第15話
あの朝から、三日が過ぎた。
目を覚ましたとき、隣に晃哉がいたこと。
眠そうに笑う顔を見たこと。
帰り際に交わした「またね」という言葉。
何度思い返しても、胸の奥がふわっと温かくなる。
夢じゃなかったんだ。
そう思うだけで、自然と顔が緩んでしまう。
初めて結ばれた夜。
ずっと心の奥にしまっていた想いが、あの夜だけは隠せなくなった。
晃哉の腕の中にいることが嬉しくて。
怖いくらい、幸せだった。
だから、三日間連絡がなくても、それほど気にしていなかった。
きっと仕事が忙しいんだ。
晃哉は昔から、忙しくなると連絡が途切れることがあった。
だから私は、
「また落ち着いたら連絡くれるよね」
そう思っていた。
携帯を確認する回数は、少しだけ増えた。
けれど、メールが来ていないことを確認すると、
「忙しいんだろうな」
と、自分に言い聞かせるように携帯を伏せた。
それでも、ふとした瞬間にあの朝を思い出した。
布団の中で交わした言葉。
触れた手。
晃哉の温度。
思い出すたびに、胸がきゅっと締めつけられる。
幸せだった。
あまりにも幸せだったから、その先に何が待っているのかなんて、あの頃の私は考えもしなかった。
三日目の夜。
お風呂から上がって、髪を乾かしていると、携帯が鳴った。
画面に表示された名前を見て、思わず手が止まる。
「……こうちゃん?」
慌てて電話に出た。
「もしもし?」
「唯、ごめん。今、何してた?」
少し掠れた晃哉の声。
三日ぶりに聞くその声に、胸が弾んだ。
「今、お風呂上がったとこだよ? こうちゃん、どうしたの?」
「ちょっと飲み会あってさ。飲みすぎちゃって……電話したくなった」
「飲み会終わったの? 大丈夫?」
いつもより、少し弱々しい声に聞こえた。
本当に大丈夫なのかな。
酔っているなら、放っておけない。
「迎えいく?」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
それから、晃哉が少し笑った。
「いつもと立場逆だね」
「ふふっ、そうだね」
いつもなら、迎えに来てもらうのは私のほうだった。
なんだか可笑しくて、私も笑った。
そして、少し間を置いてから、晃哉が言った。
「唯、ごめん。もし来れたら、迎え来て」
「うん。いいよ」
迷うことなんてなかった。
むしろ、会えることが嬉しかった。
急いで支度をして、晃哉のところへ向かった。
*
「こうちゃん」
声をかけると、晃哉がゆっくり顔を上げた。
「はい、お水」
持ってきた水を渡す。
「ありがとう」
「こうちゃん、どうしたの? 珍しいね。なんかあった?」
いつもと少し違う。
酔っているからなのかな。
それとも、何か嫌なことでもあったのかな。
けれど晃哉は、いつものように笑った。
「なんもだよ。ただ、ちょっと飲みすぎちゃって」
「そっか」
「唯、ありがとう。ごめんな」
「もう。そんな謝らなくていいよ」
私は笑った。
三日ぶりに会えた。
それだけで嬉しかった。
部屋の鍵が開く。
扉が閉まる。
電気をつける前の暗い部屋の中で、突然、晃哉に抱きしめられた。
「こうちゃん……なしたの?」
返事はなかった。
ただ、いつもより強く抱きしめられる。
背中に手を回して、ゆっくり撫でた。
「大丈夫だよ」
そう言うと、晃哉が少しだけ身体を離した。
その顔を見つめる。
何かを言いたそうなのに、何も言わない。
そして、唇が重なった。
突然のことに、少し驚いた。
いつもの晃哉とは違っていた。
もっと慎重で、私のことをいつも気にしてくれる人だった。
なのに、その夜の晃哉は、何かに追われるように私を求めていた。
「……こうちゃん」
呼んでも、すぐには離れてくれない。
私はただ、その背中にそっと手を回した。
何があったのかは、わからなかった。
それでも――
こうして会いたいと思ってくれたことが、嬉しかった。
そのときだった。
突然、携帯が音を立てた。
「こ、こうちゃん……電話……」
晃哉の動きが止まった。
テーブルの上に置かれた携帯。
画面には、前にも見えた名前が表示されていた。
一瞬、身体が強張る。
晃哉も、その画面を見ていた。
けれど、電話に出ようとはしなかった。
「いい。大丈夫」
そう言って、私をもう一度強く抱きしめる。
「地元の友達」
「……そっか」
私は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、抱きしめられたまま、晃哉の胸に頬を寄せた。
三日間、連絡がなかった理由なんて知らなかった。
晃哉が何を考えていたのかも。
何に苦しんでいたのかも。
私は何も知らなかった。
ただ、
また忙しかったんだろうな。
そう思っていた。
そしてこの夜もまた、晃哉の腕の中にいられることが嬉しかった。
それだけだった。
*
ねぇ、こうちゃん。
女の人の名前が、夜に電話に表示されたこと。
私は、前にも知っていたんだ…
それでも、こうちゃんの言葉を信じてた。
……ううん。
今思えば、信じようとしていたのかもしれない。
あの頃の私は、恐ろしいくらい真っ直ぐで、素直だった。
好きな人の言葉を疑うなんて、考えもしなかった。
だから、あの夜のあなたの表情も。
少しだけ弱く聞こえた声も。
何かを抱えているような、その腕の力も。
私はちゃんと見ていたはずなのに。
気づいてあげられていたのかな。
今になって思う。
多くを語らないこうちゃんが、何を考えているのかわからなくて。
私はいつも、言葉の代わりに自分の気持ちをまっすぐぶつけていたね。
その真っ直ぐさが、もしかしたら――
こうちゃんを苦しめていたのかもしれないね。
私が笑えば、こうちゃんも笑ってくれる。
私が会いたいと言えば、会ってくれる。
そんなふうに、私は信じていた。
でも、本当はその裏側で、こうちゃんは何かと闘っていたのかもしれない。
私は知らなかった。
知ろうとすることさえ、できていなかった。
それでも。
もしあの頃のこうちゃんが、私を逃げ道にしていたのだとしても――
それでも、よかった。
少なくとも私は、そう思っていた。
自分以外の誰かを、こんなにも大切だと思えたこと。
誰かのそばにいたい。
その人の力になりたい。
その人が苦しんでいるなら、少しでも支えてあげたい。
そんなふうに思えたのは、こうちゃんが初めてだった。
子供だったのかもしれない。
何も知らなかった。
恋に夢中になって、自分の気持ちばかりを信じていた。
それでも――
私は、こうちゃんの支えになりたかった。
ただ、それだけだった。
あの頃の私は、それが愛するということだと思っていた。
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