第2話 真島凛

 放課後、僕はたいてい図書室にて本を読んで過ごす。個人的に読書が好きという理由もあるが、図書委員会として蔵書のすべてに目を通さなければならないだろうという判断が僕に本を読ませるのだ。とはいえ実際のところ、その行動に必要性があるかは疑わしい。なぜならこの図書室を読書のために訪れる人間はかなり少数だからだ。入学してからの十か月以上、ほとんど欠かさず図書室に通っているが、利用者と言えば僕以上に本を読んでいる本の虫さんか、ノートやワークを開いて自習する人くらいだ。それ以外の生徒たちは部活に励んでいるか、そうでなければ早々に帰宅して塾で勉強するか、駅前のアミューズメントで遊んでいるか……。つまるところ図書委員会としての仕事は基本的にない。開館直後と閉館直前に賑わう貸し出しコーナーを捌いてしまえば、あとはのんびりカウンターで本を読む余裕がある。もちろん、利用者が近付いてくることを察知し次第本は閉じる。受付として別の作業をしているのは正しくないから。

 ──この一年間ではじめて、そんな僕の正しさを損なってしまったのが今日だった。


 「あの、図書委員さん?」


 と、頭上から控えめな声がしてはじめて、僕はカウンターまで利用者が来ていることに気が付いた。確かに今日はシリーズものを読み切ろうと文庫本の山を作っていたことは事実だ。しかし周囲に配る分の気はきちんと持っていたはずだし、視線もきちんと通していた。それなのにどうしてか目前まで接近に気付けなかった。末代までの恥だが、ここで悔やむ暇はない。


 「ああすみません、貸し出しですか?」


 慌てて顔を上げて、二つ驚くことがあった。

 一つは、相手が初めて見る人物であったこと。こんな年度末になってから初めて図書室に訪れる人間がいるのかと、どんな用事なのだろうかと、純粋に気になった。しかしそんなことは個人の事情だ。僕が気に掛けることではないことはわかっていたし、実際僕の驚きの大半はもう一つの理由が占めていた。


 「あ、いえ、本を探したくて。委員さんなら詳しいかなぁ、って……お忙しいのにごめんなさい」

 「お気になさらず。本と利用者さんを結び付けるのも我々の仕事です。どのような本か、うかがってもよろしいでしょうか」


 もう一つは、利用者の少女が美人であったこと──勘違いしないでほしいが、僕は容姿で人を判断するような正しくない人間ではない。ここでいう美人というのは容姿の話ではなくて、気品というか立ち居振る舞いというか、そういった自然と身に纏うものの話だ。なんとなく、彼女の一挙手一投足が美しく見えたという、ただそれだけ。言葉にすればそれだけではあるのだが、初対面の誰かをそんな風に思うことは滅多にないから自分でも驚いた。

 そんな驚きのせいだろうか、僕がいつも通りではない対応をしてしまったのは。


 「ちょっと、説明が難しいんですけど……」


 昼休みの当番でカウンターに座っていると、この本はないのかあの本はどこかと、そんな問い合わせはよくあることだ。しかしそういう問い合わせは基本的に機械に任せることになっている。学校や図書館のような公共施設においては、マニュアルによって「いつでも」「どこでも」「誰でも」同じサービスを提供するのが正しいからだ。

 つまるところ、僕の対応は紛れもないミスだ。


 「実はもうパソコンでは調べたんですが、調べ方が悪いのかピンとくるものが出てこなくて……うろ覚えで描いた表紙のイラストでわかったり、します……?」

 「拝見させていただきます。力になれるかはわかりませんが──」


 だが今回に限ってはギリギリ正しい側に収まったらしい。ミスはミスだが遅いか早いかの違いで済んだのだ、九死に一生を得たといったところか。

 さて、タイトルも作者も覚えていない、けれど読みたい本がある……本を趣味にしていれば大して珍しいことでもないが、だからこそそのもどかしさが痛いほどわかってしまう。何とかしてやりたいと──あくまでも図書委員として──そう思った。

 ところでこれは自慢ではないが、僕は一年生ではあるが、図書委員の中で最もここの蔵書に詳しい。ほぼ毎日委員の仕事を請け負っているだけのことはあると自負している。


 「……こんな、表紙だったと思うんです、文庫本で」

 「……な、るほど?」


 そこには、いわゆる絵画的な女性がひとり。そりゃあ見覚えがあっておかしくないだろうというくらい「よくある」表紙だった。しかも文庫本ということは出版社や出版時期によっても表紙は変わるだろう、判断材料としては使えまい。

 これが自分の探し物なら本棚を端から端まで掘り返せばいいだけなのだが、客人の探し物となるとそう無駄足は踏めない。どちらがマシか少し考えて、素直にほかの特徴がないかを尋ねることにした。


 「確か、海外、フランスの作品だったかな……かなり昔の本で……」

 

 古いフランス作品ということならある程度絞り込むことができる。『モンテ・クリスト伯』とか『星の王子さま』とか『レ・ミゼラブル』とか、有名どころなら当然この図書室にも蔵書がある。フランス文学コーナーに移動し、いくつかの本を抜き出してみたものの、どれも彼女の探すものではないという。


 「その、お話の内容などはわかりませんか? 簡単なあらすじとか、登場人物だけでも」

 

 隣で本棚を眺める少女に改めて問うと、彼女は躊躇った様子で言い淀んだあと、少しずつ話し出した。


 「……恋人が、出てくるんです。でも、甘酸っぱい感じじゃなくて。妖しい感じで、女の人が館に連れられて、どんどん堕ちていく感じで──」

 「……あー」


 思い当たってしまった。古い、フランスの、女性が表紙になっていて自然な内容で、かつ男女の妖しい話。いや確かに映画化もされたし受賞歴もあってどこかで目にしてもおかしくはない、ないが。


 「あの、違ってたらすみませんけど『O嬢の物語』なら無いですよ。流石に内容が内容ですから、高校図書室には置けないです。この辺で借りたかったら市立図書館かな」

 「え……」


 いくらなんでも学校図書館に官能小説の類を求めるのは──身近な図書施設に頼りたくなる気持ちはわかるが──正しくないだろう。それでつい、とげのある言い方になってしまった、気がする。スタッフとしては愚かしいにも程がある。

 二度目の醜態を晒したことがいたたまれず、少女の方を振り向けない。引き出した本を戻す場所を忘れたフリをしながら、彼女の続く言葉を待つ。

 すると僕の肩先のあたりから、先ほどと同じだが全く異なる声が聞こえた。


 「なァ、君」


 声に反応して振り向くと、インクよりも黒い瞳に映る自分と目が合った。僕が声も出せなかったのはその大きく深い黒に囚われてしまったからだろうか。それとも、目前に迫る未知の存在に言いようもない恐怖を覚えたからだろうか。──どちらでもいい。どちらでもいいから、そのどちらかであってほしい。


 「それだけかい? 普通、こんな見るからに優等生〜、って感じの人間が官能小説を探してるのを知ったら、もォ少し相応しい反応ってものがあるんじゃあないかァ?」


 周囲に誰もいないからか、それとも彼女の美しさ故か、ひそめているはずの声が4DXよりも響いて僕を揺さぶる。けれどその揺れが、僕を正気に戻してくれた。自分で自分のことを優等生と呼ぶ……のはまぁ、いい。そう言えるだけの風格はあると思う。だけど人柄と本に相応しい対応、というのは違う。


 「誰が何を読んでたって気にしませんし対応も変えませんよ、僕の仕事は人と本を結ぶことです。本や人によって対応を変えるのは正しくない」

 「……ふゥん……立派だね。ではもう一ついいかな」

 「……どうぞ」

 「目の前に突然美少女が現れたらもっとこう、ないのかい? ずっと黙って目線逸らしてさァ……それとも女に興味はないかい?」


 今度こそ、僕は正当な理由で言葉を失った。僕に対する見方という意味でも、固定概念やら美醜感覚やら、いろんな意味でも正しくない言葉にどう答えていいかわからなくなって──というか図書委員としてそんな対応は想定されていないから──結局、いつもの僕で応じた。


 「君が美人かどうかは置いておくけど、人の容姿で対応を変えるほど正しくない人間ではないよ僕は」

 「外見で相手の危険度を測るのは生き残る上で重要な能力だよ?」


 揚げ足取りだと、率直にそう思わざるを得ない。相手の危険度を測ることと、目の前の人間の容姿で対応を変えることは全く別のことだ。見た目という共通点だけを使って三段論法のようにこじつけているに過ぎない。


 「論点がずれていますよ。僕は相手の容姿がどうあれ対応を変えるべきではないという話をしています。それとも、あなたが実は危険な人物だから気を付けろとでも言いたいんですか?」

 「それこそ論点をズラしているに過ぎないさ。今は見た目を判断すること自体の是非を論題にしているんだよ。わかるかい? 見た目で、じゃあない」


 なるほど言いたいことはわかるし一見筋は通る。確かに僕への反論だけ切り取るなら彼女の言うことは正しい。けれど彼女ははじめ美人に対して相応しい反応はないのかと問うた。それは結局「見た目で」じゃあないのか。


 「ついでに言えば、仮に見た目で判断したとして喜ぶ分にはよくないかァ? 誰も傷付かないじゃないか」


 傷付くかどうかというのはまた別軸の問題であって、今は容姿で行動を変えること自体の問題性が論題なのだ。そもそもの話、容姿を判断するというのだって服装や持ち物で測るのと顔や体つきで測るのは違う。前者は危機回避につながるかもしれないが後者は単なるルッキズムだ。

 反論すべき内容は山ほど浮かんで、けれどそれ以上に僕に浮かんできたのは仕事の二文字だった。今はあくまでも仕事中で、この人はあくまでも利用者だ。売り言葉に買い言葉で喧嘩をしていたんじゃあ図書委員失格だ。仏の顔も三度まで、これ以上のミスは犯せない。


 「そうかもしれませんね。……では、まだ仕事がありますので」

 「おいおい、待てって。貸し出し処理をしてくれなきゃ帰れないだろォ? それ、せっかくだから借りたいんだよ」


 そう言うと彼女は僕が戻そうとしていた『星の王子さま』をひったくってこちらをまっすぐ見据える。残念なことに今日の委員は僕しかいない。気楽だと思って喜んでいたワンオペの弊害がまさかこんなところで出るとは思わなかった。


 「……はい。ではカウンターにどうぞ」


 少女は楽しそうに、そしてやや偉そうに僕の後に続いていたが、本棚の影から出る頃には元通り控えめな空気を纏っていた。ほとんど並んで歩いていた僕でさえ本当に同一人物か──目線を切ったタイミングで別人に入れ替わったのでは──と、非現実的にも疑うほどだった。

 スリープしておいた貸し出し用のPCを起動しながら、コードリーダーと名簿を取り出す。


 「図書カードはお持ちですか?」

 「はい。お願いします」


 同一人物の声の幅というのはこんなにも広いのかと感心した。言葉遣いや口調が違うとかそういうレベルではない。先ほど僕を問い詰めてきた小さな爆音と、今目の前から聞こえる鈴の音が、同じ人物から発せられているとは信じられない。やろうと思ってできることなのだろうか、無意識なのだろうか。意識的なものならどんなときにこんなことをする必要があるのだろうか。……彼女といるとどうしてか思考が止まらない。このままではまた余計なことを口にしそうだ。

 そうなる前にさっさと終わらせてしまおう。差し出されたカードを読み取り、確認のため画面に表示される名前を読み上げる。


 「えー……真島、凛さんですね」

 「はい」

 「ではこちら、返却期限は二月十六日です。忘れずに──」


 貸し出し処理を終えた本を渡そうとして、彼女に手を重ねられた。そちらに視線と意識を向けさせられた瞬間、今度は身を乗り出してきた彼女が耳元で囁いた。


 「また来るよ。今度は、君の考えをゆっくり、聞かせておくれ」


 返事もできない僕を尻目に彼女は本を片手に図書室を去っていく。

 どうしようもなく甘い匂いを残して。

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