#10 ⇒ キャラの背景を掘下げるシーン
「…――バート・ホジキンソンじゃないのさ? ずいぶんと男前が上がっているけれど、どうしてかしら?」
女の語り口は軽妙で、いっそ馴れ馴れしかった。
庶民の女性の多くが着る〝長袖のチュニック〟に〝
……そのことからも〝堅気〟の女などでないことは知れる。
が、その器量は〝上玉〟の部類だった。……勝気だが〝男好きのする顔〟というやつだ。
しかしバートには、そういう女の魅力は発揮されることはなかった。
バートは、声が耳に入ってきた瞬間には、自分の顔の筋肉が強張るのを感じていた。
「(……お前っ!)」
なぜか
女はバートの剣幕にも全く動ぜず、胸ぐらに伸びてきた腕を、するり、色っぽい所作で
「怖い顔。……少しは〝世界を見てきた〟かしら?」
「…………」
しな
女は小さく口を尖らすと、悪戯っぽく目を細めて見上げてきた。
「…………」
女の名前は知っている――…ターラだ。
そもそもバートがシャイトンバラの南の街道で〝優歩〟をする羽目になった切っ掛けは、彼女との出会いであった。
街道沿いのヴィルトハウス(宿屋兼食堂)の卓上で〝サイコロ遊び〟に興じていた彼女と意気投合し、気付けば街道を塞いでいた強盗騎士に勝負を挑んで柵を超えようということとなっていた。
その結果は、バート
何のことはない。強盗騎士を賭けに引き込む
どうしてくれよう――と、
持ち前の愛嬌と機転とで、どうやらこの砦でもよろしくやっているらしい。
ふと考えが浮かんだ。
彼女は砦の中を比較的自由に動けるらしい。
なら彼女に、あの水辺の少女――レイディ・エステルと呼ばれていたか…――の居場所を探らせられまいか。
おそらく、この後、ナットを救い出す手立てを講じたとしても、あの娘を置いていくことを少年は承知しないだろう、そうバートは踏んでいる。
経験上、
だから、最悪、脱出の際にはあの娘も助け出さねばならないだろう。
問題は、何で釣ってやれば、ターラを動かすことが出来るか、である…――。
♠ ♡ ♦ ♧
その頃には、ナットは、眠りともいえぬ浅い
向かい風を受け、ほつれた髪が暴れている。
風の強さに臆することなく、少女は昂然と顔を上げ、風上の方を見据えていた。
――…ああ……あの娘が俺の運命らしい……。
たぶん
でもそれでいいと思う。
騎士なんて、皆そんなものなんだろう。……俺は、あの娘の力になりたい。
♠ ♡ ♦ ♧
エステルは東の別棟の軟禁先の部屋に戻るや、真夜中にも関わらず、すぐさま湯浴みの準備をさせた。
様々な雑務から解放され、ようやく床に着けた侍女たちのことなど何も考えていないような振る舞いだったが、エステルは、敢えて
ダライアスがエイジャーの家から連れてきた侍女たちだ。……元からのグロシン家中の娘たちは遠ざけられていた。
どうせ昼のうちも仕事らしい仕事はしていないのだから、このくらいの〝嫌がらせ〟をしてやったところで、正義たる黄光に照らされようと何ら恥じ入ることはない(……と、思う)。
そもそも、なぜ
浴槽に納まったエステルは、北部とグロシン家を見舞った
〈アンヴィル家〉は北部総督〈ウェッバー家〉 の配下でも有力な
〈グロシン家〉は代々、ウェッバー家と〝戦機による軍役提供の盟約〟を交わすことで所領を安堵されてきた家柄であった。
小なりといえノルスタリー王朝への貢納の義務はなく、他の北部の小豪族のように長子を
そのグロシン家の本拠である〈グロシン砦〉は、高原へと繋がる北部辺境への上り口を押さえ、同地に散らばる辺境諸家へ睨みを利かせる要衝でもある。
――エステルは、女ながらグロシン家のただ一人の嫡子であり、父サイラスの
だから父サイラスが狩場で急逝したとき、いち早くグロシン家の縁者であるダライアスを通して弔問に参じ、それに
ダライアス・エイジャーは、自身、騎士ではなかったが〝騎士の家〟の出自の人間で、グロシン家とは母アリスがサイラスの妹という血続き――つまりエステルの叔母…――なのであった。
この男はアシュトンのお気に入りのひとりで、
……
アシュトン・アンヴィルがその野心を露わにするに辺り、北部での挙兵に先立って、戦費に充てる財貨を領民から収奪するために講じた手段は周到で、怒りを覚えるものだった。
アシュトンは、まず北部辺境の諸領に水を供給しているベーベ川の上流に人知れずダムを築いて水を
用水を止められた下流の住民らが折衝に人を送り出してくれば、片端からそれらを捕らえ、上流住民の仕業に見せかけて痛めつけは下流へと送り返す。
そうして上流の住民の非道な振る舞いを信じた下流の住民が、
なんという卑劣。貴族として決して許されぬ所業だとエステルは思う。
そしてダライアスはその尖兵として喜々と非道な行いに加担してみせた。……グロシンの家と砦とを継がせようというアンヴィルの甘言に、張り切って踊った結果である。
エステルがどうしても
確かにダライアスには、叔母アリスを介してグロシンの血が流れてはいたが、
それにこれではグロシンの家名は領民にとって怨嗟の対象となってしまう!
従兄妹同士という濃い血の交わり(※)を承知の上で、だ。……どんなことをしてでも、グロシンの家名と砦が欲しいのだろう。
エステルは「邪は黄光に
(※ ロージアンでの〈いとこ婚〉は、近親婚であるとして忌避の対象となっている。)
(※※〈黄光〉は『五芒正教』の
少しもリラックスすることのできない浴槽の中で、心中に湧いた嫌悪の情を振り払うようにエステルは想いをあらためた。
つぎはどうやって逃げ出してやろうか、と。
また捕まって連れ戻されるだけかもしれないけれど、それはそれで構わない。
エイジャーの者らの手を
が…――そんなふうに思う自分に、結局、エステルは溜め息を吐く。
本当なら一刻も早くここを出て、北部総督の許にこの事実を訴え出なければならないのに。……実際には、こんな愚にもつかない思いに唇を尖らせているだけだ。
知らずエステルは、唇を牽き結んでいた。
そんな湯浴みを終え、暖炉に火の入った部屋で新しい寝間着に着替えて髪を乾かす段になって、エステルは、髪を梳くのを手伝ってくれているこの夜の侍女が初めて見る顔なのに気付いた。
侍女はエステルの表情を読み取ったふうな表情になり、耳元にそっと囁くように言った。
「――…ここからお逃げになりたいのですね?」
その侍女は、髪をきちんと纏めてはいたが、そう、やはりターラであった。
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