通じる窓が開くような、調和の取れた風景画でしたよ。まるで、心の中にある理想を表しているみたいで、お父様とは違った不思議な安心感、絵が悩みを聞いてくれる、すべてを受け入れてくれるみたいな心持になれる素敵な作品でした。そんな優しさが逆に不安になってしまいました。お父様の絵とは別の意味で何としても手に入れたい、誰にも渡したくない、そんな、好きな女性に対する感情みたいなものが湧いてきました。気がつくと絵に何か話しかけている私がいました。お客様には何も感じないようで、声をかけられたのが幸い、我に返りました。絵も人を選ぶ、だからやっぱり、危険だと思いました。」
「そうなんですね。見たこともなかったので内容すら知りませんでした。それが聞けただけでも、とても助かりました。ありがとうございます。」
「ちょっとは助けになってよかったです。」
主人は養生を何枚か持ってきて玄関までの壁を埋め尽くし、床も毛布のレッドカーペットを敷き詰めて、役目を終えたソファーを外へと送り出す道を作りあげた。客間まで台車を運び、ツキと主人はソファーを乗せた。新しいソファーに比べ、とても軽く感じた。
家の入り口は扉を全開にすれば、ソファーは引っかからずに進んだ。外に出たソファーは胸いっぱいに冬の空気を吸い込んで、体内を綺麗にするべく循環させているようだった。
最後に三人がかりでソファーを荷台に積んで台車と毛布、養生を片づけた。
「このソファー、擦り切れるくらい何人も人を座らせて役目を果たしたのですね。最後に、あなたたちに使ってもらって嬉しかったと思います。新しい子はとある事務所で大勢の人たちをもてなす予定でしたが、ほどなく会社が倒産してしまって、うちへと流れてきました。まだ若くてこれからなので、大切にしてあげてくださいね。」
「はい。大切に使わせてもらいます。今日はありがとうございました。」
「いつでもお店に遊びにきてください。あ、ウインドウショッピングでも別に何も買わなくても結構です。そのうち物と縁があれば引き合うと思います。その運命のときまで。」
「はい、時々お邪魔します。」
「何も買わなくてもいいなんて変な店。」
「太郎!」
「そんなお店もあるのです。お話しだけでも楽しいです。基本ヒマなお店なんですよ。」
「素敵ですね。」
「それでいいの?よくわかんね。」
軽トラックが見えなくなるまでふたりはその場で見送った。
「姉ちゃんは他にあてとかあるの?」
「うーん、ネットで検索してもヒットしなかったしね。ご主人さんのお話しからしても、やっぱりおかしい。桜子さんの言っていたとおりかも。」
「いきなり詰まった感じ?」
「かもしれない。でも、思い当たることもこれから出てくるかも。それにね、絵自体は検索されなくても、人だったら探したり調べることはできると思うんだ。だから定期的に石宝堂へ行ったり、気になる人に色々と聞いてみようと思うよ。太郎はこのまま継続だね。」
「それしかないね。地味に地図塗りつぶしていくよ。」
「そうだね。それにしても今日も色々あったね。落ち着いたらお腹空いちゃった。太郎は?」
「俺も急に腹減ったかも。」
「大分寒くなってきたし、早くご飯にしよう。さ、家入ろう。」
「ああ、そうだな。」
太郎が来てから忙しく、ツキはほぼ毎日就寝前にはお香を焚いてリラックスしていたのだが、それが全然できていなかった。今日も大変なことがあったが、気分は少し高揚して、少し落ち着くためのお香の香りを欲していた。幾つかストックしてある中でラベンダーを選んで火を点けて布団に入ると、リラックス効果に相まって肉体労働で疲れたようで、間もなく眠りに落ちてしまった。
翌日、高校に入ってから今まで平坦だった毎日が急に忙しくなったせいか、気持ちが高揚し、朝早くから目が覚めてしまった。太郎と出会ってから、まだ一週間も経たないが、ずいぶんと前から一緒に何かを探していたような気がする。ふたりとも、ひとりを望んで人を避けていながら、そう成りきれていないところから、お互いに親近感が湧いてくるのだろうか。
布団から出なまま天井を見つめる。目覚ましが鳴るまで、まだ時間があるのは外の暗さと、いつもの新聞配達のバイクの気配がしないことから推測できる。この時間が何ともいえず心地良いが、今日は気になることがあるので意を決し布団から飛び起きた。勢いをつけないといつまでも、目覚ましがなるまで動けなかった。
パジャマの上からセーターを着て、太郎を起こさないように気配を殺して一階へと向かった。客間へ入り、全体を見渡す。少し離れて、部屋の家具一式と比較すると、以前のソファーよりも大分大きいことを実感した。詰めれば三人は座れる大きさが、前回同様のレイアウトでは圧迫感を感じそうだった。
頭の中で家具の配置をシミュレートする。どうせこの家にはふたりしかいないのだし、対面では地図も資料も見づらい。隣り合って座れば一人用椅子は不要でその分余裕が出る。そうなると、椅子は来客時以外使わないので部屋の隅、以前母親の絵画が飾られていた壁側の隅へ並べて置いた。来客があるとすれば再度桜子か、それとも友人を招くことになるのか、そんなことを考えながら再び部屋を見回した。
昨日、ソファーを搬入した窓以外、部屋のもう一面にせっかくの出窓があるのだから、その下で採光の恩恵に与ろう、そう思い九十度ソファーを押して移動することにした。ずっしりと重いが、持ち上げるわけではないので、ひとりでも十分だった。色々な想像をしながら身体を動かしているうちに、寒さも気にならないくらい火照り出し、気分も上がってきた。
「私のソファー、ふたりのソファー、誰かのソファー。」
ツキは自然に思いついた歌を口ずさんでいた。
「姉ちゃん、楽しそうだな。」
「なっ、いつの間に!そんなとこで何してんの!」
「何って、起きたらこの部屋から物音したから見にきただけだって。」
「いつから?」
「さっきから。部屋、開けっぱだったよ。」
「そ、そう?いや、えっと、ソファーこれでいいかな?」
「ふたりで並んで座るの?」
「そ、そう。大きいし、そのほうが色々と資料見やすいかなって。」
「まあ、それでいいんじゃない。」
「あ、もちろん人来たら一人用の椅子も出すよ。でも、滅多に誰も来ないと思うし、せっかくだから広く使おうよ。」
明らかにツキは動揺しているが、太郎はいつもの調子で返す。
「ああ、別にいいんじゃない。」
「じゃ、じゃあ、朝ごはん食べようか。今日もきっと忙しいよ。」
「そうだな。姉ちゃんってあんまり歌、上手くないかもな。」
ツキは言葉を失い、真っ赤な顔で足早にキッチンへと向かった。太郎はそんなツキの表情を見逃さず、声には出さないが笑っている。
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