第1章 femme fatale
第3話 図書室、ふたり、白い指
それから二年生に上がって、早くも二つ驚くことがあった。
一つは、自己紹介よりも早くクラス全体に僕のことが知られていたこと。なんだか距離を取られているなと思っていたが、なんでも「授業中教師に噛み付く危ない奴」と噂されているらしい。新学期が始まって少し経ったころ、ある人によってはじめて僕の耳にするところとなった。
危ない奴というのは正しくないものの、授業を止めたのは事実だったし、その噂が原因で僕に不都合なことを起こしてくる存在もいなかったのでとりあえず静観することにした。
大切なのはもう一つの方。いつかの図書室の少女──確か、真島凛だったか──が、同じクラスになったことだ。同学年であることは図書カードの学年色でわかっていたが同じクラスになるとは。
彼女という人間に興味があったことは否定しない。喜ぶ気持ちはある。だがそれはそれ、この程度ならこんな偶然もあるのだと流せる。僕を驚かせるには足りない。
ところが彼女は何を思ったか、「危ないやつ」が真っ先に手を上げたせいで空席になっていた図書委員に立候補し、あまつさえ「はじめまして。よろしくね、吉野くん」などと白々しい挨拶と握手を交わしてきた。ついでに握手の中に忍ばせて「また会えたね♡」なんて書かれたメモを渡してきやがった。
これらについて、僕には文句を言う権利があると思う。ただでさえ偏見を持たれている状況で、異性とこそこそ意味深なメモだの言葉だのを交わしていることがバレようものなら、尋常ではなく厄介な視線に晒されることは想像に難くない。
しかし文句を言おうにもこんな状況での正しい立ち回りなんて知らないし、面識はあるのに初対面のフリをしている人間にどう関わればいいかもよくわからない。だから彼女に声をかけるまで二日間もの時間を要してしまった。
二年生になってはじめての委員会の日。二、三年生だけの、一年生を迎える前の打ち合わせの場だった。
僕は図書委員会の副委員長に就任することになった。去年の読書量と当番担当回数を前にした司書の先生が推挙してくださったためだ。それは名誉なことだと思うし、みんなと協力してよりよい図書室にしていきたい、というような挨拶をさせてもらった。
それから早速
幸いクラスとは違って変な目で見られることもなく、二学年の間での意識のすり合わせは滞りなく進行した。
一通りの話し合いをきっちり時間内に終え、皆の帰宅を見送り、図書室から誰もいなくなったことを確認した後で、ようやく僕は隣に並ぶ少女に二日間抱え続けた疑問をぶつけた。
「で、なんなの君は?」
「おやァ? てっきり丁寧な言葉遣いを心掛けているものだと思っていたが」
「目上の人と目下の人、あと他人にはね。
「はは、仲間か、いいねェ……どういうもなにも、言ったろォ? また来るって」
詳しく聞いてみれば、どうやら彼女はあの後も何度か図書室を訪れていたらしい。しかし僕が当番ではない日だったりすでに帰っていたり……理由はともかく一度として僕とは会えなかった。そこで、いっそ図書委員になろう、そうすれば確実に会えるだろうと考えるようになったのだという。
「同じクラスになった以上その必要もなかったといえばそうなのだが。それはそれとして興味があってさァ、図書委員」
初対面のこともあってどうも怪しく感じられたけれど、先の説明の際は熱心にメモを取っていたし、質問や周囲との会話も積極的にこなしていたように思う。委員として相応しくないところはなかった。
僕こそ、偏見に染まってはいけない。一度や二度、おかしなことをしたからと言って彼女の言葉と行動のすべてを疑うのは筋が通らない。
「ちゃんと働いてくれるなら動機はなんでもいいや……ついでにこの際だから聞くけどさ、そのコロコロ変わる態度はなんなの?」
「ん? 然るべきところで然るべき振る舞いをしているだけだよ」
「どういう意味さ。じゃあ、初対面のフリをしたのは?」
「そりゃあ、あんな噂をされている人だからねェ。それに初対面であると皆に認識してもらうことが、後で効いてくるのさ」
「……噂?」
と、まあそんなわけで僕は自分自身の不名誉な噂を知ったというわけだ。
が、先も述べた通りそうした扱いについて僕は特段の興味も不都合も感じていない。目の前の少女のことの方がよほど気になる。今のちょっとした会話を通しただけで聞きたいことが一気に積み上げられてしまったくらいに。
然るべきところとはどういう意味か。どこに興味を持って図書委員になったのか。効いてくるとは何か。そもそも最初声をかけてきたのは何だったのか。そして──
──僕はなぜこんなにも、あなたのことが気にかかるのか。それは、聞けなかったけれど。
しかしいくら問い詰めても終止はぐらかされたまま数時間、最終下校のチャイムを二人きりの図書室で聞くことになってしまった。彼女はチャイムと同時にスクールバッグを肩にかけながら立ち上がり、「残念でしたァ」といたずらっぽく笑いかけてくる。
──ああ、こんな風に年相応に笑ったりもするんだ。ただその気付きだけが、今日の僕の戦利品だった。
図書室を施錠し、鍵を返却するために職員室に向かう。ほとんどの生徒は下校したのだろう、電気も話し声も消えた教室がずらっと並ぶ。窓から差し込む夕日に照らされて光るほこりだけが日中の喧噪の面影を残している。
先に帰って構わないと伝えたにも関わらず、彼女は黙って後をついてくる。
本当にこの人はなぜ僕に拘うのだろう。
……僕はなぜこの人をこんなにも意識しているのだろう。自分とは違って面白いからだろうか。それじゃまるで本を読んでいるときと同じじゃないか。人を本扱い、しているわけじゃないけど、それは失礼なのではないか。
結局最後まで彼女はついてきた。そのせいで僕の悩みも途切れなかったわけだが、ようやく昇降口まで来た。外履きに履き替え、仮にも一緒に降りてきた手前、彼女の方を窺う。
「まァなんにせよ、これから一年よろしく頼むよ、凌央」
こちらの視線に気付いた彼女は少し笑って、そう言いながら白く細い右手を差し出してきた。
久しぶりに他人から下の名前で呼ばれたことにも、あんなに強かな人がこんなにも繊細なかたちをしていた事実に直面したことにも、少し戸惑った。
「よろしく、真島さ、ん?」
それでも差し出されたからには返そうと右手を差し出した途端、凄まじい勢いで彼女が手を引っ込めた。どうかしたのかと彼女の顔を見上げてみると、とんでもなく不機嫌な顔をした彼女がぼやいた。
「こっちは名前で呼んでいるんだけど? 君も、ふたりきりの時くらいはいいだろォ?」
下の名前を呼ぶ。それは古来特別な関係であればこそ許された行為だった。無論現代では意味合いが変わっているのはわかるが、抵抗がないではない。
けれど「呼ばれたい」という思い自体を否定することはできない。人の心はその人だけのものだ、他者が侵すのは正しくない。が、それはそれとして──そんな風に自他の天秤に悩んでいるところに、見透かしたように彼女が一言するりと差し込んできた。
「それとも、恥ずかしいかい? 凌央」
「……じゃあ、よろしく、凛さん」
そこまで言われては、もう突っ込むしかない。なってやろう、
彼女はさん付けが気に食わなかったのか「そうじゃないんだよなァ」とかなんとか言いながら、しぶしぶといった様子で改めて手を差し出してきた。
握りしめた白い手は、やはり細く頼りなく柔らかくて、けれど確かな温かさを持っていた。
次の更新予定
2025年12月21日 07:00
正しくありたい。 指野 光香 @AlsNechi1436
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