第13話

「唯、風邪、すっかりよくなったよ。ありがとう。お礼したいから、仕事終わったら明日うち来れる?」


晃哉から届いたメールを、唯は何度も読み返した。


たったそれだけの文章なのに、胸の奥がふわっと温かくなる。


「良くなってよかった! お礼なんて大丈夫だよ。でも、こうちゃんに会いたいから、仕事終わったら行くね。」


送信ボタンを押してから、唯は小さく笑った。


――こうちゃんに会いたい。


その気持ちを、隠す理由なんてなかった。


仕事を終えた唯は、いつも通り微糖のコーヒーを一本買った。


晃哉の社宅へ向かう道を歩きながら、少しだけ足取りが軽くなる。


ドアの前に立つと、胸がどきんと鳴った。


何度来ても、ここを開ける瞬間だけは少し緊張する。


「ただいま!」


自分の家でもないのに、そう言ってしまう。


すると、すぐに晃哉の声が返ってきた。


「おかえり。仕事お疲れ様」


その言葉だけで、唯の顔には自然と笑みが浮かんだ。


「これ、実家から届いたんだ。俺の地元の肉。食べたことある? おいしいから、一緒に食べよう」


晃哉はそう言うと、届いたばかりの肉を嬉しそうに見せた。


料理を始める前、服に匂いがつくからと、晃哉は唯の上着を受け取って奥の部屋へ運んでいく。


そんな何気ない仕草さえ、唯には嬉しかった。


ここにいる。


こうちゃんと同じ空間にいる。


それだけで、心が満たされていく。


「唯、本当にありがとう」


料理をしながら、晃哉がふいに言った。


「熱下がって、冷蔵庫見たらさ、たくさんあって。びっくりしたけど、本当にありがたかったよ。うどんもおいしかった」


唯は照れもせず、いつもの調子で笑った。


「きっと私の愛情がたくさん入ってたからだね」


くったくのない笑顔。


冗談みたいに言うその言葉に、晃哉も思わず笑みをこぼした。


「唯って、本当に……」


「え?! なに?」


唯が顔を上げる。


「変なところで止めないでよぉ」


晃哉は少しだけ困ったように笑った。


「いや、本当に素直だし。思ったこと、恥ずかしがらないで言葉にしてくれるよね」


「え、あぁー、バカってこと? 笑」


「いや」


晃哉は首を横に振った。


「本当に、まっすぐで素直だなって思っただけ」


その言葉の意味を深く考えることもなく、唯は目の前の料理に夢中になる。


一口食べた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。


「これ初めて食べたけど、めちゃくちゃおいしー!!」


頬を両手で押さえながら笑う唯を見て、晃哉はまた笑った。


――可愛くて、しょうがなかった。


その笑顔を見ているだけで、胸の奥が柔らかくなる。


しばらくして、晃哉がふと思い出したように口を開いた。


「唯、二週間後に隣町でアイスホッケーの試合があるんだけど……見に来てくれないかな」


「え?!」


唯が驚いて顔を上げる。


「こうちゃん、アイスホッケーやってるの?!」


「うん。子供の頃からやってて。今は会社のホッケーでやってるんだけど。良かったら見にこない?」


「すごい!」


唯の目が一気に輝いた。


「行く! 行く行く行く! 絶対行く! 応援しちゃう!」


あまりにも嬉しそうな唯に、晃哉は笑いながら頷いた。


「ありがとう。頑張るね。笑 後で場所教えるわ」


「うん!」


その返事は、迷いなんてひとつもなかった。


こうちゃんが頑張っているところを見たい。


こうちゃんを応援したい。


ただ、それだけだった。


その夜、唯は泊まることになった。


晃哉が服を貸してくれる。


袖を通した瞬間、唯は嬉しそうに笑った。


「こうちゃんの匂いがするー!」


「はい、歯磨き。予備あるから使いな」


照れ隠しみたいにそう言って、晃哉は歯ブラシを渡した。


二人並んで歯を磨く。


鏡越しに目が合って、どちらからともなく笑った。


「なんか不思議だね」


「え? なにが?」


「今は俺たち、一緒に歯磨きしてるんだよ? 笑」


「確かに。笑」


唯も鏡の中の晃哉を見ながら笑う。


「出会ってから、私たち歴史を刻んでるんだね。笑」


その言葉に、晃哉が吹き出した。


「ちょっとー。汚いー。笑」


二人の笑い声が、小さな社宅の部屋に響いた。


やがて灯りを落とし、ベッドに入る。


隣に晃哉がいる。


その距離が近いだけで、唯の心臓は少し速くなる。


晃哉は唯に腕枕をした。


しばらく沈黙が続いたあと、静かな声が落ちてきた。


「俺さ、こっちに来たら、自分変えたかったんだ」


「うん」


「でも、やっぱ自分は自分のままでさ」


晃哉は天井を見つめたまま続けた。


「毎日がただ過ぎていって……」


そして、少しだけ間を置く。


「唯に出会えて、変わったかな」


唯は晃哉の顔を見上げた。


けれど、そんな大切な言葉を受け止めるには、あの頃の唯はあまりにも無邪気だった。


「ラブなんだね~。笑」


からかうように笑うと、晃哉が唯の頭を軽く小突いた。


「もう」


そして、目が合う。


言葉が途切れる。


晃哉が唯を見つめたまま、そっと唇を重ねた。


「おやすみ、唯」


「……不意打ち」


唯は少しだけ笑って、甘えるように言った。


「こうちゃん、もっかい、おやすみのちゅーして」


晃哉は照れくさそうに目を逸らした。


「ほら、また唯はそんな言葉平気で……」


「え?」


その先の言葉を聞く前に、晃哉からのキスが重なった。


さっきよりも長く、深く。


唯はただ、目を閉じた。


やがて晃哉は、はっとしたように身体を離した。


「ほら、寝るよ? 明日も仕事でしょ」


そう言って、何事もなかったように目を閉じる。


唯もその隣で、そっと目を閉じた。


あの頃の私は、それが晃哉にとってどんな時間だったのかなんて、何も知らなかった。


ただ嬉しかった。


こうちゃんと一緒にいられることが。


こうちゃんに触れられることが。


そして、こうちゃんと交わすキスが、大好きだった。


***


ねぇ、こうちゃん。


私は、とても子供だったよね。


こうちゃんが我慢していることにも気づかずに。


何を考えているのかも深く考えずに。


ただ、自分の気持ちをまっすぐに言葉にしていた。


私には、何もかもが初めてだった。


こうちゃんと過ごす時間も。


誰かをこんなに好きになることも。


何もかもが初めてで、毎回、胸がどきどきしていた。


だから私は、ずっと思っていた。


こうちゃんは私を女として見ていないんだって。


私といるのは、ただ仲がいいから。


妹みたいなものだから。


私がどんな言葉を口にしても、どんなふうに甘えても、こうちゃんにとっては何でもないんだって。


本気で、そう思っていた。


――今思えば、笑っちゃうよね。


こうちゃんが何を思っていたのかも知らずに。


何を堪えていたのかも知らずに。


私はただ、こうちゃんと仲良くいられることが嬉しくて。


こうちゃんの隣にいられることが嬉しくて。


こうちゃんと交わすキスが、大好きだった。


もしかしたら、こうちゃんはあの頃、いろんなことに困っていたのかもしれない。


私の無邪気さに、戸惑っていたのかもしれない。


でも、あの頃の私は、それさえ知らなかった。


ただ、好きだった。


どうしようもないくらい。


全身で。


心の全部で。


ねぇ、こうちゃん。


あの頃の私は、


「素直」という名前をした爆弾だったよね。


思ったことを、そのまま口にして。


好きなら好きと言って。


会いたければ会いたいと言って。


キスしてほしければ、キスしてって言って。


何も怖くなかった。


失うことなんて、考えもしなかった。


だって私は、ただ信じていたから。


こうちゃんと一緒にいられるこの時間が、ずっと続くんだって。


あの頃の私は、本当に子供だった。


でも――


嘘だけは、ひとつもなかった。


私は、本当にこうちゃんのことが大好きだった。


自分でもどうしていいかわからないくらい。


胸が苦しくなるくらい。


ただひたすらに、まっすぐに。


全身全霊で、


こうちゃんに恋をしていたんだよ。


もし今、あの頃の私を見たら笑うかな。


「唯、本当に素直だったな」って。


「何でも口にするんだから」って。


きっと、笑うんだろうね。


でも私は、あの頃の自分を嫌いになれない。


だってあの子は、


誰よりもまっすぐに、


誰よりも一途に、


こうちゃんを好きだったから。


そして私は今でも、ときどき思う。


あの夜、私の隣で目を閉じたこうちゃんは、


本当は何を考えていたんだろうって。


私が眠ったあと、


どんな顔をしていたんだろうって。


そしてもし――


あの頃の私が、もう少しだけ大人だったならって。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る