第14話

試合当日。


開始は十八時。


唯は澄香にお願いして、一緒に隣町まで向かっていた。


車の中には、夕暮れの名残がまだ少しだけ残っている。


しばらく他愛のない話をしていた澄香が、ふと思い出したように口を開いた。


「だいちゃんが言ってたやつ、大丈夫だった?」


唯は窓の外を見ながら、少し考えてから答えた。


「本人はいないって。なんだろう……なんか、よくわからないけどさ」


「うん」


「私は、本人が言うことを信じようと思って。もし万が一、嘘だったとしても……彼が言うことを、私は信じたい」


「そっか」


澄香は少しだけ黙ったあと、唯のほうを見た。


「でもさ、確かに本当にいたら、会社のやつに呼ばないよね?」


「まぁね」


唯は小さく笑った。


そして、ふっと表情を緩める。


「ただ……私、すごく嬉しくてさ」


「何が?」


「試合もだけど……こうちゃんと、こうやっていられる日々が」


その言葉を口にすると、胸の奥がじんわり温かくなった。


「私……もう、保護者じゃなくて。こうちゃんのことが、すごく大好きなんだと思う」


澄香が吹き出した。


「唯?! 今さら真顔で言うことじゃないって!」


「え?! そうなの?」


「そうだよ。今まで散々見てきた私からしたら、何を今さらって感じなんだけど」


「……そっか」


唯は照れたように笑う。


「だから私、こうちゃんと一緒にいたいんだ。こうちゃんといると安心して、幸せで……終わりたくなくて。だから“大親友”って言っちゃった」


「大親友ねぇ……」


澄香は意味ありげに笑った。


「こうちゃん、絶対我慢してるって」


「いや……多分、女として見てないんだよ。私のこと、猫かなんかだと思ってるんだって」


「んなわけないだろ!」


澄香は笑いながら声を上げた。


「大人だから、理性で我慢してるんだって! あーあ、こうちゃんかわいそー」


「もう……」


唯の頬が赤くなる。


「そんなこと言われても……私、キス以上したことないから、わかんないよ……」


「可愛いのに」


澄香がふっと優しい顔になる。


「唯の家、すごい厳しかったもんね……。きっと、こうちゃんが唯の……」


「きゃー!!」


「やめてよ!」


二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。


そんな他愛のない会話をしているうちに、会場へと到着した。


季節は、秋の終わり。


外はもう真っ暗で、冬の澄んだ気配が、冷たい風とともに顔を覗かせていた。


会場の中へ入ると、アイスリンクでは選手たちがアップを始めている。


白い氷の上を、何人もの選手が軽やかに滑っていた。


「こうちゃん、どれだろ?」


澄香が目を凝らす。


「っていうか、ユニフォームどっち?」


「えーっと……」


唯もリンクを見渡した。


「あ……!」


澄香が突然声を上げる。


「多分、あれ! 岡崎って名前、書いてない?!」


唯の視線の先。


そこには、氷の上を滑る晃哉の姿があった。


その瞬間。


晃哉もこちらに気づいた。


リンクの端まで滑ってくる。


「唯、来てくれたんだ」


少し息を弾ませながら、晃哉が笑う。


「スカート寒くない? もうすぐ始まるから。温かくしてなよ?」


そして、優しい声で続けた。


「来てくれてありがとうね」


そう言って、晃哉は手を振りながら、再びリンクへ戻っていった。


その後ろ姿を見送りながら、澄香が興奮したように言った。


「ヤバい。かっこいいんだけど!」


「そう?」


「今、ドラマでやってるキムタクみたい!」


「キムタクは言い過ぎでしょ」


唯は笑いながら突っ込んだ。


けれど――。


試合が始まると、そんな冗談を言っている余裕はなくなった。


リンクの上に立つ晃哉の表情は、いつもの優しい顔とは違っていた。


真剣で、鋭くて。


氷の上を、軽やかに滑っていく。


その姿が、本当にかっこよかった。


そして――。


晃哉がゴールを決めた。


大きな歓声が上がる。


その瞬間、晃哉がこちらを見た。


まるで、


「見てた?」


そう言っているかのように、腕を上げる。


そして、笑った。


唯の胸が、大きく跳ねた。


「きゃー!」


「今の見た?!」


気づけば唯も澄香も、子どものように声を上げていた。


試合に夢中になっていた。


応援することが、こんなに楽しいなんて思わなかった。


そして試合は――。


晃哉の会社の勝利で幕を閉じた。


試合が終わると、晃哉が再びこちらへ近づいてきた。


「これから片付けして帰るから、気をつけて帰るんだよ?」


それから澄香にも笑顔を向ける。


「澄香ちゃんも来てくれてありがとうね」


そして唯を見る。


「唯、帰ったら連絡するね」


「うん」


それだけ言うと、晃哉はまた戻っていった。


その背中を見送りながら、澄香がぽつりと呟く。


「……こうちゃん、優しいな」


「ね」


唯も笑った。


「試合、すごかったね!」


帰り道。


唯は何度も今日のことを思い返していた。


「澄香、今日ありがとうね。一緒に来てくれて」


「いいよ。私も唯にお祭りとか付き合ってもらったし」


澄香は笑う。


「いやー、その祭りからこうちゃんと唯が仲良くなってさ。しかも試合、何気にすごい楽しかったし」


「ふふっ」


やがて澄香を家まで送り届け、唯も自宅へ戻った。


玄関を開けると、家の中はシンと静まり返っていた。


お風呂へ直行する。


湯船に身体を沈めると、今日一日の疲れがゆっくりとほどけていく。


そして目を閉じると、また晃哉の姿が浮かんだ。


氷の上を滑る姿。


真剣な横顔。


ゴールを決めたあとに見せた、あの笑顔。


「……かっこよかったなぁ……」


思わず呟いてしまう。


お風呂から上がり、髪を乾かして部屋へ戻る。


そのとき、携帯が小さく震えた。


メールが一件。


送り主は、晃哉だった。


『唯、今日は来てくれてありがとう。おっさん、筋肉痛ひどい笑』


唯は思わず吹き出した。


すぐに返信する。


『すごく楽しかったよ! かっこよかった! おっさん、唯ちゃんがマッサージしてあげようか?笑』


ほどなくして、返信が届いた。


『あはは。いつものよろしくね。』


――いつもの。


それは、晃哉にとっての「会いたい」の代わりだった。


唯には、それがちゃんとわかっていた。


『はぁい。いつもの、ね。早く会いたいからダッシュで行きまーす!』


『気をつけておいでね。』


たったそれだけのやり取り。


けれど、それだけで胸がいっぱいになる。


晃哉との間にある、この「いつもの」が。


当たり前のように続いていく毎日が。


唯には、本当に幸せだった。


晃哉の部屋へ行く。


部屋に入ると、さっきまで晃哉が着ていたユニフォームや服が、きちんと乾かされていた。


「すっごいかっこよかった!」


唯が笑う。


二人で乾杯をして、今日の試合のことを話す。


晃哉は少し疲れた顔をしていた。


それでも、唯との時間を作ってくれた。


それが嬉しかった。


いつものように、二人でベッドに入る。


いつものように、キスを交わす。


けれど――。


いつもと少し違った。


重なった唇が、少しずつ深くなっていく。


唯は息をすることさえ忘れてしまった。


「こ、こうちゃん……ごめん。私、息できない……」


晃哉は、少し不思議そうに唯を見つめた。


「……ごめん」


「ううん」


唯は小さく笑った。


「私が経験ないから。こうちゃんとは初めてのことだらけで……なんか幸せなんだけど、ごめん。笑」


照れ隠しのように笑って続ける。


「もうちょっと人生経験つんできます。笑」


その言葉を聞いた瞬間。


晃哉の中で、何かが切れた。


「ごめん、唯。俺……」


その先の言葉は、夜の静けさに溶けていった。


夜が、二人をそっと包み込む。


そして唯は、晃哉に身を任せた。


――ねぇ、こうちゃん。


私ね。


あの日のことを、忘れるなんてできないよ。


こうちゃんの優しさに包まれた日。


初めて、大好きな人と結ばれた日。


すごく幸せだった。


こうちゃんとの「初めて」が増えていくたびに。


私は、幸せだった。

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