#11
「誰……? あなた――」
エステルもまた声を潜めて返した。
砦の中で自分に付けられた侍女は、ダライアスがエイジャー家から連れてきた女ばかりだったが、記憶にない顔――それも精彩を放つ顔立ち――の女が「逃げたいのでしょう?」と訊いてきたのだ。……そのような場合に警戒をするという思慮は持ち合わせている。
が、同時に、このときは騒ぎ立てるようなこともしなかった。
「――私のことはターラと。エステルさま」
女……ターラはそう答えると、エステルの大きく波打つ
「今宵、砦を抜け出ようという者らがいて、その者らが、貴女の意向を確認してこいと頼まれましたの。だからここまで忍び込みました」
「忍び込む……わたしの意向?」
まだ
「その者らが言うには、砦からお逃げになられたいのでしたら、ご一緒にお連れすると」
エステルは、敢えて何らの反応も控えた。
ターラは
侍女のしてよい行儀ではなかった。
だが、彼女のそれは堂に
そんな得体の知れないターラの目を、エステルは正面から見据えて言った。
「どうしてあなたが〝わたしを罠に掛けようというエイジャーの者〟でないとわかります?」
ターラは、ふふ、と口元を綻ばした。
「
「家名を持つということはそういうことでしょう」
エステルはいよいよ意固地に言い返したが、その口元は、
ターラは、まだ警戒を解かない北方の血を色濃く引く少女に、真正直に応じた。
「私にこれを頼んだのは〝昨日の水場でお会いした機士〟の一党です。エステルさま」
ああ……‼ と、少女に得心の表情が、ほんの一瞬、浮いたかも知れない。それでも少女の顔から警戒の
ターラの方もまた、動ずるふうを見せることなく、ただ少女を見返す。
やがてそれに耐えきれなくなった…――自分の硬く冷たい
「では……あの方は無事なのですね」
このとき、ターラは、内心でこの少女を好ましいと思った自分に、少々驚いたのだった。
が、そのような心中はおくびにも出さず、ターラは自分の知る事実だけを簡潔に伝えた。
「いまのところは。……ですけど、今宵のうちに
レイディ・エステルは思案顔を伏せた。
心中ではいろいろと考えが巡っているのだろう。
いかに貴族らしい押し出しに努めようとも、この娘は心の動きが
と、エステルが上目で探るように訊いてきた。
「あなたはなぜ彼らに
「ああ……」 ターラは、ここから先は〝貴族の侍女を演じる〟のをやめ、素の自分で応じることにした。
「それは〝お金〟ですよ。たいした報酬が頂けそうですから」
――…バートからは、彼らが〝シャイトンバラの行商人組合に百枚以上もの金貨を預託している〟と聞いた。見掛けによらず金持ちなのだそうだ。
「お金……」 その回答に、少女の表情は曇ったろうか。
それでも少女は、気を取り直したふうに表情を改め、問い質してきたのだった。
「――それで、あなたは
「そうねえ……」 ターラは答えてやった。「牢獄にいる三人のことは知らないわ。会ったこともないしね。でも、バート・ホジキンソンは少し知ってる。あーいう男は〝上手く腹芸のできる〟
エステルは、神妙な面持ちでその言を聞いている。
少しでも
そんな少女の顔を見ているうちに、ターラは、ちょっと揶揄ってみたくなっていった。
「それに――」
声に〝思わせ振り〟なものを滲ませてエステルを見やる。
それに反応して、エステルは目で先を促す。
ターラは芝居がかった言い回しになって後を続けた。
「さあ、これから逃げよう! というときに、〝
ターラの言葉に、少ししてから、目線を逸らせたエステルの頬が染まった。……それは淡いものだったが、ターラにはちゃんとわかった。
それから彼女は目線を戻したのだが、ターラはにんまりと、目だけで笑って返す。
少女エステルはバツが悪くなったか、取って付けたふうにこう訊いてきた。
「あの古い戦機も持ち出しますか?」
その質問はターラには意表だった。
なぜこんなときに〝戦機〟……?
それについては判らなかったし、差し当たって気の利いた返しも思いつかない。
「さあ、そこまでは……」 だから正直に答えて、肩を竦めて見せた。
対して、少女は、ほんの少しの間、思案顔になった。
それから意を決したふうな表情になって――その
(※ 〈五芒正教〉の祈りの用具。ロザリオのようなもの)
「これを――」 それなりに値打ちのある代物だ。
「砦のサー・ケネス・エイヴォリーに見せることで助力を仰げます。
少女が、あなたは必ずそうするの、というふうに真っ直ぐに瞳を向けて言い、ペンダントをターラの手に握らせる。
ターラは頷いた。
「これを使ってサー・ケネスの助けを得て、
わざわざ
その瞳の光と表情が、ターラは気に入った。
この娘は、わたしがこれを持って消えてしまうとは考えていないのだ。
なら、わたしターラは、これを頼まれてやらねばならない。
そうしなければ、ターラという女の〝
ペンダントを受け取ったターラは、くいっと口の端に笑みを浮かべると、くるり踵を返し、肩越しに少女を見て、最後にもう一度、肯いて返してやった。
♠ ♡ ♦ ♧
さて、ペンダントを受け取ったターラが、侍女の着る服から元の服装に着替えてバートの
常のターラであれば、やれやれと内心でだけ
当人曰く〝効率的〟な情報収集に
とまれ、この場でこの男を糾弾すれば、それはそれで痴話喧嘩じみて見えよう。野暮ったいことこの上ない。
そんな無駄なことはせず、ターラは、エステルの居場所と彼女との顛末を手早く伝えた。
話を聞き終えたバートの決断は早かった。
すぐさまサイコロ遊びを切り上げるやターラを伴ってサー・ケネスの部屋を訪れ、
するとバートの簡潔な説明と明瞭な助勢の懇請を聞いた老騎士はペンダントを見せられるや、それを受け取ったというターラに簡潔にエステルの様子を訊いただけであっさりとこの話を信じ、バートを向いて肯いた。
拍子抜けするほど簡単に話は付いて、事は動き始めてしまった。
♠ ♡ ♦ ♧
もともと眠りの浅いナットが牢獄の扉の外に人の気配を
ガチャリと錠の外れる重い音がしたとき、ナットはこぶしを固めて備えていた。もし機会があれば、牢番を襲ってここを出るつもりだった。
隣で横になっているデリクも、奥でイビキをかいている(ふうを装っている)ハリーも、同じく息を殺して〝その
樫材の扉が重々しく音を立てて開くと、その後の展開は、彼の備えたものではなく、それどころか思ってもいないものとなった。
老騎士サー・ケネス・エイヴォリーが扉から現れ、〝バートランド・ホジキンソンの繋ぎ〟で、そなたたちを助けに来たと告げたのだ。
三人、それぞれが呆気となりながらも警戒の目を向けると、老騎士は三人それぞれに取り上げた武器類を返して言う。
門塔から〈ウォレ・バンティエ〉――やはり老騎士は古戦機の素性を知っていたのだ――を奪い、その正統な所有者たるレイディ・エステル・グロシンと共に、この砦を脱出してもらう、と。
老騎士からエステル――水場で助けたあの少女がサイラス・グロシンの娘だったとは、このとき初めて知った…――の居場所を聞くや、ナットは返された小剣を腰に
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