千羽葉月は空気を読まない
白羽 結葵
#1. Afterglow
事務所の配信スペースの一角。「配信中」と書かれたランプがようやく消え、部屋の中の人から大きく伸びをしながら少女が姿を見せる。
「おつかれさまでした、奏美」
「ありがとうございます、葉月さん」
統括マネージャーの
窓から見えるオフィス街の灯りは連続的に繋がっているわけでもなく、さすがにポツポツと点在しており、ビルのガラスに映る光は少なく、街全体が深い眠りに落ちつつある時間帯だった。
「今日の配信はどうだった?」
「いつも通りの深夜の無軌道な雑談配信。すごくほんわか作業をしながら聞くことができました」
九鬼奏美はYtuber事務所『ミーティア・グループ』のアイコニックな配信者の一人であり、ファンからは『ミーティアのエース』と評されている。今宵の配信はメンバー限定の雑談枠で、彼女の思いついたことや、コメントから拾った話題をダラダラと話す枠。彼女のメインコンテンツの一つでもある。
「葉月さんの状況は全くほんわかできそうな感じがしないんだけど」
「幸せ太りのようなものですよ。言うなれば幸せ仕事」
日中の葉月は、他部署からの連絡、修正依頼、そして配信者たちのサポートに追われている。マネージャー職が閑散とするか繁忙するかは担当配信者の活動量で変わってくる。奏美は自覚していないかもしれないが、彼女の存在が葉月を支えていることに繋がっている。
「あー、葉月さん、またエナドリ飲んでる」
「これは勝利の味なんだ。許せっ」
「許しません」
一息つこうとデスクの上に置いてあるエナジードリンクのプルタブを開ける。
終電も終わったこの時間、甘い炭酸の刺激は葉月の思考を一瞬だけ切り替えるスイッチだった。それに日中に飲んでいる職だと新人たちに意識づけるのは良くないものだ。ただでさえ、人手不足にある統括部に人がやって来なくなる。
「ふふっ」
「何がおかしい」
「葉月さん、そんなキャラじゃない」
「自分にも特大ブーメランとして返ってきていることを自覚してもらっていいですか?」
「当たって砕けろ精神です!」
「使い方間違ってるぞ……」
隠しきれない笑い声が二人から漏れる。
夜の帳が降りたこの時間はまったりとしていた。何せこの統括部全体が二人だけの空間になっており距離がいつにもまして近い。
「タクシーまだ来ないのか?」
「……てへっ。呼んでませんでした」
当然のことながら終電終わりの深夜に帰る手段などタクシー一択である。
奏美は急いでスマホを取り出してタクシーアプリを開く。こういうちょっと抜けているところが、葉月が思わず手を貸したくなる理由の一つだった。
「俺はもうちょっと仕事をするから気を遣わず帰ってくれよ」
「葉月さん、仕事のしすぎですよ」
「フレックスだよ。フレックス。俺出社したの17時だし、まだ9時間しか経ってない」
「普通にアウトですよ、それ」
九鬼の言うことは事実であるのかもしれない。なぜなら労働基準法において一日八時間が労働の上限として位置付けられているからだ。
だが、責任ある人間ほど、自分の休むタイミングが分からなくなるものだ。
「聖さんに報告しますよ」
「それはちょっと勘弁して欲しいかな」
聖とは千羽に唯一指示を出すことができる上司のことを示す。
テレワークに始まり勤務地をオフィスに固定化することも軽薄化するこの時代、いわゆる昭和の価値観と呼ばれる古いものが、特定の集団では当たり前でなくなりつつある。
「でも誰かがやらないといけない。九鬼奏美というチャンネル登録者五十万人規模のチャンネルを支えるものとしてな」
「私のせいで葉月さんが倒れたらどうしたらいいか」
「俺が休んだら聖さんが代わりにやるだろ」
社長だの代表だのその肩書きが必要な業務を請け負っている聖は現場で働くことは少なくなっている。それでも昔は現場の手伝いを積極的に行い担ってきた彼女。決して現場での仕事ができないわけではない。葉月が一人がいなくなったところで──。
「むー、そういうことじゃなくて……聖さんも葉月さんもほんと自己犠牲を厭わないなー」
「聖さんも俺もお前に生かせてもらっているんだから、こうやって奉仕するのは自明の理なんてな。聖さんに聞いても同じ旨が返ってくると思うぞ」
「ほんと、あー言えばこういう。むかつくー!」
「お前が口で勝つなんて百年早いわ」
──この子のためなら、多少無茶してもいい。
そう思わせる何かが、奏美にはあった。
「葉月さん、ちょっと話したいことがあって……」
「タクシー来たぞ」
葉月が外を見ると、オフィス前に一台のタクシーが停まっていた。奏美の言葉と、タイミングよく重なった葉月の声。
二人の視線が交差する。
静寂が落ち、心臓の音が僅かに大きく響いた気がした。
「葉月さん……また今度言いますね。お疲れ様でした」
奏美は笑ってみせ、タクシーへ向かった。
その背中には、かっこよさと可愛さが混在している。
「……今度か」
葉月は呟き、エナドリをもう一口飲み干した。
甘ったるい炭酸の味が、何故か急に苦く感じた。
窓の外に消えていくタクシーのテールライト。
その赤い光が遠ざかるのを眺めながら、葉月はふと胸の奥に小さなざわめきを覚えた。
彼女と喜び、彼女と怒り、彼女と哀しみ、彼女と楽しんだ日常──。
それがどこか遠いところに行ってしまうような不安がほんの少しだけ胸を締めつけた。
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